森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

北海道史研究メモ

「松本十郎大判官らの独断専行」資料1

『1・開拓使公文録』「明治七年 開拓使公文録 会計往復出納之部」(道文・簿書5576~17)
【第一文書】
次官(1)                     東京
  五等出仕(2)                  会計課(4)
  七等出仕(3)
札幌本庁回り、柵矢来(5)及西洋形門、
其外道敷(6)、芥抜下水(7)、小橋並構外四方
川埋新堀共、ご入用合金弐万百五拾
五円九拾弐銭八厘ヲ目的高トシ、伺之通ヲ以
構営(8)ノ義、御達可然、尤、右ハ目的高ト
心得、道敷、芥抜以下、営構ハ、可成省減
作略(9)候様可致旨、御達可然哉。御回金
之義は、別段御出方、明年春ニ至リ可被差遣
候条操合(10)方、心懸候様致度、此段も
御達有之度、右等相伺候也。

  明治六年九月十二日

    本庁回り柵矢来取建ニ不及、四方樹木植付
付札  候様可致、且、道敷之義ハ、修繕可致義
    ニ付、右之概様、積書(11)いたし至急可差
    回候事。


【第一文書】注
(1)「次官」・・黒田清隆。黒田は明治三(一八七〇)五月九日~明治七年(一八七四)八月一日まで次官。長官になったのは、明治七年(一八七四)八月二日。
(2)「五等出仕」・・明治六年(一八七三)の官員録では、西村貞陽、大鳥圭介、山内堤雲の三人。少判官の下位、幹事の上位。
(3)「七等出仕」・・明治六年(一八七三)の官員録では、調所広丈ら八名。権幹事の下位、大主典の上位。
(4)「東京 会計課」・・開拓使は、明治二年(一八六九)七月八日設置されたが、明治三年(一八七〇)閏十月十日、在京の開拓使は、「開拓使東京出張所」と改称し、これまでの東京城西丸の民部省から日本橋蠣殻町に移転した。さらに、明治四年八月には、芝増上寺内に移転下。「東京」は、「「開拓使東京出張所」のこと。「会計課」は、その一つの部署。明治六年(一八七三)六月三日、会計課など七課と、官園、会所などの事務機構を定めた。
(5)「柵矢来(さくやらい)」・・木の柵で作った矢来(かこい)。ヤライは「遣ひ」で「追い払う」「入るを防ぐ」の意。
(6)「道敷(みちしき)」・・道路に使用する敷地。道路敷。
(7)「芥抜(あくたぬき・ごみぬき)下水」・・ごみ処理のための下水のこと。
(8)「構営(こうえい)」・・かまえいとなむこと。組織し経営すること。
(9)「作略(さりゃく)」・・よいようにはからうこと。配慮。
(10)「操合(くりあわせ)」・・本来は「操」は、糸偏の「繰」で「繰合」。やりくりする。都合をつける。
(11)「積書(つもりがき)」・・見積りの計算を記した書類。見積書。

【第二文書】

十一ノ八十一号
  西村正六位殿(1)            松本大判官(5)
安田 定則殿(2)
内海 利貞殿(3)            田中 幹事(6)
時任 為基殿(4)            金井 信之(7)
本庁周囲土塁並御門、下水、樹木植付
等之義ニ付、於其御地次官殿へ御伺済
相成候段、書類添御申越候趣、承知
いたし候。右は是迄致度々得御意候通、其侭
難捨置ニ付、小川埋立掘方等は相除キ
土塁、下水並御門五ケ所(8)、柵矢来、道敷
五ケ所、五角形内地形(9)平均砂利敷、下水
水吐、橋等一切御入費合金弐千九百八拾
壱円三拾九銭壱厘ニ而落札相成、此節
追々出来之義ニ付、此段承知可有之候。
尤、樹木之義も於御地可然御取扱有之
度候。右御回答旁如此候也。

 明治六年十一月二十九日

下ケ札   樹木之義、於御地御取計之事。

【第二文書】注
(1)「西村貞陽(さだあき)」・・旧佐賀藩士族。明治二年(一八六九)八月開拓少主典、三年(一八七〇)閏十月、札幌市詰となり、五年(一八七二)九月、東京詰に転じる。「常に長官を補翼して枢機に参与」(北海道史人字彙」)。明治六年(一七七三)一月十七日、五等出仕に任命される。正六位叙任は、明治五年(一八七二)四月十五日。
(2)「安田定則(さだのり)」・・旧鹿児島藩士族。明治四年(一八七一)十月開拓大主典。五年(一八七二)五月、札幌詰めを命じられ七等出仕となり、土木を担当。十郎から事業対策で黒田との稟議のため上京を命じられる。滞京中、東京詰めを命じられる。一貫して黒田の腹心的な役回りを開拓使東京事務所において勤め、黒田が東京を離れる時には長官代理を命じられた。(「安田定則と安田定則関係文書について」宮地正人)。明治十六年(一八八三)一月農商務省北海道事業管理局長。
(3)「内海利貞(うちみ・としさだ)」・・旧幕臣。明治二年(一八六九)八月開拓大主典。明治六年(一八八三)当時七等出仕。東京に在勤し、会計事務を担当する。明治十一年(一八七八)六月開拓使会計局長兼工業局長。
(4)「時任為基(ときとう・ためもと」旧鹿児島藩の公用人下役。明治五年(一七七二)七月開拓使8等出仕、八月七等出仕。明治十五年(一八八二)二月函館県令。
(5)「松本大判官」・・松本十郎。明治二年(一八六九)八月開拓判官に任じ、根室在勤。明治五年(一八七二)十月、札幌本庁兼務となる。六年(一八七三)一月十七日、岩村道俊大判官が免じられ、その後任となる。明治九年(一八七六)九月五日、依頼免官。
「大判官」・・明治五年(一八七二)八月二十四日、開拓使官等(官位の等級)を改正し、判官を、「大、中、少」に分け、監事を廃止し、幹事を設けた。
(6)「田中幹事」・・田中綱紀(つなのり)。旧鹿児島藩の公用人。明治五年(一七七二)三月開拓権判官。明治六年(一八七三)一月開拓幹事となる。安田と交代して札幌詰を命じられる。明治七年(一八八四)二月二十二日、上京の途中、陸前・高城(たかぎ)で自殺。
(7)「金井信之(のぶゆき)」・・但馬国豊岡の人。明治四年(一八七一)開拓使八等出仕。五年(一八七二)七等出仕となる。六年(一八七三)札幌本庁在勤を命じられ会計を担当。「明治七年春開拓使創業以来の会計を清算す。此清算には金井信之但馬の人最も尽力したり」(「松本十郎翁談話」)
(8)「御門五ケ所」・・図面では、南北各二ケ所、東に正門一ケ所の計五ケ所。西は、本格的な西洋形門でなく、「木戸」となっている。北海道庁時代には、東西南北各一ケ所の四ケ所
(9)「五角形内地形」・・本庁舎の周囲の敷地は、五角形になっている。北海道庁時代には辺が内側に弓状に凹んだ四角形。

