森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

町吟味役中日記

5月 町吟味役中日記注記

                                       

4月学習テキストP1403行の「左近将監」の注記について>

◎参加者から<近衛府と衛門府とでは次官(スケ)の呼び方(表記の仕方)が異なる。すなわち、近衛府の次官は『中将または少将(左や佐ではなくて)』だから、『右近衛中将(うこんえのちゆうじょう』『左近衛少将(さこんえのしょうしょう』という呼び方になる。、吉良上野介は『左近衛少将』>とのご意見をいただきました。

◎「近衛府」と「衛門府」の官名を混同していましたので訂正します。

・近衛府の4等官名・1位(かみ):大将、2位(すけ):中将、少将、3位(じょう):将監(しょうげん)、4位(さかん):将曹(しょうそう)

・衛門府の4等官名・・1位(かみ):衛門督(えもんのかみ)、2位(すけ):衛門佐(えもんのすけ)、3位(じょう):衛門大尉(えもんのだいじょう)、衛門少尉(えもんのしょうじょう)二人、4位(さかん):衛門大志(えもんのだいさかん)、衛門少志(えもんのしょうさかん)

 

5月学習分>

(141-1)「貴意(きい)」:相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く

書簡文に用いる。

(141-4)「其(それ)」:文の初めに用いて、事柄を説き起こすことを示す。

(141-4)「領分(りょうぶん)」:江戸幕府の制。目見(めみえ)以上の領地を知行、目見以下の領地を給知といったのに対し、一万石以上の大名の領地の称。

(141-4)「平内茂良(ひらないもら)村」:現青森県東津軽郡平内町茂浦。東は夏泊半島の脊梁山脈で白砂(しらすな)村・滝村と境し、南は浪打(なみうち)山で浪打村に接し、西は陸奥湾に面し、北は支村の浦田村。茂浦から北方の夏泊崎まではリアス海岸で、漁業に適し、藩政時代海浜は製塩地として重視され、平内地方の総生産は月一千俵とみられた。塩は青森の塩しお町の業者に移出し、飯米と交換していた。

当村は平内地区のうちでも街道から外れており、アネコ坂の難路を通らないと来られないため、特色ある風習が残る。前述の「一人旅に宿貸すな」もその一つで、若者たちの寒垢離の神事である「お籠り」は、現在まで継承されている。旧暦一月一六日は塩釜しおがま神社の祭日で、若者たちは夕方から神社にこもり、下着一つで八時・一〇時・一一時の三回海に入って水垢離をとり、一二時までに供餅を御神酒で清め神事を済ませる。神事が終わるまで神社は女人禁制で、一二時過ぎになると村の老若男女が神社にこもり、夜の明けるまで賑かに過ごす。身を切るような冬の夜、水浴して心身を清めるのは、海に生きる若者たちへの試練であろう。

(141-5)「五ヶ年」の「ヶ」:「ヶ」は、もともと「箇(か)」の略体「个」から出たもので、かたかなとは起源を異にする。いわば記号といえる。「三ケ日(さんがにち)」「君ケ代」「越ケ谷」「八ケ岳」のように、読みに、連体助詞の「が」にあてることがある。これは「ケ」の転用である。

(141-5)已前(いぜん)」:「已」は、「以」と通用する。「已」も「以」も漢文訓読用法では

助詞「から」「より」で、「已前」は、「前より」と返読する。テキストの「已前よ

り」は、「前よりより」となり、「より」が重複することになる。

(141-6)「去卯(さるう)」:去年の卯年。天保2(1831)辛卯(シンボウ・かのとう)。

    *「天保」の読み方:「保」は、「ホ」(呉音)でなく、漢音「ホウ(ボウ・ポウ)と読む。年号の「保」は、漢音で読む。「享保(きょうほう)」「保元(ほうげん)」「神田神保町(かんだじんぼうちょう)」など。

(142-2)「鯡(にしん)」:<近世蝦夷地の漁業の中核をなしたものはニシン漁業である。ニシンは和名を「かど」、「青魚」「鯖」「白」「鰊」の文字をあてていたが、近世において特に「鯡 」の俗字が用いられていた。蝦夷地では米が穫れず、ニシンが肥料として本州へ移出され、米となって還元されて来るので、米に代わる魚として「鯡 」という字が造られたといわれている。それほど、ニシンは蝦夷地の漁民にとって重要な魚であった>(『福島町史』)

*「鯡」は、「金肥」といわれ、「魚に非(あら)ず」と書いて「ニシン」と読んだことから、国字とする向きもあるが、「はららご」(産卵前の魚類の卵塊)を意味する漢字である。音は「ヒ」。国訓で「にしん」だが、近世、中国に逆輸出され、現在、中国でも「鯡」を「にしん」の意味で使う。もともと、中国で「にしん」には「鯖」を当てた。

(142-3)「さも無之(これなく)」:「さ(然)もなし」は、たいしたこともない。どうということもない。影印は「左茂無之」とあるが、「左」も「茂」も変体仮名。翻刻は「さも無之」とする。

(142-3)「酒狂(シュキョウ・さかぐるい)」:酒に酔って狂い乱れること。また、酒におぼれること。酒乱。

(142-4)「不法之儀等」の「等」:カタカナの「ホ」に近いくずしになる場合がある。この形になることについて、茨木正子著『これでわかる仮名の成り立ち』(友月書房)は「脚部の寸が独立したものと思われる。『す』と区別するため、肩に「ヽ」がついたものか」とある。

