森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

道立文書館古文書自習プログラム注

上級14(1)注

(欄外)「郵便より来(きたる)」・・北海道における郵便業務の開始

  ・明治46月・・開拓使、郵便掛設置。

  ・同48月・・函館郵便役所設置。

  ・同471日・・函館と東京間の郵便がはじまる。(往復回数も月18回。9月には郵便逓送のために函館青森間に汽船の運航を開始)

  ・明治59月・・開拓使、渡辺仙輔(津軽通54=現南4西5)をして札幌郡郵便取扱人に任命。

  ・同5101日・・函館から札幌まで毎月6回郵便業務開始。(東回りで函館から室蘭を経て札幌へ、札幌からさらに小樽へ。西回りで函館から江差、福山を経て後志国久遠までが開設)

  本道の郵便事業は、駅逓を利用して本州に遜色のない速さで広がり、7年には森から長万部・岩内を経由して小樽へ、8年には苫小牧より浦河を経て根室に至る路線、銭函から留萌を経由して苫前までの路線が設置され、9年にいたって、苫前から宗谷へ、宗谷からオホーツク海を下り紋別まで、紋別からさらに網走、舎利を経て根室国厚別までの路線が開設され、浦河・根室線に連絡して、ここに全道一周路線が完成した。

  ・明治81月・・郵便役所、郵便取扱所が郵便局と改称、12年末までには85局を数えるまでに至った。(この項『新北海道第3巻』参照)

 <郵便の意義>そもそも「郵」とは、古代中国において「宿場」のことであった。また宿場を通じて人馬により文書などを継ぎ立てたから「伝達」の意味にも用いられた。さらに宋(そう)代以後になると、公文書を伝達する方法として駅逓(えきてい)と郵逓との区別が設けられた。駅逓はその字のとおり、騎馬によって送達される。郵逓は歩逓ともよばれ、人間の脚によって送達した。そこから「郵」は、人間が歩いて、あるいは走って、文書を伝達するという意味をもつようになる。

  日本の江戸時代において、幕府御用の継飛脚(つぎびきゃく)は、ひたすら走って公用文書を送達した。民間で発達した町飛脚は、遠路の場合には馬に乗ったが、ゆっくり歩き、また近距離の場合には人間の脚で送達した。そこから漢学者のなかには、飛脚による送達を「郵便」と表現する者もあった。明治4年、近代郵便の制度が発足するにあたり、立案者である前島密(ひそか)は、こうした沿革を踏まえて「郵便」の語を採用したわけである。当時は交通機関が発達していなかったから、当然のことながら、差し出された文書は人間の脚によって送達され、配達されたのであった。

 <漢字の話>「郵」・・部首は、「邑(むら)」部。「邑」+「垂(地の果て、辺境)」で、もと国境に置いた、伝令のための屯所(とんしょ)のこと。

 (欄外)「正院(せいいん)」・・明治初年の政府の最高官庁。廃藩置県直後の明治4729日、官制改革によって太政官職制及び事務章程が制定され、太政官に正院・左院・右院が設置された。正院には太政大臣・納言・参議・枢密正権大少史などが置かれ、式部・舎人・雅楽の三局も正院に所属するものとされた。このように、正院は政府の最高政策決定機関であった。その後、何回か機構が改正されたが、明治10118日、正院の称は廃止となった。

 (1-1)「西村正六位(にしむらしょうろくい)」・・旧佐賀藩士。明治210月開拓少主典に任じられ、明治7年の本文書当時は、開拓少判官。開拓使官員表は、資料1参照。

 (1-2)「調所広丈(ずしょひろたけ)」・・旧薩摩藩士。明治2年の箱館戦争には、黒田清隆の配下として参戦。

  同5年正月開拓使8等出仕に任じ、本文書当時は開拓幹事。のち開拓大書記官、札幌農学校校長、札幌県令となる。

 1-3)「小牧昌業(こまきまさなり)」・・旧薩摩藩士。本文書当時七等出仕。

 1-2)「松本大判官(まつもとだいはんがん)」・・旧庄内藩士。明治28月開拓判官に任じ、根室在勤を命ぜられる。「大判官」は、明治58月の官等の改定で、これまでの判官を大判官、中判官のふたつに分離されてできた官等。

