森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

難船之始末

『難船之始末』5月学習の注

(25-1)「帰島」・・異本は、「帰国」とある。

(25-2)「達而(たって)」・・「達」はあて字。無理を押してもしゃにむに物事をするさまをいう。強いて。是非とも。

(25-3)「さも」・・副詞「さ」に助詞「も」が付いてできたもの。副詞「さ(然)」を強めたいい方。そのようにも。その通りにも。影印の「左」は変体仮名で「さ」。

(25-6)「与」・・「与」は、漢文の助辞。漢文訓読で「Aト与レB(AとBと)」の「与」

*「富与レ貴、是人之所レ欲也」(『論語』)

 (フウとキとは、これひとのほっするところなり)

(26-3)「船寄(ふなよせ)」・・船を寄せること。

(26-4)「掛戻(かけもどり)」・・駆け戻り。駆けてもといた場所へ帰る。

(27-1)「勝手(かって)」・・物事を行なうときなどの都合や便利。

(27-3)「入湾(にゅうわん)」・・入り込んだ湾。

(27-3)「入湾」のルビ「モトノマヽ」・・一般には「本(ほん)のまま」という。書物などを書写・校合する際に、不明の部分を原本どおり写し取ったこと。または、そのしるし。略して「ママ」と傍記することがある。

 *「本(ほん)」・・漢語では、もともと、草木の根、または根に近い部分をいうが、日本では物事のもとになるもの、根本、基本の意から、規範となるもの、主たるもの、本来的なものなどをさしていう。もとになるもの。書写されるもとの書物など、ある状況から転じて現在の姿に変わったものに対して、そのもとのものをいう。

(27-3)(クウ)(シツ歟)」・・異本は「穴居の跡」とある。なお『ふなをさ日記』には、「空室」に「あきや」とルビがある。   

(27-3のルビ)「歟(か)」・・漢文で、疑問をあわらす助辞。

(27-4)「ワニナウ」・・ウルップ島東海岸の地名。日本名は小舟。文献に現れた「ワニナウ」を拾うと、

 ・明和5(1769)・・「子年にはウルツブ島東浦ワニナウといふ処へヲロシヤ人多く乗りたる大船渡来」(『休明光記』)

 ・安永9年(1780)・・「彼もの共の乗船ウルツプ島ワニナウといふ所へ繋置しに、海浪にて山手へ打上げ、おろす能ず。(『休明光記』)

  *「海浪」は、この年18日に始まった大地震で、6月18日には最大規模に達して津波が起こったことをいう。停泊中のロシア船はナタリア号。4名が溺死。(『新北海道史年表』)

 ・天明元年(1781)・・前年のオロシヤ人(船長シャパーリン)、「小船に乗組帰国」(『休明光記』)

 ・天明4年(1784)・・ナタリア号引き下げのため派遣されたシャパーリンら、ワニナウに渡航したが、乗組員の不和も発生し、ナタリア号は放置される。(『新北海道史年表』)

・寛政7(1795)オロシヤ人ケレトプセ、ソシリ、コンネニチ数十人が、ウルップ島ワニナウへ大船で渡来、34人は家居をつくり永住、ラッコその他漁業を営むとともに、厚岸の長夷イトコエらと交易を開始した。(『新北海道史』)

(27-6)「泙合(なぎあい)」・・海が平穏の間。「なぎ」は、「凪」「和ぎ」「𣷓」とも書く。なお、愛知県豊川市の地名に「泙野(なぎの)」がある。

 *<漢字の話>「泙」・・漢文では、「ホウ」と読み、「水の勢いのさかんなさま」。「なぎ」とは逆の意味。「水」+「平」で、「なぎ」と訓じるのは、典型的な国訓。

(27-6)「両三日(りょうさんにち)」・・2,3日。「両」は、数の二。ふたつ。一般には、「両手」「両端」など、「対になっている物の双方」の意味で使われることが多い。

(27-6)「相立(あいたち)」・・相経(た)ち。(日数が)経過し。「立」は、「経ち」の当て字。

(27-7)「ラソワ人」・・中部千島ラショワ島に住む人。ラショワ島は、千島アイヌが居住していた。文2(18059月から翌年2月にかけて、継右衛門ら慶祥丸の漂流民6名がアイヌやロシア人ズヴェズドチョトフと共に滞在した。「ラソワ」は、日本名「羅処和」。  

(27-9)「和泙(なぎ)」・・当て字。「和」も、「泙」もなぎの意。「なぎ」は「和ぎ」とも書く。なお、「なぎ」の語源として、<水面がなぎ倒されたように平らになることで、「なぐ(薙)」の連用形の名詞化とする説もある。>(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(28-1)「礠針(じしん)」・・磁石の針。影印は、「礠」。

(28-2)「相極(あいきめ)」・・相決め。「極」の訓は、普通には、「みわめる」だが、古文、古文書では、「きめる」と読み事が多い。なお、現代語にも、「月極(つきぎめ)」「取極(とりきめ)」などがある。

(28-6)「時分(じぶん)」・・大体のとき。ころ。時期。

(28-8)「礼儀(れいぎ)」・・敬礼・謹慎を表わす作法。「礼」はその大なるもの、「儀」は小なるものをいう。社会のきまりにあった、交際上の動作や作法。挨拶のしかた。また、それを行なうこと。

