森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

北海道史研究メモ

幕府の蝦夷地直轄・背景・経過と松前藩の代地・移封及び復領

幕府の蝦夷地直轄・背景・経過と松前藩の代地・移封及び復領
(わかりやすく一覧にした)

Ⅰ.【前期幕府直轄】

1.東蝦夷地ウラカワ以東の仮上知・・寛政11年1月16日
<背景と経過>
・寛政元年クナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起、同4年ロシア使節ラックスマンの来航
・寛政8・9年ブロートン指揮する英国船プロビデンス号内浦湾へ来航・・幕府は、蝦夷地対策の具体的行動を迫られた。
・寛政10年3月、目付渡辺久蔵らに蝦夷地巡見を命じる。11月帰府、幕府に詳細を報告。
・幕府、蝦夷地直轄の方針を固め、同年12月、書院番頭・松平忠明に「蝦夷地御用」を命じる。
・寛政11.1.16・・幕府、東蝦夷地を当分の間試みに上知する旨松前藩に通達。
・寛政11.2.11・・上知の期間を7ケ年、範囲をウラカワよりより知床及びクナシリまで)試みに仮上知する旨、松前藩に通達。

2.シリウチ川以東の追上知・・寛政11年8月12日
・同年6月・・松前藩、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知と、仮上知の替地を内願。
<背景>
・幕吏の松前藩支配下の東蝦夷地通行の負担が増大し、東蝦夷地の領有がかえって負担になるという状態にみまわれた。
・いずれ箱館を含む和人地も上知の対象となることを予測し、少しでも有利な条件を手に入れるため、先手を打ったという見方もある(松前町史)
・寛政11年.8.12・・幕府、シリウチ川以東の追上知を認める。
・同年.9.28・・幕府、代地5000石の地として武蔵国埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2年7月まで約3か年間、飛地として領有。
<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>
・中閏戸(なかうるいど)村、根金(ねがね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)
・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実ケ谷(さねがや)村(現埼玉県南埼玉郡白岡町のうち)
・久喜村(くき)、所久喜(ところくき)村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下早見(しもはやみ)村、樋口(ひくち)村(現埼玉県久喜市のうち)
○享和2.2.23・・幕府、蝦夷地奉行を新設。
○同年.5.10・・幕府、蝦夷地奉行を箱館奉行と改称。

3.東蝦夷地の永上知・・享和2年7月24日
<背景と経過>
・箱館奉行、幕府に対し、松前藩が蝦夷地警備に何ら力を注がないとして、
①「蝦夷東西一円永上知」
②「東蝦夷地のみ永上知、西蝦夷地は松前家に任せ、成績があがらなければ、残らず上知」の二案を建議。
・享和2年.7.24・・幕府、東蝦夷地の仮上知を改め永上知とする旨、松前藩に申渡す。永上知の代価として、年々3500両ずつ下付し、仮上知の代価として支給してきた武蔵埼玉郡のうち12ケ村の所務を廃止。
・松前藩の財政は、大きく圧迫された。

4.蝦夷地一円の上知・・文化4年3月22日
<経過>
・文化4年.3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げ、新規9000石下付され。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前氏の梁川移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。
<新領地>
・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余
・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十沢(いさざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余
・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下]4373石余
・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下]323石余
・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下]3626石余
・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下]1300石余
総領知高 18,626石余
○文化4年.10.24・・幕府、奉行所を箱館より福山に移し、松前奉行とする。

Ⅱ.【松前家の復領】・・文政4.12.7
○文政4.12.7・・幕府、蝦夷全島を松前氏に還与する。
<背景>
・表面の理由は、幕府の蝦夷地直轄の結果、取締、アイヌ人撫育、産物の取捌きなどが行き届くようになり旧家格別の儀をもって、むかしのとおり松前蝦夷地を領有させる。
・その裏面は、水野忠成(ただあきら)が、松前氏の運動をききいれたことがある。水野忠成のそうさせたのは、当時の北辺防備意識の衰退があった。

Ⅲ.【後期幕府直轄】・・安政2.2.22
○嘉永7.6.26・・幕府、箱館および同所より6里四方を上知。
○同年.6.30・・幕府、箱館奉行を置く。
○安政2.2.22・・幕府、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上  知させ、箱館奉行の管轄とする。
<背景>
・嘉永6年7月、ロシア使節プチャーチン来朝、境界の決定と和親通商を請求。
・同年8月、ロシア兵、クシュンコタン占拠。
・嘉永7年3月、日米和親条約締結。箱館開港が決まる。

○松前藩・・福山城下および東部木古内村以西、西部乙部村以南は、松前藩として残った。
・松前藩、奥州伊達郡梁川、出羽国村山郡東根(現山形県東根市)合わせて3万石を与えられた。また、出羽国村山郡尾花沢1万4000石を込高として預り地となった。

Ⅳ.【松前地の一部返還】・・元治元年11月19日、乙部~熊石の8ケ村が返還される。
○元治元年(1865)7月7日・・松前崇広(たかひろ)(松前藩12代藩主)、老中格陸海軍総奉行に就任、同年11月10日、老中となった。
○同年11月19日、乙部~熊石の8ケ村が返還された。

◎幕末の蝦夷地は、
①東部・木古内村以西、西部・関内村以南が松前家所領
②それ以外は、幕府直轄領

附1【明治維新と松前】
<版籍奉還まで>
・慶応4.9.1・・松前藩、館(たて)村(現桧山郡厚沢部町城丘)に築城開始
・明治元年10.25・・完成
・同年11.3・・松前藩13代徳広、館城に入城
・同年11.11・・徳広、榎本軍の襲撃で、館城を出る
・同年11,19・・関内から津軽へ逃れる
・同年11,29・・徳広、弘前で死去
・明治2.1.9・・修広(ながひろ)14代襲封(しゅうほう)
・同年4.9・・新政府軍と松前藩兵(修広)、乙部上陸
・同年4.17・・福山奪還
・同年6.24・・修広、版籍奉還。松前藩は、館藩と称し、修広、館藩知事に任命される。
 所領は、渡島国福島、津軽、爾志、檜山の4郡。(明治14.7.8福島郡と津軽郡は、合併し松前郡と改称)
<開拓使移管まで>
・明治4.7.14・・廃藩置県で、館藩は、「館県」となる。
・同年9.9・・館県、「弘前県」に併合(9.23・・弘前県は、「青森県」と改称)
・明治5.9.20・・「青森」県の渡島国4郡(旧松前藩領)を開拓使に移管。

