森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

蝦夷地見込書秘書

9月『秘書注』

(72-1)「気随(きずい)」・・自分の気持、気分のままにふるまうこと。また、そのさま。気まま。

(71-5)<決まり字>「寒気」の「寒」のくずし字・・冠部分が「う」、脚部分が「を」のようになる。

(71-5)「広野(こうや)」・・ひろびろとした野原。テキスト影印は「広」の旧字体の「廣」。

 「広野」と言う場合、「曠野」を使うことが多い。

(72-10)「江ナカイ」・・テキスト影印は、「ヲロツコ人共江」と、「江」に見えるが、「江」は、「ト」で、「トナカイ」か。

(72-10)「手染」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は。「染」を「馴」とし、「手馴」としている。

(73-5)「欠隔(かけへだて)」・・ここは、「かけへだて」で、「欠」は、「懸(かけ)」の当て字か。

(73-6)「自儘(じまま)」・・自分の思うままにすること。思い通りにすること。また、そのさま。わがまま。気まま。身勝手

(73-7)「当年(とうねん・ことし)」・・ことし。今年。本年。

(73-10)「承引(しょういん)」・・承知して引き受けること。承知すること。承諾すること。聞き入れること。

(73-11)「致来(いたしきたり)」・・してきたこと。伝えてきたこと。しきたり。

 

 

(74-3)<見せ消ち>「当人」→「番人」・・「当」の左に、見せ消ち記号の「ヒ」があり、右に「番」と訂正している。

(74-3) <決まり字>「任置(まかせおき)」の「任」・・旁の「壬」が、「己」のようになる。

 (74-3)「所業(しょぎょう・しょごう・しわざ)」・・行なう事柄。多く、好ましくない行為にいう。しわざ。

(74-4)「気請(きうけ・きしょう)」・・「請」は、「受」の当て字なら、「気受(きうけ)」、「性」の当て字なら「気性」。意味は「気質。気だて」。

(74-5)「コタンケシ」・・カラフト東海岸のタライカ湾西部の地名。日本名「古丹岸」「古丹消」

(74-7)「ニイトイ川」・・日本名新問川。『樺太の地名』(葛西猛千代他共著 第一書房 1930)に「新問川はエストル山の北方、西樺太山中に発し南東より湾曲して、ノテト岬の南方より湾に注ぐ、長さ二十里、南は知取(シリトル)、北は内路に接す」とある。

(75-3)「麁絵図(そえず)」・・江戸時代、願・届書などに添えて提出する粗末な絵図・見取図・略図の類。

 <漢字の話>「麁」・・「麤」の俗字。「麤」は、あらい、そまつの意味。解字は「鹿」+「鹿」+「鹿」で、しかの群は羊のように密集しないところから、遠くはなれる、あらいの意味を表す。なお、「群」の部首も「羊」で、むらがるひつじの意味をあらわす。

(75-5)「寅八月」・・嘉永7年(=安政元年)1854年。

(75-6)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員五〇人。小人横目。

(75-7)「松岡徳次郎」・・松岡徳次郎」・・安政元年(1854)、堀・村垣の蝦夷地巡見に随行し、間宮鉄次郎と共に、北蝦夷地(カラフト)の東海岸を見分。のち、安政元年(1854)閏七月箱館奉行所調役下役、同3年(1856)同支配勘定格、文久3年(1663)同調役並、慶応2年(1866)同調役に進んだ。(『江戸幕臣人名事典(新人物往来社)』、『慶応二年履歴短冊(道立文書館蔵)』)

8月学習『秘書注』 

(68-1)(71-6)「シレトコ崎」・・北知床岬。(まま)」・・そういつもというわけではないが、どうかすると時々出現するさまを表わす語。おりおり。たまたま。往々。

(68-3)「穴居(けっきょ)」・・原始あるいは古代社会において、自然の洞穴や、竪穴をうがちその上に簡単な覆屋を設けて住む風習があり、これに対して用いられた呼称である。

(68-4)「木陰(こかげ)」・・木のかげ。樹木の幹や枝葉のかげになっているところ。

 *「木陰(こさ)」・・木陰が多くて耕作に不向きな土地。

 *「木陰引(こさひき)」・・江戸時代、往来の並木や砂除(すなよけ)林、魚附(うおつけ)林などの陰になったり、山や高いがけの日陰になったりして、作物のできのわるい田畑の年貢を減免すること。木蔭引(こかげひき)。

 *「木陰払(こさはらい)」・・田畑の日当たりをよくするためにこさを伐ること。関東には屋敷林が多いので、田畑の所有者の日照権を守るため、こさを伐らせるか陰代として料金を取ることを認めていた。

 *「木陰(こかげ)に臥(ふ)す者は枝を手折(たお)らず」・・なさけをかけてくれた人に対しては、害を加えないのが人情であるということのたとえ。

 (「韓詩外伝‐二」の「食其食者不毀其器、陰其樹者不折其枝」による)

(68-4)<漢字の話>「陰」の「木」・・①「き」の語源説が面白いので紹介する。

 (1)イキ(生)の上略〔日本釈名・名言通・和訓栞・言葉の根しらべ=鈴江潔子・国語の語根とその分類=大島正健・大言海〕。

(2)ケ(毛)の転。素戔嗚尊の投げた毛が木になったという伝説から〔円珠庵雑記〕。木は大地の毛髪であるところからか〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。

(3)キ(黄)の義〔言元梯〕。

(4)草がクサクサとして別ち難いのに対し、木はキッと立ち、松は松、梅は梅とキハマルところから〔本朝辞源=宇田甘冥〕。

(5)ツチキ(土精気)の上略で、キムシ(地気生)の義〔日本語原学=林甕臣〕。

(6)キリ(切)、またはコリ(樵)の反〔名語記〕。

(7)五行相剋の説では、金剋木といって木は金にキラルルところから〔和句解〕。

(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

➁「木」はテキストのように、複合語の場合、語頭では「こ」と変化することがある。

「木漏(こもれ)れ日」「木霊(こだま)」「木(こ)っ端(ぱ)」「小梢(こずえ)」「木立(こだち)」「木花開耶姫(このはなのさくやひめ)」

(68-56)「山丹切(さんたんぎれ)」・・黒龍江下流に住む山靼人と、樺太アイヌ・北海道宗谷アイヌとが交易し、その際に伝わった中国(明末清初頃)産の錦。蝦夷錦(えぞにしき)。

(68-6)「きせる」・・キセル。({カンボジア}khsier 「管」の意)管の一端に刻みタバコをつめて火をつけ、他端の吸口からその煙を吸う道具。両端が金属、途中が竹でできている物が多い。タバコをつめる口を火皿、火皿のついた湾曲している部分全体を雁首(がんくび)、雁首と吸口の中間の管を羅宇(ラウ)と呼ぶ。キセリ。キセロ。キセル筒。

 日本に慶長(15961615)頃に伝来したとされるが、以降、慶長初期に流行した火皿の大きな河骨型(こうぼねがた)と呼ばれるもの、元和・寛永(16151644)頃に遊侠の徒が護身用に用いた鉄製の長い「喧嘩煙管」など、時代によりさまざまな形のものがある。「俳諧・毛吹草‐四」には、近江水口、肥後隈本などの名産としてキセルが挙げられており、近世初期にはかなり普及していたことが知られる。

