森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

歴史一般研究メモ

日露和親条約の締結年月日・・安政元年について

◎日露和親条約の締結年月日
・和暦では、安政元年12月26日
・ロシア暦では、1855年1月26日。この日付は、条約に明記されている。
・西暦では、1855年2月7日。

○安政元年について
①普通の年表では、「安政元年(1854)」とあり、親切な年表には、(11.27改元)とある。だから、安政元年は、和歴11月27日から12月30日まで(この年の12月は、大の月)である。
それ以前、つまり、和歴1月1日から、11月26日までは、嘉永7年ということになる。
②年表の見出しに「安政元年(1854)」とあることから、日露和親条約締結年を、かっこで、西暦に表示するとき、「1854年」としている論文などがあるが、正しくない。というのは、1854年は、和暦では、嘉永6年12月3日から、嘉永7年11月12日までである。それ以降が1855年となる。
③嘉永から安政に改元されたのは、和歴では、11月27日で、日露和親条約が締結されたのは、和歴安政元年12月21日であるから、この日は、西暦では、1855年2月7日となる。
④だから、日露和親条約が締結された年を西暦で表せば、1855年である。

◎余談だが、歴史小説なんかでも、陰陽歴対照表を見ないで、年表だけ見て、年号を書いているものを見かける。
近著では、山本一力の『ほかげ橋夕景』の「湯呑み千両」でも、「安政元(1854)年の大晦日」とある。この小説のキーワードにこの年の11月27日の改元があるが、それだけに、14日前の和歴11月13日、西暦が、1854年から1855年に改まっているのを知ってか知らずか。つまり、安政元年の大晦日は、1855年2月16日であり、1854年ではない。

◎結論
日本の歴史の論文であれ、歴史小説であれ、和歴に、西暦を併記する場合、陰陽歴対照表で確認しないと、間違うことになる。それをしないなら、いっそのこと、併記しないほうがいい。
こういいながら、私の古い文章は、対照表を見ないで、年表だけ見て併記してるものが、結構あると思うので、反省している。

【ヤドリギ、万葉集、新年】

ナラ、ブナなど大木の落葉樹が葉を落すと、梢に鳥の巣のような丸いかたまりが現れます。
寄生植物のヤドリギです。自ら光合成もするので、正確には半寄生植物というそうです。
 大伴家持の歌に、このヤドリギを詠んだ一首があります。

天平勝宝二年正月二日、国庁に饗(あえ)を諸(もろもろ)の郡司等に給ふ宴の歌一首 (万葉集 十八 4136)

<原文>
 安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等理天 可射之都良久波 知等世保久等曽

<訓読>
あしひきの 山の木末(こぬれ)の寄生(ほよ)取りて 
挿頭(かざ)しつらくは 千歳(ちとせ)寿(ほ)ぐとぞ

<通訳>
山の梢のから寄生(ほよ)を取って、髪に挿したのは、千年の命を祝う気持からです。 (「新編古典日本文学全集 萬葉集4」 小学館)

「寄生(ほよ)」は、ヤドリギの古名。この歌を作った当時の家持は、国司として越中に赴任していました。
越中の国庁は、現在の富山県高岡市伏木にあり、天平勝宝2年(700)の正月、家持は、国庁で開かれた宴で、集まった郡司らに新年のお祝いの歌を披露しました。それがこの歌です。

また、フランスやイギリスなどには、クリスマスにヤドリギのリースを飾り、その枝の下では女性にキスをするのが許される習慣が残っており、そうすると、その1年が幸せになるといわれています。

西洋でも、日本でも、ヤドリギは神聖な植物といえます。

ネットで探したら、鎌倉・鶴岡八幡宮境内の大木のヤドリギがありましたので添付します。
1本の木に、ものすごくたくさんのヤドリギが寄生しています。壮観です。

新年を迎えるに当たり、万葉集の一首を贈ります。
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◎武士社会の官位

◎武士社会の官位
・律令官位は、律令制が崩壊し、実質的な意味が無くなっても発給が続けられた。これらの名目上の官位は、武士階級において権威付けとして用いられた。徳川幕府は、官位を武士の統制の手段として利用した。「禁中並公家諸法度」により武家官位を員外官(いんがいのかん)とすることによって、公家官位と切り離し、武家の官位の任命者は事実上将軍とした。
その「官位」部分を「官途名(かんとめい)」という。
たとえば、「南部大膳大夫利敬(としのり)」の「大膳大夫」部分、「松前若狭守章広」の「若狭守」部分が、官途名である。
律令時代は、「大膳大夫(だいぜんのだいぶ)」といえば、実際に、「大膳職」という役所の「大夫(だいぶ、長官)」であったが、武士社会では、単に、みずからを権威づけのための官途名に過ぎない。
「若狭守」も、律令時代は、実際に「若狭」国の「守(かみ、長官)」であったが、松前藩主を権威づける「官途名」に過ぎない。
◎明治政府も利用した官位
・明治政府も律令時代の官位を利用した。
・律令時代、「民部省」「兵部省」などという役所である「省」の4等官(カミ、スケ、ジョウ、サカン)は、順に「卿(かみ)」「輔(すけ)」「丞(じょう)」「属(さかん)」といった。なお「輔」「丞」「属」には、それぞれ大少があり、「大輔」「少輔」と細分化されていた。
・明治政府は、これを使い、「省」の官名を「卿(きょう)」「輔(ふ)」「丞(じょう)」「属(ぞく)」と読んだ。たとえば、「内務省」の場合、大久保利通「内務卿」、大山巌「内務大輔」というたぐいである。
◎開拓使の職名について
ついでながら、明治政府の開拓使の官位を述べておく。
・律令時代、「勘解由使(かげゆし)」などの「使」の役所の4等官(カミ、スケ、ジョウ、サカン)は、順に、「長官(かみ)」「次官(すけ)」「判官(じょう)」「主典(さかん)」と読んだ。これも「判官」「主典」には、大少があった。
・開拓使の職名もこの官位を使った。読み方は、「長官(ちょうかん)」「次官(じかん)」「判官(はんがん)」「主典(しゅてん)」と音読みに変わった。黒田清隆「開拓長官」、松本十郎「開拓判官」というたぐいである。

