森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

魯夷始末書

魯夷始末書3月分注記

21-1)「達之(本ノマヽ)」・・「之」は「者」で、「達者」か。熟達し上手なこと。

21―1)「通弁(つうべん)」・・通訳。

21-2)「小頭(こがしら)」・・組をなす人々のなかで、その一部分の小分した組の長。

     小隊長あるいは分隊長。

21-4)「魚漁(ぎょりょう)」・・魚介類をとること。「漁猟」と同義。「漁」を「りょう」と読むのは、「猟」にあてた国訓。

21-5)「ヱノシマナイ」・・ヱヌシコマナイ、エヌシコマナイホ。日本名「犬駒内」。樺

     太南部アニワ湾沿いの地名。樺太地名NO28。『樺太の地名』には、明治六年林氏紀行を引用し「湳渓より・・六里にしてイヌシクマナイ土人家十戸」とある。

21-5)「ヲマヘツ」・・ヲマンベツ。マンベツ。ヲマンヘチ。日本名「小満別」。樺太南  

     部中知床半島西岸。樺太地名NO39

21-5)「水 欠 働方」・・欠の部分は、「主」か。「水主働方」とか。

21-7)「従随(本ノマヽ)」・・「随従(ずいじゅう)」で、「従」と「随」の順序が逆か。

     「随従」は、つきしたがうこと。人の言うことを聞いてそれに従うこと。

21-8)「宿営(しゅくえい)」・・軍隊が兵営外で宿泊すること、また、其の場所。久春古丹の「ムラヴィヨフ哨所」に駐屯していること。

2110)「松前より引続候蝦夷地」・・近世、蝦夷島(北海道)において、松前藩は、その統治政策の一つとして、松前を中心とする周辺地域を和人の定住地(松前地、和人地、日本人地とも。)とし、和人の定住地以北の地を蝦夷地(東・西蝦夷地)と称するアイヌの人々の居住地とに区分した。「松前地=和人地」の区域は、時代により異なるが、17世紀には、北方は熊石(現八雲町内)、東方は亀田(現函館市内)が境界、19世紀末には、東方の範囲が山越内(現八雲町内)まで拡大した。

22-2)「恩沢(おんたく)」・・恵み。

22-4)「憤(いきどおり)」・・「憤る」の連用形。憤慨すること。

怒りの気ちを持つこと。

22-4)「以之外(もってのほか)」・・(事柄が普通でなくとがめ立てされるような場合に用いる)とんでもないこと。けしからぬこと。

語源説に、

(1)オモッテノホカ(思外)の義〔言元梯〕。

(2)オモヒ(以)ノホカ(外)の文字読〔大言海〕。

がある。

22-4)「申罵(もうしののしる)」・・悪口を言い立てること。

22-6)「異見(いけん)」・・「意見」。他人をいましめること。説教。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

     <(1)表記は、挙例のように「色葉字類抄」に「意見」とあるが、中世後期の古辞書類になると「異見」とするものが多く、「又作意見」(黒本本節用集)のように注記を添えているものも見られる。近世の節用集類も「異見」を見出し表記に上げているが、明治時代に入ると典拠主義の辞書編纂の立場から「意見」が再び採られるようになり「異見」は別の語とされた。文学作品の用例を見ても、中世後期から近世にかけては、「異見」が一般的であった。

     (2)「意見」は、「色葉字類抄」に「政理分」と記されていることや「平家物語」の用例によると、本来は政務などに関する衆議の場において各人が提出する考えであった。そのような場で発言するには、他の人とは異なる考えを提出する必要がある。そのようなところから、「異見」との混同が生じたものと思われる。

     (3)中世も後期になると、「異見」の使用される状況も拡大し、(2)の挙例「虎明本狂言・宗論」などに見られるように、二者間においても使用されるようになった。それに伴い、「日葡辞書」が示すような(2)の意味も生じてきた。この意味での使用が多くなり、「異見す」というサ変動詞や「異見に付く」や「異見を加ふ」といった慣用句までできてきた。最初のうちは、相手が目上・目下に関わらず使用されていたが、訓戒の意が強くなり、次第に目上から目下へと用法が限定されてきた。>とある。

22-6)「無本意躰(ほいなきてい)」・・「本意」は「ほい」で、「ほんい」の撥音「ん」の表記されないかたち。本来の意志、もとからの望み。

22-8~9)「ナイフリ」・・ナイブチ(内淵)か。

23-3)「人跡(じんせき)」・・人が通った跡。

23-4)「究竟(きゅうきょう・くきょう)」・・事をきわめて、究極に達したところ。最高であること。また、そのさま。

23-5)「長橇(ながかんじき)」・・「橇」には、「そり」のほか、「かんじき」の訓がある。「履」や「歩行」の文言があることから、雪の中に足を踏み込んだり、滑ったりしないよう靴などの下に付ける道具の「かんじき」。

23-6)「巧者(こうしゃ)」・・物事に器用で、巧みなこと、あるいは、人のこと。

2310)「毎月七之日、三日」・・月毎の7、17、27の「7」の付く日の3日間。

2310)「いたし(以堂し)」・・「いたし」の「い」は「以」、「た」は「堂」の変体かな。

24-1)「打臥(うちふせ)」・・「打臥(うちふす)」の連用形。「打(うち)」は接頭語で、下の動詞の意を強める。「臥す」は、病気などのため、寝床に横になる。ふせる。

24-3)「申断(もうしだんじ)」・・「申断(もうしだんず)」の連用形。拒絶、断わりを言い立てること。

24-4)「折檻(せっかん)」・・厳しく戒めること。たたいて懲らしめること。

24-5)「来ル廿六日迄七日之間」・・和暦の「来ル(安政元年(1854)2月)26日迄7日之間」は、ロシア暦(ユリウス暦)では、185436日~312日、西暦(グレゴリオ暦)では、1854318日~324日にあたる。

