森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

東蝦夷地臼山焼一件御用状写

東蝦夷地臼山焼一件御用状2011年4月注

臼山焼 注                                    2011.4.11 森勇二(33-8)「猶々(なおなお)」・・手紙文などの最後に別の事柄を追加するときに用いる。加えて。追伸、二伸、追

 而。

<追而書(おってがき)>書状の本文で述べられなかったことを書状の端または礼紙(らいし)に書き加えるこ

 と。その書き出しが「追而申」から始まるのでこの名が起きた。「なほなほ(尚々・猶々)」から始まるものも多いので、「なおなおがき(尚々書・猶々書)」ともいう。私文書に発達した形式であるが、十二世紀になって綸旨・院宣などが私文書と同一の形式をとって行われるようになると、公文書にもこの形式が多く用いられるようになった。

(33-9)「引移(ひきうつり)」・・名詞。物や事柄が他に移ること。特に、住居・居場所が他に移ること。引っ越し。

*「気のきいた僕を二人計り紳士の従者に添へて引移(ヒキウツ)りの手伝をさせろ」(「露団々」幸田露伴)*「ま、引移(ヒキウツ)りをするが宜からうとて」(「うつせみ」樋口一葉)

(34-1)「可申上(もうしあぐべく)」<文法の話>・・4段動詞「申(もう)す」の連用形「申(もう)し」+下2段動詞「上(あ)ぐ」の終止形「上(あ)ぐ」+助動詞「べし」の連用形「べく」

 *助動詞「べし」は、動詞の終止形に接続する。ただし、ラ変動詞の場合は、連体形に接続する。

(34-4)「御用番(ごようばん)」・・松前藩の役職名。正しくは、「御用人」。中老の下位。

(34-4)「松前勘解由(まつまえかげゆ)」・・当時松前家の御用人。蠣崎広伴(かきざきひろとも)の次男。松前藩家老松前広当(ひろまさ)の家をつぐ。嘉永7年(1854)ペリーの箱館来航の際,藩の応接使をつとめる。のち筆頭家老。戊辰(ぼしん)戦争のおり正議隊(勤王派)の政変で職を追われ,慶応483日自刃(じじん)。名は崇効(たかのり)。勘解由は、官名。資料1.

 *勘解由・・国司などが交替するとき、後任者が前任者に与える不与解由状(ふよげゆじょう)などの書類を審査する中央官庁。奈良時代中期よりの地方政治の弛緩と天平17年(745)の公廨稲(くげとう)設置により、前任国司と後任国司の利害が対立し、その交替が円滑を欠き、地方政治がいっそう混乱することを防止するため設置された。設置時は延暦16年(797)以前とする説もあるが、同年にはじめて勘解由使官人の名がみえ、翌年官位相当も定まり、国司交替の細則が定められているので、延暦16年に設置されたものと思われる。大同元年(806)には新設された観察使にその職務がひきつがれて一旦廃止されたが、淳和天皇らによる広汎な政治刷新の一環として天長元年(824)に再設され、以後常置された。これより先大同四年に国司のほかに内官の解由もとることになったこともあって、天長五年には事務繁雑のためこれまでの史生八人に加えて書生十人をおいた。また天安元年(857)に勘解由使官人の官位相当を引き上げたが、それによると定員と官位相当は、長官一人・従四位下、次官二人・従五位下、判官三人・従六位下、主典三人・従七位下であった。延暦十七年以降国司を中心として次第に交替制度が整備されていき、勘解由使では延暦・貞観・延喜の交替式を編纂し、官人交替の基準を定めたが、これらにより官人交替の方法と勘解由使の職務がよくわかる。勘解由使の書類審査を勘判といい、『政事要略』所引の勘解由使勘判抄は勘判の実態を示し貴重である。勘解由使は平安時代初期に最も機能を果たしたが、延喜15年(914)に受領功過定が行われるようになったのち、勘解由使の提出する資料も功過判定に使用されたので、受領の活躍した平安時代末期までは機能を果たしたものと思われる。

(34-4)「工藤貞右衛門(くどうさだえもん)」・・『嘉永六癸丑年御扶持列席帳』(『松前町史史料編第1巻』)に、「新組御徒士」として、名が見える。

(34-5)「被仰達(おおせたっせられ)」・・「仰達(おおせたっす)」は、上位の者の言葉が、下位の者のもとに届く。おっしゃってよこす。

<文法の話>複合サ変動詞「仰達(おおせたっ)す」の未然形「仰達(おおせたっ)せ」+尊敬の助動詞「らる」の連用形「られ」。

(34-7)「在方(ざいかた)」・・町方に対していう。田舎(いなか)。在所。在。

(34-8)「在住(ざいじゅう)」・・その所に住んでいること。居住。

(35-9)「一筆啓上仕候(いっぴつけいじょうつかまつりそうろう)」・・中世後期以降、男性の書状の起頭の常套句。実際の書状では、普通、何らかの補助動詞を伴って用いられる。室町期には「一筆令啓上候(せしめそうろう)」が一般的で、江戸期には、書状の起頭の形式には、敬意の高い順に、一筆奉啓上候・一筆啓上仕候・一筆致啓達候・一筆申入候・一筆令啓上候・一書申候、があった。この他にも「一筆致啓上候」など、種々のバリエーションが見られる。