【第三文書】

札第五拾九号

十一月廿九日付御状披見、本庁周囲土塁
等出来之義御申越之処、右ハ、去明治六年
九月中、評議済、本庁廻柵矢来及西洋
形門、其外、道敷、芥抜下水、小橋並構外
四方川埋新堀共、安田定則帰省中ニ而
最前及御通知候次第不明に加え去
九月中、評議之節、至急書類扣不写
取返却いたし候間、左之廉々
一 札幌新川縁左右、板、篝(1)取建、橋懸置之義
一 同所二番邸(2)及病院其外官邸土塁等御入用之儀
一 同所豊平川並枝川新橋架渡之儀
右之義も扣無之ニ付、都合四廉写添委細
被御申越候存候。此段及御報候也。
               小牧 昌業(3)
明治七年二月十五日      調所 広丈(4)
               西村少判官
        松本大判官殿
        田中 綱紀殿
        金井 信之殿

【第三文書】注
(1)「篝(かがり)」・・薪を入れ篝火を焚くのに用いる鉄製の籠。篝籠。「簿書五七五七」に「前後篝」とあるから、下水溝の照明用に始点、終点に置いたのだろう。ちなみに、札幌での電灯の点灯は明治二十四年(一八九一)十月三十一日のこと。(「さっぽろ文庫 札幌事始」)
   のだろう。
(2)「二番邸」・・本庁東正門の南、札幌通(現北三条)と厚田通(現北二条)の間に建設された官邸。ケプロン邸といわれる。
(3)「小牧昌業(まさなり)」・・旧鹿児島県士族。明治七年(一八七四)一月開拓使七等出仕。開拓使東京出張所庶務課勤務。
(4)「調所広丈(ずしょ・ひろたけ)」・・旧鹿児島藩士族。明治五年(一八七二)正月十四日八等出仕。東京で学務を担当。七年(一八七四)二月八日開拓幹事。明治十一年(一八七八)十一月開拓大書記官兼札幌農学校長となる。明治十五(一八八二)一月、札幌県令となる。

【第四文書】

調所広丈殿
                  松本大判官
小牧昌業殿
二月十五日付ヲ以、昨六年九月中、本庁
柵矢来及西洋門其外道敷、芥抜下水、小橋並構外四方川埋新堀
共御入用二万百五十五円余金之廉ニテ
本庁周囲土塁新築相成候乎
否乎、御回答ニ可及承知候。右ハ、土
塁ニ猶積替相成、最前伺二万百五十
五円余金ノ内外ニ不抱本庁定額金ノ
内、篠路醤油製造(1)御見合候減金ヲ以
御入用御出方相成候。今般、出来高見合
ノ為、別紙綴伺書写ヘ下札ニ而差遣候間、
御承知有之度、不取岩瀬権大主典(2)不日
出京之節、仕上書類持参候。同人ヨリ
細事ハ御聞取有之度、此段及御回
答候也。
    三月五日

【第四文書】注
(1)「篠路醤油製造」・・明治四年(一八七一)七月、開拓使は篠路村に醤油醸造所を築いた。明治十一年(一八七八)九月、宮城県士族沢口永将に払い下げられた。その後明治十二年(一八七九)、樺戸集治監が買い受け、篠路分監として、囚人に味噌・醤油製造の作業に当たらせた。明治三十年(一八九七)新潟出身の笠原文平が買い取り営業した。
(2)「岩瀬権大主典」・・岩瀬隆弘。明治五年(一八七二)十月二十五日から権大主典。工業局営繕係として屯田兵屋の設計などにたずさわる。「履歴短冊」(道文・簿書5099)の明治七年三月十八日の項に「工業局清算突合せのため出京被申付」とある。

松本十郎大判官らの独断専行

2008年度 古文書講座上級コース 中間報告
<はじめに>
 私のテーマ「松本十郎大判官らの独断専行」について、まず、テキストをできるだけ正確に解読することだと心がけ取りくんだ。その取り組みと、その中で読みとったこと、主に、松本への処罰の原因となった札幌での工事内容などを中間報告する。

1.道立文書館でのテキストの原本の確認作業と読み下し文の作成
①テキストの正式文書名
1)「明治七年 開拓使公文録 会計往復出納之部」(簿書5578)
2)「開拓使公文録 明治六年 建築之部 営繕附人夫 灯台 電信附生徒 測量 道路 橋梁附河梁 港湾」(簿書5757)
3)「明治七年 開拓使公文録 本庁往復之部 一月之分」(簿書5781)
4)「明治七年 司法省往復 全」(簿書1172)
②原本に当たり、わかったこと。
・原本の「のど」の文字がテキストの影印では見えない部分があったので補った。(P7、8、11)
・テキストに1丁分の落丁があり、補った。(P13)
・付札の箇所を確認し、テキストに復元貼付した。(別紙提示)
③テキストの解読・読み下し文を作成した。(別紙資料)

2.関連資料の調査
・テキスト記載の事項、人名、難読用語などを調べた。
・その主なものを読み下し文に注記した。

3.松本大判官、田中幹事による「独断専行」での諸工事着工
①背景(「新札幌市史」より)
・明治5年(1872)10月の「札幌会議」の方針による事業縮小。
・明治6年(1873)の事業計画は、全般的建設型から予算優先型の建設方針に変更された。
・6年8月までに前年建設予定の本庁建築、官邸、病院などが竣工し、それ以降新たな工事は開始されなかった。
・そのため、不況を引き起こすことになった。
・人口の流出・・5年916人から、6年は3分の1の306人に減少し、商業活動も停止、農家も移住者が出て農地も荒れた。
②松本が実施した工事内容と金額
・本庁土塁・下水・門建設費 1086円42銭(大岡助右衛門請負)(資料P11)
・五角形内構地盤 501円49銭3厘3毛(寺尾秀次郎請負)(資料P13)
・道敷  466円60銭(森村岩次郎請負)(資料P13)
・砂利運送 926円87銭7厘9毛 (大岡助右衛門請負)(資料P13)
   合計 2981円39銭1厘2毛(資料P2.「2毛」は切捨てている。
③松本の工事着工専断の理由 簿書5757(資料P8~9)
 松本は、「実地情、黙止し難く」、「専断之罪知リナガラ」工事着工に踏み切った理由を
・「御落成(開拓使札幌本庁舎の落成のこと)之上・・外と囲構これ無きは、四方より馬、輻湊(ふくそう)し・・実に不体栽」である。
・「土塁・・の区域これ無きは、折角盛大の御造営・・遺憾の至り」だ。
・「区域限り無きは、野飼いの数百馬、植樹を踏み荒し、盛木成り難」い。
・「職方、手違いの季節」になった。
とし、更に、
・「御指揮相待ち候得ば、雪中に相成・・明春に至り候はば、とても右金員(現在の費用)を以て出来」ない。
・「本庁落成、諸局・・総容引き移り、是までのまま差し置き候得ば、凸凹甚だしく、往来不便」である。
・「市中不景気も大いに振起(しんき)の勢い」となっている。
として、「伺いを経ず、只今より取懸り候」と工事を「専断」実施することに踏み切った。

