森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

船長日記

記事タイトル『ふなをさ日記 人』11月注

(37-2)<漢字の話>「成」・・常用漢字の「成」は、「戈(ほこづくり・カのほこ・たすき)」部の2画(総画6画)だが、旧字体は7画。解字は「戊」+「丁」で。「丁」はくぎを表し、くぎづけにする・平定

するの意味。「戊」は、大きな刃のついたまさかりの意味。まさかり敵を平定するの意味から、ある事がらがなる、安定するの意味を表す。

 *「城」・・①常用漢字は、9画、旧字体は10画。旁の「成」の画数の違いによる。

②解字は、「土」+「成」で、土を盛り上げ、人を入れて安定させる、しろの意味を表す。

(37-3)「五星(ごせい)」・・中国で古代から知られている五つの惑星。歳星(木星)・ 惑(けいこく=火星)・鎮星(土星)・太白(たいはく=金星)・辰星(しんせい=水星)の総称。五緯。

(37-3)「二十八宿」・・月・太陽・春分点・冬至点などの位置を示すために黄道付近の星座を二八個定め、これを宿と呼んだもの。二八という数は月の恒星月二七・三日から考えられたといわれ、中国では蒼龍=東、玄武=北、白虎=西、朱雀=南の四宮に分け、それをさらに七分した。すなわち、東は角(すぼし)・亢(あみぼし)・ (とも)・房(そい)・心(なかご)・尾(あしたれ)・箕(み)、西は奎(とかき)・婁(たたら)・胃(えきえ)・昴(すばる)・畢(あめふり)・觜(とろき)・参(からすき)、南は井(ちちり)・鬼(たまおの)・柳(ぬりご)・星(ほとほり)・張(ちりこ)・翼(たすき)・軫(みつかけ)、北は斗(ひつき)・牛(いなみ)・女(うるき)・虚(とみて)・危(うみやめ)・室(はつい)・壁(なまめ)。

(37-3)<漢字の話>「日」・・(ジャパンナレッジ版『字通』より)太陽の形。中に小点を加えて、その実体があることを示す。三日月の形に小点を加えて、夕とするのと同じ。〔釈名、釈天〕の「日は實なり。~月は缺なり」とするのによるもので、音義説である。日と實、月と缺とは、今の音ははるかに異なるが、古音は近く、わが国の漢字音にはなおその古音が残されている。

(37-5)「日午(じつご・にちご)」・・午(うま)の刻。すなわち、午前一二時ごろ。正午。まひる。

(37-8)「七鼓(ななつ)」・・本来、古代中国の都市では鐘と鼓によって人々に時刻を知らせており、明清時代、「晨鐘暮鼓(しんしょうぼこ)」または、「朝鐘暮鼓(ちょうしょうぼこ)」といい、城池の東に鐘楼、西に鼓楼を設け、毎日、寅時(午前4時)と戌時(午後8時)に鐘を鳴らし、戌時から2時間ごとに鼓を打った。このため「一鼓・二鼓…」というように「鼓」時で夜の時間を表した

 1鼓(20時)、2鼓(22)、3鼓(24時)、4鼓(2時)、5鼓(4時)と5つの区切りになっている。

 テキストの「七鼓」は、ない。

 江戸後期の読本作者滝沢馬琴の『近世説美少年録』「七鼓(ななつ)は過ぎて明るに易き・・」とあり、

 「七鼓」を「ななつ」(午前4時)としている。テキストの「七鼓」も「ななつ」と読みたい

 なお、日本の時法について

 『日本の時刻制度』(橋本万平著 塙書房)には次のように述べられている。

 「延喜式に見られる時報の数は、後世まで襲用されているのであるが、何故にこの様に子午で九つ、丑未で八つという様な不思議な数が使用されるようになったかについては、首肯し得る説明は見つからない。次の様な説もあるが、いずれも信用できない。」 として、

 「第一は、陰陽思想から発したものである。陰陽思想では九という数字を非常に重視し、日中及び真夜中の時刻すなわち午の時と子の時には九九の、十九が九で九を打ち、以下順に申寅では三九の二十七で七つ、酉卯では四九の三十六で六つ、戌辰では五九の四十五で五つ、亥巳では六九の五十四で四つを打ったというのである。

 第二の説は、日暮れである申の時を基準として、十二支を逆に勘定し九番目に当たる子時に九つ、八番目である丑の時に八つ、以下順に七つ、八つと鳴らしていった。又他方、夜明けである寅を基準として逆算し、九番目の午の時から同様に九つ、八つと打っていったとするのである。全く荒唐無稽に近い説であるが、現在ではこれ以外の説明は見つかっていない。」

*日本の時法も古く、中国の時法の影響を受け、奈良時代の『養老令』職員令には陰陽寮に漏剋博士(ろこくのはくじ)二人が守辰丁(しゅしんちょう)を率いて漏剋(ろこく=水時計)を管理すること、守辰丁二十人は漏剋によって鐘と鼓を打って時を報じることが規定されている。

 *万葉集にも、

「時守の打ち鳴す鼓(つづみ) 数(よ)みみれば 時にはなりぬ 逢はなくもあやし」(巻11)

  とあるように、時刻は時守が打ち鳴らす鼓の数によって一同に知らされた。後世暮れ六つなどはこれによる。「数(よ)みみれば」は「数をかぞえてみると」という意味。「時守の打ち鳴らす鼓の音の数をかぞえてみると、もうやってきてもよい時刻、なのに逢いにやってこないのは怪訝」という歌である。

(38-4)「暖帯」・・地球上の、赤道から南北の回帰線までの地帯。今日の「熱帯」をいう江戸から明治初期にかけての語。

(38-4)「四時(しじ・しいじ)」・・春・夏・秋・冬の四つの季節の総称。四運。四季。よつのとき。

(38-8)「蔕(へた)」・・

 

(38-7)「瓜(うり)」・・影印は、「爪」。<「瓜(うり)」に「ヽ(ツメ)」あり、「爪(つめ)」に「ヽ(ツメ)」なし>

(38-8)<漢字の話>「蔕(へた)」・・解字は「艸」+「帯」。果実の茎につくところに帯状につく「へた」の意味を表す。語源説に、「ヘタ(端)の義、またハタ(端)の転」がある。

(39-2)「正帯(せいたい)」・・温帯。江戸時代に使われた語。

(39-2)「七鼓半時(ななつはんどき)」・・中古から近世にかけての時刻の呼び方で、午前または午後の五時頃。

(39-3)<文法の話>「見(み)へ」・・下二動詞「見ゆ」の連用形は、「見え」。「見へ」は、文法的には間違い。もし、「見へ」なら、終止形は「見ふ」だが、そういう用法はない。「え」も「へ」も「エ」と発音するので、誤用されることがままある。

 *ヤ行下二動詞「見ゆ」の活用

見え(未然)・見え(連用)・見ゆ(終止)・見ゆる(連体)・見ゆれ(已然)・見えよ(命令)

*ほかにも、ヤ行下二動詞の未然形・連用形が誤って用いられる場合がある。

 ・「消(き)ゆ」・・未然形・連用形は本来「消え」。「消へ」と誤用される。

 ・「聞(き)こゆ」・・未然形・連用形は本来「聞こえ」。「聞こへ」と誤用される。

 ・「越(こ)ゆ」・・未然形・連用形は本来「越え」。「越へ」と誤用される。

 ・「絶(た)ゆ」・・未然形・連用形は本来「絶え」。「絶へ」と誤用される。

 ・「覚(おぼ)ゆ」・・未然形・連用形は本来「覚え」。「覚へ」と誤用される。

*また、ワ行下二動詞も同様に、誤用される場合がある。

 ・「植(う)う」・・未然形・連用形は本来「植え」。「植へ」と誤用される。

 ・「飢(う)う」・・未然形・連用形は本来「飢え」。「飢へ」と誤用される。

 ・「据(す)う」・・未然形・連用形は本来「植え」。「植へ」と誤用される。

*下二動詞の未然・連用形が誤用される理由・・ハ行の動詞の数が多いため、「え」と「へ」のように、発音が同じものを書き分けることが完全にはできなくなった。

(39-3)<仮名遣いの話>「ゆへ」・・歴史的仮名遣いは「ゆゑ」。「ゆへ」は誤用。

(39-4)「夜国(やこく)」・・一年の大半は夜ばかり続き日光を見ない、地球の南北両極に近い国。

(39-5)「正帯(せいたい)」・・「おんたい(温帯)」に同じ。江戸時代に使われた語

(39-89)「極星(きょくせい)」・・天球の北極に最も近い恒星。北極星のこと。

(40-5)「大尾(たいび)」・・まったくの終わり。おしまい。最後。終局

『ふなをさ日記 人』10月注(2)