(36-2)「愈(いよいよ)」<くずし字の話>・・くずし字では、脚の「心」が、「一」となる場合が多い。 

(36-5)「勇健(ゆうけん)」・・健康であること。達者であること。また、そのさま。書簡文に用いることが多い。壮健。雄健。

(36-6)「一条(いちじょう)」・・ある一つの事柄。多く、相手がそれを知っている場合に用いて、「例のあの事」の意。一件。

(37-4)「申談(もうしだんじ)」・・(動詞「だんずる(談)」の連用形の名詞化)。お話し合い。ご相談。

(37-8)「案内(あない・あんない)」・・中古のかな文では、撥音「ん」を表記しないで「あない」と書くことが多い)本来、「案」は文書の写し、および下書きをいい、「案内」は案の内容を意味した。平安時代以後、内情、事情その他の意に転じて用いられている。本文では、事情、様子などを知らせること。しらせ。便り。

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東蝦夷地臼山焼一件御用状注

(26-7)「隣場(となりば)」・・ウスは、ヤマクシナイ場所の東隣にある場所。

(26-7)「之(の)」<漢字の話>・・「之」は、変体かなの「の」ではない。「の」と読むのは、漢文の助詞の訓読みで、所有、所属、関係などを示す。「実業日本社(じつぎょうにほんしゃ)」「芥川龍介(あくたがわりゅうすけ)」。なお、「之」の草書体から、ひらがなの「し」ができた。その変形からカタカナの「シ」ができた。『くずし字用例辞典』(以後『辞典』)P1258

(26-8)「而(て)」<漢字の話>・・「而(て)」は、漢文の助字で、本来は、漢文の訓読みでは、「テ」と送り仮名を添えて直接には読まない場合が多い。それが日本語の古文書に書かれ、「て」と読みようになった。「総而(そうじて)」「別而(べっして)」「付而(ついて)」「依而(よって)」「却而(かえって)」「決而(けっして)」と「而」を「て」と読むほかに、「而已(のみ)」「而況(しかるをいわんや・まして)」など、特別の読み方もある。なお、「而」は、「而(しかして)部」の部首で、この部に「耐」などがある。

(26-8)「取計(とりはからい)」・・扱い。<漢字の話>影印の「斗」は、「計」のくずし字で、「斗(ト、ます)」の字ではない。『辞典』P989

(27-1)「飯料(はんりょう)」・・めしだい。食費。

(27-5)「ヲシヤマンヘ」・・漢字表記地名「長万部」のもとになったアイヌ語に由来する地名。北海道南西部、渡島総合振興局北東部の地名。内浦湾に面し、漁業や酪農が盛ん。江戸期は、山越内(やむくしない)場所に含まれた。この項【15】の記入もれ。

 <文字の話>「ヲ」・・鎌倉時代以後に書かれた五十音図では、「お、を」の位置を転倒して、ヲをア行に、オをワ行においているが、これは、江戸時代の学者によって理論的に正された。しかし、文書では、使い方は、混同している。なお、「ヲ」の字形は「乎」の変形である。したがって、「フ」→「ヲ」と2画で書かず、「一」→「二」→「ヲ」と3画に書く。

(27-5)「持府(もちっぷ)」・・北海道で沿岸漁業や通船として用いた10石積程度の小船。船底をむたま船(「無棚船(むたなぶね)」の変化した語という。江戸時代、最上川水系で使われた一人乗り・約一五石積の小荷船)

と同じ造りとしたもの。もっぷ。語源については、アイヌ語のmo chip からで、小さな丸木船の義という。(『国語学におけるアイヌ語の問題』=金田一京助)。

(27-5)「水主(かこ)」・・船頭・楫(かじ)取りなど役付き以外の水夫。また、船頭以外のすべての船乗りをいう。「水主」を「かこ」と訓じるのは、加子役(かこやく。江戸時代、漁師に賦課された夫役=ぶやく=の一種)の転。

(27-9)「浪高(ろうこう)」・・現代語では、普通、高浪(こうろう。たかなみ)。高くうち寄せてくる波。大波。

(27-10)「シツカリ」・・漢字表記地名「静狩」のもとになったアイヌ語に由来する地名。「東蝦夷地場所大概書」によると山越内(やむくしない)場所に含まれた。近傍の地況は「津軽一統志」に「是より山越うすへ出る 道のり五里」と記され、前掲大概書には「礼分下よりシツカリ迄海岸一面立岩、立石にて通路相成難く処也」とある。その後山道が開削されたことにより陸路の通行が可能となった(前掲大概書)。しかしシズカリ峠は「蝦夷の三険と云」(「蝦夷日誌」一編)との記述からうかがえるように、道程の艱難を述べた記録は多い。「協和私役」には「シツカリ嶺と云。石径尤嶮なり。嶄々馬蹄を刺す。衆皆馬を下り歩行す。凡東西夷地山行の嶮甚多し。(中略)且此山石多くして泥深し。馬行甚艱なり。山を下り小憩。シツカリと云」(安政三年九月一二日条)とある。一方で、「冬分十月より翌二月迄は山道積雪にて通路相成難く、通行 継送り共多分小砂万辺の方え渡海場也」(前掲大概書)と引続き海路も利用されていた。役人らがレブンゲ(現豊浦町)からヲシャマンベへ海陸を通行する際の休所で、「渡海にて通路の節は舟着宜敷」(同書)と記される。

(28-9)「麁略(そりゃく)」・・粗略。疎略とも。物事に対して十分に手を尽くさないこと。物事をおろそかに扱うこと。また、そのさま。ぞんざい。なげやり。

(28-9)「介抱(かいほう)」・・①世話をすること。保護すること。②傷病者などを看護すること。ここでは①

(28-10)「遠場(とおば)」・・遠い所。「エンジョウ」と音読みすれば、遠い寺の意味がある。

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東蝦夷地臼山焼一件御用状注P18~P25

臼山焼 注                                    2011.2.14 森勇二

18-2)「驚怖(きょうふ)」・・驚き恐れること。

18-10)「旁以(かたがたもって)」・・いろいろな点からみて。どちらにしても。どのみち。「旁」の語源については、あなたこなたの意のカタガタ(方方)の転、またはカテラガテラの約、という説がある、

