森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

文化・歴史情報

平成20年度の北海道教育大学札幌校の公開講座

平成20年度の北海道教育大学札幌校の公開講座
↓です。


http://www.hokkyodai.ac.jp/area/extension-lecture-03-01.html

津軽藩兵とコーヒー

宗谷岬の宗谷公園内にコーヒー豆をデザインした「津軽藩兵詰合記念碑」がある。
碑のデザインは、コーヒーが水腫病に効果があるとされ、予防薬として和蘭コーヒー豆が配られたという記録を基づくという。
碑は、平成4年(1992)9月、弘前市の有志によって建立された。毎年、9月第一日曜日に慰霊祭が行われている。
碑文は、次の通り。
「この碑は、文化4年(1807)幕名による蝦夷地越冬警備のさい、厳冬下で次々と浮腫病に倒れていった数多くの津軽藩兵を悼むとともに、その後、安政2年(1855)再び蝦夷地警備に赴いた藩兵達には、浮腫病の薬用として「和蘭コーヒー豆」が配給されていた事実を記念するためのものである。 珈琲を飲めずに逝った人々と、薬として大事に飲んだであろう先人達の辛酸を、歴史の一齣として忘却するには忍びがたいしその体験は日本の珈琲文化の嚆矢としても貴重である。
 茲にその偉業と苦難の歴史を後世に伝承すべく、ゆかりの地・宗谷に珈琲豆を象った記念の碑を建立することとした。
1992年9月16日

宗谷岬に津軽藩兵詰合の記念碑を建てる実行委員会

会長 成田専蔵


文化3~4年(1806~1807)のロシア人のカラフト、エトロフ襲撃事件を契機に、各地に東北諸藩の藩兵が警備に派遣されたが、北辺の地での生活は厳しく、多くの藩兵が倒れた。宗谷には、津軽、会津、秋田藩兵が、次々派遣された。
津軽藩兵の死亡では、斜里詰めの津軽藩兵の水腫病による多数の死者がでたことはよく知られているが、その他の道内各地での犠牲はあまり知られていない。
そもそも、津軽藩兵は、当初、宗谷に派遣され、文化4年7月になって、百名が急遽、斜里への転進が命じられた。
文政4年(1821)、蝦夷地の直轄が解かれるまで、多くの津軽藩兵が宗谷に駐屯した。
碑は、宗谷岬に近い宗谷公園内にあるが、津軽藩の詰所は、宗谷岬よりかなり西に寄った地、現在の稚内市大字宗谷字宗谷の宗谷川河口付近にあった。
ここには、宗谷会所、厳島神社、護国寺などもあり、一帯の中心地であった。

なお、この碑のそばには、会津藩、秋田藩の旧藩士の墓もある。
また、岬より、少し西のサンナイには、「間宮林蔵渡樺出港の地」碑もある。

宗谷岬は、「日本最北端の地碑」「宗谷岬音楽碑」が有名だが、「津軽藩兵詰合記念碑」など、歴史関係の碑は顧みられることは少ない。
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日本初のスケーター

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先般、歴史学同好会主催の歴史講座で、札幌大学の川上淳氏の「ラクスマン来航と大黒屋光太夫」の講演を聴き、面白いことを聞きましたので、書きます。

「ラクスマンは、日本初のスケーターだった」という話です。
ラクスマンが、光太夫を伴って「エカレリーナ」号で根室港に入港したのは、寛政4年(1792)9月4日のこと。
一行は、幕府役人を根室で待機するためもあって、根室で越冬するのですが、結氷した根室の海でスケートに乗るラクスマンが描かれた絵図が愛知県刈谷中央図書館に所蔵されています。
図ではスケートのことを
「エギライ ドロバス ト云 
 一名 コーニキー 」
とあります。
根室市では、「スケート発祥の地」と宣伝をしているが、川上氏は、「なかなか浸透していない」と、苦笑されておられた。