(32右下)「シイリ」・・チリ。

(32右下)「カロ」・・

(32右下)「テルラゲルニヤ」・・アルゼンチンか。

(32右下)「テルレデヘウ」・・ティラデルフエゴ。現アルゼンチンの州。アルゼンチン本土とはマゼラン海峡によって隔てられている。

(32右下)「長人国」・・*談義本・成仙玉一口玄談〔1785〕一・箒良到伯西児(ブラジル)之談「此国の人長壱丈あるを以て、世に是国を長人国と称(なづ)けたり」

(32右下)「銀河」・・ラプラタ川か。

(33)「北極」のうち

(33右上)「モンカリヤ」・・

(33左上)「スーヱイデン」・・スエーデン。

(33左上)「ノーハウヱントイン」・・ノルウエー。

(33左上)「大北洋」・・ノルウエー海か。

(33左上)「クルウンラント」・・グリーンランド。

(33)「正帯」(北)のうち

(33右上)「テルアラコンハキイ」・・

(33右上)「カムサスカ」・・カムチャッカ。

(33右上)「ヲロシヤ」・・オロシャ。

(33右上)「八丈」「四国」「九刕(州)」「琉球」

(33右上)「大寃(たいえん)」・・台湾。

 *増補華夷通商考〔1708〕三「白砂糖〈略〉木綿 西瓜 薬種少々 鳥獣 米 南瓜 ボウブラ 右の類唐船に積来る也。是を大寃船(タイワンフネ)と云」

(33右上)「ヱゾ」・・蝦夷

(33右上)「カラフト」・・樺太

(33右上)「サド」・・佐渡

(33右上)「オキ」・・隠岐

(33右上)「イキ」・・壱岐

(33右上)「ツシマ」・・対馬。

(33右上)「カイ子ニ」・・

(33右上)「ニヒヤ」・・

(33右上)「女直」・・「女真」。中国、東北地方東部に居住し、粛慎・勿吉・靺鞨などと呼ばれてきたトゥングース系民族の遼・宋以後の名称。女直ともいう。

(33右上)「朝鮮」・・「女直」の右下にある。

(33右上)「ヲランカイ」・・渤海か。

(33右上)「ヒヤンス」・・ツングースか。

(33右上)「カイマキタ」・・

(33右上)「大韃靼」・・タタール。

(33右上)「チンケシキ」・・キルギスか。

(33右上)「シビリヤ」・・シベリヤ。

(33右上)「カルムキ」・・ウルムチか。

(33右上)「トルケクダニヤ」・・トルキスタンか。

(33右上)「カタイ」・・

(33右上)「大流沙」・・ゴビ砂漠か。

(33右上)「コンロン」・・崑崙。

(33右上)「莫卧尓」・・モゴル。ムガール。モンゴル(蒙古)とインドムガール帝国の混同が見られる。

(33右上)「大清(だいしん)」・・清、清朝、大清国、大清帝国ともいい、1636年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝。

(33右上)「大清」内の都市名・・「北京」「山東」「福建」「南京」「広東」「雲南」「四川」「寵門」

(33右上)「東天竺」「北天竺」「西天竺」「中天竺」「南天竺」・・「天竺」は、中国古代のインド地方の呼び名。同系統の古称としては天篤(てんとく)、天督(てんとく)、天豆(てんとう)、天定(てんてい)などがあり、語源は、身毒(しんどく)、印度(いんど)などと同じく、サンスクリットのシンドゥーSindhu(インダス川地方)であるとされる。

(33右上)「夏至昼長線」・・北回帰線のこと。夏至線ともいう。「回帰線」は、地球の北緯および南緯約2326分の等緯度線のこと。それぞれ北回帰線、南回帰線という。また地球から見て太陽が夏至のころにかに座に入り、冬至のころにやぎ座に入るので、それぞれ夏至線、冬至線、あるいは、かに座の回帰線、やぎ座の回帰線ともいう。太陽が春分点から次の春分点まで戻る時間を1回帰年(または太陽年)とよぶが、この1年間に太陽は赤道―北回帰線―赤道―南回帰線―赤道の順に動き、このことから回帰線の名が生まれた。

(33左上)「モスコビイ」・・モスクワ。

(33左上)「リユスランド」・・

(33左上)「ヘルシマ」・・ペルシャか。

(33左上)「大夏」・・バルクを中心とする北アフガニスタンの、中国での呼称。漢代のバクトリア王国にあたるとされるが、紀元前二世紀、この国を滅ぼしたトハラの音訳ともいわれる。

(33左上)「ヲルカリヤ」・・ブルガリヤ。

(33左上) 「北高海」・・カスピ海。ロシア南部からイラン北部にひろがる世界最大の湖。塩湖。

  *管蠡秘言〔1777〕「海泉川湖〈略〉亜細亜の西辺に北高海と称するものあり。実は海にあらず、大湖なり」

(33左上)「太海」・・位置からエーゲ海と黒海か。

(33左上)「キリイケニ」・・ギリシャか。

(33左上)「ヲンカリヤ」・・ブルガリヤか。

(33左上)「ナトリヤ」・・アナトリア。小アジアの異称。アジアの西端にあり、トルコの大半部を占める、地中海と黒海に挟まれた半島。

(33左上)「ジユデヤ」・・シリア。

(33左上)「天堂国」・・位置からイラクか。

(33左上)「アラビヤ」・・アラビア

(33左上)「ホフレン」・・ルーマニアか。

(33左上) 「小ダッタン」・・ウクライナか。

(33左上)「フンカリヤ」・・ブルガリヤ。

(33左上)「イタリヤ」・・イタリア。

(33左上)「トイツランド」・・ドイツ。

(33左上)「紅毛」・・オランダ。

(33左上)「北海」・・北海。

(33左上)「スニツランド」・・スコットランド。

(33左上)「ヱイスランド」・・アイスランド。

(33左上)「イルランド」・・アイルランド。

(33左上)「フランス」・・フランス。

(33左上)「イスハニヤ」・・イスパニア(スペイン)。

(33左上)「ホルトカル」・・ポルトガル。

(33左上)「地中海」・・地中海。原意は「まわりを陸地で囲まれ、海峡により他の海域に連なる海。」ここでは、ユーラシア・アフリカの二大陸に囲まれ、西はジブラルタル海峡により大西洋に通じる海域。大西洋の付属海で、ボスポラス海峡以北は黒海と呼ばれる。東はスエズ運河により紅海・インド洋に通じる。

(33左上)「西紅海」・・紅海。カルフォルニヤ湾を「東紅海」とするのに対していうか。

(33左上)「ヱシツト」・・エジプト。

(33左上)「ハルハリヤ」・・リビアか。

(33左上)「サカラ」・・サハラか。

(33左上)「ヒルトルゲリツト」・・位置的に、アルジェリアか。

(33)「暖帯」のうち

(33右中)「ヲガシマ」・・小笠原諸島。

(33右中)「呂宋」・・ルソン。フィリピンの古称。

(33)「澎湖(ほうこ)三十六湖」・・「澎湖諸島」は、台湾の西方海上50キロ、台湾海峡中にある群島。中国では澎湖列島という。欧名ペスカドールは漁人諸島の意。六十四の島々からなる。

(33右中)「ホル子ヲ」・・ボルネオ。マレー諸島の中央部にある世界第三の大島。北西部のマレーシア領サバ・サラワク両州およびブルネイ‐ダルサラーム国を除いて約四分の三はインドネシア領のカリマンタン州。赤道直下にあり高温多湿で大半は密林におおわれている。

(33右中)「安南」・・ベトナム中部地方。また、この地に建てられたベトナム人国家の称。唐代に安南都護府が置かれて以来の呼称。

(33右中)「南蛮(なんばん)」・・戦国時代以後わが国で、ルソンやジャワなどの東南アジア方面をさして用いた呼称。また、東南アジアに植民地をもつポルトガル・スペインをさし、オランダ・イギリスなどと区別して用いた呼称。

(33右中)「チヤンハン」・・

(33右中)「カボチヤ」・・カンボジア。

(33右中)「マラツカ」・・マラッカ。マレー半島の先端。

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記事タイトル『ふなをさ日記 人』10月注(1)

(26)「腹ゴモリ」・・胎内にいたこども。

(26)「皃(かお)」・・「貌」の異体字。

(26)「古渡(こわたり)」・・古く外国から渡ってきた品物。特に、室町時代またはそれ以前に渡来した織物、薬品、陶磁器などの称。良質、高貴として珍重された。

(26)「色取(いろどり)」・・古く外国から渡ってきた品物。特に、室町時代またはそれ以前に渡来した織物、薬品、陶磁器などの称。良質、高貴として珍重された。

(27)「水豹(すいひょう)」・・「あざらし(海豹)」の異名。

(27)「コハゼ」・・小鉤・鞐。真鍮、角、象牙などでつくった爪形のもの。書物の帙(ちつ)、足袋、脚絆、合羽などの合わせめの端につけて、「こはぜかけ」にかけて合わせとめる。

 <漢字の話>「鞐(こはぜ)」・・国字。

(29)「弥帆(やほ)」・・(「や」は重なる意)和船の船首に展張する小型の補助帆。本帆に対して重ねてかけるところからいい、また、八重帆ともいう。江戸時代の千石積荷船の場合、その面積は本帆の一割以下で帆走力の増加は期待できず、装備はしても実際にはあまり使用されなかった。

(29)「タツル」・・建てる。タ行下二段活用他動詞「建(た)つ」の連体形「建(た)つる。

(30)「石碑」・・重吉が建立した供養碑の変遷を略記する。(村松澄之著『「船長日記」その信憑性と価値』風媒体社 2013 参照 以下『村松本』)

 ・文政5(1822)頃 笠寺(現名古屋市南区笠寺町)に建立(川合彦充著『督乗丸の漂流』筑摩書房 1964 以下『川合本』) 

 ・天保11(1840)から嘉永6(1853)までの間、成福寺(じょうふくじ 現名古屋市熱田区)に移転

  なお、『村松本』は、安政元年の大地震で笠寺の石碑は転倒、放置され、それ以後、成福寺の帰山和尚が移転したとする。

 *碑の台石は、督乗丸をイメージした船の形で、その上に円形の塔がある。

(30)「徳本(とくほん)」・・江戸時代中期の浄土宗の僧。紀伊国日高郡の人。徳本上人、徳本行者とも呼ばれた。宝暦8年(1758)生まれる。天明4年(17846月出家。諸所に草庵を結び、木食草衣、長髪で高声念仏、苦修練行すること多年、わずかに『阿弥陀経』の句読しか習わず、宗義を学ばずして、おのずから念仏の教えの要諦を得たという。教化の足跡は紀伊はもとより、河内・摂津・京都・大和・近江・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など広域に及んでいる。享和3年(180311月京都鹿ヶ谷法然院で長髪長爪の異相を改め、翌月江戸小石川伝通院智厳について宗戒両脈を相承した。文化11年(181410月小石川に一行院が再興されるや、推されて中興開山となった。文政元年(1818106日没。六十一歳。一行院に葬られる。庶民教化者らしく道歌、説法聞書、請待記録、伝記などが多く伝わり、特異な筆跡を刻んだ名号碑が各地に建立されている。戸松啓真他編『徳本行者全集』がある。