 (1-46)「南方に当り・・噴火と相見え」・・松本は、開拓使本庁舎から、樽前噴火を見ている。本庁舎は、明治61029日に落成した木造2階立てで、屋上に8角の展望層があり、高さは28メートル。

 (1-5)「閃爍(せんしゃく)」・・きらめき輝くこと。光り輝くこと。また、そのさま。

   *「電飛雷撃、閃爍震鳴、天空に迸散して止む」(『明六雑誌‐一七号』所収「地震の説」津田真道)

 (1-5)「全(まった)く」・・自分がこれから示す判断、いま相手から聞いた判断が、嘘や誇張を含まない真実であることを、強める気持を表わす。ほんとうに。実際に。

 (1-67)「大坪権大主典(おおつぼごんだいしゅてん)」・・明治5825日から大坪半(なか)権大主典。旧幕榎本軍の五稜郭占拠の際、清水谷箱館府に随行し、青森に脱出している。資料2

 (1-9)「可申入候(もうしいるべくそうろう)」<文法の話>・・動詞「申入(もうしい)る」の終止形「申入(もうしい)る」+助動詞「べし」の連用形「べく」+動詞「候(そうろう)」の連体形「候(そうろう)」

  *助動詞「べし」は、動詞の終止形に接続(ラ変動詞は連体形)

 1-9)「次官殿(じかんどの)」・・黒田清隆開拓次官。黒田が開拓長官に任ぜられたのは、明治782日で、本文書の時期はまだ次官だった。なお、開拓長官はいなかったから、実質的には、開拓使のトップであった。

 (2-1)「当郡(とうぐん)」・・勇払郡。北海道南西部にあり、太平洋に面する郡。旧胆振(いぶり)国に属し、現在胆振支庁および上川支庁管内に分属。明治28月設置。道央トマム山の高原と泥炭地を含む原野と砂丘地から成り、太平洋に臨んでいる。明治916村を擁していたが、昭和23年苫小牧市が成立し、平成大合併を経て現在は、厚真(あつま)町・むかわ町・安平(あびら)町(以上胆振総合振興局)、占冠(しむかっぷ)村(上川総合振興局)の31村から成る。

 (2-5)「慎定(ちんてい)」・・「慎」は、「鎮」。力でさわぎをおさえしずめること。また、しずまりおさまること。ちんじょう。

 (2-67)「弥増(いやまし)」・・(副詞)いよいよますます。一段と。

 (2-13)「黒沢大主典(くろさわだいしゅてん)」・・静岡県出身士族。明治5825日から大主典。旧幕榎本軍の鷲の木上陸の際、新政府軍の一員として、峠下に出陣している。資料3

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中級14 注

(4-1)「危ふ(アヤウ)かり」・・ク活用形容詞「危ふし」の補助活用連用形「危ふかり」。危険だ。心配だ。不安だ。

(4-1)「人足(にんそく)」・・貨物の運搬や、普請などの力仕事に従事する労働者。人夫。なお、文書館の釈文では、「人主」と、「足」を「主」としているが、誤りか。『くずし字用例辞典』P1047

(4-2)「聲(こえ)」<漢字の話>・・影印は、「声」の旧字体の「聲」。部首は「耳」部。常用漢字では「聲」の冠の一部「声」と簡素化してしまった。部首も「士」部になってしまった。

「聲」の解字・・冠の左側の「声」は、石居たをぶらさげてたたいて音を出す、磬(けい)という楽器を描いた象形文字。冠の右側の「殳」は、磬をたたく棒を手に持つ姿。「聲」は、「磬の略体+耳」で、耳で磬の音を聞くさまを示す。広く、耳をうつ音響や音声をいう。