19-1)「御徒士(おかち)」・・江戸時代、将軍または大名の行列の先頭に立ち、通路の警戒をし、ふだんは城内の番所に詰めて警備に当たった侍。また、その役。

19-1)「白鳥右作(しらとり-うさく)」・・『嘉永六癸丑年御扶持家列席帳』の「新組御徒士」のひとりに名前が見える。

19-2)「乙名(おとな)、小使(こづかい」・・場所内のアイヌは役アイヌと一般の平アイヌに分けられる。役アイヌは総乙名・総小使・脇乙名・乙名・小使・土産取から構成されている。

19-7)「ヱトロフ差立御人数」・・文政4年(1821)、蝦夷地が松前家に還与された後の蝦夷地警備体制は、各地に勤番所を置いた。東蝦夷地では、ヤムクシナイ、エトモ、ユウフツ、シャマニ、クスリ、アッケシ、子モロ、クナシリ、エトロフの9ヶ所に勤番所が置かれた。そのうち、エトロフに配置された人数は、天保15年(1844)の例では、物頭以下44名、在住足軽50名である。(『松前町史』)

19-20)「疱瘡(ほうそう)」・・天然痘。

20-4)「直渡(ただわたり)」・・まっすぐに渡ること。

20-7)「弁利(べんり)」・・便利。利便。

21-6)「旧臘(きゅうろう)」・・去年の12月。客臘(かくろう)。「臘」は陰暦12月。「臘月」。「臘」の解字は、右側の字は、動物のむらがりはえた頭上の毛の総称で、多く集まる意を含む。「臘」はそれを音符とし、肉をそえた字で、百物を集めてまつる感謝祭のこと。「臘祭(ろうさい)」は、年末の祭礼で、その年に生じた百物を並べ集め、ひとまとめにまつって年を送る祭。中国の祭で、日本には伝わらなかったが、暦のみに用語が残った。

21-8)「出役(しゅつやく・でやく)」・・役目として出張すること。

22-4)「今暁(こんぎょう)」・・「ぎょう」は「暁(きょう)」の慣用音。「こんきょう」とも。今日の夜明けがた。今朝。

23-6)「ユヲイ村」・・江戸期から見える地名。はじめ東蝦夷地箱館6ヶ場所、寛政12年(1800)から東在箱館付6ヶ場所のひとつの野田追(のち落部)場所のうち。ユウオイ、ユイともいい、湯生、湯追、由井、由追とも書いた。和人地と蝦夷地の境となった。現二海郡八雲町野田追のうち。

24-56)「石黒太右衛門(いしぐろたえもん)」・・『嘉永六癸丑年御役人諸向姓名帳』(『松前町史史料編第1

 巻』所収)の「御記録」に石黒太右衛門の名前が見える。当時、松前藩の書記だったか。

24-6)「旁(かたがた)」・・あれこれ。さまざま。なにやかや。

24-10)「巨細(こさい)」・・細かくくわしいこと。また、そのさま。一部始終。委細。きょさい。字義どおりの「巨と細」の意味に加えて、漢籍で「無巨細」と使われることが多く、そこから「細大もらさず」という意味になっていったと思われる。また、中世以降、記録とその影響を受けた軍記物を中心として、「巨細」だけで「詳しく」という意味を持つようになる。キョサイの読みも「伊呂波字類抄」に見えるが、呉音系のコサイの読みの方が一般的。

東蝦夷地臼山焼一件御用状1件P11~20

臼山焼 注                                    (11-2)「方丈(ほうじょう)」・・禅院における住持の居室をさし、もと維摩居士(ゆいまこじ。天竺の在家菩薩)

の居室が方一丈であったことから出た語。堂頭・正堂・函丈・房丈ともいう。転じて、禅院の住持をさす。わが国では、禅院のみならず教宗の諸大寺にも営建され、客殿としての要素が加わる。転じて住職をさす。ここでは、善光寺の住職をさす。したがって「方丈詰番僧」は、住職に従う役僧のこと。

(11-23)「番僧(ばんそう)」・・堂を守る当番の僧。堂番。

(11-3)「宝物(ほうもつ)」・・たからとして珍重するもの。たからもの。ほうぶつ。「物」の字音は「ブツ」が漢音、「モツ」は呉音。

(11-4)「送越(おくりこし)」・・・送ってよこし。

(11-4)「用人(ようにん)」・・雑用・事務にあたった雇い人。

(11-5)「治定(じじょう)」・・(副詞)必ず。きまって。きっと。「必ず」の意を表わす漢語の副詞には、他に「一定(いちじょう)」「決定(けつじょう)」「必定(ひつじょう)」などがあるが、これらが中世の前半期から用いられていたのに対し、「治定」は、中世の後半期に副詞としての用法が生まれたと見られる。「定」を「ジョウ」と読むのは、呉音で、「禅定(ぜんじょう)」など、仏教用語に用いられることが多い。

「治定」を「じてい」と読めば「国などをおさめさだめること。また、国などがおさまり安定すること」の意。

(11-6)「砌(みぎり)」・・①(「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという)軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。②転じて、庭。また、境界。③あることの行なわれ、または、あるものの存在する場所。その所。④あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。

本文書では、④。その語源については、「そのころ」の意を「其の左右(ゆんでめて)」というところから「ミギリ(右)の義か」とする。(『日本国語大辞典』)

