◎『周廻紀行』前後の紀行文

 寛政11(1799)1月、幕府は蝦夷地ウラカワ以東を仮上知、8月、松前藩の内願を受けて知内川以東を追上知した。蝦夷地経営に乗り出した幕府は、多くの幕吏を蝦夷地に派遣することになるが、その過程で、幕吏らによる紀行文が書かれた。本『周廻紀行』に前後する紀行文のうち、東蝦夷地巡検の紀行文で、活字化されているものをいくつかあげる。

 

1.『未曾有記』:西丸小姓組・遠山金四郎景晋(かげみち・町奉行遠山景元の父)著。寛政11(1799)512日箱館発、716日、ホロイズミに至る。(『近世紀行集成』所収・国書刊行会)

2.『測量日記』:伊能忠敬著。寛政12(1800)519日三厩より吉岡村着。同月29日箱館発、8月7日ニシベツ着(伊能忠敬記念館刊『伊能忠敬測量日記』所収)

3.『蝦夷紀行』:谷元旦(奧医師渋江長伯配下の画家)著。寛政11(1799)428日松前発、72日アツケシ着。(朝日出版刊『蝦夷紀行』所収)

 

(7-2)「卯半刻(うのはんどき)」:午前6時頃。

(7-2)「〇〇〇使」:3字不詳。当時(享和元年)の蝦夷地巡見使3名(松平忠明、石川忠房、羽太正養)の内、番方の幕臣で、旗本である御書院番頭の松平忠明(禄高5千石)が派遣された。

『休明光記』に、松平信濃守忠明に関し、「この類の御用御勘定奉行、御目付、吟味役等承るは常の事なり。番頭のあづかるべき事にあらずといへども、忠明兼て蝦夷地の事に思ひ含みたる品もありて、これよりさき執政方よりも御尋有、策を奉じたる事(注:寛政11.2.21、松平忠明が中心になって5有司連署の69か条の蝦夷地経営に関する策を建議)も有けるよし。さればこそ命有と聞えぬ。」とある。

(7-2)「副使」:松平忠明を巡見使の正使として取り扱う一方、箱館から勇払まで同行した目付の羽太正養について、副使とした。    

(7-3)「ヱトモ」:現室蘭市絵鞆。「ヱトモ」は、漢字表記地名「絵鞆」のもととなったアイヌ語に由来する地名。「ヱントモ」、「江友」とも。コタン名・場所名のほか、岬や港の名称として記録される。

(7-3)「やつかれ」:「奴(やっこ)我(あれ)」の約。鎌倉時代までは「やつかれ」、のち
「やつがれ」。自称の人代名詞。自己の謙譲語。わたくしめ。              
(7-3)「辰刻(たつどき)」:午前8時。

(7-5・6)「津軽家勤番伊藤某(ぼう、なにがし)」:「伊藤」は、サワラに設置された津軽藩の勤番所の津軽藩の藩士か。寛政11年(179911月、津軽藩は、幕府から、サハラからウラカワまでの警衛のため、重役2~3名、足軽500名の派遣を命じられ、箱館に本陣、サハラに勤番所を補理している。なお、ウラカワ以東は南部藩兵が勤番した。

(7-6)「未刻(ひつじのこく)」:午後2時頃。「未」は、漢音でビ、呉音でミと読む。干支で訓読すれば「ミ」は「巳」で、「未」は「ヒツジ」。六十干支を音読する場合、「未」は「ビ」と読む。「辛未(シンビ・かのとひつじ)」「癸未(キビ・みずのとひつじ)」「乙未(イツビ・きのとひつじ)」「丁未(テイビ・ひのとひつじ)」「己未(キビ・つちのとひつじ)」の5回。

(7-7)「蝦夷舟」:アイヌが用いた舟のうち、両端の板を木の皮で結び付けた「縄とじ舟」をいうか。

本書のP11には「蝦夷舟:巾弐尺四五寸、長壱丈計ノ木ヲクリテ、両端に壱尺計の板を板を付け、木ノ皮を以結付たり」と「ウツロ舟:巾弐尺計、長弐間計ノ大木ヲクリタル」の2種類が記されている。

