1. 初代会堂(正式名称は「学校兼会堂」)の銅版画
・初代会堂は、明治17年12月27日落成。義援金344円余が集められ、梁行3間、桁行7間。(「荻伏百年史」)この初代「会堂」は、赤心社が子女の教育と社員・地域住民の修養を目的に建立。
・、「新北海道史」編集機関誌「新しい道史43」(昭和46年2月発行)の表紙となった銅版画。初代の「会堂」の珍しいもの。
・元の絵は、当時の旅行案内といえる「内国旅行日本名所図会」(注1)嵩山堂発行(=大阪市心斎橋筋博労町、明治22年11月)巻之五の挿画。
・銅版画・明治16年11月、手宮~幌内間の鉄道が開通し、北海道開拓はいよいよ本格化しようとしていた時期。一方、印刷界では、北海道でも銅版技術が普及しはじめた時期。
・実は、当時の荻伏の入植地の風景写真をモデルに銅版画に模写したもの。
・写真・銅版画の風景・・プラウ、ハローなど畜力農具の導入。大きな納屋など集団農場の風景。
2. 2代目の「会堂」と開拓の村に移転された「旧浦河公会会堂」
・開拓の村に移設復元された旧浦河公会会堂は、「明治27年に新しく建築された教会堂」(「北海道開拓の村整備事業のあゆみ」以下「あゆみ」)という。つまり、2代目の「会堂」。
① 2代目の「会堂」
明治27年に485円の寄付金で建築。の看板には「浦河組合基督教会」とある。
この建物を建てた組織が、「浦河組合基督公会」。明治19年(1886)6月26日設立された(設立者13名、受洗者18名)。明治31年(1898)に「元浦河組合基督教会」と改称された。
したがって、開拓の村の建物が、明治27年建設の建物の移設復元とすれば、建物の名称は正しくは、「旧浦河組合基督公会会堂」か、あるいは単に、「旧浦河組合基督教会」。
② 「浦河組合基督教会」の増築
昭和5年(1930)、「会堂」が2階建てに増築された。この建物が、昭和58年(1983)まで89年間、現地で使用されていた。
③ 開拓の村の収集・復元の経過
「あゆみ」によると、昭和53年(1978)3月21日の浦河沖地震で会堂は使用が危険な状態となり、「4月の総会で開拓の村移設を前提とした取壊しを決議し、寄贈の申し出を受けた」とある。解体収集工事は、昭和58年10月~11月。480万円。復元工事は昭和59年11月~60年3月。工事費2122万円。
④ 開拓の村移設の「旧浦河公会会堂」
2階建てであり、昭和5年の増築「会堂」の移設復元といえる。
3. キリスト教徒による北海道開拓
・「北海道キリスト教史」には、「開拓者によって生まれた教会」として、図
表を掲げている。そのうち、浦臼の「聖園農場」と、今金の「インマヌエル村」
に触れる。
① 聖園農場
・明治26年(1893)、高知の武市安哉(あんさい)(注3)が移民青年26名を率いて、当時の樺戸郡月形村ウラウスナイの札的川(サツテキナイ)周辺に入植。(明治32年に分村して浦臼村となる)189万坪の貸し下げが認められ、キリスト教義による理想農村とすべく「聖園農場」と名づけた。
本部は8間に5間の掘立小屋で、教会も兼ねていた。翌27年5月には、学校を兼ねた教会堂が建設された。
・坂本直寛の援助
明治31年9月の豪雨(注4)で教会堂は大破損、信者も家、畑を失い、離村者も出た。牧師も家を流され引き上げ、教会は危機に面した。
そのとき、教会を支援した人物が、坂本直寛。(注5) 「北海道キリスト教史」より明治35年、旭川講義所の伝道者となり、浦臼を離れた。
② インマヌエル村
・明治24年、京都同志社の学生・志方之善(組合教会派。妻は、日本初の女医荻野吟子)と丸山伝太郎は、瀬棚郡利別原野目名(当時は瀬棚村。のち明治30年、分村し利別村となる。昭和22年から今金町)に入植。この原野は犬養毅、尾崎行雄らが国民党の資金対策として農業経営を企図し、2035万坪の貸付を受けていた。志方は犬養と協議し、200町歩の代耕を許された。
・一方、聖公会派の天沼恒三郎(埼玉出身)も明治26年に入植し、この地をインマヌエル(「神、われとともに存す」という意味)と名づけた。昭和8年まで、利別村の字名だったが、「神丘」と改正。
・明治28年、聖公会派が草葺きの礼拝堂を建て、「利別教会」とする。
・明治31年、組合教会派が笹小屋の「インマヌエル教会」を建てた。
③ その他
