森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

町吟味役中日記

1月 町吟味役中日記注記

                          

(90-1)「熨斗目(のしめ)」:練り糸を縦に、生糸(きいと)を横にして織った絹布。また、その布地で作った、腰の部分だけ縞(しま)を織り出した衣服。江戸時代に武家の礼服として用い、麻の裃(かみしも)の下に着た。

   *「熨斗目」の語源:「のし目」という言葉の由来は定かではありませんが、本来は平織物の横段柄であったので、平織物の滑らかな風合いから、「伸し目(のしめ)」、と呼ばれるようになったとか、あるいは火伸しの道具である熨斗(アイロンのようなものでしょうか)によって平らにされた絹地という意味だともいわれています。(ウェブサイト『丸太や』HP)

   *<日常の食事のおかずは野菜が中心であっても、めでたいときの食事には、ぜひとも生臭物を口にしたいと念願した。そういう背景のなかで、仏教はたてまえとして魚食を禁じ、仏事のときの食事はすべて精進(しょうじん)料理であった。そのため仏事以外の贈答品には、精進でないことを示すために生臭物の代表として「熨斗鮑」を添えることになった。魚の鰭(ひれ)を台所の板戸などに貼(は)り付けておき、23本ひっかいて、めでたいときの贈答品に添える例もあり、鶏の羽を1本添える所もある。正月の鏡餅(もち)に大(おお)熨斗、束ね熨斗を飾るのも、婚礼の結納品目に束ね熨斗が入っているのも、凶事でないことを強調する意味があった。したがって凶事の贈答品には、熨斗をつけないのが本来の形であったが、近年は紅白の紙にかえて黒と白または青と白の紙に挟み、同色の水引で結んだ熨斗をつけることが一般化している。吉凶にかかわらず、熨斗鮑の部分に黄色い紙などを使い、また、熨斗と水引を印刷した進物用の包み紙や、金銭を贈るときに使う熨斗袋もあり、本来の意味が忘れられて形式化している。>(ジャパンナレッジ版『日本大百科全書』)

   *「熨斗」:本来は、「ひのし」(アイロン)で、「熨」を「のす」と動詞扱いに訓じた。「斗」は、ひしゃくの形をしたもの。

(90-3)「暇乞御礼(いとまごいおれい)」:「暇乞」は、別れを告げること。別れのあいさつをすること。「御礼」は、江戸時代、在府の大名が、毎月一日、一五日、二八日の月次(つきなみ)、および大礼の日に登城して将軍に拝謁すること。ここでは逝去した松前藩主道広の遺髪に拝謁すること。

   *「乞」のくずし字:楷書では「ノ」+「一」だが、くずし字では2画目の「一」を右から書き、1画目の「ノ」に続ける。

(90-3)「服紗小袖(ふくさこそで)」:袱紗小袖。江戸時代の小袖の一種。晴の小袖に対するもので、男子の場合は羽二重以外、女子の場合は綸子以外の布地を用いた小袖。

(90-4)「独礼(どくれい)」:儀式のある日、藩主に謁見する際に、ひとりで進み出ること。

(90-4)「奉(ほう)」:奉送。貴人を見送ること。お見送り申し上げること。

(90-5)「御用達(ごようたし・ごようだち)」:認可を得て、宮中・幕府・諸大名などに用品を納入する商人。

(90-5)「御目見(おめみえ)」:江戸時代、将軍に直接お目通りすること。また、それが許される身分。御目見以上は旗本、御目見以下は御家人を意味する。

   <(1)「見る」という行為を自発的なものとして表現する動詞「見ゆ」の連用形「みえ」に名詞「目」を冠した「目見え」に、さらに尊敬を表わす接頭語「お」を冠した語。女性語としては「御目文字」が使われる。

(2)「お目に掛かる」と同様に目上の人の目に見えるという婉曲表現による謙譲表現。

(3)「目見」と関連して、別に「まみゆ」の語形があるが、こちらは院政期の文献までさかのぼることができる。これに対して「目」を「め」とする「おめみえ」は、中世末から近世以降の新しい語形と考えられる。>(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』語誌)

(90-7)「犬上郡兵衛」:松前藩勘定奉行。

(90-7)「桜庭丈左衛門」:松前藩勘定奉行

(90-8)「鹿能善藏」:松前藩勘定奉行。

   *「鹿」のくずし字・異体字は、脚部の「比」が省略される場合がある。

(90-8)「三村周太」:松前藩目附。

(90-8)「桜庭左右吉」:松前藩勘定吟味役。

(91-2)「御意(ぎょい)」:主君や貴人などの仰せ。おさしず。ご命令。おことば。

(92-1)「紋付(もんつき)」:紋のついた礼装用の和服。紋服。五つ紋を正式なものとし、略式に一つ紋と三つ紋とがある。

(92-1)「上下(かみしも)」:①(上代において)上着と袴(はかま)。

②(平安・中世において)狩衣(かりぎぬ)・水干(すいかん)・直垂(ひたたれ)・素襖(すおう)などの上着と袴(はかま)とが、同色の同じ布地のもの。

③(近世において)武家正装の一つ。同色の同じ布地で作った肩衣(かたぎぬ)と袴。紋付きの熨斗目(のしめ)か紋付きの小袖(こそで)の上に着用。

*「かみしも」に「裃」を当てる場合がある。「裃」は国字。

(92-1)「具(ぐ)」:「具」は必要なものを備えることを表し、一揃 (ひとそろ) いの用具を数える。主に、衣服・器具などを数えるのに用いる。

    ふたつ以上のものがそろって完備する衣裳。「裃 (かみしも) 1具」「御衣(おんぞ)    一具」②印籠(いんろう)③輿 (こし)④数珠(じゅず)➄櫛 (くし)⑥鞍(くら)⑦駕籠

    (かご)

  *一具弓懸(いちぐゆがけ):弓を射るときに指を守るための手袋。(ジャパンナレッジ版『数え方の辞典』)

  *「」は、常用漢字。旧字体は「 」。

*「倶知安」、「倶利伽羅峠」の「」は、俗字。正字は「」。

   *ところが、「危惧(きぐ)」の「」は、常用漢字になっている。「忄」+「具」は俗字。

(92-2)「被下置(くだしおかれ)」:「下置」は、「申し渡しておく」または「与えおく」。

      「被」は、くずし字の決まり字。ひらがなの「ら」に見える。

   *訓読文「()(くだ)()」(くだしおかれ)

下は、『くずし字辞典』の「被」

(92-3)「肴(さかな)」:「酒(さか)菜(な)」の意。「な」は副食物の総称。

   酒を飲む時の副食物。酒のさかな。つまみ。

   酒宴に興を添えるための歌や踊り。酒席の余興。

*「魚」は、もともとイヲ・ウヲが用いられていた。江戸時代以降、しだいにサカナがこの意味領域を侵しはじめ、明治時代以降、イヲ・ウヲにとって代わるようになった。

(92-4)「荷(か)」:「荷」は天秤棒(てんびんぼう)の前後に下げる荷物を数える語。樽2本で「1荷」。「1駄」は酒35升入りの樽、2樽のこと。

(92-5)「不被下置」:訓読文は「()()(くだ)()」(くだシおかれず)

(92-6)「計(ばかり)」:…だけ。中古には(「ほんの…ぐらい(だけ)」の意において用いられ、やがて限定の用法が成立する。次第に限定の「ばかり」が勢力を増し、「ばかり」より語史的には古い「のみ」を侵していく。しかし、中世では副助詞「ほど」に、近世では「ほど」「ぐらい」に程度の用法を侵され、また、近世以後「だけ」「きり」に限定の用法を侵されることになる。

(92-6)「不致旨(いたさざるむね)」:ここの「不」は「可」で、「可致旨(いたすべき)」か。

(92-7)「嘉十郎」:豊田嘉十郎。松前藩町吟味役。

(93-5)「名乗(なのり)」:公家・武家の男子が元服に際して、幼名や通称のほかに新しくつける名。牛若丸・九郎に対する義経の類。実名(じつみょう)。

(93-6)「懸紙(かけがみ)」:文書(もんじょ)の上にかけて包む紙。本紙(ほんし)を包むための包み紙、封をするための封紙(ふうし)などの総称。

(93-7)「先手組(さきてぐみ)」:江戸幕府の職名の一つ。先手鉄砲組・先手弓組の併称。寛永九年(一六三二)に鉄砲一五組、弓一〇組の計二五組と定めたが、のち二八組(鉄砲二〇組、弓八組)となった。江戸城内外の警衛、将軍出向の際の警固、市中の火付盗賊改などに当たった。各藩にも同様の組織があった。

11月 町吟味役中日記注記

(83-1)「如何(いかが)」:決まり字。

(83-1)「脇差ヲ」の「ヲ」:「ヲ」の字母は「乎」。片仮名は漢字の省略で、漢字の最初の画を書くことが多い。「ヲ」の字母は「乎」。片仮名は、最初の画と、最後の画の組み合わせの場合がある。「ヲ」は「乎」の一画目と最後の四~五画目の組み合わせ。故に「ヲ」は「二」+「ノ」と、三画で書く。「フ」+「一」と二画では書かない。

(83-2)「存」:決まり字。

(82-23)「ひろへ」:ここは、「ひろひ」が本来。は行4段活用の連用形は「ひろひ」。現代仮名遣いは「ひろい」。「ひ」は変体かな・字母は「飛」。

(83-3)「七軒町」:町前城下、大松前川の東、町奉行所の前にあった。

(83-4)「弥太郎」:町方・溝江弥太郎。

(83-4)「紀兵衛」:町方・高井紀兵衛。

(83-4)「関平」:不詳。

(83-4)「元七」:町方廻り・小笠原元七。

    町方廻り一覧(『松前藩と松前』20号所収)

(83-6)「酒井大連」:松前藩の藩医・酒井子順の親類か。酒井家は、代々、松前家の藩医の家柄だった。

(83-6)「気ぶれ」:気狂(ぶれ)れ。気が狂う。

   「ふ」「れ」はいずれも変体かな。字母は現行ひらがなの字母である「不」、「礼」。

   影印は、「礼」の旧字体「禮」で、旁の「豊」の脚部「豆」の最終画が長く伸び、「し」があるように見える。

(83-8)「より」:「よ」と「り」の合字。

 

(83-9)「松前内蔵(まつまえくら)」:松前藩家老。

(84-1)「新井田周次」:松前藩町奉行。

(84-3)「限(ぎり)」:(「限る」意の名詞から転じたもの。「ぎり」とも。また、促音が入って「っきり」となる場合も多い)体言またはそれに準ずる語に付いて、それに限る意を表わす。「…かぎり」「…だけ」の意。