(142-4)「手向(てむかい・たむかい・てむかえ・たむかえ)」:てむかうこと。はむかい。抵抗。反抗。てむかえ。

(142-5)「異見(いけん)」:いさめること。忠告。説教。訓戒。

    *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

     <(1)表記は、「色葉字類抄」に「意見」とあるが、中世後期の古辞書類になると「異見」とするものが多く、「又作意見」(黒本本節用集)のように注記を添えているものも見られる。近世の節用集類も「異見」を見出し表記に上げているが、明治時代に入ると典拠主義の辞書編纂の立場から「意見」が再び採られるようになり「異見」は別の語とされた。文学作品の用例を見ても、中世後期から近世にかけては、「異見」が一般的であった。

(2)「意見」は、「色葉字類抄」に「政理分」と記されていることや「平家物語」の用例によると、本来は政務などに関する衆議の場において各人が提出する考えであった。そのような場で発言するには、他の人とは異なる考えを提出する必要がある。そのようなところから、「異見」との混同が生じたものと思われる。

(3)中世も後期になると、「異見」の使用される状況も拡大し、「虎明本狂言・宗論」などに見られるように、二者間においても使用されるようになった。それに伴い、「日葡辞書」が示すような(2)の意味も生じてきた。この意味での使用が多くなり、「異見す」というサ変動詞や「異見に付く」や「異見を加ふ」といった慣用句までできてきた。最初のうちは、相手が目上・目下に関わらず使用されていたが、訓戒の意が強くなり、次第に目上から目下へと用法が限定されてきた。>とある。

(142-6)「差加(さしくわ)へ」:「差し」は接頭語。動詞「さす(差)」の連用形から転じたもの。動詞の上に付いて、その意味を強め、あるいは語調を整える。「さす」の原義を残して用いるものもある。「さし出す」「さし置く」「さし据う」「さし曇る」など。

    *「差」など、冠と脚で構成される漢字のくずしは、2字分あると思うほど縦長になる場合がある。

(143-4)「腰縄(こしなわ)」:江戸幕府の被疑者・犯罪者戒護の一方法で、捕縄を用いた縛り方。被疑者・犯罪者の逮捕や護送などにあたり、捕縛に本縄と腰縄の別があった。腰縄は軽い罪の場合に用いられ、腰に縄を巻き、併せて両腕が伸びないように羽がいじめに縛り、羽織着用の場合はそのうえから縄をかけた。上級武士には本縄はかけず、腰縄だけであった。遠隔地からの庶民の護送は、軽い場合には手鎖腰縄つき、または腰縄だけで歩かせ、重い場合には唐丸駕籠(とうまるかご)に入れた。

(143-4)「酔醒(よいざめ・よいざまし)」:酒の酔いがさめること。また、その時。

    *「酔」:「酉」+「卒」。「酉」は酒つぼの象形で、酒の意、「卒」は、「まっとうする」で、「酒の量をまっとうする」→「よ(酔)う」の意を表す。

    *「醒」:「星」は「澄みきったほし」の意味。酒の酔いがさめて気分がすっきりするの意味を表す。

    *「酔」は、常用漢字になっている。旁は「卒」の俗字「卆」。旧字体は「醉」で、旁は「卒」。「酔」の構成部分(旁)に、俗字が採用された例。

    *常用漢字になって構成部分が俗字の「卆」が使用された例:「粋」(旧字体は「粹」)

    *常用漢字でないので、構成部分が「卒」のままの例:「悴(せがれ)」、膵臓の「膵」、翡翠の「翠」

(143-4)「酔醒候迄」の「迄」:決まり字。

(144-2)「一体(いったい)」:もともと。

(144-2)「不快(ふかい)」:病気などのために気分がよくないさま。また、病気。

(144-4)「合利(こうり)」:行李。携行用収納具の一種。竹・柳・真藤などでつくられ、古代より行われる。大中小さまざまの形態があり、大は衣服入れ、小は弁当行李として利用され、中は越中の薬売や越後の毒消売をはじめ、近世社会の行商人はこれを風呂敷に包んでかついだ。

(144-6)「手合利」:手行李。旅人たちの振分荷物を入れるもの。

(145-3)「朋輩(ほうばい)」:「朋」はあて字。同じ主君、家、師などに仕えたり、付いたりする同僚。同役。同門。転じて、仲間。友達。

4月 町吟味役中日記注記 2018.4.9

(134-1)「鯡(にしん)」:国訓では「ニシン」。漢語では「ヒ」と読み、魚の卵のこと。なお、中国では「鯖」が「ニシン」を表す。

(134-3)「家内(かない・いえうち)」:家中の者。家の者全部。

    ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

    <(1)「家庭」という言葉が一般に用いられるようになる明治中期以前は、「家内」や「家」がその意味を担っていた。明治初期の家事関係の書物には「家内心得草」(ビートン著、穂積清軒訳、明治九年五月)のように、「家内」が用いられている。

(2)現在では「家内安全」のような熟語にまだ以前の名残があるものの、「家庭」の意味ではほとんど使われなくなり、自分の妻を指す意味のみが残る。>とある。

(13-4)「荒増(あらまし)」:事件などのだいたいの次第。概略。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

    <「粗(あら)まし」という語源を考える説もある。また、「まし」は「はし(端)」の転で、有り始めの意からともいう。>とある。

(135-3)「呼越(よびこし)」:「呼び越す」は、呼んで来させる。招き寄せる。

(135-6)「幸ひ」:「幸」の脚部の「干」が円(まる)になる場合がある。

 (136-3)「別心(べつしん)」:相手を裏切るような心。そむこうとする気持。ふたごころ。異心。

(136-4)「手限(てぎり)」:江戸時代、奉行、代官などが上司の指図を得ないで事件を吟味し、判決を下すこと。手限吟味。

(136-4)「相当(そうとう)」:ふさわしいこと。また、そのさま。相応。6

(136-4)「申付度(もうしつけたく)」の「度(たく)」:願望の助動詞「たし」の連用形で、訓読み。漢音を和語に利用した。

    *「忖度」の「度(タク)」は漢音。(「度」は呉音)

