『蝦夷嶋巡行記』9月学習分注記           

(37-1)「守(まもり)之やくにたつ物」・・「耳」は「に」、「多」は「た」、「川」は「つ」。「守之役にたつ物」とは、防御の役に立つ物(刀)の意。

(37-1割注右)「かんしやり〔カサリ〕」・・飾り。ルビは「カサリ」。「志」は「し」。

(37-1割注右)「ふとくり也」・・刀剣の本数を数える際にもちいる「一振り」か。「婦」は「ふ」。ルビは、「ヒト・フリ」。「ト」と「フ」間の点は中黒の「・」か。

(37-1割注右)「くしや」・・「草」のこと。ルビは、「クサ」。

(37-1割注右)「きれしない」・・「幾」は「き」、「連」は「れ」。「切れない」こと。

(37-1割注左)「ぬきはなし」・・「怒」は「ぬ」、「幾」は「き」、「者」は「は」、「奈」は「な」。「抜き放す」のこと。

(37-1割注左)「見する」・・「春」は「す」。「見せる」こと。

(37-1割注左)「鈍刀(どんとう、なまくらがたな)の赤鰯(あかいわし)」・・「赤鰯」は、赤くさびた刀をあざっけていう言葉。「鈍刀=なまくら刀」を強調して言う。

(37-1割注左)読み方①「いちんまい(く=繰り返し記号・いちんまい=」・・「一枚一枚」。「いちんまい」の「ん」は、語中または助動詞に続く場合に挿入されて語調を強めるために用いられる。ただ、本書は、矢のことを述べているので、ここでは、「一本一本」の意として用いたか。ルビは「イチル」か、または「イチン」か。

 *読み方②「まいまい毒」・・マイマイカブリの毒のことか。

(37-2割注右)「烏頭(うず・とりかぶと)」・・トリカブトの根。有毒でアコニチンを含有。「鳥兜」「鳥冠」「附子(ぶし)」とも。トリカブトの分布は、本州中部以北に多く生息し、また北海道の山野に自生する多年草。トリカブトは、全草が有毒であり、特に地下の根の部分は毒性が強く、アイヌの人々は、毒性の強いオクトリカブトとトウガラシを微妙に調合し、十勝石の矢じりに矢毒を塗り、熊などを捕獲する術とした。

(37-2)「口(くち)蝦夷」・・吉田東伍著『大日本地名辞書』所収の『蝦夷草紙』(最上徳内著)には、「松前所在島、一国の内、地方を考ふるに、其形親疎の二儀あり、~略~、依て口蝦夷(クチエゾ)と奥蝦夷とを弁ふべし。~略~、口蝦夷とは、東海岸に於て勇払以南を指し、西岸には石狩以南に汎称したり。」とある。

(37-4)「甲斐(かい)なき」・・「甲斐ない」は、ききめがない。努力してもそれだけの結果が得られない。むだ。ふがいない。

(37-5)「好めは」・・「盤」は「は」。「好む」の已然形+接続助詞の「ば(逆接の確定条件。「~のに」の意)」。「注文したのに」、「望んだのに」の意。

 

 

 

 

 

(37-6)「海中を望」の「望」・・「望」は決まり字。

 *「臨はそのような姿勢で下界に臨むことをいう。下界よりして高く遠く望むことを望という。」(『ジャパンナレッジ版字通』)

(37-6)「頓而(やがて)」・・そのまま。すぐに。ただちに。

(38-1)「引きしほり切て」・・「志」は「し」、「保」は「ほ」。「引き絞る」の連用形+「切る」の連用形。「切る」は、動詞の連用形について、最後まで~する。~し終えるなどの意を表す。「引きしぼり(絞り)切(きり)て」は、「(矢を弓につがえて、弦を)ぎりぎりまで引いて」の意。

(38-1)「たかわす」・・「太」は「た」、「可」は「か」、「王」は「わ」。「違わず」。

(38-2)「内外(うちそと、ないがい)」・・その程度の数量であることを示す。「十間之内外」は、十間(18.2㍍)程度。

(38-2.3)「ふみつめて」・・「婦」は「ふ」、「三」は「み」、「徒」は「つ」、「女」はめ」。「踏み詰めて」は、相手を窮地に追い詰めること。

(38-4)「運上屋え帰る」・・「え」は「衣」の変体仮名。

(38-4)「蚤(のみ)」・・隠翅目に属する昆虫の総称。

(38-5)「蚊(か)」・・双翅目カ科の昆虫の総称。

(38-5)「昼(ひる)」・・「蛭」か。蛭は、ヒル綱に属する環形動物の総称。

(38-5)「虻(あぶ)」・・双翅目アブ科の昆虫の総称。同字に「蝱」がある。

(38-5)「足たか蜘蛛」・・クモの一種。体長は、雄は25㎜内外、雌は30㎜内外。体は、灰褐色で脚が長く、伸ばすと10cm位になる。

(38-5)「げぢげぢ」・・「げじげじ」。「ゲジ」の俗称。「蚰蜒(げじ)」は、ゲジ目の節足動物の総称。体は、短棒状で2~7cm。青藍色ないし黒褐色で、15対の細長い足がある。