(84-4)「蛎崎四郎左衛門」:松前藩町奉行。

(84-5)「酒井子順(さかい・しじゅん)」:松前藩の藩医。 (『蝦夷地医家人名字彙』より)

(84-78)「通り違い」:すれ違い。

(84-52)「出精(しゅっせい)」:精を出すこと。励みつとめること。精励。励精。

(85-3)「称美(しょうび)」:ほめたたえること。賛美すること。賛称。

(85-3)「いたし度(たく)」の「度(たく)」:①「度(タク)」は、漢音。「忖度(そんたく)」「支度(したく)」など。②「いたし度(たく)」の「度(たく)」は、助動詞「たし」の連用形。鎌倉時代ごろから、漢音「タク」を利用して、助動詞「たし」の各活用形の表記に用いられた。(『漢辞海』)

  *「めでたから(ず)(未然形)」「めでたく(連用形)」「めでたし(終止形)」

「めでたき(連体形)」「めでたけれ(已然形)

  *つまり、「タク」は、元来は漢音だが、国訓の「たし」の活用にも、用いられた。

10月 町吟味役中日記注記

         

(79-1)「辰九月」:天保3(1832)9月。

(79-2)「可被相触候(あいふれ・らる・べく・そうろう)」:

*「触(ふれ)」:広く告げる。告げ知らせる。吹聴する。

(79-3)「江戸表より申来」:寄進依頼状は、最初は、幕府の大目付へ提出された。大目付は、それを受け、諸国へ通達した。その寄進依頼状が、松前藩に届いたことをいう。

(79-3)「より」:「よ」と「り」の合字。

(79-4)「向々(むきむき)」:諸方面。

(79-4)「不洩(もらざる・もれざる)」:「洩(も)る」の活用は、四段が「ら・り・る。・る・れ・れ」、下二段が「れ・れる・る・るる・れよ」とふたつある。下二段は平安中期以降用いられるようになった。組成は下2段「洩る」の未然形「もれ」+打消の助動詞「ず」の連体形「ざる」。

   *「もれ」と「もれざる」の二通りあるが、「(ざら・ざり・)ざる」はおもに漢文訓読で用いられた。

(79-5)「辰九月」の「月」:縦長に極端にくずしている。

(79-6)「御達」の「達」:シンニョウが脚部に横線のみに省略されている。旁が大きい。

(80-2)「腫病(はれやまい)」:からだがむくんでくる病気。水腫(すいしゅ)。

(80-2)「候て」の「て」:字母の1~2画目の横線が小さく書かれる場合がある。

(80-3)「石塚求吾(いしづかきゅうご)、坂本東漁(坂本東漁)」:松前藩士。

(80-5)「夜五つ時」:午後八時頃。影印の「日」+「寸」は「時」の俗字。

(80-5)平出:5行目の行末「江戸表より」で、改行している。藩主だった「松吟院」を尊敬する古文書の体裁で、「平出」という。

(80-6) 「松吟院(しょうぎんいん)」:松前藩8代藩主・松前道広の戒名。道広は天保3(1832)620日江戸で死去。享年79。墓所は松前・法憧寺。
(80-7)
「鈴木熊五郎」:松前藩御側衆。

(80-7)「高橋市之進」:松前藩小書院御側。

(80-7.8)「附添(つきぞえ・つきぞい)」:いろいろな世話をするため、主人・保護すべき人などに付き添うこと。

(80-9)「御門」の「門」:くずしは、ひらがなの「つ」のように省略される場合がある。

(80-981-1)「塀重門(へいじゅうもん)」:鏡柱、冠木、控柱、扉のうち、鏡柱と扉のみのもの。ほとんど省略した非常に簡単な門。御殿の前庭への入り口などに設けられていまた。旗指物(はたさしもの)を背中に差した騎馬武者が冠木に当たらないように通るための簡易的な門。

   *「塀」の旁の「屛」には、「へい」「おおい」の意味がある。これに土偏を加えた国字。

(81-12)「松前監物(まつまえけんもつ)」:松前藩家老。

   *「監物(けんもつ)」:由来は、令制で、中務(なかつかさ)省に属して、大蔵、内蔵などの出納(すいとう)を監察、管理した官人。

(81-2)「桜庭丈左衛門」:松前藩勘定奉行。

(81-2)「青山壮司」:松前藩目付。

(81-3)「藤林重治」:松前藩勘定吟味役。

(81-5)「被仰出(おおせいだされ)」の「出」:くずしでは、横線が1本の場合がある。
◎歴史的仮名遣いは「おせ」(ohose
◎現代仮名遣いでは、「は行」は「わ行」に読み、「ho」は「o」になる。ふりがなは、「おせ」(oose
◎連続する母音(oo)は、長音化する。
読みは「オーセ

(81-6)欠字:「候間」と「殿様」のあいだに一字空けているが、「殿様」を尊敬する古文書の体裁で欠字という。

(81-6)「殿様」:松前章広。安永4年(1775年)、8代藩主・松前道広の長男として誕生。寛政4年(1792年)1028日、父・道広の隠居により、家督を継ぐ。同年1111日、11代将軍・徳川家斉にお目見え、従五位下若狭守に叙任する。テキストのとき、天保3(1832)9月は、在国。

(81-7)「被為遊(あそばせられ)候」:補助動詞として用いられる。多く動作性の語に付いて、その動作をする人に対する尊敬の意を表わす。助動詞「る」「ます」を下につけて敬意を強める場合もある。組成は4段動詞「遊(あそ)ぶ」の未然形「遊(あそ)ば」+尊敬の助動詞「す」の未然形「せ」+尊敬の助動詞「らる)」の連用形「られ)」+動詞「候(そうろう)」。

   *なお、「遊」のくずし字は決まり字。

822)「昨今(さっこん)」:きのうきょう。きょうこのごろ。ちかごろ。現在に近い過去から現在までを含めて漠然という。

822)「川原町(かわらまち)」:近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿って南北に通ずる二筋の道のうち西側の道に沿う町。河原町とも記した。

823)「不居」:「居」は「存」か。「不存(ぞんぜず)」。

(82-5)「抜(ぬ)ヶ」:「抜く」は、ある場所から逃げ去る。のがれ出る。ぬけだす。

826)「抜打(ぬきうち)」:刀を抜くと同時に切りつけること。また、突然相手に襲いかかること。

826)「引外(ひきはず)し」:身をひいて避ける。そらす。

   *「ひき」:動詞の上に付けて勢いよくする意を添え、または、語調を強める。「ひき失う」「ひき移す」「ひき劣る」「ひきかえる」など。さらに強めて、「ひっ」「ひん」と音変化した用法も多い。「ひっつかむ」「ひんまげる」など。

9月 町吟味役中日記注記

(75-3)「九ツ時」:夜12時頃。

(75-4)「分金(ぶんきん・わけがね)」:グループの働きで得た利益や遺産などを分けること。

(75-5)「届書(とどけがき)」:江戸時代、六か月経過後なお解決しない公事訴訟・諸願事および詮議事を、上級役所に届け出る書付。解決しない理由や係り裁判官の名などが記された。

      *こもんじょでは、「届書」は、「とどけしょ」と湯桶(ゆとう)読みしないで、「とどけがき」と訓読みを通例とする。

       **「湯桶(ゆとう)読み」:「ゆ」は「湯」を訓読みしたもの、「とう」は「桶」を音読みしたものであるところから、上の字を訓で、下の字を音で読むこと。「手本」を「てほん」、「身分」を「みぶん」、「野宿」を「のじゅく」、「下絵」を「したえ」、「夕刊」を「ゆうかん」と読む類。

      *「届書」の「書」:脚部の「曰」(ひらび)が省略されることがある。

(75-6)「進達(しんたつ):下級の行政機関から上級の行政機関に対し、一定の事項を通知し、または一定の書類を届けること。

      *「進」は、「近」と似ているので、文意を勘案すること。

(75-6)「揚屋(あがりや)」:江戸時代の牢屋の一つ。江戸では、小伝馬町の牢屋敷に置かれ、御目見(おめみえ)以下の御家人、陪臣(ばいしん)、僧侶、医師などの未決囚を収容した雑居房。西口の揚屋は女牢(おんなろう)といって、揚座敷(あがりざしき)に入れる者を除き、武家、町人の別なく、女囚を収容した。各藩もこれに倣って置いた。

      *「揚屋(あがりや)入り」は、揚屋に入牢させること。また、入牢させられること。

      *「揚屋」を「あげや」と読めば、近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店のこと。

(75-7)「申付旨(もうしつく・べき・むね)」:組成は「申付(もうしつく)」の終止形+推定の助動詞「可(べし)」の連体形「可(べき)」+「旨」。

      *「可(べき)」のくずしは「一」「の」のように見える。

      *「申付候」だと、「もうしつく・べく・そうろう」

(75-7)「被 仰出(おおせ・いだされ)」:命令を発せられ。お言いつけになられ。

      *「被」と「仰出」の間のスペースは、尊敬の体裁の欠字。

(76-5)「口書(くちがき)」:江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(76-5)「印形(いんぎょう)」:墨や印肉を付けて、文書などに押すこと。古く中国では、天子の用いるものを「璽(じ)」、臣のものを「印」として区別した。

(76-7)「八木源三郎」:町奉行配下の町方勤。

(76-8・9)「溝江弥太郎」:町奉行配下の町方。

(77-1)「大目付(おおめつけ)」:江戸幕府の職名。寛永九年(一六三二)設置。老中支配に属し、幕政の監察にあたるとともに、諸大名の行動を監視した。旗本から選ばれ、定員は四名か五名で、うち一名は道中奉行を兼ねた。はじめ総目付と呼ばれ、大横目、総横目の称もある。大目付役。

(77-2)「下総国(しもうさのくに)」:北は常陸・下野、西は武蔵、南は上総、東は海(太平洋)。武蔵国境と上総国境が常総じようそう台地を形成するが、ほかは関東平野の一部。おおむね西部・北部は現茨城県西南部、南部は現千葉県北部にあたる。初め「ふさ(総)の国」、大化改新により上総と下総の2国に分かれた。「ふさ」とは麻のことであり、ふさの国はよい麻を産する所の意味。

      *「下総」の現代の振り仮名は「しもうさ」、読みは「シモーサ」。

(77-3)「意冨日皇大神宮(おふひの・こうたいじんぐう)」:現千葉県船橋市にある意富比神社(通称船橋大神宮)。社伝によれば、景行天皇40年、皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国御平定の折、当地にて平定成就と旱天に苦しんでいた住民のために天照皇大御神を祀り祈願した処、御神徳の顕現があり、これが当宮の創始という。平安時代、延長5年(927)に編纂が完成した『延喜式』にも当宮が記載されている。後冷泉天皇時代、天喜年間(105358)には、源頼義・義家親子が当宮を修造し、近衛天皇時代、仁平年間(115154)には、船橋六郷の地に御寄付の院宣を賜り、源義朝が之を奉じて当宮を再建し、その文書には「船橋伊勢大神宮」とある。鎌倉時代、日蓮聖人(122282)は宗旨の興隆発展成就の断食祈願を当宮にて修め、曼荼羅本尊と剣を奉納、