4.その他
・松本と一緒に「専断」で罰せられた田中綱紀のこと(P3)
・本庁舎の絵図面について(別絵図)
・「篝(かがり)」について(P3)
・建築用語について(P7)
・篠路醤油について(P4)

【主な参考文献】
・「新札幌市史第二巻通史二」「新札幌市史第七巻史料編二」(札幌市教育委員会編)
・「新北海道史第三巻通説一」「「新北海道史第七巻史料一」北海道編)
・「新北海道年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊)
・「新撰北海道史第三巻」(北海道編)
・「北海道史人字彙」(河野常吉編、北海道出版企画センター刊)
・「北海道歴史人物事典」(北海道新聞社編・刊)
・「開拓使官員録」(北海道立文書館所蔵)
・「奏任官以上履歴録」(北海道文書館所蔵 簿書5871)
・「履歴短冊」(北海道文書館所蔵 簿書5099)
・「松本十郎翁談話」(「犀川会資料 全 北海道史資料集」所収 高倉新一郎編 北海道出版企画センター刊)
・「異形の人 厚司判官松本十郎伝」(井黒弥太郎著 道新選書)
・「赤レンガ庁舎史話」(小原荘治郎著 楡書房刊)
・「さっぽろ文庫 札幌事始」(札幌市教育委員会編)
・「さっぽろ文庫 札幌人名事典」(札幌市教育委員会編)

松本十郎の生涯

◎日時:2008年11月12日(水)14:50~15:40
◎会場:札幌市社会福祉総合センター(札幌市中央区大通西19丁目4F大研修室)
◎申込不要:直接会場へ。
受講料:無料
◎テーマ:松本十郎の生涯
◎概要:アツシ判官と呼ばれ開拓判官として活躍した松本十郎の波乱に満ちた生涯を追います。
◎主催:札幌市社会教育協会

エトロフ島有萌の戸田又大夫の墓

エトロフ島有萌の戸田又大夫の墓

1. ロシア人のエトロフ襲撃
文化4年(1807)4月23日、ロシア人フヴォストフらは、エトロフ島ナイボ、ママイの番屋を襲撃し、番屋、倉庫を焼き、米・塩・衣類などを
略奪した。いわゆる文化丁卯事件が起こった。
29日には、同島の箱館奉行の会所のあるシャナを襲撃、会所、
南部番屋、津軽番屋などに火を放ち、掠奪をほしいままにした。
2. 戸田又大夫の自殺
当時、シャナ会所の責任者の菊池惣内は、エトロフにたどりついた
陸奥・牛滝村の慶祥丸の漂流民を箱館へ護送のため留守で、
次席の戸田又大夫が指揮を執っていたが、戸田は会所を捨てて退き、
アリモイで自殺した。
3. 品川法禅寺
戸田の墓所についての記録は、私の知る限りなかったが、
札幌歴史懇話会で解読中の幕臣宮崎成身の「視聴草」第7集所収の
「文化丙寅騒動都下風聞」に、記載がある。
読み下しにすると
「戸田又大夫、寺、品川法禅寺のよし、この寺へは、又大夫、
臍(へそ)の緒をしるしに埋め候となり」
とある。品川法禅寺は、北品川宿にある増上寺末の浄土宗の寺院。
「墓所」とは、はっきりと書かれていないが、「臍の緒をしるしに埋め」
たとすれば、「菩提寺」と推測する。
4. エトロフの戸田の墓
「明治大正期の北海道」(北海道大学図書刊行会)に、
エトロフの戸田又大夫の墓の写真が所収されているので、紹介する。
墓碑銘は、縦書き3行で
「文化四丁卯年
 戸田亦大夫藤原常保墓
 五月○○」
と読める。3行目の2文字は、かすれてよくわからない。
なお、この写真には、次のような説明文がある。
「明治廿五年四月廿七日 戸田亦大夫ハ 幕府ノ臣ニシテ 
文化四年五月一日
 露西亜人入寇之際 我兵不振 多クハ遁走スルヲ以テ 
単身奮戦スト雖(いえども)
 勢之挽回スル能ハス 遂ニ有萌山下ノ沢ナカニ入リ 
国恥ヲ思ヒ自刃シテ死ス
 墓ハ 有萌山下海岸丘ニ今尚存ス」
この写真の撮影者は、遠藤陸郎となっている。
遠藤は、明治24~25年にかけて、明治天皇の勅命で
千島探検中の片岡利和侍従に随行した人物。
片岡一行は、明治24年11月17日、エトロフに着き、
シベトロで越年している。
img20080901.jpg

開拓使麦酒醸造所開業式

サッポロビール園の入口に「開拓使麦酒醸造所開業式」の写真を模して復元したモニュメントがあります。
もともとの写真は、北海道大学付属図書館所蔵で「明治大正期の北海道」(北海道大学図書刊行会)に所収されています。

その写真に3段につまれたビール樽に文字が描かれています。「縦書き7行」です。

「麦とホ
 ツプを
 製す連(れ)
 者(ば)ビイ
 ルとゆ
 ふ酒に
 奈(な)る 開業式」

樽の一番下に「開業式」とあります。
ビール園の復元モニュメントにも、きちんと書いてあるのは、さすがとおもいました。

開業式は、明治9年(1876)9月23日のことです。
場所は、札幌市内雁来通(現北2条東4丁目、サッポロファクロリー)です。
「開拓使麦酒醸造所」は、現サッポロビール園ではありません。