附2【明治維新と箱館・蝦夷地】
・慶応4.4.12・・新政府、箱館奉行所を接収、箱館裁判所を設置。
・同年閏4.24・・「箱館府」と改称。清水谷公考(きんなる)、府知事となる。
・明治元年10.25・・清水谷、箱館を退去、青森へ移る。
・同年12.15・・榎本軍、全島平定
・明治2.5.11・・政府軍、箱館進撃
・同年5.18・・榎本軍降伏
・同年7.8・・開拓使設置(7.24・・箱館府廃止)8
・同年8.15・・蝦夷地を北海道と改称し、11国86郡を置く。
・同年9.25・・東久世長官、箱館着。
・同年9.30・・箱館に開拓使出張所を開庁。


【主な参考文献】
・『新北海道史』
・『新北海道史年表』
・『松前町史』

「カラフト・千島の歴史と日露関係」

講座:「カラフト・千島の歴史と日露関係」
日時:2009年5月22日(金)
場所:札幌市社会福祉総合センター(札幌市中央区大通西19丁目)
入場無料、予約不要(直接会場へ)

ムラヴィヨフ哨所とロタノスケ居小屋

<太
img20090331.jpg
>ムラヴィヨフ哨所とロタノスケ居小屋
絵図は、北海道大学付属図書館所蔵「寅年北蝦夷地クシュンコタン魯人造家一条」

「ロタノスケ」は、クシュンコタンのムラヴィヨフ哨所の副官海軍中尉ルダノフスキー

【ロタノスケは、クシュンコタンのムラヴィヨフ哨所の副官海軍中尉ルダノフスキー】
嘉永6年(1853)8月29日、ロシア海軍大佐ネヴェリスコイは、ロシア政府から樺太占領の命を受けて、陸軍少佐ニコライ・ブッセ(後、アニワ港駐屯ロシア軍総兵官)その他の将校とともに、陸戦隊73人を率い、露米商会の汽船ニコライ号にて樺太クシュンコタンに来航、9月1日に上陸を開始し、哨所(20間四方)に兵舎、士官宿舎など5棟、風呂場、物見櫓(高さ6間、6角形、上の方で10畳)、穴蔵をつくり、柵をめぐらした陣営を築いた。いわゆる「ムラビヨフ哨所」。翌嘉永7年(1854)5月18日、ロシア船4隻は駐留のロシア兵を撤収してクシュンコタンを去った。いわゆる、ロシアのクシュンコタン占拠事件である。
そのムラヴィヨフ哨所の副官は、日本の文書では、「ロタノスケ」と表現されている海軍中尉ルダノフスキー。
彼は、のち、安政4年(1857)6月14日、ロシア船「アメリカ」号の船長で西海岸ナヨロに来航、7月8日、クシュンナイに回航した。
北海道大学付属図書館所蔵の絵図にムラヴィヨフ哨所とその砦の中の「ロタノスケ居小屋」が描かれているので紹介する。
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ムラヴィヨフ哨所とロタノスケ居小屋
絵図は、北海道大学付属図書館所蔵「寅年北蝦夷地クシュンコタン魯人造家一条」拡大図

明治6年の松本十郎大判官、田中綱紀幹事の工事「専断」について(2)

明治6年の松本十郎大判官、田中綱紀幹事の工事「専断」について(2)

4.田中綱紀の専断と処分
 開拓幹事田中綱紀は、松本とともに、その配下にあって、札幌本庁で、明治6年の諸業務の担当した幹部官吏である。
 田中の「専断」内容は、「新札幌市史」に記載がないが、今回のテキスト出典の「簿書」に、松本とは違った事案で専断、そして、処分され、本人自殺後、親族へ処分が達せられたという特異なケースであるので述べる。
①田中の専断
 明治6年10月13日、田中から史官に提出された「進退伺」に専断の経過が述べられている。それによると、「札幌病院医学講堂並生徒寮引建直」を「再応病院ヨリ申出」があり、「黒田次官ヘ稟議」したが、黒田から、「本年営繕其他多分之入費ニ付、現今下手可見合旨、指令」があった。
 しかし、田中は、「現地在来之生徒寮懸隔、不都合之旨、病院ヨリ頻ニ申出」があり、「無余儀事情ニ付、講堂建設ハ見合、生徒寮之儀ハ・・大判官帰省中、仮ニ古屋引建直」したと述べている。(「簿書1172」・資料P20)。
 ここでいう、「生徒寮」とは、明治5年10月、76坪余の生徒寮を建設した札幌仮医学所のこと。官費生徒を募集し、官費生25名、自費生2名、計27名の入学を許可。翌6年1月21日、仮医学所開校式が行なわれた。校長には渋谷良次が就任。教官は渋谷を含め五名という。(「新札幌市史」)
 また、「再応病院ヨリ申出」、「病院ヨリ頻ニ申出」とあるのは、校長の渋谷良次が、生徒寮建設を綱紀に迫ったことをいう。(河野常吉編「北海道史人字彙」)
 さらに、「大判官帰省中」とは、6年8月、十郎の父・戸田文之助が死亡し、故郷の庄内鶴岡に帰省していたことをいう。(「同上」)
②田中への処分
 田中への処分書は次の通り。
「「再ビ長官ニ申請セズ、生徒寮ノ築造ヲ為スト雖ドモ、其就学不便ニ出ルヲ以テ、 事応奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ申セザル者 懲役30日、公罪例ニ照シ 贖罪金  4円50銭」(「簿書1172」)
 処分事案は、「生徒寮ノ築造」、処分理由は、「事応奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ申セザル」、処分内容は、「懲役30日、公罪例ニ照シ贖罪金4円50銭」。
 なお、5等出仕の月給は、200円だったから、この「贖罪金4円50銭」は、月給350円の4.4%に当たるから、対月給比では、田中の方が重い。
③田中の自殺
 田中は、7年2月3日、「御用有之出京」(「奏任官以上履歴録」簿書5871)した。「御用」の内容は、松本が、「新に開拓経営案を立て、綱紀をして上京稟議」させるためであった。(河野常吉編「北海道史人字彙」)
 田中は、陸前石浜(現宮城県牡鹿郡女川町石浜)港から汽船に搭乗する予定であったが、2月23日、高城(たがぎ・現宮城県宮城郡松島町高城)の旅館(内海直之丞宅)で、短刀でのどを突き自殺した。39歳。(「同上」)
 3月4日の調所ら開拓使東京出張所官吏から、松本と田中あての司法省の処断通知には、田中の死亡後であるためか、「田中正六位殿」を棒線で、「田中正六位殿」と消去している。(「簿書6781」・資料P16)
 3月14日、開拓使は、「同人ヘ可相渡書面、其侭返却」と、田中への処分書を司法大少丞へ返却している。
 それを受けた司法大少丞は、3月23日、開拓使へ「同人親族之者ヘ相達」とし、
「生徒寮築造ニ付、贖罪金4円50銭 開拓使5等出仕 田中綱紀」
と、改めて、親族へ処分を言い渡している。

