(64-1)「書状」の「書」:くずし字では、脚部の「曰」(ひらび)が省略され、書かない場合がある。

     「書」の部首は、「聿」(イツ・ふで)で、部首名は「ふでづくり」という。

     「書」の本義は「筆で文字を書きつける」という意味で、『説文解字』に、「竹帛(つくはく)に記す。これを書という」とある。

      *「竹帛(ちくはく)」:古く、中国で紙の発明される以前、竹簡や布帛(ふはく)に文字を記したところから、書物。特に、歴史書。竹素。

(64-2)「差遣(さしつかわ)し」:「さし」は接頭語。人、物、金銭などを先方に送り与える。

     *「差遣し」の「遣」:決まり字。

(64-4・5)「昨夕(さくせき)」:昨日の夕方。

     *「さくゆう」と読むのは重箱読み。

(64-5)「今朝(けさ)」:「今朝」を「けさ」と読むのは熟字訓。

     *熟字訓:漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。昨日(きのう)、乳母(うば)、大人(おとな)、五月雨(さみだれ)など。

     *平成22(2010)改定の常用漢字表と同時に制定された熟字訓では、過去(昭和56=1981=)の110個から6個増えて、116個になっている。

     <追加された熟字訓>鍛冶(かじ)、固唾(かたず)、尻尾(しっぽ)、老舗(しにせ)、真面目(まじめ)、弥生(やよい)

(64-6)「泊り川町」:現松前町字月島。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。枝ヶ崎えだがさき町の東隣で、海岸に沿って伝治沢川(大泊川)に至る細長い町域。大松前澗・小松前澗ほど広くはないが、泊川の澗などを控え城下では重要な地区の一つであった。文化(180418)頃の松前分間絵図によると大坂を境に西を上泊川町、東を下泊川町と称した。上泊川町は155間、下泊川町は210間。また西側を泊川町、東側を下泊川町とよぶ場合もあった。

(64-7)「申聞置(もうしきかせ・おく)」:「申聞(もうしきか)す」は、「言い聞かせる」の謙譲語。「言い聞かせる」を重々しく言う。告げ知らせる。道理を述べて教えさとす。

(65-4)「光善寺」:現松前町字松城にある寺院。近世の松前城下寺てら町に所在。文化(180418)頃の松前分間絵図によると法幢寺の南、龍雲院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1602)(福山秘府)。元和7年(1621)五世良故が後水尾天皇に接見した折宸翰竪額ならびに綸旨を与えられたと伝え、これを機に松前藩主の菩提所の一つに列することになった。文化五年・天保9年(1838)の二度にわたる火災の都度再建(寺院沿革誌)。寺蔵の永代毎年千部経大法会回向帳によれば、永代供養のため五〇〇余人の城下檀信徒が加わっており、そのうちの約二〇〇人が商人であった。明治元年(1868)に正保2年(1645)から支院に列していた義経山欣求院を合併(寺院沿革誌)。同6年の一大漁民一揆である福山・檜山漁民騒動の際正行寺とともに一揆勢の結集の場となった。同36年仁王門・山門・経蔵などを残して焼失した(松前町史)。本尊の木造阿弥陀如来立像は道指定文化財。朱塗の山門・仁王門は宝暦2年(1752)の建立。

     *本堂前にある高さ約8m、幹回り5.5m、樹齢300年以上とされる古木「血脈桜」(けちみゃくざくら)が有名。

(65-5)「三衣(さんえ)」:「え」は「衣」の呉音。連声(れんじょう)で「さんね」とも。僧の着る大衣(だいえ)、七条、五条の三種の袈裟(けさ)のこと。大衣は街や王宮に赴く時に、七条は聴講、布薩などの時に、五条は就寝、作務(さむ)などの時に着る。

     *三衣一鉢(さんえいっぱつ):三衣と一個の食器用の鉢。転じて僧侶が携帯するささやかな持ち物。

     *連声(れんじょう):国語学上,前の音韻とそれにつづく音韻とが合して,別個の音になること。〈ン〉でおわる漢字または〈ツ〉でおわる漢字が,ア行音(またはワ行音)ではじまる漢字と結びつく場合におこる上のような音変化を連声とよぶ。

