森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

船長日記

『ふなをさ日記』2月学習の注

(83-1)「扨は」・・事情や状況、また、相手の発言や行動などで、思いあたることのある時に発する語。そう言うところをみると。そんなことをするところから思えば。それでは。

 *<漢字の話>「扨」・・国字。『新漢語林』は、解字を、「刄(叉)」+「扌(手)」とし、「叉」は、サ、「手」はテ、合せてサテの音を表すとしている。なお、「扠」は、「さて」と訓じることもあるが、元来は漢字。

(83-1)「いへたるか」・・ヤ行下2動詞「癒(い)ゆ」の連用形は、「癒(い)え」。「いへ」とすれば、終止形は、「癒(い)ふ」だが、どういう表現はない。ここは、「いえたるか」が正しい。

(83-2)「ゆへ」・・故。文語体では、「ゆゑ」で、「ゆへ」とはいわない。しかし、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「故」の語源説に、「ユはヨリ(因)の約。ヱはヘ(方)の転」とあるから、「ゆへ」とする用法もあったか。

(83-2)「からき」・・辛き。形容詞「辛(から)し」の連体形。「辛(から)し」は、残酷だ。むごい。ひどい。

(83-2)「せひばひ・・成敗。歴史的仮名遣いでも、「せひばひ」とは書かない。ここは、「せいばい」。

(83-2)「せひばひをし給ひては」・・罪人として仕置きをなされては。

(83-3)「なかなかに」・・かえって。むしろ。

(83-3)「いとほしく」・・形容詞「いとほし」の連用形。「いとほし」は、かわいそうだ。気の毒だ。

(83-3)「なかなかにいとほしくて」・・かえってかわいそうで。

(83-3)「いかで」・・「いかにて」の撥音便化した「いかんて」が変化した語。あとに、意志、推量、願望などの表現を伴って用いる。何とかして。せめて。どうにかして。どうか。

(83-3)「たべ」・・ください。動詞「給(た)ぶ」の命令形。「給(た)ぶ」は、「与ふ」「授(さず)く」の尊敬語で、お与えになる。くださる。

(83-5)「こらして」・・懲らして。過ちを責めて戒めて。

(83-7)「ゆへ」・・ここも、「ゆえ」が正しい用法。

(83-8)「いかで入てたべ」・・なんとかして入れてください。

(83-8)<脱字について>異本は、「たべ」と「きのふ」の間に、「かしと、あながちにいひける事のわりなさに、心ぐるしくは思ひながら座敷へ入れければ」がある。

(83-8)「きのふのよろこびにとて」・・昨日のお礼に来たのだといって。

(83-9)「まして」・・動詞「ます(増)」の連用形に助詞「て」が付いてできたもの。先行する状態よりも程度のはなはだしいさまを表わす語。それ以上に。他のものよりもひどく。今までよりも強く。いっそう。

(83-9)「まして、きのどくに思ひ」・・いよいよ気の毒に思い。

(83-9)「さることにてはなし」・・そんなに心配には及ばない。

(83-11)「いなみ」・・動詞「否(いな)む」の連用形。「否(いな)む」は、承知しないということを表わす。断る。いやがる。辞退する。

(84-1)「悦びて帰りける」<係り結びの法則>・・通常の文は、終止形で結ぶ。ところが、

①「ぞ」「なむ」「や(やは)」「か(かは)」を用いると、その文末は連体形で結ぶ。

 ②「こそ」を用いると已然形で結ぶ。

 テキストの場合、過去の助動詞「けり」の連体形「ける」で結んでいる。

(84-2)「童(わらべ)」・・語成は、「わらわべ」の変化した「わらんべ」の撥音「ん」の無表記から。語源説のひとつに、「その泣き声から、ワアアヘ(部)の義」があるのが、おもしろい。

(84-2)「子共(こども)」・・「ども」は接尾語。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <(1)元来は「子」の複数を表わす語であり、中古でも現代のような単数を意味する例は確認し得ない。ただ、複数を表わすところから若年層の人々全般を指す用法を生じ、それが単数を表わす意味変化の契機となった。

 (2)院政末期には「こども達」という語形が見出され、中世、近世には「こども衆」という語を生じるなど、「大人に対する小児」の用法がいちだんと一般化し、同時に単数を表わすと思われる例が増える。

 (3)漢字表記を当てる場合、基本的には上代から室町末期まで「子等」であるが、院政期頃より「子共」を用いることも多くなる。近世に入り、「子供」の表記を生じた。>とある。

(84-3)<変体仮名の話>「わらんべ」の「わ(王)」・・「王」は、現代仮名遣いでは「おう」だが、歴史的仮名遣いでは、「わう」。したがって、「王」を変体仮名の「わ」とするのは、歴史的仮名遣いによる。

(84-3)「何心(なにこころ)なく」・・形容詞「何心なし」の連用形。「何心なし」は、何の深い意図・配慮もない。なにげない。

(84-45)<文法の話>「子供が戯れ」の「が」・・「が」は連体格の格助詞で「~の」。「子供戯れ」

 *「君ため春の野に出でて若菜つむわ衣手に雪はふりつつ」(『古今和歌集』)

 *「おら春」(小林一茶の句集の題名)

(84-5)「ものともおもはで」・・異本は、「ものとも」を「物しとも」としている。「物し」は、「気にさわる。不快である。」だから、異本の方が妥当か。

(84-4)「又の日」・・①次の日。翌日。②別の日。後日。ここでは①か。

(84-8)「からきめをし給ふぞ」・・つらい目にあわせなさるのか。

(84-11)「わきて」・・副詞。動詞「わく(分)」の連用形に、助詞「て」の付いてできた語。特に。格別に。とりわけ。わけて。わいて。

(84-11)「戯言(ざれごと・ざれこと・あきれごと・じゃれごと・たわぶれごと・たわむれごと)」・・

 たわむれに言うことば。ふざけて言うことば。冗談。また、たわむれてすること。ふざけてすること。

(85-2)<漢字の話>「鹿」・・

①「鹿」は部首。解字は角のある雄しかの象形。

②「牛」「犬」「羊」「虫」「貝」など、動物が部首になっている。10画以上でも、「馬」「魚」「鳥」「龜(亀)」「鼠」など。架空の動物では「鬼」「龍(竜)」がある。

 ③殷の紂王(ちゅうおう)が、庭園に酒を満し、枝に肉を懸けて宴を開き、酒池肉林の淫靡な享楽に

  ふけったが、その場所が「鹿台」。黄河流域にはたくさんの鹿が生息していた。(阿辻哲次著『部首の話2』中公新書 2006

 ④「鹿」部で、常用漢字はふたつだけ。「麗」は、「何頭かのシカが連れ立って移動する様」から、美しいことの意味を表した。もうひとつは、平成22(1010)に追加された「麓」。

(85-2)「悦(よろこび)」・・お礼。

(85-3)「なべて」・・動詞「なぶ(並)」の連用形に、助詞「て」の付いてできたもの。事柄が同じ程度・状態であるさまを表わす。すべて。総じて。一般に。概して。

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『ふなをさ日記』1月学習の注 

 

(78-2)<変体仮名の話>「にぎはし」の「に(丹)」・・「丹」を「に」と読むのは国訓。国訓が変体仮名になっている例。音読みは「タン」。解字は、丹砂(たんさ)を採掘する井戸の象形。赤を表す。「ヽ」は、丹砂を表す。国訓の「に」は、赤い色。語源説については、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 <(1)熱い物は赤いところから、ネチ(熱)の反。

(2)アカニ(赤土)から。

(3)朝日がニイと出た時の色は赤いところから。>を挙げている。

 日本では、漢字が渡来する以前から、赤を「に」と言っていた。漢字の「丹(タン)」が赤を意味することから、「丹」を「に」と訓じた。

 *「青丹(あおに)よし」・・「奈良」に掛る枕言葉。当時、奈良の都の建物の青(あお)や丹(あか)の美しさが連想されていた。

(78-2)「見物(みもの)」・・見物すること。かたわらから見ること。

(78-4)「かなたこなた」・・彼方此方。あちらこちら。

(78-10)「をさをさ」・・あとに打消または否定的な意味の表現を伴って用いる。ほとんど。ろくに。また、少しも。

(79-1)「密夫(みっぷ・まおとこ・まおっと・みそかお・みそかおとこ)」・・夫を持つ女が、他の男とひそかに肉体関係を結ぶこと。また、その密通した相手の男。密通。密男(みそかお)

(79-1)「さのみ」・・副詞「さ(然)」に助詞「のみ」が付いてできたもの。否定的表現を伴って、程度が大したことはない気持を表わす。それほど(…ない)。さして(…でない)。格別(…でない)。

(79-1)「うし」・・憂し。嘆かわしい。やりきれない。

(79-1)「思わず」・・古文的には、「思ふ」の未然形は、「思わ」でなく、「思は」で、ここは、「思わず」ではなく、「思はず」が正しい。

(79-3)「あればは」・・「は」が重複で、「は」は不用か。「は」は、衍字(えんじ)。

 *「衍字(えんじ)」・・「衍」は「あまる」の意。誤って語句の中に入った不要な文字。⇔脱字。

(79-6)「思わねば」・・ここも、古文的には、「思ふ」の未然形は、「思わ」でなく、「思は」。「ねば」は、打消しの助動詞「ず」の已然形「ね」+接続助詞「ば」。打消しの助動詞「ず」は、未然形に接続する。「思ふ」の未然形は、「思は」だから、古文法では、「思わ」は誤り。

(79-11)「ヲロシヤ国王」・・当時のロシヤ帝国皇帝はアレクサンドル2世。1881313日、サンクトペテルブルク市内で、ナロードニキ派に暗殺された。

(79-1180-1)ヲロシヤ国王をはじめいか成貴人ニても冨家ニても妾と言ものはなし」・・アレクサンドル2世は、皇后マリアとの間に8人の子供がいるが、一方、他の貴族女性とも関係を繰り返し、3人の子供がいる。また、48歳のアレクサンドル2世は、20歳年下の女学生カーシャと恋愛関係になり、4人の子供がいる。

(80-1)「富家(ふうか・ふか・ふけ)」・・富裕な家。財産家。かねもち。

(80-2)「物入(ものいり)」・・費用のかかること。金銭を費やすこと。出費。

(80-23)「心の外(ほか)」・・自分の望むとおりにならないこと。不本意なこと。期待に反すること。思いのほか。

(80-3)「百性」・・百姓(ひゃくしょう・ひゃくせい)。一般の人民。公民。影印は、「姓」を「性」としている。

(80-4)「惠まられる事」・・この表現は、古文の文法的には、誤りで、「恵まるる事」が正しい。

 (1)受身の助動詞「らる」は、未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に接続するから、「恵む」四段活用の動詞で、未然形は、「恵ま(meguma)」で、「a」の音だから、「らる」は接続しない。