◎まとめ
 以上が明治6年の札幌在勤の松本十郎大判官、田中綱紀幹事(後5等出仕)の「専断」と、彼らへの処分の経過である。
 私は、今回の講座を受けて、今後の課題として、この「専断」と処分がどんな意味を持っているのか、明治6年の不況状況、札幌本府の建設全体像など、さらに、調査研究してみたい。

<注>
(注1)「松本十郎大判官」・・明治2年8月18日開拓判官に任じ根室在勤。5年9月14日3等出仕、根室支庁主任となる。同年10月札幌本庁主任兼務を任じられる。6年1月6日、岩村道俊大判官の罷免に伴い開拓大判官となる。
(注2)「田中綱紀幹事」・・旧鹿児島藩の公用人。明治5年3月開拓権判官。明治6年1月開拓幹事となる。安田と交代して札幌詰を命じられる。6年12月3日5等出仕になる。明治7年2月22日、上京の途中、陸前・高城(たかぎ)で自殺。
(注3)「黒田清隆次官」・・開拓使は、札幌に本庁を置かれて以来、本来、開拓業務を統括する権限があったが、実際には、東京に、「開拓使出張所」がおかれ、長官(次官)は在京して指揮していた。黒田清隆は、明治3年から開拓使次官、ついで明治7年から開拓長官として開拓使のトップにいたが、彼は、「不在長官」と揶揄されるほどだった。そこで、黒田が、在任中、何度、来道したか、調べてみた。(資料6「黒田清隆は何度来道したか」)
(注4)「大岡助右衛門」・・請負人。天保7年(1836)5月武蔵国久良岐(くらき)郡大岡村(現横浜市南区のうち)の農家に生まれる。安政5年(1858)箱館五稜郭建設には大工頭としてたずさわる。明治4年には、札幌本陣の建設に着手。その後、札幌農学校、豊平橋、豊平館の建設を請負う。
  なお、この入札で、大岡は、6番札であったが、開拓使当局は、「安値段有候得共、小内訳取調高不相当ニ
御出来形ニ相響」として、大岡に落札したとしている。(「簿書5757」)
(注5)「5角形内地形」・・「簿書5757」綴じ込みの「本庁御構内見取縮図」を見ると、開拓使札幌本庁舎の建物本体周辺敷地の地形は、弓状に内側に凹んだ5角形になっていた。裏に当たる西側の1辺は72間、他の4辺は48間。ついでながら、北海道庁時代の庁舎(いわゆる「赤レンガ庁舎」)周辺の敷地は、4辺。
(注6)「定額金」・・明治4年8月19日、開拓使定額金として、「10ケ年間1000万両ヲ以総額トス」ることが決められ、「申年50万両、酉年80万両、戌年ヨリ100万両宛」とされた。松本が工事を実施した明治6年の定額金は、80万円。なお、明治4年5月10日に、新貨幣条例が定められ、新貨幣を円・銭・厘とし、金本位制が採用されている。
(注7)「篠路味噌醤油製造」・・明治4年7月、開拓使は篠路村に醤油醸造所を築いた。官営工場のひとつ。明治11年9月、宮城県士族沢口永将に払い下げられた。その後明治12年、樺戸集治監が買い受け、篠路分監として、囚人に味噌・醤油製造の作業に当たらせた。明治30年新潟出身の笠原文平が買い取り営業した。
(注8)「史官」・・太政官(慶応4年閏4月21日設置された最高官庁。何度か改正を重ねたが、本文書の明治7年現在、太政大臣=三条実美=、左大臣、右大臣、参議よりなる。)直属の職。
(注9)「各支庁」・・開拓使は、明治5年9月14日、設置した支庁の状況は次の通り。函館支庁、根室支庁、浦河支庁(7年5月14日廃止、札幌本庁管轄になる)、宗谷支庁(6年2月25日、留萌に移し留萌支庁と改称、8年3月12日廃止、札幌本庁管轄になる)、樺太支庁(7年11月20日廃止)
(注10)「司法卿大木喬任(たかとう)」・・「司法卿」は、司法省(明治4年7月29日、刑部省=ぎょうぶしょう=と、弾正台=だんじょうだい=が合併し設置された。初代司法卿は江藤新平。)の長官。大木喬任は、旧佐賀藩士。2代目の司法卿。在任は、明治6年10月25日~明治13年2月28日。ちなみに、司法省の官位は、卿(きょう)、大・少輔(ふ)、大・少丞(じょう)、大・少録(ろく)の順。
(注11)「2番邸」・・本庁東正門の南、札幌通(現北3条)と厚田通(現北2条)の間に建設された官邸。いわゆる「ケプロン邸」いわれている。

【主な参考文献】
・「新札幌市史第2巻通史2」、「新札幌市史第7巻史料編2」(札幌市教育委員会編)
・「新北海道史第3巻通説1」、「新北海道史第7巻史料1」、「新北海道史第7巻史料2」(北海道編)
・「新北海道年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊)
・「新撰北海道史第3巻」(北海道編)
・「北海道史人字彙」(河野常吉編、北海道出版企画センター刊)
・「北海道歴史人物事典」(北海道新聞社編・刊)
・「明治6年開拓使公文録・職官之部」(「簿書5513」)
・「開拓使官員録」(北海道立文書館所蔵)
・「奏任官以上履歴録」(北海道文書館所蔵 簿書5871)
・「履歴短冊」(北海道文書館所蔵 簿書5099)
・「松本十郎翁談話」(「犀川会資料 全 北海道史資料集」所収 高倉新一郎編 北海道出版企画センター刊)
・「異形の人 厚司判官松本十郎伝」(井黒弥太郎著 道新選書)
・「士族移民 北海道開拓使貫属考のⅡ 白石・上白石・手稲村開拓史」(中濱康光著)
・「赤レンガ庁舎史話」(小原荘治郎著 楡書房刊)
・「さっぽろ文庫 札幌事始」(札幌市教育委員会編)
・「さっぽろ文庫 札幌人名事典」(札幌市教育委員会編)

明治6年の松本十郎大判官、田中綱紀幹事の工事「専断」について(1)

明治6年の松本十郎大判官、田中綱紀幹事の工事「専断」について(1)