(11-7)「申談置(もうしだんじおき)」・・申しあげて相談して置いた。

(11-8)「御牧場(おまきば)」・・文化2年、箱館奉行戸川安論(やすのぶ)が、アブタ・ウス開設した牧場で、富川牧、岡山牧、平野牧、富沢牧の4牧を開いた。戸川は種馬3頭の下付を受けて、南部藩からの献上された牝馬4頭、購入牝馬5頭とともに放牧、順次繁殖などで増やした。文政5年の記録では、2553頭に達した。

 この年の有珠山噴火で多くの馬が斃死(へいし)した。

(11-8)「平野御牧(ひらのおまき)」・・現在の伊達市北東部、若生(わつかおい)町付近から伊達市街までの地に存在した牧。文化2年頃に富川(とみかわ)牧・岡山(おかやま)牧・豊沢(とよさわ)牧とともに成立。平野牧はウス領ワッカヲイ(現在の若生町付近)からモンベツまでのおよそ6キロとされる(新北海道史)。「西蝦夷地日記」文化41019日条には「宇寿之牧」のうちとあり、「ヲサルベツ平野牧」と記されている。「東行漫筆」文化645日条に「平野 六十三疋南部五疋地馬交」と記され、牧士「寺田佐野(之)助」の給金は金五両二人扶持、「外に一日銀七分」が定式手当で、銀一匁五分は「出役之節計り」、野牧内は一日弁当料六四文とある。その後、文政5年のウス岳大噴火、松前藩への復領、幕府の再直轄領化となるが、寺田家の墓地が現在も善光寺裏山の墓地に残り、牧士が世襲制であったことから、平野牧は明治維新まで続いていたと考えられる(物語虻田町史)。なお慶応3年のウス・アブタ両牧場書上(盛岡市中央公民館蔵)では当牧の馬数二七〇ほど(うち駒三〇ほど)。

(11-9)「戸沢新蔵(とざわしんぞう)」・・平野牧の牧士。牧場設置当時、牧士見習いとなった戸沢儀七の子孫。

(11-9)「谷藤鉄蔵(たにふじてつぞう)」・・平野牧の牧士。

(12-1)「寺田鉄太郎(てらだてつたろう)」・・平野牧の牧士。前項のように、「東行漫筆」文化645日条に牧士「寺田佐野(之)助」が見えるが、その子孫。

(12-12)「岡山御牧場(おかやまおまきば)」・・現在の虻田町東部から伊達市有珠町(うすちよう)付近にかけて存在した牧。岡山牧はアブタ領アブタ辺りからワッカヲイ(現伊達市若生町付近)までのおよそ6キロとされる(新北海道史)。「西蝦夷地日記」文化41019日条には「宇寿之牧」のうちとあり、ウスよりアブタまでを「岡山牧と云」と記される。「東行漫筆」同645日条には牧士頭取村田卯五郎の名とともに「奥(岡)山 四十三疋大牧南部種二十一疋、好き馬二才十疋あると云」と記され、村田卯五郎はアブタ居住、牧士の戸沢儀七の給金は五両二人扶持で、「外に一日銀七分ヅツ、定式御手当、銀一匁五分出役之節計り」、野牧内は一日弁当料六四文とある。その後、柵で仕切られた当牧と富川牧・平野牧・豊沢牧には異なった品種の馬が放たれ、自然交配により年々増加した。1810年代後半―20年代前半には4牧で二千頭を超えていた(虻田町史)。文政5年のウス岳の大爆発では卯五郎とその息子紋太郎が熱雲により犠牲となった。牧士は世襲制であることから、明治維新の閉鎖まで岡山牧は続いていたと考えられる(以上「物語虻田町史」)。なお慶応三年のウス・アブタ両牧場書上(盛岡市中央公民館蔵)では当牧の馬数200ほど。

(12-2)「田畑与四郎(たばたよしろう)」・・岡山牧の牧士。文化年間に牧士見習いとなった田畑小太郎の子孫。

(12-3)「由太郎(よしたろう)」・・岡山牧の牧士。

(12-3)「村田松蔵(むらたまつぞう)」・・岡山牧の牧士。文化年間に任命された牧士に、村田卯五郎がいるが、松蔵は、その子孫。

(12-3)「柏木吉三郎(かしわぎ-きちさぶろう)」・・岡山牧の牧士。文化年間に牧士見習いとなった柏木元助の子孫。

(12-4)「前以(まえもって・ぜんもって)」・・あらかじめ。かねてより。かねがね。

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東蝦夷地臼山焼一件御用状写 注 P9~10

(9-2)「未ノ上刻(ひつじのじょうこく)」・・「未」は、およそ午後1時から3時の間。一時(いっとき=二時間)を三分したその初めの時間だから、「未ノ上刻(ひつじのじょうこく)」は、およそ、午後1時から2時の間。

(9-2)「麁絵図(そえず)」・・江戸時代、願・届書などに添えて提出する粗末な絵図・見取図・略図の類。「麁」

 は、「麤」(33画)の俗字で、あらい(粗)、大体の意。

(9-6)「遥(はるか)に」<漢字の話>・・影印の右側を、「宀」+「缶」と書く字は、「遥」の異体字。

資料5.(柏書房刊『音訓引 古文書大字叢』)   資料6.東京手紙の会編思文閣出版刊『くずし字辞典』)

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なお、「遥」は、昭和56年に人名漢字に追加された。その際、「シンニョウ」は、「1点シンニョウ」に字体整理された。旧字体の「遙」は平成16年に人名漢字に追加されたが、「シンニョウ」は、「2点シンニョウ」のままとなっている。