24-5~6)「彼国之正月」・・ロシア暦による「新年の正月」ではなく、キリスト教にとって最も重要な行事である復活祭(イースター)の祝祭の期間を指す。復活祭は、春分の日の後の満月に続く日曜日が、その祝日にあたり、西暦(グレゴリオ暦)では、321日~425日の間で、年によって変わる。そして、祝日の一週間前の日曜日から、キリストの復活を祝う特別な行事がおこなわれる。

24―7)「領主城下」・・松前のこと。時の松前藩主は12代崇広(たかひろ)。

24-7)「出勢(しゅっせい)」・・「勢」は軍勢、兵力の意で、出兵すること。

24-9)「申談(もうしだんじ)」・・「申談(もうしだんず)」の連用形。『くずし字用例辞典』には、「申談」は、「もうしだんず」と訓がある。かけあうこと。談判すること。   

24-10)「籏(はた)」・・国字。「竹」と「旗」の合字。

『魯夷始末書』2月学習分注記

(17-2)「逸ゝ(いちいち)」・・(副詞的に用いて)一つ残らず。どれもこれも。ことごとく。ことこまかに。
(17-3)「素立(すだて)」・・まだ骨組だけで、内装も外装もほどこされていない家。

    柱立や梁などの組み上がった状態。棟上の終わった状態。

(17-3)「造作(ぞうさく)」・・建物内部の仕上工事。天井、床板、建具、棚、階段などを取り付けること。

(17-3)「正月」・・一年のいちばんはじめの月。むつき。いちがつ。語源説に「政治に専念した秦の始皇の降誕の月であるところからセイグヮツ(政月)といっていたものが、『正月』と書かれるようになり、音が改められたもの」なある。

(17-5)「遠台(えんだい)」・・警戒や偵察など遠見のために設けたやぐら。物見櫓、遠見櫓、遠見台、望遠台とも。

(17-6)「矢狹(やざま)」・・城内から矢を射ることができるように、城の廓や櫓の側面に設けた多く、縦長の小穴。三角形のこともある。

(17-6)「隅々(すみずみ)」・・方々の隅。あらゆる隅。

(17-8)「士卒」しそつ)」・・士と卒。士官と兵卒。武士と雑兵

(17-8)「焚出場(たきだしば)」・・一時に大量の炊事をして、大勢の者に食事を配り与える所。

(17-10)「畳上(たたみあげ)」・・積み重ねる。幾重にも積む。重ね上げる。

(18-1)「布蓙(ぬのござ)」・・「蓙」は国字で、藺(い)などを編んで作った敷物、薄縁(うすべり)、ござむしろ。「布蓙」は、布製の敷物、薄縁。

(18-3)「炉気(ろき)」・・香炉のかおり。

(18-3~4)「仕懸(しかけ)」・・仕掛け。

*「仕懸文庫(しかけぶんこ)」・・①江戸深川の遊里で、遊女の着替えを入れて持ち運ぶための手箱。②洒落本。1冊。山東京伝作・画。寛政3年(1791)刊。江戸深川仲町の岡場所の風俗を描く。

(18-4~5)「銅銭或は銀札」・・銅銭は「コペイカ銅貨」、銀札は、「ルーブル銀貨あるいはコペイカ銀貨」。当時の帝政ロシアの貨幣制度は、本位金貨幣であるルーブル金貨のほか、補助貨幣として、銀貨(1ルーブル銀貨、5025201510の各コペイカ銀貨)や銅貨(53211214コペイカ銅貨)が流通していた。

(18-6)「弁用(べんよう)」・・ある用件を適切に処理すること。また、役に立つように用いること。

(18-7)「板檀(いただん)」・・「板壇」か。

(18-7)「土竈」・・土を固めて作ったかまど。へっつい。土間や庭に直接、土で焚口を構えるものたが、町家の場合は、木作りの箱の中に、石を敷いたものを台として、その上に土製の竈が置かれ、この総体を「へっつい」という。『守貞謾稿』には、「竈(かまど)」を俗に「へつい」と云う。また、訛て「へつゝい」と云ふなりとある。

    *<漢字の話>「竃」・・かまど。「ど」は処の意。土・石・煉瓦(れんが)などでつくった、煮炊きするための設備。上に釜や鍋をかけ、下で火をたく。

    「釜」・・飯を炊いたり湯を沸かしたりするための器具。

    *「塩竃市」・・宮城県中央部、松島湾に面する市。

(18-8)「火勢(かせい)」・・火の燃える勢い。火気。

(18-8)「屡(しばしば)」・・副詞。「しば(屡)」を重ねたもの。たびたび。しきりに。幾度も。何回となく。なお「屡(しば)」は、「頻(し)く」「頻(しき)る」などの語基「し」に、「もと」「端」などを意味した「は」の付いたものとする説もある。

(18-8)「濺き(そそぎ)」・・「濺ぐ」の連用形。水を注ぐの意。

    *「濺」の解字・・旁の「賤」は、うすいの意味。

(18-9)「所謂(いわゆる)」・・動詞「いう(言)」の未然形に上代の受身の助動詞「ゆ」の連体形が付いて一語化したもの。①世間一般にいわれている。また、一般にそうたとえられている。②すでに周知の。言うまでもない。

    *漢文として使われていた「所謂」を「謂う所(いうところ)」と読み、その意味となる日本語が「いはゆる」だったので、「いわゆる」となったもの。

    ○[論語] 所謂大臣者、以道事君、不可則止

        所謂(いわゆる)大臣なるものは、道を以て君(きみ)に事(つか)え、不可(ふか)ならば、則(すなわち)止(や)む>

→(すぐれた大臣といわれるものは、道により主君に仕え、意見が採用されなければ辞任するものだ。)

    ○[史記] 管仲世所謂賢臣、然孔子小

        <管仲(カンチュウ)は、世に所謂(いわゆる)賢人(けんじん)なり。然(しか)るに、孔子は之を小(ショウ)とす。>

        →(管仲は、世に言う賢人だが、孔子はこの人物を小者と考えた)

(18-9)「蒸気風呂」・・蒸し風呂。サウナ風呂か。サウナ風呂(フィンランド風の蒸し風呂)は、石塊を入れた鉄釜を下から熱した熱と、その石に水をかけて発する蒸気熱とで室内の温度・湿度を高め、その室内に入って汗を流す。