(30)「徳本筆(とくほんひつ)」・・徳本の書いたもの。「徳本文字」といわれ、各地に徳本の書いた「南無阿弥陀仏」の六字名号碑や掛軸が残っている。

(30)「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」・・梵語namo amitabhaya buddhaya の音訳で、「帰命無量光覚」と訳す。仏語。阿彌陀仏に帰依することを表わすことば。浄土の信仰者は等しくこれを称えて極楽浄土を願う。真宗ではこれを六字名号といい、仏名とし、これを本尊とする。

(30)台座・・死亡年月日、名前が彫られている。

(30)「矢場(やば)」・・矢場町(やばちょう)。現名古屋市中区大須三丁目・栄三丁目。町号の由来は寛文8年(1668)三輪神社の境内に弓矢場が作られたためとされる。

(30)「半田村(はんだむら)」・・現愛知県半田市の内。北は英比(あぐい・阿久比)川を挟んで乙川村に、次いで岩滑(やなべ)村に接し、南は成岩(ならわ)村に接する。英比川と船江川の河口に挟まれた所で南は海に面している。

(30)「伊豆子浦(いずこうら)」・・現静岡県南伊豆町子浦。妻良(めら)村の北、駿河湾に臨み妻良湊の北側に位置する。妻良からの道は険しく「妻良の七坂、子浦の八坂」といわれ、渡船で往来することも多かった。

(30)「乙川村(おつかわむら)」・・現愛知県半田市の内。北部は丘陵部で南部は海に面し、東は亀崎かめざき村、南は英比あぐい(阿久比)川を境に半田はんだ村に接する

(30)「伊豆柿崎(いずかきざき」・・現静岡県下田市柿崎。下田町の東、南に突き出した須崎半島付根に位置する。枝郷として北に外浦がある。

(30)「田子(たご)」・・現]西伊豆町田子。駿河湾に面し、東には天城山系の山を負う。農耕地区の大田子(おおたご)と漁業に適した井田子(いたご)からなる。

(30)「亀崎(かめざき)」・・北側で有脇村に接するが、北から東南にかけて海に面し、西は乙川村に接する。海沿いの急斜面に集落を形成する漁村であり港町の様相を示している。

(31)漢文の体裁

 ①原文・・白文                    子曰学而時習之

 ②~1訓読文1・・原文+句読点+返り点        子曰ク、学而時習之、

 ②~2訓読文2・・原文+句読点+返り点+送り仮名   

                            子曰ク、学テ而時ニ習ウ之ヲ、

 ③書き下し文・・                   ()(いは)く、(まなび)(とき)(これ)(なら)う、

(31-4)「喎蘭新訳地球全図(オランダしんやくちきゅうぜんず)」・・いわゆるマテオ・リッチ系地図。寛政8年(1896)に日本で刊行された世界地図で、東西が二つの半球で描かれている。未だオーストラリア大陸の東側が不分明であった時代の世界地図が基となっている。地誌的な記述をまわりに配し、これ1枚で多くの地理情報を得ることができる。50×90cmくらいの一枚図で、東西両半球図のまわりにヨーロッパ・北アメリカなどの地誌が細かく書き込まれたもの。作者の橋本宗吉は幼名を直政、大槻玄沢に学び、大阪蘭学の基礎を築いた人物。 

*マテオ・リッチ系地図・・イエズス会士マテオ・リッチ(1552-1610)が中国での普及活動の一助として「坤興万国全図」を出版したのは、1602年のこと。それから50年後の1652年、この「坤興万国全図」をもとにしたと思われる「万国総図」が、わが国で出されている。「万国総図」は作者不詳だが、これが西洋知識に基づいて作られたわが国最初の世界地図で、マテオ・リッチ系地図と呼ばれる。そして1708年、この「万国総図」をもとにして当時の地図製作の第一人者である石川流宣が「万国総界図」を発表し、さらに1788(天明8)に至り、石川流宣の流れを継いだ長久保赤水が「地球万国山海興地全図説」を発表しました。赤水は原目貞清の「興地図」(1720)とこのマテオ・リッチ系世界地図を参考にしたといわれている。「喎蘭新訳地球全図」、1796(寛政8)の発表で製作者は大阪の医師橋本伯敏(橋本宗吉)、校閲は長久保赤水。赤水は1788(天明8)発表の「地球万国山海興地全図説」の前に「改正地球万国全図」(1785年・天明5) も刊行しており、橋本伯敏が世界地図を発表したときにはすでに世界地図製作の権威の一人になっていた。その赤水の校閲を得るということは、いわば「喎蘭新訳地球全図」は、当代第一人者のお墨付きを得た「最新の地図」ということになる。

(この項ウェブサイト「いるか書房別館」を参照)

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記事タイトル『ふなをさ日記 人』9月注 

【北海道立文書館所蔵のふなをさ日記の書誌】

「ふなをさ日記」は、北海道立文書館所蔵図書である(旧記1316)。その書誌(書物の外観・材質・内容成立上特徴を記述したもの。書史)に触れる。表紙の「ふなをさ日記」の下に丸に星印があり、星の中央に「文」とある。これは、北海道道庁の「北海文庫」所蔵図書の印である。

「北海文庫」は、金田吉郎(かねたきちろう)氏の寄贈図書の名前である。金田氏は、明治23(1890)北海道庁属となり、財務部経理課長、檜山爾志久遠奥尻太櫓瀬棚郡長、小樽高島忍路余市古平美国積丹郡長を歴任、明治30年(1897)東京府属に転じた。明治37(1904)東京府南多摩郡長に就任してから、同郡八王子町に「北海文庫」を設立した。氏は、北海道庁に勤務後、北海道に関する図書を蒐集した。氏の「図書献納ヲ御庁ニ願スル理由」(以下「理由書」。『北海文庫図書ノ始末』所収)の中で、「北海道ニ関係アルモノハ新古細大ヲ問ハズ、断管零墨(断簡零墨=だんかんれいぼく。古人の筆跡などで、断片的に残っている不完全な文書。切れ切れになった書きもの=)ヲ撰マズ、極力之ヲ蒐集セリ」と記している。金田氏は、同年55日に北海道庁長官河島醇(かわしまじゅん)に「図書献納之儀ニ付願」を提出している。氏は、前掲「理由書」のなかで、「本年一月、御本庁舎火災ニ罹リ、御保管ノ図書モ多ク灰燼ニ帰シタルト聞ク・・不肖吉郎所蔵ノ図書ヲ御庁ニ献納シ拓殖ノ参考ニ供セントス」と献納の理由を述べている。「本庁舎火災」というのは、明治42111日午後6時過ぎ、北海道庁内印刷所石版部から火災が発生したことをいう。この火災で庁舎屋根裏の文庫にあったすべての文書が焼失した。金田氏が献納した図書は、合計1326点である。明治政府賞勲局は、金田氏の寄附行為に対して銀杯を送っている。

 「ふなをさ日記」は、金田氏の寄贈によるものである。金田氏が、この本をどうようにして蒐集したのかについては、不詳である。

(表紙)「図書票簽(としょひょうせん)」・・表紙の中央に「図書票簽」が貼付されている。「簽(せん)」は、ふだ。「簽」は、竹で作ったので竹部。

 <漢字の話1>古く竹で作った文具・書を表す漢字・・①「符(ふ)」・・両片を合わせて証拠とする竹製のわりふの意味を表す。②筆、③箋(せん)・・戔は薄いの意。うすくひらたい竹・ふだの意。④篇、⑤簡(かん)・・竹をけずり編んで文字を書くふだ。⑥「簿(ぼ)」・・竹を薄くけずったちょうめんの意味を表す。

 <漢字の話2>竹部の漢字・・①「第(だい)」・・順序よく連ねた竹簡の意味から、一般に、順序の意味を表す。②答(トウ。こたえ)・・竹ふだが合うさまから、こたえるの意味を表す。③「等(トウ。ひとしい)」・・「竹+寺」。竹は竹簡(書類)、脚の「寺」は役所の意味。役人が書籍を整理するの意味からひとしい。④「算(さん)」・・「竹+具」。数をかぞえる竹の棒をかぞえるの意味を表す。

(表紙)「舊記(きゅうき)」・・図書票簽の「類名」欄に「舊記」とある。「舊」は、常用漢字「旧」の旧字体。北海道立文書館の「旧記」は、近世後期から明治初期までに成立した北海道関係の地誌・紀行・日記・歴史関係の記録などが2341点所蔵されている。原本に類するものは少ないが、すぐれた写本が多く、その内容の豊富さにおいても、誇りうる集書といえる。本文書はそのひとつである。

 <漢字の話>①「旧」の部首は、多くの漢和辞典では「日」。「舊」の略字として用いられてきたが昭和21年の当用漢字制定当初に「舊」の新字体として選ばれた。

②「舊」の部首は「臼」。

③部首に「隹(ふるとり)」がある。「雀」「雁」「雛」などを含む。この部首を「ふるとり」と呼ぶのは、「舊」に字にもちいられているため。しかし、「舊」は「隹」部ではない。

(表紙)「ふなをさ」・・船頭。現在は「船長(せんちょう)」が一般的に用いられる。

<変体仮名>・・「布」→「ふ」、「那」→「な」、「遠」→「を」、「佐」→「さ」

<漢字の話>「遠」・・「エン」は漢音、「オン」は呉音。変体仮名「遠(を)」の「を」は、呉音から発生した。呉音の例として「遠流(おんる)」「久遠(くおん)」などがある。

<変体仮名>「遠(を)」・・「を」は、仮名文字発明当時、「ウォ」のような発音だった。だから、現在の発音の語頭の「オ」を、歴史的仮名遣いで「を」と書かれたものがある。

*語頭が「を」の例・・尾(を)張、鼻緒(はなを)、甥(をひ)、終(を)へる、雄々(をを)しい、丘(をか)、岡(をか)、可笑(をか)しい、犯(をか)す、拝(をが)む、桶(をけ)、長(をさ)、幼い(をさ)ない、収(をさ)める、叔父(をじ)、伯父(をぢ)、惜(を)しい、教(をし)へる、牡(をす)、夫(をっと)、男(をとこ)、一昨日(をととひ)、少女(をとめ)、囮(をとり)、踊(をど)る、斧(をの)、檻(をり)、折(を)る、居(を)る、終(を)はる、女(をんな)など。