(9-9)「うす(薄)ろぎ」・・減ってゆき。「薄(うす)ろぐ」の連用形。

(10-9)「新井田嘉藤太」(にいだかとうた)」・・松前藩士。当時の列席は准寄合。役職は御用人で、寺社町奉行を兼ねていた。嘉永4年には福山築城掛に任じられた人物。

(10-10)「三輪持(みわたもつ)」・・松前藩士。当時の列席は中書院。役職は、御用人で、江差奉行・寺社町奉行を兼帯。

(11-1)「近藤兔毛(こんどうともう)」・・松前藩士。当時の列席は中書院。役職は、御用人で、寺社町奉行。美国場所の知行主。

東蝦夷地臼山焼一件御用状写 注  P6~P8

(6-1)「刻付(こくづけ)」・・刻付状のこと。刻限付けの書状。記した時刻を明示したり、到着の時刻を指定した書状。

(6-5)「善光寺(ぜんこうじ)」・・有珠(うす)町の北西、有珠湾に臨む丘陵上に位置する浄土宗寺院。大臼山道場(どうじよう)院と号し、本尊は阿弥陀如来(臼座三尊弥陀金仏)。境内地は善光寺跡として国指定史跡。浄土宗江戸芝増上寺を本寺とした。蝦夷三官寺の一つとしてシャマニ等(とうじゆ)院(現様似町)・アッケシ国泰(こくたい)寺(現厚岸町)とともに文化元年に創建。善光寺は等院・国泰寺と異なり、前身となる創建以前の堂舎をもつ。その開創は不明であるが、「新羅之記録」には松前藩主の松前慶広が慶長12年に夢のお告げを受け、翌年5月に「善光寺如来之御堂之旧跡」を再建したとの記述があり、1640年代後半にすでに当寺は存在しており、蝦夷地で最も古い由緒をもつ寺院ということになる。善光寺という名称は、平安期に慈覚大師円仁が霊夢に従いウスに安置したという如来像が、一光三尊の信州善光寺如来であったことによるとの伝承が流布しているが(善光寺縁起)、信憑性は薄い。当地は有珠山に至近なため噴火の影響を受け、しばしば境内地の移動を余儀なくされ、文政5年から天保7年にヤマクシナイ場所、嘉永6年から安政4年にかけて、ヲシャマンベ場所の堂庵に仮寓した。

(6-7)「当場所領(とうばしょりょう)」・・ここでは、松前藩領をいうか。

(6-7)「峠之下(とうげのした)」・・峠下。峠ノ下、嶺下とも書いた。渡島地方南部、現七飯町内の地名。

(6-7)「一行院(いちぎょういん)」・・一行庵とも。文政5年、有珠山噴火の際、善光寺3代住職弁瑞が、避難所として峠下に建立した堂宇で、善光寺末。その後、安政46月に江戸増上寺末の魚籃寺住職(江戸・三田)が布教に来たが、翌、安政51028日に死亡し、一時廃寺になり、明治19年、現在の明林寺(曹洞宗)に統合ざれた。

(6-7)「庵堂(あんどう)」・・神仏を祭る建物。僧尼の住居。

(68)「レフンケ」・・礼文華。胆振地方西部、噴火湾沿岸の礼文華川流域の地名。東蝦夷地アブタ場所のうち。

 静狩との間に、礼文華峠という難所がある。

(7-5)「巳ノ下刻(みのげこく)」・・巳は、およそ午前9時から11時の間。「下刻」は、一刻(いっとき=二時間)を三分した最後の時だから、「巳の下刻」は、およそ午前10時半~11時頃。

(7-7)「尚ゝ(なおなお)」・・追伸。手紙などで、本文に書き落とした事柄を後から書き加えること。また、その文章。「尚尚書(なおなおがき)」という。宛名の後ろに、一字半ぶんだけ下げて書き、また、行間や本文の前に書くこともある。候文の手紙で、「尚々(なおなお)」と最初に書いたところからいう。追書(おってがき)。追伸。二伸。

(7-7)「町奉行所中(まちぶぎょうしょじゅう)」・・「町奉行所」は、寺社町奉行所のこと(注5-9参照)。「中」は「ジュウ」と音読し、全部の意。ここでは、集団の成員のすべての意。「年中(ねんじゅう)」「世界中(せかいじゅう)」「1日中(いちにちじゅう)」など。嘉永6年当時の寺社町奉行は、新井田嘉藤太、三輪持(たもつ)、近藤兔毛(ともう)の3人。

(8-4)「弥増に(いやまし)」・・よりいっそう。ますます。「いや」は、程度がはなはだしいさまを表す副詞「や」に接頭語「い」の付いたもので、程度が増す意。「いや(弥)栄え」、「いや(弥)が上に=なおその上に、ますます=

(8-5)「ベンヘ」・・べんべ(弁辺、弁部)。東蝦夷地アブタ場所のうち。弁辺村は昭和7年までの村名。現豊浦町のうち。昭和年豊浦村と改称した。

(8-6)「牧士(ぼくし、ぼくじ、もくし)」・・牧場で牛馬の飼育にたずさわる人。文化2年、箱館奉行戸川安論(やすのぶ)は、ウス・アブタに牧場を開いた。松前藩は、幕府から牧場を引き継いだが、経営には消極的であった。(『豊浦町史』)