(19-1)「夫役(ぶやく・ぶえき)」・・労働課役。主として地方の農民を強制的に徴発し、公事の労役に従事させること。

(19-2)「軍卒(ぐんそつ)」・・軍兵。兵士。または、軍勢。

(19-4)「雨覆(あまおおい)」・・建物のある部分に雨がかかるのを防ぐ設備。「雨(あめ)を「あま」と読むのは転音。「雨垂(あまだ)れ」「雨傘(あまがさ)」

*「変音」・・日本語で、二つの成分が結合して新たな合成語ができるとき、しばしばその成分の音素に変化が生じることがある。音素の変化を「変音」という。

これには①「転音または母音交替(あまだれ)」②「連濁(あおぞら)」「音便(つんざく)」「音韻添加(まっしろ)」「音韻脱落(手洗い→たらい)」「音韻融合(けふ→きょう)」「連声」「半濁音化(ひっぱがす)」がある。

*「転音」・・語音が本来の形を変えること。また、その変わった音。日本語では主として、複合語をつくる際の、前の部分の語末におこる母音の転換をいう。酒(さけ)→酒樽(さかだる)の「か」、舟(ふね)→舟足(ふなあし)の「な」の類。

(19-7)「一時(いっとき)」・・昔の時間区分で、一日の十二分の一。今のおおよそ二時間。一刻。奈良・平安時代の定時法では二時間、鎌倉時代以降の不定時法では季節により、また昼夜によって相違する。

(19-7)「朝は六ツ半」・・午前七時ころ。

(19-8)「顔をそゝき」・・顔を洗い清めること。「そゝぎ」は「注ぐ」の連用形で、「洗い清める」の意もあるが、『角川古語大辞典』には、本来は、「すすぐ(濯ぐ)=洗い清める」との間に、意義の混淆があるとある。      

(19-9)「銅板之如き仏像」・・イコン。アイコンとも。ギリシャ正教会やロシア正教会などの東方教会で、礼拝の対象とした聖画像。多くは板絵で、キリスト・聖母・聖伝などを描いた。

19-20~20-1)「足並調練(あしなみ・ちょうれん)」・・歩調をそろえる行進訓練。

(20-3)「夕七ッ時頃」・・午後四時頃。不定時法における昼と暮の境の時間帯。

(20-4)「灯籠(とうろう・とうろ)」・・照明器具の一つ。火袋を有することが特徴で、その中に油火またはろうそくを点ずる。

(20-5)「謡物(うたいもの)」・・詞章に節を付けて歌うものの総称。

(20-6)「類船(るいせん)」・・船が行動をともにすること。また、その船。江戸時代では同時に出港する船や同じ水域を航行している船をもいう。友船。片船。

(20-6)「表準(ひょうじゅん)」・・標準。そこに達すべきよりどころ。目標。

(20-7)「腰掛(こしかけ)」・・腰を下ろして休むための椅子や台。ここは「ベット」か。

(20-8)「妄(みだり)に」・・思慮、分別もなく、いい加減に。でたらめに

(20-10)「慇懃(いんぎん)」・・礼儀正しいこと。へり下って丁寧なこと。

(20-10)「会釈(えしゃく)」・・軽くお辞儀をするさま。なお、「会釈」と書いて「あしらい=能、狂言、歌舞伎などの囃子の一種で、一般に調子に乗らず、音も小さい単純な伴奏をいう。」と読む場合がある。関連する用語として、「会釈囃子(あしらい・ばやし)」、「会釈間(あしらい・あい)」などがある。

 

 

 

 

 

(18-7)「竃」関連資料(塩竃市公式ホームページから)

 

*塩竈市の『竈』の字については、『竈』と『釜』の両方を使用することが認められていま

す。

『竈』は21画と画数が多く、書き方も難しい漢字ですので、正しい書き順を左に示します。

ちなみに市役所で用いる公用文ではこの『竈』を用いることになっています。

◎地名の由来

海水を煮て塩をつくるかまど(竈)のことを「塩竈」といいました。つまり、もともとは

地名ではなく、製塩用のかまどのことを指す名詞でした。以前は日本の各地の砂浜にこの

ようなかまど(塩竈)があり、これが海辺の風景におもむきを添えていたといわれていま

す。わが郷土も、この竈のある場所として有名になり、それがそのまま地名になっていっ

たといわれています。

 塩竈という地名のほかに、国府津(『こうづ』と読み、国府の港という意味です)とも呼

ばれていましたが、塩竈神社が、陸奥国の総鎮守(多賀城から見て東北の方角に位置する

鬼門を守る意味がある)として建てられ、信仰を集めるようになり、国府津よりも塩竈の

方が地名として定着していったものといわれています。

◎塩竈か塩釜か

塩竈市役所で作成する公文書においては、「塩竈」を使用することになっています。ただ

し、市民の方、あるいは他の官公庁が「塩釜」と表記した文書については、「塩竈」と解

釈して受理することとしています。

 市役所で、塩竈という表記に統一するようになったのは、昭和16年(1941年)からで、

それ以前には、「鹽竈」、「塩竈」、「鹽釜」、「塩釜」など、混在して用いられていました。

「鹽」という漢字についは、当用漢字の「塩」を用いてもさしつかえありませんが、「竈」

と「釜」では、字義が違っており、本市の地名の由来が、「鹽竈神社」の社号に因むもの

であるところから、「釜」ではなく「竈」を用いることに統一されました。

『魯夷始末書』1月学習分注記

1210)「ハツトマリ」・・満州(現ロシア沿海州地方)の海岸の集落。『幕外文書7-補遺22』(『秘書』の「北蝦夷地ホロコタンより奥地見分風説書」に同じ。)に、「満州之続き、~、爰は大陸の内」、「魯西亜人よりハツトマリと申立の由」、「通弁(清水)清三郎らは、アツサムと計り心得候哉」とあり、また、享和元年(1801)に幕吏中村小市郎が樺太調査をした時の麁絵図に「アツシヤム」の名がみえる(『秘書』注記P57-958-1参照)。これらのことから、「ハツトマリ」は、嘉永6年(1853)初頭に海軍大佐ネヴェリスコイが部下の海軍大尉ボシニャークに命じてアムール川下流地方の「デ・カストリ湾」に設けた「アレキサントロフ哨所」の場所と比定できる。