・伊達に入植した伊達邦成も、開拓の難事業の精神的基盤をキリスト教に求め、邦成と家臣の田村顕允(あきまさ)は、函館の聖公会宣教師デニングについて入信受洗した。中でも田村は、も熱心なクリスチャンとなった。
<注>
1.内(1)国旅行日本名所図会・・副題に「Guide Book For Travellers Around Japan」とあるから、今日の旅行案内。
2.浦河組合基督教会・・「浦河組合基督公会」の「会堂」。「組合教会」は、会衆派教会(Congregational Church)系のキリスト教の一派。札幌農学校のクラークもこの派に属していた。
3.武市安哉(たけいちあんさい)・・弘化4年(1847)、高知藩士武市半平太の子に生まれる。板垣退助率いる自由党に入り、自由民権運動に参加。県議の時、禁固刑を受ける。明治25年衆議院議員。翌26年、「土佐百年の計を建てる時」と、代議士を辞職し、北海道拓地移民となる。明治27年、青函連絡船の船中で病死。46歳。
4.明治31年9月の豪雨・・9月6日~7日にかけて全道を襲った。特に石狩川流域は大きな被害が出た。死者248人、流失倒壊家屋3500戸余、田畑の浸水5万6000町歩。杉田定一北海道庁長官が上京し、国庫から災害復旧費・官営鉄道復旧工事費83万円を支出させた。
5.坂本直寛・・17歳で坂本龍馬の兄権平の養子となる。板垣の自由民権にも参加。明治28年、北見のキリスト教開拓団・北光社の社長となる。明治31年の大洪水では、青年時代に薫陶を受けた板垣内務大臣に救援金を要請。
<参考文献>
・「浦河赤心社開墾地会堂之図」(高倉新一郎著、「新しい道史43」所収、1971)
・「荻伏百年史」(荻伏百年史編さん委員会編、1983)
・「浦河百話」(「グルッペ21うらかわ」編、1991)
・「北海道キリスト教史」(福島恒雄著、日本基督教団出版局、1982)
・「北海道開拓の村 整備事業のあゆみ」(北海道開拓記念館刊、1992)
・「浦臼町史」(浦臼町史編さん委員会編、1967)
・「今金町史」(今金町役場編、1958)
・「今金町史上巻」(今金町史編集委員会編、1991)
・「新北海道史年表」(北海道編、1989)
・初代会堂は、明治17年12月27日落成。義援金344円余が集められ、梁行3間、桁行7間。(「荻伏百年史」)この初代「会堂」は、赤心社が子女の教育と社員・地域住民の修養を目的に建立。
・、「新北海道史」編集機関誌「新しい道史43」(昭和46年2月発行)の表紙となった銅版画。初代の「会堂」の珍しいもの。
・元の絵は、当時の旅行案内といえる「内国旅行日本名所図会」(注1)嵩山堂発行(=大阪市心斎橋筋博労町、明治22年11月)巻之五の挿画。
・銅版画・明治16年11月、手宮~幌内間の鉄道が開通し、北海道開拓はいよいよ本格化しようとしていた時期。一方、印刷界では、北海道でも銅版技術が普及しはじめた時期。
・実は、当時の荻伏の入植地の風景写真をモデルに銅版画に模写したもの。
・写真・銅版画の風景・・プラウ、ハローなど畜力農具の導入。大きな納屋など集団農場の風景。
2. 2代目の「会堂」と開拓の村に移転された「旧浦河公会会堂」
・開拓の村に移設復元された旧浦河公会会堂は、「明治27年に新しく建築された教会堂」(「北海道開拓の村整備事業のあゆみ」以下「あゆみ」)という。つまり、2代目の「会堂」。
① 2代目の「会堂」
明治27年に485円の寄付金で建築。の看板には「浦河組合基督教会」とある。
この建物を建てた組織が、「浦河組合基督公会」。明治19年(1886)6月26日設立された(設立者13名、受洗者18名)。明治31年(1898)に「元浦河組合基督教会」と改称された。
したがって、開拓の村の建物が、明治27年建設の建物の移設復元とすれば、建物の名称は正しくは、「旧浦河組合基督公会会堂」か、あるいは単に、「旧浦河組合基督教会」。
② 「浦河組合基督教会」の増築
昭和5年(1930)、「会堂」が2階建てに増築された。この建物が、昭和58年(1983)まで89年間、現地で使用されていた。
③ 開拓の村の収集・復元の経過
「あゆみ」によると、昭和53年(1978)3月21日の浦河沖地震で会堂は使用が危険な状態となり、「4月の総会で開拓の村移設を前提とした取壊しを決議し、寄贈の申し出を受けた」とある。解体収集工事は、昭和58年10月~11月。480万円。復元工事は昭和59年11月~60年3月。工事費2122万円。