<参考>「聲」の草書体をひらがな「せ」として使用することもある。『くずし字用例辞典』P864P1261

(4-2)「た()つる」・・下2段活用「立つ」の連体形。本来なら、本文では、「立つ」と終止形にすべきところ。しかし、連体形の「たつる」になっているから、「たつる」の後に、「也(なり)」とか、「由(よし)」などが省略されていると見るべき。

(4-4)「もの凄(すさま)じき」・・なんとなく趣がない。なんとなく興ざめである。なんとなく荒涼としている。「もの」は、接頭語。

(4-4)「欠(かけ)来り」・・はやく走り来て。「欠」は、「駆」の当て字。

(4-12)「公用(こうよう)の威光(いこう)」・・官(国家)の権威。この項は、二重否定で、官の権威のおかげで命が助かった。

(4-15)「陸(くが)」・・(「国処=くにが=」の変化した語)海、川、湖、沼などに対して、陸の部分。陸地。

(4-15)「木村(きむら)」・・寛政3(1791)4年(1792)にかけて、幕府が蝦夷地で、アイヌ救済を名目に直営で交易を実施した。文書の著者、串原正峯は、宗谷でこれを行ったが、その一行のひとりに、小人目付・木村大蔵(大助とも)がいる。

(5-1)「水練(すいれん)」・・泳ぎ。

(5-4)「前(まえ)びろ(広)に」・・「前広」は、以前。「まえびろに」「まえびろから」の形で、前もって、あらかじめ、かねてよりの意に用いる。

(5-4)「日吉丸(ひよしまる)」・・幕府の御救交易に使用された御用船。寛政4年(1792524日、宗谷へ向かう途中、忍路で津波に遭遇し破船した。

(5-4)「舟印(ふなじるし)」・・船印。近世の船に広く使われた標識で、船体・帆・幟などに船主または雇主を明示するためのもの。廻米・廻銅用に幕府が傭った廻船につけた「日の丸船印」はその好例だが、本来は戦国時代の水軍が所属大名の印としてつけた標識が次第に派手となり、江戸時代には幕府・諸藩の軍船は帆に家紋または色わけの意匠、船体各部に銅製金鍍金の家紋をつけ、矢倉上にも特別に装飾的印を立てて船印と称し、また多数の幟・吹流し・しない・四半・幕などの飾り物で装飾し、それら全体を総称して船飾りと呼んだ。こうした船印により参勤交代で航海する諸大名の大船団も一見して何藩と識別できた。一方、民間廻船は船主の標識として帆に黒(稀に赤)の縦・横・斜めの線かそれらを組み合わせた簡素な印をつけたが、家紋的なものは大名船との混同を避けて使わなかった。その代り水押側面に船主の船印つまり屋号の紋章をつけ、船名幟の下部に同じ印を染める程度であった。この船印に対して帆の場合は別に帆印と呼んで区別することが多い。

(6-5)「骨柳(こり)」・・行李。竹、または柳などで編んだ、物入れ。小型のものは弁当箱にもした。後には、普通、衣類などを収納するものをいう。

(6-6)「胴乱(どうらん)」・・袋物の一種。江戸時代初期、鉄砲足軽の早合(はやごう)という火薬入れにこの名称をつけたのに始まるといわれる。のち胴乱はたばこ入れ、銭入れとして用いられた。形態は小形の長方形の革製品であったが、これが大形化してなんでも入れられる携行具となり、これを大胴乱といった。江戸末期になって、仏教思想の影響から四つ足動物を殺すことが非道とされ、胴乱の材料にも、木材、経木、コリヤナギ、織布などが用いられた。明治に入ると、外来文化の影響を受けて鞄(かばん)類が注目されるようになり、手提げ鞄を手胴乱、肩に掛けるものを肩掛け胴乱とよんだ。

(6-12)「曹谷(そうや)」・・宗谷。

(6-18)「別(べつし)て」・・特別に。とりわけて。格別に。ことに。

 