官職名としての国司

官職名としての国司
◎はじめに
ある研究会で、「淡路守、出羽守などというが、淡路とか、出羽などの国によって位の上下あったのか」という質問が出された。
官職は、律令時代と江戸時代では、大きく異なるので、まとめてみた。結論からいうと、律令時代は、由緒ある正式な職で、名前によりランクが付けられていたが、江戸時代の大名や幕吏が国司などの官職を名乗る場合は、形骸化し、名前による上下はなくなっていた。

Ⅰ.律令時代(大化改新後~奈良時代・平安前期まで)
別紙添付の表は、「官職要解」(和田英松著、講談社学術文庫)である。これを見るとわかるが、もともと、律令制では、国は、大・上・中・下の4等に分けられていた
1. 4等級は、何を基準に分けられたか。
・和田英松氏は、前掲書のなかで、「詳細のところはわからない」としながら、諸文献を引用し、「住民の多少、開墾が行き届いておるかおらぬかによったので、つまり、国庫収納の多少をもとにして定められたものらしく思う」と述べている。
2. 律令時代の国司の官職
・国司(こくし)は、国々を収める役人で、「クニノツカサ」ともいわれた。京都の役人を「内官」といったから「外官(げかん)」ともいわれた。
・国司が政務をとるところを、「国府」とか「国庁」などと呼ばれた。
・国司長官は「守(かみ)」、次官は「介(すけ)」、以下「掾(じょう)」「目(さかん)」「史生(ししょう)」があった。
さらにいえば、「守」の下に「権守(ごんのかみ)」があり、「掾」「目」には、大少があったから、全部の官職を上から並べると、
守、権守、介、大掾、少掾、大目、少目、史生という順になる。
・なお、諸国のうち、上総(かずさ)、常陸(ひたち)、上野(こうずけ)は、親王の任国であったので、長官を太守(たいしゅ)といった。したがって、この3国では、もっぱら「介」が政務をとっていたから、この3国の「介」は、「守」ともいった。
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旧国名に「州」をつけた呼び方