(29-1)「然ば(しかれば・しからば)」・・先行の事柄の当然の結果として、後続の事柄が起こることを示す。順態の確定条件。そうであるから。だから。

 *「しからば」は、①順態の仮定条件(そうであるならば。それならば)を示す場合が多いが、➁順態の確定条件(そうであるからには。だから)をも表わす。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「しからば」の語誌には、<已然形に「ば」のついた「しかれば」と用法上接近して、中世末には➁の用法が多くなる>とある。

(29-4)<くずし字>「異国」の「異」・・「霊」「畢」のくずしと似ている。「異」は脚が「大」で、「霊」は、「火」、「畢」は、「十」だが、区別がつかない場合もある。

(29-5)<くずし字>「器物」の「器」・・冠と脚で構成される字は縦長になる場合が多い。

(29-5)<くずし字>「器物等」の「等」・・「ホ」の形になる。

『難船之始末』4月学習の注 

(20-1)「アトイヤ」・・日本名安渡移矢(あといや)。クナシリ島の北端の岬。エトロフへの渡航地。

(20-1)<くずし字>「衣服」の「服」・・「月」偏の1画目が短く「ノ」になる場合がある。

(20-2)「蔭(かげ)」・・かばったり守ったりしてくれる人。また、その恩恵。めぐみ。おかげ。

(20-3)「去冬中・・六人同居越年」・・文化12年(18159月初旬、督乗丸の船頭重吉、水主半兵衛、水主音吉の三人は、薩摩の永寿丸に乗った漂流民、船頭喜三左衛門水主の佐助、角次の三人と出会う。六人は、カムチャッカのペテロハバロフスクで、一緒に生活し、越冬した。

(20-6)「ハアウヱル」・・セント・パヴェル号。

(20-9)「便船(びんせん)」・・都合よく自分を乗せて出る船。

(20-921-1)「男女六人」・・『ふなをさ日記』には、「便船のもの男女都合六十八人乗」とある。

(21-1)「風順(ふうじゅん)」・・風向きのぐあい。

(21-2)「漸(ようやく・ようよう)」・・「ようやく」は、漢文訓読特有語で、仮名文学、和文脈では「ようよう」。

(21-6)<カタカナの話>「ヲホシツカ」の「ヲ」・・

①「オ」と「ヲ」の発音は鎌倉時代に区別されなくなり、五十音図上で「オ」と「ヲ」とが誤って転換したものが江戸時代まで普通に用いられた。

  「ヲ」の字母は、「乎」。「乎」の最初の第1画、2画、3画を取ったもの。従って、「ヲ」の書き方は、「フ」+「一」の2画ではなく、「ニ」+「ノ」と3画で書くのが正しい。

(21-6)「取用(しょよう)」・・現在は、「所用」を用いる。用件。用事。用向き。

(21-7)「大キニ」・・大きに。副詞。もと形容動詞「おおき(なり)」の連用形。連体詞「おおきな」が成立した室町時代以後の用例を副詞と認める)。はなはだ。たいそう。大いに。

(21-7)「愁傷(しゅうしょう)」・・人に死なれて嘆き悲しむこと。また、その嘆きや悲しみ。

(21-9)「真切(まぎり)」・・帆船の逆風時での帆走法で、船は風を斜め前からうけて開き帆とし、上手廻しまたは下手廻しをもって右開き・左開きを交互に行ないながら、ジグザグのコースをとって風上に向かって帆走すること。間切り乗り。まぎれ走り。まぎれ。

(22-2)「地方(じかた)」・・陸地の方。特に、海上から陸地をさしていう語。陸地。岸辺。

(23-2)「可参段、夫より船を後より、薩摩三人江申聞候由、夫より乗戻候節」・・異本によると、ここは、写本の写し間違いで、異本は、「可参段、薩摩人々江申聞、夫より船を後へ乗戻候節」とある。

(23-7)<漢字の話>「相成候處」の「處」・・昭和2111月の当用漢字制定当初に、「処」が「處」の新字体として選ばれた。それ以前は、「処」は「處」の俗字とみなされていた。

(23-7)「翌日」の「翌」・・古文書では、脚のある字は縦長で書かれ、2字~3字に見えることがある。

(24-2)<くずし字>「四五日」の「日」・・縦の画は、「点」になる場合がある。

 *囗(国構え)の字の縦の画も「点」になる場合がある。

(24-4)「手間取(てまどり)」・・時間がかかる。「手間」は、手を使う仕事などで、その手を動かす動作のとぎれめ。また、その次の動作までの合い間。

(24-6)「其元(そこもと)」・・其許。対称。近世、同等またはやや目下の相手に対して用いる。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「其許」「其元」はともに「そこもと」「そのもと」両様に読め、江戸後半期には「そこもと」と並行して用いられたが、「そこもと」の方が標準的な言い方であったらしい。>とある。

(24-7)<カタカナの話>「ヱトロフ」の「ヱ」・・「ヱ」の字母は「恵」。「ヱトロフ」は、漢字では、「恵登呂府」を当てた。寛政10年(1798)、近藤重蔵は最上徳内と共にクナシリ島、エトロフ島を調査し、エトロフ島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てている。