◎はじめに
①本論は、札幌市文化資料室が実施した2008年度古文書講座上級コースの最終報告に加筆しあものである。
②私が担当したテキスト出典目録は次の4点です。
1)「明治七年 開拓使公文録 会計往復出納之部」(簿書5578)
2)「開拓使公文録 明治六年 建築之部 営繕附人夫 灯台 電信附生徒 測量 道路 橋梁附河梁 港湾」(簿書5757)
3)「明治七年 開拓使公文録 本庁往復之部 一月之分」(簿書5781)
4)「明治七年 司法省往復 全」(簿書1172)
③テキスト出典と関連文書などを読み、明治6年の松本十郎大判官(注1)、田中綱紀幹事(注2)の「専断」の経過について、報告します。
*「簿書」とあるのは、北海道立文書館所蔵文書で、数字は請求番号。

1.松本の不況対策の上申と黒田の指令
①明治6年の札幌の不況
 「新札幌市史」は、明治6年の札幌の不況の背景について、
1)明治5年10月の「札幌会議」の方針による事業縮小。
2)同6年の事業計画は、全般的建設型から予算優先型の建設方針に変更された。
3)同年8月までに前年建設予定の本庁建築、官邸、病院などが竣工し、それ以降新たな工事は開始されなかった。
などをあげ、そのため、人口の流出が相次ぎ、5年916人から、6年は3分の1の306人に減少し、商業活動も停止、農家も移住者が出て農地も荒れたとしている。
②松本の工事起工の上申
 こうした状況を受けて、松本十郎大判官は、黒田清隆次官(注3)へ、小樽港内往還、本庁土塁、豊平川路筋橋梁、新川筋修復、市中道路ノ修復、獄屋建直しなどの不況対策を上申した。(「新札幌市史」)
③黒田の指令
 これに対し、明治6年10月16日、札幌に届いた黒田の指令は、多くが見合わせや計画の変更であった。松本の「専断」による贖罪金支払処分の原因となった本庁土塁建設工事についても、「本庁土塁ハ見合之事。但、四方ヘ樹木植込べき事」と、本庁土塁工事見合を指示し、代りに「樹木植込」を命じた。(「同上」)

2.松本の本庁土塁の工事「専断」
①黒田の指令到着以前に工事入札を挙行
黒田の工事中止指令が届く4日前の10月12日、松本は、本庁土塁などの工事入札を行った。
工事落札合計金額は、「2981円39銭1厘ニ而落札」(「簿書5578」)であり、工事ごとの金額と落札者は、次の通り。
・本庁土塁・下水・門建設費    1086円42銭    (大岡助右衛門請負)(注4)(「簿書5757」)
・5角形内地形(注5)平均砂利敷き 501円49銭3厘3毛(寺尾秀次郎請負)(「簿書5757」)
・道敷            466円60銭     (森村岩次郎請負)(「簿書5757」)
・砂利運送          926円87銭7厘9毛 (大岡助右衛門請負)(「簿書5757」)
   合計          2981円39銭1厘2毛(「簿書5578」は、「2毛」を切捨てている。)
 なお、この費用については、松本は会計局への文書で、「定額金(注6)之内ニ而相弁じ候間、篠路味噌醤油製造(注7)御見合ニ付、減金4500円ノ口ヨリ御出方御取計有之度」としている。(「簿書5757」)
②松本の「専断」の理由
 松本は、10月31日付で、開拓使東京出張所へ松本の工事着工専断の理由を書き送っている。(「簿書5757」)
 松本は、「実地情、黙止し難く」、「専断之罪知リナガラ」工事着工に踏み切った理由を
1)「御落成(開拓使札幌本庁舎の落成のこと。6年10月29日落成した。)之上・・外と囲構これ無きは、四方より馬、輻湊(ふくそう)し・・実に不体栽」である。
2)「土塁・・の区域これ無きは、折角盛大の御造営・・遺憾の至り」だ。
3)「区域限り無きは、野飼いの数百馬、植樹を踏み荒し、盛木成り難」い。
4)「職方、手違いの季節」になった。
5)「御指揮相待ち候得ば、雪中に相成・・明春に至り候はば、とても右金員(現在の費用)を以て出来」ない。
6)「本庁落成、諸局・・総容引き移り、是までのまま差し置き候得ば、凸凹甚だしく、往来不便」である。
7)「市中不景気も大いに振起(しんき)の勢い」となっている。
として、「伺いを経ず、只今より取懸り候」と、工事の「専断」実施に踏み切った。
 なお、「簿書5757」には、「本庁御構内見取縮図」が綴られているが、彩色された原本を見ると、本庁舎構内には、幾本もの小川が流れており、松本の挙げた理由のひとつの「本庁落成、諸局・・総容引き移り、是までのまま差し置き候得ば、凸凹甚だしく、往来不便」は、当を得たものと思う。
③工事の完成
 松本は、11月29日付け東京出張所への文書で、黒田の「工事見合」指示は、「承知いたし候」としながらも、「其侭難捨置ニ付・・土塁、下水並御門5ケ所、柵矢来、5角形内地形平均砂利敷、下水水吐、橋等一切・・此節追々出来之義ニ付、此段承知可有之候」と通知しているから(「簿書5578」)、明治6年の年内には、それら諸工事は、完成したと思われる。