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「蝦夷紀行」の来歴~岡野義知にふれて

◎はじめに
「蝦夷紀行」は、北海道立文書館(以下、文書館)所蔵の「旧記」である。文書館編の「北海道の歴史と文書」によると、「旧記」とは、「主として近世後期から明治初期までに成立した北海道関係の地誌・紀行・日記・歴史関係の記録等」のことである。文書館所蔵の旧記は2341点あり、「蝦夷紀行」の請求番号は「旧記1782」である。
1. 原本と写本の来歴
① 原本・・著者・館野瑞元の文化4年(1807)9月29日付、長橋右膳宛の手紙。
② 「定所主人」の「抄写本」
・奥書に、翌文化5年(1808)9月18日付けで、「原文繁して、且ながければ刪潤してうつし置」とある。原文はもっと長かったことが窺える。「刪潤」とあるから、削ったばかりでなく、補った箇所もあることになる。「定所主人」は館野の原本を見たことになる。彼は、原本を写したのではなく、「刪潤」したのだから、写本でなく、いわゆる「抄写本」ということになる。
・また、「蝦夷紀行」と題したかどうかについては、「此書簡・・蝦夷地に行たる事を記したる也」とあるから、まだ、「蝦夷紀行」とは題されていないことになる。
・「定所主人」は、不明。彼が、「原文」を入手した経過もわからない。
③ 「岡野みなもとの義知」(以下「岡野氏」)の写本
・さらに、「定所主人」の奥書の後に、岡野氏の奥書があり、「ある書房にて・・かひもとめ・・つたなき、ふんてとりて、かく写しぬ」とある。だから、「抄写本の写本」ということになる。
・岡野氏は、「此蝦夷紀行」を買ったのだが、当初から「蝦夷紀行」と題されていたのか、彼が題をつけたのか、または、題はなく、単に「蝦夷地の紀行の本」だったのかは、分からない。
・現在、道立文書館所蔵の「蝦夷紀行」は、岡野氏が購入し所蔵したものであり、「蝦夷紀行」と表題がある。
 <その根拠>
 ・奥書の最後に、岡野氏の署名と朱印2つがある。ひとつは丸印で「義知」、もうひとつは、角印で「岡野」とある。
 ・さらに、表紙裏に「岡野氏文庫」という縦長の朱印がある。
◎岡野義知について
○著書
「鬼怒川小貝川用悪水路図」
・彩色 60.3×209.5cm、明治大学図書館蘆田文庫所蔵)
・奥書・・「嘉永元年葉月中の十五日 岡野義知しるす」
*「蝦夷紀行」の奥書・・ 「卯月末の九日」
○写本
「蝦夷島奇観」の手写し(坂本龍門文庫所蔵)
岡野義知は幕末の絵師   → 「蝦夷紀行」の付図も岡野の手になる
2. 道立文書館所蔵の来歴
① 旧記の収集・・前掲書によると、北海道では、開拓使以来、献納、購入、書写などして、精力的に旧記の収集に努めた。これらには、所蔵に帰した時代と担当係、その後の引き継ぎ経過によって、「開拓使印」「函館支庁印」「記録局編輯課」「札幌県図書印」「北海道庁之印」などの蔵書印が押され、その来歴を知ることができる。
② 札幌県時代・・「札幌縣圖書印」
・「蝦夷紀行」の表紙の蔵書印がふたつあり、そのひとつは「「札幌縣圖書印」。
・明治15年(1882)2月8日、開拓使が廃止され、「札幌県」など3県が置かれた。札幌県では、翌16年12月、「札幌県図書取扱手続」を達し、図書にはすべて「札幌県図書印」を押し、旧記は記録局編輯課が保管することになった。
・「蝦夷紀行」には、「開拓使印」はないので、札幌県時代に収集されたと思われる。
・なお、旧所蔵の「星野氏」に関する印は、墨で「×」され、さらに、その上に和紙
   されている。「蝦夷紀行」の所有が、星野氏から、札幌県に移ったことがわかる。
③ 北海道庁時代・・「北海道廳圖書之印」
・明治19年(1886)、3県を廃止し北海道庁が置かれた。図書の管理は第一部記録課の所管になり、20年、北海道庁訓令で図書管理が規定され、「北海道廳圖書之印」を押すことになった。
 ・明治42年(1909)1月12日、赤れんが庁舎火災のおり、図書類も損害を蒙ったが、「蝦夷紀行」は、難を免れた。
④ 道立文書館
・「蝦夷紀行」など旧記や諸文書の保管・利用は、その後、総務部文書課史料編集係を経て、昭和43年(1968)に、総務部行政資料室(のち課)が設置された。
・昭和60年4月1日、「北海道立文書館条例」が公布され、7月1日開館した。旧記をはじめ、諸文書が保存されている。
◎まとめ
・文書館にある館野瑞元の「蝦夷紀行」は、館野の手紙の「抄写本の写本」ということになる。
現在、「蝦夷紀行」は、北海道総務部法制文書課の中の組織である北海道立文書館が保存・利用にあたっている。・したがって、「蝦夷紀行」の筆跡は、「岡野みなもとの義知」なる人物である。
<参考文献>
・「北海道の歴史と文書」(北海道立文書館編、北海道出版企画センター刊、1987)

【太政官の建物はどこにあったか】

太政官とは、「天下の権力総てこれを太政官に帰す」(政体書)と規定された、明治初期の日本の最高官庁。
 「太政官」の役所の所在地がどこだったかを述べる。

・慶応4(1868)閏4月21日、政体書を定め、太政官のしたに、7官2局を置く。太政官は京都御所に設置された。
・明治2(1869)年2月24日・・明治天皇東京滞在中、太政官は東京に移転することを達し、皇城内西の丸に置かれる。
・明治5(1872)年3月・・西の丸下に太政官庁舎を造営。
・明治6(1873)年5月5日・・皇城の火災により、多くの公文書類もろとも、太政官庁舎は焼失。即日、赤坂離宮が仮皇居と定めるが、太政官については、馬場先門内の旧教部省庁舎を活用することとなり、同庁舎に「太政官代」が設置。
・明治10(1877)年8月・・しかしながら、「万機を親裁」する天皇が居住する赤坂離宮と太政官庁舎との間に距離があるのは不都合であるとして太政官を赤坂仮皇居内に移転。
・明治11(1878)年6月、木造西洋式2階建ての太政官庁舎が赤坂仮皇居内に新築。以後、内閣制度発足の明治18(1885)年12月22日までは太政官庁舎となり、明治22(1889)年1月まで内閣庁舎として使用された。

(参考:国立公文書館ホームページ「デジタルギャラリー」)