 (2)未然形が「a」の音になる動詞の未然形に接続する受身の助動詞は、「る」。したがって、「恵む」が接続する受身の助動詞は「る」で、その連体形は、「るる」。

 (3)現代用語にしても、受身の助動詞「られる」は、五段活用の動詞「恵む」には接続しない。

 (4)「恵む」が接続する現代の受身の助動詞は、「れる」。したがって、現代用語とし ても、「恵まられる」という用法はなく、「恵まれる」となる。

(80-4)「はずる」・・歴史的仮名遣いは、「はづる」で、「ず」は、「づ」が正しい。

 古文では、「はづ」の連体形は、「はづる」。現代の用法でも、「はじる」で、「はずる」とはいわない。

(80-5)「いたまぬ」・・傷つかないように。悲しまないように。「いたむ」は、損害を受ける。悲しむ。

(80-5)「心掟(こころおきて)」・・具体的な問題について、心に思いきめていること。意向。配慮。計らい。

(80-6)「政道(せいどう)」・・政治の道。領土・人民を治めること。

(80-7)「療治(りょうじ)」・・病気やけがを治すこと。治療。

(80-8)「入用(にゅうよう・いりよう)」・・必要な経費。諸掛り。入費。費用。出金。

(80-10)「尊む」・・歴史的仮名遣いは、「たふとむ」。発音は、「トートム」。

(80-11)「賜物(たまわりもの)」・・目上の人、または高貴な人などからいただいた品物。拝領物。

 *「賜物(たまいもの)」・・逆に、物品を下賜すること。また、その物品。

 (81-2)「わらんべ」・・「わらわべ(童部)」の変化した語。「わらわべ」は、子どもたち。子ども。

(81-3)<変体仮名の話>「はなれたる」の「た(堂)」・・「堂(どう)」を「た」と読むのは、「堂」の歴史的仮名遣いが、「たう」であることから。

(81-11)「たばかりて」・・だまして。「たばかる」は、「た謀る」。「た」は接頭語。あれこれとじっくり考える。手段・方法などをいろいろと思いめぐらす。工夫して処理する。

(82-2)「ゆるしてたべ」・・許して下さい。「たべ」は、「給(た)ぶ」の命令形。

(82-2)「あした」・・(1) 夜が明けて明るくなった頃。あさ。古くは、夜の終わった時をいう意識が強い。

 (2) 多く、前日、または、前夜何か事のあったその次の朝をさしていう.あくる朝。翌朝。明朝。

 (3) 転じて、次の日。翌日。明日。あす。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)古く、アシタとアサとは、同じ「朝」の時間帯を指したが、アサが「朝日・朝霧・朝夕」など複合語の前項として多く用いられ、平安時代以前には単独語の用例がまれだったのに対し、アシタは単独語としての使用が普通で、複合語としては「朝所」くらいであるという違いがあった。

(2)アサには「明るい時間帯の始まり」の意識が強い(「朝まだき」「朝け」)のに対し、アシタには「暗い時間帯の終わり」に重点があった。そのため、前夜の出来事を受けて、その「翌朝」の意味で用いられることが多く、やがて、ある日から見た「翌日」、後には今日から見た「明日」の意に固定されていく。この意味変化と呼応しつつ、アサが専ら「朝」を指す単独語となり、ユフベが「昨夜」を示すようになった。>とある。

 また、語源説に、「アは浅、シタは下。日がまだ浅く、天の下に低くある時の意から」などがある。

(82-4)「とくも」・・疾(と)くも。「とく」は、「疾(と)し」の連用形。

(82-7)「あかはだか」・・何も身につけていない状態。全くの裸。まる裸。まっぱだか。すっぱだか。また、比喩的に、幼時をいう。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <上代では「あかはだ(赤肌)の「書紀」の例からわかるようにアカハダともいった。アカは肌が剥き出しの状態をいうところからアカハダは裸をいう。一方、平安時代以降ハダカという語も生じ、アカハダカもハダカも形容動詞のようにも用いられたが、語としてはアカハダカの方が優勢であった。しかし、「日葡辞書」では両語のほかマルハダカ、マッパダカもみられ、この頃からアカハダカに代わって用いられるようになっていく。近世にはこれらハダカ、マルハダカに加え、後期になってスッパダカも加わった。>とある。

(82-7)「つかねたる」・・「束(つか)ぬ」は、集めて一つにくくる。集めていっしょにしばる。たばねる。

 *「束髪(つかねがみ)」・・つかねただけの簡単な髪の結い方。また、明治中期から流行した束髪(そくはつ)。

 *「束緒(つかねお)」・・たばねるために用いるひも。結びひも。

(82-9)「あれは何事ニか□□□」・・□部分が判然としない。 宗堅寺本の当該部分は、「あれは何事にか侍ると」とある。

(82-11)「打(うち)なれ」・・組成は、4段動詞「打つの連用形「打(う)ち」+補助動詞「なる」の命令形「なれ」。

『ふなをさ日記』12月学習の注                      

(73-3)「村上貞助(むらかみていすけ)」・・備中の人。安永9(1780)生まれ。

・文化5(1808)85日、師とする村上島之丞(秦檍丸)が病死して、その養子となった。地理に詳しく、画技を善くした才人であった。

・文化6年(1809)、松前奉行の同心に召抱えられた。貞助の力量が発揮され、それが業績として衆目を集めるようになったのが、ゴローニン事件の通訳を勤めるようになってからである。

・文化8(1811)10月中旬、貞助は松前でゴローニンとともに幽囚された古参士官のムール少尉に接近してロシア語を会得し、通弁や翻訳にまで仕事の幅を広げた。秦貞廉の筆名で、友人の間宮林蔵が口述した「東韃地方紀行」を編纂している。

・文化10(1813)、松前奉行の江戸会所詰となっていた貞助は、松前奉行支配調役下役に登用され、新任の服部貞勝の手付となった。

・同年926日にゴローニンら8人が釈放されるまで、通詞として主要な役割を果たした。

 ・ロシアとの外交交渉は一段落してのちの貞助は、在住勤方の上原熊次郎と交互勤務している。本文の重吉らがエトロフに上陸した際、事情聴取のが貞助。その時の記録を「漂流人長右衛門外一人口書」「漂流人共相咄候儀別段書留置奉差上候書附」として残している。

 ・文政5(1822)に幕府の蝦夷地直轄が廃されると、江戸に戻り、勘定奉行支配の普請役となった。

 ・文政6(1823)3月、上司の勘定奉行遠山左衛門尉(景晋)の薦めでアイヌの民俗を集めた『蝦夷生計図説』の著述を完成した。

(73-3)「ゆえゆえしく」・・故々しく。「故々し」は、子細がありそうである。由緒ありそうである。風格があって重々しい。

(73-6)「ソロタ」・・「『ヲロシヤノ言』判読」(以下単に「判読」)P9下段12行に「金のコト ソロタ」とある。

(73-6)「ハラアライ」・・「判読」P3下段5行に「着物 ハラアテ」とある。

(73-6)「サブカ」・・「判読」P4下段8行に「かぶり笠 シヤブカ」とある。

(73-6)「シフカ」・・「判読」P1中段2行に「悪敷 ブトイ」とあり、また、P2上段6行に「大きニ悪敷 シフカフトイ」とある。から、「大ニ」は、「シフカ」か。

(73-67)「セルセース」・・「判読」P1上段9行に「はらたち セリゼヱス」とある。

(73-7)「まねびし」・・口まねして。「まねぶ」は、他の者の言ったことやその口調をそっくりまねて言う。口まねして言う。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「まねぶ」の語誌に

 <(1)マナブと同源であるが、その前後は不明。マナブが平安初期には上二段、中期以後四段に活用したので、マネブも古くは上二段に活用したか。

(2)マナブは漢文訓読文、マネブは和文にそれぞれ多く用いられており、性差・位相差も考えられるが、マネブの使用例の多くは口まねする、あるできごとをその通りに模倣するの意で、教えを受ける・学問するといった意味あいはマナブにくらべるとずっと少ない。そのため模倣を意味するマネルが広く用いられるようになると、マネブは口頭語から退いてマナブの雅語のように意識されるに至る。>とある。

(73-8)「そこ爰(ここ)」・・其処此処。あちらこちら。あちこち。なお、「甲首乙首」を「そこここ」と当てる事もある。この語形の基になる。

 *「河流(ながれ)に沿ふて甲首乙首(ソコココと逍遙なして河下に」(『狐の裁判〈井上勤訳〉二』)

(73-10)「皇国(こうこく・すめらみくに)」・・天皇が統治する国。昭和20年頃まで、日本の異称として用いられた。すめらみくに。なお、「皇」を「すめら」と訓ずるが、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』によると、「ら」は接尾語で、「すめ」は、地方神的な神をさす用例が多いが、「すめら」の形では、大部分が天皇、特に現在の天皇をさしていう表現に用いられている。

 *<漢字の話>「皇」・・ジャパンナレッジ版『字通』によると、「皇」の解字について、

 <王の上部に玉飾を加えている形。王は鉞頭(えっとう。まさかり)の象。刃部を下にして玉座におき、王位の象徴とする。その柄を装着する銎首(きょうしゅ。)の部分に玉を象嵌して加え、その光が上に放射する形であるから、煌輝の意となる。>とある。

(73-10)「大晦日(おおみそか・おおつもごり)」・・一年の最終の日。毎月ある晦日(「みそか」とは三十日の意)に大の字をつけたの。大つごもりともいう。

 なお、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「つもごり」の語誌に、

 <(1)語源として単純なキの音節の脱落による(ツキゴモリ→ツゴモリ)という説は、他に類例がなく極めて疑問。意味上対をなすツイタチと音節数の平衡性を保つためにキが脱落したという見方もあるが、上代の複合語形成の原則からは、ツキタチ・ツキゴモリよりもツクタチ・ツクゴモリの方が自然であり、従ってツクゴモリ→ツウゴモリ→ツゴモリという変化過程も考えられる。

 (2)ツキコモリは興福寺本「日本霊異記」訓釈に見られ、天治本・享和本「新撰字鏡」にはツキコモリ・ツクコモリの両訓が見られるが、特にツクコモリの意味の限定は難しい。上代において、「ツク─」は「太陰」を表わし、「ツキ─」は暦日の「つき」を表わすという意義分化があった可能性もあり、意義の分裂に沿って語形の分裂が起こった可能性も否定できない。

 (3)なお、ツゴモリは中世においてツモゴリという形を派生させ、文献上にも姿をとどめるが、「かたこと‐三」に「つもごりといふはわろし」とあるように、正統な語形としてはとらえられていない。>とある。