3.松本十郎への処分
①松本の進退伺と待罪書
松本は、史官(注8)あてに工事入札の翌日の10月13日、「土塁建築専断之儀ニ付、進退伺候書付」を提出している。その進退伺いの中でも、「再伺ヲ不経、土塁取建」てた理由を次のように綴っている。
「黒田次官ヘ指令有之度旨、開申致候処、右土塁ハ見合、但、四方ヘ樹木植込候様、指令有之候得共、既ニ官邸周囲土塁出来、本庁土塁無之候而ハ、御失体之儀ト存量候間、再応可申立之処、遠隔之儀、彼是日間相掛候而ハ、其機会ヲ失ヒ、自ラ御入費多寡ニ相管シ、加え寒境無程氷雪之時ニ臨ミ、土塁出来不致成行可申ト不得止、再伺ヲ不経、土塁取建候」(「簿書5781」)
 また、7年1月8日付の松本から開拓使東京出張所官吏あて文書では、黒田から、「専断之儀ニ付・・其侭差置候而ハ、自然各支庁(注9)、今後之取締ニも相関シ候ニ付、公然処分可相伺」と、待罪書提出の要請があったので、松本は、待罪書を提出し、「可然御執達有之度」と処分を待った。
 なお、「③明治6年の松本の専断」の述べるように、この年8月に、松本は、別件で「待罪書」を提出している。
②松本への処分
 松本への処分が、司法省から、開拓使へ通知があったのは、翌明治7年3月2日付けである。(「簿書1172」)。
 処分書は、「司法卿大木喬任(注10)之印」があり、次のような朱書に綴られている。(「簿書5781」)
「再ビ長官ニ申請セズ、司庁ノ土塁ヲ建設スルモ、時日還延ヲ失スルヨリ止ムヲ得ザルニ出ルヲ以テ、
 事応奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ申セザル者 懲役30日、公罪例ニ照シ
 贖罪金  6円」
 処分事案は、「司庁ノ土塁ヲ建設」、処分理由は、「事応奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ申セザル」、処分内容は、「懲役30日、公罪例ニ照シ贖罪金6円」。
 なお、この「贖罪金6円」は、松本大判官の当時の月給350円の1.7%に当たる。
③明治6年の松本の専断
 松本は、明治5年札幌本庁主任となり、翌6年1月6日、開拓大判官に任じられており、札幌本府建設の責任者となっていた。
ついでながら、松本は、この年、本庁土塁建設以外にも、黒田の承認を得ないで、「専断」した事案が、他にもあるので、述べる。
1)「鴨々川水門の水防工事」・・6年春の融雪期に豊平川が増水し、6年4月から8月にかけて、黒田の許可を地取る前に1800円で工事を行った。(「新札幌市史」)
2)「病院並2番邸(注11)外西洋官邸廻り土塁工事」・・1552円79銭で実施。(「簿書5578」・資料P3、「簿書5757」)
3)「白石手稲両村家作」・・松本は、白石手稲両村の家屋の窮状を憂いて154戸に1万1505円(1戸当75円)を家作料として支出した。(中濱康光「士族移民 北海道開拓使貫属考のⅡ 白石・上白石・手稲村開拓史」)
 この、「白石手稲両村家作」の「専断」に関して、松本は、黒田へ、6年8月21日付で、「白石手稲両村家作ニ付、専断ノ罪ヲ奉伺候書付」を提出している。(「明治6年開拓使公文録・職官之部」・「簿書5513」)。この中で、2)の「官邸並病院新規ノ分外廻リ土塁建築モ・・専断ニ繰替ヘ仕候」と、(「同上」)「専断」事項を2つ挙げ、「御罰被下度」と、待罪書を提出している。(つづく)

「松本十郎大判官らの独断専行」資料3

『3・開拓使公文録』「明治七年 開拓使公文録 本庁往復之部」(道文・簿書5781)
【第一文書】
東京行  一月廿三日 コスタリカ船便          三十一日  
一ノ十八号                            
   西村正六位 殿                 松本大判官  (「松本」)
   安田 定則 殿                田中正六位  (「田中」)
   時任 為基 殿

本庁土塁並病院(1)生徒寮(2)建設専断(3)之
儀ニ付、各位御見込御申立ノ儀も有之候得ども、其
侭差置候而は、自然各支庁、今後之取締
ニも相関(4)し候ニ付、公然処分可相伺旨、次
官殿、被申聞候云々承知致候。則、別紙之通
待罪書、正副とも差出候条、可然御執達(5)
有之度、此段得御意候也
   明治七年一月八日

(付札)
「御覧済、正院(6)へ之伺書
取調可申候」

【第一文書】注
(1)「病院」・・札幌での医療施設設立の経過について
  ・明治二年(一八六九)十一月、札幌村に一舎を築き仮病院とする。大学二等医の斎藤龍安が在勤。
  ・明治三年(一八七〇)十一月、東創成町(現北一条東一丁目)に移転。
  ・明治四年二月、医師斎藤龍安・長谷川鉄哉・米内鳳祐の三名が連名で本病院建設を嘆願。
  ・同年六月、東創成町に四十坪の病院病室を六六九円余で新築。はじめて入院患者を収容。
  ・明治五年(一八七二)七月、開拓使、五等出仕渋谷良次ら十数名の医員を招く、医員は二十一名に激増した。
  ・同年同月、病院仮規則を定めた。(商工を自費、農業移民、アイヌ、市在困窮者を官費とした。
  ・同年九月、雨竜通(現北三条東二丁目)に梅毒院新築。
  ・同年十月、札幌仮医学所(生徒寮)を建設。
  ・同年一月、東創成町の病院を雨竜通の梅毒院に移して本院とし、梅毒院の称を廃止。
  ・同年六月三日、本庁事務機構改正で、札幌病院とし、三課(事務・主治・教授)に分けた。
(2)「生徒寮建設」・・明治五年(一八七二)十月、七十六坪余の生徒寮を建設した札幌仮医学所のこと。官費生徒を募集し、官費生二十五名、自費生二名、計二十七名の入学を許可。翌六年(一八七三)一月二十一日、仮医学所開校式を行う。校長には渋谷良次が就任。教官は渋谷を含め五名(病院と兼務)
(3)「専断」・・ここでいう「生徒寮建設専断」について、「北海道史人名字彙」の「田中綱紀」の項に詳しいので要約する。
  ・札幌病院の渋谷良次が医学生要請に要する講堂・生徒寮の建設を要請。
  ・松本、黒田次官に上申するが、次官は受け入れず、札幌詰を命じられて赴任する田中に不許可の命を伝える。
  ・明治六年(一八七三)八月、父の死去で庄内鶴岡へ帰郷、松本不在中に、渋谷、「頻に生徒寮の建設を綱紀に迫る。綱紀、遂に独断を以て之を許し、・・病院に接続せしむ」。
(4)「相関(そうかん)」・・お互いに影響しあう関係にあること。
(5)「執達(しったつ)」・・上意を受けて下に通達すること。
(6)「正院(せいいん)」・・明治四年(一八七一)閏四月二十一日設置された最高官庁。何度か改正を重ねたが、本文書の明治七年現在、太政大臣(三条実美)、左大臣、右大臣、参議よりなる。

【第二文書】
三月二日付 司法省(1)掛合有之             札第九拾五号   「花押」小牧」)   調所」)  (「千早(2)」)
                          調所幹事
  松本大判官殿                  安田幹事
  田中正六位殿(3)                小牧昌業

貴官進退伺処断、司法省ヨリ
相廻候間、差進候条、御落掌
之上、請書並贖金(4)とも早々御廻可有之、此段
申進候也。
   七年三月四日

【第二文書】注
(1)「司法省」・・明治四年(一八七一)七月九日、刑部(ぎょうぶ)省と弾正台が合併して設置された。
(2)「千早」・・少主典千早正路か。
(3)「田中正六位殿」・・棒線で末消している。田中は、二月二十二日、宮城県高城(たかぎ・現宮城県松島町のうち)で自殺しており、本文書の三月四日には、既に死亡している。
(4)「贖金(しょくきん)」・・実刑の代りに、罪をつぐなうための相当額の金員のこと。