江戸から佐井まで

<奥州街道と南部北通り>
幕府の道中奉行(勘定奉行の管轄)の直轄であった白河までは早くから整備ざれていた。ところが白河以北となると、脇街道的存在となっており、宿駅の数も一定せず、千住~三厩間113次、89次、75次など、増減がはなはだしい。また、「間宿(あいのしゅく)」(正規の宿駅間に設けられた休憩の宿)もあるので、余計にややこしい。街道の呼び方も、江戸期の「道中記」には、特に白河以北は、「仙台道」「仙台松前道」「南部道」など、いろいろあり、一定していない。宿名もいろいろな字があてられている。読み方もいろいろある。なお、盛岡~日本橋間は139里あり、11泊~13泊の旅程だった。
更に、盛岡以北となると、参勤交代の大名の往来も八戸南部藩、松前藩の二家が通過するだけで、宿駅といっても領内の宿屋と同程度であった。奥州街道は整備され始めたのは、北辺警備問題が起ってからである。人馬・貨物の往来の増加で、面目を一新する必要が生じた。
ところで、野辺地から分岐して田名部に至り、更に、佐井までを、「北通り」「田名部通り(道)」などといった。この地は、中世から「北郡(きたごおり)」と呼ばれ、江戸期には、「北郡」(きたぐん)と呼ばれた。「下北郡」と「上北郡」に分かれたのは、明治11年である。なお、田名部から南部城下の盛岡まで約54里で、夏は「5日路」、冬は「7日路」として旅したという。
<日光街道の宿場>
1. 千住(せんじゅ・東京都足立区)
2. 草加(そうか・埼玉県草加市)
3. 越ヶ谷(こしがや・埼玉県越谷市)
4. 粕壁(かすかべ・埼玉県春日部市)
5. 杉戸(すぎと・埼玉県北葛飾郡杉戸町)
6. 幸手(さって・埼玉県幸手市)
7. 栗橋(くりはし・埼玉県北葛飾郡栗橋町)
8. 中田(なかた・茨城県古河市)
9. 古河(こが・茨城県古河市)
10. 野木(のぎ・栃木県下都賀郡野木町)
11. 間々田(ままだ・栃木県小山市)
12. 小山(おやま・栃木県小山市)
13. 新田(しんでん・栃木県小山市)
14. 小金井(こがねい・栃木県下野市)
15. 石橋(いしばし・栃木県下野市)
16. 雀宮(すずめのみや・栃木県宇都宮市)
17. 宇都宮(宇都宮城下)(うつのみや・栃木県宇都宮市)→奥州街道へ
18. 徳次郎(とくじろう・栃木県宇都宮市)
19. 大沢(おおさわ・栃木県日光市)
20. 今市(いまいち・栃木県日光市)
21. 鉢石(はついし・栃木県日光市)
<奥州街道の宿場>
1. 白沢(しらさわ・栃木県宇都宮市)
2. 氏家(うじ
3. いえ・栃木県さくら市)
4. 喜連川(きつれがわ・栃木県さくら市)
5. 佐久山(さくやま・栃木県大田原市)
6. 八木沢(やぎさわ・栃木県大田原市)
7. 大田原(おおたわら・栃木県大田原市)
8. 鍋掛(なべかけ・栃木県那須塩原市)
9. 越堀(こしぼり・栃木県那須塩原市)→<間宿>寺子(てらご・栃木県那須塩原市)
10. 芦野(あしの・栃木県那須郡那須町)→<間宿>板谷(いたや・栃木県那須郡那須町)→<間宿>寄居(よりい・栃木県那須郡那須町)
11. 白坂宿(しらさか・福島県白河市)
12. 白河宿(しらかわ・福島県白河市)
<仙台松前道の宿場>
1. 根田(ねだ・福島県白河市)
2. 小田川(こたがわ・福島県白河市)
3. 太田川(おおたがわ・福島県西白河郡泉崎村)
4. 踏瀬(ふませ・福島県西白河郡泉崎村)
5. 大和久(おおわぐ・福島県西白河郡矢吹町)
6. 中畑新田(なかはたしんでん・福島県西白河郡矢吹町)
7. 矢吹(やぶき・福島県西白河郡矢吹町)
8. 久来石(きゅうらいし・福島県岩瀬郡鏡石町)
9. 笠石(かさいし・福島県岩瀬郡鏡石町)
10. 須賀川(すかがわ・福島県須賀川市)
11. 笹川(ささかわ・福島県郡山市)
12. 日出山(ひでやま・福島県郡山市)
13. 小原田(こはらだ・福島県郡山市)
14. 郡山(こおりやま・福島県郡山市)
15. 福原(ふくはら・福島県郡山市)
16. 日和田(ひわだ・福島県郡山市)
17. 高倉(たかくら・福島県郡山市)
18. 本宮(もとみや・福島県本宮市)→<間宿>南杉田(みなみすぎた・福島県二本松市)→<間宿>北杉田(きたすぎた・福島県二本松市)
19. 二本松(二本松城下)(にほんまつ・福島県二本松市)
20. 油井(ゆい・福島県二本松市)
21. 二本柳(にほんやなぎ・福島県二本松市)