なお、明治10年9月のビールの値段は
大びん 16銭
小びん 10銭
です。(新札幌市史)
img20080805.jpgimg20080805_1.jpgimg20080805_2.jpg

開拓使の役割

テーマ・・開拓使の役割

◎日時・・9月16日(火曜)13:30~15:00
◎会場・・札幌市東区民センター
◎参加料・・無料
◎問い合わせ・・森勇二まで
        moriyuzi@poem.ocn.ne.jp
        電話090-8371-8473

等じゅ院と善光寺

◎はじめに

本論では、幕府が東蝦夷地に建立した官寺の設置数と設置場所の決定に至る経過について述べ、さらに、等じゅ院が、
寺号に「善光寺」を希望し、寺院建立地として、有珠の善光寺の場所を要望していたという、
興味深い文書が「等じゅ院文書」にあるので、紹介したい。

一、官寺の設置数の経緯
まず、蝦夷地での官寺の設置数の経緯をたどってみる。

①箱館奉行、「先ず当時一、二ケ寺」建立伺い
蝦夷地へ建立する官寺建立数について最初に言及した文書は、享和二年(1802)1月25日付で、箱館奉行の戸川安論と
羽太正養両名から寺社奉行に提出された伺書に見える。
「東蝦夷地内然るべき場所へ、都合五ケ寺建立の積りを以、
先ず当時一、二ケ寺も取建たく存じ奉り候」(注1)
箱館奉行は当初、一、二ケ寺の建立の伺いをしていた。
②寺社奉行、「先ず当時二、三ケ寺」と達する
箱館奉行の伺いに対し、翌享和3年(1803)正月19日、
寺社奉行・松平康定から次の達しがあった。
「先、当時二、三ケ所相建、追て二ケ所も相建てるべき場所等も、
是又承知致したく候」(注1)
 箱館奉行の「一、二ケ寺」の建立要望が、寺社奉行の段階で、
「二、三ケ所」と、微妙に変化している。
③箱館奉行、三ケ所建立の伺い
 寺社奉行の達しを受けて、箱館奉行は、享和3年(1803)正月、
寺社奉行の達しにある「二、三ケ所」のうち、多い方の「三ケ所」を取り、「当時相建てるべき場所」を進達、
さらに、「追て寺院相建てるべき場所」として二ケ所を寺社奉行へ進達している。
「函館よりヤムクシナ  追て寺院相建てるべき場所  十六里程
 同所よりウス迄    当時建てるべき場所     二拾里余
 同所よりシヤマニ迄  当時建てるべき場所     六十里程
 同所よりクスリ迄   追て寺院相建てるべき場所  五十三里程
 同所より子モロ迄   当時建てるべき場所     三十五里程」(注1)
④三寺に決定
三ケ寺建立が、箱館奉行に達せられたのは、享和3年(1803)11月19日のこと。箱館奉行の伺いが受け入れられたことになる。
「亥十一月十九日、寺社奉行脇坂淡路守面談、蝦夷地寺院五ケ寺の内、
先三ケ寺、此度出来の積り」(注1)

二.建立寺院の宗派について
①天台宗、浄土宗の二宗派
 次に、蝦夷地へ建立する宗派について見る。
享和3年(1803)11月9日の「善光寺文書」の記述に、寺社奉行・脇坂安董から、寛永寺、増上寺へ、住職人撰の達しがある。
「蝦夷地へ寺院御取建て仰出され候間、住職人撰いたし、書出申さるべく候。
 右は、天台宗にて壱ケ寺、浄土宗にて壱ケ寺、外に壱宗の趣に候得共、
未だ治定これ無く」(注2)
この段階で、天台宗、浄土宗の二宗派が決定し、もう一宗派は未定であった。いうまでもなく、天台宗の寛永寺、浄土宗の増上寺は、
幕府の菩提寺であり、幕府に庇護された大寺である。

②三つ目の宗派
享和3年(1803)11月19日には、9日の段階では未定だった三つ目の宗派も
決まったことがわかる。寺社奉行・脇坂安董と面談した
箱館奉行・羽太正養は、次のように聞かされている。
 「住職の儀は、上野、増上寺、金地院にて相撰候由、淡路守、
申聞きかされ候」(注1)

三、官寺の設置場所の変更
 ところで、寺院設置場所については、前述の通り、
享和3年(1803)正月段階では、箱館奉行は、ウス、シヤマニ、子ムロを
予定し、
寺社奉行へ報告したが、文化元年(1804)9月24日に、箱館奉行戸川安論から
寺社奉行・脇坂安董へ、根室から厚岸への変更を申し入れている。
「寺院三ケ寺の儀、先達てウス、シヤマニ、子ムロの積り御掛合申し候処、
右の内子ムロ場所は、住居不勝手にこれ有るべくに付き、
子モロより二十里程手前、アツケシと申す処、格別気候も宜しく候間、
アツケシの方場所に取極め、御掛合申し候」(注1)
 これに対し、翌文化2年(1805)正月15日、奉行・脇坂安董から、
「御書面三ケ寺場所の儀、承知せしめ候」(注1)
と、了解の回答があり、ここに三官寺の設置場所が確定した。

四、寺号の決定
 蝦夷地に建立する寺院数、宗派、設置場所が決まった。
次に、寺号のについて見る。
【書き下し】
「一 同廿七日暁六ツ時出院、観音寺(注3)同道にて、
大久保安芸守殿(注4)内寄合(注5)へ罷出候処、
五ツ時過、寺社御奉行衆御揃、評席に於いて
淡路守殿申渡され左の通り。
       蝦夷地寺院住職秀暁出席、上野執当衆
       円覚院、今度蝦夷地寺院寺号之儀、   
       御老中へ伺之上、伺之通申付候
                    帰 嚮 山
                    厚 沢 寺
                    等 じゅ院
  右仰渡され相済、退去。寺社御奉行衆五軒御礼の為
  等じゅ院廻勤之事。」(注3)

 文化元年4月27日、寺社奉行から、寛永寺に対して、寺号の申し渡しがあった。善光寺文書、国泰寺文書にも、
この日、寺号の申し渡しがあったことが記されている。
五、寺号について等じゅ院のクレーム
【【書き下し】
「一 此度、浄家新寺之寺号、善光寺と相附申候。
  彼等之底意、彼地善光寺之場所へ建立
  仕度志願と推察仕候。若し、左様にも相成候ては、
  元来台家之善光寺を彼宗に奪取られ候様、
  世上之取沙汰、末々迄遁れ難く存じ奉り候。猶又、
  弥慈覚大師之御開基に相違も之無く候はば、
  恐れ乍、祖師之内鑑にも相叶申すべく哉に存じ奉り候。
  右、愚意之存念荒増申上げ奉り候。以上