13-4)「去ル戌年」・・嘉永3年(1850)。本書が書かれた寅年(安政元年)の4年前。

134.5)「萬国地理図」・・『秘書』P44の「明清地理書」および『秘書』P35の「西洋ニテ近来彫刻仕候地図」と同じものを指すか。幕末の日本に影響を与えた「世界地理書」としては、清国人の魏源が著した「海国図志」がある。以下、大谷敏夫著『魏源と林則徐』(山川出版社 世界史リブレット人シリーズ)により、『海国図志』の概要を紹介する。

     1844年(道光24年=弘化元年)、魏源は『海国図志』50巻を完成。この書は、林則徐の『四洲志』を底本に、歴代の史志および明以来の島志、外国に関する書や新聞を加えて書いた世界地理書。

      *『四洲志』~イギリスの地理学者ヒュー・マレー(中国名:慕瑞)の『世界地理大全』や『明史』、『清史』、西洋人フェルビースト(南懐仁)の『坤輿図説』などを材料にしている歴史地理書。

     ②1847年(道光27年=弘化4年)、アメリカ人のプロテスタント宣教師ブリッ

ジマン(高理文・裨冶文)の『美理哥合省国志略』、オランダの法律学者ヴァ

ッテル(滑達爾)の『各国律例』、イギリス人のイギリス東インド会社広州駐

在の貿易監督官ディヴィス(徳庇時)の『華事夷言』、ドイツ人の伝教士チャ

ールズ・FA・ギュツラフ(郭実獵・郭士力)の『貿易通志』を用いて、増

補し、『海国図志』60巻本を完成。

     ③その後、更に、ポルトガル人のマチス(馮吉士)の『地理備考』、徐継畲(じ

ょけいよ)の『瀛環志略(えいかんしりゃく)』などを書き加えて、1852年(咸

2年=嘉永5年)に、『海国図志』100巻本を完成。

     ④日本へは、嘉永3年(1850)に、『海国図志』60巻本、3部が渡来したが、キリスト教に関する記述のため禁書になり、その後、嘉永6年(1853)、ペリーの来航に伴って、100巻本が再び輸入され、この書の研究が盛んになった。 

13-5)「満州」・・中国の東北地方を指していった旧通称。その領域はロシアとの係争地

となり、時代によって変遷がある。1858年(安政5年)までは、外満州(がい

まんしゅう)といわれる外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南、黒竜江(アムール

川)以北・ウスリー川以東の地域(現在のロシア連邦の沿海地方、アムール州、

ユダヤ自冶洲、ハバロフスク州)を含んでいたが、1858年(安政5年)のアイ

グン条約、1860年(万延元年)の北京条約によって、外満州がロシアに割譲さ

れ、以後、中国東北部の「内満州」地域が単に満州と呼ばれた。

13-5)「支那」・・中国に対してかって日本が用いた呼称。中国最初の統一国家の秦(シ

ン)の音に由来するとされる。日本では江戸中期以後、第二次大戦末まで用いら

れた。

13-5)「蒙古」・・モンゴリア。内陸アジア東部のモンゴル高原、ゴビ砂漠を中心とした

地域。

13-6)「止白里」・・シベリア。ロシア語名「シベリー」。ユーラシア大陸北部、ウラル山脈から太平洋岸に至るロシア連邦領アジアの総称。ロシア全土の約57㌫を占める広大な地域。なお、シベリアの当て字に、「止白里也」「止白里亜」「止百里」「止伯里亜」「失部唎旋」「西比利亜」「西伯里亜」「西伯里」「斉百里」「叙比利亜」「悉白里亜」「細白里」「細伯里亜」「紫比利亜」などがある。(『宛字外来語辞典』柏書房)

(13-6)「彊(さかい)」・・境界。

(13-6)「コツカ」・・「オホーツク」か。アムール川が流れ注ぐオホーツク海沿岸域。現ロシア連邦ハバロフスク州のオホーツク地方。

13-6)「日本海繞(にほんかいじょう)」・・日本海の北辺部を指すか。「繞」は「めぐる。まとう。まとわりつく。」のほか、「もすそ(裳裾)=衣服の裾」の意がある。日本海の北辺部は、中国(北京)からみると、辺境で、衣服の裾部分にあたる。なお、日本海は、アジア大陸、サハリン島、日本列島に囲まれた縁海で、1815年(文化12年)ロシアの航海者クルーゼンシュテルンの作った海図で、初めて「日本海」の名が付けられた。

13-7)「シンクカレと云ル大山脈」・・興安嶺と外興安嶺。中国北東、内モンゴル自冶区と黒竜江省にかけての西の大興安嶺(ターシンアンリン)、伊勒呼里山脈、東の小興安嶺(シヤオインアンリン)からなる興安嶺とそれにつながる現在のロシア連邦シベリア南東部の外興安嶺(スタノヴォイ山脈)。なお、外興安嶺は、ロシアと清国との係争地で、1689(元禄2)のネルチンスク条約で一旦清国とロシアとの境界になったが、1858年(安政5年)のアイグン条約で、完全にロシア領になった。

13-7)「シカト云山」・・シホテ・アリニ山脈。現ロシア・ハバロフスク州と沿海州にまたがる平均標高800~1,000mの中山性の山地。日本海側とアムール川流域(オホーツク海に注ぐ。)の分水嶺になっている。日本海北西岸に沿い、北東から南西方向に続く。長さ1,200キロ、幅200~250キロ。最高峰は、北緯49度付近のトルドキ・ヤニ峰(2077m)。