 なお、「ヱビスビール」の「ヱビス」は、「恵比寿」なので、「ヱ」を使っている。

 また、無線電話で通信文の聞き間違いを防ぐために制定された規則である総務省令無線局運用規則別表第5号では、

「ヱ」は「かぎのあるヱ」、(「エ」は「英語のエ」

「ヲ」は「尾張のヲ」、(「オ」は「大阪のオ」)

「ヰ」は、「ゐどのヰ」(「イ」は「いろはのイ」)

と呼ぶことが定められている。

(24-7)「存寄(ぞんじより)」・・「存じ寄る」の連用形。思いつく、ある考えが浮かぶの意の謙譲語。

『難船之始末』3月学習の注

     

(15-1)「抔(など)」・・漢音で「ホウ」、呉音で「ブ」。「すくう」「あつめる」の意。国訓で「など」だが、なぜ、いつから、複数を示す「など」の意に、「抔」が使われたかは、はっきりしない。

(15-1)「玉込(たまごめ)」・・銃砲に弾丸をこめること。また、装填された銃。

 *「玉込鉄砲」・・江戸時代、農作物を荒らし人馬に危害を加えるイノシシ、オオカミなどを撃ち殺すために百姓に貸与された、弾丸を込めた鉄砲。

(15-1)「仕置(しおき)」・・「仕置(しお)く」の連用形。「し」はサ変動詞「する」の連用形。しておく。処置する。しまつをつける。

(15-2)「内(うち)」・・一続きの時間。また、それに含まれるある時。

(15-3)「類(たぐい)」・・動詞「たぐう(比・類・副)」の連用形の名詞化。「たぐう」は、並ぶ。寄り添う。いっしょにいる。連れだっている。

(15-3)「等」・・音読みは「トウ」。訓読みで「など」だが、「ら」も訓読み。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「等」の補注に、

 <、「ロドリゲス日本大文典〈土井忠生訳〉」に「複数に使われる助辞はタチ、シュウ、ドモ、Ra (ラ)である。これらは名詞の後で直接に格助辞の前に置かれる。これらの語の間には敬意の度合による相違がある。〈略〉Ra (ラ)は謙遜する場合の第一人称に用い、また第二人称および第三人称をはなはだしく侮辱し軽蔑する場合に用いる。例、〈略〉Acuninra (アクニンラ)、Varera (ワレラ)、Fiacuxo ra (ヒャクシャウラ)」とある。>とある。

(15-4)「猟」・・ラッコ。普通は、「猟虎」と2字を当てる。あるいは、ここは、「猟虎、貂の皮」と読み、「虎」のルビ「トラ」を誤りと見るか。

 なお、異本は、「猟虎、豹」とある。

(15-4)「虎」・・影印は、虍(とらかんむり)が、いびつになっている。

(15-4)「貂」・・影印は、「ヒヨウ」とルビがある。「貂」は、普通は「テン」(イタチ科テン属)。なお、「ヒョウ」(ネコ科ヒョウ属)は、「豹」を当てる。

(15-6)「ヲホシカ」・・オホーツク。オホーツクは、ロシア連邦東部、ハバロフスク地方の町。オホーツク海北西岸の漁港。人口約1万。漁業コンビナート、船舶修理工場がある。極東におけるロシアのもっとも古い植民地の一つで、1647年に冬営地ができ、そこに1649年にコソイ小柵(しょうさく=砦=)が建設された。19世紀なかばまでロシアの太平洋岸の主要港で、カムチャツカ、千島、日本、アラスカなどへの探検隊の基地となった。

 なお、「オホーツク」の語源は、オホタ川という川の河口にある町なので、「オホタ」という言葉にロシア語で形容詞を作る語尾をつけたのが「オホーツク」=「オホタの(町)」の意。

(15-6)「漸(ようやく)」・・普通は、「漸く」と送り仮名「く」を伴う。「ややく(稍)」に「う」の音の加わってできた語か。他に、「やくやく(漸漸)」の変化した語、「やをやく」の変化した語などとする説がある。漢文訓読では「に」を伴って用いることが多い。

 なお、「漸(ようよ)う」は、「ようやく(漸)」の変化した語。「と」「に」を伴って用いることもある

古くは漢文訓読用語であった「ようやく(漸)」に対して、主として仮名文学、和文脈で用いられた。」また、「漸漸」「漸々」は、「ようよう」と読む。

(15-8)「煙霧(えんむ)」・・影印の「雺」は、「霧」の異体字。なお、「雰囲気」の「雰」も「きり」の意味がある。

*気象学上の「煙霧」・・地面から吹き上げられて大気中に浮かんでいる細塵(さいじん)や煙の粒子。またそれらのために遠方の風景がはっきり見えなくなる現象をもいう。気象観測上の用語で、煙霧は霧ではない。地面から吹き上げられた細塵であることがはっきりしている場合には塵(ちり)煙霧、燃焼によって生じた煙であることがはっきりしている場合には単に煙といい、そのいずれとも判別できないものを煙霧とよんでいる。

(15-9)「不得」・・「止」が欠か。「不止(やむをえず)」。

 *漢文訓読の返り点

  ①小返り(一字返りを示す)・・レ点(かりがね点=雁点)。古く雁(かりがね・ガン)の飛ぶ形

        を書いたことから。

      

 