ひびが入った氷の間をすべる人物とスケートの軌跡が描かれていて興味深いです。


孝明天皇の死因について

◎はじめに
先般、ある講演会で、講師が孝明天皇の死因について言及し、「孝明天皇毒殺説」を述べた。
 そこで、孝明天皇の死因について述べたい。
 いうまでもなく、孝明天皇は、明治天皇の父で、幕末動乱期の天皇である。
 公武合体派の天皇として知られ、妹和宮を14代将軍家茂に嫁がせている。
 慶応2年(1866)12月25日に35歳で死亡した。
 当時から岩倉具視ら倒幕派による暗殺説が流され、幕末明治初期のイギリス外交官アーネスト・サトウは「一外交官の見た明治維新」の中で、「孝明天皇毒殺」の噂を記しているほどだ。

1. 孝明天皇主治医の日記
孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(いらこ・おりべのかみみつおき)の当時の日記とメモが光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、その中身が昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。
 光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」
 伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、同・石井孝氏、さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、砒素(亜砒酸)だと断定している。
 当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用させることはできなかった。
必ず、女官に渡して、女官から飲ませてもらうのだという。前述石井孝氏は、女官たちの中で容疑者と目される者の名を、つぎのように挙げている。

岩倉具視の実の妹、堀可紀子。
匂当内侍だった高野房子。
中御門経之の娘で典侍だった良子。

2. 最近の研究―毒殺否定説―
 明治維新史研究者の佐々木克氏は、著「戊辰戦争」(中公新書)の初版本(1977)で、前記の伊良子光順日記に触れ、孝明天皇毒殺説を述べている。
 ところが、1990年の改訂版の「あとがき」に「追記」として日本近代史研究者の原口清氏の孝「明天皇毒殺否定説」を紹介している。
 その概要は、
 
 最近原口清氏は、暗殺説を否定し、天皇の死因は「紫斑性痘瘡と出血性膿疱性疱瘡の両者をふくめた出血性疱瘡で死亡した」と明確に主張された(「孝明天皇は毒殺されたか」『日本近代史の虚像と実像』1、1990、大月書店)
 原口氏の説は説得力があり、私も同意したい。本文の私のかっての記述は、誤りであったことをここでお断りし、・・・おわび申し上げたい

◎感想
 私(森勇二)は、孝明天皇の死因論争に加わる資格も素養もない。
 ただ、佐々木克氏のこういう、謙虚な態度に接すると、こころが洗われる。

「間(けん)」は「弥生尺」

◎はじめに
北海道文化財保護協会の会報「文化情報」299号に、新川寛氏の「縄文尺」と題した論文を読んだ。
 要旨は、「青森の三内丸山遺跡のような大型住居跡の配置は、縄文尺ともいうべき基準物差しがあったと考えられる」という高島成侑氏(八戸工業大学教授)の「縄文尺」提唱を紹介しながら、度量衡の歴史、なかでも、古代の尺度に触れている。
 そこで、新川論文の紹介と、古代の物差しについて調べてみたので、紹介する。

◎「弥生尺」
 私が興味を持ったのは、「弥生時代の日本人は、稲束を両手にぶらさげて、自由に家(作業場)の中に出入りする幅を一間(けん)とした」という記述だ。
 「間(けん)」の語源を初めて知った。であれば、「間(けん)」という単位は「弥生尺」ともいうべき物差しといえると思う。

◎身体の一部を基準とした単位
・「寸(すん)」・・親指の幅。
・「尺(しゃく)」・・「尺」は象形文字で、手の姿を描いたもの。それから、「人の手幅」をいう。指十本の幅が「一尺」。
・「束(つか)」・・「束」は、会意文字で、「木+○印(たばねるひも)」で、たき木を集めて、その真ん中にひもをまるく回してたばねることを示す。
 「一束」は、指四本をにぎった幅の長さ。
 「束(つか)の間」は、ほんのひとにぎりの間。ほんのしばらく。
・「あた」・・手のひらの下端から中指の先端までの長さ。一説に親指と中指を開いた長さ。
・「尋(ひろ)」・・「左+右+寸」の会意文字。左手と右手をのばした長さ。