13-8)「推考(すいこう)」・・道理や事情などからおしはかって考えること。

1310)「松前箱館沖」・・津軽海峡。

1310)「南蝦夷地北蝦夷地之間海」・・宗谷海峡。

13-10~14-1)「カムサスカ」・・カムチャッカ。現在のロシア連邦極東連邦管区カムチャッカ地方にある「ペトロパブロフスク・カムチャツキー」。『北槎聞略(大黒屋光太夫ロシア漂流記)』(桂川甫周著亀井高孝校訂 岩波文庫)には、「カムシヤツカ」について、「ヲホツカとアナヂルスカヤの間にさし出でたる大地なり。」とある。

14-2)「●掛(ま・がかり)」・・●は「舟扁に閒」か。船が碇泊すること。

14-2)「用弁(ようべん)」・・用便とも。用事をたすこと。

14-3)「キイヨロ」・・ナイヨロ。

14-3)「シトタラン」・・シトクラン。

14-3)「任申(もうす・に・まかせ)」・・「任申」は、返読で、「申すに任せ」。「(相手の)言うがままに」の意。

14-4)「クシンナイ」・・クシュンナイ。日本名「久春内」、「楠苗」とも。樺太西海岸のうち。樺太地名NO89.吉田東伍著『大日本地名辞書』には、「西白漘の北5里の海岸に在り、東海岸なる真縫に至る横断路の基点にして、~略~、真縫川の谷に通ず。此の間は一の地峡を成し、幅僅に7里となる。」とある。

14-4)「マカヌイ」・・マアヌイ。日本名「真縫」。樺太東海岸のうち。樺太地名NO173

     『大日本地名辞書』には、「本島の幅員最も狭き、地峡部の東側に在り、オホーツク海に濱す。西岸なる久春内との間、直距7里に過ぎず、」とある。

14-8)「イリノスロイ」・・(人名)ネヴェリスコイ。

14-9)「ヲロノフ」・・(人名)オルロフ

1410)「フースセ」・・(人名)ブッセ

1410)「コタノスケ」・・(人名)ルダノフスキー

15-1)「曾而(かって)」・・全然。少しも。下に打消しの語を伴って、強い否定を表す。

15-2.3)「不案心(ふあんしん)」・・古く「ふあんじん」とも。安心できないこと。気がかりで落ち着かないこと。

15-6)「米三千俵」・・米(玄米)1俵の量(「俵入」という。)は、江戸時代、各地、各藩ごとに一定せず、天領(幕府の直轄地)の場合、関東では、3斗5升入であったが、俵入は、2升の延米を加え3斗7升が普通。越後、三河などは4斗入、尾張、摂津、肥後などは5斗入。関東の私領では、上野では4斗2升または4斗3升入、下総では3斗9升または4斗入であった。(『日史大辞典』)。一方、松前藩の蝦夷地における俵入について、田島佳也神奈川大学経済学部教授は、『近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人』の著述のなかで、「蝦夷俵は、(4斗入れではなく、)最初2斗入れが寛文年間(1661~1673)に、7、8升入れになった。」、また「1857年(安政4年)、箱館奉行の一行とともに蝦夷地を査察した玉虫左太夫の『入北記』によると、苫前場所では、8升入れ米俵が、(1俵として)交易品の交換基準とされていた。」と指摘している。

15-8)「心付(こころづけ)」・・気をつけること。注意。配慮。

158.9)「無油断」・・「ゆだん・なく」

16-1)「右不申(本ノマヽ)」・・「右にもうさざる」で、「出稼ぎをしている46人ではない」ということを意味しているか。意味的にはやや不鮮明。それで、「本ノマヽ」のルビがあるのか。

16-2)「老衰(ろうすい)」・・年とって体の衰えること。老いて衰弱すること。

16-6)「山方(やまかた)」・・山のある地方。里方に対する山村、山林。

16-6)「蝦夷舩椴檜」・・「蝦夷舩」は「蝦夷松」の誤りか。「椴(とど)」は「椴松」。「檜」は、樺太に生育していたかは疑問、別種の樹木(翌檜=ヒバの類)か。

16-6)「元口(もとくち)」・・丸太材の根元に近い方の太い切口。反対語「末口」。

16-9)「自侭(じまま)・・自分の思うままにすること。思い通りにすること。また、そのさま。わがまま。気まま。身勝手。

『魯夷始末書』12月学習分注記

(9-1)「ソウヤ」・・現稚内市宗谷村。西蝦夷地ソウヤ場所の内。ソウヤ場所は、松前藩により、貞享年間(16884~1688)に開設されたといわれ、運上屋が置かれ、アイヌ集落も形成され、場所運営の拠点となるほか、早くから北蝦夷地、利尻、礼文のアイヌ交易の中心地となった。場所請負人は、寛延3(1750)村山伝兵衛、以降変遷を経て、文化5(1808)柏屋(藤野)喜兵衛が請負い、その後一時共同請負になったが、文化12年(1815)には再び藤野喜兵衛が単独で請負い、以後明治2(1869)まで、藤野家が経営にあたった。

(9-1)「領主(りょうしゅ)」・・松前藩主のこと。当時の藩主は12代崇広(たかひろ)。崇広は、文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として松前福山に生まれる。嘉永2年(1849)松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。三十八歳。墓は、松前町松代の法幢寺にある。

(9-2)「丑蔵(うしぞう」・・「丑」。くずし字用例辞典p12

(9-4)「シラタン」・・「シラヌシ」の誤りか。

(9-4)「立越(たちこえ」・・連用形。「たち」は接頭語。山や川などの障害物となるものを越えてゆくこと。出かける、出かけて行くこと。

(9-5)「申通(もうしとおし」・・連用形。伝言などを取り次いで申し上げること。取り次いで申し上げること。申し届けること。

(9-5.6)「勤番所」・・松前藩は、文化5(1822)の復領後、蝦夷地の警備と行政監督のため、勤番所を12ヶ所(東蝦夷地9~ヤムクシナイ、エトモ、ユウフツ、シャマニ、クスリ、アッケシ、子モロ、クナシリ、エトロフ、西蝦夷地2~イシカリ、ソウヤ北蝦夷地1クシュンコタン)を設けた。嘉永3(1850)時のソウヤ勤番所の体制は、物頭1、目付代1、組士2、徒士2、医師1、足軽(在住足軽で場所請負人の番人)4となっている。(『松前町史』)