      ギン・アン→ギン・ナン(銀杏)、サン・イ→サン・ミ(三位)

     セツ・イン→セッ・チン(雪隠)、ニン・ワ・ジ→ニン・ナ・ジ(仁和寺)

     オン・ヨウ・ジ→オン・ミョウ・ジ(陰陽師)、イン・エン→イン・ネン(因縁)

     カン・オン→カン・ノン(観音)

(66-3)「水主(かこ)」:「か」は楫(かじ)、「こ」は人の意で、「水主」は当て字。

     江戸時代、船頭以外の船員、または船頭、楫(かじ)取り、知工(ちく)、親仁(おやじ)など幹部を除く一般船員のこと。櫓櫂を漕ぎ、帆をあやつり、碇、伝馬、荷物の上げ下ろしなど諸作業をする。語源説に<応神天皇が淡路島で狩りをしていた時、鹿の皮の衣を着た人達が舟を漕いで来たのを見て、彼らをカコ(鹿子)といったことから>がある。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(66-3・4)「水主供三人」:徳力丸の船頭・元三郎、仮船頭・                    庄吉、船工表役共新兵衛の三人。

(66-7)「杦野儀兵衛」の「杦」:国字。「杉」の旁「彡」(さんづくり)の書写体に従って「久」に改めたもの。人名漢字になっていない。苗字に、人名漢字でない漢字の使用は制限されていない。

*人名用漢字は「人名用漢字」は、日本における戸籍に子の名として記載できる漢字のうち、常用漢字に含まれないものを言う。法務省により戸籍法施行規則別表第二(「漢字の表」)として指定されている。

(66-8)「第次郎」:熊石村の故弘前屋第次郎。故第次郎の親類が同村の佐野権次郎を相手取った問題について、町奉行で吟味を行った。「双方」とあるのは、第次郎の親類側と佐野権次郎側のこと。

*「第次郎」の「第」:テキスト影印「は俗字。

(66-8)「跡式(あとしき)」:①家督相続人。遺産相続人。跡目。あとつぎ。②相続の対象となる家督または財産。また、家督と財産。分割相続が普通であった鎌倉時代には、総領の相続する家督と財産、庶子の相続する財産をいったが、長子単独相続制に変わった室町時代には、家督と長子に集中する財産との単一体を意味した。江戸時代、武士間では単独相続が一般的であったため、原則として家名と家祿の結合体を意味する語として用いられたが、分割相続が広範にみられ、しかも、財産が相続の客体として重視された町人階級では、財産だけをさす場合に使用されることもあった。

      *「跡式」は、鎌倉時代以後の語。「後職(あとしき)」の意から。事情。有様。次第。様子。有様や様子、ことの次第を表わす意味は、本来の漢語「式」にはない日本独自のもので、一三世紀後半から現われる。

      *「これしき」など接尾語としての用法は、この(5)の意味に由来し、言外に仄めかされる多数の同種同類のものを包含して卑下や軽視の感を添える。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(66-9)「もの共」の「も」:変体かな。字源は「毛」。現行ひらがなの「も」は、横線は2本だが、「毛」から「も」くずす過程で、「毛」の1画目の「ノ」を含め、横線が3本になっている。

(66-9)「他行(たぎょう)」:その場を離れてよそへ行くこと。他の場所へ出かけること。

(66-9)「落着(らくちゃく)」:江戸時代、人殺し、喧嘩などの判決のように、それですべて決着がつく判決のこと。境界争い、水争いのように、将来にかかわることを判決する裁許に対する語。

