*10月学習分について編纂会で話し合った事項

1.P38~3行:①「射ゆえ」か。②「射ゆく」か。結論出ず。

2.P38~4行:影印は「癸」に見えるが「蚤」か。

3.P38~5行「昼」:意味は、①日中の昼か。②「昼」は「蛭」の当て字か。結論出ず。*翻刻は「昼」とする。

4.P39~3行:①「そびえ」(「そびゆ」の連用形)②「そびく」(終止形)か。

*翻刻は「そびえ」とする。

5.P39~5行「大田山・・之下也」:①「之下也」か。②「被下也(くださるなり)」か。

 *翻刻は「之下也」とする。「被下也」の場合、割注に入れるべきではないか。

6.P40~2行:①「漕行て」か。②「漕行也」か。③「漕-行之」か。

 *翻刻は「漕行て」とする。

 

*11月学習

(41-1)「フトロ」・・現せたな町北桧山区太櫓。町の南西部。近世、寛政9(1797)まで場所の運上屋はキリキリにあったが、フトロに移転している。したがって、本書時(寛政10年)は、フトロに移転したばかりの時。『廻浦日記』には、「キリキリ、此処フトロの運上屋元也。フトロと云は是より七八丁北なる川端の砂浜を云也。」とある。

(41-2)「シヤム」・・「シサム(sisamu)」、「シシヤム(sisyamu)」、「シャモ(syamo)」か。

     以下、アイヌ語研究者の諸説を列挙する。

     田村すず子:シサム(sisam)~日本人(和人)沙流方言

     神保小虎:シサム(sisamu)又はシサム・シャモ(syamo)~和人

     中川 裕:シサム(sisamu)~和人

     大須賀るえ子:シサム(sisam)又はシャモ(syamo)~和人。シャモは和人への蔑視語。白老方言

萱野 茂:シサム(sisam)~①和人、②日本の

ジョン・バチラー:シサム(sisam)~①日本人、②外国人

永田方正:シシャム(sisyam)~①日本人、②和人

上原熊次郎:シシャム(-)~①人、②和人、③日本の(シサム)

(41-3割注右)「かく」・・「斯く」で副詞。このように、このとおりの意。

(41-4)「一眉(かたまゆ)」・・片方の眉。眉の片一方。

(41-5)「吃(きつ)」・・「喫」の当て字か。

(42-2)「ブヨ」・・アイヌ語。穴。「プイ(pui)(puy)」。因みに、人為的に掘った穴は、「スイ(sui)」とも。

(42-2)「シヤ」・・アイヌ語。石。「シユマ(shuma)」、「スマ(suma)」。

(42-4)「二(ふたつ)の川」・・太櫓川と後志利別川か。

(42-4)「セタナイ」・・現せたな町瀬棚区。漢字表記地名「瀬棚」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は、河川名だが、コタン名や場所名としても記録されている。

 「天保郷帳」には、「セタナイ持場の内」に「セタナイ」が見える。『廻浦日記』には、「セタナイは、此澗の惣名にて犬沢と云訳也。昔し、山より犬、鹿を追出し来り、此澗に入て死せしと云伝え、則本名はセタルベシナイなるを略せしと云。」とある。

 山川地理取調図には「エンルンカ セタナイと云」とある。

(42-5)「寔(ここ)」・・『名義抄』は、古辞書の訓として、「寔」に、「コレ・マコト・トドム・チリ・ココニ・カクノゴトク」を挙げている。

(42-5)「数奇」・・「数丁」か。

(43-1)「通(とほ)たしむ」・・「た」は「ら」か。「通らしむ」か。「通る」の未然形「通ら」+助動詞の「しむ=~させる」で、「とおらせる」の意。

 *「しむ」の「む」:変体仮名「む」の字源「武」。現行ひらがな「む」の字源でもある。

 *「武」の解字:『漢辞海』は『春秋左氏伝 宣公十二年』の

 「楚子曰、非爾所知也。夫文、止戈為武」

 [楚子曰わく、爾(なんじ)の知る所に非ざるなり。夫(そ)れ文に、止戈(しか=ほこをとどめる。戦いをやめることを)武と為す]