(9-6)「領主役場」・・松前藩の藩政を取りおこなう場所、役所。8.29のロシア船来航の報告については、9.16に松前に届いている。

(9-6)「注進(ちゅうしん)」・・〔「注」は書くの意〕。事件の内容を書き記して急ぎ上申すること。事件を急いで報告すること。

(9-9)「エンルエーツ」・・日本名「真岡」か。エンルモコマプ、エンルコマフとも。

     樺太西海岸漁業の中心地。本島唯一の不凍港である真岡港を控える。『大日本地名辞書』には、「西の運上屋とて、総て西浦の漁業を括する所なり。支配人、番人居住し、甚手広なり。夷家も38軒あるよし。」とある。『樺太(サハリン)関係略地図および同地名対照表』(以下「樺太地名対照表」と略)NO67

(9-9)「斬(本ノママ)」・・「春漁為手当、□を伐」とする前後の文脈から、「斬」は、「薪」か。

10-2)「勘弁(かんべん)」・・考えわきまえること。熟考すること。

10-5)「倶々(ともども)」・・一緒に。つれだって。

10-6)「空嶋(からしま)」・・「空(から)」は、内部に本来ならあるべきものがないこと。何も持っていないこと。うつつ。例:「から元気」、「から威張」。

     「空嶋」は、松前藩士や場所請負人の支配人、番人が、樺太から居ない状態になること。

10-8)「乙名(おとな)」・・中世後期以降の村落においてその代表者あるいはその上層階層を呼ぶ名称(『日史大辞典』)。蝦夷地においては、「役土人」の名称の一つ。

     以下、「乙名」をはじめとする「役土人」について、『新北海道史』の記述を部分引用する。

【乙名、脇乙名(わきおとな)、小使(こづかい)】

     寛文の乱に敗北した蝦夷は、まったくその独立を失い、(略)今まで藩主と対等の地位にあった蝦夷の酋長は松前氏に服属することになった。その結果室町末期の自冶体の首脳をさして呼んだ「おとな」の名称が従属した酋長に用いられ、名主、庄屋と解されるにいたった。(略)さらに、各部落には乙名のほかに、脇乙名、小使が任命された。乙名は部落長、脇乙名はその補佐役、小使は乙名の命によって部落の者を号令するもので、これを三役と称し、部落の統治はこの三役を通じて行われたのである。(以下略。)

     【惣乙名、惣小使、】

     寛政ごろから場所ごとに惣乙名、惣小使などの役名が設けられ、蝦夷中の名望家をもってこれに充てた。惣乙名は一場所の乙名上に立つもので、普通はその地方一の家柄の者をもってこれに充て、(略)惣小使は場所のおける小使の上に立つものである。

      *参考 『日史大辞典』によると、『惣(そう)』は、中世に出現した村落共同体組織をいう。「惣」は、「揔」の異字で、音通に同じく、「聚束(あつめたばねる)」の意味をもつ。(『角川漢和中辞典』~「惣」は「揔」を誤って書き伝えた字)

     【土産取(みやげとり)】

     「年寄」といった役土人を監督する地位にあるものであり、乙名、小使などに準ずる格式で、オムシャの際などにはそれらとほぼ同様の待遇によって、土産を受けるものであった。

続きを読む

記事タイトル『魯夷始末書』11月学習の注記

(5-1)「与三右衛門」・・「門」は、『くずし字用例辞典』P1134

(5-1)「常蔵」・・「常」は、『くずし字用例辞典』P281

(5-1)「儀兵衛」・・「儀兵衛」の「衛」はP963。下記は「兵衛」の例(『古文書解読字典』より)参照。

(5-2)「豊吉(とよきち)」・・「豊」は、『くずし字用例辞典』P1023

(5-3)「居越(いこし)」・・「居越す」の連用形。いつづけること。

(5-4)「同月晦日」・・嘉永6年(1853829日、ロシア海軍大佐ネヴェリスコイは、陸軍少佐ブッセその他の将校と共に73名を率いてクシュンコタン沖に来航。翌30日、ボート3艘に16人が分乗して沿岸一帯の測量を始めた。そのうち主だったもの数人が上陸した。

*和暦の「月」・・大の月(30日)と、小の月(29日)とがあるが、この年の8月は、大の月で、晦日の日付は、30日であった。

    *「晦日」・・「みそか」の語源説に「ミトヲカ(三十日)の転」がある。暦の月の初めから三〇番めの日。また、月の末日をいい、一二月の末日は大みそか、二九日で終わるのを九日みそかという。尽日(じんじつ)。つごもりとも。

(5-5)「異国船」・・露米会社の「ニコライ」号。「露米会社」は、極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的としたロシア帝国の国策会社。1799年、パーヴェル1世の勅許により、正式に「露米会社」となった。

     なお、露米会社は、「ニコライ」号の使用を認めなかったが、ネヴェルスコイはそれを無視してこの船で樺太占領の航海に向かった。(秋月利幸著「嘉永年間ロシア人の久春古丹占拠」=北海道大学スラブ研究センター刊『スラヴ研究19巻』所収 1974))

(5-5)「端船(はしぶね・はぶね)」・・伝馬船(てんません)。本船に曳航または搭載され、必要に応じて本船と陸岸との往来や荷物の積みおろしに使われる小船。艀(はしけ)・脚継船(あしつぎぶね)ともいう。近世の廻船では百石積以上になると伝馬船を搭載したが、その大きさは本船の積石数の三十分の一前後が標準で、千石積では三十石積級で全長約四十尺もあり、櫓八挺と打櫂(うちかい)・練櫂(ねりかい)をもち、帆まで装備する。空荷の時は船体中央胴の間の伝馬込(てんまこみ)に載せ、積荷のある時は船首側の合羽(かっぱ)の上に搭載した。船体は本船への上げおろし作業を考慮し、一本水押(みよし)ながら先端を上棚より突出させない形式でこれが伝馬船の特徴であった。しかし軍船の場合、大型関船でも伝馬船は搭載不可能でこれを随伴させるのを常とした。そのため通常の一本水押とするなど、廻船用の伝馬船とはやや船型を異にした。また軍船の船団行動にはこのほかにも碇の上げおろし用の碇伝馬や飲料水を積む水伝馬などを伴った。