*語頭以外で「を」の例・・青(あを)、功(いさを)、魚(うを)、香(かをり)、鰹(かつを)、竿(さを)、栞(しをり)、萎(しを)れる、十(とを)、益荒男(ますらを)、澪(みを)、操(みさを)、夫婦(めをと)など。

 *<「を」>・・いろは順では第十二位で、定家かなづかいの流では、「端のを」と呼んでいる。一方「お」は、いろは順では第二十七位で、「奥のお」と呼んでいる。

<重たい「を」>・・ワ行の「を」を、関東など、「重たい『を』」と呼ぶ地方がある。

 *<変体仮名の固有名詞を、漢字として扱っている例>「さうせいはし」を「左宇勢以橋」としている。

(表紙)「人(じん)」・・日本の古典籍(こてんせき)、和古書(わこしょ)、和本(わほん)の冊数の数え方の三番目の冊。各冊(巻)に「第一、二 …」などと数字の呼称が与えられている場合が多い。数字以外では通常、「乾・坤(けん・こん)」、「上・中・下(じょう・ちゅう・げ)」、「天・地・人(てん・ち・じん)」、「序・破・急(じょ・は・きゅう)」などが用いられる。

また、「元・亨・利・貞(げん・こう・り・てい)」、「仁・義・礼・智・信(じん・ぎ・れい・ち・しん)」などといった呼称が用いられる。

(1) (表紙)「ふなをさ」・・船頭。

<変体仮名>・・「布」→「ふ」、「那」→「な」、「遠」→「を」、「佐」→「さ」

<漢字の話>「遠」・・「エン」は漢音、「オン」は呉音。変体仮名「遠(を)」の「を」は、呉音から発生した。呉音の例として「遠流(おんる)」「久遠(くおん)」などがある。

<変体仮名>「遠(を)」・・「を」は仮名文字発明当時、「ウォ」のような発音だった。だから、現在の発音の語頭の「オ」を「を」と書かれたものがある。

*語頭が「を」の例・・尾(を)張、鼻緒(はなを)、甥(をひ)、終(を)へる、雄々(をを)しい、丘(をか)、岡(をか)、可笑(をか)しい、犯(をか)す、拝(をが)む、桶(をけ)、長(をさ)、幼い(をさ)ない、収(をさ)める、叔父(をじ)、伯父(をぢ)惜(を)しい、教(をし)へる、牡(をす)、夫(えおっと)、男(をとこ)、一昨日(をととひ)、少女(をとめ)、囮(をとり)、踊(をど)る、斧(をの)、檻(をり)、折(を)る、居(を)る、終(を)はる、女(をんな)など。

*語頭以外で「を」の例・・青(あを)、功(いさを)、魚(うを)、香(かをり)、鰹(かつを)、竿(さを)、栞(しをり)、萎(しを)れる、十(とを)、益荒男(ますらを)、澪(みを)、操(みさを)、夫婦(めをと)など。

 *<重たい「を」>・・ワ行の「を」を、関東など、「重たい『を』」と呼ぶ地方がある。

*<無線局運用規則別表第5号和文通話表(昭和251130日公布)>・・音声通信で通信文の聞き間違いを防ぐために(「オ」と「ヲ」を区別するために)、「大阪の『オ』」「尾張の『ヲ』」と呼ぶことが決められている。ちなみに「ヰ」は、「ゐどのヰ」、「ヱ」は、「かぎのあるヱ」。

 <転音>「船長(ふなをさ)」・・「船(ふね)」が「ふな」と発音することを「転音」という。「船底(ふなぞこ)」「船便(ふなびん)」など。日本語では主として、複合語をつくる際の、前の部分の語末におこる母音の転換をいう。酒(さけ)→酒樽(さかだる)、酒屋(さかや)のたぐい。

(2)「器財(きざい)」・・うつわ。道具。また、家財道具。器材。

(3)「鯱(しゃち・しゃちほこ)」・・国字。

 <漢字の話>「鯱」一字で、「じゅちほこ」と読むことがある。「金の鯱(しゃちほこ)」。なお、「鯱」を「コ」と読んで「金鯱(キンコ)」と読むことがあるが、「コ」は音読みではない。

(3)「六寸五寸」・・「五寸」は「五分」の誤りか。

(4)「一角(いっかく)」・・イッカク科の哺乳類。イルカに類似し、体長約五メートル。

(4)「牛酪(ぎゅうらく)」・・牛乳の脂肪質を固めたもの。バター。

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『ふなをさ日記』8月注 

(113-1)「はごこまん」・・「育(はぐく)まん」に同じ。世話をする。面倒をみる。語成は、「育(はごく)む」の未然形「育(はごく)ま」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)」。

 *「育(はぐく)む」は、「羽包(はくく)む」の意。親鳥がひな鳥を羽でおおい包む。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

  <ククムは親鳥が雛を羽でもって包み養う意。上代・中古にはハグクムが一般に用いられていたが、中世になるとハゴクムの勢力が強くなり、ハグクムは歌論・注釈書などに用いられるのみとなった。これは、語源が忘れられたことと、当時オ段とウ段の交替現象が広く生じていたことによる。しかし、江戸時代になって語源が再認識され、ハグクムの形が次第に勢力を取り戻し、近代には、日常語として復活した。>とある。」

 *<漢字の話①>「育」・・部首は「肉(にくづき)」。解字は「女性が子を生む形にかたどり、うむ・はぐくむの意味をあらわす」(『新漢語林』)

 *<漢字の話➁>「ツキ」の部首・・現在の多くの漢和辞典は、「検索」の便利さを重視しているため、その立場から、部首の統廃合、漢字の部首移動が行われている。以下に、現在、「月」部に統合されている「月」の本来の部首(『康煕字典』による部首)を記す。

  1.「日月」の「月(つき)」(つきへん)・・常用漢字では、

月、有(本来は「肉部」)、朗、朝、望。

    常用漢字で「つきへん」の字はない。ほとんどが「肉

月(にくづき)」。

  2.「肉部」(偏になるときは「月」の形になるので「肉月

(にくづき)」・・肌、育、肩、背、肺、胸胴、脚、腕、腎、腰、膝など、多数ある。

  3.「舟月(ふなづき)」・・常用漢字では、朕、服。

    **「服」・・「舟」はふねの両側につけるそえ板の意味。転じて身につけるの意味を表す。

    **「朕」・・舟を上流に向かっておしあげる航跡をがくさまから、しるし・あとの意味を表す。

          借りて天子の自称の意味を表す。

 *<漢字の話③>本来の部首の「月」の字形

  1.「日月」の「月」・・「月」の中の横線が右の縦線に接しない。

  2.「肉月」の「月」・・横線が左右に接する。

  3.「舟月」の「月」・・横線でなく、「ヽ」がふたつの形をとる。

(113-1)「すぎわひ」・・生業(すぎわい)。生計を立てるための職業。世渡りの手段。なりわい。生計。

(113-3)「なぞや」・・何ぞや。連語「な(何)ぞ」+係助詞「や」。反語の意を表す。どうして…か。

(113-3)「いみじさ」・・「いみじき」か。「いみじ」は、ひどくつらい、苦しい、みじめである、悲しい、情けない、恐ろしい、困ったことである、などの気持を表わす。

(113-3)「とふ」・・問(と)う。

(113-5)「よしや」・・副詞「よし」に助詞「や」の付いてできたもの。逆接の仮定条件を表わす語。もし。かりに。たとい。万一。よしんば。

 *ふるさとは遠きにありて思ふもの

   そして悲しくうたふもの

    よしやうらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

帰るところにあるまじや

    ひとり都のゆふぐれに

 ふるさとおもひ涙ぐむ

  そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや (『室生犀星「小景異情」』)

(113-5)「乞食(こつじき・こじき・かたい・ほいと)」・・「こつ」は「乞」の慣用音。「じき」は「食」の呉音。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「語誌」には、

 <(1)中古の「こじき」は促音の無表記で、「こっじき」と読むべきか。中世から近世にかけて「こつじき」が一般的で、近世にしだいに「こじき」が増え、近代以降「こじき」が普通となった。

(2)本来は托鉢と同じで僧の修行の一つであったが、中世頃から物もらいの意で用いられるようになり、近世になると托鉢の意ではあまり用いられなくなる。そのため、「こじき」は、もっぱら物もらいの意となり、特にそれと区別して、托鉢のことを「こつじき」と古い形でいうこともある。>

とある。

 *「ほいと」・・「ほいとう(陪堂)」の変化した語。「陪堂(ほいとう)」の「ほい」は「陪」の唐宋音。

禅宗で、僧堂の外で、食事のもてなし(陪食=ばいしょく=)を受けること。

(113-6)「本意(ほんい・ほい)」・・本来の志。かねてからの希望。

(113-7)「あながち」・・(下に打消を伴って)一概には。必ずしも。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「語誌」には、

 <(1)「あな」は自己、「かち」は勝ちか。自分勝手に物事を一方的に押し進めて、他を顧みないさまが原義と思われる。

(2)類義語「しいて(強)」が相手の意志にさからって事を進める意で、古代の和歌や散文に用いられているのに対して、「あながち」は自己の内部の衝動によっていちずに動く意。客観的に見ればわがままという情態性を表わすが、「源氏物語」に百例以上も用いられている以外はあまり頻用されない。

(3)連用形「あながちに」は以後徐々に情態性を失い、程度性の強い語へと変化していく。平安末から否定表現と呼応する用法が多くなり、中世には語尾の落ちた「あながち」に否定を伴った形が現われ、陳述副詞のように用いられた。>とある。

(113-8)「田地(でんち・でんじ)」・・田となっている土地。田。

 *<漢字の話>「田(でん)」・・①元来は、区画された狩猟地・耕地の象形で、田ばかりでなく、耕作地の総称。②したがって、「田」は狩りをする意もあり、「田(でん)す」は、狩りをすること。

<晋・陶潜〔帰去来の辞〕>

帰去来兮       帰去来兮(かへりなん いざ)