    *鎌倉時代ころから、「度」の字音「タク」を利用して「めでたく」「目出度」と表記した   例が見られる。のち、願望の助動詞「たし」の各活用の表記に用いられた。(『漢辞海』)

(136-5)「無急度(きっとなく)」:急度と同じ。かならず。

(136-5)「利解(りかい)」:理解。道理。わけ。また、わけを話して聞かせること。説得すること。

(136-6)「兎角(とかく)」:副詞「と」と副詞「かく」を合わせたもの。「兎角」は、当て字。

あれこれ。あれやこれや。何やかや。さまざま。いろいろ。とかくに。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

(1)対照的な内容をもつ副詞「と」と「かく」を複合して用いるもので、中古以降現代まで使われている。古語においては、「かく」のクがウ音便化して「とかう」となることもある。

(2)「と」「かく」にそれぞれ付加的要素をつけて、「とにかくに」「とにもかくにも」「ともかくも」「とやかくや」「とてもかくても」「とてやかくてや」、また「とあるもかくあるも」「と言ふともかく言ふと」「とやせんかくやあらまし」など、「と」「かく」それぞれが単独で副詞本来の用法を果たすものである。名詞が結びついて、「戸様各様」の用に用いられることもある。>とある。

(136-6)「得心(とくしん)」:心から承知すること。納得(なっとく)。

(137-2)<尊敬の体裁・平出>:2行目の行末「吟味」のあと、空白があり改行されている。この体裁を「平出」といい、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。テキストでは、「公辺」に敬意を表している。

(137-2)「公辺(こうへん)」:公儀。将軍家。幕府。政府。お上(かみ)。また、それにつながるもの。役所。

(137-3)「差出」の「差」:冠部と脚部が離れており二字見えるが「差」一字。

(137-3)「左候節(さそうろうせつ)」:然(さ)候節。そのような折。「左」は本来は、縦書きの文章では、次のことが左側にあるところから、次に述べるような、文章や事項をいうが、テキストでは、「然(さ=そうような)」の当て字。

(137-4)「遠国(おんごく・えんごく)」:①遠くはなれた国。都から遠くはなれた辺鄙(へんぴ)な土地.②律令制の行政区画である国を、都からの距離によって、近・中・遠の三等に分けた一つ。延喜式によると、遠国には、関東以北、越後以北、安芸石見以南および土佐国が含まれた。テキストでは①。「オン」は呉音、「エン」は漢音。

(137-5)「手数(てかず・てすう)」:それに施すべき手段・手法・技(わざ)などの数。「てすう」と読むと湯桶読み。

(137-6)「腹蔵(ふくぞう)」:心の内にひめ隠すこと。心に思っていることをつつみ隠して外に現わさないこと。

(137-6)「被仰合(おおせあわせられ)」:「仰せ合す」は、多く、助動詞「らる」を付けて用いる。「言い合わす」の尊敬語。御相談になる。

(137-6)「被仰合」の「仰」のくずし字:旁が極端に省略されている。

(138-4)「乍去(さりながら)」:そうではあるが。しかしながら。「さり」は、本来「然り」で、「去」は当て字。

(138-5)「被仰聞(おおせきけられ)」:下一段活用他動詞。「聞ける」は「聞かせる」の意。

    「いいきかせる(言聞)」の尊敬語。言ってお聞かせになる。聞かせて下さる。また、上の命令などをお言い聞かせになる。

     *「聞ける」の活用:れ(未然)・れ(連用)・ける(終止)・ける(連体)・けれ(已然)・けよ(命令)。

     *「被仰聞(おおせきけられ)」の組成:「仰聞(おおせきける)の未然形「おおせきけ」+尊敬の助動詞「らる」の連用形「られ」。

      **助動詞「らる」の接続:未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に接続する。「おおせきく」の未然形は「おおせきけ」で「け(ke)」で「e」。

(138-6)「可得貴意(きいをうべく)」:「貴意」は、相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

    *組成:「貴意」+下2段動詞「得(う)」の終止形「う」+推定の助動詞「べし」の連用形「べく」

      **助動詞「べし」は動詞の終止形(ラ変動詞は連体形)に接続する。

(139-1)「恐惶謹言」:男子が、手紙の末尾に書いて、敬意を表す語。恐れながら謹んで申し上げます。「惶」はおそれかしこむ。書き止めという。テキスト影印はわりとしっかりかかれているが、崩した連綿体も多い。

    *「書き止め」:書状など文書の末尾に書く文言。書止め文言。書状では「恐々謹言・謹言」、綸旨では「悉之」、御教書(みきょうじょ)などでは「仍執達如件」、下文などでは「以下」というように文書の様式によってその文言はほぼ定まっている。とくに書状では相手との上下関係によって書札礼(しょさつれい)が定まっていた。

    代表的な例である「弘安礼節‐書札礼之事」(一二八五)によれば、「恐惶謹言」は、「誠恐謹言」に次いで敬意が高く、目上に対して最も広く用いられ、以下「恐々謹言」「謹言」等があって、目下に対しては「…如件」で結ぶ形式をとるという。