      江戸開府の頃、徳川家康(15461616)は当宮に社領を寄進、奉行をして本殿・末社等を造営し、以来江戸時代を通して五十石の土地が幕府から寄進され幕末に至る。往時の諸社殿の景観は、江戸時代末期の「江戸名所図会」に窺えるが明治維新の戦火のため焼失、その後、明治6年(1873)に本殿が造営されたのを初めとして、大正12年(1923)、昭和38年(1963)、同50年(1975)、60年(1985)に本殿・拝殿・末社・鳥居・玉垣・参道に至るまで随時造営がなされ、県文化財指定の灯明台の修復なども経て、今日に至っている。

      *「意冨日(おふひ)」:「意冨比」とも。「意」は万葉仮名で「お」、「富」は「ふ」。歴史的仮名遣いは「おふひ」で、現代仮名遣いでは「おうひ」、読みは「オーヒ」。

(77-4)「大宮司(だいぐうじ)」:明治以前、伊勢・宇佐・熱田・鹿島・香取・阿蘇・香椎・宗像(むなかた)などの神宮・神社の長官。

(77-5)「冨上総(とみ・かずさ)」:『江戸名所図会』によれば「当社大宮司富氏(とみうじ)の始祖は、景行天皇第四の皇子五百城入彦尊(いおりき・いりひこのみこと)なり」とあり、代々大宮司は富氏が務めた。

(77-8)「右  御宮」:「右」と「御宮」の間に3字分空白があるが、下に「御」がある場合、尊敬の体裁の欠字とする場合がある。

(77-9)「修覆(しゅうふく)」:普通は「修復」と「復」だが、「修覆」とも書く。文意では「修復」は「ふたたびなおす」、「修覆」は、「壊れたものをなおす」。

(77-9)「助成(じょじょう)」:仏教語。「じょう」は「成(せい)」の呉音。完成を助けること。力を添えて成功させること。物質的援助を意味することも多い。

      *「「大般若(だいはんにゃ)書写の大願有。汝助成(じょじょう)結縁すべし」(『十訓抄』)

(78-1)「府内(ふない)」:江戸時代、江戸町奉行支配に属した区域内。品川大木戸・四谷大木戸・板橋・千住・本所・深川以内の地。御府内(ごふない)。

      *「府」は、重要な書類や財宝をしまっておくくらの意味、転じてみやこ、政府の意味。

(78-1)「勧化(かんげ)」:僧侶などが、寺の堂塔や仏像の建立などのため金品を信者に勧めて出させること。転じて、寺院に対する、一般の寄付を求めることもいう。勧進(かんじん)。

(78-1・2)「勧化御免」:「勧化」で、改行している。尊敬の体裁の平出という。

(78-2・3)「勧化状(かんげじょう)」:江戸時代、寺院再建などに必要な金銭を集める行為を認めた寺社奉行の書状。

(78-3)「当辰(たつ)九月」:天保3年九月。

(78-4)「来ル未八月」:天保6年8月。

(78-4・5)「御料(ごりょう)」:江戸幕府の直轄地。全国約三〇〇〇万石のうち大体四、五〇〇万石ほどを占め、普通幕府の代官・郡代などに支配させたが、大名などに預けられることもあった。

(78-5)「私領(しりょう)」:御料所に対して、大小名の領地。

(78-5)「寺社領(じしゃりょう)」:神社、仏寺の領有、支配する土地。

(78-5)「在町(ざいまち)」:郷村と町の総称。

(78-6)「信仰(しんこう)」の「信」:旁の「言」の4画目の横線が長くなっており、「倍」のように見える。

(78-6)「輩(ともがら)」:同じような人々。ある一定の種類に属する人々を、その集団として表現する語。なかま。同類。

      *平安時代の和文資料にはほとんど用いられず、訓点資料に多用される漢文訓読語で、この語に対する和文脈語は「ひとびと」(人々)である。

      *冠部の「非」と脚部の「車」が縦長になっており、二字に見える。

(78-7)「奇進」:寄進。神社や寺院に、金銭や物品を寄付すること。奉納。奉加(ほうが)。「奇」は、「寄」が普通。

(78-6)「多少」の「多」:くずし字でよく出てくる決まり字。

(78-5・6、7)」「可(べく)」と「可(べき)」:推定の助動詞「べし」の活用は、「べく(未然)・べく(連用)・べし(終止)・べき(連体)・べけれ(已然)。

     *巡行候間(巡行致すべく候間):動詞「候」に接続するので、連用形の「べく」。

     *奇進旨(奇進致すべき旨):抽象名詞「旨」に接続するので、連体形の「べき」。

(78-7)「よらず」の「ず」:変体かな。字母は「須」。現行ひらがなの「す」の字母は「寸」。

(78-7)「御料」:直前の「旨」のあと、2字ほど空けている。尊敬の体裁欠字。

8月 町吟味役中日記注記

                    

(69~2-2)「某(それがし)」:自称。他称から自称に転用されたもの。もっぱら男性が謙遜して用い、後には主として武士が威厳をもって用いた。わたくし。「それがし」が自称にも用いられはじめたのは、「なにがし」の場合よりやや遅い。

  *他称。名の不明な人・事物をばくぜんとさし示す。また、故意に名を伏せたり、名を明示する必要のない場合にも用いる。

  *「某某(なにがしくれがし・それがしかれがし・なにがしかがし・ぼうぼう)」:だれそれ。なにがしそれがし。

某某と数へしは頭中将の随身、その小舎人童(こどねりわらは)をなむ、しるしに言ひ侍りし」〈源・夕顔〉

(69~2-3)「殿様(とのさま)」:松前藩10代藩主・章広(あきひろ)。

  *「殿」の表わす敬意の程度が低下し、それを補うために、「様」を添えてできたもので、成立事情は「殿御」と同様。室町期に「鹿苑院殿様」のように、接尾語「殿」に「様」を添えた例があり、この接尾語「殿様」が独立して、名詞「殿様」が生まれた。

(69~2-3)「御参府(ごさんぷ)」:江戸時代、大名などが江戸へ参勤したこと。章広は、この年、1012日松前出帆、118日江戸着、15日将軍家斉に拝謁している。

  *松前氏の参勤交代の様相(『松前町史』より):

  ①.初期は、参勤の間隔が長く、かつ、かなり不規則だった。

    *寛政12(1635)、参勤交代を制度化(武家諸法度)

イ. 寛永13年(1636)~慶安元年(1648)までは、31

ロ. 慶安2(1649)~延宝6(1678)までは、61

ハ. 以後、元禄4(1691)まで、31

ニ. 元禄12年以降、61観。

  ②.梁川移封期の文化4年(1807)~文政4(1821)は、江戸参府は隔年参府であった。

  ③.文政4(1821)12月の復領に伴い5年目毎参府となった。

  ④.天保2(1831)1万石格の実現により、隔年参府。

  *「参府」の「府」:原意は、重要な書類、財物をしまっておく「くら」の意。転じて役所の意味に使われた。日本では、国司の役所が置かれていた所を表し、江戸時代、幕府のあった江戸をさしていう。「在府」「出府」など。

(69~2-3・4)「提重(さげじゅう)」:提重箱。提げて携帯するようにつくられた、酒器、食器などを組み入れにした重箱。小筒(ささえ)。

(69~2-7)「昨」:日偏が省略され、「﹅」になる場合がある。

(69~2-7)「夜」:決まり字。

(69~2-7)「夜五つ時」:午後8時。

(69~2-8)「他出(たしゅつ)」:よそへ出かけること。外出。他行(たぎょう)。

(69~2-8)「宿元(やどもと)」:泊まっている家。宿泊所。

(70-3)「面体(めんてい)」:かおかたち。おもざし。面貌。面相。

(70-5・6)「うづくまり」:「蹲(うずくま)る」の連用形。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

   <仮名づかいは、平安時代の諸資料から見ても「うずくまる」が正しいが、中世後期から「うづくまる」が目立ちはじめ近世には一般化、「和字正濫鈔‐五」も後者を採る。

  類義語「つくばう(蹲)」あるいは「うつむく(俯)」「うつぶす(俯)」などの影響が考えられよう。近世には「うづくまふ」の形が散見され、「つくばう」にも「つくまふ」「つくばる」の異形がある。>とある。

(70-8)「箪笥(たんす)」:ひきだしや開き戸があって、衣類・書物・茶器などを整理して入れておく木製の箱状の家具。

  *<(1)中国では、竹または葦で作られた、飯食を盛るための器のことを「箪」「笥」といい、丸いものが「箪」、四角いものが「笥」であった。

(2)日本における「箪笥」の初期の形態がどのようなものであったか知ることはできないが、「書言字考節用集‐七」には「本朝俗謂書為箪笥」とあり、近世初期には書籍の収納に用いられていたようである。

(3)その後、材質も竹から木になり、「曲亭雑記」によれば、寛永頃から桐の木を用いた引き出しなどのある「箪笥」が現われ、衣類の収納にも用いられるようになり、一般に普及していったという。>(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(70-8)「正金(しょうきん)」:強制通用力を有する貨幣。金銀貨幣。補助貨幣である紙幣に対していう。

  *影印の「正」は、つぶれている。

(71-1)「溝江弥太郎」:松前藩町奉行配下の町方。

(71-5)「」:「のみ」。漢文の助辞で、「のみ」は、漢文訓読の用法。ほかに、「すでに」「やむ」「はなはだ」の訓がある。

  *また、「以」と類似の用法で、「上」「下」「前」「後」「来」「往」などの語の前に置かれ、時や場所、方角、数量「已上」「已下」「已然」「已後」「已来」「已往」などの熟語をつくる。

  *影印の「已」は、「己」に見えるが、筆運び。

  

(71-9)「儀倉門治」:松前藩町奉行配下の町方仮勤。

(71―9)「小野伴五郎」:松前藩町奉行配下の町方仮勤。

 

(71-9)「東西在々」:東在(松前より東の村)と、西在(同西の村)。

(72-1)「家内(かない)」:妻。自分の妻を謙遜していう場合が多い。

  ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

  <「家庭」という言葉が一般に用いられるようになる明治中期以前は、「家内」や「家」がその意味を担っていた。明治初期の家事関係の書物には「家内心得草」(ビートン著、穂積清軒訳、明治九年五月)のように、「家内」が用いられている。