(70-2)「ニクフン人」・・ギリヤーク人。樺太北部およびその対岸黒竜江の最下流域に分布している民族。1897年の人口4650人中、1971人が樺太に居住していた。樺太の原住民は北部のギリヤーク、中部東岸のオロッコ、南部のアイヌであるが、1959年のその総人口人中、ギリヤークが人を占めている(アイヌは人で、ほぼ同数が第二次世界大戦後、北海道に引き揚げた)。ギリヤークは黒竜江の下流域を本居としていたが、満洲化したゴルジの圧迫で、漸次河口方面に追いつめられ、その一部が樺太の北部に移住したものと推測される。ギリヤークはロシア人の称呼で、キーレン語のGilekkoの転訛、中国人のいう乞烈賓・乞列迷・吉烈迷・済勒弥はゴルジの称呼Gillemiの音訳、別にFiyakaとも呼び費牙喀などと音訳、アイヌはスメレングルと称した。ギリヤークの自称族名はニクブン(樺太)もしくはニバフ(大陸)である。皮膚は黄褐色、顔貌は蒙古型で丸くて扁平、頭髪は直毛で黒色、髭が多い。人種・言語の系統は不明で、古アジア族の一つとされている。夏は校倉式に丸太を組み立ててつくった小屋を、冬は竪穴を住居としていた。氏族制をもち、族外婚規制がまもられている。漁業をもっぱらとし、冬はわずかに狩猟をしていたが、いまはオロッコとともに、トナカイ=コルホーズの組織をつくっている。文化5(1808)に樺太と黒竜江下流域を探検した間宮林蔵の『北蝦夷図説』四(スメレンクル)は最古のギリヤーク民族誌で、記述もくわしい。

(70-3)「泝(さかのぼ)り」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<〔説文〕十一上に泝を正字とし、重文として遡を出しているが、二形ともに行われており、ただ慣用を異にするところがある。水流にさかのぼるときには泝を用いるが、時間的にさかのぼるばあい、たとえば法律の効力がその発布以前にさかのぼって及ぶようなときには遡及といい、泝は用いない。>とある。

(70-4)「ロモウ川」・・現トゥイミ川。北カラフト最大の川。「ロモウ」は「ロゴウ」か。ロゴウはカラフト北部東海岸の地名。旧日本名は呂郷。

(70-10)「アラコイ」・・カラフト北部西海岸の地名。北緯51度付近。旧日本名は荒子井。

 「北蝦夷地西浦クシユンナイよりナツコまで足軽廻浦為致候行程荒増申上候書付」(東京大学史料編纂所刊『大日本古文書 幕末外国関係文書の十四』)の「アラコイ」の項に 

 「オツチシより凡弐里半 此処スメレンクル家七軒あり、大川有、川口弐拾間余、川上7七八十権間位もあるよし、小石地ニ而、奥山遠く青木立、是より山道越ニ而タライカナイ江凡弐拾六七日の里程なるよし」とる。

(71-2)<くずし字>「互に」の「互」・・「楽」「閑」と類似しているので、文脈から判断する。 

(71-6)「シレトコ崎」・・北知床岬。南樺太の北東部から南南東に向けて突出する半島、またその南端の岬。旧称シンノシレトコ(真知床)岬。ロシア連邦ではサハリン州に属し、テルペニヤ岬Мыс Терпения/Ms Terpeniyaとよぶ。東北山脈の延長にあたり、半島は長さ約70キロメートル。幅約5キロメートルの地峡をもつ。この岬により、オホーツク海と多来加(たらいか)湾(テルペニヤ湾)を分ける。低平な丘陵の半島で、樺太島の東端(東経14440分)にあたる。半島の東岸は寒流の勢力に強く影響されて6月まで流氷があり、7月の平均気温はわずか10℃。岬の沖合いには海豹(かいひょう)島(チュレーニー島)がある。文化6(1809)間宮林蔵(まみやりんぞう)はこの岬まで探検にきて引き返している。

 

7月学習『秘書注』  

(64-1)「廻浦(かいほ)」・・海岸をめぐること。

 *<漢字の話>「浦」と「津」・・「浦」は、海岸。「津」は港。「津々浦々」は、和製4字熟語。

(64-3)「御普請役(ごふしんやく)」・・江戸幕府の職名。享保九年(一七二四)に勘定奉行支配御普請役として新設。東海道五川、一五か国の幕府領の堤、川除(かわよけ)、用水などの普請箇所の検分・修築、新田の検分などをつかさどったもの。勘定所詰御普請役は諸国臨時御用などを勤めた。→

(64-3)「間宮鉄次郎」・・安政元年(1854)、堀・村垣に従い蝦夷地に出張し、カラフトに渡り、東海岸を巡視した。のち、箱館奉行支配調役下役となり、同3(1856)調役並、万延元年(1860)調役に進んだ。

(64-4)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員五〇人。小人横目。

(64-5)「弁利(べんり)」・・便利。都合。

(64-7)「トンナイチヤ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名富内。頓内茶、屯内茶とも。

(64-7)「シユマヤ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名島矢。栄浜の北にある。なお、トンナイチヤとシユマヤ間は「凡廿里余」とあるが、『南樺太全図』の航路を計算すると約19里。

(64-89)「シラヽヲロ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名白浦。シユマヤ~シラヽヲロ間は、約13里。

(64-9)「砂素浜(すなすはま・すなすわま)」・・砂洲浜。「素浜」は、洲浜。「洲浜」は、浜辺の入りこんだところ。水の湾入したなぎさ。州が出入りしている海岸。

(64-11)「ナイブツ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名内淵。本書の間宮、松岡らの巡検に先立つこと53年、享和元年(1801)、カラフト島検分を命じられた幕吏・中村小一郎は東海岸を内淵まで検分した。

(64-11)「タライカ」・・日本名多来加。南樺太北部東岸、北知床(テルペニヤ)岬と野手戸(のてと)(ソイモノフ)岬との間を占め、南に大きく開ける湾。海岸は美しい弧状をなし、出入りに乏しい。北から幌内川が注ぐ。湾奥に砂嘴によって隔てられた潟湖である多来加湖(ネフスコエ湖、面積180平方キロメートル)を抱く。湾岸周辺は泥炭地および凍土帯となる。第二次世界大戦前には内路(ないろ)、散江(ちりえ)などの漁村があり、沿岸はサケ、マスの漁場となっていた。中心都市は敷香(しくか)であった。

(65-1)「往返(おうへん)」・・行き来。往来。往復。

(65-1)「縁辺(えんぺん)」・・ゆかりある人。縁続きの人。縁家。

(66-7)「相対(あいたい)」・・対等であること。対等で事をなすこと。

(67-2)「平日(へいじつ)」・・ふだん。平生。平素。

(67-3)「シウカ」・・シスカか。日本名敷香。南樺太北部東岸の地名。多来加湾西部に位置する。

(67-34)「ホロナイ川」・・幌内川。北カラフトに源を発し、北緯50度からから南樺太に入り、多来加湖の西側を流れ、多来加湾へ注ぐ。長さ320kmは利根川に匹敵する長さを誇り、樺太の日本統治時代の当時は日本唯一の国際河川として知られていた。

(67-4)「タナンコタン川」・・「タナンコタン」は、日本名多蘭。多蘭川は、幌内川下流で、幌内川から分流し、多来加湖西部を流れ、多来加湾に注ぐ。

(67-5)「野鄙(やひ)」・・下品でいやしいこと。

(67-10)「容貌(ようぼう)」・・テキスト影印の「㒵」は「貌」の異体字(俗字)。なお「皃」は同字。テキスト翻刻の凡例に「異体字は正字に直す」としたので、本注記の見出しも同様にする。

5月学習『秘書注』 

                

(61-4)「其村々江」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「江」に「よりカ」と傍注している。

(61-5)「而巳(のみ)」・・漢文訓読の当て字。「のみ」は、「~にすぎない」「~だけだ」という限定を表すだけでなく、強く言い切る漢文訓読文で用いられる。したがって、テキスト文章の「人別相届候而巳」は、「人別を届けだけ」というより、「人別を届けたのである」と強調の意味に解すべきであろう。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「のみ」の語誌に、