22. 八丁目(はっちょうめ・福島県福島市)→<間宿>浅川新町(あさがわしんまち・福島県福島市)
23. 清水町(しみずまち・福島県福島市)
24. 福島(福島城下)(ふくしま・福島県福島市)
25. 瀬上(せのうえ・福島県福島市)
26. 桑折(こおり・福島県伊達郡桑折町)
27. 藤田(ふじた・福島県伊達郡国見町)
28. 貝田(かいだ・福島県伊達郡国見町)
29. 越河(こすごう・宮城県白石市)
30. 斎川(さいかわ・宮城県白石市)
31. 白石(白石城下)(しろいし・宮城県白石市)
32. 宮(みや・宮城県刈田郡蔵王町)
33. 金ヶ瀬(かながせ・宮城県柴田郡大河原町)
34. 大河原(おおがわら・宮城県柴田郡大河原町)
35. 船迫(ふなばざま・宮城県柴田郡柴田町)
36. 槻木(つきのき・宮城県柴田郡柴田町)
37. 岩沼(いわぬま・宮城県岩沼市)
38. 増田(ますだ・宮城県名取市)
39. 中田(なかだ・宮城県仙台市太白区)
40. 長町(ながまち・宮城県仙台市太白区)
41. 国分町(芭蕉の辻・仙台城下)(こくぶんちょう・仙台市青葉区)
<南部路・松前道の宿場 >
1. 七北田(ななきた・仙台市泉区)
2. 富谷(とみや・宮城県黒川郡富谷町) *「新町」とも。
3. 吉岡(よしおか・宮城県黒川郡大和町)
4. 三本木(さんぼんぎ・宮城県大崎市)
5. 古川(ふるかわ・宮城県大崎市)
6. 荒谷(あらや・宮城県大崎市)
7. 高清水(たかしみず・宮城県栗原市)
8. 築館(つきだて・宮城県栗原市)
9. 下宮野(しもみやの・宮城県栗原市築館町)
10. 沢辺(さわべ・宮城県栗原市金成町)
11. 金成(かんなり・宮城県栗原市金成町)
12. 有壁(ありかべ・宮城県栗原市金成町)
13. 一関(いちのせき・岩手県一関市)
14. 山目(やまのめ・岩手県一関市)
15. 平泉(ひらいずみ・岩手県西磐井郡平泉町)→<間宿>瀬原(せばら・岩手県奥州市)
16. 前沢(まえざわ・岩手県奥州市)→<間宿>折居(おりい・岩手県奥州市)
17. 水沢(みずさわ・岩手県奥州市)
18. 金ヶ崎(かねがさき・岩手県胆沢郡金ケ崎町)
19. 鬼柳(おにやなぎ・岩手県北上市)→<間宿>黒沢尻(くろさわじり・岩手県北上市)
20. 成田(なりた・岩手県北上市)
21. 花巻(はなまき・岩手県花巻市)
22. 石鳥谷(いしどりや・岩手県花巻市)
23. 郡山(こおりやま・岩手県紫波郡紫波町)
24. 盛岡(盛岡城下)(もりおか・岩手県盛岡市)
25. 渋民(しぶたみ・岩手県盛岡市)
26. 沼宮内(ぬまくない・岩手県岩手郡岩手町)
27. 小繋(こつなぎ・岩手県二戸郡一戸町)
28. 中山(なかやま・岩手県二戸郡一戸町)
29. 一戸(いちのへ・岩手県二戸郡一戸町)
30. 福岡(ふくおか・岩手県二戸市)
31. 金田一(きんだいち・岩手県二戸市)
32. 三戸(さんのへ・青森県三戸郡三戸町)
33. 浅水(あさみず・青森県三戸郡五戸町)
34. 五戸(ごのへ・青森県三戸郡五戸町)
35. 伝法寺(でんぽうじ・青森県十和田市)
36. 藤島(ふじしま・青森県十和田市)
37. 七戸(しちのへ・青森県上北郡七戸町)
38. 野辺地(のへじ・青森県上北郡野辺地町) →南部北通りへ
39. 馬門(まかど・青森県上北郡野辺地町)
40. 小湊(こみなと・青森県東津軽郡平内町)
41. 野内(のない・青森県青森市)
42. 青森(あおもり・青森県青森市)
43. 油川(あぶらかわ・青森県青森市)
44. 蓬田(よもぎた・青森県東津軽郡蓬田村)
45. 蟹田(かにた・青森県東津軽郡外ヶ浜町)
46. 平舘(たいらだて・青森県東津軽郡外ヶ浜町)
47. 今別(いまべつ・青森県東津軽郡今別町)
48. 三厩(みんまや・青森県東津軽郡外ケ浜町)
<南部北通り(田名部通り)の宿場>
1. 有戸(ありと・青森県上北郡野辺地町)
2. 横浜(よこはま・青森県上北郡横浜町)
3. 田名部(たなぶ・青森県むつ市)
4. 関根(せきね・青森県むつ市)
5. 正津川(しょうずがわ・青森県むつ市正津川)
6. 大畑(おおはた・青森県むつ市大畑)
7. 下風呂(しもぶろ・青森県下北郡風間浦村)
8. 異国間(いこくま・青森県下北郡風間浦村)
9. 蛇浦(へびうら・青森県下北郡風間浦村)
10. 大間(おおま・青森県下北郡大間町)
11. 奥戸(おこっぺ・青森県下北郡大間町)
12. 佐井(さい・青森県下北郡佐井村)