  現在では「家内安全」のような熟語にまだ以前の名残があるものの、「家庭」の意味ではほとんど使われなくなり、自分の妻を指す意味のみが残る。>とある。

(72-3)「壱夜宿」:売春すること。

(72-3)「手鎖(てじょう・てぐさり)」:①)江戸時代の刑罰の一つ。手錠をかけるところから起こった名で、庶民の軽罪に科せられ、三〇日、五〇日、一〇〇日の別があり、前二者は五日目ごとに、後者は隔日に封印を改める。

  ②江戸時代、未決囚を拘留する方法。手錠をかけた上、公事宿、町村役人などに預け、逃亡を防いだ。

(72-8)「処」:影印は、旧字体の「處」。『説文解字』では、「処」が本字で、「處」は別体であるが、後世、「処」は「處」の俗字とみなされた。その俗字の「処」が、常用漢字になった。

(73-3)「申口(もうしぐち)」:言い分。申し立て。特に、官府や上位の人などに申し立てることば。

(73-8)「旅籠屋(はたごや)」:宿駅で武士や一般庶民の宿泊する食事付きの旅館。近世においては、普通に旅人を泊める平旅籠屋と、黙許の売笑婦を置く飯盛旅籠屋とがあった。食糧持参で宿泊費だけを払う「木賃(きちん)泊まり」の宿屋に対して、食事付きの宿屋をいう。

  *語源は「旅籠(はたご)」(旅行の際、馬の飼料を入れて持ち運ぶ竹かご。また、食糧・日用品などを入れて持ち歩くかご)から。

2月 町吟味役中日記注記

                         

(64-1)「書状」の「書」:くずし字では、脚部の「曰」(ひらび)が省略され、書かない場合がある。

     「書」の部首は、「聿」(イツ・ふで)で、部首名は「ふでづくり」という。

     「書」の本義は「筆で文字を書きつける」という意味で、『説文解字』に、「竹帛(つくはく)に記す。これを書という」とある。

      *「竹帛(ちくはく)」:古く、中国で紙の発明される以前、竹簡や布帛(ふはく)に文字を記したところから、書物。特に、歴史書。竹素。

(64-2)「差遣(さしつかわ)し」:「さし」は接頭語。人、物、金銭などを先方に送り与える。

     *「差遣し」の「遣」:決まり字。

(64-4・5)「昨夕(さくせき)」:昨日の夕方。

     *「さくゆう」と読むのは重箱読み。

(64-5)「今朝(けさ)」:「今朝」を「けさ」と読むのは熟字訓。

     *熟字訓:漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。昨日(きのう)、乳母(うば)、大人(おとな)、五月雨(さみだれ)など。

     *平成22(2010)改定の常用漢字表と同時に制定された熟字訓では、過去(昭和56=1981=)の110個から6個増えて、116個になっている。

     <追加された熟字訓>鍛冶(かじ)、固唾(かたず)、尻尾(しっぽ)、老舗(しにせ)、真面目(まじめ)、弥生(やよい)

(64-6)「泊り川町」:現松前町字月島。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。枝ヶ崎えだがさき町の東隣で、海岸に沿って伝治沢川(大泊川)に至る細長い町域。大松前澗・小松前澗ほど広くはないが、泊川の澗などを控え城下では重要な地区の一つであった。文化(180418)頃の松前分間絵図によると大坂を境に西を上泊川町、東を下泊川町と称した。上泊川町は155間、下泊川町は210間。また西側を泊川町、東側を下泊川町とよぶ場合もあった。

(64-7)「申聞置(もうしきかせ・おく)」:「申聞(もうしきか)す」は、「言い聞かせる」の謙譲語。「言い聞かせる」を重々しく言う。告げ知らせる。道理を述べて教えさとす。

(65-4)「光善寺」:現松前町字松城にある寺院。近世の松前城下寺てら町に所在。文化(180418)頃の松前分間絵図によると法幢寺の南、龍雲院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1602)(福山秘府)。元和7年(1621)五世良故が後水尾天皇に接見した折宸翰竪額ならびに綸旨を与えられたと伝え、これを機に松前藩主の菩提所の一つに列することになった。文化五年・天保9年(1838)の二度にわたる火災の都度再建(寺院沿革誌)。寺蔵の永代毎年千部経大法会回向帳によれば、永代供養のため五〇〇余人の城下檀信徒が加わっており、そのうちの約二〇〇人が商人であった。明治元年(1868)に正保2年(1645)から支院に列していた義経山欣求院を合併(寺院沿革誌)。同6年の一大漁民一揆である福山・檜山漁民騒動の際正行寺とともに一揆勢の結集の場となった。同36年仁王門・山門・経蔵などを残して焼失した(松前町史)。本尊の木造阿弥陀如来立像は道指定文化財。朱塗の山門・仁王門は宝暦2年(1752)の建立。

     *本堂前にある高さ約8m、幹回り5.5m、樹齢300年以上とされる古木「血脈桜」(けちみゃくざくら)が有名。

(65-5)「三衣(さんえ)」:「え」は「衣」の呉音。連声(れんじょう)で「さんね」とも。僧の着る大衣(だいえ)、七条、五条の三種の袈裟(けさ)のこと。大衣は街や王宮に赴く時に、七条は聴講、布薩などの時に、五条は就寝、作務(さむ)などの時に着る。

     *三衣一鉢(さんえいっぱつ):三衣と一個の食器用の鉢。転じて僧侶が携帯するささやかな持ち物。

     *連声(れんじょう):国語学上,前の音韻とそれにつづく音韻とが合して,別個の音になること。〈ン〉でおわる漢字または〈ツ〉でおわる漢字が,ア行音(またはワ行音)ではじまる漢字と結びつく場合におこる上のような音変化を連声とよぶ。

      ギン・アン→ギン・ナン(銀杏)、サン・イ→サン・ミ(三位)

     セツ・イン→セッ・チン(雪隠)、ニン・ワ・ジ→ニン・ナ・ジ(仁和寺)

     オン・ヨウ・ジ→オン・ミョウ・ジ(陰陽師)、イン・エン→イン・ネン(因縁)

     カン・オン→カン・ノン(観音)

(66-3)「水主(かこ)」:「か」は楫(かじ)、「こ」は人の意で、「水主」は当て字。

     江戸時代、船頭以外の船員、または船頭、楫(かじ)取り、知工(ちく)、親仁(おやじ)など幹部を除く一般船員のこと。櫓櫂を漕ぎ、帆をあやつり、碇、伝馬、荷物の上げ下ろしなど諸作業をする。語源説に<応神天皇が淡路島で狩りをしていた時、鹿の皮の衣を着た人達が舟を漕いで来たのを見て、彼らをカコ(鹿子)といったことから>がある。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(66-3・4)「水主供三人」:徳力丸の船頭・元三郎、仮船頭・                    庄吉、船工表役共新兵衛の三人。

(66-7)「杦野儀兵衛」の「杦」:国字。「杉」の旁「彡」(さんづくり)の書写体に従って「久」に改めたもの。人名漢字になっていない。苗字に、人名漢字でない漢字の使用は制限されていない。

*人名用漢字は「人名用漢字」は、日本における戸籍に子の名として記載できる漢字のうち、常用漢字に含まれないものを言う。法務省により戸籍法施行規則別表第二(「漢字の表」)として指定されている。

(66-8)「第次郎」:熊石村の故弘前屋第次郎。故第次郎の親類が同村の佐野権次郎を相手取った問題について、町奉行で吟味を行った。「双方」とあるのは、第次郎の親類側と佐野権次郎側のこと。

*「第次郎」の「第」:テキスト影印「は俗字。

(66-8)「跡式(あとしき)」:①家督相続人。遺産相続人。跡目。あとつぎ。②相続の対象となる家督または財産。また、家督と財産。分割相続が普通であった鎌倉時代には、総領の相続する家督と財産、庶子の相続する財産をいったが、長子単独相続制に変わった室町時代には、家督と長子に集中する財産との単一体を意味した。江戸時代、武士間では単独相続が一般的であったため、原則として家名と家祿の結合体を意味する語として用いられたが、分割相続が広範にみられ、しかも、財産が相続の客体として重視された町人階級では、財産だけをさす場合に使用されることもあった。

      *「跡式」は、鎌倉時代以後の語。「後職(あとしき)」の意から。事情。有様。次第。様子。有様や様子、ことの次第を表わす意味は、本来の漢語「式」にはない日本独自のもので、一三世紀後半から現われる。

      *「これしき」など接尾語としての用法は、この(5)の意味に由来し、言外に仄めかされる多数の同種同類のものを包含して卑下や軽視の感を添える。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(66-9)「もの共」の「も」:変体かな。字源は「毛」。現行ひらがなの「も」は、横線は2本だが、「毛」から「も」くずす過程で、「毛」の1画目の「ノ」を含め、横線が3本になっている。

(66-9)「他行(たぎょう)」:その場を離れてよそへ行くこと。他の場所へ出かけること。

(66-9)「落着(らくちゃく)」:江戸時代、人殺し、喧嘩などの判決のように、それですべて決着がつく判決のこと。境界争い、水争いのように、将来にかかわることを判決する裁許に対する語。

(67-3)「昼立(ひるだち)」:昼、旅立つこと。日中に出発すること。

(67-4)「熊石村」:現二海郡八雲町のうち。熊石村は、近世から明治35年(1902)までの村。爾志郡の北部に位置し、西は日本海に面する。北境に分水嶺の遊楽部ゆうらつぷ岳(見市岳)があり、大部分は山地・丘陵地で、その間に谷を形成して関内川・平田内ひらたない川が南西流して日本海に注ぐ。「地名考并里程記」は「熊石」について「夷語クマウシなり」とし、クマとは「魚類、又は網等干に杭の上に棹を渡したる」の意味、ウシは「生す」の意味とする。また浜辺に熊の形の岩があるので熊石と称したともいう(西蝦夷地場所地名等控)。松浦武四郎は「熊石の義ハ此処より少し北ニ雲石と云るさまざまの色彩有岩有。其を以て当村の名となセしもの也。然るニ今其名も転じて熊石とよび、此処も熊石と転じた」とも(「蝦夷日誌」二編)、「本名はクマウシにして、魚棚多との訛りしなり。村人は夷言たる事を忘て、雲石とて雲の如き石有故号くといへり」とも記す(板本「西蝦夷日誌」)。

      *熊石町は、平成22年(2005)年101日、渡島支庁管内の八雲町と支庁を越えて合併した。新設合併で新町名は八雲町。同時に二海郡が新設される。現在の熊石町地域は渡島支庁に編入される。これに伴い、檜山支庁は南北に分断された(飛地)。