(74-1)「けふ(今日。きょう。音韻はキョー)」・・「けふ」は、歴史的仮名遣い。

 *歴史的仮名遣いとは「発音は時代とともに変化して来たが書き方は最初のまま変化させずに来た」という原理のもの。今それを読むときには当然今の発音によって読む。

 *昭和6171日告示の「現代仮名遣い」の前書きには、

  <歴史的仮名遣いは,明治以降,「現代かなづかい」(昭和21年内閣告示第33号)の行われる以前には,社会一般の基準として行われていたものであり,今日においても,歴史的仮名遣いで書かれた文献などを読む機会は多い。歴史的仮名遣いが,我が国の歴史や文化に深いかかわりをもつものとして,尊重されるべきことは言うまでもない。また,この仮名遣いにも歴史的仮名遣いを受け継いでいるところがあり,この仮名遣いの理解を深める上で,歴史的仮名遣いを知ることは有用である。付表において,この仮名遣いと歴史的仮名遣いとの対照を示すのはそのためである。>

  とあり、「付表」に「現代仮名遣い 歴史的仮名遣い対照表」を挙げている。

 *現代仮名遣いの「きょう」を歴史的仮名遣いで「けふ」とした例として、「今日」のほかに、

  ・脅威(ケフヰ)・協会(ケフクヮイ)・海峡(カイケフ)を挙げている。

 *「喋喋(ちょうちょう)しい」・・(口数が多い。口まめである。口軽である。転じて、調子がいい。いいかげんに調子をあわせる。)歴史的仮名遣いでは、「てふてふし」と書いた。

  *「さう喋々(テフテフ)しくは饒舌り得なかった」(夏目漱石『彼岸過迄』)

  *「てふてふが一匹 韃靼海峡を渡つて行つた」(安西冬衛の1行詩は有名。タイトルは「春」 1929

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『ふなをさ日記』11月学習の注 

(68-1)「二ヶ月の間也。米、実のるを」・・語調がよくない。異本は、「也」を「に」とし、「二ヶ月の間、米、実のるを」としている。

(68-1)「実のる」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<「実乗る」の意>とし、語源説のひとつに、<ミナル(実成)の転か>を挙げている。なお、同訓異字として、下記を挙げている。

 みのる【実・稔・酉・年・熟】

【実】(ジツ)家の中に財宝が満ちる。転じて、しっかりと中身がみのる。実をむすぶ。内容がいっぱいにみちる。「実線」「果実」「結実」《古みのる・なる・みつ・ふさく》

【稔】(ネン)穀物がみのる。穀類が熟する。「稔歳」転じて、経験などが積み重なる。物事に習熟する。熟達する。「稔熟」「稔聞」《古みのる・にきはふ・ゆたかなり・うむ》

【酉】(ユウ)酒壺。さけ。また、成熟した穀類で酒を醸す。転じて、よくみのる。成熟する。

【年】(ネン)稲がみのる。作物がみのる。「年穀」「年災」「年歳」「豊年」「祈年祭」《古みのる》

   *大有年 <大(おおい)ニ、年(ネン)有り>(中国の歴史書『左伝』)大豊作であった

【熟】(ジュク)果実がよくうれる。穀物が十分にみのる。「熟柿」「熟田」「完熟」「黄熟」転じて、物事が十分な状態になる。物事によくなれて通じる。習熟する。「塾達」「熟練」「円熟」《古うむ・あまし・むまし・なる・ねる》

(68-3)「しゐな」・・粃。からばかりで実のない籾(もみ)。十分にみのっていない籾。語源説のひとつに「シニヒイネ(死日稲)の義〔日本語原学=林甕臣〕。」がある。

 *島崎藤村は、『破戒』の中で、「空籾」に「シヒナ」とルビしている。

 「其女房が箕(み)を振る度に、空殻(シヒナ)の塵が舞揚って」

(68-4)「各別(かくべつ)」・・とりわけ。特別。現代では「格別」と、「各」は、「格」を使う。なお、「各別」と言う場合、多くは、「それぞれ別であること。また、めいめいが別々に行なうこと。」の意味に使われる。

(68-5)<変体仮名>「つねニは」の「ね」・・元になった漢字は、「祢」。

 *<漢字の話>「祢」・・①「祢」は「禰」の俗字。ともに、平成16年9月に人名漢字に追加された。

②「禰」の偏は5画の「示」で、  「祢」は、4画の「ネ」。部首はいずれも「示」部。

  ③「祢」の草体からひらがなの「ね」が、偏からカタカナの「ネ」ができた。

(68-5)「団子(だんご)」・・穀物の粉を水でこねて小さく丸め、蒸し、またはゆでたもの。醤油の付焼にしたり、あん、きな粉などをつけたりして食べる。「団子」の語誌について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

<(1)中国の北宋末の風俗を写した「東京夢華録」の、夜店や市街で売っている食べ物の記録に「団子」が見え、これが日本に伝えられた可能性がある。

(2)「伊京集」にはダンゴ・ダンスの両形が見られ、そのダンスは唐音の形と思われる。「日葡辞書」にはダンゴの形しかなく、近世ではもっぱらダンゴが優勢のようであるが、ダンス・ダンシの形も後々まで存在する。

(3)中世まではもっぱら貴族や僧侶の点心として食されたが、近世になると、都会を中心に庶民の軽食としてもてはやされるようになった。団子を売る店や行商人も多く、各地で名物団子が生まれている。

(4)農村では、古来団子は雑穀やくず米の食べ方のひとつであり、昭和の初期までは米飯の代わりに団子汁などが食べられていた。>とある。

また、語源説のひとつに、「米麦の粉をねり団(あつめ)たものであるところから。団は聚・集の義〔愚雑俎〕。」がある。

(68-6)「ヒンフハン」・・資料『ヲロシヤノ言』P5左下段10行目に「小麦だんご ヒンピヤン」とある。

(68-7)「又の年」・・次の年。翌年。

(68-8)<見せ消ち>「古郷に」・・影印には「へ」の左に、見せ消ち記号の「ニ」があり、右に「に」と訂正している。

(68-10)「何しに」・・何為。代名詞「なに」に動詞「する」の連用形「し」、格助詞「に」の付いてできたもの。

原因・動機を不明なものとして指示する。どうして(…なのか)。なぜ、なんのために(…するのか)。

(68-1011)「牛を喰はんや」・・喰うだろうか、いや、喰わない。「喰(く)ふ」の未然形「喰(く)は」+推量の助動詞「む(ん)」の連体形「む(ん)」+反語の係助詞「や」。

(68-11)「さでは」・・それでは。副詞「然(さ)」+接続詞「では」。前の事柄に基づいて、推量・意志・疑問などを導くのに用いる。それなら。そういうわけなら。その上は。

(69-2)<見せ消ち>「偽(いつわり)を」・・「偽」が見せ消ち。

(69-4)「カンハラ」・・資料『ヲロシヤノ言』P5左中段4行目に「かれい カンバラ」とある。

(69-4)「かう」・・甲(こう)。歴史的仮名遣いは、「かふ」だが、「こふ」「かう」も見える。

(69-7)「初メの程(ほど)」・・初めのころ。「程(ほど)」は、物事の種々の段階をある幅を持った範囲として示す語。時分。ころ。

(69-7)「不通(つうぜざる)」・・不通。サ変動詞「通(つう)ず」の未然形「通(つう)ぜ」+打消の助動詞「ず」の連体形「ざる」。

(69-9)<見せ消ち>「是々は」・・「是々」の「々」が見せ消ち。

(69-9)「すめぬかほ付(つき)」・・済めぬ顔付。納得しない顔付。「すめぬ」は、下2動詞「済(す)む」の未然形「済(す)め」+打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」。

(69-11)<漢字の話>「問聞(といきく)」・・「問」も「聞」も、「門」があっても部首が「門」部(門がまえ)でない漢字。

 ・「問(モン・とウ)」・・口部

 ・「聞(モン・ブン・きク)」・・耳部

 ・「悶(モン・もだえル)」・・心部

 ・「誾(ギン)」・・言部。

(70-3)「その名を言(いう)を、其書付おきたる下へ書て」・・重吉は、帰国後、

 オホーツクでロシヤ人から聞き、書き留めたロシヤ語の言葉を、「ヲロシヤノ言」という5枚刷りを刊行した。この「ヲロシヤノ言」について、平岡雅英撰『日露交渉史話』(筑摩書房刊 1944)に、「本邦における和露対訳集の上梓は、恐らくこれが嚆矢であろう」とし、「出版の年月は明らかでないけれども、重吉等は異国の鬼となった同僚供養のため建碑を志し、ロシヤから持帰った衣服器物類を展覧して奉加銭を集めたから、『ヲロシヤノ言』もそのをり刷って販売し、資金の一端としたに相違ない。それならば帰国後間もないころである」と記している。

 *別冊資料「ヲロシヤノ言」(玉井幸助校訂解説『大東亜海漂流譚 船長日記』育英書院刊=1931=所収)参照

(70-4)「覚へ」・・「覚へ」は、文法的には、本来は、「覚え」。下2動詞「覚ゆ」の連用形は、「覚え」。

(70-7)「初(はじめ)の程(ほど)」・・初めのころ。「程(ほど)」は、おおよその程度を表わす語。物事の種々の段階を、ある幅を持った範囲として示す語。本文では、時間的な程度を表わす。時分。ころ。

(70-910)「サテシ」・・資料『ヲロシヤノ言』P4右下段9行目に「腰懸る事 ザデヱシ」とある。

(70-10)「せうぎ」・・床几(しょうぎ)。腰掛。

(70-11)「いわず」・・文法的には、本来は、「いはず」。ハ行5段動詞「いふ」の未然形は、「いは」。ところが、現代語の「言う」は、ワ行で、未然形は、「言(い)あ」でなく、「言(い)わ」だから、文法的にも、揺れていたか。