<漢文における文末助辞「而巳」が限定・決定・強調に用いられ、日本語の副助詞「のみ」の用法に近いため、訓読文において文末の「而巳」字を「のみ」と必ず訓じるようになり、意味も「限定」という論理性が薄れ、「強く言い切る」という情意性を表わすようになった。>とある。

古田島洋介氏は、漢文表現の「のみ」について、<「のみ」をひたすら限定と考え、「~にすぎない」「または「~だけだ」と訳そうとすると、否定的な意味合いに傾き、語感を取り違える危険性がある。時として「のみ」が強調の意にもなることを念頭に置いて、「~なのである」をも用意し、さらには限定と強調を兼ねた響きを持つ「~ばかりである」あるいは「~にほかならない」なども手駒に加えておくのが無難だろう、訓読表現の「のみ」は、日本語の「のみ」よりも意味の範囲が広いのである」(『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』吉川弘文館 2013)と述べている。

(61-7)<見せ消ち>「ウ子」→「字」・・「ウ」と「子」の左に「ヒ」のような記号がある。これは見せ消ちの記号で、「ウ」「子」を消し、右に「字」と訂正している。写した原本の「字」の冠の「ウ」と脚の「子」が、離れていたのか。

 (61-7)「チヨーメン」・・黒龍江河口右岸の港。

(61-8)「ナツコ」・・北樺太の地名。北緯52度の南。山丹への渡り口。『足軽書付』の「ナツコ」の項には、「満州地方僅ニ壱里半位ニ見ゆる。此処ニ而交易之為メ渡来の山丹人に逢ふ」とある。

 下は、中村小市郎著『樺太雑記』(『犀川会資料』所収 北海道出版企画センター刊 1982)より

 (62-1)「髪薄く」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「髪薄く」の「髪」を「鬚」とし、「鬚薄く」とある。

(62-1)「弁髪(べんぱつ)」・・男の結髪の一種で、頭髪の周囲は剃って、中央に残った髪を編んで長く後ろに垂らしたもの。もと満州人の習俗であったが、清朝時代には中国全域に行なわれた。

(62-2)「衣裾(いきょ)」・・きもののすそ。

(62-4)「耳かね」・・耳金。耳につける金属製の装飾品。耳輪、耳鎖の類。

(62-4)「姿容(しよう・すがたかたち)」・・すがたかたち。みめかたち。容姿。

(62-5)「温柔(おんじゅう)」・・人柄がおだやかで、すなおなこと。また、そのさま。やさしくて、人にさからわないさま。温順。

(62-5)「男子」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「男」に「女カ」と傍注している。

(62-5)「幼稚」・・幼児。「幼」も「稚」も小さいの意。なお「稚」の旁の「隹」は「小さい鳥」の意で、「隹」(ふるとり)」として部首になっている。「隹」には、「雀」「隼」「雛」などがある。

 *晋・陶潜〔帰去来の辞、序〕

  余家貧、耕植不足以自給  余(われ)、家貧しく、耕植するも以て自ら給するに足らず。

幼稚盈室、瓶無儲粟    幼稚、室に盈(み)ち、瓶(かめ)に儲粟(ちょぞく)     

無し。

(62-6)「口吻」・・

(62-5)「手甲(てっこう・てこう・てっこ)」・・手の甲(こう)。手の表面。てこう。

(62-6)「文字」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「字」に「身カ」と傍注している。「文身(ぶんしん)」は、手の甲(こう)。手の表面。てこう。

(62-8)「闘諍(とうそう)」・・いさかい。

(62-8)「家居(かきょ・いえい)」・・すまい。家。

(62-9)「睍(のぞ)き」・・覗き窓。影印は「睍」だが、ふつうは「覗」を使う。

(62-10)「婚(こん)」・・旁の昏は昏夕(ゆうべ)。その時刻より婚儀が行われた。

『秘書』4月注記



(57-2)「チヤンヌリ」・・チャン(瀝青)塗り。語源説に、①英語chianturpentine の略か〔大言海〕。②「青」の音tsin から〔外来語辞典=荒川惣兵衛〕。がある。なお、「瀝青」は、樹木、泥炭、褐炭などから、ベンゼンなどの有機溶剤で抽出される有機物質の総称

(57-4)「又(また)」・・接続詞。並びに。

(57-4)「重立(おもだち)」・・「重立つ」の連用形。集団の中で主要な人物である。中心になる。かしらだつ。

(57-9)「麁絵図(あらえず・そえず)」・・江戸時代、願・届書などに添えて提出する粗末な絵図・見取図・略図の類。「麁」は、「麤」の俗字。

(57-9)「アツサム」・・ロシア沿海州の集落。享和元年(1801)、幕吏中村小市郎がカラフトを調査の折、山丹人らに尋ねた記録『唐松の根』には、アムール河下流地方の地図があり、「アツシヤム。家四軒。山丹人躰にて言語、夷人山丹と交る。」と記載されている。

(58-1)「大湾(だいわん・おおわん)」・・インペラートルスカヤ湾か、またはデ・カストリ湾か。ロシヤ海軍少佐ネヴィスコイは、嘉永6(1853)、アムール河下流地方と沿海州進出を図り、部下のポシニャークは、タタール海峡沿岸を調査し、北緯49度附近でインペラートル湾を発見、ネヴィスコイはここに、哨所を設置し、当時のロシヤ皇帝ニコライ1世の息子コンスタンティンにちなみ、コンスタンティン・ニコラエヴィッチ大公哨所と名付けた。デ・カストリ湾に設けた哨所は、アレクサンドル哨所。

 *ロシアの東方進出

 1547年イヴァン4世(雷帝)初めて公式に全ロシアのツアー(皇帝)と称す。

1553年カザン・ハン国を攻略、ついで1556年アストラカン・カン国を併合し、ヴォルガ流域を制圧。

・商人とコサックは毛皮を求めて東進。ロシアは、城塞を建て、毛皮税を取立てる。

1601年にトムスク、1628年にクライノヤルスクを建設。1632年レナ川を渡り、ヤクールクを開く。

1639年にはコサックはオホ-ツク海に達した。

1697年、コサック隊長アトラーソフは、カムチャッカ西岸で漂流民デンベイ(伝兵衛)を発見、モスクワへ送還。

1738年、ロシア探検隊のシパンベルク、ウルップ沖に来る。

 ・1767年、コサックのチョールヌイフ、エトロフに至り、アイヌ人に毛皮税を課す。

 1782(天明2)、大黒屋光太夫、アムチトカ島に漂着、クルクーツクでラクスマンに会い、首都ペテルブルクへ連行。エカチャリーナ女帝に拝謁。

 ・1792年(寛政4年)エカチェリーナ2世号、根室に入津。

 ・1804年(文化元年)レザノフ、長崎に来航、通商を求める。

 ・180607(文化34年)、フヴォストフらクシュンコタン、エロトフ島を襲撃。

 ・1811年(文化8年)、ゴローニン、エトリフで補縛される。

(58-1)「構塞(こうさい)」・・とりでを構えること。「塞」は、辺境のとりで。ここでは、コンスタンティン・ニコラエヴィッチ大公哨所か。

(58-5)「所住(しょじゅう)」・・住んでいる場所。住所

(58-8)「被打潰(うちつぶされ)」・・攻め滅ぼされ。

(58-8)「当時(とうじ)」・・現在。

(58-8~9)「マンコ川口より二日路先、字メヲと申所江魯西亜より構塞」・・嘉永6(1853)にネヴィスコイが設置したニコライ哨所をさすか。

 *アムール川下流域・沿海州をめぐる清国とロシヤの国境問題略史

  ・ネルチンスク条約・・16898月(和暦では元禄2年)、アルール川上流のネルチンスクでアムール川上流域の清露の国境画定。西部国境はアルグン河とゴルヴィツァ河を国境とする。東方では、外興安嶺(こうあんれい・スタノヴィ山脈)に続き、その山嶺から南方のアムール河に流入する河川はすべて清国領となった。しかし、東辺地方は未定とされた。