(8-7)「相撰(あいえらみ・あいえらび)」・・終止形が「えらぶ」なら、連体形は、「えらび」、「えらむ」なら、終止形は、「えらみ」。

 <漢字の話>・・「撰」の右側の冠は、「己」でなく、「巳」。シンニョウの「選」の旧字も、「巳」だったが、常用漢字では、「己」に字体整理された。

(8-10)「ヲシヤリヘツ」・・長流(おさる)。胆振西部、長流川流域。現伊達市のうち。小砂流別とも書いた。有珠山からは、南東に当たる。

(8-10)「ツマイヘツ」・・漢字表記地名「千舞鼈」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現在の室蘭市崎守町、石川町、香川町一帯。大正7年まで「千舞鼈村」であった。現在、「室蘭市千舞鼈浄水場」として、その名が残っている。本来は、現在の室蘭市と伊達市の境界の川の名であったが、コタン名としても記録されている。当地一帯は近代に入り千舞鼈(ちまいべつ)村に包含された。表記は「チマイベツ」(「東行漫筆」など)、「チマイヘツ」(場所境調書・廻浦日記)のほか古くは「ちはいへつ」(津軽一統志)、「ちまひ別」(享保十二年所附)、「つまゑひす」(寛政蝦夷乱取調日記)があり、以後には「チマヱベツ」(「地名考并里程記」、秦「地名考」)、「チマヱヘツ」(玉虫「入北記」)がみえ、「ツハイベツ」とも記録されている(「蝦夷日誌」一編)。「西蝦夷地日記」の記述に、「両所(エトモ・ムロラン)合せて一七五人、両所の外ツマイベツに一二軒あり」と、「ツマイベツ」が記されている。

東蝦夷地臼山焼一件御用状写 注P2-3行~P5

(2-3)「退去(たいきょ・のきざり)」・・その場を立ち去ること。

(2-4)「夷人(いじん)」・・(「夷」は野蛮人の意)文明の開けていない国の人。野蛮人。えびす。また、外国人、異民族を軽視していう語。ここでは、アイヌ人の蔑称。

(2-5)「ヤムクシナイ」・・江戸期の地名。東蝦夷地の内うち。「ヤムクシナイ」は、漢字表記地名「山越内」のもとになったアイヌ語に由来する地名。本来は河川名であったが、コタン名のほか場所・会所名としても記録されている。寛政頃にはアイヌと和人が入交じって居住しており、蝦夷地との出入口であったことが知られている。勤番所(関所)が設けられていた。

(2-6)「勤番(きんばん)」・・松前藩は、蝦夷地の防備として、東蝦夷地では、ヤムクシナイ、エトモ、ユウフツ、シャマニ、クスリ、アッケシ、子モロ、クナシリ、エトロフの9ケ所、西蝦夷地では、イシカリ、ソウヤの2ヶ所、北蝦夷地の計12ヶ所に勤番所を置いて武器、藩兵を配置した。

 天保15年のヤムクシナイ勤番所の勤番者は、頭徒士1、徒士1、医師1、足軽2、在勤足軽15.(『松前町史通説編第1巻下』)

(2-6)「上田鉄之進(うえだてつのしん)」・・『嘉永六年癸丑御役人諸向勤姓名帳』(『松前町史史料編第1巻』所収)に、「御右筆」として、「上田鉄之進」の名が見える。藩での役職は祐筆あり、その身分で、ヤムクシナイに在勤した藩士か。

(2-7)「為差登(さしのぼらせ)」・・参上させて。「さし」は、接頭語で、動詞について語勢を強めたり語調を整えたりする。「さし仰(あお)ぐ」「さし受く」「さしくもる」など。

(2-7)「披見(ひけん)」・・文章などをひらいて見ること。

(2-8)「可得御意(ぎょいをうべく)」・・お考えをうけたまわりたく。

(2-8)「如斯御座候(かくのごとくござそうろう)」・・このようであります。文章の結びに使われる慣用句。

(2-8)「恐惶謹言(きょうこうきんげん)」・・(恐れかしこみ、つつしんで申し上げる意)候文の手紙の終りに記す挨拶語。「恐惶謹言」のくずし字の例は、資料4. 

(2-9)「申ノ中刻(さるのちゅうこく)」・・「申」は、およそ午後3時から5時の間の時刻。「中刻」は、一刻(いっとき=二時間)を三分した中間の時だから、「申の中刻」は、およそ午後4時頃。

(2-9)「氏家六郎左衛門(うじいえろくろうざえもん)」・・『嘉永六年癸丑御扶持家列席帳』(『松前町史史料編第1巻』所収)によると、列席は中書院。沖之口奉行、箱館奉行を勤めた藩士。

(2-10)「工藤茂五郎(くどうもごろう)」・・前掲書によると、氏家と同格の藩士。松前藩最後の箱館奉行。

(3-3)「砂原(さわら)」・・江戸期は東在箱館付村々のうち。

(3-3)「モロラン」・・室蘭。古くはモロランといい、諸蘭、茂呂蘭とも書いた。江戸期から見える地名。はじめエトモ場所のうち、のちモロラン場所のうち。

(3-7)「振合(ふりあい)」・・①その場のぐあい。都合。また、状況。②他との照らしあい。他との比較。釣り合い。バランス。

(3-7) 「鷲ノ木(わしのき)」・・渡島半島東海岸中央部の地名。江戸期の村名。東蝦夷地六ヶ場所のひとつ茅部場所のうち。榎本武揚率いる旧幕府軍の上陸地として知られる。

(4-1)「内意(ないい)」・・内々の意向。

(4-5)「老年(ろうねん)」・・年をとって心身の衰えが目立ってくる年ごろ。また、その年ごろの人。

(4-8)「和賀屋宇兵衛(わがやうへえ)」・・箱館の商人で、幕領時代からのウス場所の請負人。

(4-9)「進達(しんたつ)」・・官庁への上申などを取り次いで届けること。

(5-3)「七ツ時(ななつどき)」・・午後4時頃。

(5-4)「相聞(①あいきき・②あいきこえ)」<文法の話>・・①他動詞「聞く」とすると、連用形は、「きき」②自動詞「聞(きこ)ゆ」とすると、連用形は「きこえ」。

(5-5)「先年山焼(せんねんやまやけ)」・・文政5年閏129(1822322)の有珠山噴火のこと。熱泥流が流失し、場所請負人茂兵衛・牧士村田定五郎らの和人およびアイヌ人82名が死亡した。この噴火で、アブタ会所が大きな被害を受け、後、アブタ場所は、フレナイに移った。