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『ふなをさ日記』10月学習の注  

          
(63-2)「釜」・・飯をたいたり湯をわかしたりする金属製の用具。文意から、本文の「かま」は、「竈」が正しいか。
*「竈」・・上に鍋、釜などをかけ、下から火を燃して、物を煮炊きするようにしたもの。
*<漢字の話>「竈」・・部首は、「穴」部。で21画。解字は、「穴」+「土」+「黽(かえる)」。かまどの上部は穴ではなく、蓋に空気抜けの穴がある形。四つの足に力を入れてふんばるかえるの形をしている。
 かまどは、粘土で作られたから、のちに「土」を付した。
*「塩竃市」・・宮城県塩竃市の公文書は、「竈」を使用している。以下は、「塩竃市」の公式HPから転載。
 <市役所で、塩竈という表記に統一するようになったのは、昭和16年(1941年)からで、それ以前には、「鹽竈」、「塩竈」、「鹽釜」、「塩釜」など、混在して用いられていました。「鹽」という漢字についは、当用漢字の「塩」を用いてもさしつかえありませんが、「竈」と「釜」では、字義が違っており、本市の地名の由来が、「鹽竈神社」の社号に因むものであるところから、「釜」ではなく「竈」を用いることに統一されました。>
(63-4)「降込(ふりこま)ぬ」・・内へはいらないように。「降込む」は。振って内へ入れる。
(63-4)「ぐるり」・・ある物のまわり。周辺。めぐり。
*「雨のくれ傘のぐるりに鳴(なく)蚊かな〈二水〉」(『俳諧・曠野(あらの)』)
*「家のぐるりを蟇(がま)が鳴いて廻った」(『雪国』川端康成)
 *「島はぐるりからはいあがる海の湿気に濡れている」(『島へ』島尾敏雄)
(63-5)「火気(かき)」・・火から出る熱気や炎。火の勢い。現在では多く「火」と同義に用いる。
(63-6)<文法の話①>「あせばむ」の「ばむ」・・接尾語。四段型活用。物の性質や状態を表わすような名詞、またはこれに準ずる動詞連用形や形容詞語幹などに付き、これを動詞化する。そのような性質をすこしそなえてくる、また、そのような状態に近づいてくるの意を添える。「汗ばむ」のほか、「なさけばむ」「汗ばむ」「けしきばむ」「老いばむ」「おかしばむ」「よしばむ」「赤ばむ」「黄ばむ」など。
*<文法の話①>・・『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)には、「バムのバはハシ(端)のハと同根は、ほんの一部分、端だけ、その性格を帯びる意。」とある。
(63-10)「雪合羽(ゆきがっぱ)」・・カッパは ポルトガル語。capa 。雪の日に着用する合羽。
(63-10)<見せ消ち>「すそ」・・元の影印は、「すへ」。「へ」の左に「ニ」のような記号が、「見せ消ち」記号で、「ヘ」を消している。そして、「へ」の右に「そ」を書き、「すへ」ではなく、「すそ」と読む。
(63-11)「引(ひき)かつぎ」・・「引きかつぐ」は、「引き被(か)づく」。引いて頭からかぶる。
(64-1)「腹籠(はらごろも)」・・胎内にいるこども。
(64-2)<文法の話>「うへて」・・「うへて」は、文法的には、「う(植)ゑて」で、「へ」は、「ゑ」。終止形は、ワ行下二活用の「う(植)う」。活用は、ゑ・ゑ・う・うる・うれ・ゑよ。「う(植)う」の連用形は、「う(植)ゑ」
 *「ゐなか家だつ柴垣して、前栽に心とめてうゑたり」(『源氏物語 帚木』)
 *「くふ物、薬種などをうゑおくべし」(『枕草子』)
 *ワ行下2段活用の動詞・・「植(う)う」「飢(う)・う」「据(す)う」の3語のみ。
  **ア行下2段活用の動詞・・「得(う)」の1語。
  **ヤ行下2段活用の動詞・・「覚(おぼ)ゆ」「「消(き)ゆ」「聞(きこ)ゆ」「越(こ)ゆ」「絶(た)ゆ」
                「見(み)ゆ」など
(64-5~6)「サンカ」・・そりは、ロシア語で、「сани(サーニィ)」。
(64-9)「二(ふ)タがは」・・二側(ふたがわ)。ここでは、二列の意
(64-9~10)「しりべ」・・うしろ。最後尾。
(65-2)「本(もと)のかた」・・根元の方。
(65-2)「錫杖(しゃくじょう)」・・杖の一種。大乗の比丘(びく。修業者)の一八種物
の一つ。上部のわくに数個の輪が掛けてあり、振ると鳴るので、道を行くとき、乞食
(こつじき)のときなどに用い、また、読経などの調子を取るのにも用いられる。さくじょう。
(65-2)「銀(かね)」・・金属の総称。「金・銀・銅・鉄」などを当てる。
(65-4)「こぢて」・・ひねって。「こぢて」は、上2動詞「こ(抉)づ」の連用形「こぢ」+接続助詞「て」。
(65-5)「鉄輪(かなわ)」・・金輪。金属製の輪。
(65-6)<文法の話>「すゝみかぬる」・・進みかねる。「かぬる」は、「かぬ」の連体形。「かぬ」は、下2型の接尾語。動詞の連用形に付いて、「・・のがむずかしい」「・・ことができない」の意の動詞をつくる。活用は、「ね・ね・ぬ・ぬる・ぬれ・ねよ」。
(65-7)「ソバカ」・・ロシア語で、犬は、「собака(サバーカ)」。
(65-11)「傍(かなわら)なる」・・かたわらにある。「なる」は、「にある」の音韻脱落。「ni・a・ru」の「ni」の「i」が脱落して、「na・ru」となった。「小諸なる古城のほとり」。
(66-1)「むやう」・・異本は、「無性」とし、「むしやう」とある。
(66-32)<文法の話>「止(とめ)て呉(く)るなり」・・「呉(く)る」は、補助動詞として用いる。多く動詞の連用形に接続助詞「て」を添えた形に付く。助動詞「なり」は終止形に接続するから、ここは、「呉(く)るなり」。
(66-3)「押かひ」・・「おしか(押支)ふ」の連用形。「押支ふ」は、おさえこむ。おさえて動かないようにする。
(66-3)「あひしらはざれば」・・取扱わないと。「あひしらふ」は、取り扱う。程よく処理する。適当にもてなす。
 「あひしらふ」の語源について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、
 <(1)シラフは互いにものごとをする意。アイは会か〔大言海〕。アイは相、合、対で対面の義〔名語記〕。
  (2)アイ(挨)シアフで、挨拶しあうことか〔和句解〕。>とある。
(66-5)「セリジ」・・にしんのロシア語は、「сельдь(セーリチ)」。
(66-10)「ヲレン」・・異本は、「ヲレン」に、「鹿」と傍注がある。なお、鹿は、ロシア語で、「олень(アレーニ)」。
(66-10)「トロハ」・・ロシア語で、薪は、「дрова(ドラバー)」。
(67-3)「木を切たるは、何れも中程より」・・宗堅寺本「船長日記」(愛知県郷土資料刊行会刊『池田寛親自筆本 戦況日記』)には、「切たるは」と「何れも」の間に、「雪を待てものする也。重吉、八月比に行て見たるに、所々に、木のきりたるが有を、」がある。
宗堅寺本「船長日記」(愛知県郷土資料刊行会刊『池田寛親自筆本 戦況日記』)
左は、影印。右は解読文(傍線が、テキストにない部分)
(67-2)「自(みずか)ら」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<「身(み)つから」の変化したもので、「つ」は助詞、「から」はそれ自体の意>として、以下の語源説を挙げている。
(1)ミツカラ(身之自)の義〔東子・大言海〕。
(2)身タルカラの義〔名語記〕。
(3)ミヒトツナガラ(身一乍)の義〔日本語原学=林甕臣〕。
(4)ミミヅカラ(身自)の義〔雅言考〕。
(5)ミイヅカカリ(身出係)の義〔名言通〕。
(6)ミヅカラ(身之徒)の義〔国語の語根とその分類=大島正健〕。
(7)ミテカラ(身手間)の義〔言元梯〕。
 また、同訓異字に、
 【自】(シ・ジ)おのれみずから。自分で。また、自分ひとりで。「自戒」「自害」「自慢」《古みづから・おのづから・われ》
【身】(シン)からだ。み。転じて、みずからすすんで。「身上」「身事」《古みづから・み・われ・むくろ》
【躬】(キュウ)からだ。み。転じて、みずからすすんで。じぶんの身をもって。「躬化」「躬行」「躬耕」《古みづから・み・おのれ》
【親】(シン)したしくみずから。自分で直接手を下して。特に、天子や貴人などがみずからすすんでことを行なう様子。「親告」「親書」「親政」《古みづから・したし・ちかし・むつまし》
 を挙げている。
(67-4)「不審(ふしん)」・・①細かい点まではよくわからないこと。はっきりしないこと。また、そのさま。②疑わしく思うこと。疑惑をさしはさむこと。いぶかしいこと。
 *<漢字の話>「審」・・つまびらか。「不審」は、「つまびらかでない=はっきりしない」意。「審議」は、「つまびらかに議論すること」。いいかげんに話し合うことは「審議」とはいわない。
(67-6)「木賊(とくさ・もくぞく)」・・シダ類トクサ科の常緑多年草。北海道、本州中部以北の渓流沿いの林下などに生え、また観賞用に庭園などで栽培される。
 *「木賊(もくぞく)」・・トクサの漢名。中国では古くから薬用にされ、11世紀の本草書『嘉祐(かゆう)本草』には眼疾、止血などに効くとある。
  **「木賊」を「とくさ」と読む経過
    ①日本には、漢字が入る以前から、「とくさ」という植物があり、人々は、「とくさ」と言っていた。
    ②日本に、漢字が入って来た時、その植物名に、漢名の「木賊(モクゾク)」があり、以前から日本人が知っていた「とくさ」と同じ植物だった。
    ③それで、日本人は、「木賊」の音読み(中国風の読み)がどうであれ、「木賊」を「とくさ」と読む(訓読み)するようになった。
(67-6)「ホリカ(又はホツカ・ホレカ)」・・異本の多くは、「ボソレツカ」とする。カムチャッカ半島西海岸の
ボリシェレツクか。
(67-7)「いさゝか」・・「か」は接尾語。①かりそめであるさま。ほんのちょっと。②下に打消のことばを伴って、少しも。ちっとも。語源説に「イトササヤカの意〔日本釈名・燕石雑志〕」がある。また、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、
 <中古では、①は漢文訓読系の資料に、②は和文や和歌に用いられるという傾向がみられる。中世以降は②が多用されるようになるが、下に打消を伴う用法は次第に減少する。現代ではやや改まった文語的な表現として用いられる。>とある。
 <古語の話>「いささ」・・体言の上に付いて、いささかの、すこしばかりの、の意を表わす。「いささおがわ(ちいさい小川)」「いささおざさ(ちいさい笹)」「いささみず(少しの水)」など。
  **「万葉‐一九・四二九一」の「わが宿の伊佐左(イササ)むら竹吹く風の音のかそけきこの夕へかも〈大伴家持〉」の「いささ」を「いささか」の意の接頭語とする説もある。
(67-8)「目なれぬ」・・見慣れない。「目馴(めな)る」の未然形「めなれ」+打消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」。
(67-9)<雑学>「松かさ」・・英語の "pineapple" (パイナップル・パインアップル)の場合は、「pine」は、「松」、
「apple」は「果実」で、本来は「松の果実」という名前の通り松かさのこと。後に松かさに似た別の果物、
すなわち現在のパイナップルを指すようになった。この場合、「apple」は、リンゴではなく、果実。
(67-10)「朝鮮松」・・朝鮮五葉。マツ科の常緑高木。本州の福島県以南岐阜県までと、四国の愛媛県、朝鮮、ウスリー、中国東北部の深山に生え、庭木ともする。漢名、海松・新羅松。
(67-10~11)「リナ(又はフナ)」・・異本は、「フナ」とするものが多い。米は、ロシア語で「рис(リース)」
(67-11)「カーサ」・・ロシア語で朝飯は、「завтрак(ザーフトラク)、昼飯は、「обед(アビエート)」、
夕食は、「ужин」