(68-2)「博知石町(ばくちいしまち)」:現松前町字博多。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。博知石の地名について上原熊次郎は「夷名パウチウシなり。交合なす所と訳す。扨、パウチとは交合、ウシとは成す亦は所とも申事ニて、則、此所に岩屋ありて此内にて昔時夜な夜な若きもの共さゝめことをなしたるものあるゆへに地名になすといふ」と記す(地名考并里程記)。武四郎は「町ニ大なる岩石有。其形ち中窪くして其半は土ニ埋れたり。土人云、古え此石の中ニ隠れて博知打たりと。其故ニ号ると云伝ふるなれども、案ずるニ此口の窪き処姥口ニ似たれば姥口石と云しかとも思わる」と述べる(「蝦夷日誌」一編)。南は海に面し、唐津内沢川と不動川(愛宕川)に挟まれた地域。東は唐津内町、西は生符町、北側の台地上は愛宕町。

(68-2~69-3)「今別(いまべつ)」:現青森県東津軽郡今別町。東は一本木村・鍋田村、南は大川平(おおかわたい)村、西は浜名村に接し、北は津軽海峡・三厩湾に面する。大川と長(ちよう)川(京川)の間に集落がある。弘前藩では領内の重要な湊に町奉行を置いて管理させ、九浦とよんだ。今別と蟹田は小さいが、材木の積出しにより重要なため加えられ、通称は村であるが、検地帳には今別町とある。

(69-2~9)「津軽産物方・・」:このくだりについて、板橋正樹著『文政八年から天保八年における町奉行・町吟味役就任者と勤務叙状況』(『松前藩と松前』18号所収)には、工藤庄兵衛による津軽国の産物方(柴田善之丞または柴田善藏)と濱屋与惣右衛門からの借金返済の遅延に関する問題であった」とある。

(69-2)「濱屋与惣右衛門」の「右衛門」:「兵衛」と書いた後に「右衛門」と上書きしたように見える。

(69-3)「貸(か)り」の「貸」:<あるものが、それを持っている人から他の人へと一時的に移動する場合、日本語では人を中心に現象をとらえて、もと持っていた人から見ると「かす」、相手の人から見ると「かりる」と表現します。しかし、中国語では、ものを中心に現象をとらえて、とにかくその所有者が一時的に変わることを、「借」「貸」と表現するのです。この2つの漢字は、中国語では基本的な意味は同じなのです。その結果、中国語としての「借」「貸」は、日本語に翻訳するときには「かす」「かりる」の両方の意味で訳せることになります。・・漢和辞典で「借」「貸」を調べると、意味として「かす」も「かりる」も載っているのは、そういうわけなのです。>(大修館書店ホームページ『漢字文化資料館』より)

(69-4)「柴田善之亟」:P4には、「弘前国産方柴田善藏」とある。

(69-7)「證文」の「證」:「証」の正字(旧字体)。「證」の解字は「言葉を下から上の者にもうしあげるの意味」(『新漢語林』)

(69-7)「拾五通」の「五」:くずし字は、「力」+「一」のようになる場合がある。

1月 町吟味役中日記注記

(60-2~3)「仮船頭」・・船頭の下の副船頭役。また、当該船の船頭が不在の際、他船

の船頭が臨時に雇われる場合もいう。

(60-2~3)「知工(ちく)」:近世、廻船での船員の職制上の一役。積荷の出入りや運航経費
   の帳簿づけなど船内会計事務をとりしきる役。表役・親司(おやじ)とともに船方三役と呼ば
   れて船頭を補佐する首脳部。一般に日本海側で使われるもので、太平洋側では賄(まかない)
   と称し、また廻船問屋などの交渉で上陸する仕事が多いため、岡廻り・岡使いとも呼ばれた。

(60-2~3)「表役(おもてやく)」:江戸時代の廻船における乗組の役名。親司(おやじ)、賄(まかない)とともに船頭を補佐する首脳部で、いわゆる船方三役の一つ。船首にあって目標の山などを見通し、また、磁石を使うなどして針路を定める役。現在の航海長に相当するもの。表。表仕。

(60-2~3)「共(とも)」:兼業の意味。

(60-2~5)「手代(てだい)」:近世以降の商家奉公人で、一人前の店員として営業活動に従事するもの。

(60-2~6)「相尋(あいたずね)」の「相」:旁の「目」は省略され、偏の「木」だけのようになる場合がある。

   *「相(あい)」は、動詞の上に付けて、語調を整え、改まった気持ちを添える。

   *「相」の部首は「目」。解字は、「木」+「目」で、木のすがたを見るの意味から、一般に、事物のすがたを見るの意味を表す。つまり、「木」は、「目」を見ない。

   「目」が「木」を見る。だから、「目」部。

(60-2~7)「高田屋嘉市」:高田屋嘉兵衛の弟金兵衛の養子。金兵衛は、天保2(1831)

5月、雇船大阪伊丹屋持船栄徳新造が、ロシア船との幟合わせをした密貿易の嫌疑で、同年10月船頭以下十余名が江戸に送られ、評定所で取調を受けた。

嘉市は、翌年910日、江戸から松前に護送され、預かり宿能登屋八九郎へ預けられ松前藩町奉行の監視下におかれた。

(60-2~7)「宗門人別改(しゅうもんにんべつあらため)」:江戸時代に宗門改めと人別改めを複合し村ごとに作成して領主に提出した戸口の基礎台帳。宗門人別帳・宗旨人別帳・宗門改帳・家別帳、単に宗門帳ともいう。兵農分離によって領主は城下町に居住させられたから、所領内の人間を把握し夫役負担能力を調査する人別帳を必要とした。当初は、宗門改めと人別改めは別のものであり、宗門改帳の作成は幕領に限られていたが、寛文5(1665)になると幕府は諸藩にも宗門改帳の作成を命じ、同11(1671)からは毎年作成を令した。こうしてこの年以降、支配関係を問わず武士・町人を含む全国民が制度上仏教徒として登録され、しかも人別改帳が変質して毎年宗門人別改帳が作成されることになった。これを寺請制度という。

   領民としての公的身分は宗門人別改帳に登録されることによって成立し、そこから除かれたものは無宿として身分とともに領主の保護をも失った。人口史料としての価値は高いが、本籍人口を記したものが大部分で、出稼奉公なども含めた現住人口を記したものもある。

明治4(1871)寺請制度が廃止され戸籍法が作られて、宗門人別改帳は戸籍へと引き継がれた。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』)

(60-3~2)「候得共(そうらえども)」の「候」:極端に省略される場合、「﹅」になる場合がある。

(60-3~3)「差留置(さしとめおき):「留置(とめお)く」は、他の所に行かないようにとどめておく。じっとさせておく。動かさないでおく。

   *「さし」は接頭語。「差す」の連用形から。動詞に付いて、意味を強めたり、語調を整えたりする。「差し並ぶ」「差し集(つど)ふ」など。現代、接頭語「さし」である「差し出す」は、日常に使われる用語となっている。

(60-3~6)「請書(うけしょ・うけがき)」:江戸時代、判決を承認した旨を記して裁判所に提出した文書。裁許請証文。請証文。

   *「請書」の「書」:決まり字。脚部の「日」が省略される場合がある。「出」と似ている。

(60-4~7)「枝ヶ崎町」:現松前郡松前町字福山。近世から明治33(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川下流左岸に位置する。西は大松前町と接し、東は泊川町。

(60-4~8)「行司」:江戸時代、町内または商人の組合などで、その組合を代表して事務を執り扱う人。

(61~1)「唐津内町(からつないまち)」:現松前郡松前町字唐津。近世から明治三33(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内の地名について上原熊次郎は「夷語カルシナイなり。則、椎茸の沢と訳す。昔時此沢の伝へに椎茸のある故に地名になすなるべし」と記す(地名考并里程記)。

南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢を境に博知石(ばくちいし)町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(61-2)「欠落人(かけおちにん)」:江戸時代において失踪一般を欠落と呼んだ。出奔・逐電・立退などの語も用いられたが、法律上もっともよく用いられたのは欠落。

   江戸時代において封建領主は年貢確保のために、田畑の年貢を負担する地主が逃亡することをもっとも恐れた。家族や奉公人も労働力としてその失踪に大きな関心を持たれた。江戸・京都や大坂などの町人は地子すなわち年貢は免除されているが、事実上年貢に代わるべき夫役(ふつう銀納)を負担していたのであるから、かれらの欠落も農民のそれに準ぜられた。

   幕領の場合農民が失踪すると、その村の村役人は親類・五人組とともに代官役所に届け出なければならない。この届けを怠ると、名主・五人組は処罰される。届けを受けた代官は、欠落人の親類・村役人に三十日を限って、その捜索を命じるとともに、その旨勘定奉行に届け出る。三十日の間に見つからないと日限を延ばし、合計六切(きり)百八十日までの捜索が命じられるが、のちには手数を省くために、はじめから百八十日の日限(ひぎり)尋ねを命じることになった。六切尋ねでも見つからないと、尋ね人らは処罰されるとともに、改めて無期限の永(なが)尋ねが命じられる。永尋ねが命じられるとともに、欠落人の財産の相続が開始される。欠落百姓の田畠は古くは没収されたが、中期以後は、無罪の欠落人については相続が許された。百姓の跡株については分地の制限があったが、欠落人の田畠に限って二石、三石などに分割することは認められた。跡株である田畠の相続については代官の許可を必要とした。町方の場合、たとえば江戸では寛政三年(一七九一)までは欠落家持の家屋敷は没収されたが、同年町法改正の際に、妻子に相続させることになった。地借については、建家と家財は妻子に取得させた。欠落人に罪科がある場合には、農民・町人を問わず、その財産は没収された。『公事方御定書』下によれば、夫が家出してから十ヵ月を経たなら、妻は再婚を願い出ることができる。再婚によって失踪した夫との婚姻は解消したが、この十ヵ月間は夫の所在が全然不明であり、かつ全然妻方に音信がないことを要した。十ヵ月はのちには十二ヵ月としている取扱いもあった。妻の行衛が知れないときは、十ヵ月たてば、夫は妻または妻の父兄に離縁状を渡さないで再婚できた。欠落人が帰住すると、その親類・組合・村役人は帰住願を代官役所に差し出す。欠落人は欠落の原因その他について取調べを受けるが、欠落自体については、急度叱(きっとしかり)に処せられる例であった。きわめて軽い刑であるが、これは封建領主が欠落人の帰住を望んでいたからであろう。欠落した者は、久離され、除帳(帳外)されることがあるが、これらは必然的に欠落に伴うものではない。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』)

(62-1)「沖船頭(おきせんどう)」:江戸時代、船長として実際に船に乗り込む運航の責任者。乗船頭。船主を居船頭と呼ぶのに対する語。

(62-2)「乗水主(のりかこ)」:上乗水主。江戸時代、運賃積みの廻船に同乗し、目的港に着くまで荷主に代わって積み荷を管理すること。また、その責任者。悪天候による投荷やその他船中の事柄一切に関し、船頭は上乗と協議する必要があった。