 ②大返り

   ・一二点・上(中)下点・甲乙(丙)点・天地(人)点

(16-1)「去亥年」・・文化12年(1815)。

(16-2)「カワン」・・『ふなをさ日記地』の本文には、「カムサスカのカワン」の次に、「港の事也」と割書きがある。

(16-5)「馳走」・・<雑学>次ページ参照。

(16-6)「日本人三人」・・薩摩籓の手船永寿丸の船頭喜三左衛門と水主の佐助、角次の三人。

(17-475)「不為致(いたせず)」・・組成は、4段活用動詞「致(いた)す」の未然形「致(いた)さ」+サ変動詞「為(す)」の未然形「せ」+打消しの助動詞「ず」の連用形「ず」。

(17-8)「悦喜(えっき)」・・大いによろこぶこと。また、そのさま。喜悦。

 *促音便・・「悦(えつ)」を「えっ」とするのは、促音便。促音便は、音便の一つ。発音の便宜のために、語中において、ある音が促音に転ずる現象。活用語の連用形語尾の「ち」「ひ」「り」が、タ行音の助辞「て」「たり」などに連なる直前で起こるものが、最も多い。 「立ちて→立って」「食ひて→食って」「取りたり→取ったり」の類。ただし、その外、名詞の中で起こることもあり(夫「をひと→をっと」の類)、真白(ましろ→まっしろ)のように強調の意をこめたものもある。この現象は古くからあったと思われるが、促音の表記法が一定していなかったので、明らかでない。現在のように「っ」で表記した例は院政期ごろから見られる。

(18-1)「失費(しっぴ)」・・何かをするのについやした費用

(18-2)「ランラン」・・ロンドン。ここでは、イギリスのことをさすか。

(18-6)「イルコシツカ」・・イルクーツク。バイカル湖の西方にある商工業都市。本文の時期、帝政ロシアのシベリア総督府がおかれ、行政・経済の中心地であった。

(18-78)「さ候得ば」・・そうであるので。「さ」は「然」。影印の「左」は変体仮名で「さ」。

(18-9)「否(いな)」・・自分の発言を途中で否定したり、ためらったりするときに発することば。いや。いやそうではなく。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「否」の語誌には

 <(1)会話の中で、否定の応答として用いられたのは平安末ごろまで。それ以降は、文語として使われ続けたが、否定していることを手短かに表わす語として、「否を申す」のように、名詞として単独で、また、「否と思う」といった引用の形で、口語文の中にも多く用いられた。

(2)現代語においても、やや堅い文体の中では、「…だろうか。否、…である」のように、主張を強調するために、わざと反対の意見を前に出して否定する場合などに用いられる。>とある。

(19-1)「差帰(さしかえり)」・・「さし」は接頭語。

 *接頭語・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には

  <語構成要素の一つ。独立した一語としての機能をもたない造語成分(接辞)のうち、語や語基の前につくもの。語調を整えたり意味を添えたりする。「こ雨(さめ)」「お手紙」「御親切」「どん底」「たやすい」などの「こ」「お」「御」「どん」「た」の類。なお、「うちあける」「さしおさえる」の「うち」「さし」のように、動詞語源のたどられるものは接辞としての取扱いに問題がある。接頭辞。接頭。>とある。

(19-1)「今(いま)」・・さらに。その上に。あと。もう。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「今」の語誌に

 *「貝のいろは蘇芳(すはう)に、五色にいまひといろぞたらぬ」(土左日記)

 <旧くは、「万葉」「古今」の「今二日」「今いくか(幾日)」も、この現在の瞬間に連続する同質時間としての二日・幾日といった意味であったと考えられ、「土左日記」の「いまひといろ(一色)ぞたらぬ」も、現在のこの状況(「いま」)においては、五色には一色足りないという意味で使われていたものととらえられる。>とある。

(19-4)「如何程歟」の「歟」・・「歟」は、本来は、漢文の助字。句末に用いて疑問・反語・推量・感嘆の意を表す。「欠(あくび)」部の13画(総画17画)。なお、変体仮名の「か」にもなる。

(19-4)「無本意(ほいなく)」・・もとからの気持や意志が達せられずに残念である。

 「本意」は、現代語では「ほんい」と読むが、「ほんい(本意)」の撥音「ん」の無表記で、古文では、「ほい」と読む。

(19-6)「不便(ふびん)」・・「不憫・不愍」とも書くが、あて字。 かわいそうなこと。気の毒なこと。また、そのさま。

(19-6)「是非(ぜひ・しいひ・しひ)」・・「是非共(とも)に」の意から。是であれ非であれ共に。事情がどうあろうとも、あることを実現しよう、実現したいという強い意志や要望を表わす語。是が非でも。どうあっても。きっと。ぜひとも。

 *「儻(もしく)は所謂(いはゆる) 天道是か、非か。」(『史記』)[天道というものは信じてもよいものなのか、そうではないのか]

(19-8)「別而(べして・べっして)」・・特別に。とりわけて。格別に。ことに。

『難船之始末』2月学習の注 

      

(14-2)「馳走(ちそう)」・・(1)心を込めたもてなし。また、そのときふるまう酒や料理など。(2)うまい飲み物や食べ物。ぜいたくな食事。立派な料理。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

 <(1)江戸時代には、まだ漢語「馳走」の原義(走り回る・周旋の意)が残っていたと思われ、(1)の用法では、酒や料理の意で用いられることよりも、接待・もてなしの意で用いる方が一般的。