      また、寛政11年の巡見の際の武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「蝦夷舟」として、「くりぬき舟」と「縄とじ舟」の2種類の舟が記されている。

     ①くりぬき舟:一本の木を彫って造った舟。丸木舟。寸法は、長2丈8尺余、巾1尺8寸余、深1尺2寸5分。

     ②縄とじ舟:丸木舟の縁に側板をつけ、大きくした舟。接合には釘を使わず、ほぞで組み、木皮で縛り、隙間には苔を詰めた(『蝦夷生計図説』、チプカル(造舟)の部参照)。寸法は、長1丈8尺、巾2尺5寸、深1尺2寸5分。

(7-7)「上(かみ)」:武家では主君。殿様。上様とも。ここでは、11代将軍家斉。

(7-8)「仰事(おおせごと)」:ご命令

(7-8)「新たに会所」:寛政11年(1799)の東蝦夷地の仮上知に伴って、これまで松前藩の設置した東・西蝦夷地の「運上屋」の内、東蝦夷地の運上屋を「会所」と名称を改めるとともに、以下の所に、新たに会所が設置された。

     ・セウヤ ・シラヌカ ・クスリ ・コブモイ ・センホウシ ・ノコキリベツ

 ・アンネベツ ・ノツケ(8ケ所)。このほか、アツケシとシヤマニの2ケ所に設立準備。サルルとシヤマニの2ケ所に小屋を建設。

(7-9)「勤番の士(さむらい)」:会所勤務の幕吏。「詰合(つめあい)」とも。

(7-9)「支配人」:本書時点では、東蝦夷地は、「請負場所制」が廃止され、幕府の直営となっていることから、「支配人」は、会所詰めの幕吏の支配管理のもと、漁業などの場所の経営を差配する人。『北海道志』に、「寛政・文化ノ間、幕府東西蝦夷地ヲ措置スルノ時、江戸運上請負人ヲ廃シ、官吏自ラ之ヲ管理シ、漁場ニ支配人・番人ヲ置クコト故ノ如ク、唯其交易物品ハ、官吏其秤量精粗ヲ点検シ、詐譌不正ノコト莫ラシムルノミ」とある。

(7-9)「通詞(つうじ)」:アイヌ語の通訳。

(8-1)「高札」:法度(はっと)、掟書(おきて・がき)、罪人の罪状などを記し、人通りの多い所(高札場)に高く掲げた。江戸時代に最も盛んに行われた。制札。たてふだ。たかふだ。

     *別添の小稿「寛政十一年の蝦夷地制札―『休明光記』を読むー」参照

(8-2)「掟(おきて)」:きまり。定め。「掟書」を公布する際、初めに、「掟」、「定」などと書かれた。

(8-3)「邪宗門」:江戸時代、幕府が、人心を惑わし社会を毒するとして禁止した宗教。一般的には、キリシタン(切支丹、吉利支丹)と呼ばれるローマ・カトリック系のキリスト教、またその信徒をさす。このほか、日蓮宗の一派である日蓮宗不受不施(ふじゅ・ふせ)派も、江戸幕府から邪宗として弾圧された。

(8-5)「死罪」:江戸時代、寛保2年(1742)の「公事方(くじかた)御定書」に定められた「死罪」は、死刑のうちの一つで、十両以上の盗み、他人の妻との密通(男女とも)などの場合である。死罪が決まると、斬首のうえ、死骸は様斬(ためしぎり)にされる。本書の「掟」で書かれている「死罪」は、広く「死刑」と同義に用いられており、「人を殺したら」、必ず死刑になるのは、主殺―「鋸挽(実際は磔)」、古主殺・親殺・師匠殺―「獄門」、喧嘩口論による殺人―「下手人」の場合である。(『江戸の刑罰』より)

(8-6)「咎(とが)」:罰せられるべき罪。酒狂で人に手負わせた武家の家来―江戸払。十両以上の盗み-死罪。軽い盗み-敲など。そのほか、遠島・追放・所払・手鎖・過料など。