   *「水主」:ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<「か」は楫(かじ)、「こ」は人の意>とし、語源説に、「応神天皇が淡路島で狩りをしていた時、鹿の皮の衣を着た人達が舟を漕いで来たのを見て、彼らをカコ(鹿子)といったことから」を挙げている。

(62-3・4)「下代(げだい)」:下級の役人。下役(したやく)。『松前藩士名前控』には、沖の口下代として、宮嶋庄右衛門、桜井仁右衛門の名がある。

(63-1)「御徒(おかち)」:江戸時代の武士の一身分、また武家の職名。徒士・歩行とも書く。武士身分としての徒は徒侍とも称し、将軍・大名、大身の直参・陪臣の家中にみられる、騎乗を許されない徒歩の軽格(最下級、准士格)の武士をいう。諸家中の身分は、大略、士分である侍・徒、軽輩である足軽・中間に区別されていた。慶長8年(1603)正月に、徒組の組衆として、「走り衆」四組を設置した。

(63-1)「箱館御徒(はこだておかち)遠山利左衛門」:『松前藩士名前控』には、「新組御徒士」として、高橋保平、白鳥孫三郎、遠山利左衛門の名がある。

(63-1)「町医」:町医者のこと。近世、幕府・朝廷・大名の庇護なく、市井にて開業した平民の医者をいう。すなわち朝廷医官・幕府医員・藩医のいずれにも属さない民間医師。明治八年(一八七五)文部省より医術開業試験実施の布達がなされるまでは、わが国では諸外国と異なり、何人も自由に医者となり医療活動を行うことができた。社会的身分は人によってさまざまであったが、一般的には、町医は現在の医師よりはるかに低い地位にあった。

   *「医」:旧字体は「醫」で「酉」(ひよみのとり)部。「酉」は酒つぼの象形。「醫」の冠部の「殹」は、「エイッ」という、まじないの声の擬声語。治療に薬草酒を用いるようになり「酉」を付し、病気をなおす人の意を表す。常用漢字の「医」は「醫」の省略体による。

(63-5)「大濱(おおはま)」:現青森市大字油川字大浜。嘉永3年(1850)の「東奥沿海日誌」に「人家弐百軒斗。小商人酒屋船問屋農漁入交り。随分繁花の市町也。又此村のはしに大浜といふ有。則油川と人家つゞき成故に今は一村の如くなれり」とある。これより先、菅江真澄は、天明8年(1788)79日にこの地を訪れ、油川の地名伝承を記した。「むかし皐(サワ=水岸)に鶴の子うめるが野火のかゝりてやけわたるを、めづる、子をおもふの心せちに翅やかれたれば、おづるも飛来て羽をふためかし、ともに死にたり。その鳥のあぶらの流たれば、大浜の又の名を油川とはいふとなん」

11月 町吟味役中日記注記

                         

(50-3)「相対(あいたい)」:合意すること。相談のうえ、互いに納得して事を行なうこと。あいたいずく。

     *相対死(あいたいじに)は、江戸時代の法律用語。心中、情死のこと。心中が、近松などの戯曲により著しく美化され、元祿頃から流行する傾向にあって、風俗退廃の大きな原因となったため、八代将軍吉宗が心中に代えて使わせた語。

(50-4)「与者(とは)」:格助詞「と」に、係助詞「は」が付いたもの。説明・思考・知覚などの対象やその内容を取り立てていうのに用いる。

     *「与」を「と」と読むのは、漢文訓読の用法。変体仮名ではない。変体仮名では「よ」の字源。

     *「と(与)」の語法

      ①並列。

(ア)および。「…与レ~(…と~と)」の形で同等に結ぶ。

例「堯乃賜舜絺衣与一レ琴」

<堯(ぎょう)すなわち舜(しゅん)に絺衣(ちい)と琴(きん)とを賜(たま)う」(そこで尭は舜に上等な葛布の衣と琴とを与えた)〈史記・五帝本紀〉

(イ)従属。…と一緒に。つれだって。…と。…に。「与レ…(…と・…とともに)」の形で動作にしたがう対象を示す。

例「項梁殺人、与籍避仇於呉中

<項梁(こうりょう)人を殺し、籍(せき)とともに仇(あだ)を呉中(ごちゅう)に避(さ)く>

(項梁は人を殺し、籍とともに仕返しを避けるため呉中に逃れた)〈史記・項羽本紀〉

(ウ)対象。…と。…に。「与レ…(…と・…に)」の形で動作の対象を示す。

例「与項羽別而至高陽

<項羽(こうう)と別れて高陽(こうよう)に至る>

(項羽と別行動をとって高陽に到着した)〈史記・酈生(れきせい)列伝〉

        ▼対象が文脈により省略された場合は「ともに」と訓読する。

例「豎子不与謀

<豎子(じゅし)はともに謀るに足らず>

豎子豎子(小僧は話し相手にならぬわ)〈史記・項羽本紀〉

(50-5)「候節」の「節」:決まり字。

(50-6)「兼々」の「兼」:決まり字。脚部が「灬」(れっか)のようになる場合がある。

(50-8)「停止(ていし・ちょうじ)」:「停」を「ちょう」と読むことについて、ジャ『日本国語大辞典』は「呉音」とし、『漢辞海』『漢語林』は慣用音とする。

      *慣用音:呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」と読むなど。慣用読み。

(50-8)「停止之所」の「所」:決まり字。偏の「戸」は、「ニンベン」のように見え、旁の「斤」は「石」のように見える。

(50-8)「改(あらた)め」:調べただすこと。江戸時代、公儀の役人が罪科の有無、罪人・違反者の有無などを吟味し取り調べること。取り調べ。吟味。

(50・2-1)「不束(ふつつか)」:江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つで、叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合には「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。

*聞訟秘鑑‐一口書詰文言之事(古事類苑・法律部三一)「御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可成と見込之分は、不束或は不埒と認、所払、追放等にも可成者は、不届之旨と認」

*「不束」は当て字。本来、「太し」と関係のある語で、太い様子や、太くて見苦しい様子をいう。さらに、細かい配慮に欠ける様子をもいい、否定的であるところから、「不」の字を当て字に用いるようになる。(ジャパンナレッジ版『小学館全文全訳古語辞典』)

(50・2-1)「過料(かりょう)」:江戸時代の刑罰の一種。銭貨を納めて罪科をつぐなわせたもの。軽過料、重過料、応分過料、村過料などの種別があった。

      *徳川禁令考‐別巻・棠蔭秘鑑・「享保三年極一、過料三貫文、五貫文。但、重きは拾貫文、又は、弐拾両、三拾両、其者之身上に順ひ、或村高に応じ、員数相定、三日之内為納候、尤、至而軽き身上に而過料差出かたきものは、手鎖」

(50・2-1)「銭(せん・ぜに)」:金銭。硬貨。

*九十六(くじゅうろく)の銭百(ぜにひゃく):江戸時代、銭九十六文を百文として計算したこと。転じて、すこし足りないことのたとえ。

(50・2-1)「貫文(せん・さんかんもん)」:貫。銭を数える単位。一文銭1,000枚を一貫とする。江戸幕府は、寛永通宝(一文銭)を鋳造するようになってから、銭と金の比価を四貫文対一両と公定した。

      *「三貫文」の「貫」:決まり字。冠部が「丑」、脚部の「貝」が繰り返し記号のように見える。

(50・2-2)「手鎖(てじょう)」:「錠」「鎖」は当て字。罪人の手に施す刑具。鉄製瓢箪型で、両手にはめて錠をかけ、手が使えないようにするもの。てがね。てぐさり。江戸時代、未決囚を拘留する方法。手鎖をかけた上、公事宿、町村役人などに預け、逃亡を防いだ。

(50・2-2)「宿預ケ(やどあずけ)」:江戸時代、未決囚拘禁の方法の一つ。出府した被疑者を、取調べ期間中公事宿(くじやど=江戸宿)に預けること。手鎖(てじょう)、過料、叱(しかり)など軽い罪にあたるものに用いられた方法で、重罪のものは入牢させた。

(50・2-3)「憐愍(れんびん)」:あわれむこと。なさけをかけること。あわれみ。れんみん。

(50・2-5)「加州」:加賀国。

      *影印の「州」は、異体字「 」の省略体。

(50・2-10)「初而(はじめて)」の「初」:旁の「刀」が「百」のように見える。

(50・2-10)「当所」の「当」:脚部が「舟」「丹」のように見える。

(50・2-10)「入津(にゅうしん・にゅうつ・にゅうづ)」:「津」を「つ」と読むのは、訓読み。「入津」を「にゅう・つ」と読むのは重箱読み。

      *和語で、海岸・河口・川の渡し場などの、船舶の停泊するところを「つ」といったが、漢字伝来で、「津(しん)」が「つ」と同じ意味であることから、「津(シン)」に「つ」を当てた。「津波(つ・なみ)」「津々浦々(つつ・うらうら)」など。

(51-1)「法度(はっと)」:おきて。さだめ。法律。法。

      *「はっ」「はっ」は、慣用音(漢字音の呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音)。「法被(はっぴ)」「法華(ほっけ)」「法主(ほっす)」など。

      *『漢辞海』には<「ホッ」「ハッ」の音は、日本語になじまない「ホフ」「ハフ」の発音を避けて促音化したもの。>とある。

(51-2)「等閑(とうかん・なおざり)」:深く心にとめないさま。本気でないさま。いいかげん。通りいっぺん。かりそめ。

      *ジャパンナレッジ『日本国語大辞典』の補注に<中古では「源氏物語」に多く見え、用法としては主に男性の女性に対する性情や行動への評価として現われている。>とある。

      *「等閑」を「なおざり」と読むのは、熟字訓。漢語の同義の熟語「等閑(とうかん)」に和語の「なおざり」を当てたもの。

      *熟字訓:漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。昨日(きのう)、乳母(うば)、大人(おとな)、五月雨(さみだれ)など。

(51-3)「差置(さしおき)」:「差置く」は、そのままにしておく。放っておく。「さし」は接頭語。

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10月 町吟味役中日記注記

(44-3)「罷越(まかりこし)」:「罷越す」は、「行く」の謙譲語。まいる。参上する。

     *「罷る」は、接頭語的に用いる場合、

()その複合した動詞に、へりくだり丁重にいう気持や、時に、許しを得てその行動をするの意を添えるもの。「まかりいず(罷出)」「まかりいる(罷入)」「まかりかえる(罷帰)」「まかりこうむる(罷被)」「まかりこす(罷越)」など。