     五月朔日       蝦 夷 地
                等じゅ院」

 この文書は、文化元年(1807)5月朔日、等じゅ院初代住職の秀暁から、
本山の寛永寺役僧へ出されたものである
秀暁は、寺号について、「元来台家之善光寺を彼宗に奪取られ」たことを
「世上之取沙汰、末々迄遁れ難」いと、強い口調で述べている。
この文書を等じゅ院の本山である寛永寺側が、どう取り扱ったかは、等じゅ院文書には見当たらない。いずれにしても、4月27日の寺社奉行の申し渡しが
覆ることはなく、等じゅ院が「善光寺」となることはなかった。

六.建立場所について等じゅ院のクレーム
【書き下し】
「一 蝦夷地箱立より道法三、四拾里の場に善光寺と
   如来安置之堂宇御座候由、承及候。尤、安置之
   時代も不分明の由に候得共、多分、慈覚大師
   之御開基に御座有るべく趣、諸人推察仕居候
   事に御座候。左候得ば、差急候儀は御座無く候得共、
   此度御取建之寺院、彼場所へ建立仕候様
   願上奉り度存じ奉り候。」(注6)

 この文書も、文化元年(1804)5月朔日、等じゅ院初代住職の秀暁から、
本山の寛永寺役僧へ出された文書である。
「箱立より道法三、四拾里の場に」ある善光寺は、「多分、慈覚大師の御開基」であると、「諸人推察」しているので、「此度御取建の寺院」、
つまり、等じゅ院は、「彼場所」、善光寺のあるウスへ建立したいとの
願書である。
 いうまでもなく、「慈覚大師」は、平安期の天台宗山門派の祖・天台座主円仁の謚名。
であれば、天台宗の等じゅ院は、当然、そのウスの地に建立したいという願いである。

七.等じゅ院の願い、聞き入れられず
 等じゅ院をウスの地に建立したいという等じゅ院の願いについても、本山の寛永寺が、どう扱ったかは不明であるが、
願いは叶わず、結局、等じゅ院は、シヤマニの地に建立されることになった。
 場所割について、箱館奉行と寺社奉行の間のやりとりについて、
「休明光記」から、その経過を拾うと、
・文化元年(1804)9月24日、箱館奉行戸川安論から寺社奉行脇坂安菫に対し、「三ケ寺就職場所等之儀は、其方にて御申渡され候儀と相心得申候」と、
場所割は、寺社奉行の権限であると心得ている旨の達しを出している。
・これに対し、寺社奉行脇坂安菫は、翌文化二年(一八〇五)正月十五日、「住居之場所、名前御割付、申聞され候様致し度候。地理不弁之事故、
拙者方にても取極難く、傍々御懸合に及候。御答次第、
猶伺之上取計申すベく候」と、場所割を、箱館奉行が提案するよう、付札している。
・これを受けて、箱館奉行は、「蝦夷地住職場所割」を提出した。
次は、「等じゅ院第一巻・蝦夷地寺院一件記」の一節である。
【書き下し】
「              蝦夷地住職場所割
箱館より道法九拾六里余           天台宗 
     シヤマニ               等 じゅ 院
                            秀暁
同所より道法三拾六里余           浄土宗
     ウス                 善 光 寺
                            荘海
同所より道法百六拾七里余          五山派
     アツケシ               国 泰 寺
                            文翁
右之通に御座候 以上
     丑 正月                      」

◎まとめ
 以上のように、官寺の設置数、設置場所の決定に至る経過を見てきた。
なかでも、等じゅ院が、寺号、設置場所について、「善光寺」にこだわり、クレームをつけたことは、興味深い。
 終わりに、なぜ、「善光寺」にこだわったのか、いわゆる「信濃善光寺」について、文献をひも解いてみる。
 「善光寺」といえば、信州長野平にある定額山善光寺。善光寺の建立について、「日本仏教辞典」によると、「善光寺古縁起」を引いて、
建立は皇極天皇元年(六四二)という。江戸時代の善光寺の宗派については、「大勧進別当(天台宗)と大本願上人(浄土宗)両人が寺務を行ったが、
寛永二十年(一六四三)善光寺が東叡山寛永寺の直末となり(中略)
以後大本願上人の寺務職に変わりはなかったが、大勧進別当が寺務表役とな」ったとある。信濃善光寺は、天台、浄土両派が管理していたが、蝦夷三官寺建立の文化年間は、天台宗が表役であり、等じゅ院の本山である寛永寺の末寺になっていた。
 このことは、等じゅ院初代住職・秀暁の前述の願いの基礎になっていたと推測する。

(注1)「休明光記」(「新撰北海道史第五巻史料一」所収)
(注2)「蝦夷地御取建並住職交代一件記」(「蝦夷地善光寺日鑑・解読第一巻」所収)
(注3)「観音寺」・・秀暁のこと。秀暁は当時、寛永寺末の上総国芝山(現千葉県山武郡芝山町)の観音寺(正式には天応山福聚院観音教寺観音教寺)の住職であり、観音寺の住職のまま、等じゅ院住職も兼務することになる。
(注4)大久保安芸守・・寺社奉行大久保忠真(ただざね・小田原藩主。享和四年一月から寺社奉行)
(注5)内寄合・・寺社奉行の定例会議。毎月六日、十八日、二十七日に行われた。
(注6)「等じゅ院住職記」(「等じゅ院文書第三巻」所収)

開拓使の移民政策~「羽越移住民取扱方伺」を読んで~

開拓使の移民政策~「羽越移住民取扱方伺」を読んで~

◎報告の要旨
 本報告では、北海道開拓に入った羽越地方の移民の取扱いに関して、開拓使の担当部局の伺いの内容について考察し、開拓使の移民政策の一環を述べたい。

1.羽越からの庚午移住民の概況
明治2年12月、開拓使は酒田県(明治2年7月成立、酒田を中心とする庄内地方の旧幕領、旧藩没収地を管轄。後、山形県)に対し「今般当使本府石狩へ御取建ニ付、札縨辺追々開墾ノ積、就テハ羽越国ノ内ヨリ農民男女三百人程移住為致度、此段申入候也」(道立文書館所蔵「部類抄録七民事部移住」)と、移民募集を依頼した。
「新札幌市史」にその経過が記載されている。要約すると、開拓使は、羽越地方(今の山形、新潟県)へ小貫直和権大主典、平田弥十郎少主典を派遣し、移民募集に当たらせた。
応募した農民は、翌3年3月から4月にかけて新潟、酒田を出発し、石狩を経て札幌に向い5月には土地割渡しを受けている。
以下、移民の入居先と人数は、次の通りである。村名は、明治3年が庚午年であることに由来する。(  )は、明治4年5月21日に改称された村名。
<山形移民>
・庚午一の村(苗穂村)36戸120人
・庚午二の村(丘珠村)30戸90人
・庚午三の村(円山村)30戸90人
<新潟移民>
 ・庚午四の村(札幌村)22戸96人