(5-9)「町御役所(まちおやくしょ)」・・松前藩の役所のひとつ。正式には、寺社町奉行といい、職務は、藩内の民政全般・裁判・警察などの治安、諸税収納・産業・駅馬往来・人別など広範囲なものであった。

東蝦夷地臼山焼一件御用状写 注 P2ー1~2

(2-1)「乗切足軽(のりきりあしがる)」・・「乗切」は、戦術の一つで、敗退する敵勢の中に馬を乗り入れて分散させ追い討つ方法。「足軽」は、元来は、中世においてゲリラ・攪乱戦法に特別の役割をになった兵。足軽の活動は、直接戦場で合戦に参加するのではなく、市中の放火、敵地の水源をとめるなど敵陣の攪乱にその特色を発揮している。これを「行動が敏捷である」という足軽の文字通りの意味とを考えあわせると、単なる一般的な歩卒・雑兵の称呼ではなく、より限定された役割(忍者・乱波などの役にやや近い)をになわされた兵であった。ここでは、松前藩の足軽の役職名か。

(2-2)「然ば(しかれば)」・・接続詞。先行の事柄を一応おさめて、話題を転じるのに用いる。そうして。さて。ところで。「しからば」は、順態の確定条件を表わす。そうであるからには。だから。しかれば。

(2-2)「去ル六日頃」・・嘉永636日(西暦1853413日)。『伊達市史』など、多くの資料は、有珠山の震動は35日としている。

(2-2)「ウスアフタ両場所」・・江戸期の場所名。東蝦夷地のうち。

①ウス場所・・現在の有珠湾を中心に開かれた近世の場所名。慶長18年に松前藩主松前慶広がウス善光寺を再建したといわれ(新羅之記録)、その頃には開設されていたという(伊達町史)。往古の境界は、西側はウコソンコウシ(現在の北有珠町付近)をもってアブタ場所に、東側はヘケレヲタ川(現室蘭市陣屋町付近)をもってヱトモ場所に接していたが、18001810年代にモロラン会所(現室蘭市崎守町)が新設されてから、チマイヘツ川(現在の伊達市・室蘭市境のチマイベツ川)をもってモロラン場所に接していた(場所境調書)。元文4年頃には「臼」は松前町奉行新井田五郎左衛門の預地で、鯡数子・昆布・干鱈・膃肭臍・煎海鼠・イタラ貝などを産し、運上金は1ヵ年40両くらい、蝦夷地で一番の湊を持っていた。1780年代後半の状況を記した「蝦夷草紙別録」によると「ウス場所」は新井田浅次郎の給地で、運上金70両、場所請負人は箱館の浜屋兵右衛門であった。当時の運上屋は1戸(蝦夷拾遺)。寛政三年の「東蝦夷地道中記」によれば、ウス場所は細見磯右衛門の給地で、請負人は箱館の覚左衛門、ウスに運上屋があり、ヲサルベツ、ツバイベツの家数は2軒ほどであった。

1799年幕府は東蝦夷地を直轄地とし、場所請負制を廃止して直捌としたため、運上屋は会所と改められた。

1812年に場所請負制が復活し、ウス場所は入札により箱館の和賀屋卯兵衛(宇兵衛)が21632朱で落札し、13年から請負を実施し、以後ウス場所は和賀屋が独占した(新北海道史)。21年幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制はそのまま引継がれた。27年から50年前後も引続き和賀屋が請負ったが、53年(嘉永6年)315日にウス岳が再度大噴火し、大きな被害を受けた。「蝦夷大鑑」によれば、当時の請負人は箱館内澗(うちま)町の和賀屋宇兵衛、運上金105両は噴火のため半減され、ウス会所はヱコレマレフ(現在の稀府地区)へ移転した。善光寺は当時ヲシャマンベにあり、平野牧などの馬580匹もヱコレマレフなどに移されていた。

安政元年、幕府の蝦夷地再直轄地化により場所も引継がれ、近世末には箱館の和賀屋権一郎が運上金105両で請負人となっていた和賀屋は文久二年に7年季で改めて請負うことになり、ウス場所は運上金105両、冥加米33俵余とされた。慶応二年の請負人は箱館内間(うちま)町(内澗町)の和賀屋権一郎で、運上金105両・別段上納金143歩永年50文であったが、明治2年の場所請負制の廃止により和賀屋は罷免となり、漁場持の名目で暫定的に漁が行われた。

②アフタ場所・・近世の場所名。場所請負制の成立とともにシツカリ(現長万部町)、レブンゲ・ヲフケシ・ベンベ(現豊浦町)、アブタ(オコタラヘ)に至る広範な地をアブタ場所とよぶようになった。何度か境界の変更があったが、安政六年には、西側はシツカリ川中央(現長万部町字静狩)をもってヤムクシナイ場所に、東側は「ヲクシユンコウシ」(本名ウコソンコウシ、現虻田町字入江付近)でウス場所に接し、レブンゲ場所が存在した時には東境はヲタニクル(現豊浦町字大岸)であった。アブタ場所と称し、代々松前藩士酒井氏の世襲場所であった。