官位としての「守(かみ)」の変遷

◎はじめに
 「筑前守」などの呼称の変遷について述べる。「筑前」は、地方行政区画の名前で、「守(かみ)」は、上代から律令時代に制定された「国司(こくし)」(地方を治める役人)の「官」(制度上の地位)名。
1. 律令時代・・国司(こくし)としての「守」
「国」(地方行政単位)を治める役人を「国司」(コクシ。またクニノツカサ)といった。今の県知事のようなもの。なお、上代には、地方行政単位である「国」のことを「県(あがた)」ともいった。
 つまり、「国司」は、「国」の行政官として中央から派遣された役人で、四等官があり、「守(かみ)」、「介(すけ)」、「掾(じょう)」、「目(さかん)」を指す。その下に「史生(ししょう)」がいた。
<平安期の「国」の等級区分>
国力(住民数、開墾面積など)の基準で、大国・上国・中国・下国の4等級に区分されている。区分の違いによって国司の官位等級にも差がつけられた。
○大国(たいこく・13カ国)
大和国・河内国・伊勢国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・近江国・上野国・陸奥国・越前国・播磨国・肥後国
○上国(じょうこく・35カ国)
山城国・摂津国・尾張国・三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・相模国・美濃国・信濃国・下野国・出羽国・加賀国・越中国・越後国・丹波国・但馬国・因幡国・伯耆国・出雲国・美作国・備前国・備中国・備後国・安芸国・周防国・紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・豊前国・豊後国・筑前国・筑後国・肥前国
○中国(ちゅうこく・11カ国)
安房国・若狭国・能登国・佐渡国・丹後国・石見国・長門国・土佐国・日向国・大隅国・薩摩国
○下国(げこく・9カ国)
和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・淡路国・壱岐国・対馬国
2. 戦国~安土桃山時代の武家官位
 律令官位は、律令制度が崩壊し、実質的な意味がなくなっても発給が続けられた。これらの名目上の官位は、武士階級において権威付けとして用いられた。この傾向は戦国時代に入り顕著になり、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。その例として、織田信長の父織田信秀、今川義元そして徳川家康が三河支配のため三河守に任ぜられたケースなどがある。
 さらに、朝廷からの任命を受けないまま、官名を自称・僭称するケースも増加した。織田信長が初期に名乗った上総守もその一つである。また、官途(かんど)、受領(ずりょう)といって主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといったものまで登場した。豊臣秀吉が織田家重臣時代に使った筑前守もこの一つである。
また、秀吉が公家の最高位である「関白」として天下を統一すると、諸国の大名に官位を授けて律令官位体系に取り込むことで統制を行おうとした。ところがただでさえ公家の官位が不足気味だったところへ武家の任官が相次いだために官位の昇進体系が機能麻痺を起こしてしまう。秀吉の死去後は、内大臣徳川家康が最高位の官位保有者であるという異常事態に至った。
<官途状(かんどじょう)>
武家文書の一様式。武家社会での主従関係を明確にさせるため、幕府・大名が臣下に官職を与える際の文書。正式には推挙状によって朝廷に奏請していたが、戦国期には儀礼・簡略化され、大名が個別の書式で独自に発給している。この内とくに国司名を与えた場合を受領宛行状という。
<受領名(ずりょうめい)>
室町時代以降、功績の家臣や被官に対して、朝廷の正式な位階の伴わない、非公式な官名を授ける風習が生まれる。これが受領名。多くの場合、大名の傘下にあって城や領地、兵力を有する国人や武将がその対象であった。この風習が転化し、自官や百官名、東百官という人名呼称が武士の間において定着するようになる。
3. 江戸時代の武家官位
<官位叙任権が朝廷から将軍家へ移行した経緯>
家康が江戸幕府を開くと、豊臣政権時代の苦い経験から官位を武士の統制の手段として利用しつつもその制度改革に乗り出した。
①慶長11(1606)年4月、家康は朝廷に参内して武家の官位は幕府の推挙によって行うことを奏請。
②元和(げんな)元年7月、「禁中並公家諸法度」により武家官位を員外官(いんがいのかん)とすることによって、公家官位と切り離した。(「禁中並公家諸法度」第7条「武家之官位者可為公家当官之外事」)
これによって武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。また、武家の官位の任命者は事実上将軍とし、大名家や旗本が朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも、将軍の許可を受けねばならなかった。
なお、官位を授ける権限は、徳川将軍家が持っていたが、任命書(口宣案と位記)は朝廷が発給した。
 秀吉、家康、秀忠の時代までは、全国の大名は競って高位・高官を望んだが、家光の時代になると官位には重みはなくなった。しかも、家光以降の大名は、官位は家柄と年齢によって決められるものとなり、その年齢がくれば自動的に幕府から朝廷に奉送された。したがって、家光以降の朝廷の作業は、全国の大名の官位の記録係となった。
なお、幕府から奉送された「筑前守」などの国司名は官位とはいわず、「権官」とか「通称官名」とか「名乗り」と呼んだ。
<官名名乗りの特例>
なお、幕府は、一部官名に特例を設けるなどして、大名統制に利用している。
・同姓同官名の禁止・・混乱を避けるため。
・大国大名の領国名優先使用・・前田氏の加賀守、越前松平氏の越前守など。
・領国名独占・・伊達氏の陸奥守と島津氏の薩摩守。
・大廊下、大広間詰め大名以外の老中と同一名乗り禁止・・老中昇進時に同名乗りの大名及び配下の幕府役人は遷任。
・大名以外の領国名使用禁止・・肥前の松浦氏(肥前守、他には壱岐守)、信濃の真田氏(信濃守、他には伊豆守)、対馬の宗氏(対馬守)等は例外として許可。
・三河守(津山松平家のみ可)や武蔵守や山城守(慶応3年3月25日より)の禁止・・幕府と朝廷を憚って。
<百官名(ひゃくかんな)>
 幕府や大名が被官に対して官途状を発給した受領名は、朝廷の関知しない僭称であったが、憚って、官名を略したり、違う表現に置き換えたりした。また、先祖が補任された官職を子孫が継承するケースも現れるなど、武士が自ら官名を名乗る「自官」という慣習が定着していくこととなる。やがて戦国時代の頃から、武士の間で官名を略したものを自分の名前として名乗る風習が生まれ、江戸時代後期までその風習が続いた。
 「国名」を取って名乗った例として、
宮本「武蔵」・・剣豪
田中「土佐」・・幕末期の会津藩家老
伊達「安芸」・・仙台藩家老
原田「甲斐」・・仙台藩家老