(8-8)「御下知(ごげじ、ごげち)」:命令のこと。

(8-8)「事しけゝれバ」:「事繁(しげ)ければ」。たくさんの事項があること。多事であること。回数が多いこと。

(8-8)「記すにいとまあらす」:「記すに、暇(いとま)あらず」で、記録する時間的余裕がないこと。

     *「いとま」の「ま」:変体仮名で字源は「満」。

(8-9)「ワシベツ」:現登別町鷲別町、上鷲別付近。漢字表記地名「鷲別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は河川名であったが、コタン名のほか山・岬・河川などの名称としても記録されている。

(8-9)「長嶋某」:長嶋新左衛門。幕吏。普請奉行支配下の「普請役」。『休明光記』の「蝦夷地警衛の掛り」として「御普請役勤方長嶋新左衛門」、「官吏共役割」として「宿割:長嶋新左衛門、普請方の内道造り兼:長嶋新左衛門」の名がみえる。なお伊能忠敬の『測量日記』によると、前年の寛政12(1799)には、シラオイ詰合だった。また、本書の『同村場所附』の「江友」に「会所詰合 長嶋新左衛門」の名がある。なお、『北辺記聞』によると、寛政3亥年御鑓奉行支配の同心、寛政10午年御普請役出役、同12申年御普請役、享和3亥年箱館奉行支配調役下役。禄高:30俵3人扶持。

(8-9)「此所まで三里余」:「附」には、エトモからワシベツまで「三里拾二丁三拾間」とある。

(9―1)「奉行」:上からの命令で、事を執行すること。工事の責任者。

(9-1)「新たに山道を開れたり」: この山道は、絵鞆半島経由で、ワシベツに出る山道か。なお、『新室蘭史第5巻付室蘭市年表』の寛政11年の項に「室蘭(崎守)チリベツ間の刈分け道路を修復、通行をよくし、通行屋を設けて駅逓を扱う。チリベツに昼休所、輪西に小休所を置く」とある。モロラン(現崎守町)→ボロペケレオタ(現陣屋町)→モトワニシ→八丁平→チルヘツ→ワシベツ川→ホロヘツの間のいわゆる「モロラン道」の修築は見えるが、絵鞆半島経由の新道の記載はない。万延元年(1860)の「エトモホロベツ図」(盛岡市中央図書館蔵)には、モロラン道と絵鞆半島の道が描かれている。

*幕府が寛政11(1799)浦河以東の地を直轄にすると同時に、警備および産業上から道路の開削を急務の一とした。エトモ~ワシベツ間の山道もそのひとつ。これらの道路はみな工事を急いだので、完全とは行かなかったが、同年秋には様似から釧路まで馬を通ずることができるようになり、その後しだいに修築して、東海岸一帯は、天候の不良な日でも、ともかく安全に交通することができるようになった。(『新北海道史第二巻通説一』)

(9-1)「右に海」:太平洋。

(9-1)「左に山」:室蘭市と登別市にまたがる鷲別岳(標高911m)もある。

(9-2)「ホロベツ」:現登別市幌別町。「母衣別」、「ホロヘツ」とも。漢字表記地名「幌別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は、河川名だが、コタン名としても記録されている。なお、「ホロベツ場所」は、現登別市の幌別川流域を中心として設定された近世の場所(持場)であり、松前藩士(細界氏)の世襲場所であったが、寛政11年(1799)の幕府の直轄化により、「運上屋」の名称は「会所」に改められた。

(9-3)「ランボツケ」:現登別市札内町、富浦町。漢字表記地名「蘭法華」のもととなったアイヌ語に由来する地名。「ランホッケ」「ランボケ」とも。コタン名のほか、山・坂・岬などの名称として記録されている。