元文四年頃には「アブタ」は酒井逸学の預地であった。1780年代後半の状況を記した寛政11年、幕府は東蝦夷地を直轄地とするとともに、請負制を廃止して直捌とし、運上屋はアブタ会所と改められ、蝦夷地初の牧場経営(ウス場所とともに)が行われた。

1812年から場所請負制が復活し、アブタ場所は入札により福山(松前)の和田屋茂兵衛が30987文で落札し、翌年から請負制を実施した。その後の場所請負更新期にも和田屋が請負い、文政四年、幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制はそのまま引継がれた。文政5年閏1月にウス岳(有珠山)が大噴火し、アブタ、ウス両場所の牧士村田卯五郎父子・アブタ場所請負人和田屋茂兵衛・同支配人松之助など40余人、牧馬数百頭が死に、一千頭ほどが行方不明となった。アブタも全滅し、会所をフレナイに移し、一時はフレナイ会所ともよばれたが、やがてこの地をアブタと称し、廃村となった旧アブタをトコタンとよんだ。1827年の場所請負更新期には和田屋の息子茂吉が請負人となり、のちに茂兵衛を襲名した。1854年再度幕府直轄地となるが、49年頃には再び和田屋荘吉が請負人となっており、53年にまたもウス岳が噴火し、フレナイの地も被害を受け、アブタ会所はレブンゲを仮会所にして一時避難し、運上金も減額された。54年からは請負人が松前唐津内(からつない)町の岩田屋金蔵となり、しかし1855年にアブタ・レブンゲ場所の請負人として再び和田屋茂兵衛(荘吉)が登場し、運上金は両場所で75両。和田屋茂兵衛のアブタ場所請負は元治2年頃まで続いたが、慶応2年の盛岡藩支配警備時には箱館大(おお)町の米屋佐野孫右衛門(クスリ場所・レブンゲ場所の請負人)が請負人となっていた。明治2年の請負人は米屋の親戚筋にあたる函館の泉州屋藤兵衛に代わっており、場所請負制の廃止による開拓使への場所返上も泉州屋が行った。

東蝦夷地臼山焼一件御用状写 注 P1

東蝦夷地臼山焼一件御用状写 注                         

 

(有珠山噴火の歴史)・・資料1『伊達市史』

(嘉永6年の噴火)・・資料2『伊達町史』

(1-1)「嘉永六癸丑年(みずのと・うし どし)三月」・・文政4127日、幕府は、蝦夷地全島を松前藩の還与し、松前氏は、復領する。その後、幕府は、安政2222日、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上知させ、箱館奉行の管轄とする。したがって、嘉永6年の蝦夷地は、松前復領の時代である。

(1-1)「東蝦夷地(ひがしえぞち)」・・松前藩は、藩域を独特の地域区分をした。福山城下を中心に東西各25里、東は亀田付近、西は熊石にいたるあいだを松前地(和人地ともいう)、その奥を蝦夷地とし、亀田から東を東蝦夷地、熊石から西を西蝦夷地とした。和人は松前地のみ居住を許され、それぞれ亀田・熊石に番所をおいてとりしまりをした。

 和人地は、幕府直轄時(寛政11年)に東は山越内まで拡大され、東西蝦夷地の奥を知床半島まで境とした。また、はじめは海岸線だけのことであった区分を内陸部までにもおよぼし、知床半島から蝦夷地を横断してイザリ(現恵庭市)を通り、熊石にいたる線で分けられることになった。(この項、榎本守恵著『北海道の歴史』参照。資料3図とも) 資料3東西蝦夷地の境界
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 (1-2)「臼(うす)」・・ここでは有珠山のこと。洞爺湖の南に位置する活火山。最高点の標高は733メートルで、壮瞥町に属する。有珠は、古くは、宇寿、宇須、臼などとも書いた。地名の由来には、アイヌ語のウシヨロ(入江などの意)がウスになったという説、当時東方にあった山が臼に似ているため、あるいは入海が臼形に似ているためなどによる説がある。

 <漢字の話>「臼」と「𦥑」・・「臼」は6画で、7画の「𦥑(キョク。左右の手で指を合わせる)」は別字。

 解字は、U字型にえぐってくぼませたさまを描いたもの。舂(シュウ。つく)、陥の右側(穴にはまる)、插(ソウ。挿の旧字。穴にさしこむ)など、穴や、うすをあわらす。

(1-2)「山焼(やまやけ)」・・火山の噴火活動のこと。

(1-2)「一件(いっけん)」・・ある事件に関する意見書、聴取書、報告書などの書類をひとまとめにして綴ったもの。一件記とも。

(1-2)「御用状(ごようじょう)」・・御用の書状。主君あるいは官府の公的書状。

(1-2)「写(うつし)」・・書類などの控えとして、そのとおりに書きとった、または、器械で複製した文書。謄本。副本。

(1-印について)

 ①「函館図書館蔵品 大正14.3.1.受入」(丸印)・・この「函館図書館」は、明治4231日、函館公園内に開館された「私立函館図書館」(初代館長は泉孝三)のこと。昭和21130日、市立函館図書館に移管された。

 ②「蛯子健太郎寄贈」・・蛯子健太郎は、蛯子与太郎の長男。与太郎は、明治1311月に結成された書籍購入・回覧のための組織「思齊会」(函館図書館の前身)の幹事(代表)だった人物。

 ③「函館図書館旧蔵書 昭和三年十一月九日引継」(長方形の印)・・「函館図書館旧蔵書」とは、旧私立函館図書館所蔵書のこと。市立函館図書館は、昭和3717日に函館公園内に開館した。この角印は、「私立函館図書館」蔵書が、市立函館図書館に引き継がれたことを示している。

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