(5-6)「頭立(かしただち)」・・「頭立つ」の連体形。「かしらに立つ」の意。人の上に立つ。長となる。また、中心になる。

(5-7)「首長ノニリスコイ」・・「ノニリスコイ」は、東シベリア総督ムラヴィヨフから指令を受けてクシュンコタン占拠を指揮したロシア海軍大佐ネヴェリスコイ。なお、ネヴェルスコイは、荷揚げを完了した96日に、ニコライ号に乗って去り、ムラビヨフ哨所には、陸軍少佐ブッセ、海軍中尉ルダノフスキーの外69人の兵士たちが残留した。(『日露関係とサハリン島(秋月俊幸著)』、『新撰北海道史』)

(5-7)「プスセ」・・陸軍少佐ブッセ。ネヴェルスコイ退去後のムラビヨフ哨所の隊長となった。

(5-8)「次官ロタノスケ」・・ムラビヨフ哨所の副官・海軍中尉ルダノフスキー。なお、ロシア側資料では、上陸士官は、ネヴェリスコイ、ブッセ、ボシニャークで、日本側資料では、ボシニャークをルダノフシキーと取違えているが、ルダノフシキーは本船に待機していた。(秋月利幸著「嘉永年間ロシア人の久春古丹占拠」)

(5-9)「何か」・・影印の「歟」は変体仮名と見る。

(5-9)「更紗風呂敷」・・「サラサ」の語源はポルトガル語。人物、花、鳥獣、幾何学模様などをさまざまな色で手描きや型染めにした綿布。室町末期より南アジア諸国から輸入され、日本でも作られた。印花布、花布、更紗ともいう。

     また、「風呂敷」について、『守貞謾稿』には、「衣類、夜具のみにあらず、諸物ともに専ら風呂敷に包む。この風呂敷を昔は平裹(ひらづゝみ)と云ふなり。風呂敷と云ふは、浴室に方形の布を敷きて足を拭ふの料とする物故に、ふろしきと号く。また、古雅器、茶器等の商人は、鬱金(うこん)木綿と云ふて黄もめん風呂しきを用ふるもあり。皆必ず縦横同尺の方形なり。」とある。

(5-10)「仕方(しかた)」・・身ぶり、手まねをすること。しぐさ。

(6-2)「出来合(できあい)」・・前から作ってあって、まにあうこと。既製のもの。

(6-3)「乞請(きっせい・こっしょう)」・・こいねがうこと。こい求めること。

続きを読む

記事タイトル『始末書』10月学習の注記

【魯夷唐太嶋渡来の年代経過 ― 『新北海道史年表』より

<嘉永5年(1852)>

 ~ロシアの海軍大佐ネヴェリスコイ、ボスニャック海軍大尉に樺太探検を命じる。

<嘉永6年(1853)>

 7.18 ロシア使節プチャーチン、4隻の軍艦を率いて長崎に来航。

8.19 長崎奉行に国書を手交して、国交およびカラフト・千島の境界画定を要求。

 8.29 ロシア海軍大佐ネヴェリスコイ、カラフトの占領の命を受けて、陸軍少佐ブッセそ

の他の将校とともに陸戦隊73人を率い、露米会社の汽船ニコライ号にて樺太久

春古丹(クシュンコタン)に来航。

 9.1 上陸を開始し、屋舎、物見櫓、穴蔵をつくり、柵をめぐらした陣営(ムラビヨフ哨

所)を築く。

 9.16 樺太へ異国船来航の報が松前に届き、9.17に一番隊、9.18に二番隊を派遣。

幕府へも報告。(10.10二番隊マシケに到着、そのまま越年。)

 10.10 プチャーチン、老中に交渉開始の督促状をおくり、千島・カラフトの所属を問い、

蝦夷島に1か所開港を要求。(10.23 長崎を一旦退去) 

12.5 プチャーチンの率いる軍艦、長崎に再来航。

12.14 幕府応接掛、プチャーチンと会見。12.20より国境と和親通商について交渉開始。

*幕府応接掛の対応

・エトロフ島につては、「蝦夷ハ日本所属の人民なれハ、あいの居候処は日本領ニ候」と日本領を主張。

・カラフトについては、半分に分割もありうるが自分らでは決定しがたいと主張。

12.26 境界画定のため、日本の役人カラフトに派遣し見分することを提案。

12.28 ロシア使節より、樺太見分のために派遣する日本の幕吏に無礼のないようにとの

カラフトのロシア守備兵宛紹介状を受け取る。

<安政元年(1854) 11.27嘉永から安政へ改元>

 1.2 ロシア使節、日本領の境界をエトロフ島とカラフト南端アニワ港に限ると主張。

 1.3 幕府応接掛、エトロフ島は日本領、樺太島は、調査の上決定すると主張。

 1.8 ロシア使節、長崎出帆(上海へ)。

 2.8 目付堀利煕、勘定吟味役村垣範正、松前蝦夷地出張を命ぜられる。

 3.23 プチャーチン、長崎に来航。

3.28長崎奉行に本年6月樺太アニワ港において境界交渉を行う旨の覚書を送る。

3.29長崎退去。

 3.26 松前藩の樺太警備一番隊、樺太リヤトマリに着岸。

3.28取調べの家来、クシュンコタンに到着。

4.1クシュンコタンのロシア陣営を視察。

4.9二番隊シラヌシに到着。

 5.17 ロシア船将ポシェットら、クシュンコタン滞船のディアナ号で、松前藩の同地勤務物頭三輪持らと会見。ポシェットより幕府の露使応接掛宛書簡(アニワ湾での日露の境界画定交渉の中止と樺太のロシア兵を退去させる旨)などを受け取る。