2.羽越移住民への移住手当
 先の「部類抄録七」は、「移住御手当向」として、次の内容が記されている。
① 出立当日ヨリ御賄
② 支度御手当男女小児共一人ニ付金三両
③ 家一軒、鍋二枚、蒲団一人ニ付二枚ツゝ
④ 一日金一朱ツゝ
⑤ 玄米一人ニ付五合ツゝ
⑥ 農具
 一方、「開拓使事業報告第2編(勧農)」には、各村への移住に対する扶助についての記事があり、例えば円山村への移住者について明治3年の項に「六月家屋及扶助米金等ヲ給スル例規ノ如シ」とあり、苗穂村移住者についても同年4月の項で同様の記事がある。また、丘珠村の項でも「五月耕地ヲ下付シ扶助米金等ヲ給スル例規ノ如シ」とある。
「例規ノ如シ」とは、何を指すのだろうか。前記「開拓使事業報告」によると、開拓使は、前年の明治2年11月、「仮に移住扶助規則を定め」(いわゆる「移住扶助仮規則」)ているから、この「仮規則」を指していると思われるが、先の「部類抄録七」の「移住御手当向」を比較すると、相違が見られる。

3.羽越移住民取扱方伺書
明治2年12月の羽越移住民への「移住御手当向」の内容は、「移住扶助仮規則」と比べてきわめて大雑把であるが、実際には、もっと細かな内容であったことが、「羽越移住民取扱方伺書」(道立文書館所蔵「部類抄録七民事部移住」)から、推測できる。
この伺書は、明治3年7月2日、開拓使開墾掛・荒井龍蔵から提出されている。(道立文書館所蔵「明治三年同四年書類」。以下「荒井意見書」という)この伺いは、移住民の待遇改善の要請といえる。以下、その内容を述べる。
①諸品代金の返済について・・日当引去は、「活計相立申間敷・・当地へ移住一銭の操合モ仕兼候儀ニ付、実以テ困窮仕候」。したがって、「諸品代金ノ儀ハ、冬仕事ヲ以テ為仕可申」
②玄米の扶助について
イ.「玄米五合」は、「農夫一人前ノ者ニ男女共食料、迚モ足合不申・・十五歳以上ノ男女ハ別段二合五勺ツゝ拝借被仰付度、独身ノ者ハ5合ツゝ来未年8月迄別段被仰付候様仕度」と要望している。
ロ.7歳未満の者へは1日3合づつだが、「聊四十余人」であり、一人2合減らしても1年で3石2~3斗だけで、平均5合扶助すれば「一統ノ人気ノ宜敷、一入難有」としている。
③農具について
イ.1軒に鍬、鎌、鐇、1丁づつという農具の給与は、「男女共十四歳以上ハ、人別ニ被下候様」、また、婦人へは、「鐇(注1)ヲ鉈ニ御替御渡被下度」と細かなことまで要請している。
④木綿などの貸付願い
⑤鉄炮・玉薬の貸付願い・・「開墾場ノ義ハ・・猛擒類は勿論、鹿多、甚当惑・・壱ケ村に鉄炮弐挺ツゝ、玉薬共御貸し被下度」と要請している。
⑥病人対策として食料備え願い・・「最早九人程死亡・・六十人余モ打伏罷有・・一向食付不申候ニ付、饂飩、素麺、白玉、或ハ梅漬ノ類・・何卒病人為食料掛ヘ御備被下度」と、要請している。
⑦開懇掛の充実について・・「荒井意見書」は、開墾掛は、開墾地の「最寄ニ詰合」すべきで、そのため、塩噌など諸品を備え置く蔵を開き役邸を取建てるよう要望し、また、開墾掛専任の大主典を人撰してほしい旨上申している。
⑧開墾場の用水確保のため、フシコサツホロ川の切開と本府からの新堀の開削を要望している。

 この「荒井意見書」は、移住民の窮状を知り、待遇改善を上申する官吏の心情が伺える。

4.明治3年12月布達の「移民規則」
 開拓使は、明治3年12月、5項目からなる「移民規則」を新たに定めている(「開拓使事業報告第2編(移民)」)。そのひとつに「来未年ヨリ三ケ年間一人前一日玄米七合五勺、一ケ月金二分ツゝ被下候事」とある。前年11月の「仮規則」が、「15歳以上玄米5合」であったのに比べ、年齢別の扶助区分はなく、しかも、一人当たり、2合五勺増加させている。これをみる限り、玄米の扶助に関しては、「荒井意見書」が生かされ、改善されたことになる。彼の他の要請がどのように受け入れられたか、または受け入れられなかったかは、今後の課題としたい。

◎おわりに
 本来、与えられた資料全体や、更に移民関係の資料を読み、関連文書も読み解き、開拓使の移民計画の実態を考察すべきだが、私の力量不足で、「羽越移住民取扱方伺書」(「荒井意見書」)を要約するにとどまったが、北海道開拓の初期に、開拓使が募集した移民に対する待遇に関して、その改善を要望した官吏がいたことに、私は注目し、その内容を紹介した。
 「移民扶助仮規則」や「移民規則」と、入植者への個々の対応の実態について、今後、機会があれば、検討を加えていきたい。

(注1)鐇=たつき。たつぎとも。工人の用いる広い斧(広辞苑)

札幌近郊の村々のなりたち

◎はじめに
・札幌の発展の基礎を築いた人々をまとめてみた。
・なお、昭和45年(1970)100万人突破。47年(1972)政令指定都市となる
現在(2008年2月1日)、868,415世帯1,895,581人