中級13「ある箱館奉行所同心の箱館戦争」

(1-1)「使掌(ししょう)」・・開拓使の最下級の職。受付・守衛・設営その他の任に当たった。

(1-2)「歳給米(さいきゅうまい)」・・「歳給」は、毎年の給金。一年間の収入。*杜詩続翠抄〔1439頃〕一三「給は歳給、月給、日給としてもあれ」。

(1-45)「昨辰年壬四月(さく-たつどし-うるう-しがつ)」・・慶応4年閏4月。明治改元はこの辰年98日。

(1-4)「壬(うるう)」<漢字の話>・・影印は、「閏」の異体字「壬」。しかし、中国の字書「字彙」に、「閏」は、「壬誤(壬の誤り)」とある。なお、「閏」の解字について、『漢字源』は、「門」+「王」で、暦からはみ出した日には、王が門の中にとじこもって政務をとらないことをあらわす。定数からはみ出る、不正規なものの意。としている。語源については、「潤」を文字読みしたウルヒから生じたものか、とする説がある。

 <閏年について>太陰太陽暦(旧暦)で、月の運行による暦年が太陽の運行によって定まる季節から大きくずれないようにするために、12ヵ月の年の間に時々13ヵ月の年をおく。その余分の月を閏月と呼び、たとえばそれが5月の次にあれば閏5月と呼ぶ。1朔望月(約29.53日)の12倍は1太陽年(約365.24日)より10日余り足りないので、平均32.3ヵ月に1閏月をおく必要が起る。置閏法は197閏が古代諸国に広く行われ、その置く場所は、年の半ばと年末とがあったが、のち中国では中気(24節気のうち冬至・大寒・雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪を中気という。中気と中気との間隔は約30.43日)を含まない月を閏月と定めた。日本に行われた暦では、元嘉暦だけ197閏であったが、儀鳳暦以後も長くそれに合わせる努力がなされた。この置閏法により、閏月は推算により自動的に決した。

(1-5)「清水谷殿(じみずだに-どの)」・・清水谷公考(しみずだに-きんなる)。幕末-明治時代の公家、華族。弘化296日生まれ。慶応4年箱館裁判所総督、ついで箱館府知事となる。同年秋、榎本武揚(えのもと-たけあき)ひきいる旧幕軍の来襲で青森へ避難。のち反撃する政府軍を指揮して箱館を奪回し、戦後処理にあたる。一時、開拓使次官をつとめた。明治151231日死去。38歳。

(1-5)「下向(げこう)」・・都から地方へ行くこと。くだること。清水谷は、慶応4年閏45日、箱館裁判所総督に任命された。彼が京都を出発し、蝦夷地に向け出発したのは、慶応4年閏414日のこと。敦賀から長州船・華陽丸に乗船し、同月26日箱館に着いた。なお、箱館への航行中の閏424日に、箱館裁判所は、箱館府と改称され、清水谷は、箱館府の知事に任命されている。

(1-56)「幕府より御引継」・・『函館市史』より、その引継の経過を述べる。

 ・慶応4年閏410日・・新政府の官吏・吉田復太郎、村上常右衛門、堀清之丞(のち基と改名)の3名が先触れ事前調整役として箱館へ派遣され、10日、旧幕府箱館奉行杉浦兵庫頭に面会(箱館の本陣宿で)、箱館裁判所が設置され総督、副総督が近日中に下向する旨を伝え、同時に旧幕府の金穀、倉廩、器財等の引渡封印、下僚の箱館裁判所への任用等引継手続についても伝達した。ここに初めて新政府の意志が直接旧幕府箱館奉行所に伝えられた。

 ・同11日・・杉浦兵庫頭は、近日中に箱館裁判所総督下向する予定と、箱館を総督へ引継ぐことになった旨を市在に触れ出し、自身は五稜郭の役宅を出て組頭宮田文吉の屋敷(文吉は山村惣三郎宅へ移り同居)に引き移り、吉田、村上、堀の3人が立ち会いの上、金穀武器蔵に封印をした。