9月学習『ふなをさ日記』の注

(57-1)「一同に」・・一緒に。

(57-3)「去(さる)にても」・・然るにても。[連語]《動詞「さり」(ラ変)の連体形+連語「にて」+係助詞「も」》「然」を「去」とするのは、当て字。「さる」は、「然有(さり)」で、副詞「さ」にラ変動詞「あり」の連体形「ある」のついた語で、「さある」が変化した語。そうであっても。それにしても。それはそれとしても

(57-5)「心へたり」・・文法的には、「心へ」は、「心え」が正しい。「心得(う)」は、ア行下2動詞だから、その連用形は、「心え」。

(57-6)「受(うけ)がひ」・・承知して。「うけがふ」は、「肯ふ」で、よいと認める。肯定する。承諾する。承知する。

(57-6)「こよなう」・・この上なく。非常に。とても。形容詞「こよなし」の連用形。「こよなし」は、後世、連用形、連体形が文章語として「この上ない」の意に用いられる。語源に関しては「これ(是)より(従)無し」「こよ(越)無し」「このよ(此世)無し」などの説がある。

(57-10)「深切(しんせつ)」・・他人への心情で、思いやりのあること。特に相手のために配慮のゆきとどいていること。また、そのさま。この味が派生したのは中世ごろからと思われる。「日葡辞書」の訳語は現在の「親切」にあたるが、「フカイタイセツ」とあるので、表記は「深切」であったと考えられる。(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「深切」の補注』)

(58-2)「滞留(たいりゅう)」・・旅先にしばらくとどまっていること。滞在。逗留。

(58-2)「くさぐさ」・・種々。物事の種類や品数などの多いこと。また、そのさま。いろいろ。さまざま。

(58-3)「片はし」・・片端。ほんの一部分。一端。

(58-3)「聞(きか)まほし」・・聞きたい。「まほし」は、動詞および助動詞「す」「さす」「ぬ」の未然形に下接する。話し手、またはそれ以外の人物の願望を表わす。…したい。

 *「まほし」の語誌・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 <(1)語源については、推量の助動詞「む」のク語法「まく」と形容詞「欲し」とが合した「まくほし」が変化したとする説、「ま」に直接「欲し」が付いたとする説などがある。

(2)奈良時代から平安初期までは「まくほし」が用いられ、その後の和歌やかなの日記・物語などでは、「まほし」が用いられている。訓点語には用例が見られない。鎌倉時代になると、擬古的な文章を除いて一般的には「たし」が多用されるようになり、中世以後は雅語としてとらえられた。

(3)話し手以外の人物の願望を表わすところから、接尾語として取り扱う説(時枝誠記)もある。

(4)(2)の、そうあってほしいというところから、理想的だという意味の「あらまほし」のような用法が成立した。>とある。

(58-4)「からき思ひ」・・つらい思い。「からき」は、「辛(から)し」の連用形。「辛し」は、苦しい。つらい。せつない。悲痛だ。

(58-6)「まなび」・・学び。見たり聞いたりしたことを、そっくり人に語り伝える。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「まねぶ」の語誌に、

 <マナブは漢文訓読文、マネブは和文にそれぞれ多く用いられており、性差・位相差も考えられるが、マネブの使用例の多くは口まねする、あるできごとをその通りに模倣するの意で、教えを受ける・学問するといった意味あいはマナブにくらべるとずっと少ない。そのため模倣を意味するマネルが広く用いられるようになると、マネブは口頭語から退いてマナブの雅語のように意識されるに至る。>とある。

(58-6)「物しつる」・・「物す」は、言う、書く、食う、与える、その他種々の物事を行なう意を表わす。本文書では、話す。

(58-7)「事にふれ」・・何かにつけて。折に触れて。機会があるたびごとに。

(58-7~8)「まねび」・・(58-6)の「まなび」に同じ。

(58-8)「何事にまれ」・・何事であろうと。「まれ」は、連語で、係助詞「も」に動詞「ある」の命令形「あれ」の付いた「もあれ」の変化したもの。…(で)あろうと。…でも。

(58-8)「風与(ふと)しても」・・偶然になされるさま。ちょっとしたきっかけや思いつきで行なうさま。ひょいと。はからずも。

 *「ふと」に当てる字・・「与風」「不図」「風度」「与と」「不と」「風と」などがある。

 *「風」を、「フ」と読む熟語に「風情(ふぜい)」「風呂(ふろ)」「風土記(ふどき)」などがある。

(58-9)「わざ」・・業。こと。ありさま。おもむき。「容易なわざではない」

(58-9~10)「のどやか」・・長閑か。気持をのんびりして、ゆっくりするさま。時間的にゆとりのあるさま。

(58-10~11)「兎(と)有(あり)し、角有(かか)し」・・ああであった、こうであった。

 *「よの人のとあるかかるけぢめもききつめ給ひて」(『源氏物語 朝顔』)

 *「一事も見洩らさじとまぼりて、とありかかりと物ごとに言ひて」(『徒然草』)

 *「事のやう聞きてのち、とありかかりとわきても答へめ、疾く語り給へといへば」(『御伽草子・伊香物語』)

 *「かかり」・・斯有り。「かくあり」の変化した語。このようである。こんなである。

  **「かからば」・・斯有らば。かくあらば。それならば。こういうことならば。

  **「かかるに」・・斯有るに。かくあるに。

  **「かかれど」・・斯有れど。かくあれど。

  **「かかれば」・・斯有れば。かくあれば。

  **「とありともかかりとも」・・事態の雑多をそのまま容認する気持を表わす。どのようであっても。いかようでも。

(59-1)「あなる」・・「あなる」は、「あなり」の連体形。「あなり」は、動詞「あり」に伝聞推定の助動詞「なり」

の付いた「ありなり」の音便「あんなり」の「ん」が表記されなかった形。あるようだ。あるそうだ。あると

いう。

 (59-1)「仮初(かりそめ)」・・ふとしたさま。ほんの一時のさま。まにあわせ。その場かぎり。「仮初」は、当て字。

(59-1)「たいめ」・・「たいめん(対面)」の撥音無表記。対面。

(59-2)「かたきわざ」・・難き業。むずかいしいこと。

(59-2~3)「あかぬ心地」・・「あか・ぬ・心地」で、「あく=四段動詞〔飽く(十分満足する、堪能する、心ゆく)〕の未然形」+「ぬ=打消の助動詞〔ず〕の連体形」+「「心地」。飽きたりない気持ち、不満足な気持ち
「あながち」・・強ち。強引なさま。むりやりなさま。

(59-3)

(59-3)「手あて」・・手だて。手段。

(59-6~7)「やういく」・・養育。養い育てること。はぐくむこと。「やういく」は歴史的仮名遣い。発音は、「ヨーイク」。

(59-9)「国風(こくふう・くにふう・くにぶり)」・・その国の風俗、習慣。その地方の気風。

(59-10)「物入(ものいり)」・・費用のかかること。金銭を費やすこと。出費。

(59-11)「ついへ」・・ついえ。費。費用のかかること。金銭を費やすこと。出費。

(61-2)「重吉の等が」・・「の」は誤記か。ここは、「重吉等が」か。

(61-6)「爰彼所(ここかしこ)」・・このところあのところ。この場所あの場所。此処彼処。

(61ー8)「するど」・・物が鋭くとがっているさま。鋭利なさま。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「ずるど」の語誌には、

 <(1)中古以来の訓点資料に見られる語で、中世においても、軍記物語や抄物に多く用いられた。本来は物の先端の尖っている様子を意味する語であったが、後には人間の行動の機敏な様子をも表わすようになった。

(2)中世後期には、形容詞「するどし」が派生、時代が下るとともに形容詞の方が多く用いられるようになり、形容動詞は文章語的な性格が強まっていく。このような語義変化や形容詞派生の背景には、「すすどし」からの影響が考えられる。なお、近世には「すんど」という形も用いられた。>とある。

(62-2)「あかがねのへ」・・「あかがね」は、銅。「のへ」は不明。異本は、「銅にて」「銅もて」としている。

(62-3)「煙出(けむだ・けぶりだ・けむりだ)し」・・内部の煙を排出するために開けた、煙の出口。多く、家屋の軒下や屋根に開けた窓や煙突をいうが、炭焼きなどの竈(かま)や、船、蒸気機関車などの煙突をもいう。また、かやぶきの屋根などで、屋根の上に作ったけむだしを、特に、「櫓煙出(やぐらけむだし)」という。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、「なまり」として、ケブダシ〔岩手・山形小国・栃木・信州上田〕、ケブダス〔千葉〕、ケブッダシ〔長崎・島原方言〕、ケモダシ〔仙台音韻・栃木〕、ケムタシ(常総)をげている。

(62-5)「がんぎ」・・雁木。階段。地方によっては、いろいろな場面に使われる。①海岸の石垣など設けられた階段。②桟橋の階段。③道路から川原などにおりる所につくられた段。④神社、寺院などの石段。⑤道路から前庭へ登る石段。語源は、雁が群れをなして空を飛ぶときのような形をしたものから、ぎざぎざの形、階段をいう。

(62-8)「三尺計もも」・・「も」が重複か。あるいは、二つ目の「も」は見せ消ちか。

(62-10)「観音びらき」・・扉の一種。観音をおさめる厨子の戸をまねて、左右の扉を中央で合わせるように作った戸。仏壇、倉、門などに多く用いられる。

『ふなをさ日記』8月学習の注

(52-2)「又の日」・・①次の日。翌日。②別の日。後日。ここでは、①か。

(52-2)「そこに一年計居ける」・・「そこ」とは、北千島のオンネコタン島。実際には7ヶ月ほど。

(52-2)「明(あく)る年」・・文化11(1814)

(53-4)「そこたち」・・「たち」は接尾語。対等以下の複数の相手にやや丁寧な気持をこめて用いる。

(53-4)「賄(まかない)」・・費用を出すこと。

(53-5)「いぶかしく思ひ」・・「いぶかし」は、疑わしい。よくわからない。語源説に、<イブカシキ(息吹如)の義で、イブキは、口から吹かれる息の意とも、霧の意ともいう>などがある。