実際の文書では「謹言」というさらに上位の表現や、「恐惶かしく」「恐惶敬白」といった「恐惶謹言」に準じた形式も見られ、他に「恐惶頓首」「匆々(草々)頓首」「以上」等が用いられる。いずれも実際の書状では符牒のように書かれる。

(139-3)「蛎崎四郎左衛門」:当時、松前藩の勘定奉行で、町奉行も兼ていた。のち家老格となった。

(139-6)「新井田周次」:松前藩町奉行。

(140-1)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(140-3)「津軽左近将監」:弘前藩11代藩主・津軽順承(ゆきつぐ)。在位期間天保10年(1839)~安政5(1859)。寛政12(1800)113日生まれ。三河吉田藩主松平信明(のぶあきら)3男。津軽親足(ちかたり)の養子となり、文政8(1825)陸奥黒石藩藩主津軽家2代。ついで宗家津軽信順(のぶゆき)の養子となり、天保10

(1839)陸奥弘前藩藩主津軽家11代。倹約,開墾により藩財政を再建,また洋式兵学をとりいれた。元治2(1864)25日死去。66歳。

   *「左近将監」:官位名。「左近」は、左近衛府。右近衛府禁中の警固、行幸の警備などに当たった律令国家の軍事組か。「将監」はその近衛府の第三等官(ジョウ)。なお、第一等官(カミ)は、大将、第二等官(スケ)は、衛門左、第三等官(ジョウ)が将監、第四等官(サカン)は、将曹(しょうそう)。

(139-46及び140-2)<花押・華押(かおう)>:花字(かじ)の押字の意。 文書で、署名の下に書く自筆の書き判。多くは、実名の文字をくずして図案化したものを用いた。

   *花押:自署の代りに書く記号。押字ともいい、その形が花模様の如くであるところ

から花押とよばれた。また判・判形ともよばれ、印判と区別して書判(かきはん)と

もいう。花押は個人の表徴として文書に証拠力を与えるもので、他人の模倣・偽作を

防ぐため、その作成には種々の工夫が凝らされた。

   花押は中国唐代の文書からみえるが、我が国では十世紀の頃から次第に用いられる

ようになった。はじめ自署は楷書で書くのが例であったが、行書から草書へと変わ

り、特に実名の下の文字を極端に簡略化し、次第に二字の区別がつかなくなって図

様化した。これを草名(そうみょう)という。

   花押には、その人の趣向や時代の流行により、各種の作り方があった。江戸時代の有

職家、伊勢貞丈(一七一七―八四)の『押字考』は、草名体・二合体・一字体・別用

体・明朝体の五種を挙げている。草名体は、上記の如く花押の発生期に現われたもの

であるが、鎌倉時代以降も書札様文書に多く用いられた。藤原行成・吉田定房・一条

兼良(覚恵)などの花押がそれである。二合体は、実名の二字の一部を組み合わせて

草体にしたもので、藤原佐理・藤原頼長・源頼朝などの花押にみられる。一字体は、

名の一字だけをとって作るもので、平忠盛・北条義時・足利義満などの花押がその例

である。別用体は、文字と関係のない図形を用いたもので、三好政康・真木島昭光・

伊達政宗・徳川光圀などの花押がそれにあたり、いずれも鳥の姿を図形化したもの

である。明朝体は、中国明朝の頃に流行した様式であるためにこの名があり、天地の

二本の横線の間に書くことを特徴とする。徳川家康・加藤清正など、その例は多い。

花押の類型は、以上に尽きるわけではなく、前述の複合型もあり、戦国・織豊時代から文字を倒置したり、裏返したものが現われ、苗字・実名・通称などの 組み合わせによるものなど、新様式が発生し、その様相は一段と複雑になった。また一字体の変種とみることもできるが、足利義持・義政の「慈」、織田信長の「麟」、豊臣秀吉の「悉」のように、実名と関係のない文字を選んで花押とすることも行われた。禅僧様の花押も一種独特の類型に属するもので、文字よりは符号に近く、抽象的表現の中に禅宗風の寓意がこめられたものと思われる。さらに平安時代よりみられる略押も花押の一種で、画指に代り身分の低い者や無筆の者が用いる、簡略な符号であった。

 同一人でも、草名体と他の形式の花押を持つ例があり、義満以降の足利将軍のように、尊氏に始まる武家様(特に足利様ともいう)の花押と公家様の花押の両種を使用する例もあった。また一生の間には花押の変遷があり、若年期と老年期では書風の変化がみられるが、意識的に花押を改変することも多かった。改名、出家、政治的地位の変化等を転機とするものであるが、偽造を防ぐために頻繁に変えたり、数種の花押を用途によって使い分けることもあった。

   花押は時代によりその様相が変遷する。平安時代は草名体・二合体が主流であり、中

世に至って二合体・一字体がそれに代わり、さらに前述の如き新様式が現われ、江戸

時代には明朝体が一世を風靡した。また特に武家社会では、同族や主従の間に類似

の花押が用いられる傾向が強く、足利様や徳川判の流行のような現象もみられた。

 花押は自署の代りとして発生したが、平安末期より実名の下に花押が書かれるよう

になり、後には自署と花押を連記する風が生じた。一字体の出現以降は、実名と花押

との関係が薄れ、名と関係のない文字で理想や願望を表わしたりするようになると、

印章と変わるところがなくなった。版刻の花押は鎌倉時代中期から現われるが、近

世になると花押を籠字に彫って、これを押した上に填墨する方法、花押を印章の中

に組み入れたものが現われるなど、花押の印章化が進み、花押と印章は文書の上で

その地位を交代した。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

3月 町吟味役中日記注記

◎2月学習のうち、「旅人」について

例会後、参加者からご意見が寄せられましたので、コメントします。

<意見>罪人の肩書の「旅人」は、「たびびと」でなく「たびにん」と読むべきでないか。

<森のコメント>

・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』によると、

1.「旅人(たびびと)」:旅行をしている人。旅路にある人。たびゅうど。たびうど。たびと。旅行者。旅客。「たびにん(旅人)」は別意。

2.「旅人(たびにん)」旅から旅へと渡り歩く人。各地をわたり歩いている博徒・てきやの類。わたりどり。テキストの罪人の肩書はこの「たびにん」が適当か。

  *なお、「旅人」を「たび・にん」と読むのは湯桶(ゆとう)読み(訓読み+音読み)