   田園將蕪胡不帰    田園 將(まさ)に蕪れなんとす 胡(なん)ぞ帰らざる

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『ふなをさ日記』7月学習注  

(108-2)「塚田留次郎」・・当時。松前奉行調役下役。

(108-2)「松井庄三郎」・・異本は「村井庄三郎」とある。

(103-2)「神無月(かんなづき、かみなしづき、かみなきづき、かみなづき、かむなづき、かみなかりづき)」・・陰暦十月のこと。「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。俗説には、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だからという。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には語源説が11項目ある。折口信夫の説「一年を二つに分ける考え方があり、ミナヅキ(六月)に対していま一度のミナヅキ、すなわち年末に近いミナヅキ、カミ(上)のミナヅキという意からカミナヅキと称された」も紹介されている。なお、異本は「十一月四日」とある。

(108-3)「三厩」・・「みんまや」。テキスト影印は「うまや」とルビがある。三厩は青森県北西部の地名。津軽半島の北西端にある。松前街道の宿駅。漁業が主。龍飛(たっぴ)崎がある。

(108-3)*「忠右衛門(ちゅうゑもん)」・・右衛門は、「ゑもん」か「うゑもん」か。古くは「右衛門」と書いて「うゑもん」。""も発音していた。なぜ「うゑもん」と言っていたのに「ゑもん」になってしまったのか。「忠右衛門」は、元々は「うゑもん」。「ゑ」は「we(うぇ)」に近い発音で、「uwemon(ううぇもん)」だった。それが「u」と「we」の発音が一緒になって「wemon(うぇもん)」。その後、「ゑ」と「え」の発音が区別されなくなり「右衛門」と書いて「emon(ゑもん)」と発音するようになった。

 <律令の職「右衛門府(うえもんふ)」>・・左衛門府とともに衛士を率いて宮城諸門の警衛、開閉をつかさどった。職員に督、佐各一人、大尉・少尉・大志・小志各二人のほか、府生、衛士等がある。

 <変体仮名の「衛」>・・「ゑ」。「恵」「奥のゑ」「重たいゑ」という。したがって、「忠右衛門」のルビは、「ちゅうゑもん」が本来。なおカタカナの「ヱ」は、「かぎのヱ」。

 <黙字>・・「右衛門」の「右」のように、発音しない字を黙字という。「伊達(だて)」の「伊」、「和泉」の「和」など。

(108-5)「三十日経て十二月四日」・・「神無月(10月)四日」に三厩を出発して、「三十日を経」れば、「十一月四日」だから日数が合わない。「神無月(10月)四日」は、異本の「十一月四日」が正しいか。

(108-5)「千住(せんじゅ)」・・東京都足立区南部の地名。旧南足立郡千住町。広くは荒川区南千住(旧北豊島郡南千住町)を含める。江戸時代は奥州街道最初の宿場町として、遊女も多く繁栄した。

 なお、「千住」の語源説に「千手観音堂があったところから千手の転」がある。

(108-6)「ヱゾ会所」・・松前奉行所の江戸会所。直捌を取り扱う事務所として、「会所」を各地においた。東蝦夷地では、従来の運上屋を「会所」と改め、幕吏を在勤させ、これまでの運上屋の機能に加え公務も行う役所の性格を持たせた。本州で会所が置かれたのは、江戸、京都、大坂、兵庫、下関、酒田、青森、鍬ケ崎(現岩手県宮古市のうち)、平潟(現北茨城市のうち)、浦賀、下田などであった。

<江戸の箱館奉行所(のち松前奉行所)の江戸会所>
 箱館奉行所(松前奉行所)の江戸会所は、当初、伊勢崎町に設置されたが、のち、霊岸島の霊岸橋際埋立地に置かれた(現東京都中央区新川町1丁目霊岸島児童公園付近)。江戸時代から、蝦夷地の物産を取り扱う幕府(実際の担当役所は箱館奉行、のち松前奉行)の役所が江戸ばかりでなく、全国に展開されていた。

(108-7)「霊岸島(れいがんじま)」・・霊巖寺が建てられてあったところから呼ばれた。東京都中央区、隅田川河口の島。現在新川一・二丁目となる。江戸初期までは中島と呼ばれていた。万治元年(1658)霊巖寺が深川に移ると、水運に恵まれた地の利から倉庫が並び、江戸時代は材木問屋街、のち清酒問屋街として発展した。

(108-9)「御奉行」・・この時期、江戸在勤の松前奉行は、服部貞勝。

 *箱館奉行の勤務体制・・江戸と箱館(のち松前)と1年交代で勤務した。

(108-910)「尾張の古郷の方」・・重吉の故郷、尾張藩の江戸屋敷の役人。

(108-11)「尾州御屋敷(びしゅうおやしき)」・・江戸の尾張藩の屋敷。上屋敷は、市ヶ谷にあった。

(109-1)「尾州御蔵方」・・尾張藩の御蔵奉行の役人。

(109-1)「木曽路(きそじ)」・・江戸時代の五街道の一つ、中山道をいう。江戸日本橋から板橋、浦和、高崎の宿を経由し、碓氷(うすい)峠を越えて信濃に入り、鳥居峠を越えて、木曾谷から美濃、近江に至り、草津宿で東海道に合するもの。この間、六十七次。草津、大津を加えて六十九次ともいう。

 狭意には、長野県南西部、中山道の鳥居峠付近から馬籠(まごめ)峠に至る間をいう。奈良時代の初めに開かれ、江戸時代には贄川(にえかわ)から、奈良井、藪原、宮越(みやのこし)、福島、上松(あげまつ)、須原、野尻、三留野(みどの)、妻籠(つまご)、馬籠まで十一宿が置かれた。吉蘇路。信濃路とも。

 *重吉が通った名古屋までの道筋

  ①下諏訪まで・・イ.中山道 

.甲州道

  ②中山道から名古屋まで

.下街道・・中山道の大井宿と大久手宿の間の槇ヶ根追分から土岐川沿いに名古屋城下の伝馬町札の辻に至る。

.上街道(うわかいどう)・・中山道伏見宿を過ぎて、太田宿の手前の太田の渡しの手前から上街道に入り、土田(どた)宿、善師野(ぜんじの)宿、小牧宿を経て名古屋城下に至る。

(109-2)「清水御門(しみずごもん)」・・名古屋城三の丸北側にあった唯一の門。門内に尾張藩の勘定奉行所があった。枡形の内部を土塁で仕切る厳重な構造であった。だが、門そのものは櫓門ではなく、矢来を組み上げただけの比較的簡易な施設となっていた。門跡は、現在は道路になっており、旧状をまったくとどめていない。

(109-3)「かたみ(互)に」・・たがいに。 

*「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは〈清原元輔〉」(後拾遺和歌集)

(109-3)「つばら」・・委曲・審。くわしいさま。十分なさま。つばらつばら。つまびらか。つばらか。

(109-4)「鳴海の御代官」・・「鳴海」は鳴海陣屋・鳴海代官所。戦国時代には織田・今川両勢力の接触地点で鳴海砦が設けられた。慶長検地では高三千七百三十八石余の大村。慶長6年(1601)東海道三河池鯉鮒(ちりゅう)宿と熱田宮宿の間の宿駅となり、本陣一・脇本陣二・問屋三があり、L字状の街道に沿って十ヵ町の町並が続いた。天明2年(1782)尾張国愛知・知多郡の一部と三河国の領分計百二ヵ村を支配する鳴海代官所が村内の森下に設けられた。慶長13(1608)に始まるとされる木綿の鳴海絞が東海道の旅客に名産として売られ、伝統産業として続いている。明治19年(1886)東海道線開通で寂れたが、同22(1889)町制施行。名古屋鉄道本線や国道一号線などによって復活、第二次世界大戦後は住宅地として開発が進み、昭和三十八年(一九六三)四月一日名古屋市に合併、緑区が生まれ、その一部となった。

鳴海代官は大代官で鳴海村から愛知郡東南部、知多郡東半分を収めた(石高七万二千石)。重吉の故郷半田村も鳴海代官所の支配であった。

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『ふなをさ日記』月6学習の注 

             

(103-1)「嘉十郎」・・高田屋嘉兵衛の兄弟は六人いたが、その一番末の実弟。安永8年(1779)~天保5年(1834)。高田屋は文化8(1811)からエトロフ場所を請け負っていた。

(103-3)「申(さる)の時」・・午後4時。

(103-3)「ヲトイヤハシ」・・ヲトイマウシ。エトロフ島東部のオホーツク海に面した集落。トウロの近く。

(103-6)「ヘツトウブ」・・日本名別飛(べっとぶ)。シヤナの東に位置し、北はオホーツク海に面する集落。明治初年にベトフなどを包含してベトプ村が成立。同6年(1873)の戸数はアイヌ5、男10、・女17寄留人は平民男25・女1(千島国地誌提要)。同8(1875)ベツトブ(ベトプ)村が村名表記を別飛に改める(根室支庁布達全書)

(103-6)「サナ」・・日本名紗那(しゃな)。北はオホーツク海に臨み、紗那湾に紗那港がある。文化4(1807)まで、会所があり、エトロフの中心地だった。文化4(1807)、ロシヤの襲撃で会所が焼き払われ、会所はフウレベツに移転した。明治初年にシヤナなどを包含してシヤナ村が成立。同6年(1873)紗に開拓使根室支庁の出張所が置かれた。

(103-7)「フルヱベツ」・・日本名振別(ふれべつ・ふうれべつ)。エトロフ島中央部にあり、留別村の西、北はオホーツク海に面し、海に突き出した野斗路岬(ノトロ岬)の南に緩やかな大湾(老門湾)があり、振別港がある。文化4(1807)以降、会所がおかれ、エトロフの中心地となった。

(103-8)「フルヱベツは、此島の中にての都(みやこ)」・・文化4(1807)以降、会所がおかれ、エトロフの中心地となった。

(103-8)「いかめしき」・・「いかめしい」は。姿や形が普通より大きく、がっしりしている。

(103-10)「一とふり」・・一通り。「通(とほ)り」は、動詞「とおる(通)」の連用形の名詞化。テキスト影印は、「一とふり」とあるが、「通り」を「とふり」と訓じることはない。ここは、「とほり」が正しい。