 *<漢字の話>「訝」・・「いぶかる」は、「訝る」と書くが、「訝」の解字は、「言」+「牙」で、音符の「牙」は、つきだすきばの意味。疑いの気持をつきだし、言葉で確かめる、いぶかるに意味をも表す。

(54-1)「賄賂(わいろ)」・・自分に都合のよいようにとりはからってもらう目的で他人に贈る品物や金銭。まいない。そでのした。

 *<漢字の話>1「賄」・・解字は、「貝」+「有」。「貝」は、財貨で、むかし貝殻を貨幣としたのでいう。音符の「有」は、食事を手にして人にすすめるの意味。財貨を人に贈るの意味を表す。

 *<漢字の話>2「賂」・・解字は、「貝」+「各」。音符の「各」は、いたるの意味。財宝をもたらす・おくるの意味を表す。

(54-2)「いやしむる」・・下2動詞「いやしむ」の連体形。「いやしむ」は、いやしいものとして見下げる。軽んずる。さげすむ。いやしぶ。賤しい。

 *<漢字の話>「賤」・・解字は、「貝」+「戔」。音符の「戔」は、小さい、すくないの意味。金品が少ないの意味から、身分が低いの意味を表す。

(54-3)「振廻(ふるまい)」・・振舞。「舞」に「廻」を当てることもある。

 *「昔は大身小身は申に及ばず、軽き壱人も召仕ふ程の者、町人迄も正月は椀飯振廻(ワウバンブルマヒ)とて、親類縁者子供まで、洩さずよび集め、夫々分限相応に結構して、目出度とことぶき、うたひののしり、酒もりして遊ぶ。〈略〉是故に疎なる親類の中も、椀飯振舞に亦したしく成事あり」(随筆・『八十翁疇昔話』1716年頃か)

 *<日本語の話>「椀飯振廻(おうばんぶるまい)」・・「椀飯」の「おう」は、「わん(椀)」の変化したもの。

  「椀飯(おうばん)」・・王朝時代、公卿たちが殿上に集まったときの供膳。鎌倉・室町時代には将軍家に大名が祝膳を奉る儀式となり、年頭の恒例として、また、慶賀の時などに行なった。応仁の乱以後はあまり行なわれなくなり、江戸時代には、民家で正月に親類などを招いて宴を催すことをいった。大供応。盛饗。

  なお、「大盤振舞(おおばんぶるまい)」と書くのは、「おうばんぶるまい(椀飯振舞)」から転じて「大盤」などの字をあてるようになったもの。

  また、「椀飯(おうばん)」と「大盤(おおばん)」は、ルビが違う。

(54-4)「髪剃(こうぞり・かみそり)」・・「こうぞり」は、「かみそり」の変化した語。髪をそる小型の刃物。こ

うずり。かみそり。中古から中世にかけては「かうぞり」とも言ったが、近世には「かみそり」が一般化した。

 かみそりは、現在ではひげを剃る理容器具の一種であるが、本来は僧侶が剃髪をするのに用いた物である。『和

名抄』には「加美曽利」という文字が僧坊具の一つに数えられている。つまり仏教の伝来とともに中国からも

たらされたもので、僧侶が厳しい戒律によって、剃髪具として用いたことに始まるといえる。(ジャパンナレ

ッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

 現在、「剃刀」に「かみそり」を当てるが、熟字訓という。

*熟字訓・・漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。常用漢字表付表にない熟字訓に、土筆(つくし)、水母(くらげ)、私語(ささやき)、故郷(ふるさと)がある。

 平成22(2010)に改定された常用漢字表の付表には、これまでの110個から6個追加されて116個の熟字。

*<わたくしごと>「髪剃菜(こうぞりな)」・・コウゾリナ。キク科の多年草。顔剃菜(かおそりな)または剃刀菜(かみそりな)のなまったものといわれる。私が生活した日高の様似町のアポイ岳には、特別天然記念物の固有種エゾコウゾウリナがある。毎年、その花を見に、アポイに登った。

(54-9)「皆人(みなひと)」・・その場にいる人、全員。すべての人。

(54-11)「懇(ねんごろ)」・・「ねもころ」の変化した語。心をこめて、あるいは心底からするさま。熱心である

さま、親身であるさま。また、手あついさま。語源説のひとつに、「ネは根、ゴロは如の義。草木の根の行き

渡るがごとき心配りの意」がある。

(54-11)「つらつき」・・面付き。顔つき。おもだち。つらがまえ。

(55-4)「ヲンテイレハン」・・P54は、「ヲンテレイハン」。「イ」と「レ」が逆。

(55-5)「都よりのは仰には」・・「都よりのは」の「は」は誤記か。異本には、この「は」はなく、「都よりの仰

せには」としている。

(55-8)「そこ立(たち)は」・・「そこ達は」。「達」に「立」を当てている。あなた達は。

(56-4)「仙台の善六」・・「仙台(藩内、石巻)の善六」。寛政5(1793)1127日、16人が乗組み石巻を出

帆した若宮丸の乗組員。寛政8(1796)3月、乗組員中最初にイルクーツクで洗礼、洗礼名ピョートル・ステ

ファノビッチ・キセリョーフ。同年夏、イルクーツクで日本語学校教師補。文化12(1815)、同校正教師に

なる。レザノフの日本渡航時、通訳としてカムチャッカのペトロハバロフスクまで同行。文化10年(1813)

福山に囚われていたゴローニンらの受け取りにリコルドの通訳として箱館に来た。善六は、文化13(1816)

イルクーツクで死亡している。したがって、重吉がカムチャッカに着いた時には、善六は、イルクーツクに存

命であった。

*善六とロシアの日本語学校・・ロシアにおける最初の日本語学校は、1737年、ペテルブルクの科学アカデミー附属して設置された。その後、1753年イルクーツク移転が決定され、1754年イルクーツク航海学校が開設されたとき、その中に日本語学校が付設された。1816年に閉鎖されるまで、約80年間続いた。その間の日本人漂流民が教師として係ったことを略記する。

 ・17361739(ペテルブルク)・・ゴンザとソーザ(薩摩漂流民)

 ・17461785?(ペテルブルク・イルクーツク)・・竹内徳兵衛配下7名。(南部佐井の漂流金)「さのすけ」の息子は、露日辞典『レキシコン』を作る。

 ・17911796(イルクーツク)・・光太夫配下の庄蔵、新蔵(伊勢漂流民)

 ・17961810(イルクーツク)・・新蔵、善六(仙台石巻の若宮丸漂流民)。新蔵、「和露辞典」著す。

 ・18101816(イルクーツク)・・善六(仙台石巻の若宮丸漂流民)、善六、レザノフの「露和辞典」に寄与。

 ◎漂流民の日本語学校の活動は、教師が学のない漂流民であり、ロシア東洋学史にさほど大きな足跡を残さなかった。他方、まさに学のなかったことが、貴重な日本方言資料を生み出し、日本語学校は、日本方言学にきわめて大きな寄与をなしている。(この項、村山七郎著「ロシアの日本語学校について」=早稲田大学図書館刊『早稲田大学図書館紀要』第5号 1963=参照)

*若宮丸・・石巻出帆後、塩屋崎沖で漂流し、寛政6(1794)510日、アリューシャン列島に漂着。その後、

シベリヤを横断してイルクーツクに到着、更に首都ペテルブルグに行き、アレクサンドル1世に謁見、帰国の

意思を確認された漂流民にうち、津太夫ら4名が帰国を希望した。帰化した6人はロシアに残ることになった

が、帰化組のひとり善六は、通訳として世界一周の旅に同行することになった。5名を乗せたナジェジダ号と

ネヴァ号は、1803723日サンクトペテルブルグのクロンシュタット港から出航した。世界一周艦隊は、

コペンハーゲン、ファルマス(イギリス)、カナリア諸島、サンタカタリーナ島(ブラジル)南太平洋のマル

ケサス諸島を経て太平洋を渡り、カムチャッカ半島のペトロハバロフスクを経て長崎に到着した。彼らは、期

せずして、最初に世界一周した日本人となった。

資料2.若宮丸漂流民の足跡(『世界一周した漂流民』所収)

(56-3)「ユクーツカ」・・イルクーツク。ロシア連邦中部の都市。イルクーツク州の州都。バイカル湖の南西約

70キロメートル、アンガラ川とイルクート川の合流点に位置する。シベリア東部の経済・交通の要地であり、

化学・機械などの工業が盛ん。人口、行政区58万(2008)。17世紀半ばにコサックが砦(とりで)を築いたこと

に起源し、毛皮の集散地として発展。帝政ロシア時代は政治犯の流刑地だったほか、第二次大戦後は日本人の

主な抑留地の一つだった。なお、イルクーツクの日本語学校のついては、別添の東出朋著「ロシアにおける日

本語教育のあけぼのーロシアの東方政策から考えるー(九州大学比較社会文化学府刊『比較社会文化研究』第

34号 2013)参照。

(56-45)「カピタン」・・ポルトガル語のcapitãoに由来し、もとは、船長または船隊司令官の意である。カピ

タン=モールは、ポルトガル人の海上での最高司令官であるとともに、アジア在任地での首席・長官をさした。

一五五〇年代に、ポルトガルは日本貿易にもこの制度を設けた。日本人はこれを略して甲比丹と呼んだが、の

ちに平戸のイギリス・オランダの商館長をもそう呼び、特に鎖国以後は、もっぱら長崎のオランダ商館長をさ

すことになった。本書では、イルクーツク長官の意味か。

(56-5)「日本詞」・・「日本通詞」。「通」欠か。異本の多くは「日本通詞」とする。

(56-7)「徃来には十八ヶ月」・・ちなみに、現在のシベリヤ鉄道のウラジオストック~モスクワ間は、9,259キロ

 あり、6泊7日かかる。

(56-11)「不便(ふびん)」・・「不憫・不愍」とも書くが、あて字。かわいそうなこと。気の毒なこと。また、そのさま
(56-11)「内々(ないない)」・・ひそかに。内密に。

(56-11)「非是」・・「是非」の誤記か。ルビは「せ(ぜ)ひ」としている。 

『ふなをさ日記』7月学習の注 

(47-1)「ヲロシヤの船エゾへ来り」・・文化8(1811)6月に、千島測量のためゴロウニン率いるディアナ号はクナシリ沖に来航、ゴロウニンはクナシリ島トマリに上陸し、会所役人と会見したが、会見中逃走をはかったためを幕府役人は彼らを捕えて箱館に幽囚、翌年8月にゴロウニンの安否確認にクナシリ島にやってきた副将リコルド率いるディアナ号が来航した。