   逆は重箱読み(音読み+訓読み)

3.「旅人(たびじん)」:他国の人。

4.「旅人(りょじん)」:中国周代の官名。官位のある平民で料理をつかさどる。

*「旅」:解字は「軍旗の象形。多くの人が軍旗をおしたてて行くの意味から。軍隊・たびの意味を表す。

*「旅(りょ)」は、中国周の時代に、兵士五百人を一団とした軍隊。五旅を一師、五師を一軍とした。つまり、

  「1旅」・・500人 (旧日本陸軍・・2~4連隊で1旅団)

  「1師」=5旅・・2500人 (旧日本陸軍・・2~4旅団で1師団)

  「1軍」=5師・・12,500人

 

(127-1)「処」:影印は、旧字体の「處」。『説文解字』では「処」が本字、「處」は別体であるが、後世、「處」の俗字とみなされた。我国では、昭和21年当用漢字表制定当初に、俗字であった「処」が「處」の新字体として選ばれた。

  *「処」は、「本字」→「俗字」→「当用漢字」(現常用漢字)と変遷の道をたどる。

  *「説文解字(せつもんかいじ)」:中国の漢字字書。略して『説文』ともいう。「文字」の「説解」の意。許慎著。序一、本文十四の全十五巻。のちに、各巻は上下に分けられて三十巻となった。後漢の100121年に成立。字形の分析にもとづき、漢字を偏や旁(つくり)などの構成要素に分け、その相違によって、9353字を五百四十部に類別した。なお重文(じゅうぶん、異体字)も1163字入れてある。部首別字書として、また、形音義を説明したものとしては最古。これ以前の字書は、識字用が普通。六書(りくしょ)説による字形の説明は、漢字成立の根本にまで及んでいて、高い評価を受けている。古来、重視され研究が重ねられているが、特に、南唐の徐(じょかい)が注を加えた『説文解字繋伝』(小徐本)四十巻、その兄、北宋の徐鉉(じょげん)が986年に校訂刊行したもの(大徐本)三十巻(以後の標準的テキスト)、また、清の段玉裁が1807年に作った訓詁の書『説文解字注』などが有名。小徐本は華文書房、大徐本は世界書局(ともに台湾)などが刊。原本は現存しない。

(127-2)「入牢(じゅろう・にゅうろう)」:牢屋にはいること。牢屋に入れられること。

  *「入」を「ジュ」と読むのは慣用音(日本での漢字の音。和製漢語音)

   例として「入内(じゅだい・中宮・女御などが内裏に参入すること)」、「入水(じゅすい・人が死ぬために、水中に身を投げること)」、「入御(じゅぎょ・天皇・皇后・皇太后が内におはいりになること)」「入院(じゅいん・じゅえん・寺に入ること、または、新任の住持がはじめて寺に入り住持となること)」「入輿(じゅよ・身分の高い人が嫁入りすること)」など。

  **「慣用音」呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」、「情緒」の「緒(しょ)」を「ちょ」と読むなど。このほか、「喫」は正しくは「ケキ・キヤク」であるのを「キツ」に転じ、「劇」は正しくは「ケキ・ギヤク」であるのを「ゲキ」に転じ、「石」は「セキ・シヤク」であるのを「斛」と混じて「コク」とするような例もある。

(127-5)「力業(ちからわざ)」:強い力をたのんでするわざ。強い力だけが武器であるような武芸
(127-5)
「曲持(きょくもち)」:曲芸として、手、足、肩、腹などで重い物や人を持ち上げて自由にあやつること。

(127-5/6)「旅人宿(りょじんやど)」:旅人を宿。旅籠(はたご)。旅籠屋。やどや。

(128-1)「平内(ひらない)」:陸奥湾に突き出た夏泊半島と南部の山地からなる。平内とい

う地名はアイヌ語の「ピラナイ」(山と山の間に川がある土地の意)からきたといわれ

る。鎌倉~南北朝時代までは南部氏の支配下にあったが、1585年(天正13)以降津軽

氏領となった。盛岡藩境の狩場沢(かりばさわ)には関所が置かれ、藩境塚(県の史跡)

が残る。

(128-3)「如何(いかが)」:「いかに」に助詞「か」の付いた「いかにか」が変化したもの。(心の中で疑い危ぶむ意を表わす)どう。どのように。どうして。どんなに。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

 <(1)「いかにか」から「いかが」という変化は、「に」の撥音化とそれに並行する「か」の濁音化、すなわち「イカンガ」を媒介にして成立したと考えられる。すなわち一〇世紀初頭の仮名資料に「いかか」が現われ始めるが、この時期はまだn撥音を無表記としており、例えば「土左‐承平五年二月四日」の「しし(こ)」が「死にし(子)」であり、「シンジ(コ)」と発音されていたと推測されるように、同じく「そもそもいかかよむたる」〔土左‐承平五年一月七日〕の「いかか」も「イカンガ」と発音されていたかもしれない。