(9-4)「過来し方(すぎこしかた・すぎきしかた)」。通り過ぎて来た方向のこと。

     *動詞「来」に、過去の助動詞「き」が連体形・已然形として接続する場合には、未然形「こ」に接続した「こし」「こしか」、さらに平安時代になり新たに発生したものとして連用形「き」に接続した「きし」「きしか」、の二系統の語形がある。この中の「こし」「きし」に名詞「方(かた)」が接続したものが「こしかた」と「きしかた」である。この二種の語形には意味の上でのおおよその使い分けがあるともいわれ、「源氏物語」などでは単独で用いられる場合、「こしかた」は過ぎてきた地点・方向を指し、「きしかた」は過ぎてきた時間・経験を指すとされる。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(9-5)「藍路村(あいろむら)」:現白老町字虎杖浜。「アイロ」、「あいろ」、「アヨロ」、「あよろ」とも。アイヌ語に由来する地名。場所名のほか、コタン名・河川名としても記録されている。「アヨロ(アイロ)場所」は、アヨロ川流域に、独立して把握された時期もあった。なお、本書では、「アヨロ」について、漢字表記の「藍路」が当てられているが、文化4年(1804)3月、幕府は、直轄地とした蝦夷地(東・西・北蝦夷地)の地名については、仮名または片仮名にて記すべき旨を達している。本書には、過渡期として、漢字表記の地名が散見される。

(9-6)「打懸(うちか)けたる」:「打ち」は接頭語で、動詞に付き、動詞の意を強調する。

(9-7)「シラオイ」」:現白老町。漢字表記地名「白老」のもととなったアイヌ語に由来する地名。場所名のほか、コタン名・山川名としても記録されている。なお、「シラオイ場所」は、白老川流域を中心に設定された近世の場所(持場)

(9-8)「シヤタイ」:現白老町字社台。漢字表記地名「社台」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、河川名としても記録されている。語義について「シヤは頭なり。タイは平原の丘なり」など諸説ある。

(9-8)「小糸居」:現苫小牧市字糸井付近。「コヱトヱ」とも。漢字表記地名「小糸魚(こいとい)」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、河川名としても記録されている。

(9-8)「マコマイ」:現苫小牧市真砂町付近。「マコマ井」、「マコマヘ」、「マコマヱ」とも。漢字表記地名「真小牧」のもとになったアイヌ語に由来する地名。場所名・コタン名のほか、河川名としても記録されている。「マコマイ場所」は、マコマイ川を中心に設定されたシコツ十六場所の一つ。

(9-8)「やすらひぬ」:休息した。組成は「やすらふ」の連用形+完了の助動詞「ぬ」。「やすらふ」は、休んでゆっくりする。休息して様子を見る。語源説に「ヤスミサフラフの義」がある。

(9-9)「東洋」:太平洋。明代末の中国では1602年にイエズス会士マテオ・リッチが世界地図『坤輿万国全図』を作成した。この地図は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものだが、太平洋全体に対する表記はなく、北海、南海、東南海、西南海、大東洋、小東洋、寧海という7つの海域名称を付けている。渋川春海の『世界図』(1698年頃)には、北太平洋に小東洋が記され、アメリカ大陸の東の海上に大東洋が記されている。古くは中国書から取り入れた「寧海」〔和漢三才図会〕、「静海」〔窮理通‐二〕などもあったが、幕末には「太平海」「太平洋」が並用されていた。但し当時は表記として「大平洋」が多く見られる。明治になり漢訳洋書の影響で次第に「太平洋」に統一されていった。

     *太平洋は、英語名からパシフィックオーシャン(Pacific ocean)とも日本語で表記される。探検家のフェルディナンド・マゼランが、1520 - 1521年に、世界一周の航海の途上でマゼラン海峡を抜けて太平洋に入った時に、荒れ狂う大西洋と比べたその穏やかさに、"Mar Pacifico" (マレ・パシフィクム、平和な海)と表現したことに由来する。マゼランが太平洋に入りマリアナ諸島に至るまで暴風に遭わなかったことからこのように名付けたともいう。

(9-9)「漸々(ぜんぜん)」:副詞。次第次第に。だんだんに。

(9-9)「オフイノボリ」:「樽前山」か。苫小牧市・千歳市・白老町にまたがる扁平な円錐形火山。世界でもまれな三重式火山。山名の起源は、種々あるが、秦『地名考』に「タルは則、垂の字。マヱは燃る也。山焼て土砂崩るゝ故に名附たる也。」とあり、『山川取調図』には「タルマイノボリ」とみえる。