「石狩挽歌」と笠戸丸-2-

3.豪華客船になった「笠戸丸」
・1909(M42)大坂商船(日本郵船と並ぶ海運界の雄)が「笠戸丸」を台湾航路に使用するため借用。客船として大改造される。大ホール、柱、壁、調度品に立派な彫刻が施された。
・日清戦争後、日本は、台湾を領有、台湾航路開発を競う。笠戸丸は、1910(M43)4月、神戸~キールン間に就航。日本郵船も、信濃丸を神戸~キールン航路に転ずる。翌1911(M45)大坂商船は、笠戸丸を海軍省から購入。
・二大海運会社の代表する豪華客船、笠戸丸と信濃丸は、台湾航路を競い合った。
・2度目のブラジル行き・・第一次世界大戦(1914=T3)の勃発で、日本~ブラジル、アルゼンチンの南米東海岸航路が脚光を浴びる。大坂商船は、笠戸丸を投入、1916年(T5)12月神戸出港。ドイツ潜水艦の目を避けるため迷彩を施す。商船として始めて笠戸丸がブエノスアイリスに入港。
・帰国後、再び台湾航路に就く。
○1927(S2)、病院船として揚子江へ
・同年5月、田中義一内閣、山東出兵を決める。7~9月、笠戸丸は、揚子江へ3度出動、上海~南京~漢口まで遡る。
・同年10月、インド・カルカッタ航路第1船となり、神戸を出港。

4.工船、そして軍徴用船になった笠戸丸
・造船技術の進歩のなかで、海運業者は、優秀船舶の建造をはじめ、明治期の客船は引退の時期を迎えた。
・いわし工船・・・1930(S5)、東洋興行に売却。同社は、いわしの工船漁業に乗り出し、笠戸丸を購入。笠戸丸は「商船」として終止符を打つ。
笠戸丸を母船とする、いわし漁船団は、北朝鮮からウラジオストック沖までの日本海を漁場とした。いわし工船漁業は、不漁のため、翌1931(S6)年に中止となる。
・1932(S7)、新興水産に移籍、笠戸丸は、ミール工船としてアラスカ沖で働く(太平洋漁業は、信濃丸をミール工船漁業に起用)
・翌1933(S8)も笠戸丸と信濃丸がミール工船としてアラスカ沖に出漁し競い合った。
・カニ工船・・工船カニ漁業を取り仕切った日本水産。笠戸丸は、1938(S13)、日本水産所有の最大の工船となり、西カムチャッカへ出漁。
*サケマス工船の信濃丸とカニ工船の笠戸丸はともに、大型母船として北洋で活躍する。
・1941(S16)、笠戸丸は民間物資を運ぶ輸送船として徴用される。
・1944(S19)7月3日、小樽海軍武官府で、「キ504船団」が編成され、5日、小樽出港、目的地は北千島ホロムシロ島・柏原湾。笠戸丸は、その後、カムチャッカのサケマス漁場の工場へ漁夫、女工300人の輸送にあたる。途中、船団の護衛艦・「薄雲」、魚雷を受け轟沈。陸軍徴用船の「太平丸」も沈む。笠戸丸は、無事、西カムチャッカの漁場に着く。
・1945(S20)4月、中国・大連から塩を運搬中、日本海で潜水艦の攻撃を受け被弾。

○1944(S19)千島、北海道近海で撃沈された軍艦、輸送船
・輸送船「日蓮丸」、駆逐艦「白雲」・・3月16日、厚岸沖、死者3000余名
・輸送船「伏見丸」・・5月3日、ウルップ島沖、死者594名
・輸送船「まどらす丸」・・中部千島・マツワ島沖、死者139名
・輸送船「高島丸」・・6月13日、北千島アライド島沖、死者45名。高島丸稚泊航路(稚内~大泊)の豪華客船だったが、軍に徴用され、千島航路に就航、「花の輸送船」といわれた。
・輸送船「大平丸」・・7月9日、北千島アライド島沖、死者956名。
・日魯漁業でも「神武丸」「正気丸」が沈没した。