   清国はアムール河からのロシア人を駆逐し、この地方に対する影響力を決定的にした。ギリヤークなど、アムール河下流域の住民も清国に対する朝貢関係に入った。

 *アイグン条約・・1858年に清とロシアが中国黒竜江省北部のアイグン(愛琿)で結んだ条約。ロシアはクリミア戦争を機とし、清領のアムール川を航行し、沿岸に植民していたが、アロー戦争が起こると、黒竜江を自領とするために、ネルチンスク条約の未決定境界の条項を利用し、清側に圧力を加え、条約を結んだ。要点は、(1)黒竜江左岸はロシア領、黒竜江右岸は、烏蘇里江(ウスリー川)以西を清領、同江以東、海までの地を両国の共同管理とする。(2)黒竜江左岸の満州人集落は清国が管轄

する。というもの。

 *北京条約・・1860年。アイグン条約で、国境確定まで両国で共有することとされていたウスリー川以東の沿海地方をロシア領とすること。

(58-11)<変体仮名>「離散のため」の「た(堂)」・・「堂」を「た」と読みのは、「堂」の歴史的仮名遣いが「タウ」であるため。

 その外に、頻出する変体仮名で歴史的仮名遣いによる読みの例をあげる。

 ・「当(タウ)」→「た」                

・「良(ラウ)」→「ら」

・「王(ワウ)」→「わ」

・「遠(ヲン)」→「を」

・「越(ヲツ・ヲチ)」→「を」

(58-11)「官府(かんぷ)」・・官庁。役所。当時の清の首都は北京。

(58-11~59-1)「其後争戦を初め候」・・黒龍江を挿んで、清国とロシアの争いの噂。1854年(安政元年)ロシア軍は黒龍江の北を占領した。

(59-2)「王后(おうこう)」・・「后」は、「天子。君主。」(『角川漢和中辞典』)「満州」は、「清の故土」。満州を統治していたのは単なる「諸侯」ではなく、愛新覚羅の一族(男性皇族)。それで、「満州王后」とした。

 当時の王后は、清国九代愛新覚羅奕詝(アイシンギョロ・イジュ)=咸豊帝(かんぽうてい)

(59-2割書右)「后惣大将」・・『大日本古文書 幕末外交文書第8巻』所収の「北蝦夷地ホロコタンより奥地見分風説書」には、「后」を「後」とし、「後惣大将」としている。

(59-2割書左)「由ニ而」・・『廻浦録』は、「而」を「候」とし、「由ニ候」とある。

(59-7)「アテンキ」・・『今井八九郎北地里数取調書』には、「アテンキ 一里半位 此所小川 スメレンクル家五軒有。但小沢砂地高山大木有。シメレンクルの男女五十七人之由」とある。

(59-8~9)「露西亜人、北蝦夷地内クシユンコタン江塞柵」・・嘉永6(1853)9月、ロシア海軍大佐ネヴェスコイがクシユンコタンに構築したいわゆるムラビヨフ哨所。

(59-9)「塞柵(さいさく)」・・「塞」も「柵」もとりで。

(59-9)「混雑(こんざつ)」・・ごたごたすること。もめること。

(59-9)「命之由」・・『廻浦録』は、「之」を「候」とし、「命候由」とある。

(59-11)「ヲツノ□」・・『今井八九郎北地里数取調書』には、「ヲツチシ 弐里半 此所夷小屋一軒有。但平地砂浜大沼大川有。川口六十間位、岩崎沖ニ高き岩有。当所よりロモーへ山越」とある。

(59-11割書右)「□里位」・・「里」の前の字が虫食い状態で読めないが、『廻浦録』は「六」とある。

(60-2)「木品(きしな・もくひん)」・・木の品質。木目。

(60-4)「山根」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)には、「山脇」とある。

(60-10)「姿」・・『廻浦録』には、「恣」とある。

(60-10~11)「貸遣ひ」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」には、「貸」を「借」とし、「借遣ひ」とある。

(60-11)「自侭(じまま)」・・自分の思うままにすること。思い通りにすること。また、そのさま。わがまま。気まま。身勝手。

3月学習『秘書注』 

(52-1)「通弁(つうべん)」・・「つうやく(通訳)」の古い言い方。

(52-3)「相弁(あいべんじ)」・・「弁ずる」は、わきまえる。

(52-4及び7)<くずし字>「候哉」「可相成哉」の「哉」・・「口」の部分が、「ノ」のように書かれる場合がある。

(52-7)「見合(みあい・みあわせ)」・・対応。検討。

(52-7)「談判(だんぱん)」・・かけあい。

(53-1)「水野正左衛門」・・村垣に随行した評定所留役。水野に先発して安政元年(1854)229日江戸を出発。西蝦夷地、カラフトを巡見し、帰途同年閏717日、クスリで死亡している。

(53-3)「旬季(じゅんき)」・・順当な気候。順当な季節。

(53-5)「今井八九郎」・・松前藩士。

(53-6)「廻浦(かいほ)」・・内陸未開拓の時期の蝦夷地では、海岸沿いに諸役人などが巡回・視察する意味に使われた。

 *<漢字の話>「浦」・・①元来中国では、川のほとりの意味。②わが国で、陸地に入り込んだ所、入り江を意味する「うら」に「浦」を当てた。「うら」の語源説には、

・ウラ(裏)の義。外海の表に対し、内海の意〔箋注和名抄・名言通・大言海〕。

 ・ウはウミ(海)、ラはカタハラ(傍)から〔和句解・日本釈名〕。

 ・ウラ(海等)の義〔桑家漢語抄〕。

・ウはワタツの約。ウラはワタツラナリ(海連)の義〔和訓集説〕。

など、海と関連づけるものが多い。

③全国いたるところを意味する「津々浦々」は、海に囲まれた日本製の四字熟語。

(53-7)「風説書(ふうせつがき)」・・各地の風説を報告した文書。特に、限定して、江戸時代、幕府に提出された、長崎貿易を通じて得られた海外情報などの報告書をいう。オランダ商館長からのものを「オランダ風説書」、唐船からの情報は「唐船風説書」とよばれた。

(53-9)絵図(あらえず)」・・大まかな絵図。影印の「麁」は、「麤」の俗字。「麤」の解字は、「鹿」+「鹿」+「鹿」。しかの群は羊のように密集しないところから、遠くはなれる。あらいの意味をあらわす。

(53-9)「上川伝一郎」・・村垣配下の支配勘定。カラフト巡見の際は、堀・村垣の命を受け、西海岸をホロコタンの先まで見分し、さらに、伝一郎に付き添って行った松前藩士今井八九郎は、進んでナツコに至った。

(54-8)「時日(じじつ)」・・ひにちと時間。何日かの期間。日数。

(54-8)「相後(あいおく)レ」・・時間が遅くなる。「おくれる」は、広く「遅れる」と書く。

 *「汽車が四十分程後(おく)れたのだから、もう十時は過(まわ)っている」(漱石『三四郎』)

(54-8)「分間(ぶんかん・ぶんけん)」・・測量。

(54-11)「バンケ」・・今井八九郎の『北地里数取調書』(北海道立文書館蔵)には、「ハンケヱンルモ」とあり、「山丹人当所よりワシフンサキ迄渡海之所也」とある。

(56-2)「一昨亥年(いっさくいどし)」・・嘉永4(1851)

(56-2)「秋秋」・・「秋」がひとつ重複している。

(56-3)「住所」・・「住」は、「同」で「同所」が本来か。

(56-3)「昨子年(さくねどし)」・・嘉永5(1852)