()その複合した動詞に、改まった口調で荘重にいう気持や、御免をこうむ って勝手に行なうなどの気持を添えて、その意を強めるもの。「まかりいる(罷要)」「まかりとおる(罷通)」「まかりまちがう(罷間違)」など。

*「罷(まかり)出雲(いずも)の国(くに)」:まかり出る。「まかり出(い)ず」の「いず」に「出雲」の「いず」をかけたしゃれ。

(44-4)「清水」の「水」:決まり字。

(44-4)「北村」の「北」:決まり字。

(44-4)「別条(べつじょう)」:他とかわったこと。普通と異なった事柄。また、とりたてたこと。べちじょう。別状。

(44-6)「雇船(やといぶね)」の「船」:影印の「舩」は「船」の手書きの異体字。古文書の手書きは「舩」と書く場合が多い。

      *昔、中国では関東(函谷関から東)では「舟」、関西(函谷関から西)では「船」といった。

       **函谷関:中国の華北平原から渭水盆地に入る要衝にある関。黄土層の絶壁に囲まれた谷に築かれ、昼なお暗く函(はこ)の中を進むようであったことから名づけられた。秦が東方の守りとして河南省北西部、現在の霊宝県の地に築いた古関と、前漢が河南省新安県の地に築いた新関(現在の函谷関)とがある。

      *『字通』は、「越絶書・呉内伝」を引いて<「越人、船を謂ひて須慮(しゆろ)と爲す」とあり、香川県の民謡『金毘羅船々』の歌詞「シュラ、シュッシュッシュ」の「シュラ」は、もと舟形のそりをいう語であろう。>としている。

(44-6)「登(のぼ)せ」:「登(のぼ)す」の連用形。「登(のぼ)す」は、(都または貴人の所へ)呼び寄せる。上京させる。参上させる。

(44-7)「被仰出(おおせいだされ)」:動詞「おおせいだす(仰出)」に尊敬の助動詞「る」の付いた「おおせいださる」の連用形。

      *なお、「被仰出(おおせいだされ)」は、、おいいつけ。御命令の意味の名詞化にもなる場合がある。「被仰出書(おおせいだされしょ)」。

(44-7)「用意(ようい)」の「意」:決まり字。

(44-8)「手鎖二指(てじょう・にし)」:「指(し)」は、指を折って数え上げる際に用いる慣用表現。「五指に入る名作」「十指に余る」。

      手鎖の単位は普通、「枷(かせ)」。

(44-8)「縄壱筋(なわ・ひとすじ)」:「筋」は、細長い縄の単位。縄を束ねたものは「把(わ)」「束(たば)」で数える。

      *「一筋縄(ひとすじなわ):(1)一本の縄。(2)普通の方法。尋常一様の手段。「一筋縄では行(い)かない」は、尋常一様のやり方では思うままにできない。

(45-1)「いたし度(たき)」の「度(たき)」:願望の助動詞「たし」の連体形。話し手の願望を表す。話し手自身の行動についての願望。~たい。

     *<「たし」は平安時代末期頃からのもので、それまでは「まほし」が用いられた。徐々に「たし」が勢力を増し、ついには「たし」だけが用いられるようになる。現在の「たい」は、この「たし」が活用を変えたもの。>(ジャパンナレッジ版『小学館 全文全訳古語辞典』)

     *元来は、漢語としての「度(タク)」から派生。鎌倉時代ごろから、「度」の字音「タク」を利用して「めでたく」を「目出度」と表記した。願望の助動詞「たし」の各活用に用いられるようになった。

     *「度(タク)」を含む熟語の例として、「支度(したく)」「忖度(そんたく)」がある。

     *「タク」:音読み・訓読み。「たし・たき」など助動詞「たし」の活用:訓読み。

(45-1)「則(すなわち)」:「すなわち」は、現代では「つまり。いいかえると」の意味に使われることが多いが、本来は、即刻・当時の意の名詞(その時。即座。即刻。)だが、時を表す名詞は用言を修飾するので、即座にの意の副詞(すぐに。即座に。ただちに)の用法が生まれた。接続詞の用法(とりもなおさず。言いかえれば。つまり)は漢文訓読から生じたもの。(ジャパンナレッジ版『小学館 全文全訳古語辞典』)

(45-3)「高井紀兵衛」の「紀」:影印の旁は「巳」だが、筆の勢い。本来は「己」。

(45-4)「押切舟(おしきりぶね)」:櫓(ろ)や櫂(かい)力を借りずに港の間を行く船。

(45-4)「出立(しゅったつ)」の「出」:決まり字。

(45-7)「引合印鑑(ひきあいいんかん)」:照合するための印鑑。

(45-8)「宇都の宮宿(うつのみやじゅく)」:宇都宮。宇都宮は、栃木県中央部、鬼怒川西岸の地名。県庁所在地。下野の一の宮である二荒山(ふたらさん)神社(別号宇都宮)の門前町に起源する。本多氏・戸田氏の旧城下町。奥州街道から日光街道が分岐する旧宿場町。

      語源説に、「イチノミヤ(一宮)の転。下野国の一の宮の所在地だったことから」がある。

      宇都宮宿は、日光街道の江戸から一七宿目にあたり、奥州街道と重複。二七里一二町二〇間。直前の宿は雀宮(すずめのみや)宿、次宿は徳次郎(とくじら)宿。当宿より分岐する奥州街道の次宿は白沢(しらさわ)宿(現河内郡河内町)である。東へ水戸道が分れる。将軍の日光社参の際の宿泊地であり、東北諸大名の参勤交代も多く、極めて重要な宿場であった。

      *「宇都の宮」の「宮」:決まり字。「客」のように見える。また、脚部の「呂」は「五」のくずし字に似ている。

(45-9)「千住宿(せんじゅじゅく)」:奥州街道・日光街道の初宿。江戸四宿の一つで、日光道中と水戸・佐倉道の初宿。千手・千寿・専住とも書かれた。地元では「せんじ」という。奥州街道(国道四号線)に位し、日本橋から八キロ。地の利を得て発展した。文禄3年(1594)伊奈忠次が命を受け荒川(千住川)に架橋した(千住大橋)。慶長2年(1597)千住村は、人馬継立を命じられて千住町と称したが、寛永2年(1625)日光廟造営による交通路の整備に伴い、本宿(千住一―五丁目の五ヵ町)を中心に発展の基礎が与えられた。万治元年(1658)には掃部宿・川原町・橋戸町、同三年に小塚原町・中村町を加宿として、千住宿と総称し、奥州・水戸・日光・房総方面などの起点ともなった。江戸時代前期には将軍徳川家光・家綱の御茶屋・御殿が設けられたが、中期以降は本陣・脇本陣が各一軒、天保年間(183944)には旅籠屋五十五軒、家数二千三百七十軒、人口九千五百五十六人を数えた。なお、享保年中(171636)以降、宿内の「やっちゃあ場」(「やっちゃ、やっちゃ」と掛け声を掛けて、せるところから、東京で青物市場をいう)では毎朝、五穀・野菜・魚介類の競り市が行われ、日本橋魚河岸と並んで繁昌したという。一方、千住川はさらに川越夜船の旅客貨物の発着中継地ともなり、隅田川経由の水陸利用で、江戸の殷賑を助けた。

      *江戸四宿(えどししゅく):江戸から各街道への出入口にあたる四つの宿場。日光・奥州街道の千住、中山道の板橋、甲州・青梅街道の内藤新宿、東海道の品川の四つをいう。

      *「住」を「ジュ」と読むのは呉音。「ジュウ」は慣用音。

(46-2)「印形(いんぎょう)」:判(はん)。木、角(つの)、鉱物、金属などに文字や図形を彫刻し、それに墨や印肉を付けて、文書などに押し、個人、官職、団体などのしるしとするもの。印。はんこ。印判。印章。おしで。

      *仏教語では、牟陀羅の訳語。標識の意。仏像の手指の示す特定な形。その種類によって仏、菩薩の悟りや誓願の内容が示される。密教では僧が本尊を観念し呪文を唱える時に、指でいろいろな形をつくること。また、その形。印相。印契。

       **「印を結ぶ」:仏、菩薩等の悟りの内容を真言行者が観念する時、その表徴として、手指をいろいろの形に組む。印を作る。

      *「形」を「ギョウ」と読むのは呉音。「人形(にんぎょう)」「異形(いぎょう)」「形相(ぎょうそう)」など。

(46-3)「駄賃帳(だちんちょう)」:人馬駄賃帳。駄賃を記入しておく帳簿。

      *駄賃:貨客を駄馬にのせて運ぶのに対して支払われる運賃。中、近世における街道宿駅などの馬背による貨客運送の賃銭。東国地方の戦国大名の伝馬定書などに、伝馬を勤めぬ輩の駄賃取りを禁じて、私用のための伝馬は一里一銭の口付銭を取るべしとあるが、これは精銭による駄賃を意味する。一方、豊臣秀次の朱印状では、京より西は一里十銭と記しているが、これは鐚銭によるものであろう。慶長7年(16026月、徳川家康の宿老らは東海道諸宿などに対して、伝馬の荷物は一駄につき三十二貫目、駄賃荷物は四十貫目(なお、別の「定」で、乗尻は十八貫目、のち二十貫目)と規定し、各宿駅間の駄賃額の決定を江戸町年寄の奈良屋市右衛門・樽屋三四郎に委任して、「御伝馬・駄賃共ニ」昼夜の別なく早急に継送するよう命じている。このように当初、無賃の伝馬と公定賃銭の駄賃馬とは駕量の面でも格差があったが、のちには同一駕量=四十貫目に統一された。正徳元年(1711)の駅法改革では、各宿駅間の駄賃(荷物一駄・乗掛荷人共・軽尻馬一疋)と人足賃銭とが諸宿の新しい高札に示されて、これを元賃銭とよび、明治維新まで長く人馬賃銭の基準となった。そして、各宿間の駄賃増額に際しては、元賃銭の何割増というふうに公示された。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』)

(46-4)「書役(かきやく・しょやく)」:町番所に詰めていて、町名主を補助し算筆をつかさどった有給の役人。また、裁判を扱う役所に詰めていた記録係。書記。

(46-6)「中番(なかばん・ちゅうばん)」:一日の勤務、作業などが交替制で行なわれる場合の、中ほどの番。

(47-7・8)「痛メ吟味(いためぎんみ)」:江戸時代の拷問のこと。苔(むち)打ち・石抱き・海老(えび)責め・吊し責めの総称。

(48-1)「人少(ひとずくな)」:〔形容動詞ナリ活用〕人数が少ない様子。

(49-1)「長六郎与(と)も」の「与(と)」:「与」は変体仮名では「よ」で、「と」は変体仮名の読みではない。「与(と)」は、漢文訓読の助辞。

(49-4)「箱館山ノ上町」:現函館市弥生町。山ノ上町は文化年間(180418)に南部出身の大石屋忠次郎が芝居小屋を設けたのを契機に、茶屋などが集まる遊興地となり、近世末には山ノ上一~二丁目から常盤町・茶屋町・坂町にかけての一帯に山ノ上遊廓が形成された。