(38-5.6)「挟虫(はさみむし)」・・「鋏虫」か。「鋏虫」は、革翅目に属する昆虫の一種。体長20㎜内外。尾端にはさみがあり、ごみや枯葉の下にすむ。

(38-6)「座中(ざちゅう)」・・集まった人々の中。

(38-6)「遥(さまよい)まはり」・・「さまよい(彷徨い)廻る」で、うろうろ歩きまわるの意。

 *「遥」に「さまよう」の訓があり、「うろうろする」「そぞろ歩く」の意にもなる。

(39-3)「そびえ」・・「楚」は「そ」、「飛」は「ひ」、「衣」は「え」。「聳え」。

(39-3)「水の色」の「色」・・決まり字。

(39-3)「藍(あい)」・・「藍色」のことで、暗い青色。

(39-4)「ホクシ」・・『東西蝦夷地山川取調図』には「ホクシ」、『廻浦日記』には、「(中ホウシ)~並て岬を廻り、ホウ(ク)シ」とあり、国土地理院の20万分の1の地図には、「帆越岬」の名が見える。

(39-4)「中ホクシ」・・『廻浦日記』には、「此処を当時境目とす(是よりフトロ境目也)。其名ホウシはホヲロシの訛にて、通行の船々此処にて帆を卸て霊を拝する故に号しものかと思はる。」とある。なお、永田方正の『北海道蝦夷語地名解』には、「ポロポクウシ、大蔭大崖の下と云う義なり。」とある。

(39-5)「大田山」・・久遠郡せたな町字太田にある太田神社。太田山(四八五メートル)の西麓に鎮座。旧郷社。祭神猿田彦神。近世以来日本海を望む断崖絶壁にそびえる太田山は神の宿る山として信仰され、山上に大日如来など仏像が安置され、太田山権現とも称された。明治初期の神仏分離により仏像・仏具を廃して猿田彦神を祀り現社号に改称した。

勧請は嘉吉元年(1441)から同四三年頃と伝え、享徳3(1454)松前家始祖武田信広が太田に上陸し、太田山権現の号を与えたというが不詳(大成町史)。近世前期から道南の霊場として信仰を集め「北海随筆」に「西は太田山、東は臼ケ嶽とて信心の者は参詣するなり」と記される。「東遊記」に「ヲヽタという所に大日如来立せ給ふ。(中略)円空法師と言人、この所へ来りて仏像を多く彫刻し、みづから険阻をふみわけて所々に安置」したと記される。「西蝦夷地場所地名等控」には「ヲヽタ山大権現太田山之嶺ヨリ下ニ在。此所迄日本回国之者并ニ男女共世人共為菩提参詣仕候。至而嶮岨成山ニ御座候」とある。文政元年(1818)洞窟内に祠を建て不動明王を安置、天保5(1834)大日堂建立(大成町史)。松浦武四郎は帆越ほこし岬を通る船はみな「大田山(権現)を拝す。又夷人は此処にて必ヱナヲを海中ニ投じて大田山を拝し、海上安全を祈る」と記し(「蝦夷日誌」二編)、安政3(1856)当地を訪れ岩壁の下から鉄鎖で「攀る事十余尋、洞口に到(中略)架中に半鐘・仏具を置く。俯見白波撃崖(中略)偏に登仙の思をなし」たこと、僧宗倹がヒカタトマリに太田山参詣者のため拝殿(籠堂)を建て、また新道を開削していたこと、太田山の神は笛・太鼓・三絃などを好むこと、鳴物を宝前に納め順風を請うと霊験著しいとされたことを記している(廻浦日記)。大漁と航海の安全を祈って信仰されていた(板本「西蝦夷日誌」)。

明治27(1894)拝殿を改築し、社務所を新築したが、大正10年(1921)洞窟内を焼失。しかし同年中に再建し女人遥拝堂を新築。現在例大祭は六月二七・二八日に大漁と海の安全を祈り行われている。