1. 江戸時代のサッポロ・・商場とサッポロ七場所
・寛文9年(1669)・・ハツシャブ、サツホロ(津一統志)
・元禄12年(1699)・・「沙津保呂(サツホロ)」が、松前藩家臣の谷梯(やつはし)倉右衛門、高橋五右衛門の支配地でアイヌとの商場となっていた。交易品は、サケ、タカの尾羽、熊胆、毛皮など
・宝暦5年(1755)・・飛騨屋久兵衛が松前藩に運上金を支払い、伐木を始めた。札幌川(伏古札幌川と豊平川が連絡)をさかのぼって、マコマナイを越え漁川上流で伐木、杣夫は二百人前後の和人。
・寛政年間(1789~1801)には商場の整理され、イシカリ13場所と称され、サッポロ7場所(ハッシャブ、下サッポロ、上サッポロ、下シノロ、上シノロ、下ツイシカリ、上ツイシカリ)といわれた。アイヌ戸口は58戸・262人。
・文化4年(1807)の状況・・アイヌとの交易・商場としての札幌。
ハツシャブ・・請負人米屋孫兵衛、アイヌ34人
下サツポロ・・請負人京極屋喜兵衛、アイヌ119人
上サツポロ・・請負人浜谷甚七、アイヌ187人
シノロ・・請負人筑前屋清右衛門、アイヌ125人
ナイホウ手場(直領)・・請負人梶浦屋吉平、アイヌ28人
上ツイシカリ・・請負人米屋孫兵衛、アイヌ106人
下ツイシカリ・・請負人直次郎、アイヌ不明
合計約600人のアイヌの人々の集落があった。運上金合計375両
・サッポロは、石狩川支流の商場でしかなかった。
・しかし、ロシアの北方進出で、石狩地方は、箱館と樺太の中間基地として重視されるようになった。
2. 札幌越新道の開削
・近藤重蔵のサッポロ本府論・・ロシアに対峙するには、「イシカリ川筋カバト山、浜通りタカシマ、ヲタルナイの奥、またはサッポロの西テンゴ山の辺りに拠点を置くのがいいと意見を述べている。
札幌に着眼した点からも重蔵は、札幌創建の基石おいた人物といえる。
・安政4年(1857)札幌越新道(銭函~星沖~発寒~豊平~島松~勇払)の開削。銭函道(銭函~豊平)、千歳道・千歳越(豊平~勇払)とも。
→札幌が陸上交通の要衝(ようしょう)となった。
・松浦武四郎の石狩建都構想・・近藤重蔵の石狩建都の構想を具体化しようとして、ツイシカリから3里ほどさかのぼった豊平あたりを絶好の場所と考え、アイヌの乙名にも相談のうえ、箱館奉行に進言した。「そこに本府がおかれれば、そのうち、石狩川河口は大阪のように繁盛し、10里さかのぼったツイシカリは伏見に匹敵する土地となり、さらに川舟3里のぼった札幌は京都と同じになろう」と考えていた。
3. 村落の形成
① ハッサム(発寒)村
・安政4年(1857)イシカリ在住武士の入地の中心地。リーダー秋山繁太郎らが入る。
・在住制・・手当を支給される武士が農民を募集し、開拓した土地は在住がいる限り永久に給与されることを骨子とした制度。
・明治3年(1870)発寒村となる。26戸
・明治5年(1872)手稲村を分村。
・明治9年(1876)屯田兵村がつくられ32戸入植。養蚕も盛んに行う。
・明治20年(1887)琴似から小樽内川まで新川を造成。
・明治39年(1906)琴似村に併合、琴似村の大字となる。
② 琴似村
・明治4年(1871)辛未一の村に入植した東本願寺住民が入植、50戸182名が八軒、十二軒、二十四軒分かれて集落を形成。
・明治8年(1875)青森、宮城、酒田各県の士族など198戸965人が移住、屯田兵村を形成。20,21年には、更に220戸が移住し新琴似兵村がつくられる。
・明治39年(1906)発寒村、篠路村の一部をもって2級町村琴似村が成立
・昭和17年(1942)手稲村大字下手稲村の一部を編入、琴似町となる。
・昭和30年(1955)札幌市の一部となる。
③ 篠路村
・安政6年(1859)石狩在住の荒井金助がシノロ地域で農民を募集して開墾、「荒井村」が成立。福島・白河藩の職人・早山清太郎が開墾に入る。(上荒井村、下荒井村に分けて把握されていた)
・在住・中嶋彦左衛門もコトニ川支流のケネシベツ川に入植。農民を募集し、「中嶋村」が成立。
・明治4年(1871)、上荒井村、下荒井村、中嶋村を合わせて篠路村と呼称するようになった。「十軒」集落・・南部盛岡藩士10戸が入植。
・明治15年(1888)、福岡県人の開墾社が入植。「福移」集落の形成。
・同年、興産社、徳島から入植。藍耕作を始める。「あいの里」
・明治22年(1889)、屯田兵村220戸。福岡、熊本、山口、徳島、和歌山、福井、石川56県から入植。
・明治39年(1906)2級町村篠路村が誕生。
・昭和30年(1955)札幌市に編入。福移の一部は、江別市に編入。
④ 手稲村
・明治5年(1872)、仙台・白石藩の伊達邦憲(くにのり)家臣600人のうち、藩士三木勉らが、54戸240人が発寒村に移る。手稲村を設置。7年(1874)星置方面が下手稲村に分村、本村側は上手稲村と改称。
⑤ 山口村
・明治15年(1882)山口県から17戸が移住をはじめとして明治27年ころまで、移住が続く。
・明治35年(1902)下手稲村、上手稲村、山口村がいっしょになり「手稲村」となる。
・昭和26年(1951)町制施行して「手稲町」になる。
・昭和42年(1967)、周辺町村では最も遅く札幌市に編入。
⑥ 札幌村
○札幌元村
慶応2年(1866)石狩在住の大友亀太郎はフシコサッポロ川上流の地に御手作場といわれる開墾場を設置、4年にかけて23戸95名、更に明治2年(1869)に、4戸11名が入植。
○庚午一の村(のちの苗穂村)・・庄内藩の坂野元右衛門組36戸120人が入植。
○庚午二の村(のちの丘珠村)・・酒田県人今野徳治組44人、一戸直吉組51人の30戸
○庚午四の村(のち札幌新村)・・明治3年(1879)開拓使が柏崎県から募集した農民22戸96人を入植させた地。原伝左衛門組22戸96人。
ほかに、岡田忠兵衛組59人。

*明治3年(1870)、庚午(かのえ・うま)の年にフシコサッポロ川の両岸に定着した募移民は88戸308人。(「まちの歴史講座」)

○雁来村・・明治4年(1871)宮城県人岡田三郎右衛門組24戸(3戸は生降、21戸が江別の対雁に入植)→6年、豊平川左岸(苗穂駅東の自衛隊駐屯地から北13条大橋にかけての地)に移転、開拓使は雁来村と命名。