(49-10)「加州元吉(かしゅう・もとよし)」:加賀国(加州)本吉村。現在は石川県南部、白山市の一地区。江戸時代は本吉湊といい、手取川の河口港で北前船の寄港地として繁栄した。三津七湊(さんしんしちそう)のひとつ。

      この地にあった白山の末寺の元吉寺(がんきちじ)という寺の名をとり、村名を元吉ととなえた。ところが「元吉(もとよし)」という字は、昔(「元」)は「吉(きち)」だが、今は凶のある意味の字でよくないというので、承王3(1654)、「元」の字の代わりに「本」という字をあて「本吉」と書くようになった。

      *三津七湊(さんしんしちそう):室町時代、日本最古の海商法である廻船法度に定められた十の大港。三津は伊勢の安濃津、筑前の博多津、和泉の堺津。七湊は能登の輪島、越前の三国、加賀の本吉、越中の岩瀬、越後の今町、出羽の秋田、津軽の十三湊。

9月 町吟味役中日記注記

(37-8)「町」:「町」のあとに、「方」が抜けている。ここは「町方」。

(38-1)「毛利彦六」:町奉行配下の町方。

(38-2)「切解(せっかい)」:切りほどくこと。

(38-3)「欣求院(ごんぐいん)」:山号を義経山いうように、「義経が矢尻で刻んだ岩」という義経伝説がある。正保2年(1645)から光善寺の支院に列していたが、明治元年(1868)に光善寺に合併。

      *「求」を「グ」と読むのは呉音。

      *なお、訓読みに「求(ま)ぐ」がある。「まぐ」と読む。求め尋ねる。探し求めるの意味。

(38-4)「光善寺(こうぜんじ)」:浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える。

      初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1602)。元和7年(1621)五世良故が後水尾天皇に接見した折宸翰竪額ならびに綸旨を与えられたと伝え、これを機に松前藩主の菩提所の一つに列することになった。

(38-4)「三衣(さんえ)」:「え」は「衣」の呉音。連声(れんじょう)で「さんね」とも。僧の着る大衣(だいえ)、七条、五条の三種の袈裟(けさ)のこと。大衣は街や王宮に赴く時に、七条は聴講、布薩などの時に、五条は就寝、作務(さむ)などの時に着る。また、それを着る僧侶をいう。  

(38-8)「喜右衛門(きえもん)」「右衛門(えもん)」:「右衛門」は「えもん」と読む。奈良時代から平安時代にかけて、「衛門府(えもんふ)」というお役所があり、。「衛門府」には「左衛門府」と「右衛門府」の2つがあり、それぞれ「左衛門(さえもん)」「右衛門(うえもん)」と略称された。

      この「右衛門」がいつのころからか、「右」を省略して「衛門」とだけ呼ばれるようになった。そこで、「えもん」と言えば「右衛門」のことであり、逆に「右衛門」と書けばそれは「えもん」のことである、というわけで、「右衛門」を「えもん」と読むようになったのだと思われる。「うえもん」を「えもん」と読むのは故実読み。(*)

      「衛」の古い音読みはワ行のヱであったことに注目して、「右衛門=uwemon」の最初のuwが一緒になって「右衛門=wemon」となり、さらにwが落ちて「右衛門=emon」となった。いずれにしても、「右衛門」は3文字1組で「えもん」と読むのであって、1文字ごとに分解できるものではない。(この項

大修館書店HPの『漢字文化資料館』参照)

      *「故実読み」:漢字一字または二字以上の連結形式が、一つの概念をあらわす語の表記と考えられるとき、そのよみ方を、一般の字音・字訓の慣用によって推理すると、かえって誤読となるような、伝統的な特殊なよみ方をすることをいう。漢字のよみの特殊な伝統が故実である。故実は、いわば専門的な、しかも個別的な、通則のない伝承で、当然とくにそれを教えられなければ正しい理解の不可能なことである。年中行事のよび名、地名・人名・書名などの固有名詞その他が主要なもの。また古典文学や古記録・古文書にみえる普通語でありながら、日本語の変遷の中で取り残された古い形、また禁忌によるよみ替え、ある時代に慣用となった不規則な変形などが故実読みとして一括されているが、一語一語について言語史的な追究は今後の課題として残っている。(この項ジャパンナレッジ版『国史大辞典』参照)

      *字はあるが語としてはその字の読みを含まないことも、「故実読み」の一種。

      *故実読みの例:「文選」→「もんぜん」、「西馬音内」→「にしもない」、「掃部」→「かもん」、「主典」→「さかん」など

(38-9)「あさ」の「さ」:変体かな。字源は「左」。「左」は、横棒から入る。左はねの縦棒は、脚部の「工」へ、スムーズにつなげるため、右はらいになる場合がある。一方、「右」は、縦の左はねから入る。

      *「左」と「右」は部首が違う。「左」は、「工(たくみ)」部、「右」は「口」部。

      *「右」の「口」は祝告の器。右に祝の器であるをもち、「左」に呪具である「工」を以て、神をたずね、神に接する。それで左右を重ねると、(尋)となり、神に接するとき、左右颯々(さつさつ)の舞を舞う。(『字通』)

(38-10)「馴合(なれあい)」:密通して。「馴れ合う」は、男女が情を通じ合う。密通する。

(39-1)「向地(むかいち・むこうじ)」:ここでは津軽藩をいう。「向(むこう)」は、①距離があって、直接見ることのできないあちら側。「組めば重ね、離せば一段の棚を喜んで、亡き父が西洋(ムカフ)から取り寄せたものである」(夏目漱石『虞美人草』)

②相手の側、物をへだてた反対側の意。「むこうぎし」「むこう三軒」「むこうづけ」「むこうみず」など。

*<「十四日。朝。午後晴。昨日当藩医師芳賀玄仲来。御旗向地(む かひち)へ御廻しに相成、江木軽部等近日渡海之事。」当藩は津軽である。>(森鷗外『伊沢蘭軒』)

(39-4)「他行(たぎょう)」:その場を離れてよそへ行くこと。他の場所へ出かけること。

(39-5)「為致(いたし・いたしなし・なしいたし)」:①「いたす」の連用形は「いたし」だから、「致」だけでもいいが、サ変動詞「為(す)」を重ね、その連用形「し」を加え、「致」は「いた」とだけ読み、「為致」で、「いたし」と読む。②「為」を4段動詞「なす」の連用形「なし」と読み、「いたしなし」と読む。③返読せず「なしいたし」と順読する。 

(39-5)「不意(ふい)」:思いがけないこと。意外であること。また、そのさま。突然。だしぬけ。

40-7)「萩野八十吉」:『松前藩士人名控』の「古組足軽」に「萩野八十吉」の名前がある。

    *「荻(おぎ)」:イネ科の多年草。各地の池辺、河岸などの湿地に群生して生え

る。稈(かん)は中空で、高さ一~二・五メートルになり、ススキによく似て

いるが、長く縦横にはう地下茎のあることなどが異なる。葉は長さ四〇~八〇

センチメートル、幅一~三センチメートルになり、ススキより幅広く、細長い

線形で、下部は長いさやとなって稈を包む。秋、黄褐色の大きな花穂をつけ

る。

 *「萩(はぎ)」:マメ科ハギ属の総称。落葉低木または多年草。萩の字があて

られているが、中国語の「萩」は元来はキク科のヤマハハコ属植物をさす。

「マメ科ハギ属の小低木の総称」としての「ハギ」を表すのは、日本語独自の用法。

 *「ハギ」の漢字での書き表し方には、「萩」のほかに「芽子」もある。『万葉

集』の時代には、ガギを表す漢字と言えば「芽子」が主流だった。ハギは

『万葉集』で最も多くうたわれている植物で、全4536首のうち、141

首に登場する。そのうち、原文でハギのことを「芽子」と書き表しているの

は、そのうち115首。残りの26首のうち、約半分は「芽」だけでハギを

指している。

  「芽」とは、伸び始めたばかりの茎や枝などを指す漢字。それがどうしてハギを表すのに用いられたか。ハギは、一度咲かせた古い茎から再び花をさかせることはない。翌春、芽として新しく伸び始めた茎に、秋になると花が咲く。そこから、「芽」という漢字をハギに当てたのだ、というのが一般的な説明。

   自分で植え、花が咲くのをたのしみに育てていたからこそ、「芽子」というような書き表わし方が生まれたのでしょう。(この項円満寺次郎著「九月、秋は気が付けばそこにある」=岩波書店広報誌『図書』2019.9=参照)

(42-1)「渡部早五郎」の「部」:旁の「阝」(おおざと)が省略され「ア」のように見える。P25には「渡辺早五郎」とあり、『松前藩士名前控』の「足軽並」には、「渡辺早五郎」とある。

(42-2)「宗門改(しゅうもんあらため)」:江戸時代、キリシタン信仰を禁止、根絶するために設けられた制度。キリシタンの信者であるかないかを識別するため、家ごとに、信仰する宗旨、宗派を取り調べ、かつ、檀那寺にその帰依者であることを証明させ、領主に報告させたもの。宗門改役をおき、寺請、宗門人別帳をつくり、毎年定期的に行なわれた。寛文以降民衆はすべて寺請によって寺院に把握され、かつ宗旨人別帳作成を通じて幕藩体制の中に組み込まれたため、寺院は政治権力の奉仕者となり寺檀関係を成立させたが、仏教の教学面での停滞と僧侶の世俗化とを招いた。江戸時代中期以降キリシタンの摘発は激減したが、宗門改の制度はかえって整備・強化されていき、その根幹となった宗旨人別帳は民衆の戸籍原簿となり、あるいは租税台帳の役割を果たした。

(42・2~43・3)「一本証文(いっぽんしょうもん)」:江戸時代、在郷の有力者からそれぞれの領主へ提出される宗門改めの証文。諸大名が幕府へ差し出す一紙証文にならったもの。これを免許されるのは苗字(みょうじ)、帯刀に準ずる格式で、個々の門地、家格、資産および勤役年数を含めた領主への貢献度によった。

(42-6)「口上覚(こうじょうおぼえ)」:江戸時代の刑事訴訟で、訴訟当事者や被疑者の口述を筆記した文章。武士、僧侶、神官に限って用いられたもので、足軽、百姓、町人の口書(くちがき)と区別された。

(43-8)「仲之口」:玄関と台所口との間にある入口。

(43-10)「心意(しんい)」:「心得」か。「心意」は、こころ。意志。精神。心神。

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