(56-3)「砌(みぎり)」・・あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。土源説に、「そのころの意を其の左右(ゆんでめて)というところからミギリ(右)の義か」がある。

(56-4)「時化(しけ)」・・動詞「しける(時化)」の連用形の名詞化。海で暴風雨が続くこと。海が荒れること。「時化」と訓じるのは、当て字。

 *<漢字の話>「時」・・「し」と読むのは呉音。「時化(しけ)」のほか、「時雨(しぐれ)」がある。

(56-8)「潮勢(ちょうせい)」・・潮の押し寄せる勢い。潮流の勢い。

(56-11)「菩提(ぼだい)」・・梵語bodhi の音訳。道・智・覚と訳す。仏語。

(1)世俗の迷いを離れ、煩悩を断って得られたさとりの智慧。

 (2)死後の冥福。

(56-11)「卒塔姿(そとば・そとうば)」・・梵語stu-paの音訳。頭の頂、髪の房などの義。高顕処・方墳・円塚・霊廟などと訳す。仏語。卒都婆、率都婆などを当てる。

(1)仏舎利の安置や、供養・報恩をしたりするために、土石や(せん)を積み、あるいは木材を組み合わせて造った築造物。塔。塔婆。卒都婆標。そとうば。

 (2)転じて、供養のため墓のうしろに立てる細長い板。上部は五輪卒都婆の形をしており、梵字、経文などが記されている。塔婆。

2月学習『秘書注』  

(48-1)「勘定吟味役下役(かんじょうぎんみやくしたやく)」・・勘定吟味役配下の役職。高500石、役料300俵。勘定吟味役の配下には、勘定吟味方改役(7名、役高150俵で役扶持10人扶持)、その下に、勘定吟味方改役並(5名、役高百俵、持扶持勤めで役扶持七人扶持)、さらに勘定吟味方下役(10名、持高、勤めで役扶持3人扶持)をそれぞれ設けた。

 *勘定吟味役

・設置と改廃止・・天和2年(1682)創置。元禄12年(1699)ひとたび廃止された.正徳2年(1712)新井白石の建議に基づき再置。ついで享保年中(1171636)増員され、以後おおむね四~六名が常置されて慶応3年(1867)に至り廃止された。

・職務・・職務は勘定所での金穀の出納、封地の分与、幕領年貢の徴収と郡代・代官の勤怠、金銀の改鋳、争界の訴訟など一切の監査である。さらに勘定奉行とその属吏に不正があれば直ちに老中に開陳する権限があった。

(48-1)「出役(しゅつやく)」・・江戸幕府の職制。他の役職を兼役する場合の職名。出役には役料が与えられ、兼務する役職の常勤になる場合があり、出役から昇進する例もある。

(48-1)「長谷川就作」・・『蝦夷紀行』には、勘定吟味役村垣範正の配下の勘定吟味方改役下役として「長谷川周作」の名がある。

(48-1)「御普請役」・・江戸幕府の職名。享保9年(1724)に勘定奉行支配御普請役として新設。関東諸河川・用水の御普請を担当した。宝暦3年(1753)からは勘定奉行支配となった。勘定所詰御普請役は諸国臨時御用などを勤めた。

(48-2)「代(かわ)り」・・代り役。ある人の役目を、他の人がつとめること。また、その人。だいやく。

(48-2)「福岡金吾」・・『蝦夷日記』には、勘定吟味役村垣範正の配下の天文方に「福岡金吾」の名がある。

(48-2)「津田十一郎」・・『蝦夷日記』には、勘定吟味役村垣範正の配下の天文方に「福岡金吾」の名がある。津田も、この時期、御普請役代り役だったか。

(48-2)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員50人。小人横目。

(48-2)「藤田幸蔵」・・『蝦夷日記』には、目付堀織部の配下に「藤田幸蔵」の名がある。

(48-5)「シヨウニ岬」・・シラヌシの北、カラフト南西部の野登呂半島にある地名。日本名「宋仁」を当てる。

(48-9)「イサラ」・・カラフト西海岸中部の地名。コタンウトロの北。日本名「伊皿」。「北蝦夷地西浦クシユンナイよりナツコまで足軽廻浦為致候行程荒増申上候書付」(東京大学史料編纂所刊『大日本古文書 幕末外国関係文書の十四』・以下『足軽書付』)には、「ウチヤラナイ」とあり、「此所川有、巾三間、石地、山は雑立木、小岬有、波立之節は通行成かたし」とある。

(48-10)「チトカンベ」・・カラフト西海岸中部の地名。『足軽書付』には、「チトカンヘシ」とあり、「此所出崎、嶮崖通行難相成、山道有、又滝抔有之、絶景奇岩有り」とある。

(49-5)<見せ消ち>・・「より」の左に、見せ消ちの記号「ヒ」が二つあり、右に「江」と訂正してある。ここは、「より」は誤りで読まない。「ライチシカ辺より」でなく、「ライチシカ江」と読む。

(49-6)「湖辺より北之方コタンウトロ」・・「湖」は、「ライチシカ湖」。「北之方」とあるが、『足軽書付』

を計算すると「コタンウトロ」より、6里半ほど北にある。

(49-9)「当時」・・現今。ただいま。当節。

(49-10)「故土(こど)」・・生まれ育った土地。故郷。郷土。

(50-5)「聳へ」・・文語体では、ヤ行下二段動詞「聳ゆ」の連用形は、「聳え」。「聳へ」なら、終止形は、

ハ行の「聳ふ」だが、そういう言葉はない。文語調では、ここは、「へ」は「え」で、「聳え」が本

来。

(50-6)「天度(てんど)」・・緯度。



(50-7)「ホコラ」・・『足軽書付』の「ホコラニ」の項に、「此処スメレンクル家三軒有、川有巾凡弐間、砂浜石地も少々有之、高山青木立」とある。なお、テキストP51には、「ホコラニ」とある。また、『足軽書付』の順路は、キトウシとホコラニが逆になっており、ホコラニの方が、南、つまり、ホロコタンよりである。

(51-2)「キトウシ」・・『足軽書付』の「キトウシ」の項に、「此処川有、巾三間、鱒漁多シ、スメルンクル家弐軒有、砂浜連山青木立、別而高キ大山有、ライチシカよりナツコ迄最一ノ高山ニ而、頂草生、其形リイシリ山之如シ」とある。

(51-4)「薙髪(ていはつ・ちはつ)」・・髪を剃る。剃髪。

(51-5)「乾隆の小銭」・・「乾隆」は、中国清朝6代皇帝乾隆帝在位(1711~1799)の時代。「小銭」とは、「制銭―つまり清朝が正規に発行した銅銭―以外の品質の悪い銅銭」(黨武彦著「乾隆末年における小銭問題について」=『九州大学東洋詩論集312003=)

(51-8)「するどき」・・形容詞「鋭(するど)し」の連体形。「鋭し」は、勇ましくてつよい。精鋭である。

(51-8)「剣下」・・『蝦夷地廻浦録』は、「釼」を「腰」とし、「腰下」としている。なお、影印の「釼」っは、「剣」の俗字で、日本では多く姓氏に「つるぎ」として用いられる。

(51-9)「大指(おおゆび・おおよび・おおおよび)」・・手足の指のうちで、もっとも太い指。おやゆび。

(51-9~10)「闘諍(とうそう)」・・いさかい。

(51-1011)「矢狭間(やざま)」・・城壁や櫓(やぐら)などの内側から外をうかがい矢を射るためにあけた小窓。矢間。

(51-11)「閉籠(へいろう・へいろ)」・・家などにとじこもって外に出ないこと。

 

1月学習『秘書』注(2)