【第三文書】
   土塁建築専断之儀ニ付進退
   奉伺候書付
札幌本庁其他病院、官邸周囲土塁之儀、即今
着手致候得ば、御入費、格別相減、御都合之事ニ付
病院並官邸周囲丈、不経伺仕越取計、本庁
土塁之儀ハ、黒田次官へ指令有之度旨、開申(1)致候処、
右ドルイハ見合、但、四方へ樹木植込候様、指令有之
候得共、既ニ官邸周囲土塁出来、本庁土塁
無之候而は、御失体之儀ト存量候間、再応
可申立之処、遠隔之儀、彼是日間相掛候而ハ、其
機会ヲ失ヒ、自ラ御入費多寡ニ相管シ、加え寒境
無程氷雪之時ニ臨ミ、土塁出来不致成行
可申ト不得止、再伺ヲ不経、土塁取建候段、恐懼(2)
之至ニ候。依之、進退之儀、奉伺候也。
    明治六年十月十三日  開拓大判官 松本十郎  
         史官(3) 御中

【第三文書】注
(1)「開申(かいしん)」・・申し開くこと。自己の職権内でしたことを監督官庁に報告すること。
(2)「恐懼(きょうく)」・・おそれかしこむこと。
(3)「史官(しかん)」・・歴史を編集する官吏。明治政府では、太政官直属の職。

【第四文書】
再ビ長官(1)ニ申請セズ、司庁ノ土塁ヲ建築スルモ、時
日、遷延(2)、時機ヲ失スルヨリ止ムヲ得ザルニ出ルヲ以テ事
応、奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ、申ゼザル者、懲役三
十日、公罪(3)例ニ照シ

    「司法卿(4)
(角印) 大木喬(5)       贖罪金(6) 六円
     任之印」

【第四文書】注
(1)「長官」・・黒田が開拓長官になったのは、明治七年(一八七四)八月二日で、この文書の時期は、次官。開拓長官は、不在だが、ここでは、「開拓使の最高責任者(トップ)」の意。
(2)「遷延(せんえん)」・・のびのびになること。
(3)「公罪(こうざい)」・・公務上の犯罪。
(4)「司法卿(しほうきょう)」・・司法省の長官。ちなみに、司法省の官位は、卿、(大・少)輔(ふ)、(大・少)丞(じょう)、(大・少)録(ろく)の順。
(5)「大木喬任(おおきたかとう)」・・旧佐賀藩士。司法卿在任は、明治六年(一八七三)十月二十五日~明治十三年(一八八〇)二月二十八日。
(6)「贖罪(しょくざい)金」・・体刑に服する代りに、罪過を許されるために差出す金員。ちなみに、当時大判官の月俸は三百五十円であった。また、明治七年の米一俵(六十キロ)の値段は一円八十七銭。

「松本十郎大判官らの独断専行」2-3

【第五文書】
  大判官       工業局 
              会計局  
(朱)元伺高 四千六円九厘

一金 千八百九拾四円九拾七銭一厘
    内
     金 九百弐拾六円八拾七銭七厘九毛  大岡助右衛門
          是ハ敷砂利運送代
     金 五百壱円四拾九銭三厘三毛    寺尾 秀次郎
          是ハ五角形内構地盤高下平均
     金 四百六拾六円六拾銭       森村 岩太郎
          是ハ本庁構内道式五ケ所御普請御入用

右ハ本庁御構内道式並建家廻り地盤高下
平均、且、砂利運送代とも入札申付候処、書面
之者ども安値ニ付、落札可申付哉。別紙相添此段
相伺候也。
     十月

【第六文書】
(付札)
「別紙」

      五角形入札比較表
   一金 五百七拾円三拾七銭      森邨岩太郎
   一金 五百四拾円五拾七銭二厘    前田市太郎 
   一金 千三百四拾五円弐拾銭     石田福太郎
落札 一金 五百壱円四拾九銭三厘三毛   寺尾秀次郎
   一金 千四百八拾九円八銭九厘五毛  大岡助右衛門
   一金 六百六拾七円七拾八銭四厘七毛 中山 藤吉
   一金 五百九拾四円五拾弐銭     中川源左衛門
   一金 五百九拾弐円拾六銭壱厘五毛  水原 虎蔵

【第七文書】
    道敷入札比較表
落札 一金 四百六拾六円六拾銭          森村岩次郎
   一金 九百五拾八円八拾壱銭2厘       前田市太郎
   一金 七百参三拾四円四拾銭         石田福太郎
   一金 八百四拾三円四拾三銭一厘弐毛     寺尾秀次郎
   一金 九百拾八円八拾九銭弐厘三毛      大岡助右衛門
   一金 五百六拾七円九拾壱銭壱厘       中山 藤吉
   一金 千弐百三拾四円七拾銭         中川源左衛門(1)
   一金 六百九拾壱円八拾九銭五厘三毛     水原 虎蔵

【第七文書】注
(1)原本には、テキストの「⑫~30」と、「⑫~31」の間に、もう一丁あり、この中川源左衛門の行と次の行の水原虎吉の行、及び次の「砂利運送入札比較表」の七行が抜けている。

【第八文書】
      砂利運送入札
      比較表
   一金 千弐百四拾四円七銭六厘      吉田 茂八
   一金 千六百三拾八円三拾銭       森邨岩次郎
   一金 千四百八円四銭七厘九毛      前田市太郎
   一金 千百五拾円四拾八銭四厘      石田福太郎
   一金 九百五拾壱円九拾弐銭       寺尾秀次郎
   一金 千七百四拾壱円五拾銭       佐藤 幸吉
落札 一金 九百弐拾六円八拾七銭七厘九毛   大岡助右衛門
   一金 千五百壱拾五円七拾五銭      中山 藤吉
   一金 千三百七拾五円六拾五銭六厘    水原 虎蔵
   一金 弐千四拾七円三銭二厘七毛     中川源左衛門

「松本十郎大判官らの独断専行」2-2

『2~2・開拓使公文録』「開拓使公文録明治六年建設之部」(道文・簿書5757~86)