(2)意味は上代の「いかにか」「いかに」とほぼ同じであり、呼び掛け的に使われたり、状態や様子が甚だしいことを表わしたりする点も同様である。

(3)平安期以降ほぼ状態や様子に限定されながら、鎌倉期には「その様子が望ましくない、困ったものだ」という意味を派生する(中世後半から近世になると「いかがし」「いかがはし」を派生する)のに対して、「いかに」は状態・様子以外に理由・原因を問う用法が発達する。>とある。

*「如何」を「いかが」「いかん」「いかんセン」と読むのは漢文訓読の熟字訓。

「取妻如何(つまヲめとルコトいかん)」[妻を娶(めと)るのには、どのようにすればよいか](詩経・伐柯=ばっか=)

**なお「何如」は、「いずレゾ」と訓じる。

(128-8)「丹地八五郎」:P15に「丹地屋八五郎」がある。

(129-4)「小平沢町(こへえさわ町)」:現檜山郡

江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)で存続した町。寺小屋町・碇町の

北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。「西蝦夷

地場所地名等控」に江差村の町々の一として小平沢町がみえる。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。「蝦夷日誌」(二編)によれば、茂尻(中茂尻か)より沢(小川)の南にあって、町の上は皆畑で広い。「人家二十二軒といへども五十軒計も有。(中略)津軽陣屋跡といへるもの有」とある。弘化3年(1846)夏に出た温泉があり、薬湯として用いられ、傍らに薬師堂が建てられていた。「渡島日誌」には「小兵衛沢」と記され、「畑多く、近頃人家少し立たり」とある。

(130-1)「内済(ないさい)」:江戸時代、裁判上の和解のこと。江戸幕府は、民事裁判ではなるべく両当事者の和解による訴訟の終了を望んだが、ことに無担保利子付きの金銭債務に関する訴訟、すなわち金公事(かねくじ)においては、強力に内済を勧奨した。内済は訴訟両当事者連判の内済証文を奉行(ぶぎょう)所に提出して、その認可を受けることによって有効となったが、金公事の場合には片済口(かたすみくち)と称して原告が作成した内済証文だけで足りた。

(130-1)「熟談(じゅくだん)」:話合いで、ものごとや問題となっていることをおさめること。示談。和談。

  *「場所熟談」:江戸時代、用水、悪水、新田、新堤、川除(かわよけ)などの訴訟。これらの争いについて、奉行所では訴が提起されても直ちに受理せず、問題の地の代官や地頭の家来を呼びだして訴状を下げ渡し、現場で双方の納得のいくような話合を命じ、極力和解による問題の解決を図って、和解が成立しない場合に初めて訴が受理された。

(133-1)「貴意(きい)」:相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

(133-3)「堅勝(けんしょう)」:からだに悪いところがなく健康なこと。また、そのさま。多く「御健勝」の形で相手の健康についていう。

(133-4.5)「其御許様(そこおもとさま)」:「そこもと」に敬意を表わす接尾語「さま」の付いたもので、更に「其許」の「許」に敬語の「御」がついたもの。

  *平出の体裁:4行目の「其」で改行して、「御許様」としているのは、尊敬の体裁で、「平出(へいしゅつ)」という。

  **「平出」:律令国家の公文書の記述中に,天皇・皇后・皇祖等を示す語があるとき,文章を改行してその語を行の先頭に置き,敬意を表す記述方法。律令国家の公文書(公式様文書)の様式等を制した公式令に定められている。同令には,平出のほか皇太子・中宮の称号あるいは天皇の行為を示す語について,その1~数字分上を空ける闕字(けつじ)の方法も定められている。中世では,この平出,闕字は,公式様文書ばかりでなく,書札様文書にも使用され,平出はもっぱら院宣・綸旨の院・天皇の仰せを表す〈院宣〉〈院〉〈御気色〉〈天気〉〈綸旨〉等にのみ用いられ,文書としての院宣・綸旨,その他〈奏聞〉〈天裁〉〈禁裏〉等の語,あるいは皇太子・親王・摂関を示す語には闕字が用いられている。将軍については,鎌倉時代には闕字・平出ともにみられない。室町時代以降〈公方〉が闕字扱いされ,近世には〈御公儀〉や公儀からの〈仰出〉に平出が用いられるようになる。また近世では,公儀のほか〈太守様〉や〈御役所様〉まで闕字あるいは平出で扱われ,さらに平出より敬意を表す擡頭も現れる。

(133-5)「茂良村」:現青森県平内町茂浦(もうら)。「茂良」は、「もうら」を詰まって「もら」と発音し、「良」の呉音「ら」から、「茂良」を当てたか。なお、ひらがなの「ら」は、「良」の草体からできた。

  茂浦村は、東は夏泊半島の脊梁山脈で白砂村・滝村と境し、南は浪打山で浪打村に接し、西は陸奥湾に面し、北は支村の浦田村。当村は平内地区のうちでも街道から外れており、アネコ坂の難路を通らないと来られないため、特色ある風習が残る。若者たちの寒垢離の神事である「お籠り」は、現在まで継承されている。旧暦一月一六日は塩釜神社の祭日で、若者たちは夕方から神社にこもり、下着一つで八時・一〇時・一一時の三回海に入って水垢離をとり、一二時までに供餅を御神酒で清め神事を済ませる。神事が終わるまで神社は女人禁制で、一二時過ぎになると村の老若男女が神社にこもり、夜の明けるまで賑かに過ごす。