 ・同26日午後、杉浦奉行と新政府内国事務局判事小野淳輔との間で五稜郭管理引継ぎを終え、五稜郭の門番も松前、南部、津軽3藩の手に移り、番士も交代、船で箱館港に入っていた清水谷総督一行は、称名寺で休息後夕方遅く五稜郭に入った。

 ・同27日、空き役宅に仮役所を移していた杉浦兵庫頭は五稜郭へ出頭して清水谷総督と対面。杉浦が作成した目録引渡しは51日に行うことに決定、役々の去就等はその後の話し合いでということになり、引渡し後も当分の間は、江戸に帰ることを願い出ている者までも手助けをすることに決定。

 ・51日、杉浦兵庫頭は熨斗目麻上下姿で五稜郭に出頭、引渡目録13冊を清水谷総督へ手渡し、一ノ間に着座していた総督は一覧の上これを受取り、引継式は終了した。清水谷は、五稜郭において箱館裁判所の開庁を宣言した。

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初級14「柳田藤吉から開拓使根室支庁あて願書

(1-3)「仕込米(しこみまい)」・・準備米。

(1-4)「澗(ま)」・・河口を利用した河港と区別して、入江や島かげを利用した港をいう。日本海岸から北海道地方にかけて使われることが多い。掛り澗。間湊。

(1-4)「図合船(ずあいぶね)」・・江戸時代から明治期にかけて、北海道と奥羽地方北部でつくられた百石積以下の海船の地方的呼称。小廻しの廻船や漁船として使われた。船型は水押付の弁才船系統であるが、百石積以上の廻船を弁才船として区別するため特に呼ばれるもの。『初航蝦夷日誌』(松浦武四郎著)の凡例に「図合船七十五石より九十五石迄之船を云也。此船近場所通ひに多く用ゆ」とある。

(1-5)「越年(おつねん・えつねん)」・・年を越すこと。「エツ」は漢音、「オツ」は呉音。

(1-5)「為積入(つみいれさせ)」・・積みこませ。

(1-7)「囲船(かこいぶね)」・・長期にわたり使用しないため、陸に引き上げて筵(むしろ)、苫(とま)などで囲い、腐朽しないようにしてある和船。

(1-11)<欠字について>・・「当 御支庁」の「当」と「御」の間が1字あけてあるが、これは、「欠字」といって、古文書の趣きの特徴のひとつ。尊敬の体裁として、尊人などを書く時、敬意を表するため、そのすぐ上を1字か2字分あけて書くこと。

(1-11)「支庁(しちょう)」・・ここでは、開拓使根室支庁のこと。支庁は都・道・府・県庁に属する出先機関の一つで、北海道では市以外の全域に、その他の都県では交通不便の地などに設けられ、本庁まで行かなくても用が足りるようにした役所。

北海道では、明治政府によって置かれた開拓使の出先機関として、明治5914日に5つの支庁(函館、根室、浦河、宗谷、樺太)が設けられたのが始まり。その後、明治30年、それまでの郡役所所在地をもとにした19支庁が設置され、さらに明治43年、鉄道開通に伴い交通事情が改善されたことから、支庁の一部統合により14支庁とされ、このときに14支庁体制がほぼ形づくられた。平成2241日に、支庁は総合振興局となり、支庁はなくなった。