 を引いて、「武」は「戈(ほこ)」+「止(=とどめる)」で、「戦争を止めること」の意とする。

 一方、『漢語林』は、「止」は足の象形で、いくの意味。「戈」は、ほこの象形。ほこを持って戦いに行くの意味、と全く逆の解字。

(43-2)「往夏(おうか)」・・過ぎ去った夏。去年の夏。

(43-3)「ことごとく」・・影印の「こと」は、「こ」と「と」の合字。

(43-5)「セタ」・・アイヌ語。〔seta〕。犬。

(43-5)「ル」・・アイヌ語。〔ru〕。道。路。坂。

(43-5)「ナイ」・・アイヌ語。〔nai〕ないし〔nay〕。川。沢。

(44-3)「わらし」・・草鞋。「わ」は「王」。

(44-3)「幟(のぼり)」・・細長い布の上と横に多くの乳(ち)をつけて竿に通し、立てて標識にするもの。戦陣、祭典などで用いる。のぼり旗。

(44-4)「進るしむ」・・「る」は「ま」か。「進む」の未然形「進ま」+「しむ」で、「進(すす)ましむ」か。

(44-4)「衆」・・勘定吟味役三橋藤右衛はじめとする西蝦夷地巡見隊一行のこと。

(44-4)「興(きょう)に入(いる)」・・おもしろがること。

(44-6)「三本杉」・・三本杉岩のこと。せたな町瀬棚区本町の北側の海岸海中に並立する三体の巨岩の総称。名称は、杉の大木に似た形状にちなむ。

(45-1)「くる」・・「く」は「具」。「る」は「流」。P44から「なつくくる」となり、P45の「く」は衍字。

(45-2)「バイカチ」・・現せたな町瀬棚区字西大里、字元浦。「バエカヂ」、「ハイカチ」、「バイカツシ」とも。漢字表記地名は「梅花都」。地名の由来は、背負石の意。海岸に大石あり、小石を背負う故に名づく。

(45-3)「アフラ」・・現せたな町瀬棚区字西大里、字元浦。漢字表記地名は「虻羅」。「元禄元帳」に「あふら」、「天保郷帳」に「セタナイ持場のうちアブラ」と見える。武四郎の『西蝦夷日誌』には「湾宜敷して波浪無故に、油の如しと云うより号しか」とあり、また『廻浦日記』には「夷言はヒリカトマリと云しと。」ある。

(45-3)「ナカウタ」・・現せたな町瀬棚区字島歌、字西大里、字元浦。『廻浦日記』には、「中ウタ、人家多し、少し澗也」とある。

(45-4)「ツクナイ」・・現せたな町瀬棚区字島歌。漢字表記地名「嗣内(つくない)」。『蝦夷日記』の「セタナイ」の項に、「ワヅカケ、キブナヰ、ハイカチ、ナル(カ)ウタ、ツクナイ、アブラ、デタリ、シツケ各八ケ村、六七軒位ツヽなり。」と、「ツクシナイ」での名がみえる。

(45-5)「モツタ」・・現島牧村字持田。漢字表記地名「持田」、「茂津多」。『廻浦日記』には、「モツタ、大岩岬、峨々として海中につき出す。昔此上を切通せしとかや。」とある。

(45-5)「 ゜」・・「モツタ」と「チ゜ヒタペルケ」の二カ所の地名をを区分する記号、現行の読点か。

(45-5)「チ゜ヒタペルケ」・・『廻浦日記』には、「チヒタベケレ、此処大暗礁有。陸は峨々たる岩壁、チヒタヘケレは船が割れしと云事なるよし。」とある。山川地理取調図には「チヒタヘシケ」とある。

(45-5.6)「白糸の滝」・・『大日本地名辞書』には、「持田(モツタ)岬の北東四浬に在り、此処に滝あり、白糸と名づく。瀑布、高凡七十尺、広九十尺、山の半腹より流れ、百丈の素練を引く如し、西岸第一の勝望なり。」とある。

(45-6)「カリバシレトコ」・・『廻浦日記』に「ホロカリハ 岬也」とある。また、同日記には「当時はホロカリハとホンカリハの間を(スツキ場所とシマコマキ場所の)境とする也。」とある。