(177-2)「通詞(つうじ)」:言語の異なる外国人の間に立ち、そのことばを訳して伝え、その意思を取りつぐこと。また、その人。松前藩では、用人配下の役職。ここでは、アイヌ語を通訳した、いわゆる蝦夷通詞。なお、蝦夷通詞として活躍した人物に上原熊次郎、平山屏山、加賀伝蔵、豊島三右衛門。能登谷円吉らがいる。

(177-2)「冨岡」の「冨」:「冨」は「富」の俗字だが、平成16年に人名漢字に追加された。

 *静岡県富士吉田市にある北口本宮冨士浅間神社の「ふじ」は「冨士」。同神社のHPには、その理由について①「御山の上に人は立てない」説、②「神は見えない」説、③「山頂は神域」説をあげ、「いずれの説も神域に人が踏み入れることを戒めるもの」としています。また、<「ふじの山」を表す漢字は、富士、不二、福慈など様々にありますが、古代日本は音を重視する文化であって、形としての漢字を音にあてたことは、比較的時代が下ってからのこと、これら上記の説も江戸~明治にかけて起こったものと考えられます。>と記載している。

(177-7)「御用人(ごようにん)」:松前藩の家老に次ぐ役職。

(177-34)「永之御暇(ながのおいとま)」:「暇(いとま)」は、仕事、任務、地位から離れ

ること。休暇、退職もしくは解任。ここでは、解雇すること。

(177-10)「壱通り」:江戸時代、最初の裁判の日に、掛り奉行が出座して行う処分。

 

(178-3)「引合(ひきあい)」:訴訟事件の関係者として法廷に召喚され、審理および判決の材料を提供すること。また、その人。引合人。単なる訴訟関係者、証人、被害者および共犯者など。

(178-8)「口書詰爪印(こうしょつまりつめいん・くちがきつまりつめいん)」:「口書(くちがき)」は、江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。「口書詰(くちがきつまり)」は、口書の末尾の罪状の主文。江戸時代、法廷での取調べの後、その口書(くちがき)を読み聞かせてその誤りのないことの承認の証として、それに爪印を押させたこと。

(178-78)「例座」:「列座」か。「列座」は、ならびすわるこ と。座につらなること。列席。

(179-3)「揚家入(あがりやいり)」:揚屋(あがりや)に拘禁されること。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

(179-3)「裁許(さいきょ)」:江戸時代、本公事、金公事(かねくじ)などの民事訴訟事件に関して、当事者を対決させ、裁断を与えること。対決。審問。

(179-6)「節句(せっく)」:人日(じんじつ=一月七日)・上巳(じょうし=三月三日)・端午(たんご=五月五日)・七夕(たなばた=七月七日)・重陽(ちょうよう=九月九日)などの式日をいう。祝いの行事があり、特別の食物を食べる風習があった。節日(せちにち)。ここでは、5月5日の端午の節句をいう。

 ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌には<(1)陰陽五行説においては、、一・三・五・七・九の奇数を陽とする思想があり、それに基づき、月日共に奇数となる一月一日・三月三日・五月五日・七月七日・九月九日を、それぞれ人日(後に一月七日をさすようになる)

・上巳・端午・七夕・重陽と称して、嘉祝の日とする俗信があった。

(2)一月一日は安楽の相で宜しく長久を祈り、三月三日は病患を除くことを念じ、五月五日は毒虫・悪鬼の攘却、七月七日は瘧鬼(ぎゃっき)を払い、九月九日は延命長寿を願うもので、それぞれ桃花・菖蒲・麦餠・菊酒などを供す。これらは朝廷において年中行事化されているが、民間においても、季節の変わり目を実感する五節供として、今日に伝わっている。「せっく」は、これら節日に供御を奉るのを例とするところから発した名称と思われる。>とある。

(179-6)「馬士(ばし)」:江戸幕府の馬事を掌る役人。若年寄の支配で、馬預の下にあり、焼火間詰、高二百俵・役料十五人扶持、または高百俵・五人扶持で四人からなる。元和6年(1620)木村元継が騎法に熟達して馬方になったのが初見で、その後、大武・岩波の二氏が世襲することもあったが、馬術の優秀なものが新たに補された。なお、馬預は官馬の調習、大名旗本へ下賜の馬や野駒の飼立、仙台駒牽入方など、厩馬の一切を掌る役職で、その下には馬方のほか、馬乗などがあった。松前藩にも同様の役職あった。