(47-2)「大ごうけつ」・・高田屋嘉兵衛のこと。観世丸に乗船し箱館への帰途にクナシリに寄港したところをリコルドに拿捕され、カムチャツカに連行された。

(47-3)<文法の話>「かゝる」・・ラ変動詞「かかり(斯有=かくあり=)」が、近世以降、しだいに連体形による連体修飾用法だけに限られるようになり、現代口語文に残存したもので、改まったかたい表現に用いる。

このような。かくのごとき。

(47-34)「ヲロシヤ人も折々言出して舌をまきて居たりし」・・嘉兵衛は、カムチャッカで、ロシア語を習得し、翌年五月に国後島に送還され、ゴロウニン釈放、紛争の平和的解決のため、日露両国の交渉・調停に尽力し、日露の両当事者からその能力を賞賛された。

(47-5)「ルタカウ」・・ロシヤ海軍大尉イリヤ・ルダーコフ。リコルド不在中、カムチャッカ長官代理。

(47-2)「おこす」・・遣(おこ)す。こちらに送ってくる。よこす。

(47-6)「許(もと)」・・<漢字の話>「許」の訓は、「もと」では、「其許(そこもと)」「此処許(ここもと)」「国許(くにもと)」などがあるが、他にもさまざまある。「何許(いずこ)」、「如許(かくのごとし)」、「為許(なにがために)」、「許嫁・許婚(いいなずけ)」、「許多(あまた)」、「幾許(いくばく)」など。

(47-7)「にしきえ」・・錦絵。浮世絵の多色刷り木版画の総称。精巧な技術により多くの色を正確に刷り分けて、錦のような美しいいろどりを示す。江戸時代、明和2年(1765)絵暦の流行を契機として、絵師鈴木春信が、俳諧師・彫師・摺師の協力を得て創始、江戸を中心として発展した。絵師に、勝川春章・鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽・歌川豊国・葛飾北斎・歌川(安藤)広重などがいる。

(47-78)「忠臣蔵の十段目」・・「仮名手本忠臣蔵」の十段目は、「天川屋義平内の場」。討入りの支度の一切を頼まれた天河屋義平(天野屋利兵衛)の元へ大勢の捕り手が踏み込んできて、武器を隠しているだろうと尋問する。白状しないとみると、幼い一子由松の喉に刀をつきつけて口を割らせようとするが、義平は長持ちの上に座り、「天川屋の義平は男でござる。子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは申さぬ」と啖呵を切る。そこへ由良之助が現れ、これは義平の義侠心を試すために仕組んだことであると詫び、次のように語って舞台を去る。「花は桜木、人は武士と申せども、いっかな武士も及ばぬ御所存。一国の政道を任せたとしても惜しからぬ器量」云々・・。

(47-8)「つゞき絵」・・二枚以上が組になって一つの構図・場面を表わした絵。一枚ずつでもある程度の独立性があって鑑賞できる。特に浮世絵についていうことが多い。

(47-9)<文法の話>「見する」・・下2動詞「見す」の連体形。ここは、本来は、終止形の「見す」だが、連体形で終わっている。「見する」のあとに「由」「事」などを省略する手法を「連体止め」という。

(47-9)「都ベトロブ」・・ペテルブルグ。ロシア連邦北西部の大都市サンクト・ペテルブルグの略称。設立時から1914年まで用いられたのち、一時ロシア風にペトログラードとよばれだが、ロシア革命後の24年レニングラードと改称、91年のソ連崩壊後ふたたびサンクト・ペテルブルグに戻った。

(48-5)「薩摩(さつま)の人三人」・・薩摩籓の手船永寿丸の船頭喜三左衛門と水主の佐助、角次の三人。

 *<永寿丸の漂流と重吉らとの出会いと帰国>略年表

  ・文化9(1812)1019日、鹿児島藩主島津斉興(なりおき)手船永寿丸(23反帆600石積)は、江戸屋敷への廻米を積んで薩摩・脇本湊(現鹿児島県阿久根市脇本)を出帆。乗組員は、船頭の喜三左衛門ら25人。

  ・同年123日、紀州沖で、強風に遭い漂流。漂流中、13人が病死。

  ・文化10(1813)924日、北千島ハルムコタン島に漂着。強風で破船、6人は溺死。上陸した6人のう

ち、3人が死亡。残った船頭喜三左衛門と水主の佐助、角次の三人は島民に救助される。

  ・同年10月末、オンネコタンに渡り、翌文化11(1814)5月パラムシル島に渡る。7月、ロシア役人とともに、ロパトカ岬に上陸、ボリシエレックを経て、8月ペトロパヴロフスク着。長官代理ルダーコフと面会。

  ・文化12年(18155月ペトロパヴロフス出帆、海上40日でオホーツク着。710日頃、ロシヤ船パーウェル号で、オホーツク出帆、8月初めエトロフ沖に達するが強風のため上陸できず、9月中旬ペトロパヴロフスへ乗戻る。

  ・同年(1815)9月1日、ペトロパヴロフスクで永寿丸の3人と、督乗丸の重吉、音吉、半兵衛の3人が出会う。6人はペトロパヴロフス越冬する。

  ・文化13(1816)5月、永寿丸の喜三左衛門、督乗丸の重吉ら6人が、ロシヤ船パーウェル号で帰国の途に就く。611日、督乗丸の半兵衛病死。

  ・同年628日、重吉ら5人ウルップ島上陸。77日エトロフ島に渡り、松前へ護送され、92日、松前着。

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 『ふなをさ日記』6月学習の注

(42-1)「我は廻り道なれども」・・異本は、「我は」と「廻り道なれども」の間に、「ヲホーツカへ行くは」があり、「我は、ヲホーツカへ行くは廻り道なれども」とある。           

(42-1)<くずし字の趣>「道」・・「首」+「しんにょう」。「しんにょう」が、ほとんど「点(ヽ)」になんている。

(42-2)<くずし字の趣>「順」・・「川」+「頁(おおがい)」。「川」の3画目の「l」が極端に長く、旁の「頁」は、小さい。なお、「順」の部首は、「川」でなく、「頁」。

(42-7)「ゑんせう(えんしょう)」・・煙硝。

 火薬。「せう」は歴史的仮名遣い。発音は、「エンショー」

(43-2)「午未(うまひつじ)」・・南南東。

(43-4)「加模西葛杜加」・・カムチャッカ。「カムシカツトカ」とルビがある。『宛字外来語辞典』(柏書房)には、

「カムチャッカ」の当て字として、「堪察加」が一般的だが、ほかに、「加模沙都加」「柬砂葛」「柬寨加」「柬察加」など。 *カムチャッカ・・アジア大陸の北東端部から南方へ、太平洋に突出する半島。東側はベーリング海、西側は千島、サハリンとともにオホーツク海を囲む。火山が多い。中心都市はペトロパブロフスク‐カムチャツキー。

 カムチャッカの略史 

カムチャツカ半島について、西洋人に詳細な情報がもたらされ始めたのは17世紀のことである。イワン・カムチャッキーやセミョン・デジニョフなどのロシアの探検家によって、この地域の情報が集められた。17世紀末には入植が開始されている。1697年、カムチャツカのはるか北部にあるアナディールから、ウラジミール・アトラソフ率いる約120人の軍勢がカムチャツカ西岸を南進し、アイヌとの戦闘が起こった。カムチャダールの集落には伝兵衛という漂流民の和人が居住していたが、アトラゾフに捕らえられペテルブルクに連行された。連行された和人は、ペテルブルクで日本語学校の校長として生涯を終えている。1700年(元禄13年)、幕命により、松前藩は勘察加(カムチャツカ半島)を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成。1708年頃にはカムチャツカはロシアによって占領される。
1713年
頃には約500名のコサックが居住していた。1715年(生徳5年)、松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加(カムチャツカ半島)」は松前藩領と報告。その後、18世紀前半には、ブィトス。ベーリングにより2度の探検が行われている。、1729年、日本人ゴンザとソウザ17名(二人以外は後にロシア側に殺害されたという)の乗った「若潮丸」が半島南端のロパトカ岬付近に漂着。1731年から1739年までカムチャダールの大反乱が起こったが、ロシア人はなどの武器を使用し反乱を制圧。日本人大黒屋光太夫の一行がペテルブルクへ向かう途中、1787年から約1年カクチャッカに滞在しており、当時の様子が「北槎聞略」に記されている。1854年にはクリミヤ戦争のため、英仏艦隊がペトロハバロフスク・カクチャッキーに来寇している。(この項『ウィキペデア』より)

*なお、「カムサスカ」は、干鮭(からざけ)が転音したもので、昔は日本へ干鮭を運送・交易していたので、カムチャッカも日本の属島だとする荒唐無稽なこじつけがましい解釈が行われていた。(菊地勇夫著『エトロフ島 つくられた国境』=吉川弘文館=)

(43-4)「カムサスカの鼻」・・カムチャッカ半島南端のロパトカ岬か。ロパトカ岬の緯度は、北緯5087分。

 細川かたしは、演歌「北緯五十度」のなかで、「北緯五十度もう見おさめだ・・・ さらばさよならロパトカ岬」と歌う。

(43-5割注)「凡四□五十里」・・影印の「四」と「五」の間の文字は不明。異本は「凡四五千里」としている。

(43-5)「爰より蝦夷迄廿三島つゞきたり」・・「廿三島」は、千島列島のこと。カムチャツカ半島と日本列島との間に一列に並ぶ二十三の島より成る。最初、寛永20年(1643)オランダ探検船によって発見紹介され、カムチャツカ半島を征服したロシア人が正徳3年(1713)来島して経営に着手、元文34年(173839))ベーリングの探検によって全貌が明らかにされた。ロシアは東洋貿易の基地を求めて、ウルップ島を根拠地として安永7年(1778)に納沙布の松前藩根拠地に来航して通商を求めた。同藩はこれを拒絶したが、ロシアは寛政4年(1792)松前、文化元年(1804)長崎と相ついで使節を送った。この情勢に対応して宝暦4年(1754)交易所がクナシリ島に進められ、幕府は天明56年(178586)大規模な蝦夷地調査隊を派遣、寛政12年(1800)蝦夷地を直轄に移しエトロフ島を開発した。文化元年(1804)長崎に来航したロシア使節が、翌年幕府の通商拒絶にあうや、文化34(180607)、ロシア船が択捉および樺太の日本根拠地を襲って乱暴を働いた。ために日露両国の間は緊張したが、文化8(1811)たまたま国後島に寄港したロシア測量船長ゴロウニン以下を日本側が捕えて拘囚し、部下がその釈放に尽力した事件を契機として和解した。その後折々ロシア船が択捉島に漂流民を送還するにとどまり、真の解決は安政元年(1854)日露和親条約締結まで待たねばならなかった。この条約により、両国国境は択捉・得撫両島を隔てる択捉海峡に引かれた。明治2年(18698月、日本はエトロフ・クナシリ両島を合わせて千島国と称し、北海道の一部に編入した。明治8(1875)樺太・千島交換条約が締結され、日本は、慶応3年(1867)両国雑居の地と決められた樺太から撤退して全島がロシア領となり、その代償として得撫島以北の千島列島の領有権を得、列島すべてが日本領となった。