(39-5)「仰望(あおぎのぞむ)」・・仰ぎ見る。頭を上げて遠くから見る。「仰ぐ」+「望む」の連語。転じて「より高いものを願い求める」「尊敬する」「うやまいしたう」の意にも。

 

 *仰望(ぎょうぼう)

  妻~曰、良人者、所仰望而終身也。今若此。(孟子『離婁(りろう)下』)

  [妻~曰く、良人なるは、仰して身をるのものなり。今此(かく)の(ごと)しと。]

  **離婁(りろう)・・中国の古伝説上の人。視力がすぐれ、百歩離れた所からでも毛の先がよく見えたという。

(39-5)「さかしき」・・「佐」は「さ」、「可」は「か」、「之」は「し」、「幾」は「き」。「嶮・険(さが)し」の連体形で、「けわしい」こと。

(39-6)「厳石(いわお・がんせき)」・・岩石。

(40-1)「六十六部(ろくじゅうろくぶ)」・・江戸時代、諸国の寺社を参詣する巡礼又は遊行する者。

(40-1)「ちなみ」・・「因む」の連用形。関係を頼って物事を行うこと。縁につながること。

(40-2)「むゐの嶋」・・「ムイレトマリ」、「ウートマリないしモエレトマリ」の辺か。『廻浦日記』には「ムイレトマリ、人間にて鵜のトマリ云。此辺より人家有。此前海中に大岩三ツ有よって号なるべし。」とあり、また、『東西蝦夷地山川取調図』には、「ウートマリ、モエレトマリ」の名が見える。

(40-4割注右)「むゐ」・・アイヌ語研究者の多くは、「ムイ(mui)」を「箕(み)」としているが、萱野茂は、「①箕、②オオバヒザラガイ」、永田方正は、「①湾、②箕、③塞ル、④鮑肉の如くして貝殻なきもの(ヒザラガイ)」、上原熊次郎は、「①鮑肉の如く貝なし、②オオバヒザラガイ」と、魚介類の「オオバヒザラガイ=軟体動物多板綱ケハダヒザラガイ科」とするものがある。しかし、本書の如く「海鼠(なまこ)」、「海鞘(ほや)」などとするものはない。

(40-4割注左)「なまこ」・・「海鼠」。ナマコ綱棘皮動物の総称。アイヌ語では、「uta(ウタ)」。『松前・蝦夷地納経日記』や萱野茂の『アイヌ語辞典』、知里真志保の『分類アイヌ語辞典(動物編)』にある。ナマコの干物(煎海鼠―いりこ)は、俵物三品(煎海鼠、干鮑、鱶鰭)の一つとして、近世、長崎貿易の輸出産品。

(40-5割注右)「ほや」・・「海鞘」、「老海鼠」。海鞘綱の原索動物の総称。青島俊蔵の『蝦夷拾遺』には、「uyaka(ウヤカ)」、上原熊次郎の『藻汐草』には「①tabibi(たびび)、②totui(トツイ)」とある。

(41-1)「フトロ」・・現せたな町北桧山区太櫓。町の南西部。近世、寛政9(1797)まで場所の運上屋はキリキリにあったが、フトロに移転している。したがって、本書時(寛政10年)は、フトロに移転したばかりの時。『廻浦日記』には、「キリキリ、此処フトロの運上屋元也。フトロと云は是より七八丁北なる川端の砂浜を云也。」とある。

 

 

 

(41-2)「シヤム」・・「シサム(sisamu)」、「シシヤム(sisyamu)」、「シャモ(syamo)」か。

     以下、アイヌ語研究者の諸説を列挙する。

     田村すず子:シサム(sisam)~日本人(和人)沙流方言

     神保小虎:シサム(sisamu)又はシサム・シャモ(syamo)~和人

     中川 裕:シサム(sisamu)~和人

     大須賀るえ子:シサム(sisam)又はシャモ(syamo)~和人。シャモは和人への蔑視語。白老方言

萱野 茂:シサム(sisam)~①和人、②日本の

ジョン・バチラー:シサム(sisam)~①日本人、②外国人

永田方正:シシャム(sisyam)~①日本人、②和人

上原熊次郎:シシャム(-)~①人、②和人、③日本の(シサム)

(41-3割注右)「かく」・・「斯く」で副詞。このように、このとおりの意。

(41-4)「一眉」・・左右の眉毛が、一文字に繫がっている状態。

(41-5)「吃(きつ)」・・「喫」の当て字か。