(2)現代語では(1)(2)の用法でのみ用いられるが、(1)の用法としては、もっぱら「ご馳走する」「ご馳走になる」の形で用いられ、形式が固定化している。

(3)江戸時代など、ふるくは「馳走になる」など「馳走」の形で用いられることもあったが、次第に丁寧語形「ご馳走」の方が一般的となった。>とある。

(10-2)「徃返(おうへん・ゆきかえり)」・・行きと帰り。また、行って帰ること。往復。

(10-4)「揚荷(あげに)」・・船舶などから陸揚げされる荷物

(10-4)「仕廻(しまい)」・・「仕舞」などの当て字がある。「し」は動詞「する」の連用形。し終える。し

(10-9)「旱必丹(カピタン)」・・船長のこと。なお、江戸時代は、オランダ商館長もさした。

 「カピタン」の当て字には、ほかに、加比丹、加必丹、加昆丹、加昆旦、甲比旦、甲必丹、葛必丹などがある。

(11-2)<漢字の話>「大工」・・①「工」を「ク」と読むのは呉音。「大工(だいく)」の外には、「石工(いしく)」「画工(がく)」「楽工(がっく)」がある。②なお「工」の解字は、にぎるところのある、のみ(鑿)の象形とも、さしがねの象形ともいう。工具の象形から、工作するの意味をあらわす。

(11-3)「ルキン」・・『ふなをさ日記』には、「ヲロシヤに随へる国にてルキンといふ所也といふ。ルキンは北アメリカなり」とある。

(11-34)「此所は魯西亜領分之内」・・アラスカは、1741年、ロシアのピョートル帝に雇われたデンマーク人ベーリングが発見した。ロシア毛皮商人が徐々に入植していき、18世紀末にはロシア・アメリカ会社が毛皮貿易を独占し、シトカを建設して19世紀初めに繁栄を誇った。しかし19世紀なかばになると、ロシアはイギリスがアラスカを奪いはしないかと恐れて、アメリカへの売却交渉を始め、結局1867年にアメリカのシュアード国務長官が720万ドルで購入した。これは当時「シュアードの冷蔵庫」などと嘲笑されたが、シュアードは太平洋にまたがる海洋帝国建設の一環として位置づけていたといわれる。1896年クロンダイクで金鉱が発見されると、アラスカ一帯でゴールド・ラッシュが起こり、カナダと国境紛争が生じたが、これも調停でアメリカに有利に解決した(1903)。

 1912年に準州となり、1959年に49番目の州として連邦に編入され、アメリカの大陸防衛体制の前哨(ぜんしょう)地域として戦略上重要な役割を担っている。

 *ロシアのアメリカ大陸進出略史(小坂洋右=ようすけ=著『流亡』参照)

 ・1725年1月・ロシア皇帝ピョートル1世が、ベーリングを長とする探検隊派遣命令に署名。

 ・1728322日、探検隊、カムチャッカのニジネ・カムチャックに到着。34日間航海して引き返す。

 ・1732428日、女帝アンナ・ヨアンノヴア、第二次探検隊を発令。

 ・17333月出発、ヤクーツクで3年間準備し、オホーツクに着いたのは1737年秋。

 ・17409月、ベーリングら一行第二次探検隊、アメリカ航海に乗り出す。

1741年、ベーリング、アラスカ海岸に上陸。

1784年、ロシアがコディアック島に拠点を建設 。

1799年 ロシアが「ロシア領アメリカ」として領有宣言し、行政を露米会社に委ねる。

1853年 ロシアがアメリカにアラスカ売却を提案。

1861329日、ロシア政府が露米会社から行政権を回収。

18671018日、ロシアがアメリカにアラスカを売却 。

1959年1月3日、アラスカ、アメリカの州に昇格。

 (14-4)穿(?)」・・「釵」はかんざし。「釵子(さいし)」は、宮中に奉仕する女官の髪飾りの一種。古くは唐制に倣って、わが国で髪上げの際に用いた2本脚の金属製のかんざしである。江戸時代、女房の晴装束のおりに、おすべらかしの前髪にあてる平額(ひらびたい)を挿すこととなり、従来の釵子をかんざしといった。釵子は平額を、宝髻(ほうけい)の名残である丸かもじと地髪に留めるために、平額の下方にある丸い二つの穴と、角の穴にかんざしを挿し込んだ。つまりかんざし3本が1組となっている。

(14-6)「気強成(きづよなる)」・・形容動詞「気強なり」の連体形。気が強いさま。

(14-6)「乱妄(らんぼう)」・・乱暴。荒々しい行ないをすること。


 

『難船之始末』1月学習の注 

(7-4)「麾(まね)キ」・・船から他船または陸地に対し、合図のため掲げる標識。近世の船方では、漂流船などが救助を求めるために掲げる標識をいい、適宜手元の筵、布、笠などを棹の先端につけて立てた。

(7-4)「マキリ䑺(ばしり)」・・間切䑺。帆船の逆風時での帆走法で、船は風を斜め前からうけて開き帆とし、上手廻しまたは下手廻しをもって右開き・左開きを交互に行ないながら、ジグザグのコースをとって風上に向かって帆走すること。間切り乗り。