(9-9)「数峰(すうほう)」:いくつかの峰。樽前山は、現在は扁平な円錐型火山。

*影印の「峯」は、「峰」と同字であるが、常用漢字は「峰」。

(10-1)「オフイ」:「ウフイ〔uhuy〕」。燃える。焼ける。(萱野『アイヌ語辞典』)

(10-1)「焼ルヿ」:「ヿ」は、「コト」の合字説と、「事」の略体説がある。

(10-1)「ノボリ」:ヌプリ。山。

(10-2)「しら波」:「白波」と「知らぬ」の意の掛詞か。

(10-2)「息(やす)らふ」:休むこと。休息すること。

(10-3)「道の辺」の「辺」:『字通』の「古辞書の訓」に「カタハラ・サカヒ・ホトリ」(字鏡集)などがある。

(10-3)「花菖蒲(はなしょうぶ)」:アヤメ科の多年草。ノハナショウブの改良種で、江戸時代から栽培される。高さ80㎝内外。初夏、花茎の頂に紫・淡紅・白・絞りなどの大きな美しい花を開く。単に、「アヤメ」、「ショウブ」ともいうが、サトイモ科のショウブ(菖蒲)とは別もの。筆者は、「ノハナシヨウブ(北海道から九州、朝鮮、中国に広く分布)」を「花菖蒲」としたか。

(10-3)「数多(あまた)」:(1)「あまる」「あます」などの語幹と同じ語源をもつ「あま」と接尾語「た」の付いたものという。原義は、数量、程度などが普通の状態以上であるさまを表わすものと考えられる。奈良時代(特に「万葉集」)では、数量、程度ともに表わしていたが、平安朝以降はほとんど数量を表わす例に限られてくる。「あまた」の表わす数量はきまらないが、「源氏」「平家」「徒然草」などの例は、多くは人数で、一、二に止まらないという程度の複数を意味し、「今昔‐一・二九」の「数(あまた)の倉に多くの財を積めり」、同じく「今昔‐一・二九」の「衆多(あまた)の軍(いくさ)雲の如く集まりぬ」などの例では大きな数を表わしている。

(2)「観智院本名義抄」では、「衆・数」を「あまた」と訓むが、漢語として、「衆」はかなりの数の多さを、「数」は若干の意味を持つ。現代における慣用的表記の「数多」は古く奈良時代からある。「多」は「数」に添えて、「た」の音を表わしたもので、「あまた」の「た」の部分に「多い」という意味があるわけではない。近世の読本類には「許多」、近代の作品には「夥」「夥多」を当てた例が多い。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(10-3)「にや」:下の「あらむ」を省略した形で、…であろうか。…であったろうか。組成は、断定の助動詞「なり」の連用形「に」+係助詞「や」

(10-4)「気色(けしき)」:ここでは、「何かが起ころうとする気配。きざし。」をいう。

(10-5)「勇武津」:現苫小牧市勇払。「ユウフツ」、「ユウブツ」とも。漢字表記地名「勇払」のもととなったアイヌ語に由来する地名。場所名・コタン名のほか、河川名としても記録されている。「ユウフツ」は、「シコツ」などからの産物を集荷する地であり、寛政11年(1799)幕府が東蝦夷地を直轄地(仮上知)とした際、シコツ十六場所をまとめて「ユウフツ場所」とした。また、寛政12年(1800)4月、八王子千人頭原半左衛門の弟原新助を筆頭に組頭・同心の子弟ら50人が「ユウフツ」に移住、警衛を主として耕作を兼ね、会所交易などにも従事した。しかし、浮腫病ないし壊血病様の症状によって病死する者が続出し、成果を上げることができなかった。

(10-5)「望月、河西、大司寺」:北大本では、「望月大司等」と、「河西」の名がない。また、【村場所附】P8の「勇武津」の詰合として、「河西祐助、原新助、河田甚太郎、望月三作」の名がみえ、このうち、河西祐輔と原新助の2名については、八王子千人同心組の名簿にその氏名がみえる。八王子千人同心に関連しては、頭の原半左衛門については、「シラヌカ」からて撤退の後、新設の箱館奉行所の「調役」に、河西祐輔は「調役下役、勇武津在住」に、原新助については「アブタ・ウス牧場の支配人」に任じられたほか、残った他の者も、箱館奉行所の地役雇として、各地に在勤。(菊池新一著『えぞ地八王子千人同心史』苫小牧市市史編さん室)