(104-3)「下人(げにん)」・・江戸時代、年季奉公人のこと。主家への隷属性が強く、譜代奉公人として家事や耕作労働に使役され、初期の頃は売買質入の対象ともなったが、中頃からは下男・下女と呼ばれ次第に年季奉公人化した。

(104-4)「ヲトイ」・・「オイト」か。「オイト」は、日本名老門。フウレベツの西にある集落。

(104-5)「ヲタシツ」・・日本名宇多須都(うたすつ)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。

(104-5)「ナイホウ」・・日本名内保(ないほ)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。

(104-7)「タ子モイ」・・日本名丹根萌(たんねもい)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。クナシリ島への渡航地。

(104-8割書右)「ヱトロフ島の岸の」・・「岸の」は、語調がよくない。異本は「の」を「を」とし、「岸を」としている。

(104-9)「丑寅(うしとら)」・・方位を十二支にあてて呼ぶときの、丑と寅の中間にあたる方角。北東。陰陽道などで丑寅の方角が神霊、鬼の訪れる方位とされるところから、特に鬼門の意がこめられることがある。

(104-9)「アトイロ」・・アトイヤ。日本名安渡移矢(あといや)。クナシリ島の北端の岬。エトロフへの渡航地。

(104-10)「二百十日」・・立春から数えて二百十日目にあたる日。このころは嵐が多く、また稲の開花期にあたっていたので、その時期を警戒する意味で生まれた暦注。太陽暦では九月一日ごろと一定であるが、旧暦の日付では七月十七日から八月十一日ごろまでのどの日になるか一定でないためこのような暦注が必要であった。なお、越中八尾の「おわら風の盆」は毎年9月1日から三日間おこなわれているが、二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う祭りという。

(104-10)「ゆへ」・・故。歴史的仮名遣いは、「ゆゑ」で、「ゆへ」はない。

(104-11)「所々の番屋に。十七日」・・異本は「番屋に」のあとに、「やどり」がある。

(104-11)「セヽキ」・・クナシリ島中部の太平洋に面した集落。日本名瀬石。

(105-1)「海の岸に温泉あり」・・「セセキ」は、「湯の湧くところ」の意味という。なお、異本は、「温泉」に「イデユ」とルビがある。

(105-1)「トマリ」・・日本名泊。クナシリ島西部の集落。ネムロからの渡航地であった。

(105-5)「子モノ」・・根室。

(105-9)「そこばく」・・副詞「そこば」に副詞語尾「く」の付いたもの。「若干」「幾許」を当てる。数量の多いさま、程度のはなはだしいさまを表わす語。多く。たくさん。はなはだ。たいそう。

(106-3割書左)「便り」・・便利。便宜。都合。

(106-9)「閏八月」・・文化13(1816)は、閏八月があった。

(106-5)「臼(うす)」・・有珠。

(106-6)「信濃の善光寺分身」・・有珠善光寺の公式HPに、「天長3年(826年)、比叡山の僧であった慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し、開山したと伝えられている浄土宗のお寺です。」とある。慈覚大師は、平安期の天台宗山門派の祖・円仁のことで、等澍院文書には、それを理由に、等澍院を有珠に建立したい旨、陳情した経過がある。(別添『北の青嵐180号』の拙論参照)

 更に、等澍院文書は、「善光寺を彼宗に被奪取候様、世上之沙汰末々迄難遁」と、きつい口上で述べている。

(106-6)「寺主(てらぬし・てらあるじ・じしゅ)」・・文化13(1816)当時の善光寺の住職は、3辨瑞。なお、辨瑞は、念仏上人といわれ、掛け軸「念仏上人画像」は、平成17年に国の重要文化財に指定された。また、アイヌ語がそえられた和讃、木版「念仏上人子引歌(カモイポボウンケイナ)」も重要文化財に指定されている。

(106-67)「江戸の増上寺より来る」・・蝦夷三ヶ寺建立に際し、僧侶を派遣する最初に本山が決められた。寛永寺(様似・等澍院の本山)、増上寺(有珠・善光寺の本山)、金地院(厚岸・国泰寺の本山)。寛永寺、増上寺は、徳川家の菩提寺である。

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『ふなをさ日記』5月学習の注 

(98-1)「又(また)の日(ひ)」・・次の日。翌日。一般には「別の日。後日」の意が多いが、ここは、翌日の意。

(98-1)「何国(いづく)」・・異本は、ひらかなで「いづく」としている。

(98-2)「辰巳風(たつみ・たつみかぜ・たつみのかぜ)」・・東南の方角から吹いてくる強風。「辰巳風」と書いて、たんに「たつみ」「たづみ」という地方がある。なお、余談だが、「辰巳風」を「とつみふう」と読めば、江戸深川の遊里の気風や風俗。意気と張りを特色とした。また、語源説に、「

日の立ちのぼり見ゆの転略〔国語蟹心鈔〕」がある。

(98-23)「磁石を立(たて)」・・ここの「立(たて)る」は、使ったり仕事をしたりするのに十分な働きをさせること。「磁石を使い」の意。

(98-3)「申酉(さるとり)」・・西南西。

(98-3)「夜(よる)の戌(いぬ)の時」・・午後8時頃。

(98-4)「はて(果)」・・いちばんはしの所。

(98-8)「羆(ひぐま)」・・ひぐま。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <「二十巻本和名抄‐一八」に「羆 爾雅集注云羆〈音碑 和名之久万〉」とあるように、古くはシクマ(シグマ)と呼ばれていた。ヒグマの語形は近代以降多く見られるようになるが、「言海」(一八八九〜九一)は、ヒグマとシグマの両方を見出し語にあげ、ヒグマの項で「しぐまノ誤」と述べており、シグマを正しい語形としている。その後も同様の辞書が多く見られ、明治中期以降も、シグマを正しいとする規範意識があったことがうかがわれる。ヒグマが一般化したのは大正期か。>とある。

 また、『新漢語林』の「羆」の項には、<「しぐま」と、よむのは字形による>とある。

 <漢字の話>

「熊」:「火」部。「火」が脚(あし・漢字の下部)になるときは、「灬」の形をとり、「連火(れんか)」あるいは「列火(れっか)」と呼ぶ。

「羆」:「罒(よこめ・あみがしら・よんかしら)」部。

(98-8)「やらん」・・~であろうか。疑いをもった推量を表す。「にやあらむ」の転。断定の助動詞「なり」の連用形「に」+係助詞「や」+ラ変動詞「あり」の未然形「あら」+推量の助動詞「む」の連体形「む」。

(98-89)「いくらともなく」・・数多く。

(98-11)「ひまなく」・・隙(ひま)なく。休みなく。「隙(ひま)」は、連続して行なわれる動作のあいま。間断。

(98-11)「東風(こち・ひがしかぜ・こちかぜ・あゆ・あゆのかぜ)」・・東の方から吹いて来る風。特に、春に吹く東の風をいう。

(99-1)「夜」<見せ消ち>・・影印は、「今」の左に、カタカナの「ヒ」に似た記号がある。これを「見せ消ち」記号という。「今」を訂正して、「夜」とした。

(99-23)「焚けるに、今宵は羆のうれひもなかりける・・通常の文は、終止形で結ぶ。ところが、係助詞「ぞ」を用いると、その文末は連体形で結ぶ。ここは、「けり」の連体形「ける」で結んでいる。

(99-3)「辰時(たつどき)」・・午前8時ころ。

(99-4)「かねて」・・以前から。

(99-4)「任(まか)せ」・・随って。

(99-5)「高山(こうざん)あり」・・エトロフ島北部にあるラッキベツ山(1206メートル)か。

(99-5)「大成滝(だいなるたき)おちる」・・エトロフ島北部のラッキベツ岬北の断崖絶壁にあるラッキベツ滝。高さは140メートル。テキストには「三十間」とあるが、その3倍ある。嘉永2年(1849)、千島に渡った松浦武四郎は、『三航蝦夷日記』の「ラッキベツ」という小項目のなかで、「其間は、皆峨峨たる岸壁にして船を寄する処無、実に恐敷海岸なり。其落る滝高サ五丈仭と云えども、先三十丈と見ゆる也。幅は先五丈位も有る様に思わる。一道の白絹岩端に掛けたる風景、実に目覚ましき光景なり。然れ共我等も岸を隔つこと廿三、四丁にて眺望至す故に、委敷は見取がたし。然れ共其形本邦にては、紀州郡那智山の滝よりも一等大なり」と記している。

(99-67)「岩ほ」・・巌(いわお)。旧仮名遣いは、「いはほ」で、発音は「イワオ」。語源説に、「イハホ(石秀)の略言」がある。

(99-8)「熊野なちの山の滝」・・熊野那智山の大滝。落差は、133メートルだから、ラッキベツ滝の方が、直瀑(ちょくばく。水の落ち口から、岩壁を離れ、また岩壁に沿ってほぼ垂直に落下する滝)としては、大きい。エトロフが日本に返還されると、ラッキベツ滝が日本一となる。

(99-9)「ふねを乗(のる)」・・船をすすめる。「乗る」は、乗物などをあやつって進ませる。走らせる。操縦する。「のりまわす」「のりこなす」などの形で用いられることが多い。

(99-9)「となり」・・格助詞「と」に断定の助動詞「なり」の付いたもの。…というのである。…ということである。

(99-10)「きつらん」・・来つらん。来ただろうか。カ変動詞「来(く)」の連用形「()」+完了の助動詞「つ」の終止形「」+推量の助動詞「らん(む)」の終止形「らん」。

(99-1)「思(おもい)しかども」・・思ったのだけれども。動詞「思う(ふ)」の連用形「思い(ひ)」+過去の助動詞「き」の已然形「しか」+逆接確定条件の接続助詞「ども」。

(100-1)「出(いで)こん」・・出てくるだろう。下2動詞「出(い)づ」の連用形「出(い)で」+カ変動詞「来(く)」の未然形「」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)

(100-1)「あらん」・・あるだろう。ラ変動詞「有(あ)り」の未然形「あら」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)」。