(133-6)「悴(せがれ)」:影印は俗字の「忰」。自分の息子。「せがれ」は、室町以降の語で、語源説に、「痩(や)せ枯(か)れ」がある。なお、「忰」を「せがれ」と読むのは、「倅」の字と似ていることから起こった誤用説もある。(『新漢語林』)

  また、『くずし字用例辞典』には「悴」の項に<「忰」は「せがれの場合に用い>とあるが、「悴」も「せがれ」の意味に使われる。「忰」は、「悴」の俗字に過ぎない。

  *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<元来、「悴」を当てていたが、人を指すことを明示するために、立心偏を人偏に改めて、「倅」を当てたもの。>とある。

  *語源説に、<自分の子を卑下していうヤセカレ(痩枯)の略。ヤセカレは屈原の「漁父辞」にある「顔色憔悴(やせ)、形容枯槁(かれ)」から>がある。

  **「顔色憔悴、形容枯槁。」<顔色憔悴し、形容枯槁(ここう) せり。>

     [顔はやつれて、その姿は痩せ衰えています]

1月 町吟味役中日記注記

(113-3)「下男供」の「供(ども)」:名詞・代名詞に付いて、そのものを含めて、同類の物事が数多くあることを示すが、必ずしも多数とは限らないで、同類のものの一、二をさしてもいう。人を表わす場合は「たち」に比べて敬意が低く、目下、または軽蔑すべき者たちの意を含めて用いる。現代では、複数の人を表わすのに用いられることが多い。名詞に付いて複数を表す。人を表す名詞に付いた場合は、「たち」よりも敬意が低い。

*「共」と同語源。一般には、「共」が多いが、「供」は、現在、「子供(こども)」などに残っている。

(113-4)「親ニ代り」の「代」:「代」に左払いの「ノ」があり、「伐」に見えるが、筆運びの勢いの「ノ」。

(113-6)「篤与(とくと)」の「与」:「与」は変体かなではなく、漢文訓読の助辞の「与」

の訓読みであり、日本語の古文や古文書に援用されたもの。

 *「富貴、是人之所欲也」(『論語』)

(フウは、これひとのほっするところなり)

  [富と尊い身分とは、どんな人でも望むものである。]

 *漢文の語が、わが国の古文書で読まれるとき(訓読)、助詞として援用される語

  ・「与」・・「と」

  ・「之」・・「の」

  ・「自・従」・・「より」

  ・「者」・・「は」「ば」

  ・「而」・・「して」

  ・「也・乎・耶・歟」・・「や」「か」

  ・「耳・爾・而已」・・「のみ」

  ・「許・可」・・「ばかり」

  ・「哉・夫・矣」・・「かな」

  ・「也」・・「や」(呼びかけ)

  ・「乎」・・「よ」(呼びかけ)

(113-6)「御認メ(おしたため)」の「御」:極端に崩され「ワ」「ツ」「ソ」のようになる場合がある。      

(113-7)「岡田團右衛門」の「岡」:構の「冂」が、極端に省略される場合がある。

(113-7)「岡田團右衛門」の「團」:「囗」(くにがまえ)は最後に書く場合がある。さらに、

「囗」(くにがまえ)の横棒は省略され、縦棒も「ヽ(点)」で書く場合がある。

(113-7)「某供(それがし)」の「某」:①〔代名詞〕 《人称代名詞。自称》 男性があらたまった気持ちで謙譲的にいう語。わたくし。拙者(せっしゃ)。小生(しょうせい)。

 ②人名や地名、事物などが不明の時、または具体的なことを省略する時に用いる語。だれそれ。どこそこ。何とかいう。

 ➂人名、地名、事柄など、一般によく知られているためにかえってぼかしていう時に用いる語。

 ここでは、①。

(113-7)「某供(それがしども)」の「供(ども)」:自称の代名詞、または自分の身内の者を表わす名詞に付けて、単数・複数にかかわらず、謙遜した表現として用いる。「私ども」「親ども」など。

(114-1)「湯殿沢町(ゆどのさわまち)」:現松前町字松城・字唐津。近世から明治33年(1900まで存続した町。近世は松前城下の一町。小松前こまつまえ川下流、東西の両海岸段丘に挟まれた地。東は福山城、南は小松前町・唐津内町、西は西館町。

(114-2)「唐津内町(からつないまち)」:松前町字唐津。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢川を境に博知石町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(114-6)「目操札(めくりふだ)」: 捲(めくり)札。カルタ札の一種。日本で初めてのカルタである天正カルタの図柄が後に極端に崩れ、一枚ずつめくり、手札としたものの組合せなどにより点数を競う競技に使用されるようになって以後の呼称。また、それを用いて行なう競技や賭博(とばく)。めくりカルタ。

 *「紙をめくる」など、「はがす」の意味の「めくる」は、「捲(めく)る」と「捲」を当てる。影印の「繰」は、「あやつる」の意味で、「目操」は「めくり」と読むのだろうが、当て字としては「目捲」が適当か。

(114-9)「畢而(おわりて)」の「畢」:「畢」は、あみの形。鳥獣などを捕るあみで、下部に長い柄がある。上のまるい形が小網の部分。〔説文〕四下に「田罔(でんまう)なり。田に從ひ、(はん)に從ふ。象形。或いは曰く、田(でん)聲」(段注本)とするが、字の全体が象形である。原の初文である(げん)は、狩猟のはじめに祈る儀礼を示し、犠牲の獣の上に畢をおいて、成功を祈る。田は畢(あみ)の形。夂(ち)は神霊の降下する形。畢で一網打尽にとり尽くすので「畢(おわ)る」意となり、「畢(ことごと)く」という副詞に用いる。