(45-3)「帰(き)し」・・「帰(き)す」の連用形。「帰(き)す」は、罪などをある物や人のせいにする。負わす。かこつける。なすりつける。

(45-3)「候共(ろうろうとも)」・・発音は「ソーロートモ」。意味は、「~でありましても」。

 *「候」について:笹目蔵之助著『古文書解読入門』(新人物往来社刊 1979)参照

 ◎「候(現代仮名遣いは「そうろう」。発音は、「ソーロー」。「~ます」「~です」「~であります」に当る。

  ・「候ハヽ」(そうらはば。ソーラワバ。~でありますならばの意)

  ・「候共」(そうろうとも。ソーロートモ。~でありましてもの意)

  ・「候ヘハ」(そうらえば。ソーラエバ。~でありますからの意)

  ・「候ヘ共」(そうらえども。ソーラエドモ。~でありますがの意)

(45-3)<欠字の体裁>「帰し候共 御国」・・「共」と「御国」の間のスペース(空白)は、尊敬の体裁の欠字。

(45-3)「所置(しょち)」・・処置。

(45-4)「混同河」及び(45-7)「混同江」・・混同江。松花江(しょうかこう)の古名。松花江は、中国東北部地区の大河。朝鮮国境の長白山頂天池に発源する二道白河が、二道江・第二松花江と名をかえ、松花湖を経て松花江となる。支流の輝発河・伊通河を加え、西北より来る嫩江を併せて東北に向かい、呼蘭河・牡丹江などをいれ、同江に至って黒竜江に合する。全長約一九三七キロ。古くは粟末水・混同江・黒水・松阿(宋瓦)里などとも称した。沿岸には吉林・哈爾浜(ハルビン)・依蘭など多くの都市を有し、十一月より四月までの結氷期を除いては小汽船を通じ、経済・交通・運輸の大動脈をなす。

 *「川・河・江」・・

  ①小さいのを「川」、大きいのを「河」と使い分ける習慣がある。今は混同して用いる。また、現在日本では、河川の名称は、「川」と書くようになってきている。

  ②中国の河川については、中国の呼称をそのまま用いるのが普通である。なお、長江を「江」、黄河を単に「河」と呼んでいた。中国の河川名は、長江より北はほとんどが「河」、長江より南は「江」と呼ばれている。

 *<漢字の話>「河」の解字・・音符の「可」は、かぎの形に曲がるの意味。曲がってながれる黄河の意味から、一般に河の意味を表す。

  **「河清(かせい)を俟(ま)つ」・・常に濁っている黄河の水の澄むのを百年もかかって待つの意。いつまで待っていても実現のあてのないことをいう。

    河之清、  <河の清(す)むを俟(ま)つも>

人壽幾何。   <人寿(じんじゅ)壽何(いくばく)ぞ> 『春秋左氏伝』

(45-4)「営柵(えいさく)」・・とりで。

(45-5)「蚕食(さんしょく)」・・蚕が桑の葉を食べるように、他国または他人の領域や物などを片端からだんだんと侵してゆくこと。影印の「蚕」は、旧字体の「蠶」。

(45-5)「思念(しねん)」・・心に思うこと。考えること。また、常に心にかけていること。

(45-6)「アンモル川」・・アムール川。アムールはAmur 「黒い川」の意。ロシアと中国の国境付近を流れる大河。モンゴル北部のオノン川とシルカ川を源流とし、東流してタタール海峡に注ぐ。全長4350キロメートル。黒龍江。黒河。

(45-8)「屯(たむろ)いたし」・・「屯(たむろ)」は、兵士、また、一定の職にある者たち、ある仲間などが群れ集まること。「たむろ」の語源説に、「タムレ(手群)の転。一手の兵が群れ居る意」がある。

(45-8)「打沈(うちしずみ)」・・影印の「沉」は、「沈」の俗字。

(45-9)「伊豆守」・・松前藩12代藩主松前崇広(たかひろ)。伊豆守叙任は、嘉永2年(1849)7月28日。

(45-10)「今井八九郎」・・今井八九郎は寛政2年(1790)、松前藩下級藩士の子として松前に生れた。通称を八九郎、正式には信名(のぶかた)という。蝦夷地は19世紀初頭の文化年間に江戸幕府の直轄地となり、それまで統治を任されていた松前藩は東北に移封された。このとき今井家は藩から財政難により放禄されたものの、松前奉行の同心として幕府に仕えることとなった。同じ奉行所には間宮林蔵が出仕しており、今井八九郎は林蔵から伊能流の測量技術を学んだ。
文政4年(1821)、再び蝦夷地を領地とされた松前藩は、八九郎を召命して蝦夷地全域の測量を行なわせた。奥尻・利尻・礼文・北蝦夷地(樺太)・国後・色丹・択捉・歯舞などの島嶼部をも含む測量活動はあしかけ10年に及んだ困難な作業であった。天保12年(1841)からは製図作業にかかり、蝦夷島やその周辺島嶼部の地図が完成した。八九郎の清書図は松前藩に提出されたが、明治維新の箱館戦争で失われた。
 東京国立博物館所蔵の「今井八九郎北方測量関係資料」の絵図・地図類は、清書図の控えとして今井家が所蔵していた資料を、大正3年(1914)に東京国立博物館が今井家から購入したものである。これらの絵図・地図には伊能忠敬や間宮林蔵が測量していなかった島嶼部について精度の高いものがあり、豊富なアイヌ語地名の記載もみられる。松前藩への献呈本が失われた現在では、江戸後期の蝦夷地をうかがい知ることのできる貴重な歴史資料・民俗資料といえよう。南下したロシアの動静を伝える「北蝦夷地ホロコタンより奥地見聞風説書」をはじめとする文書・記録類とともに重要文化財の指定を受けた。

(45-11割注左)「通辞(つうじ)」・・通訳。

 *「通詞」「通事」・・江戸時代の長崎では、中国語の通訳官を唐通事、オランダ語の通訳官を蘭通詞と区別する習慣があった。ともに当初は小人数であったが、しだいに人数も増大し、組織も複雑化していった。貿易・外交にまつわる通訳にとどまらず、来航する唐人・蘭人から聴取した海外諸事情を「風説書」として当局に報告する役割もあり、蘭通詞の中には、西洋の知識技術を身に付ける者も現われた。

(45-11割注左)「清水平三郎」彼は、栖原家の支配人と蝦夷通詞も兼ねており、また、松前藩の士席先手組にも取たてられていた。ロシアのクシュンコタン占拠の際、清水は、松前藩の通訳をつとめ、また、単独でもしばしばムラビヨフ哨所を訪れ、ロシア将校と対談している。彼は、のち、安政2(1856)2月、箱館奉行支配同心に抱え入れられ、同年5月には調役下役に任じられて、北蝦夷地詰となり、山丹交易の任に当った。彼は明治維新では、榎本軍に従事し、箱館戦争では、榎本軍の「陸軍奉行添役介・裁判役並」だった。

(45-11割注左)「異同(いどう)」・・異なっていること。違っている点。相違。

(45-11割注左)「粗(あらあら・ほぼ)」・・おおよそ。

(46-2)「一价(いっかい)」・・一介。多く「の」を伴って連体修飾語として用いられる。わずかなこと。少しばかりのこと。また、一人(ひとり)。価値のない、つまらないひとり

(46-2)<漢字の話>「書翰(しょかん)」の「翰」・・部首は「羽」。解字は、「羽」+「倝」。「倝」は、旗ざおの意味。旗ざおのように長い羽のやまどりの意味を表し、羽で作ったふで、転じてふみ(文)の意味をも表す。現代表記では、「簡」に書きかえることがある。