(100-3)「はな」・・端(はな)。突き出た所。岬や岩壁の先。

(100-8)「いざ給(たま)へ」・・さあ、おいでなさい。「たまえ」は尊敬の意を表わす補助動詞「たまう(給)」の命令形で、上に来るはずの「行く」「来る」の意を表わす動詞を略したもの。さあ、おいでなさい。場面によって、私といっしょに行きましょうの意にも、私の所へいらっしゃいの意にもなる。中古以降、親しい間柄、気楽な相手への誘いかけとして、よく用いられている。

「御(み)いとまなくとも、かの主(ぬし)は出で立ち給なん。いざたまへ、桂(かつら)へ」(『宇津保物語』)

いざ給へかし、内裏(うち)へ、といふ」(『枕草紙』)

「萩、すすきの生ひ残りたる所へ、手を取りて、いざ給へ、とて引き入れつ」(『宇治拾遺物語』)

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『ふなをさ日記』4月学習の注

    

(93-1)「来たれかし」・・来てください。「かし」は終助詞。呼びかけや命令の文末に付いて、強く念を押したり、同意を求めたりする意を表す。…ことだ。…よ。

(93-1)「南京(なんきん)」・・「きん」は「京」の唐宋音。揚子江下流の曲流点の江浙デルタの頂点に位置する。水陸交通の中心地。明の永楽帝の時北京に対して称した。近世、このあたりの地一帯、ひいては中国のことをもいった。

(93-1)「広東(かんとん)」・・珠江三角州の北端にあり、華南地方の政治、経済、文化の中心。特に唐代以後は華南最大の貿易港として繁栄した。現広東省の省都・広州。

(93-1)「天竺(てんじく)」・・中国古代のインド地方の呼び名。同系統の古称としては天篤(てんとく)、天督(てんとく)、天豆(てんとう)、天定(てんてい)などがあり、語源は、身毒(しんどく)、印度(いんど)などと同じく、サンスクリットのシンドゥーSindhu(インダス川地方)であるとされる。文献では『後漢書(ごかんじょ)』「西域伝」に「天竺国、一名身毒。月氏(げつし)の東南数千里にあり」とあるのが最初であり、魏晋(ぎしん)南北朝期に一般化し、日本にも広まった。

(93-1)「紅毛(こうもう」・・明代中国人がオランダ人を指して呼んだ紅毛番(『東西洋考』)・紅毛夷(『野獲編』)の略称。彼らの毛髪・鬚が赤いところから由来する。イギリス人を呼称する語にも用いられたことがある。日本でもこれが援用され、ポルトガル・イスパニヤを南蛮と呼称したのに対し、主として紅毛は阿蘭陀・和蘭・荷蘭などとともにオランダを指す語として併用した。イギリスをも呼んだがこれはきわめて少ない。

(93-1)「珍らしき」・・影印は、「珍」の俗字の「珎」。古文書では、「珎」は頻出する俗字。

(93-2)「にぞ」・・格助詞「に」+協調の係助詞「ぞ」。「~ので」。ここは「言い出したので」。

(93-3)「だに」・・副助詞。名詞、活用語の連体形・連用形、副詞、助詞に付く。軽い事柄をあげて他のより重い事柄のあることを類推させる意を表す。…さえも。…でさえ。…だって。

(93-4)「中々に」・・予想した以上に。意外に。かなり。

(93-1011)「重吉こそ連行んとは思ひたれ・・思ったけれども。組成は、係助詞「こそ」+完了の助動詞「たり」の已然形「たれ」。「こそ」を受けて、文を終止する場合、活用語は已然形となる。「係結

終止法」という。意味的に次の文に逆説で続くときは、読点にする。

(93-11)「気色(けしき)」・・物の外面の様子、有様。また、外見から受ける感じ。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)「気色」の呉音読みによる語。和文中では、はやく平安初期から用いられているが、自然界の有様や人の様子や気持を表わす語として和語化していった。

(2)類義の「けはひ(けわい)」が雰囲気によって感じられる心情や品性といった内面的なものの現われを表わすことに傾くのに対し、「けしき」は顔色や言動といった一時的な外面を表わすことにその重心がある。

(3)鎌倉時代以降、人の気分や気持を表わす意は漢音読みの「きそく」「きしょく」に譲り、「けしき」は現在のようにもっぱら自然界の様子を表わすようになった。それによって表記も近世になって「景色」があてられるようになる。>とある。

(94-1)「斯ては果じ」・・これでは、いつまでたってもらちがあかない。「果(は)つ」は、打消しを伴って、「はかどる」。ここでは「はかどらない」

(94-1)「免(ゆる)し」・・「ゆるす」は、願いを聞き入れる。聞き届ける。

(94-1)「あながち」・・一途(いちず)なさま。ひたむきなさま。

(94-3)「ウルツー島」・・ウルップ島(得撫島)。千島列島南西部、択捉島北東方の火山島。

(94-3)<カナの話>なぜ、「ヱトロフ」の「ヱ」は、カギの「ヱ」か。・・

 ①「ヱトロフ」は、「惠登呂府」を当てた。例えば、寛政10(1798)、近藤重蔵がエトロフに立てた標柱は「大日本惠登呂府」。「ヱビスビール」の「ヱビス」は、「恵比恵」から取ったので、「ヱ」。

 ②変体仮名の「惠」は、ひらがなの「ゑ」、カタカナでは、カギの「ヱ」のもとになった字。

 ③カタカナの「五十音図」のア行は、元来は、「ア・イ・ウ・ヱ・ヲ」。「エ」よりもカギの「ヱ」が多く用いられた。なお、「オ」よりも「ヲ」が多用された。

(94-4)「あわひ」・・動詞「あふ(合)」に接尾語「ふ」の付いた「あはふ」の名詞化か。物と物との交わったところ。重なったところ。また、境目のところ。中間。間。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<平安時代、「あひだ」は和文には例が必ずしも多くはなく、しかも時間的用法が主であるのに対し、「あはひ」は和文に多用され、空間的用法が中心となる。漠然性は現代語においても、表現として効果的に生かされている。このように、共通語としては、雅語として固定的に使われているが、各地方言では、生活語として命脈を保っている。>とある。

 <仮名遣いの話>歴史的仮名遣いでは、「あはい」。現代仮名遣いでは「あわい」。影印の「あわひ」は、それをチャンポンにした仮名遣い。

(94-5)「言しろひなり」・・「言いしろひなり」は、形容詞。「しろふ」は、は互いに事をし合う意。互いに言い合う。あれこれと話し合う。

(94-67)「いとはぬか」・・かまわないか。

(94-7)「心得て侍る上は」・・承知の上であるから。

(94-8)「わりなく」・・しかたなく。「わり(理)なし」は、仕方がない。やむを得ない。余儀ない。是非もない。

(94-9)「わたり」・・辺。ある場所の、そこを含めた付近。また、そこを漠然とさし示していう。その辺一帯。あたり。へん。へ。近所。

(94-11)「ゆゑよし」・・故由。わけ。いわれ。

(95-1)「心とけたるとはいへども」・・和解しあっているとはいうものの。

(95-12)「先にもヲロシヤの人、松前へとらはれて、三年計も居たる」・・ゴローニンの来航と逮捕事件。「三年計」とあるが、実質2年半、ゴローはニンは、捕らわれの身だった。その概略を記す。

 ・文化8(1811).5.26・・千島諸島および満州沿岸測量の命を受けた船将ゴローニン率いるディアナ号、薪水、食料補給のためクナシリ島トマリ沖に到来。

 ・同年6.4・・ゴローニンらトマリに上陸、クナシリ会所にて調役役奈佐瀬右衛門と会見、会見中逃亡を図ったため捕縛。副将リコルドは救出をあきらめカムチャッカへ去る。

 ・同年7.2・・ゴローニンら、南部藩士に護送されて箱館に到着、入牢。822日箱館出発、25日福山到着。

 ・この冬・・村上貞助、松前奉行の命によりゴローニンらについてロシア語を学ぶ。

 ・文化9(1812)1.26・・幕府、ゴローニンらの処置を決定、返還せずに留置き、ロシア船の渡来あれば打払うべき旨、松前奉行、南部津軽両家に通達。

 ・同年2月・・松前奉行、ゴローニンらの捕囚を緩め、松前近在の逍遥を許す。

 ・同年2月・・間宮林蔵、ゴローニンらと面会し、天文・測量などを質問。

 ・文化9(1813).3.24・・ゴローニンら、置所の板塀の下土を掘って逃亡、44日、江差付木の子村で捕えられ、福山に送還、入牢。

 ・同年8.4・・リコルド、ゴローニンらの返還交渉のため、文化4年(1807)エトロフで、フヴォストフに捉えられた五郎次と漂民6名(文化7年=1810=漂流した摂州の歓喜丸乗組員)をともない、クナシリ島センベコタン沖に到来、クナシリ在勤役人と交渉したが、役人は、ゴローニンは処刑されたとして拒否される。リコルドは、真偽を正すべく814日クナシリ島ケラムイ沖で高田屋屋嘉兵衛持船観世丸を襲い、嘉兵衛らを連行、カムチャッカにむけて去る。

 ・文化104.7・・リコルド、ディアナ号に嘉兵衛らを乗せてクナシリ島センベコタン沖に来る。嘉兵衛を介してクナシリ詰役人と交渉。先年のフォストフの乱暴はロシア政府の関与せぬことである旨述べ、ゴローニンのを放還を求める。

 ・同年6.19・・松前詰吟味役高橋三平ら、松前奉行の命により捕虜のロシア人シイモノフをともない、クナシリ島に到着、諭書をリコルドに交付し、捕虜放還の条件としてロシア国長官の陳謝書の提出と先年掠奪した平気・器物の返却を要求。リコルドはこれを承諾し、上官と相談の上、諭書を携えて8月下旬までに箱館に渡来する由を述べ、6月24日クナシリ島を出帆、いったんオホーツクに帰る。

