(162-35)「南部」の「部」:旁の「阝(おおざと)」のみに略され、さらに「P」「ア」のように見える場合ある。

(162-3)「二十四才」の「才」:「才」は、川のはんらんをせきとめるために建てられた良質の木の象形で、転じて、もともと備わっているよいもちまえのの意味を表す。うまれつきの能力、素質。

 *俗に年齢の「歳」代用する字。テキストは本来は「歳」が正しい。

(162-3)「五戸(ごのへ)」:現青森県三戸郡五戸町。五戸川の中流左岸の沖積低地と右岸の丘陵地に位置する。東は兎内(うさぎない)村、西は石沢村、南は扇田(おうぎた)村、北は伝法寺(でんぼうじ)村に接する。

(162-5)「花輪村」:現秋田県鹿野市花輪。鹿角盆地中央部、東西から山地が迫り盆地が狭まる所に位置。近世には盛岡藩花輪通の中心として、花輪館を中心に町並ができた。

(162-5)「八戸(はちのへ)」:青森県の東南部に位置する。馬淵(まべち)川と新井田(にいだ)川の最下流部に挾まれた低平地に位置し北東部は太平洋に面している。寛文4年(1664)南部直房が八戸を城下とする八戸藩二万石を創設した。

(162-7)「鯵ヶ沢」: 津軽半島の西側基部、青森県西津軽郡にある町。地名の初見は天文5年(1536)であるが南北朝時代以前から部落が形成されていたことが部落内に散在する板碑によって知られる。赤石川上流四キロにある種里部落は弘前藩祖大浦光信入部の地である。江戸時代には弘前藩九浦の一つとして、町奉行がおかれ、東の青森に対し西の大港と称されて、大坂・蝦夷方面との交易が盛んであり漁港としても栄えた。

(163-2)「大沢村」:現松前郡松前町字大沢。近世から明治2年(1869)まで存続した村。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

(163-2)「宮ノ哥(みやのうた)村」:宮の歌村。現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。近世から明治39年(1909)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢(あじがさわ)から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。2~3年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。

 宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。

 蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。本税は直接藩に納入するが、付加税的な小物成は知行主に納めることになっていた。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。

(163-3)「白府(しらふ)村」:白符村。現松前郡福島町字白符。近世から明治33年(1900)まで存続した村名。近世は東在の一村で、白符川の流域、福島村の南に位置し、東は津軽海峡。白府村(支配所持名前帳)、白負(蝦夷草紙別録)などと記されることもあった。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば「白符之鷹待候ニ付、村名ヲ白符と申」と記す。

(163-3)「生符(いけっぷ)町」:現松前郡松前町字大磯・字弁天・字建石。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。上原熊次郎は「生府」の地名について「夷語イナイプなり。二タ胯の沢と訳す。イはイウゴヒ・イウゴテの略語にて、別れ又は繋くと申事、ナイは沢、プとは所と申事の略語なり」と記す(地名考并里程記)。

不動川と化粧けしよう川に挟まれた海岸沿いの町。東は博知石(ばくちいし)町、台地上は白川町。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」に「生府」と町名がみえる。呼称は「イケツフ」(「蝦夷日誌」一編)、「イゲツブ」(木村「蝦夷日記」)、「エケフ」(蝦夷喧辞弁)、「エケブ」(蝦夷迺天布利)など様々である。

 (163-4)「土橋(つちはし)」:現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「ツチバシ」(大小区画沿革表)、「ドバシ」(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)ともいう。当村は延宝2年(1674)に津軽から来た喜三郎が檜山稼と農業に従事したのに始まるという。

(163-4)「泊り村」:泊村。現江差町字泊町・字大澗町。近世から明治初年まで存続した村。片原町・オコナイ村の北に位置し、東は元山をはじめとした山地で、沢水を集めた泊川が西に流れる。西は日本海に臨み、泊川河口の湾は船泊り。

 (163-5)「碇町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。

(163-6)「新町」:江差村のうち。文化4(1807)の江差図に「中新町、北新町、川原新町」の地名が記載され、このころ北部の東方後背地に裏町として中新町、北新町、川原新町の地名が発生している。

(163-6)「津軽□別」:わかりません。

(164-1)「酌取女(しゃくとりおんな・しゃくとりめ)」:酒席に出て酌をする女。酒興を添え酒を勧める女。酌婦。しゃくとりめ。

(164-2)「力業(ちからわざ)」:強い力をたのんでするわざ。強い力だけが武器であるような武芸。

 *テキスト影印の「力」は「刀」のように見える。

(164-2)「曲持(きょくもち)」:曲芸として、手、足、肩、腹などで重い物や人を持ち上げて自由にあやつること。

(164-6)「黒石(くろいし)」:青森県西部、弘前市の東方一四キロの所にある市。奥羽山脈の西麓、津軽平野の東南端にあり、岩木川の支流浅瀬石川に沿うている田園都市である。中世工藤貞行の領地であったがのち南部領となり、戦国時代末期に津軽領となった。明暦2年(1656)以来、津軽氏の支族津軽信英の所領となり、その子孫津軽親足が文化6年(1809)一万石の諸侯となったとき、その城下町となった。

(164-9)「小杦」の「杦」:『漢語林』は国字とする。「杉」の旁「彡」を書写体に従って「久」に改めたもの。

(166-1)「揚屋(あがりや」:江戸時代の牢屋における特別の部屋。幕府の小伝馬町牢屋では収監者を身分によって分隔拘禁したが、武士を収容するのが揚座敷(あがりざしき)と揚屋である。500石未満の御目見以上直参(じきさん)の武士は揚座敷、御目見以下の直参、陪臣は揚屋に入れ、僧侶、神職も格式により揚座敷、揚屋に分けた。いずれも雑居拘禁であるが、揚座敷に比べると揚屋は食事をはじめとする処遇、牢名主の支配など、実情は庶民の牢とそれほど差異はない。幕府の地方の牢,藩の牢なども,武士を庶民と区別して収容した。

 *「揚屋」を「あげや」と読めば、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。

(166-2)「出物(でもの)」:吹出物。おでき。

(166-2)「膏薬(こうやく)」:1 あぶら・ろうで薬を練り合わせた外用剤。皮膚に塗ったり、紙片または布片に塗ったものを患部にはりつけたりして用いる。軟膏と硬膏があり、ふつう硬膏をいう。

漢方薬の濃い煎液に砂糖などを加え、あめ状にした内服薬。

(167-1)「披見(ひけん)」:文書などをひらいて見ること。

(167-3)「唐津内沢(かわつないさわ)」:現松前郡松前町字唐津・字西館・字愛宕など。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。