(46-2)「而己(のみ)」・・漢文の助辞。文末に置かれて限定・強意の語気を表す。~だけである。~にすぎない。

(46-3)「姦謀(かんぼう)」・・邪悪なはかりごと。

(46-5)「清主(しんしゅ)」・・この時期の清朝皇帝は、9代咸豊帝(かんぽうてい) 愛新覚羅奕詝。

(46-5)駛(はせ)」・・「駛る」は、はせるの意。音読みは「シ」。ジャパンナレッジ版『字通』には、<駛は六朝以後にみえる字で、梁の簡文帝の詩に「馬を駛(は)す」「春、駛せんと欲す」などの語がある。馬以外にも疾走する意に用いる。>とある。熟語は、「駛雨(しう)」(にわか雨)など。

(46-5)「聢(しか)と」・・はっきりと。ちゃんと。たしかに。

 *<漢字の話>「聢」・・国字。解字は、耳+定で、耳に定着するように「しかと」の意味を表す。

(46-6)「辞柄(じへい)」・・話の材料。物いい。いいぐさ。口実。

(46-6)「見据(みすえ)」・・見てはっきりと判断する。見定める。見込む。

(46-7)「何(いず)れの道」・・いずれにしても。どの道。どうせ。

(46-7)<見せ消ち>「地内所」・・「内」の左に「ヒ」のような記号があるが、見せ消ち記号。「内」は、削除したという意味で、「内」は読まない。従ってここは、「地所」となる。

(46-8)「御手を下(くだ)され」・・「手を下す」は、事に対して自分ではっきりした判断をつける。また、それによって事を行なう。

(46-8)「枢要(すうよう)」・・「枢」は戸のくるる、「要」は扇のかなめの意。

物事のもっとも大切なところ。もっとも大切であること。また、そのさま。中枢。要点。かなめ。

*「枢(くるる・とぼそ=戸臍=・とまら=戸魔羅=)」・・戸の梁(はり)と敷居とにあけた小さな穴。これに、枢(とまら)をさし入れて戸を開閉させる軸とする。

(46-9割注左)「マーイヲ」・・「マーヌイ」の誤りか。

(46-9割注左)「陰鬱」・・陰気でうっとうしいさま。

 <漢字の話>「鬱」・・2010年改定の常用漢字に追加された。常用漢字で最大の画数・29画。

           「林缶」  リンカーン

           「冖」   ワ(は)

           「※」    アメリカン

           「凵ヒ」   コーヒーを

           「彡」    三杯飲んだ。

(46-9割注左)「切透し」・・切って間が透くようにする。

(46-9割注左)「品ニ寄(より)」事情によって。場合によって。

(46-10割注右)「岨沢泥濘(そたくでいねい)」・・けわしい沢で、泥が深いこと。

(46-11割注右)「捷径(しょうけい)」・・「捷」はすみやか、「径」は小道の意。早道。近道。

(47-1)「別紙建言(けんごん・けんげん)」・・『新撰北海道第五巻史料一』所収の『開拓諸書付』には、

 「別紙建言」の傍注に、(附属書類三)とある。その(附属書類三)を資料として添付する。

(47-1~2)「取捨(しゅしゃ)」・・取ることと捨てること。よいものを取って用いることと悪いものを捨てて用いないこと。

(47-4)「月日」・・テキストは、単に「月日」とあるが、『開拓諸書付』には、「寅月日」とあり、「寅」が記されている。「寅」は、安政元年(1854)。なお、『開拓諸書付』のこの文書の冒頭に、朱書で「箱館表より差上候ニ付最初進達之月日不相分」とある。

なお、『開拓諸書付』のこの文書の冒頭に、朱書で「箱館表より差上候ニ付最初進達之月日不相分」とある。また、『大日本古文書』では、「北蝦夷地国境之件」(堀と村垣の老中への上申書)として、朱書で「寅十月廿八日、封之儘伊勢守江河内守進達」とある。


1月学習『秘書注』(1)                              

(43-1)「纔(わずか・わづか)」・・色のまじったきぬ。転じて、どうにかこうにか足りるくらい。かろうじて。やっと。特に、量がわずか。どうにか。

 <漢字の話>

 ①「纔」・・「糸」部の17画(総画23画)。解字は、「音符の毚(サン)は、まじるの意味。赤みと黒みのまじった絹の意味を表す。借りて、わずかに・かろうしての意味にも用いる」(『漢語林』)とするが、わかりにくい。

②ジャパンナレッジ版『字通』には、『設文解字』を引用し、<「纔は淺きなり。讀みて讒(ざん)の若(ごと)くす」という。色の浅いことから、「わずか」の意があるとするものであろう。>とするが、これまたよくわからない。

 ③同訓異字・・ジャパンナレッジ版『字通』には、「わずか」と読む同訓異字として、「纔」の他に、

  【僅】(キン)ほんのすこし。すこしばかり。特に、数が少なくわずか。「僅差」「僅僅」「僅少」。

【才】(サイ)「纔」に同じ。

【些】(サ)ふぞろいに並べる。転じて、いささか。いくらか。すこし。「些細」「些事」「些少」「些末」

【涓】(ケン)しずく。小さい流れ。転じて、量がきわめてわずか。ほんの少し。「涓涓」「涓埃」《古みづたまり・あひだ・あはひ。

【財】(ザイ)価値あるもの。たから。転じて、「纔」に同じ。「財足」。

【毫】(ゴウ)細い毛。転じて、ごくわずか。ほんのすこし。ちょっぴり。「毫末」「毫毛」「一毫」「白毫(びゃくごう)」。

【錙】(シ)古代中国で重さの単位。転じて、目方がわずか。価値があまりない。また、物事がこまかくかすか。微細だ。「錙銖(シシュ)」。

  を挙げている。ほかにも、

【寸】(スン)指一本の幅。転じてわすか。すこし。「寸影」「寸暇」「寸分」

【秒】(ビョウ)穂先の部分をいう。きわめて細いものであるから、かすか、わずかの意に用いる。

【毛】(モウ)体毛をいう。また地表に生ずる草をもいう。わずか、すこし、かるい、こまかい。

【片】(ヘン)片方の意よりして、ものの一偏をいい、僅少・一部分の意となる。「片刻」「片土」

【尺】(シャク・セキ)手の指の拇指(おやゆび)と中指とを展(ひら)いた形。「尺寸(せきすん)」

【劣】(レツ)力は耒(すき)の象形であるから、耕作力において劣る意である。農事に限らず、すべて才分の少ないこと。おとる・わずか・すくない。

【裁】(さい)裁・才・財・纔は、みな「わずかによくする」意があり、また、ようやくなる・はじめての意がある。

【暫】(ざん)しばらく。わずか。にわか。「暫時」「暫定」。

【勺】(しゃく)量目の単位、一合の十分の一、地積では一坪の百分の一。わずか。「勺飲」

 <仮名遣いの話>

 「纔」→「わずか」か「わづか」か。

 ①ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「僅か」の項には、「わずか(わづか)」と、(わづか)を括弧書きしている。「わづか」は歴史的仮名遣い。

 ②昭和61年内閣告示「現代仮名遣い」の本文第二の5項の「なお書き」には、

<「なお次のような語については,現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの等として,それぞれ「じ」「ず」を用いて書くことを本則とし,「せかいぢゅう」「いなづま」のように「ぢ」「づ」を用いて書くこともできるものとする。>として、「ず」「じ」を本則として、「づ」「ぢ」も許容する語として、次の23語があるが、「わづか」はない。

例 せかいじゅう(世界中)、いなずま(稲妻)、かたず(固唾)、きずな(絆)、さかずき(杯)、ときわず、ほおずき、みみずく、うなずく、おとずれる(訪)、かしずく、つまずく、ぬかずく、ひざまずく、あせみずく、くんずほぐれつ、さしずめ、でずっぱり、なかんずく、うでずく、くろずくめ、ひとりずつ、ゆうずう(融通)

 ③したがって、「現代仮名遣い」では、「纔」は、「わずか」となる。しかし、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、「纔か」の語源説に、