 ・同年8.17・・松前奉行、返還準備としてゴローニンらを福山より箱館に移す。同月20日、ゴローニン箱館着。

 ・同年9.16・・ディアナ号箱館沖到着。17日入津。同日リコルドはオホーツク総督ミニィツキィの書を提出。19日には上陸を許されて沖の口番所にて高橋三平らと会見、シベリア総督テレスキンの書を提出。

 ・同年9.26・・ロシア政府の陳謝の趣意を了承し、松前奉行服部貞勝臨席のもとに、箱館沖の口番所にてゴローニンらをリコルドに引き渡す。

 ・同年9.29・・ディアナ号箱館より帰帆。

(95-23)「さはいへ」・・「然(さ)はいえ」。そうは言うものの。さは言えど。影印の「左」は、変体かなの「さ」。ここでは、1行目の「ヲロシアとは互に心とけたる」を受けて、「そうは言っても」となっている。

 *「さ(然)」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <奈良時代には「しか」が主流で、「さ」は「さて」や「さても」のように複合した形でしかみえない。

平安時代に入っても、和歌については「しか」が優勢で、物語などの散文で「さ」が発達してから和

歌にも浸透し、一二世紀から一三世紀にかけて用例が激増した。それに対し、「しか」は漢文訓読文や

和漢混交文に残るだけとなる。

 室町時代後期になると「さう」の例が見えはじめ、「さ」で表現すべきところを次第に「さう」で表現

するようになる。現代では「そう」を用い、「さ」は「さよう」「さほど」などの複合語として残るの

みで、単独では用いられない。>とある。

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『ふなをさ日記』3月学習の注 

(88-1)「重吉、書付たる一さつ」・・重吉が帰国後、板行した『ヲロシヤノ言』をさすと思われる。

(88-12)「天地山川(せんちさんせん)」・・天と地、山と川。つまり自然全体をいう。

(88-2)「人倫(じんりん)」・・ひと。人々。人類。特定の個人や集団ではなく、人間一般をいう。

 なお、テキスト影印の「リン」は、「ニンベン」より、「リッシンベン」に近いが、「忄」+「侖」の字はない。ここは好意的に「倫」とする。

(88-2)「生(しょう)る〔い〕」・・影印は、「生る」だけで、「い」が脱か。

(88-2)<漢字の話>「衣喰」の「喰」・・テキスト影印の「衣喰」の読みは、「イショク」が妥当か。しかし、「喰」に「ショク」という字音はない。『新潮日本語漢字辞典』は「喰」を国字として「くう・くらう・たべる」などの日本語読みはあるが、漢語風の読みはない。なお、『康煕字典』には、同字があるが、字音は「サン」。テキストの場合、「喰」を「食(しょく)」の当て字として、使用していると思われる。異本は、「衣食」として「喰」は使っていない。

(88-2)「器財(きざい)」・・うつわ。道具。また、家財道具。器材。

(88-2)「わかちて」・・分類して。

(88-3)<文法の話>「うつしおかまじ」・・この用法は二重の意味で誤り。

①打消の助動詞「まじ」は、終止形(ラ変動詞には連体形)に接続するから、「うつしおかまじ」という用法は誤り。「うつしおくまじ」が正しい。しかし、それは、文意のそぐわない。

②異本は、「うつしおかまし」と、打消の「まじ」ではなく、推量の助動詞「まし」になっている。

「まし」は未然形に接続するから、「うつしおかまし」なら正しい。

③文意も「写し置こう」ということだから、②が正しい。

(88-4)「一体(いったい)」・・そもそも。おしなべて。一般に。

(88-4)「遣ひさま」・・遣い方。「さま」は接尾語。後世は「ざま」とも。動詞に付いて、そういう動作のしかたを表わす。方(かた)。様(よう)。ぶり。

(88-5)<くずし字>「書付がたきが多く」・・       下は『これでわかる仮名の成り立ち』

「がたきが」の変体仮名は「可・多・支・可」。     (茨木正子編 友月書房刊)より

 *<変体仮名「支(き)」・・右の表参照。

 *<漢字の話>「支(き)」・・①手元の漢和字典に「支」を「キ」とするものはない。

  ②万葉仮名(甲類)に「き」がある。

  ③古代中国字音が「キ」に近かったとされる。  (『新潮日本語漢字字典』)

  ④「支」の部首・・「支」は部首。部首名は、「じゅうまた」「しにょう」「えだにょう」とも。「しにょう(繞)」と「繞」の名を持つが、その例は、「翅」のみ。

(88-9)「末つかた」・・「つ」は「の」の意。ある期間の終わりのころ。月や季節などの終わりのころ。末のころ。「つ」は、奈良時代に使われた格助詞。平安時代以降は、「天つ風」「沖つ白波」のように、複合語として慣用的にだけ用いられた。現在では、「まつげ(目つ毛)」「やつこ(家つ子)」「わたつみ(海神)」に一語の中に化石的に残っているにすぎない。

(88-910)「六人の日本人」・・督乗丸の船頭・重吉と水主の音吉、半兵衛、薩摩の永寿丸の漂民で船頭の喜三左衛門、水主の角次、佐助の六人。

(88-10)「フツヱトル」・・セント・パーヴェル号。

(88-10)<くずし字>「用意」の「用」・・1画目が点か、省略されているようになる場合が多い。

(89-3)「スレス」・・ワシリー・スレドニー船長。

(89-3)「イキリスの船頭ベケツ」・・イギリス船フォレスタ号の船長ピケット。

(89-3)「筆者(ものかき)ベネツ」・・フォレスタ号の書記ベネツ。

(89-4)「扨(さて)」・・文脈上すでに存する事物・事態をうけ、これと並行して存する他の事物・事態に話を転じる。一方では。他方。ところで。

(89-4)<略字(異体字)>「薩摩」の「广」・・「广」は、「摩」の略字。

(89-4)「便船(びんせん)」・・便乗すべき船。都合よく自分を乗せて出る船。また

乗る人。

(89-7)「カワンより」・・異本は、「カワン」を「ガワン」とし、そのあとに「みなとの事也」と割注がある。また、「オロシヤノ言」には、「湊の事 ガアハン」とある。

(89-7)「午未(うまひつじ)」・・ほぼ南南西。

(89-8)「亀崎(かめざき)」・・知多半島東岸の漁村で港町。現愛知県半田市亀崎。

(89-9)「いかにせましと」・・どうしようかと。「せまし」の組成は、サ変動詞「す(為)」の未然形「せ」+推量の助動詞「まし」の連体形「まし」。

(89-10)「ゆへ」・・「由」の歴史的仮名遣いは、「ゆゑ」。

(89-11)「渡り」・・辺り。ある場所の、そこを含めた付近。また、そこを漠然とさし示していう。その辺一帯。あたり。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <「わたり」は「伊勢物語‐五」に「東の五条わたりにいと忍びてゆきけり」、「土左‐承平五年一月二三日」に「このわたり海賊のおそりあり」とあるように接尾語的に、あるいは「の」「が」による連体修飾に続けて用いられるだけであるのに対し、「あたり」は単独で用いられる。>とある。

(90-3)「然(しか)るべし」・・[連語]ラ変動詞「しかり」の連体形+推量の助動詞「べし」。それが適当であろう。現代語では、連用形から出た「しかるべく」、連体形から出た「しかるべき」の形が用いられるにすぎない。

(90-6)<漢音・呉音>「経文(きょうもん)」・・「経」は、「キョウ」が呉音、「ケイ」が漢音。「文」は、「モン」が呉音、「ブン」が漢音。日本には、呉・越地方、中国中部揚子江流域地方の古い時代の音が、先ず入ってきた。仏教伝来とも係り、仏教用語は、呉音が多い。

(90-6)「そと」・・しずかに。ひそかに。こっそりと。そっと。

(90-7)「言(いう)もさらなり」・・言うまでもない。もちろんである。

(90-9)「不足(たらず)くちおしき」・・とても残念だ。「不足(たらず)」は、不満足で。

(90-9)「いみじく」・・ひどく…である。

(90-10)「沖中(おきなか)」・・海洋の中。

(91-1)<くずし字>「教」・・影印は、「教」の決まり字。

偏は「おいかんむり」+「子」だが、「おいかんむり」を「才」のような形で上に書き、「子」と旁の「攵(ぼくづり・ノ分)」を一緒に脚に書くことが多い。

(91-1)「見えわかず」・・みることができず。「わかず」の組成は、4段動詞「わ(別・分)く」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連用形。

(91-1)「地方(じかた)」・・陸地の方。特に、海上から陸地をさしていう語。陸地。岸辺。

(91-2)「日数(ひかず・にっすう)」・・経過した、またはこれから要するひにちの数。にっすう。また、何日かの日の数。

(91-23)「海上上」・・「上」がひとつ重複している。

(91-3)「ヱドモ」・・絵鞆か。絵鞆は、絵鞆半島突端北西部に位置し、北と西は内浦湾に面する。

(91-7)「実(げ)に」・・「現に」の変化した語かという。予告や評判どおりの事態に接したときの、思いあたった気持を表わす。なるほど。いかにも。本当に。

(91-6)「船ももろともに」・・「も」が重複で、ここは、「船もろともに」か。

(91-8)<異体字>「乞」・・冠部分が「ト」で脚部分が「乙」になる場合がある。

(91-10)<くずし字>「引かへし」・・「し」が「へ」に食い込んでいる。一見、「へし」が1字に見えるが、このテキスト影印では、よく見かける。

(91-11)「やゝ」・・副詞「や(彌)」を重ねてできた語。ある物事が少しずつ進むさまを表わす語。徐々に。次第に。順を追って。だんだん。

(92-6)「もどりてよかし」・・「よかし」は、意味不明。異本は、「くれよかし」に作る。                   

(92-7)「来年となれぬ」・・「来年と」は、文意が不明。異本は、「来年迄」に作る。

(92-9)「我々計(ばかり)」・・我々だけ。「ばかり」は、体言・活用語の連体形を受け、限定の意を表わす。

(92-10)「あながち」・・一途(いちず)なさま。ひたむきなさま。

(92-11)「言しろはん」・・言い合う。「しろふ」は互いに事をし合う意。

(93-11)「易なく」・・ためにならない。「易」は、「益」の当て字。

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