(7-8)「仕形(しかた)」・・身ぶり。手まね。

 *「仕形声(しかたごえ)」・・ある作業や身ぶりなどをまねて、からだを動かし、声をはりあげること。また、その声。

 *「仕形談義」・・身ぶり、手ぶりをまじえた説教

 *「仕形咄」・・①手ぶり、身ぶりして語る話。②江戸時代、身ぶりを豊富にとり入れた笑い話。また、所作入りの落語。

 *「仕形舞」・・ことばに合わせ、身ぶり手まねで舞うこと。また、その舞。

(7-21)「尾州御船印(おふなじるし)」・・「船印」は、近世の船に広く使われた標識で、船体・帆・幟などに船主または雇主を明示するためのもの。廻米・廻銅用に幕府が傭った廻船につけた「日の丸船印」はその好例だが、本来は戦国時代の水軍が所属大名の印としてつけた標識が次第に派手となり、江戸時代には幕府・諸藩の軍船は帆に家紋または色わけの意匠、船体各部に銅製金鍍金の家紋をつけ、矢倉上にも特別に装飾的印を立てて船印と称し、また多数の幟・吹流し・しない・四半・幕などの飾り物で装飾し、それら全体を総称して船飾りと呼んだ。こうした船印により参勤交代で航海する諸大名の大船団も一見して何藩と識別できた。一方、民間廻船は船主の標識として帆に黒(稀に赤)の縦・横・斜めの線かそれらを組み合わせた簡素な印をつけたが、家紋的なものは大名船との混同を避けて使わなかった。その代り水押側面に船主の船印つまり屋号の紋章をつけ、船名幟の下部に同じ印を染める程度であった。この船印に対して帆の場合は別に帆印と呼んで区別することが多い。

 尾張藩の船印は、五本骨の黒扇、「尾」印、日の丸に「八」の字を白く抜いたものなど、いろいろあった。

(7-21-2)「浦賀御判物(ごはんもつ)」・・「御判物」は、奉行の裏判のある書類。「浦賀」は、「浦賀奉行」のこと。

 *浦賀奉行・・江戸幕府遠国奉行の一つ。江戸入津船の管理には、元和2年(1616)ごろから下田に番所が設けられていたが、風波の難が多いところから、享保5年(172012月に下田番所を廃して翌6(1721)正月浦賀にうつした。武家の船では、武器・武具、あるいは婦女、囚人・怪我人をのせ五百俵以上の米・大豆を積んだものは浦賀奉行に申告し、廻船などの商船も、漁船と空船を除いては検査を受けて証印を得ることとなった。老中支配、千石高、役料五百俵(元文二年(一七三七))、芙蓉間詰。安政ごろから開国にともない要職となり、従五位、長崎奉行の上席となった。

(7-27-8)「穿鑿(せんさく)」・・さぐり求めること。根ほり葉ほり尋ねること。

 <漢字の話>①「穿」の部首は「穴」部。解字は、「穴」+「牙」で、きばであなをほる、うがつの意味を表す。

 ②「穿」の脚の「牙」は、4画。「穿」は常用漢字ではない。

 ③ところが、常用漢字になっている「邪」、「雅」「芽」の「牙」は、1画多い「牙󠄀」で5画。常用漢字になって1画増えた。これらの旧字体の「牙」部分は4画。

 ④ところが平成22年に改訂された「常用漢字表」で追加された「牙」は、4画。

(7-28-9)「手道具(てどうぐ)」・・身の回りの小道具や調度。手具足。

(7-297-3~1)「何方(いずかた)」・・どちら。テキストでは、国を表し、どこ(の国)。

 *「何方道(どっちみち)」・・どっちみち。いずれにしても。

 *「何方不付(どっちつかず)」・・中途半端なさま。

 *「何方此方(どっちこっち)」・・複数のもののうちどれか。

 *「何方此方(どっちんかっちん)」・・どちらも。どっちもこっちも。

 *「何方此方無(どっちこっちない)」・・①優劣がつけにくい。互角である。②大したことはない。

(7-32)「ランタン」・・『ふなをさ日記』には、「ランダンとは、ヲランタといふ事成べし」とある。しかし、後に、「諳乂利亜(アンケリア・イキリス)の都ロンドン」としている。(『ふなをさ日記―地』のP8)。

(7-37)「篤実(とくじつ)」・・人情にあつく実直なこと。誠実で親切なこと。

(8-1)「丑ノ方」・・北北東。

(8-2)「皮船」・・簡単な骨組に動物の皮革などで外部を張って造った船

(8-6)「コシリヤカ」・・『ふなをさ日記』にはには「猟師は、スハコーリヤカといふ所のものなりとぞ」とある。

(8-89)「シユツハン」・・『ふなをさ日記』には「アミシスカ」とある。現アメリカ合衆国アラスカ州のアレキサンダー諸島のパラノフ島西部の町・シトカか。

(8-9)「地方(じかた)」・・海上から見て、陸地のこと。

(9-4)「名ヲハヲケカ」・・・『ふなをさ日記』は、「ヲテカ」としている。それなら、ここは、「名ヲハ(をば)、ヲケカ」と読むか。

記事タイトル『難船之始末』12月学習の注

*本テキストについて

 本テキストは、北海道大学附属図書館所蔵本である。(請求番号 奥平家116

 文化10(1813)10月江戸より帰航の途中伊豆沖で暴風に逢い、14ケ月の漂流ののち英国船に救助され、カムチャッカから薩摩の永寿丸の乗組員らとともにロシア船で帰国した督乗丸船頭長右衛門(重吉)と水主音吉の口書(くちがき)。本書の末尾に「文化十三子七月」とあるから、エトロフ島での口書と思われる。