(1)ハツカ(端束)の義か。(2)ハツカ(初)の義。カはカタ(方)の義。初めは何事も幽かであるところから。(3)ハツカ(端所)の義。>を挙げており、いずれにせよ、「纔か」は、「ハツカ」が語源としている。

 ④島崎藤村「千曲川旅情の歌」は、「わづか」「はづか」「はつか」の3通りある、

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす蘩蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色わづか(はづか・はつか)に青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ



*「わづか」・・岩波文庫「藤村詩抄」(岩波文庫 1927

 「はつか」・・筑摩書房刊「藤村全集 第一巻」(筑摩書房 1966)、「日本近代文学大系15」(角川書店 1971) 

   「はづか」・・「落梅集」(春陽堂 1901

(43-3)澗繋(まがかり・まつなぎ)」・・船を船澗(ふなま)に碇泊させること。ふながかり。まつなぎ。

(43-4)大材」・・『開拓諸書付』は、「木材」としている。

(43-4)「伐出(きりだ)し」・・材木や石材などを切り取って運び出す。切りいだす。

(43-4)「津出(つだ)し」・・港から荷船を送り出すこと。

 *「隠津出(かくしつだし)」・・江戸時代、領外への積出禁制品を領外へ密輸出すること。


 

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12月学習『蝦夷日記注』                       

  

(39-1)「四里程ニ付」・・『蝦夷地御開拓諸御書付書類』など異本には、「程」と「ニ」の間に「南」があり、「四里程南ニ付」としている。

(39-1)<漢字の話>「陳屋(じんや)」の「陳」・・①ジャパンナレッジ版『字通』には、<正字は陳・・陣は俗字。・・東は嚢(ふくろ)の形、車は車の形で、示すところが異なる。陣は聖所に軍車のある形で、本陣の意を示すものであろう。」としている。

 ②現在は、「陳」「陣」は、別々にそれぞれ常用漢字になっている。

③「陳」を「ジン」と読むのは呉音。「チン」は漢音。手元の漢和辞典には、「陳」を「ジン」と読む熟語はわずか姓に「陳野(じんの)」があるのみ。

(39-4)「東西(とうざい)」・・「東や西」の意から、あちらやこちら。あらゆる方向。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「東西」の語誌に、

(1)節用集類で「東西」に「アナタコナタ」と当てられている。

  (2)「左右(そう)」と似ているが、「左右」よりも動作性が強いといわれる。

  (3)『南総里見八犬伝』に「船にて飽まで東西(モノ)賜りぬ」と読ませた例が見られる。>とある。

(39-5)「余地(あまりち)」・・手余地(てあまりち)。江戸時代、手不足のため空閑地となっている田畑。農民の離村または放棄で耕作されない田畑。

(39-6)「文化度、ウルツフ島の御振合」・・文化11(1814)12日、幕府が下した国境問題についてのロシアへの対応をいう。幕府は、松前奉行に対し、日本はエトロフ、ロシヤはシムシル島を限り、中間のウルップ島などには家屋を設けずに中立地帯とし、彼我の漂流民を送還するのはウルップ島においてせよと命じ、その旨を認めた諭書を下付したことをいう。なお、この諭書は、結局ロシア側には、渡らなかった。

その前後の経過を箇条書きする。

 ・文化8(1811)526日・・船将ゴローニン率いるディアナ号、クナシリ島トマリ沖に到来。

 ・同年64日・・薪水・食料の補給のためゴローニンら8名トマリに上陸し、クナシリ会所で調役奈佐瀬左衛門と会見、会見中逃亡を図ったため補縛される。副将リコルドは救出をあきらめ、67日カムチャッカに向けて去る。

 ・同年72日・・ゴローニンら、南部藩士に護送されて箱館に到着、入牢。箱館役所で吟味を受けたのち、822日箱館を出発、825日福山到着。

 ・この年冬、村上貞助、松前奉行の命により、ゴローニンらについてロシア語を学ぶ。

 ・文化9(1812)126日・・幕府、ゴローニンらの処置を決定。返還せずに留置き、かつ、この上ロシア船の渡来あれば漂流船たりとも用捨なく打払うべき旨松前奉行・南部津軽両家へ通達。

 ・同年84日・・リコルド、ゴローニンらの返還を交渉するため、文化4(1807)フヴォストフに捕えられた五郎次と漂民をともない、クナシリ島センベコタン沖に到来、ここに滞船して五郎次らを使い交渉したが、クナシリ在勤役人らによりリゴローニンはすでに誅されたとし拒否される。リコルドはこれに納得せず、真偽を正すべく814日クナシリ島ケラムイ沖にてエトロフ島より帰帆の高田屋嘉兵衛持船観世丸を襲い、嘉兵衛らを連行、同月17日クナシリ島よりカムチャッカにむけて去る。

 ・文化10(1813)526日・・リコルド、ディアナ号に高田屋嘉兵衛らを乗せてクナシリ島センベコタン沖に来る。高田屋嘉兵衛らを介してクナシリ詰調役並増田金五郎らと交渉、先年のフヴォストフの乱暴はロシア政府の関与せぬことである旨を陳べ、ゴローニンの放還をもとめる。

 ・同年619日・・松前詰吟味役高橋三平ら、リコルド到来の報に接した松前奉行の命により捕虜のロシア人らをともないクナシリ島に到着。諭書をリコルドに交付し、捕虜放還の条件として、ロシア国長官の陳謝書を提出し、先年掠奪の武器・器物等を返還することを要求、リコルドはこれを承認し、上官と相談のうえ請書を携えて8月下旬までに箱館に渡来する由を述べ、624日クナシリ島を出帆、いったんオホーツクに帰る。

 ・同年817日・・松前奉行、返還準備としてゴローニンらを福山から箱館に移す。

 ・同年916日・・ディアナ号箱館沖到着。17日入津。19日上陸を許可されて沖の口番所において高橋三平らと会見。リコルド、シベリア総督テレスキンの書を提出。

 ・ロシア政府の陳謝の趣意を了承し、松前奉行服部貞勝臨席のもとに、沖の口番所にてゴローニンをロコルドに引き渡す。

 ・ディアナ号、箱館より帰帆。

【日露の国境問題】

・なお、リコルドには、捕虜受取りだけでなく、両国の国境を画定する任務を負わされていた。リコルドは、ゴローニンに相談したが、ゴローニンの意思では、奉行はただ捕虜に関して交渉する権限が与えられているにすぎないから、今国境問題、修好条約問題を提議すれば、奉行は江戸に報じ、指令を仰がねばならないので、非常に日数を要し、また、修好条約などはとうてい望みがないといった。リコルドも同意し賛同した。

・ただ、出帆にあたって、ゴローニンとリコルドの連名で公文書を高橋三平、柑本兵五郎宛に送り、国境画定・接境応接の返答をうるため明年56月ころ、武器を乗せない小船をエトロフ島に派遣するから、返答を渡されたいとの希望を述べた。

 ・文化11(1814)12日・・奉行の伺いに対して、日本はエトロフ、ロシヤはシムシル島を限り、中間のウルップ島などには家屋を設けずに中立地帯とし、彼我の漂流民を送還するのはウルップ島においてせよと命じ、その旨を認めた諭書を下付した。

 ・同年3月・・高橋三平は諭書を携えて箱館を発し、エトロフ島に出発、68日ウルップ島に進んだが、ロシア船はついに姿を見せなかった。

 ・文政元年(1818)夏・・ウルップ島に派遣された飯田五郎作、箱に収め柱に打ちつけたロシア人の文書を発見持ち帰る。大意は「文化11(1814)エトロフ島北部の近海に来たが、答書を携えた日本人を見ず、ゆえにやむなくオホーツクに帰る」とあった。

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