 *主要な島の数は25を超えるが、面積50平方キロメートル以上の島を北から順にあげると、以下の13島である(〔 〕内はロシア語読み)。

 占守(しむしゅ)〔シュムシュ〕島、阿頼度(あらいと)〔アライド〕島、幌筵(ほろもしり)〔パラムシル〕島。(以上北千島)

 温禰古丹(おねこたん)〔オネコタン〕島、春牟古丹(はるむこたん)〔ハリムコタン〕島、捨子古丹(しゃすこたん)〔シャシュコタン〕島、松輪(まつわ)〔マツア〕島、羅処和(らしょわ)〔ラシュア〕島、計吐夷(けとい)〔ケトイ〕島、新知(しんしる)〔シムシル〕島、得撫(うるっぷ)〔ウルップ〕島(以上中千島)。

 択捉(えとろふ)〔イトルプ〕島、国後(くなしり)〔クナシル〕島(以上南千島)。

(43-56)「クリー」・・千島列島。クルミセ(久留味世とも書き、「人間」を意味するアイヌ語の「クル」に由来)などとよばれ、列島の名称になったとされる。英語名クリル諸島Kuril Islands、ロシア語名もクリル諸島Курильские Острова/Kuril'skie Ostrova

(43-6)「奥蝦夷」・・ジャパンナレッジ版『国史大辞典』には、「松前に近い地方を口蝦夷、遠い所を奥蝦夷と呼んだが、その境は、東は襟裳岬、西は神威岬であった」とある。

 また、『北海随筆』(板倉源次郎著)には、「東西海に乗り馴れたる船方の者どものいへるは、ソウヤ迄弐百七、八十里、キイタツプ迄三百里ばかりといふ。(中略)此東西両所迄は松前より商船行て交易して、是より奥へは船かよはず、地つづきて蝦夷人も住居せる村々有。此舟かよわざる所凡百五十里といふ。是を奥蝦夷ともいふとなり」とある。

(43-7)「二島(にとう)はヱゾへ近くて日本の島なり。」・・「二島」は、クナシリ・エトロフ両島。寛永10(1789)727日、近藤重蔵は、エトロフに渡り、「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。寛政12(1800)5月、エトロフ島掛となった近藤重蔵、山田鯉兵衛はエトロフ島に渡海、オイトに会所を設け漁場13ヶ所を開いた。

(44-1)「晴(はる)れば」・・晴れれば。

*<文法の話>・・接続助詞「ば」は、已然形に接続する。下2動詞「晴(は)る」の已然形は「晴(は)るる」。活用は、「晴れ」(未然)・「晴れ」(連用)・「晴る」(終止)・「晴るる」(連体)・「晴れよ」(命令)。

従って、ここは「はるれば」。「はれれば」は現代文。

(44-3)「ふ(経)る」・・時がたつ。年月が過ぎる。「ふ(経)る」は、下2動詞「経(ふ)」の連体形。

*<文法の話>終止形は、下2動詞「経(ふ)」。活用は、「経(へ)」(未然)・「経」(へ)」(連用)・「経(ふ)」(終止)・「経(ふ)る」(連体)・「経(へ)よ」(命令)。

(45-45)「迎迎に来り」・・「迎」が重複している。

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『ふなをさ日記』5月学習の注 

(37-1)<変体仮名の話>「言ければ」の「け(介)」・・「介」を「け」とするのは、なぜか。「介」の呉音に「ケ」があり、万葉仮名でも「け」。しかし、一説に、①「介」の字母(漢字の音の基本となる文字)が「个(カ)」であるといい、「个」は、物や人を数える語で「箇」の同じとする。②「介」の部分からカタカナの「ケ」ができ、のち、変体仮名の「け」として使われるようになった。

(37-1)「明は」・・「明日の朝」で、「日の朝」欠か。異本には、「明日の朝は」とある。

(37-12)「とらの時」・・午前4時頃。

(37-4)「ねや(閨・寝屋)」・・寝室。

 *<漢字の話>「閨」・・ジャパンナレッジ版『字通』に、<アーチ形のくぐり戸のような門戸をいう。もと里中に設ける小門であった。〔爾雅、釈宮〕に「宮中の門、之れを闈(イ)と曰ふ。其の小なる、之れを閨(ケイ)と曰ふ」とあり、後宮に設けることが多い。のち閨房の意となる。のち閨房の意となる。>とある。
**「閨秀(けいしゅう)」・・才芸にすぐれた女性。

(37-6)<変体仮名の話>「違わず」の「わ(王)」・・「王」は漢音・呉音とも「オウ」であるが、変体仮名で「わ」とするのは、「王」の歴史的仮名遣いが「ワウ」であったことによる。

(37-6)「心を取て」・・人の気持を察して。

(37-7)<変体仮名の話>「計(ばかり)にて」の「に(丹)」・・①「丹」の解字は、「丹砂(たんさ)」(深紅色の鉱物)を採掘する井戸の象形。「ヽ」が丹砂をあらわす。「丹」は、国訓で「に」。万葉仮名でも「に」。「青丹(あおに)よし」など。

 ②「丹」の部首は、「ヽ」部で、「チュ」と発音する。「てん」部」、「ちょぼ」部とも。

(37-8)「いらぬ事」・・むだなこと。

(37-10)「安かるべし」・・「安し」は、らくらくと物事を行なうことができる。容易である。

(37-11)「偽(いつわ)り」・・うそを言う。だます。

(38-3)「冨家(ふうか・ふか・ふけ)」・・富裕な家。財産家。かねもち。

(38-5)「北より三人の目の女」・・異本のひとつには、「北より」を「此より」とある。

(38-6)「彼(かれ)」・・話し手、相手以外の人をさし示す。明治期まで男にも女にも用いた。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<明治以降、西欧語の三人称男性代名詞の訳語として、口頭語に用いられるようになった。明治以前は、人を指示する場合、男女を問わなかったが、明治以降に同じく訳語として定着していった「彼女」との間で、しだいに男女の使い分けをするようになったと考えられる。>とある。

 *「たそがれ」・・古くは「たそかれ」。「誰(た)そ(か)は」と、人のさまの見分け難い時の意。夕方の薄暗い時。夕暮れ。暮れ方。たそがれどき。また、比喩的に用いて、盛りの時期がすぎて衰えの見えだしたころをもいう。

 *「かわたれ」・・「()は誰(たれ)」の意。「かわたれどき」は、あれはだれだとはっきり見分けられない頃。はっきりものの見分けのつかない、薄暗い時刻。夕方を「たそがれどき」というのに対して、多くは明け方をいう。

(38-10)「念頃(ねんごろ)」・・懇ろ。心がこもっているさま。親身であるさま。

(39-3)「迎(むかい)」・・「迎」は、「向」か。異本は、「向い」としている。

(39-6)「包(つつま)ず」・・隠さず。「包む」は、かくすの意。

(39-7)「打わらひ」・・「うち」は接頭語。「打わらう」は、あざけり、おかしさ、よろこびなどの気持で、口をあけて笑い声をたてる。ふと笑う。

 *「わかき人は、ものをかしく、みな、うちわらひぬ」(『源氏物語・常夏』)

(39-8)「ま事(こと)」・・真事(まこと)。真実の事柄。事実。

 *「正真事(しょうまっこと)」・・まことを強めていった語。正真正銘であること。うそいつわりのないこと。また、そのさま。

(39-8)<変体仮名の話>「此国に」の「に(耳)」・・「耳」の漢音は、「ジ」だが、呉音では「ニ」。また、万葉仮名の「に」。

(39-9)「帰ることなかるべし」・・異本は、「帰ることなるべからず」としている。

(39-11)「まどひ」・・「惑(まど)ふ」の連用形。「惑う」は、考えが定まらずに、思案する。

(40-1)「言取(いいとり)たる」・・「言い取る」は、ことばで表現、伝達する。話し合う。

(41-1)「乱妨(らんぼう)」・・暴力を用いて無法に掠めとること。他人のものを理不尽に強奪すること。掠奪すること。

(41-1~2)「わきて」・・分て。別て。動詞「わく(分)」の連用形に、助詞「て」の付いてできた語。特に。格別に。とりわけ。わけて。わいて。

(41-6)「広東」・・中国南東部、広東省の省都現広州の旧称。

(41-6)「南京(ナンキン)」・・中国、江蘇(こうそ)省の省都。同省南西部の長江が北東から東へ流れを変える屈曲点に位置する。

(41-67)「かしこ」・・彼処。あそこ。本文では、広東、南京のこと。

(41-8)「廻り通(どお)し」・・「廻り遠し」か。「通」は、「遠」の当て字か。「廻り遠い」は、目的地の達するのに遠回りであること。

(41-9)「ヲホーツカ」・・オホーツク。現ロシア連邦東部、ハバロフスク地方の町。オホーツク海北西岸の漁港。、1647年に冬営地ができ、そこに1649年にコソイ小柵(しょうさく)(砦(とりで))が建設された。19世紀なかばまでロシアの太平洋岸の主要港で、カムチャツカ、千島、日本、アラスカなどへの探検隊の基地となった。

(41-10)「仙台の善六」・・善六は、仙台藩石巻の若宮丸(800石積)の水主で、ロシア漂着後、イルクーツクで洗礼を受けロシアに帰化した。ロシア名ミハイル・ジェラロフとか。若宮丸は、寛政5年(1793)1127日、仙台藩御用米を積んで江戸に向ったが強風のため漂流、寛政6年(1794510日、アリューシャン列島の無人島に漂着。その後オホーツクに到着、イルクーツクを経て首都ペテルブルクに到着した。享和3(1803)、世界一周をめざしたナデジタ号に、遣日使節レザノフが乗船し、日本への帰国を許された若宮丸の乗組員津太夫ら4名と通詞役として帰化した善六も乗船した。享和3(1803)616日、ナデジダ号は、バルト海のクロンシュタット港を出港、南アメリカを迂回して太平洋に出、ハワイを経てカムチャッカ半島のペトロハバロフスクに入港。帰国漂流民と善六のいがみ合いのため、善六は、ペトロハバロフスクで下船した。

 ナデジダ号は、文化元年(1804)96日、長崎に到着。津太夫らは、日本に帰還した。彼らは最初に世界一周した日本人である。

 さて、善六は、その後、文化10年(1813)ゴローニンを引き取りに箱館に来たリコルドの通詞として、20年ぶりに日本の土を踏んでいる。その後、善六は、イルクーツクに帰り、日本語教師を勤めている。文化13(1813)頃、イルクーツクで死亡したという。

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