◎『ふなをさ日記』によると、エトロフ上陸以来、重吉らは次のように各所で取り調べを受けている。

1.文化13(1816)79日・・エトロフ島シヒトロ番屋にて箱館奉行調役下役村上貞助の調べ。

2.同年720日より82日まで・・エトロフ島フルエベツ番屋に滞在中の調べ。

3.同年82日・・エトロフ島ヲトヒ番屋にての調べ。

4.同年819日・・クナシリ島トマリ番屋にての調べ。

5.同年919日より数日・・箱館奉行所にて調べられ、その口書は江戸へ送られる。

6.同年124日以後・・江戸霊岸島にて、箱館奉行江戸会所の役人に取り調べを受ける。

7.文化14年(18175月初旬・・名古屋城清水御門にて尾張藩の勘定奉行より取り調べを受ける。

8.その後2日間・・鳴海の代官所にての調べ。

(1)「奥平家文書」・・文政7年(1824)松前藩に仕官し、御側御用・町吟味役を歴任した元桑名藩士奥平貞守(勝馬)旧蔵の資料。

(1)「納屋町(なやまち)」・・現名古屋市中村区名駅(めいえき)五丁目・名駅南(めいえきみなみ)一丁目一帯。納屋町は、慶長15(1619)に掘削された熱田湊に通ずる堀川(下流に、熱田~桑名間の東海道の海路・七里の渡しの渡船場がある)に臨み、廻船問屋などが軒を並べて繁栄した。江戸時代には「納屋の富は名古屋の七分」と言われた。(川合彦充著『督乗丸の漂流』筑摩書房 1964)なお、「納屋町」の地名の由来については、「魚を入れておく小屋を納屋(なや)がけといい、苫葺の魚納屋で商売したところから、町号が生じた」とある。(ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』)

(1)「小嶋庄右衛門」・・「役所御用達」をつとめ、指折りの豪商。(『督乗丸の漂流』)

(1)「千弐百石積」・・120総トン見当。

(2-1)「長右衛門」・・「督乗丸の船頭は、長右衛門という人物で、重吉の叔父であると記録されている。漂流したときは、何かの都合で重吉が叔父の代わりに船頭として乗組んでいたため、帰国後の口書(調書)には、この名を使っている」(村松澄之著『船長日記 その信憑性と価値』風媒社 2013

(2-12)「生国知田郡半田村」・・重吉は三河湾に浮かぶ佐久島(現愛知県西尾市一色町佐久島)の百姓善三郎の次男として天明5(1785)に生まれた。15歳の時から船乗り生活に入り、後に知多郡半田村荒古(現愛知県半田市荒古町)の百姓庄兵衛の養子になった。

(2-1)「郡(ぐん・こおり)」・・①律令制で、一国の下の行政区画。郡司が管轄する。この下に郷、里があった。

(2-2)「門徒宗」・・浄土真宗の俗称。その信徒を門徒と呼ぶところからいう。「門徒」は、元来は仏教用語。『梵摩渝経(ぼんまゆぎょう)』その他にみられ、古代からあることば。初めは、門下、門人、門葉を意味し、末寺寺院の僧侶(そうりょ)をさす。その後、俗を含んだ同信者の集団をも門徒といい、親鸞(しんらん)の門弟の場合、地名を冠して、高田門徒、鹿島門徒などと称した。さらに下って浄土真宗では、もっぱら在俗の信者を門徒といった。檀家・檀徒を門徒と通称し、それを基盤に成り立つため、真宗を俗に門徒宗ともよんだ。

(2-34)「文化十酉年」・・1813年。

(2-5)「尾張様」・・尾張藩。尾張藩は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は619500石。文化10(1813)当時の藩主は10代徳川斉朝(なりとも)。

(2-5)「廻米(かいまい)」・・江戸時代に遠隔地へ米を廻送すること、またその米をいう。江戸幕府は、1620年(元和6)初めて江戸浅草に御米蔵を建て、翌年大坂に御蔵奉行(おくらぶぎょう)を置いて諸国の廻米を収蔵した。諸侯も、大坂、江戸などの蔵屋敷へ貢租米を廻送して、市中の米問屋を通じて換金に努めている。江戸、大坂などの中央市場へは多量の米が廻送されたが、それらは、天領などからの御城米(ごじょうまい)、藩からの蔵米(くらまい)のほか、商人が農民から貢租余剰米を買い付けた納屋米(なやまい)もあった。江戸幕府は、米の輸送の安全のために厳しい廻米仕法に努めたので、城米の品質や員数などが厳重に点検された。廻米には、海路が多く用いられたが、河川や駄馬も併用された。交通の整備とともに廻米量は増加し、市場に米の供給が過剰となった享保(171636)以降、幕府はしばしば江戸、大坂への廻米を制限して、米価の調節を図った。