5.18 ロシア船4隻は、滞留のロシア兵を撤収してクシュンコタンを去る。

   (『日露関係とサハリン島(秋月俊幸著)』によると、ロシア兵の撤退は、クリミヤ戦争(1853~1856年、ロシア対トルコ・英仏連合)開戦の報が届いており、英仏艦隊によるムラヴィヨフ哨所の攻撃を避けるためであったとする。)

5.28 掘、宗谷に到着(村垣は6.2到着)。ロシア人の久春古丹退去の報を受け、幕府にその状況を報告。

6.12 掘、村垣ら、北蝦夷地久春古丹に渡航。ロシア陣営を視察。それより北に進み、西はライチシカ、東はオハコタンに至る。

   (普請役間宮鉄次郎、御小人目付松岡徳次郎は東海岸タライカまで、支配勘定上川伝一郎は西海岸ホロコタン、さらに松前藩士今井八九郎はナツコまで調査。)

(1-5)「魯夷」・・ロシア(魯西亜)人に対する蔑称。「夷」は、未開の国、未開人、特に東方のえびすの意。中国人が周辺に住む異民族に対して用いた呼称に「東夷、北狄、西戎、南蛮」がある。

(1-5)「始末書」・・『大辞林』では、事故を起こした者が、その報告や謝罪のために、その間の事情を記して提出する文書とあるが、本書の始末書は、謝罪とは関係がなく、単に、事故が起こったとき、その始末(顛末)を書いて、目上の人や当局に差し出す文書の意(『角川漢和中辞典』)。

(1-6)「クシュンコタン」・・久春古丹、楠渓とも。日本領時代は「大泊」。「クシュンコタンは、宝暦(1850年代)以来、邦人の魚場を開ける処にして、松前氏出張番屋を置きし地なり。明治政府、樺太開拓使を置き、其使廳を此に定めしも政治の着手に由なし。征露戦役後、明治39(1906)まで民政署を置き、民政署を廃するに及び支廳を置き、南部の治所とす。」(『大日本地名辞書(吉田東伍著)』)

(1-6)「退帆(たいはん・たいほ)」・・船が帆をあげて帰途につくこと。たいほ。

(1-7)「御勘定評定所留役水野正左衛門」・・評定所では、寺社、町(江戸)、勘定の三奉行が、相互にまたがる事件を集会して裁判したり、国家の重大事件を裁いた。留役勘定(22人、単に「留役」とも)は、留役勘定組頭(1人)の次席で、常に評定所の立会いに列座。多忙な職務で、この職から奉行職に出世した者は幾人もいる。『柳営補任(幕臣の役職者名簿)』によれば、水野正左衛門は、嘉永7(1854)725日御勘定評定所留役より、箱館奉行支配組頭に任ぜられ、同年11月箱館に於いて死亡とある。しかし、『村垣淡路守公務日記』には、同年閏717日卒中のため、クスリ(釧路)で死亡したとある。

(1-7)「支配勘定出役矢口請三郎」・・支配勘定御勘定所の役職の一つである支配勘定(勘定の次席で、役高は100俵、御目見以下譜代席)でいながら、他の職を兼ねたものを支配勘定出役(しゅつやく・でやく)という。(笹間良彦著『江戸幕府役職集成』)

     矢口請三郎は不詳。

(1-8)「御徒目付河津三郎太郎」・・徒目付は、目付の命令によって、探偵をし、城内の宿直、大名登城の時の玄関の取締り、評定所、伝奏屋敷、紅葉山、牢獄への出役を行い、また、目付の命令によって文案の起草、旧規の調査などを行った。1005人扶持、御譜代席。人数は、50人位、ほかに西の丸にも245人位。

     河津三郎太郎は、『柳営補任』によれば、嘉永7(1854)728日箱館奉行支配調役、同年1227日同支配組頭に任ぜられている。のち、長崎奉行、外国事務総裁、更に明治元年(1868)229日若年寄に任ぜられ、幕末を迎えている。

(1-9)「御勘定奉行」・・その職は、諸国の代官を管掌し、収税、金穀などの出納と幕府領内の人民に関する訴訟を扱った。勝手方公事方があり、勝手方は、収税、金穀の出納、禄米の支給、貨幣の鋳造から河川橋梁の普請、幕府の一切の出入費について取扱い、公事方は、天領(幕府の領地)の訴訟を取扱った。幕府の財政を掌る所に老中の所掌である勘定所があり、この勘定所を直接支配するのが、御勘定奉行勝手方である。定員は4名で、勝手方2名、公事方2名。1年で交替しあう。

(1-9)「御目付」・・その職は、旗本を監察糾弾する役で、御目見以下を監察糾弾する徒目付、小人目付を支配している。定員は、享保(1720~30)頃から10名。職域は広く、礼式、規則の監察用部屋から廻ってくる願書、伺書、建議書の意見具申を将軍や老中に申し立てられる。また、殿中を巡視して諸役の勤怠を見廻り、評定所裁判にも陪席し、御台所見廻り、御勝手向、上水、道方などの廻りの分担もあった。1000石高。ここでは、堀を指すか。

(1-9)「吟味役」・・「御勘定吟味役」か。ここでは、村垣を指すか。その職は、勘定所の目付であり、御勘定奉行の相談役。勘定所関係の事務一切の検査をする役であり、非違があれば、老中に具申する権限を持ち、奉行が支配下の役人を転免させる折は連署をする。幕府で臨時出費として巨額を要する時は、その御掛となった。

     100300俵位の家禄の者(勘定組頭、評定所留役、代官など)から抜擢され、御勘定奉行、遠国奉行、二の丸留守居役へ昇進をする。定員は、当初4名、のち6名。役高は500石、御役料は300俵。部下に、吟味方改役、吟味改役、吟味下役がいる。

(1-9)「出帆懸(しゅっぱんがけ)」・・出帆の際。「懸け」は、その動作が起ころうとする直前の状態であることを表わす。「死にかけ」「つぶれかけ」。

(1-10)「差向」・・今のところ、目下、さしあたり。

続きを読む
記事検索
livedoor プロフィール
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