(10-5)「某等(それがしら)」:「某(それがし)」は、武家の自称。著者の磯谷則吉とその同行者をさす。

(10-6)「ユウフツ川」:「勇払川」。苫小牧市の北部から東部を流れる二級河川。安平川の支流で流路延長37.8㎞。苫小牧市沼ノ端北部でウトナイ湖から流出して南部に向かい、美々川を合流して勇払原野を南流、河口付近で安平川に合流して太平洋に注ぐ。

(10-7)「湖」:「ウトナイ湖」。勇払原野北部、苫小牧市植苗にある海跡湖。ウツナイ沼とも呼ばれた。面積2.21㎢、周囲約7.5㎞。平均水深0.6m。北から千歳台地に水源をもつ美々川、西から樽前山麓からのオタルマップ川、トキサタマップ川が流入する。南岸から流出する勇払川は、勇払原野を南流して太平洋に注ぐ。

(10-8)「中央を通りて」:影印からは、「過」にもみえるが、送り仮名から、「通りて」とする。北大本は「通りて」。

(10-8)「ビヽ」:現千歳市美々。「ヒヽ」とも。漢字表記地名「美々」のもとになったアイヌ語に由来する地名。コタン名、河川名として記録されている。近代に入り、千歳村に包含された。

(10-9)「シコツ」:現千歳市。「シコツ」はアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川・湖水・山岳・場所などの名称として記録されている。文化2年(1805)、箱館奉行の羽太正養が、「千年(ちとせ)」と改称。

(10-9)「チプ」:舟。丸木舟。

(10-9)「横たへ」:動詞「横たえる」の連用形。「水平にして置く」の意。

(11-1)「クリテ」:「刳(く)りて」」で、(丸太を)えぐりとって中空にすること。

(11-2)「甘棠(かんとう、かんどう)」:バラ科リンゴ属の一種。リンゴに近縁な野生種。実が酸っぱいから酢実とも。ヒメカイドウ。ミツバカイドウ。ミヤマカイドウ。コリンゴ。コナシなどとも。植物の「ぶみ(桷)」の古名。

(11-3)「行過がたくぞ覚ゆ」:係結びの法則では、係助詞「ぞ」を用いると連体形で結ぶから、「覚ゆる」が本来。

(11-3)「ロウサン」:アイヌ語に由来する地名。「村場所附」には、「ローウサン」ともある。コタン名・場所名として記録されている。「ロウサン場所」は、「ルウサン場所」ともいい、千歳川中流域に設定されていた近世の場所(持場)。シコツ十六場所の一つ。「村・場所附」には、「シコツ場所の隣三四丁」とある。

(11-4)「某公(ぼうこう)」:松平忠明の匿名の尊称。

(11-6)「シロツ川」:「シコツ川」か。現千歳川。支笏湖に源を発して東流し、石狩平野を北上して石狩川に合流する一級河川。流路延長107.9㎞。文化2年(1805)に改称されるまでは、「シコツ川」と呼ばれていた。

(11-7)「オサツトウ」:「長都沼」。現千歳市と長沼町の境界にあった沼。明治時代の記録によれば、周囲3里29町とされていたが、昭和26年から同44年にかけて実施された農地造成事業により消滅し、現在は存在しない。

(11-7)「トウ」:沼。湖。

(11-8)「イヒヅ」:「イベツ」のこと。「イヘツ」、「イヒツ」などとも。「イベツ」は、漢字表記地名「江別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名・河川名として記録されている。石狩地方とユウフツ地方を結ぶ交通の要衝地。

(11-9)「酉(とり)の半刻(はんどき)」:午後時ころ。

(11-9)「東西をわき難し」:「わき」は、動詞「分る(わか・る)=明らかになる。」の連体形。語釈は「東も西も、どちらとも判別できない」こと。