【第一文書】
(付札)
「十一月十六日  
本庁周囲土塁道敷其他
着手ノ件
  松本大判官外一名ヨリ西村正六位
  外三名ヘ来」

十一月十五日、コレア号(1)便          十九日    
十ノ六十六号  
  
西村正六位殿
安田 定則殿       松本大判官 (「松本」)
内海 利貞殿       田中 幹事 (「田中」)
時任 為基殿 
先般於其表、定則殿御伺数件之中、本庁
土塁之儀、御見合、樹木植込之御指揮(2)
有之候得共、兼而ご案内之通、実地情態
速ニ樹木植込区域之経界相立候場合ニ
及兼、既ニ御落成(3)之上、是非共、外ト囲構
無之ハ、市街地近傍之曠野故、四方ヨリ馬、輻
湊(4)、実ニ不体栽且四方御門取建、道路
修理相成候共、土塁等之区域無之は、
折角盛大之御造営(5)所欠有之ニいたり、
遺憾之至候。仮令植込相成候共、其区域
限無之ハ野飼之数百馬(6)、植樹ヲ踏荒、盛
木難成、何程馬追共ニ厳命布告候共、
長キ月日之中ニ自然勝手、従横ニ乗込、
到底不都合之事而已多キハ顕然且ハ、
現今、職方手違之季節ニ付、別紙仕様
書之通、金高弐千三百七拾二円四拾
弐銭ヲ以入札申付候処、落札千八拾六円四拾
弐銭ニ相成、格外(7)之減金ニ而出来形(8)ニ相成
右は、一応伺之上、施行可致ハ勿論候得共、
最早季候相遅レ、御指揮相待候得ハ、
雪中ニ相成、第一、明春ニ至候ハバ、迚も右
金員ヲ以出来候理無之、不得止専断之
罪知リナガラ、実地情難黙止、専断いたし候
事情、篤ト御了察、次官殿ヘ宜御弁向
有之度、尤、定額金之内ヲ以御入費ニ
相充而、別段御出方不相願候事。
一 本庁御構内道路修繕許可ニ相成
  仕様積書(9)ヲ以至急ニ相伺候様、御指揮
  候得共、取調書ヲ以東京ニ相伺候上ニ取
  懸候事なれバ、前文之通、時節遅レ、
  当年之間ニ合不申、然ルニ、本庁落成、
諸局(10)共、総容(11)引移、是迄之侭差置
候得バ、凸凹甚敷、往来不便理、一同時節遅レ
殊更難渋不大方候間、又候専断ニ相渉リ
候得共、到底御建築ニ相成候事なれば、
当年御下手之方ハ、御出方も格別減縮
市中不景気も大ニ振起(12)之勢有之
旁以別紙仕様書之通、金高四千六円
九厘之調ニ入札為致候処、落札金千八百
九拾四円九拾七銭壱厘、格別御減金之
出来形、且以、当年中、格別なれバ、上下共
便利不少候間、前条之減金なれば、
御異存も有之間敷ト被存候間、不経
伺、只今ヨリ取懸候事。
一 市街修繕之義、今度許可ニ相成、
  最前仕様金弐千八百七拾壱円七拾六銭
  壱厘之処、入札為致候処落札金千六百
三拾壱円五拾弐銭弐厘出来形相成候間、
唯今取係候事。
   但、仕様書先般御検印済ニ付、今度不相伺候事。
一 病院並西洋造官邸廻り土塁最前
  積高金四千百五円三拾銭壱厘之処、
  入札出来形千五百五拾弐円七拾九銭ニ而
  取懸候事。
一 豊平川新橋(13)之義ハ、昨今其筋ニおいて
  取調中ニ候。到底当年中ハ御下手相成
  兼候ニ付、次便ヲ以可申進候。旧橋殊之外
  破損ニ付き修繕加ヘ置申候事。
一 新川修繕之義ハ、今度絵図面ヲ以御指
  揮有之候得共、定則殿実地之体裁
  御案内之通、両岸ニハ砂利多し而、絵図
  面通り致候得バ返而患害(14)ヲ引出ニ
  近ク、兎角難被行候間、尚、別ニ仕様
  取調可申進候事。
  右之件々可然様、次官殿ニ被御
  申立度、此段及御懸合候事。
     明治六年十月三十一日
【第一文書】注
(1)「コレア号」・・戊申戦争の際、官軍奥羽鎮撫隊を運んだロシア船に「コレア号」が見える。欄外に書かれたこの行は、影印では見えない。原本に当たって確認した。
(2)「指揮」・・さしずすること。
(3)「落成」・・開拓使札幌本庁の落成のこと。明治六年(一八七三)十月二十九日落成。落成布達は十一月二十四日、開拓使札幌本庁が仮庁舎から落成した庁舎に移転したのは、明治七年(一八七四)一月一日。
(4)「輻湊(ふくそう)」・・(輻=や=が、轂=こしき=にあつまる意から、方々から集まること。
「輻(や)」は、轂(こしき。車輪の中央にあって軸をその中に貫き、輻をその周囲にさしこんだ部分)から車輪の輪に向かって出ている放射状の細長い棒。「湊(みなと。ソウ)」は、あつまるの意。
(5)「盛大之御造営」・・開拓使札幌本庁舎の構内は、南北三百四十四間(約六百二十メートル)、東西二百四十六間(二百五十メートル)。
(6)「野飼之数百馬」・・明治三年(一八七九)虻田、有珠、浦河の牧場にいた多数の馬が、駅逓備馬あるいは農家へ払い下げとなったが、札幌には、三百二十一頭が送られ、元村に牧場を開いた。四年(一八七一)一月に札幌市民及び近村に百二十頭が貸し付けられ、翌五年(一八七一)にそれらを売り渡している。(「新札幌市史」)
(7)「格外」・・並はずれ。
(8)「出来形(できがた)」・・工事施工が完了した部分のこと。工事竣工をいう。
(9)「積書(つもりがき)」・・見積書。
(10)「諸局」・・明治六年(一八七一)六月三日、本庁事務機構を六局(庶務・会計・農業・工業・物産・刑法)二十四課、別に学校(三課)、病院(三課)と定めた。
(11)「総容(そうよう)」・・一同。
(12)「振起(しんき)」・・盛んになること。ここでは、不景気が拡大することの意。
(13)「豊平川新橋」・・豊平川に最初に橋が架けられたのは、明治四年(一八七一)。その後毎年新築橋が架けられている。毎年のように流された。なお、本文書の明治六年(一八七三)の春の融雪期に豊平川が増水し、鴨々川水門が破損して市街に被害が出そうになり、松本は、黒田の許可をとる前に四月から八月まで一八〇〇円をかけて鴨々川水門の水防工事を行った。(「新札幌市史」)
(14)「患害(かんがい)」・・わざわい。

【第二文書】
(付札)
「別紙」

写東京行
    会計局      松本大判官 (「松本」)
本庁土塁並ニ五ケ所御門御入用金
千八十六円四十弐銭、定額金之内ニ而
相弁じ候間、篠路味噌醤油製造
御見合ニ付、減金四千五百円ノ口ヨリ
御出方御取計有之度、此段申進候事。
    六年十月廿日