*明治3年(1870)から7年にかけて、107戸360~370人の募移民と、御手作場の人たち、自移民、アイヌの人たちが一体となって、今の東区の村づくりが進められた。(「まちの歴史講座」)
*明治35年(1902)、これらの村々がいっしょになって2級町村・札幌村が誕生。
*昭和30年(1955)札幌市に編入。

⑦ 円山村
  ○庚午三の村
・山形県人日田豊三郎組、本間作治組が入植。(のち円山村)
  ・また、新潟県の石野平八郎組も入る。(発寒村に編入)
  ○円山村
・明治4年(1871)、庚午三の村が改称して成立。同年、札幌神社建立。
  ・明治39年(1906)、山鼻村といっしょに、藻岩村となる。
  ・昭和13年(1938)町制施行。円山、山鼻、八垂別、白川の4つの字(あざ)を編成して円山町となる。
  ・昭和16年(1941)、札幌市に編入。周辺衛星町村では、最も早い。

⑧ 山鼻村
・明治4年(1871、辛未=シンビ、かのと・ひつじ)東本願寺(明治3年建立)付近に、越後から募集した40人の農夫と、札幌で募集した50戸が入植し、「辛未一の村」が成立。しかし、同年中に円山村、琴似村に全戸が移転。
・明治7年(1874)、農民数戸が石切道(石山道路)を中心に入植し開村。
・明治9年((1876)、東屯田通(現西9丁目通)に120戸、西屯田通(現西13丁目通)に120戸の屯田兵が入植。
・明治39年(1906)、円山村とともに、「藻岩村」となる。
  ・昭和13年(1938)町制施行。円山、山鼻、八垂別、白川の4字を編成して円山町となる。
  ・昭和16年(1941)、札幌市に編入。周辺衛星町村では、最も早い。

⑨ 白石村
・明治3年(1870)、旧仙台藩白石城主片倉邦憲は旧家臣団を率いて幌別に入植。一派が石狩を経て望月寒に入植。「望月寒村」と称した。のち故郷白石にちなみ、「白石村」と改称。5年の戸数104戸380人。
・6年(1873)、26戸が豊平川沿岸に移住、上白石村を形成(はじめ「新白石村」ともいった)。
・これに伴い、白石村は「下白石村」とも称された。
・明治35年(1902)、上白石村と白石村が合併し2級町村白石村が誕生。
・明治43年(1910)大字上白石村の一部を札幌区へ編入。
・昭和25年(1950)札幌市の一部となる。

⑩ 豊平村
・安政2年(1855)、豊平川に渡船場が設けられ志村鉄一が橋守となる。
・安政4年(1857)、千歳越(札幌越新道とも)が開削されると宿泊所も設置された。
・明治5年(1872)から移住者が入り、明治7年(1874)、豊平村となる。
・明治35年(1902)豊平村、平岸村、月寒村が合併し2級町村豊平村が成立。
・明治41年(1908)、町制施行、札幌周辺町村では、一番早く町制施行。
・昭和36年(1961)札幌市の一部となる。
⑪ 平岸村
・明治4年(1871)、杉本平九郎(旧仙台藩士)が、岩手県(胆沢県=いさわ・県都は水沢、現奥州市)の士族・農民65戸が入植、開村。のち福岡県から21戸が入植。
・明治9年(1876)、開拓使、真駒内牧牛場設置。15年(1882)ころからリンゴ栽培も行われた。
・明治8年(1875)には、石山、穴の沢で軟石の採取が始まる。
・明治35年(1902)豊平村の大字になる。
⑫ 月寒村
・明治4年(1871)盛岡県から43戸185人が入植。当時千歳通といわれていた。
・明治17年(1884)以後、広島県人が入植、26年(1893)広島村として分村。
・明治29年(1896)第7師団独立歩兵大隊が置かれたのをはじめ、多くの軍事施設が設けられた。軍都の形成に伴い人夫の流入も増大して千歳街道沿いは市街地化した。
・明治35年(1902)豊平村の大字になる。

<参考文献>
・「角川日本地名大辞典」(角川書店)
・「新札幌市史」(札幌市教育委員会編)
・「ひがしく再発見 まちの歴史講座」(札幌市東区役所編)

文化4年の中村小市郎

◎「蝦夷紀聞」・・文化3~4年(1806~1807)のロジア人による樺太・エトロフ襲撃事件についての公私の文書、風聞の類を日付順に収録したもので、全15巻。
◎小市郎の名前・・そのうち、小市郎の名前は、3巻の最後の方に出てきます。
南部藩主の南部大膳大夫から幕府への届書のなかです。日付は文化5年5月晦日。
◎当時の状況・・ロシア人がエトロフを襲撃したのは、文化4年4月23日から29日にかけてのことで、その報が箱館に届いたのが5月18日のこと。
いろいろな風評がかけめぐり、公私の文書も飛び交いますが、この南部藩主の文書はそのひとつです。
◎事件当時の小市郎・・小市郎は、文化4年の事件当時は、クナシリ詰めでした。クナシリ会所は同島のトマリにあり、詰めていたのは、向井勘助と小市郎でした。「休明光記」によると、クナシリ北部のルシアで「大筒の音相聞」えた折、向井勘助は現地ルシアにおり、小市郎は、勘助に「心付」せず、「自分持場」、つまり、トマリに帰ったという理由で、「急度叱置」という処分を受けることになります。一方、勘助は「誉置」という論功行賞を受けます。
◎「蝦夷紀聞」の小市郎関係部分・・書き下しすると、次のようになります。
「去る三日、クナシリ島詰の者、同所会所へ呼出、中村小市郎、向井勘助立会にて・・(以下略」)
この後の文を読むと、要するに、クナシリ詰の南部藩士が、箱館奉行役人の小市郎、勘助より、エトロフ事件を聞かされ、小市郎らは、南部藩士にそれぞれ、藩で防備を固めるよう指図し、南部藩士は、箱館詰の南部藩士へ、その指示を伝えます。南部藩では、派兵準備をしていたが、奉行からは、「南部藩は、前年のカラフト事件の際、すでに500人を派遣していたので、再度の増派は不要」との達しがあり、その経過を、在所(盛岡)より、江戸詰の藩主・大膳大夫へ報告があったので、その旨を幕府に届けた。という内容です。
小市郎は、クナシリのトマリ会所で、エトロフ事件とその善後策を南部藩士に申し渡したということが、南部大膳大夫の届書に登場したことになります。
◎以前にいただいた小市郎の掛図との関係・・このあと、小市郎には、帰還命令が出て、クナシリを離れ、シャリ(掛図では「社里」)経由で箱館へ帰りますが、帰途「阿寒河」で乗った舟が暴風に遭い転覆することになります。
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