 <根室の役所名の変遷>

 ・明治2.10.9・・判官松本十郎、「根室開拓使出張所」を開設。

 ・明治3.6.17・・花咲、根室、野付の3郡を東京府に割譲。

 ・明治4.5.-・・「根室開拓使出張所」を「根室出張開拓使庁」と改称。

 ・明治5.9.14・・「開拓使根室支庁」設置。本文書は、この間の時期。

 ・明治15.2.8・・開拓使廃止、根室県設置。

 ・明治19.1.26・・北海道庁設置。根室支庁を置く。

(1-12)「野附郡(のつけぐん)」・・明治28月から現在までの根室国および根室支庁管内の郡名。明治2815日設置。旧ネモロ場所の一部が郡域となる。北海道東部、根室国の中央部南寄りに位置し、東は根室湾および根室海峡に面し、南は根室郡、北は標津(しべつ)郡、西は釧路国川上(かわかみ)郡に接する。現在は別海(べつかい)町一町。郡名は松浦武四郎の提案により「野付(のつけ)郡」とされた(「郡名之儀ニ付奉申上候条」松浦家文書)。明治28月開拓使の所管となり、同3617日から同年閏109日まで東京府の管轄となり(新北海道史・法令全書)、その後開拓使根室出張所(根室出張開拓使庁を経て開拓使根室支庁となる)の管轄となった。同53月根室支庁管内の村名が定められた(「事業報告」第一編)。ベツカイ、ヒライト、ノツケ(現別海町)、チャシコツ(現標津町)の4ヵ村で、同85月の根室支庁布達(開拓使根室支庁布達全書)により仮名書きの村名が漢字に改められ、別海村・平糸(ひらいと)村・野付村・茶志骨(ちやしこつ)村となった。ただし「根室国地誌提要」では帆仁恋(ほにこい)村(現標津町)を含み5ヵ村となっている。この間、明治67月に別海村に開拓使根室支庁野付出張所が置かれ、野付・標津・目梨(めなし)の3郡を管轄した。同86月同出張所は廃止され、当郡は支庁直轄となった(「事業報告」第一編)。

 野付郡は、かつては、茶志骨村、別海村、平糸村、野付村があったが、現在は、11町で、別海町のみ。

 <漢字の話>「附」と「付」・・「附」は、「付」の旧字体ではなく、別字。両方とも常用漢字になっている。「付」と「附」の元来の意味では、「付」は「あたえる(付与・交付)」、「附」は「つく(附着・附録・附近・寄附)」であったが、現在ではいづれの場合も「付」で書かれることが多い。ただし、官庁・法律の用語で「附属」「附則」などには、「附」を用いる。たとえば、「北大附属図書館」など。しかし、新聞では、「附」を用いず、「付」は22年、市制・町村制の施行により廃止された。

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道立文書館古文書自習プログラム 上級6の5 『樺太概覧』その2

上級6~⑤注                                 

 

(1-1)「雑居規則」・・慶応3年に、日本とロシアの間で仮調印された仮条約。樺太における日露国境画定のためにロシアに派遣された箱館奉行小出秀実と目付石川利政ロシア外務省アジア局長ストレモウホフとの間で交渉を行った。旧歴2月25日(西暦3月30日・露暦3月18日)にサンクスペテルブルクにおいて仮調印されたが、日本は条約の一部条項の承認を拒絶し、その旨ロシア領事に通告した。結局、樺太における国境を画定することはできず、樺太はこれまで通り両国の所領とされた。

日本側が拒否した内容は、樺太全島をロシア領としたこと(第1条)、ウルップ島、チルポイ島、ブラツチルポイ島、ブロトン島 を日本領としたこと(第3条)であった。

結局、樺太の国境画定は、明治8年における、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結まで、両国間に懸案として残された。

(1-4)「ある」<文法の話>・・ラ変動詞「あり」の連体形。住んでいる、暮しているの意。もともとは、「昔、男ありけり」(『伊勢物語』)などのように、人・動物も含めてその存在を表したが、現代語では、動きを意識しないものの存在に用い、動きを意識しての「いる」と使い分けているから、本文書の「島中にある両国人民・・」の「ある」は、違和感がないでもない。が、人でも、存在だけをいう時には「多くの賛成者がある」とか、「我思う。故に我あり」などのように「あり」「ある」ともいう。