(179-6)「菖蒲乗(しょうぶのり)」:端午の節会(せちえ)に行なう騎射(きしゃ)の儀のこと。「騎射」は、騎馬で、馬を走らせて的を射る弓技。

(179-7)「重廣院(じゅうこういん)」:松前重廣の戒名。重廣は、松前9代藩主松前章広の5男。天保3428日)に死去した。

(180-8)「内済(ないさい)」:もめごとを表ざたにしないで解決すること。特に江戸時代の和解。江戸幕府が私人間の紛争解決の基本に据えたのは、奉行所の裁許(判決)に基づく決着でなく、当事者の互譲・妥協による内々の話合い解決、つまり内済であった。この背景には、民事上のもめごとは当事者の私利私欲に由来し、これにつき御上の手を煩わすのは、公儀を恐れざる不遜な行為であるという、民事裁判に対する独特の考え方の存したことを挙げねばならないが、なお裁判に伴う厖大な経費と貴重な農耕時間の浪費が村方衰微の因となる危険があったこと、双方納得ずくの解決こそが、実効性確保のうえで最高とされたこと、さらに、村落共同体規制のためには、村役人などの村内有力者を扱人(あつかいにん)とする内済が最上とされたことも見落せない。特に支配者が反封建的な債権関係とみなした金公事(かねくじ)債権(利子付き無担保の金銭債権)や、村落内部の秩序維持上熟談解決が要求された論所(地境論、水論)では内済が強く勧奨された。内済は、訴え提起前はもちろん、裏判送達後差日到来前(裏書中内済)、さらに裁判開始後(吟味中内済)と訴訟の全過程で試みられ、訴え受理に際し、掛り奉行が訴状に施した目安(訴状)裏判には内済勧奨文言が記され、金公事債権では差日到来前に内済が整えば、片済口証文(原告のみの署名・捺印の、内済成立に伴う訴え取下げ願書)の提出という便法が認められ、また裁判開始後は、裁判役人が扱人のごとき役割をも演じ、しばしば脅迫まがいの説得により内済を成立させ、内済が成立する可能性があれば何度も裁判の日延願を許可した。しかし、かかる内済の偏重により、姦訴・逆訴などのいわゆる公事だくみが横行し、特に公事師・公事宿の跳梁という悪弊を招き、往々にして理運ある者が泣き寝入りするという事態がみられた。なお刑事事件でも、内済による解決が図られる場合が存した。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

(180-8)「熟談(じゅくだん)」:話合いで、ものごとや問題となっていることをおさめること。示談。和談。

(181-5)「鳥沢」:現在、旧南部地方の地名で、「鳥沢」は以下の4ケ所ある。

  青森県三戸郡階上(はしかみ)町鳥屋部(とやべ)鳥沢

  宮城県栗原市栗駒鳥沢

  宮城県白石市越河五賀(こすごう・ごか)鳥沢

  岩手県大船渡市赤沢町鳥沢

このうち、ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』に見える「鳥沢村」は、②に該当する。

(181-6)「西館(にしたて)」:近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の西、小松前川と唐津内沢川に挟まれた台地一帯、唐津内町の背後(北側)にあたる。寛永11年(1634)には松前景広が西館に移っている.。文化4年(1807)の松前市街図には西館町・今町・西端立町が描かれる。しかしこれ以降の史料には西館町以外の町名はみえず、西館町として統一されたようである。.

 文化頃の松前分間絵図では台地南東部に蠣崎時松・松前勇馬・蠣崎将監(広年・波響)の屋敷がある。三家の北に稲荷社があり、同社の北の通りを少し西に行くと寺町てらまち通に続き、通りから南方唐津内町に至る南北道沿いに東から西端立町・今町・西立町が並ぶ。

(181-6)「稲荷社」:稲荷社は慶長17(1612)年蠣崎右衛門が西館に造営した。寛文7(1667)蠣崎蔵人が造営、元禄14年(1701)同家が修理している(福山秘府)。明治38(1905)徳山大神宮に合祀された。

(181-7~8)「五勝手村」:江差町字椴川町・字砂川・字柏町・字南浜町など。近世から明治33年(1900)まで存続した村。南は椴川を境にして北村(現上ノ国町)と接し、北は武士川を境にして江差寺小屋町と接する。東は山地、西は日本海。村内に古櫃(ふるひつ)

・上町・相泊・柳町・寺コ町・蔭ノ町・下町・根符子などの字名があったと伝える。中央を武者見(むしやみ)川が西流する。

(182-2)「沖ノ口」:松前藩の役所のひとつ、沖ノ口番所(沖ノ口奉行)。別表参照。

(182-2)「渡海(とかい)」:松前藩独自の量刑。他国人が蝦夷地に渡って刑法に触れた場合の刑。