(2-7)「師崎(もろざき)」・・多半島の先端に位置し、東に日間賀(ひまか)島・篠(しの)島を望む。南知多は尾張氏との関係が深く、その一族の師介が支配者となったので、この地名が生れたとも伝える。師崎には、遠見番所があり、船奉行が海上諸船の往来を管理した。

(2-8)<漢字の話>「売払」の「売」・・影印は、旧字体の「賣」。解字は「出」+「買」。「買」が、「かう」の意味に用いられたため、区別して「出」を付し、「うる」の意味を表す。常用漢字の「売」は、省略形の俗字による。

(2-9)「子浦(こうら)」・・現静岡県南伊豆町子浦。妻良(めら)村の北、駿河湾に臨み妻良湊の北側に位置する。妻良からの道は険しく「妻良の七坂、子浦の八坂」といわれ、渡船で往来することも多かった。文化10(1813)当湊で日和待ちしたのちに出帆した督乗丸は御前崎沖で流され一七ヵ月間太平洋を漂流した後、イギリス船に助けられた。その後ロシアなどを経て文化一四年に帰国。乗組員一四名のうちに子浦出身の音吉がおり、体験を記した水主音吉救助帰国聞書(戸崎家文書)が残り、浄土宗西林寺には音吉の墓がある。

(3-1)「相繋り」・・「袋」「災」「醤」「豊」「賀」など、脚のある字は、縦長に書かれ、二字に見える場合がよくある。

(3-1)「霜月」・・陰暦十一月の異称。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語源説に、

(1)ヲシモノツキ(食物月)の略〔大言海〕。

(2)シモフリツキ(霜降月)の略〔奥義抄・名語記・和爾雅・日本釈名・万葉考

別記・紫門和語類集〕。また、シモツキ(霜月)の義〔類聚名物考・和訓栞〕。

(3)貢の新穀を収める月であるところから、シテオサメ月の略か〔兎園小説外集〕。

(4)シモグル月の義。シモグルは、ものがしおれいたむ意の古語シモゲルから

〔嚶々筆語〕。

(5)スリモミヅキ(摺籾月)の義〔日本語原学=林甕臣〕。

(6)十月を上の月と考え、それに対して下月といったものか。十は盈数なので、十一を下の一と考えたもの〔古今要覧稿〕。

(7)新陽がはじめて生ずる月であるところから、シモツキ(新陽月)の義〔和語私臆鈔〕。

(8)シモ(下)ミナ月、あるいはシモナ月の略。祭り月であるカミナ月に連続するものとしてシモナツ

キを考えたものらしい〔霜及び霜月=折口信夫〕。

がある。

(3-2)<決まり字>「夜ニ入」の「夜」・・決まり字は形で覚える。

(3-34)「暗夜(やみよ・あんや)」・・暗い夜。

(3-9)<漢字の話>「檣(ほばしら)」・・多く「帆柱」と書く。「檣」の音読みは、「ショウ」。

 *「檣灯(しょうとう)」:夜間航行中、マストの先端に掲げる白色の灯火。「赤いガラスを嵌(は)めた檣灯が空高く、右から左、左から右へと広い角度を取って閃(ひらめ)いた」(有島武郎『或る女』)

 *「檣楼(しょうろう)」:艦船の帆柱の中間にある物見台。「艦内に行きかふ人の影織るが如く、檣楼に上る者、機関室に下る者、水雷室に行く者」(徳富蘆花『不如帰』)

(4-1)「七島(しちとう)」・・ここでは伊豆七島。行政上の管轄は、明治以前は伊豆国に属し、江戸時代には幕府の直轄領として韮山代官の支配下にあった。明治2年(1869)八丈島・青ヶ島は相模府に、その他は韮山県に属し、翌三年には八丈島・青ヶ島も韮山県に編入された。その後同四年足柄県、九年静岡県と移ったが、11(1878)東京府に編入され今日に至っている。

(4-2)「見え渡り」・・(1)全般にわたって見える。一面に見える。(2)一見してそれとわかる。見て推察される。

(4-4)<漢字の話>「其侭」の「侭」・・影印の「侭」は、「儘」の俗字。

(4-6)「登り船」・・異本は「戻り船」とある。

(4-9)「豆粥(まめがゆ・トウジュク)」・・大豆をまぜて炊いた粥。

 *<漢字の話>「粥」の音読みは「ジュク」「シュク」「イク」

 *「粥腫(ジュクシュ)」:皮膚に脂肪などがたまってできる腫瘤(しゅりゅう)。アテローム。

 *「粥状硬化(ジュクジョウコウカ)」:動脈硬化の代表的なもの。

(5-1)「切(きり)」・・「限る」意の名詞から転じたもの。「ぎり」とも。体言また

はそれに準ずる語に付いて、それに限る意を表わす。「…かぎり」「…だけ」の意。

(5-1)「仕廻(しまい)」・・物事が終わること。「仕舞」「終い」「了い」なども当てる。

(5-3)「永々(ながなが・えいえい・ようよう)」・・長い間。

(6-7)「島山(しまやま)」・・島の中にある山。山の形をしている島。また、川水などにかこまれて島のように見える山。

(6-7)「䑺船(ほぶね・はんせん・はしりぶね)」・・異本は「走船」とある。

(6-89)「万年暦(まんねんごよみ)」・・一年限りの用ではなく、いつの年にも通用する暦。日や方角の吉凶、男女の相性などを記した書物。

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