○1945年の出漁と日魯の対応
・平塚常次郎社長は出漁中止の意向だったが、政府は「今やソ連は外国との唯一のパイプである。そのつながりを維持するためにも是非出漁すべし」と閣議決定した。

・当初、信濃丸を本部線として、6隻で船団を組む計画。
・7月15日、北海道空襲、小樽港で信濃丸、山東丸が銃撃を受け出漁不能となる。

○北海道空襲(北海道・東北空襲)
・7月14日~15日、ホルジ海軍大将率いるアメリカ海軍第3艦隊が八戸沖東方海上から北海道・東北を攻撃、小樽攻撃は15日、笠戸丸、船首に被弾するも無事。
・7月25日、第2龍寶丸(2230トン)とともに、海防艦2隻に護衛され、小樽出港
・8月1日、西カムチャッカ・ウトカ沖に到着。
・8日、積荷作業完了(新巻2100函、缶詰2300函、塩蔵マス550トンなど)
この日、ソ連、対日宣戦布告。
・9日、午前、乗船者に下船命令。午後1時55分、ソ連戦闘機攻撃開始、夕刻、沈没。

○8月16日、ソ連軍カムチャッカのロパトカ岬(細川かたしが「北緯50度」で歌う)
から占守島を砲撃、18日、ソ連が占守島の北岸「武田浜」に奇襲上陸、日本守備隊との壮絶な戦闘が展開された。第91師団長・堤不夾貴(ふさき)中将は終戦後にも関わらず戦闘命令を発令。戦いは熾烈を極めた。ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回り、一説によれば8月20日の停戦までに軍の戦死者八百余名、ソ連の戦死者三千余名とも言われている。23日になってやっと局地停戦協定が結ばれ戦闘が終わった。
ソ連、9月1日、全千島の占領完了。
・北洋での漁業者の犠牲・・カムチャッカで600人以上、北千島で1500人、樺太で150人以上がソ連軍に抑留された。明治6年の千島・樺太交換条約以来、70年に亘って日本漁民の地と汗で営々として築いた北洋漁業は、一旦終止符を打った。再開は、戦後・昭和27年まで待たねばならない。
<信濃丸>(6388トン)
・日本も、航海奨励法、造船奨励法(1896年)で、海運、造船の整備拡充を図った。
・1900年(M33)、イギリス・グラスゴーで進水。国策会社・日本郵船が発注。欧州航路の定期客船となる。
1093(M36)アメリカ航路に転じる。永井荷風が信濃丸でアメリカに渡る。「あめりか物語」を書く。
・日本海海戦で有名・・・信濃丸(日露戦争時は、徴用され巡洋艦となる)1905年5月27日午前3時、信濃丸はロシア艦隊の病院船「アリヨール」号(1899年、「カザン」と同様に、ニューキャスルで建造された)を発見、「敵艦見ゆ」を聯合艦隊旗艦・「三笠」に打電。パルチック艦隊発見の第1報。連合艦隊、大本営に「天気晴朗なれども波高し」を打電。
・午後2時、東郷平八郎連合艦隊司令長官の座乗する旗艦三笠がZ旗を掲揚して全艦隊の士気の高揚を図ったエピソードが有名。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」が告げられた。
28日、日本側の完勝のうちに終わる。
・戦後の1906年、再び、北米シアトル航路に就く。
・1910(M43)、日本郵船は、信濃丸を神戸~キールン航路に転ずる。
・二大海運会社の代表する豪華客船、笠戸丸と信濃丸は、台湾航路を競い合った。
・1929(S4)、北進汽船に売却
・1930(S5)、日魯漁業へ売却、
・1932(S7)、太平洋漁業へ売却、アラスカ沖のミール工船となる。後、サケマス工船となる。
・1938(S13)サケマス工船となり、カニ工船の笠戸丸はともに、大型母船として北洋で活躍する。

・太平洋戦争中、南太平洋で輸送船となって働く。
・1945年7月15日、北海道空襲、小樽港で信濃丸、銃撃を受け出漁不能となる
・戦後、大陸からの引揚げ船として働き続ける。
・1950(S25)4月20日、ソ連からの集団引揚船の最終船として抑留されていた1244名を乗せてナホトカから舞鶴に入港。
・1951年(S26)、スクラップ。

Ⅱ.「石狩挽歌」に見るニシン漁
① ニシン漁の歴史・・その盛衰
② 歌詞に沿って・・「海猫」(ごめ)、「筒っぽ」、「ヤン衆」、「番屋」、「問い刺し網」、「にしん曇り」

【参考文献】
・「兄弟」(なかにし礼著、文藝春秋、1998)
・「船にみる日本人移民史」(山田廸生著、中公新書、1998)
・「航跡 ロシア船笠戸丸」(藤崎康夫著 時事通信社、1978)
・「日魯漁業経営史」(岡本信男編、水産社、1971)
・「戦時輸送船団史」(駒宮新七郎著、出版協同社 
1987)
・「鰊場物語」(内田五郎著、北海道新聞社、1978)
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