(157-1)「嶋袷(しまあわせ)」:縞袷。二種以上の色糸を用いて、たて、またはよこ、またはたてよこに筋を織りだした織物。また、それに似た模様。筋の現われ方によって縦縞、横縞、格子縞に大別される。「嶋(島・縞)」の語源説に「南洋諸島から渡って来た物であるところから、シマモノ(島物)の略」がある。

(157-2)「飯鉢(めしばち)」:飯を入れる木製の器。めしびつ。

(157-3)而巳(のみ)」:漢文訓読の助辞。文末に置かれて限定・強意の語気を表す。~だけである。~にすぎない。 

 *夫子之道、忠怨而巳矣 (『論語 里仁』)

  [夫子(フウシ)の道は、忠怨(チュウジョ)のみ。]

  (先生の説かれる道は、まごころのこもった思いやり、ただそれだけである)

(157-5)「前書」の「書」:決まり字。脚部の「日(ひらび)」が省略されている。

 *「書」の部首は「曰(いわく・ひらび)」部。「ひらび」は、平たい「日の字」の意。

  曲、更、曽、曹、最、替など。

(163-5)「小平沢町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋町・碇町の北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。「西蝦夷地場所地名等控」に江差村の町々の一として小平沢町がみえる。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。

(158-1)「最前(さいぜん)」:さきほど。さっき。いましがた。先刻。多く副詞的に用いる。

 *「最前」を「いやさき」と読めば、「最もさき。いちばんさき。」

 *「最前」の「最」は決まり字。

(158-1)「砌(みぎり)」:「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという。本来は、軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。転じて、庭。さらに、あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。

 「いぬき」と読めば、階下のいしだたみ。

*万葉集〔8C後〕一三・三三二四「九月(ながつき)の 時雨の秋は 大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負ひて〈作者未詳〉」

 *ジャパンナレッジ版『字通』には、<〔説文新附〕九下に「階の甃(いしだたみ)なり」とあり、階下のしき瓦を敷いたところをいう。もと切石を敷いたものであろう。>とある。

(158-4)「出訴(しゅっそ)」:訴え出ること。提訴。

(158-5)「始末吟味(しまつぎんみ)」:事の初めから問いただすこと。「始末」は、始めから終わりまで。

(158-6)「利解(りかい)」:理解。

(159-6)「内済(ないさい)」:表向きにしないで、内々で事をすますこと。また特に、江戸時代、もめごとを裁判沙汰にしないで、隣村役人などの斡旋で話し合いにより事件を和解させること。和談。和融。

(160-4)「噺」:国字。『新漢語林』の解字には「口+新。耳新しいことを話す意」とある。

(160-5)「相談」の「談」:旁の「炎」の脚部は繰り返し記号の「ゝ」「々」のように省略される場合がある。

 *参考「渋」:

  ・昭和21年当用漢字表で「澁」が選ばれた。

  ・昭和24年当用漢字字体表で「渋」に字体整理された。

  ・現行常用漢字表ではいわゆる『康煕字典』体の活字として括弧内に「澁」が掲げられている。

  ・「澁」は、昭和56年に人名漢字許容字体となった。

  ・「澁」は、平成16年に人名漢字に追加された。

(162-35)「南部」の「部」:旁の「阝(おおざと)」のみに略され、さらに「P」「ア」のように見える場合ある。

(162-5)「花輪村」:現秋田県鹿野市花輪。鹿角盆地中央部、東西から山地が迫り盆地が狭まる所に位置。近世には盛岡藩花輪通の中心として、花輪館を中心に町並ができた。

(162-7)「鯵ヶ沢」: 津軽半島の西側基部、青森県西津軽郡にある町。地名の初見は天文5年(1536)であるが南北朝時代以前から部落が形成されていたことが部落内に散在する板碑によって知られる。赤石川上流四キロにある種里部落は弘前藩祖大浦光信入部の地である。江戸時代には弘前藩九浦の一つとして、町奉行がおかれ、東の青森に対し西の大港と称されて、大坂・蝦夷方面との交易が盛んであり漁港としても栄えた。

(163-2)「大沢村」:現松前郡松前町字大沢。近世から明治2年(1869)まで存続した村。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

(163-2)「宮ノ哥(みやのうた)村」:宮の歌村。現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。近世から明治39年(1909)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢(あじがさわ)から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。2~3年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。

 宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。

 蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。本税は直接藩に納入するが、付加税的な小物成は知行主に納めることになっていた。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。

(163-3)「白府村」:白符村。現松前郡福島町字白符。近世から明治33年(1900)まで存続した村名。近世は東在の一村で、白符川の流域、福島村の南に位置し、東は津軽海峡。白府村(支配所持名前帳)、白負(蝦夷草紙別録)などと記されることもあった。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば「白符之鷹待候ニ付、村名ヲ白符と申」と記す。

(163-3)「生符(いけっぷ)町」:現松前郡松前町字大磯・字弁天・字建石。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。上原熊次郎は「生府」の地名について「夷語イナイプなり。二タ胯の沢と訳す。イはイウゴヒ・イウゴテの略語にて、別れ又は繋くと申事、ナイは沢、プとは所と申事の略語なり」と記す(地名考并里程記)。

不動川と化粧けしよう川に挟まれた海岸沿いの町。東は博知石(ばくちいし)町、台地上は白川町。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」に「生府」と町名がみえる。呼称は「イケツフ」(「蝦夷日誌」一編)、「イゲツブ」(木村「蝦夷日記」)、「エケフ」(蝦夷喧辞弁)、「エケブ」(蝦夷迺天布利)など様々である。

 (163-4)「土橋(つちはし)」:現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「ツチバシ」(大小区画沿革表)、「ドバシ」(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)ともいう。当村は延宝2年(1674)に津軽から来た喜三郎が檜山稼と農業に従事したのに始まるという。

(163-4)「泊り村」:泊村。現江差町字泊町・字大澗町。近世から明治初年まで存続した村。片原町・オコナイ村の北に位置し、東は元山をはじめとした山地で、沢水を集めた泊川が西に流れる。西は日本海に臨み、泊川河口の湾は船泊り。

 (163-5)「碇町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。

(163-6)「新町」:江差村のうち。文化4(1807)の江差図に「中新町、北新町、川原新町」の地名が記載され、このころ北部の東方後背地に裏町として中新町、北新町、川原新町の地名が発生している。

(163-6)「津軽□別」:わかりません。