④ 開拓の村移設の「旧浦河公会会堂」
2階建てであり、昭和5年の増築「会堂」の移設復元といえる。
3. キリスト教徒による北海道開拓
・「北海道キリスト教史」には、「開拓者によって生まれた教会」として、図
表を掲げている。そのうち、浦臼の「聖園農場」と、今金の「インマヌエル村」
に触れる。
① 聖園農場
・明治26年(1893)、高知の武市安哉(あんさい)(注3)が移民青年26名を率いて、当時の樺戸郡月形村ウラウスナイの札的川(サツテキナイ)周辺に入植。(明治32年に分村して浦臼村となる)189万坪の貸し下げが認められ、キリスト教義による理想農村とすべく「聖園農場」と名づけた。
本部は8間に5間の掘立小屋で、教会も兼ねていた。翌27年5月には、学校を兼ねた教会堂が建設された。
・坂本直寛の援助
明治31年9月の豪雨(注4)で教会堂は大破損、信者も家、畑を失い、離村者も出た。牧師も家を流され引き上げ、教会は危機に面した。
そのとき、教会を支援した人物が、坂本直寛。(注5) 「北海道キリスト教史」より明治35年、旭川講義所の伝道者となり、浦臼を離れた。
② インマヌエル村
・明治24年、京都同志社の学生・志方之善(組合教会派。妻は、日本初の女医荻野吟子)と丸山伝太郎は、瀬棚郡利別原野目名(当時は瀬棚村。のち明治30年、分村し利別村となる。昭和22年から今金町)に入植。この原野は犬養毅、尾崎行雄らが国民党の資金対策として農業経営を企図し、2035万坪の貸付を受けていた。志方は犬養と協議し、200町歩の代耕を許された。
・一方、聖公会派の天沼恒三郎(埼玉出身)も明治26年に入植し、この地をインマヌエル(「神、われとともに存す」という意味)と名づけた。昭和8年まで、利別村の字名だったが、「神丘」と改正。
・明治28年、聖公会派が草葺きの礼拝堂を建て、「利別教会」とする。
・明治31年、組合教会派が笹小屋の「インマヌエル教会」を建てた。
③ その他
・伊達に入植した伊達邦成も、開拓の難事業の精神的基盤をキリスト教に求め、邦成と家臣の田村顕允(あきまさ)は、函館の聖公会宣教師デニングについて入信受洗した。中でも田村は、も熱心なクリスチャンとなった。
<注>
1.内(1)国旅行日本名所図会・・副題に「Guide Book For Travellers Around Japan」とあるから、今日の旅行案内。
2.浦河組合基督教会・・「浦河組合基督公会」の「会堂」。「組合教会」は、会衆派教会(Congregational Church)系のキリスト教の一派。札幌農学校のクラークもこの派に属していた。
3.武市安哉(たけいちあんさい)・・弘化4年(1847)、高知藩士武市半平太の子に生まれる。板垣退助率いる自由党に入り、自由民権運動に参加。県議の時、禁固刑を受ける。明治25年衆議院議員。翌26年、「土佐百年の計を建てる時」と、代議士を辞職し、北海道拓地移民となる。明治27年、青函連絡船の船中で病死。46歳。
4.明治31年9月の豪雨・・9月6日~7日にかけて全道を襲った。特に石狩川流域は大きな被害が出た。死者248人、流失倒壊家屋3500戸余、田畑の浸水5万6000町歩。杉田定一北海道庁長官が上京し、国庫から災害復旧費・官営鉄道復旧工事費83万円を支出させた。
5.坂本直寛・・17歳で坂本龍馬の兄権平の養子となる。板垣の自由民権にも参加。明治28年、北見のキリスト教開拓団・北光社の社長となる。明治31年の大洪水では、青年時代に薫陶を受けた板垣内務大臣に救援金を要請。
<参考文献>
・「浦河赤心社開墾地会堂之図」(高倉新一郎著、「新しい道史43」所収、1971)
・「荻伏百年史」(荻伏百年史編さん委員会編、1983)
・「浦河百話」(「グルッペ21うらかわ」編、1991)
・「北海道キリスト教史」(福島恒雄著、日本基督教団出版局、1982)
・「北海道開拓の村 整備事業のあゆみ」(北海道開拓記念館刊、1992)
・「浦臼町史」(浦臼町史編さん委員会編、1967)
・「今金町史」(今金町役場編、1958)
・「今金町史上巻」(今金町史編集委員会編、1991)
・「新北海道史年表」(北海道編、1989)