(1-5)「慮(おもんばか)り」・・「オモヒハカリ」の撥音便(はつおんびん。「に」「ひ」「び」「み」「り」が鼻音になること。ひらがなでは「ん」で表す)。よくよく考えて、思いめぐらしての意。

(1-5)「永世(えいせい)」<漢字の話>・・「世」を「セ」と読むのは、漢音。「世界」「世帯」など。「セイ」は呉音。「世紀」「世嗣」など。「永世」の「世」は、呉音で「セイ」と読む。

(1-7)「議定(ぎてい・ぎじょう)」・・評議して決めること。「テイ」は漢音。「ジョウ」は呉音。

(1-7)「大君(たいくん)」・・江戸時代、外国に対して用いられた徳川将軍の称号。中国の『易経』に、みえるもので、いずれも天子を指す。この称号がわが国で外交文書に使用されたのは、徳川3代将軍家光の時、寛永13年のことで、寛永元年の朝鮮国王への書翰中の将軍署名「日本国源家光」に対馬藩が独断で「王」を加えて(「日本国王」)送ったことが原因であった。そこで「日本国大君」の称号に変更し、寛永13年の朝鮮からの国書にはじめてこの文字を使用させた。これが6代将軍家宣の時、新井白石の意見により一時中止され、「日本国王」と改められた。中国では大君は天子の称であり、朝鮮では王子の嫡子の称であるというのがその理由であった。しかし8代将軍吉宗は日朝外交の体例を五代綱吉の時のものに戻したから、以後、再び「日本国大君」の称号が用いられ、幕府滅亡に至るまでは欧米諸国との外交文書にもこの称号が使用された。本文書当時の「大君」、つまり、徳川将軍は、15代慶喜。

(1-78)「日本大君之使節」・・いわゆる小出使節団。慶応2年、幕府は、樺太国境画定交渉の遺露使節団の代表正使として小出秀実外国奉行兼箱館奉行をロシアへ派遣した。副使はのちに最後の北町奉行となる石川利政である。同年1112日、横浜を出発、1212日、ペテルブルク着、1230日から翌年27日までに、ロシア外国事務参政アジア局長スツレーモフと9回にわたり交渉した。225日、日露間樺太島仮規則が仮調印された。途中、プロイセンのオットー・フォン・ビスマルク宰相やナポレオン3世と謁見し、第2回パリ万国博覧会に参加している。このとき使節団に随行したのが、榎本武揚、山川浩志などである。箱館奉行同心・志賀浦太郎もロシア語通訳として随行している。

(1-8)「サンクト ヘチュルブルク」・・サンクト・ペテルブルク(Sankt Pjetjerburg )。ロシア連邦北西部、フィンランド湾奥のネバ川河口にある都市。1703年、ピョートル大帝によって建設された旧ロシア帝国の首都。1914年ペトログラード、24年にレニングラードと改称されたが、91年現名称に戻った。モスクワに次ぐロシア第2の都市で、造船・兵器・繊維などの工業が盛ん。冬宮・エルミタージュ美術館などがある。ペテルブルク。ペテルスブルク。

(1-11)「シレタトル」・・長官。Secretory

(1-11)「タニーソウエッニク」・・ロシアでは、名前は、名前全体を言う正式名としては、「名・父称・姓」の三つをこの順に並べて言うから、(例 アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフ=カラマーゾフ家のフョードルの息子アレクセイ、の意。)ここでいう、「官名」は、ロシアの「父姓」のことか。

(1-12)「スツレモーホフ」・・Stremauhovストレモウホフとも。彼は、明治8年の樺太・千島交換条約締結の際にも、ロシア側代表であった。

(1-12)「報答(ほうとう)」・こたえること。返事。

(1-12)「巨細(こさい・きょさい)」<漢字の話>・・くわしいこと。「巨」を「こ」と読むのは、慣用音(日本で昔からつうようしている字音)。「巨燵(こたつ)」、「巨摩(こま。山梨県の郡名)」など。「巨」は、万葉仮名(乙類)の「こ」でもある。

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