◎世界に例のない複雑な単位の流通
 明治18年(1885)、日本は国際メートル法に参加、同24年(1891)公布された。さらに、明治42年(1909)にはヤードポンド法も交付され、尺貫法と合わせて3系統62単位が入り乱れ、日本は世界に例のない複雑な単位が流通した。 
 その後、多くの曲折を経て、メートルによる統一の必要が認められ、昭和34年(1959)1月1日をもって。メートル法が実施され、他の度量衡は廃止された。

前島密と蝦夷地・北海道

わが国郵便制度の創始者・前島密と蝦夷地・北海道とのつながりを記す。

◎安政5年から巻退蔵と自称しこの年の11月、箱館におもむき諸術調所に入門、武田斐三郎に航海学を学び、安政6年、奉行から預けられた箱館丸に乗り、北海を巡航し、更に転じて南海に出て、摂津・播磨・上総・下総から陸奥を経て南部の宮古に越冬し、翌万延元年箱館にもどる。翌文久元年には、亀田丸に乗ってロシア領ニコライエフスクにも航海した。
 当時、航海術を実地に学べるところは箱館と長崎より他になく、特に武田斐三郎の実用主義教育は、後にわが国の産業、文化に頁献する有為の人材を生むに至った。門下生には山尾庸三、井上勝、蛇子末次郎、今井兼輔などがおり、前島密もその一人であった。

◎明治元年3月、蝦夷地開拓につき陳情。明治初期開拓使設置当初のころ、開拓使はその地名に漢字をあて政府に報告していたが、密は北海道の地名はアイヌ語よりその源を発しているので、仮名で書くのが適当ではないかといい、以来北海道との深い関わりが生れた。(「はこだて人物史」より転載)

◎明治新政府の首都について、江戸遷都を説く。首都としての江戸の長所を6項目挙げ、その第一に、「蝦夷地開拓が進むと、江戸は日本の中央になる」と論じた。

楠木正成の愛刀 景光

昨日、蕎麦の訪問販売が来た。で、商品名が「景光そば」。効能書きに「商品名は楠木正成公の愛刀で細身が美しい国宝備前長船小竜景光からとりました」とあった。
ネットで検索してみた。
以下は、「ヴァナディール名物帳」なるサイトから転載。

景光は備前国長船(岡山県東南部)の刀工であり、長船三代目を継いだ名手である。太刀、短刀はもとより、薙刀や剣も造る多芸な刀鍛冶であった。名作・秀作が多く、父「長光」についで作刀も多く残されている。 景光の太刀で最も傑出の一本にこの「小竜景光」がある。
 この太刀は「楠正成」の佩刀と言われているが、発見されたのが大阪の「豪農」の納屋であったため、本阿弥家(刀の鑑定屋)に折紙(鑑定書)をもらいに行ったが、本阿弥家はその刀を「信じ難い」として、結局折紙は出されなかった。この太刀は彫物から「小竜景光」の号があり、磨上げられたはばきから竜が覗いているようであるところから「のぞき竜景光」とも称された。
 江戸時代以前の所在は不明であったが、幕末の試切家山田浅右衛門の所有となり、明治6年(1873)4月、東京府知事大久保一翁を通じて浅右衛門が明治天皇に献上した。
 鎬造、庵棟、腰反り高く中鋒の太刀である。茎は磨上、先栗尻、鑢目勝手下り、目釘孔三つ。鍛は小板目肌最もよくつみ、乱れ映り見事に立つ。刃文は小丁子刃、小互の目まじり、足・葉逆がかってしきりに入り、匂口締まる。帽子刃は湾れて小丸。彫物は表棒樋中に倶利伽羅竜の浮彫、裏棒樋中に梵字の浮彫。刃の長さ74.0センチ、反り2.9センチ、元幅2.9センチ、先幅2.1センチ、鋒の長さ4.5センチ。 東京国立博物館所蔵 国宝 太刀
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