(67-3)「昼立(ひるだち)」:昼、旅立つこと。日中に出発すること。

(67-4)「熊石村」:現二海郡八雲町のうち。熊石村は、近世から明治35年(1902)までの村。爾志郡の北部に位置し、西は日本海に面する。北境に分水嶺の遊楽部ゆうらつぷ岳(見市岳)があり、大部分は山地・丘陵地で、その間に谷を形成して関内川・平田内ひらたない川が南西流して日本海に注ぐ。「地名考并里程記」は「熊石」について「夷語クマウシなり」とし、クマとは「魚類、又は網等干に杭の上に棹を渡したる」の意味、ウシは「生す」の意味とする。また浜辺に熊の形の岩があるので熊石と称したともいう(西蝦夷地場所地名等控)。松浦武四郎は「熊石の義ハ此処より少し北ニ雲石と云るさまざまの色彩有岩有。其を以て当村の名となセしもの也。然るニ今其名も転じて熊石とよび、此処も熊石と転じた」とも(「蝦夷日誌」二編)、「本名はクマウシにして、魚棚多との訛りしなり。村人は夷言たる事を忘て、雲石とて雲の如き石有故号くといへり」とも記す(板本「西蝦夷日誌」)。

      *熊石町は、平成22年(2005)年101日、渡島支庁管内の八雲町と支庁を越えて合併した。新設合併で新町名は八雲町。同時に二海郡が新設される。現在の熊石町地域は渡島支庁に編入される。これに伴い、檜山支庁は南北に分断された(飛地)。

(68-2)「博知石町(ばくちいしまち)」:現松前町字博多。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。博知石の地名について上原熊次郎は「夷名パウチウシなり。交合なす所と訳す。扨、パウチとは交合、ウシとは成す亦は所とも申事ニて、則、此所に岩屋ありて此内にて昔時夜な夜な若きもの共さゝめことをなしたるものあるゆへに地名になすといふ」と記す(地名考并里程記)。武四郎は「町ニ大なる岩石有。其形ち中窪くして其半は土ニ埋れたり。土人云、古え此石の中ニ隠れて博知打たりと。其故ニ号ると云伝ふるなれども、案ずるニ此口の窪き処姥口ニ似たれば姥口石と云しかとも思わる」と述べる(「蝦夷日誌」一編)。南は海に面し、唐津内沢川と不動川(愛宕川)に挟まれた地域。東は唐津内町、西は生符町、北側の台地上は愛宕町。

(68-2~69-3)「今別(いまべつ)」:現青森県東津軽郡今別町。東は一本木村・鍋田村、南は大川平(おおかわたい)村、西は浜名村に接し、北は津軽海峡・三厩湾に面する。大川と長(ちよう)川(京川)の間に集落がある。弘前藩では領内の重要な湊に町奉行を置いて管理させ、九浦とよんだ。今別と蟹田は小さいが、材木の積出しにより重要なため加えられ、通称は村であるが、検地帳には今別町とある。

(69-2~9)「津軽産物方・・」:このくだりについて、板橋正樹著『文政八年から天保八年における町奉行・町吟味役就任者と勤務叙状況』(『松前藩と松前』18号所収)には、工藤庄兵衛による津軽国の産物方(柴田善之丞または柴田善藏)と濱屋与惣右衛門からの借金返済の遅延に関する問題であった」とある。

(69-2)「濱屋与惣右衛門」の「右衛門」:「兵衛」と書いた後に「右衛門」と上書きしたように見える。

(69-3)「貸(か)り」の「貸」:<あるものが、それを持っている人から他の人へと一時的に移動する場合、日本語では人を中心に現象をとらえて、もと持っていた人から見ると「かす」、相手の人から見ると「かりる」と表現します。しかし、中国語では、ものを中心に現象をとらえて、とにかくその所有者が一時的に変わることを、「借」「貸」と表現するのです。この2つの漢字は、中国語では基本的な意味は同じなのです。その結果、中国語としての「借」「貸」は、日本語に翻訳するときには「かす」「かりる」の両方の意味で訳せることになります。・・漢和辞典で「借」「貸」を調べると、意味として「かす」も「かりる」も載っているのは、そういうわけなのです。>(大修館書店ホームページ『漢字文化資料館』より)

(69-4)「柴田善之亟」:P4には、「弘前国産方柴田善藏」とある。

(69-7)「證文」の「證」:「証」の正字(旧字体)。「證」の解字は「言葉を下から上の者にもうしあげるの意味」(『新漢語林』)

(69-7)「拾五通」の「五」:くずし字は、「力」+「一」のようになる場合がある。