【第三文書】
十月廿三日 御検印済(1)
写東京行
        ○黒(印)
       大判官  (「松本」)     工業局 (「岩」)(「前田」) (「宮」)
        幹事  (「田中」)    会計局  (「村井」)(「山崎」)
一 金千八拾六円四拾弐銭、大岡助右衛門(2)
右ハ本庁御構内土塁、水吐並御門五ケ所
  柵矢来、橋共、御入費凡積之上、入札申付、開
  札仕候処、別紙之通、安値段有之候得共、小内
  訳取調高不相当ニ付、御出来形ニ相響キ
  可申哉。依之、凡積比較仕置当高六番
  札落値段ニ可申付哉。尤、落成間数
  検査之上、坪当を以、猶増減仕候。則、
  仕様内訳帳添、此段相伺候也。
     十月十二日

【第三文書】注
(1)この行は欄外に書かかれており、綴りの喉(のど)のため影印では見えないが原本で確認した。
(2)「大岡助右衛門」・・請負人。天保七年(一八三六)五月武蔵国久良岐(くらき)郡大岡村(現横浜市南区のうち)の農家に生まれる。安政五年(一八五八)箱館五稜郭建設には大工頭としてたずさわる。明治四年(一八七一)には、札幌本陣の建設に着手。その後、札幌農学校、豊平橋、豊平館の建設を請負う。

【第四文書】
   本庁御構土塁並水吐、御門五ケ所  
   御取建、其外御入費入札

金 千五百七拾六円八拾六銭      森村岩次郎
金 八百六拾八円三拾銭九厘五毛    大谷平次郎
金 千五百七拾六円弐拾弐銭      森川三太郎
金 千弐拾壱円八拾九銭二厘      前田市太郎
金 千百七円六拾八銭         吉田 茂八(1)
金 九百四拾九円六拾壱銭五厘五毛   寺尾秀次郎
金 八百九拾七円九拾八銭       中山 藤吉
金 千八拾六円四拾弐銭        大岡助右衛門
金 弐千九百七拾八円五拾銭      小宮 与吉
金 千四百八拾壱円八拾七銭四厘八毛  石田福太郎
金 八百八拾円九拾九銭三厘壱毛    佐藤 幸吉
金 千三百円三拾三銭三厘       水原 寅蔵(2)
金 千三百七拾三円弐拾壱銭      中川源左衛門(3)
   第十月十二日
【第四文書】注
(1)「吉田茂八」・・文政三年(一八二〇)十月福山に生まれる。創成川の開削者。請負業者として成功。
(2)「水原寅蔵(すいばらとらぞう)」・・文化十五年(一八一八)近江国甲賀郡三雲村(現滋賀県湖南市のうち)の農家に生まれる。後、越後国水原(すいばら)に住む。越後の松川弁之助の蝦夷地渡航に同行。明治四年(一八七一)札幌に移住。開拓使御用請負人となる。
(3)「中川源左衛門」・・請負人。天保九年(一八三八)阿波国三好郡白地村(現徳島県池田町白地)の生まれ。明治三年(一八七〇)、札幌開府の請負人統卒を命じられる。開拓使仮庁舎、官舎、札幌神社、偕楽園、市中道路建設などすべての土木建築工事に采配をふるった。

「松本十郎大判官らの独断専行」資料2-1

『2~1・開拓使公文録』「開拓使公文録明治六年建設之部」(道文・簿書5757~85)
【第一文書】 

「安田定則外一名ヨリ松本大判官外一名へ回答」(1)

札ノ三百八十六号 

  松本大判官殿          安田定則
  田中 幹事殿          時任為基

本庁周囲之儀ニ付、定則ヨリ次官殿ヘ
再伺書差出置候内、周囲土塁之儀、
既ニ着手之趣ニ付、門並樹木之分、伺之通ト付
紙之上、御指揮相成候間、営繕減金之内より御払出有之度、別紙
写相添、此段申進候也。
   六年十一月七日

「不及写」(2)
別紙相伺候間、御取調御差出
被下度、御依頼ニ及候也。
    明治六年十月    安田定則 
    内海利貞殿
    時任為基殿

(付札)
「御伺之趣、依存無之、尤、御構内
水抜溝之義は、追而御詮議
有之。当時御差延相成り候而ハ
如何可有之哉。
       内海利貞 」

【第一文書】注
(1)冒頭欄外にある付札。
(2)本文中央にある付札。

【第二文書】
「別紙」(1)
「可写」(2)

次官殿              安田定則 
先般、本庁周囲之儀相伺候処、築塁見
合、樹木植付候様、御下命相成拝承(3)仕候。
就而ハ、周囲下水並ニ御門丈ケ之造営ハ
無之候而ハ、不体栽にも可在之候間、右下水
径三尺深壱尺五寸ト相定、堀土ハ、一平ニ敷並
シ、其場ニ植ルニ兼而御用地へ御仕立在之候
利子(ママ)(4)林檎、葡萄類之菓木を列植仕度、仍而
仕様書並ニ御入費積、御構内下水相除
候分共弐通、絵図面相添、重而相伺候間、
両様いずれか御指揮被成下度候也。
    明治六年第十月

(付札)
周囲土塁之儀ハ既ニ
着手之趣ニ付、樹木之分
伺之通。

【第二文書】注
(1)冒頭欄外にある付札。
(2)本文中央にある付札。
(3)「拝承(はいしょう)」・・聞くことの謙譲語。つつしんでうけたまわること。
(4)「利子」・・「梨」か。

【第三文書】
本庁構内外御門其外取建入費

今般調高
  凡金 五千七百三拾八円三銭五厘
      内
       金 千九百〇六円四拾八銭九厘
             是は惣構下水其外
             御入用之分
       金 三千五百弐拾九円八拾弐銭8厘
             是は御構内小河埋方並
             堀方、小橋掛渡、道敷共御入用之分 
       金 三百壱円七拾壱銭八厘
             是は御門五ケ所御入用之分  
【第四文書】

      御構内外御門其外取建入費

今般調高
  凡金 七千三百五拾七円三拾九銭五厘
     内
       金 千九百〇六円四拾八銭九厘
           是は惣構下水並ニ渡橋
           新規御入用(1)
       金 五千百四拾九円拾九銭壱厘
           是は御構内小河埋方並ニ
           堀方小橋、道敷廻り、水抜
下水前後篝其外入用
之分
       金 三百壱円七拾壱銭八厘
                   七厘五毛之処
           是は御門五ケ所御入用

(付札)
「内金 千六百拾九円三拾六銭三厘
     水抜下水前後篝等御入用」

【第四文書】注
(1)この二行の但し書きは、影印では簿所のどに隠れて見えない。原本にあたって判明した。

【第一図】

「本庁入口門 五ケ所之図」

(図に表示されている語句で調べたもの)
「框(かまち)」・・門、扉などの枠。
「見付(みつけ)」・・框などの正面の幅。
「見込(みこみ)」・・部材の奥ゆき。

【第二図】

「本庁御構内見取縮図」
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