 *テキスト影印の「畢」は、異体字。

(114-6)「店売(たなうり)」:暖簾(のれん)をかかげた商店で品物を売ること。店を構えて商売すること。みせあきない。

(114-67)「吟味詰口書(ぎんみつまりのくちがき)」:江戸時代の刑事訴訟文書の一種。奉行所吟味役人が被疑者を吟味した結果、有罪判決を下すのに十分な供述が得られた場合に作成する文書。被疑者が罪を白状した形式になっていて、被疑者の爪印(武士の場合は書き判)が必要とされ、奉行所ではこれをもとにして刑罰を決定した。

 *「吟味詰(ぎんみづめ)」:江戸時代の刑事訴訟で、吟味筋の裁判を終結させること。被疑者はもはや異議を申し立てることはできず、判決を待つばかりだった。

(115-1)「始メお目見得(はじめおめみえ)」:御目見以上の家に生まれた者が、はじめて将軍に謁見することを特に「初御目見(はつおめみえ)」といった。ここでは、松前藩主へ初めて謁見することをいう。

(115-6)「両浜(りょうはま)」:両浜組。近世初期から北海道に進出して活躍した近江商人の仲間組織。おもに近江国愛智郡薩摩村・柳川村両村(彦根藩領)と蒲生郡八幡町(幕領→尾張藩領→幕領)出身の商人で組織され、両浜組に属する商人を両浜商人または近江店などと称した。両浜の語源については、薩摩・柳川両村にちなんだとするものと、薩摩・柳川両村は互いに隣村であることから両村を一浜とみ八幡を加えて両浜としたとする二説がある。

(115-6)「問屋(といや・とんや)」:近世における商業組織では仲買とともにその中心をなし、荷主から委託された物資を仲買人に売りさばいた。江戸では「とんや」ともいう。

(115-6)「都合(つごう)」:「都」はすべての意。 みんな合わせて。ひっくるめて。全部で。

(115-7)「表座敷(おもてざしき)」:家の表の方にある座敷。客間とする。「座敷」は、表居間昔の部屋の床は板張りのままで、畳・しとね・円座などを敷いて座ったことからできた語。室町時代、書院造りが発達し、畳が敷きつめられるようになってから、よく用いられるようになる。

(115-8)「砌(みぎり)」:「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからというその時。おり。場面。雨だれを受けるために軒下に石を敷いた所。転じて、庭。

 *「砌」:〔説文新附〕に「階の甃(いしだたみ)なり」とあり、階下のしき瓦を敷いたところをいう。もと切石を敷いたものであろう。(『ジャパンナレッジ版字通』)

  **「玉砌(ぎょくせい)」:玉の石だたみ。

(116-2)「同断(どうだん)」:「同じ断(ことわり)」の音読。ほかと同じであること。前と同じであること。

(116-7)「参府(さんぷ)」:江戸時代、大名などが江戸へ参勤したこと。また、一般に江戸へ出ること。出府。

 *「府」:国家が文書または財物を収蔵する場所。くら。「秘府(ひふ)=宮中の書庫」、「内府(だいふ)=宮中の金庫」。

  **「府」は、文書や財物を収蔵し、「倉」「庫」は、兵車や武器を収蔵、「蔵」は、穀物を収蔵するところ。

(116-8)「一統(いっとう)」:総体。一同。

(117-2)「ウス場所(ばしょ)」:現在の有珠うす湾を中心に開かれた近世の場所(持場)名。

一六一三年慶長18(1613)に松前藩主松前慶広がウス善光寺を再建したといわれ(新

羅之記録)、その頃には開設されていたという(伊達町史)。往古の境界は、西側はウコソ

ンコウシ(現在の北有珠町付近)をもってアブタ場所に、東側はヘケレヲタ川(現室蘭市

陣屋町付近)をもってヱトモ場所に接していたが、一八〇〇―一八一〇年代にモロラン

会所(現室蘭市崎守町)が新設されてから、チマイヘツ川(現在の伊達市・室蘭市境のチ

マイベツ川)をもってモロラン場所に接していた(場所境調書)。

「ウス場所」は新井田浅次郎の給地で、運上金七〇両、場所請負人は箱館の浜屋兵右衛門

であった。当時の運上屋は一戸(蝦夷拾遺)。九一年(寛政三年)の「東蝦夷地道中記」

によれば、ウス場所は細見磯右衛門の給地で、請負人は箱館の覚左衛門、ウスに運上屋が

あり、ヲサルベツ、ツバイベツの家数は二軒ほどであった。

寛政11(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄地とし、場所請負制を廃止して直捌としたため、

運上屋は会所と改められた。

(117-3)「下乗(げしょう)」:寺社の境内や城内などに車馬を乗り入れることを禁じること。

(117-5)「ウス牧場(まきば)」:文化2(1805)、箱館奉行は蝦夷地初の牧場経営を行ない、アブタ・ウスに牧場を開設した。戸川は、種馬三頭の下付を受けて、南部藩からの献上された馬で、牝馬四頭、購入牝馬五頭とともに放牧、順次繁殖などで増やした。文政5(1822)の記録では、2553頭に達した。なお、この年の有珠山噴火で多くの馬が斃死(へいし)した。

(117-7)「六ヶ場所(ろっかばしょ)」:『北海道史附録年表』(河野常吉編)には、

<享和元年(1801年)「是歳(このとし)幕府、六箇場所『小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追』の地、和人の居住するもの多きを以て村並となし、山越内を華夷(かい)の境界となす」と記述されており、地名も漢字で表記されている。これらの記録から『箱館六ケ場所の村並化は1800年、寛政12年に決定し、翌年、1801年、享和元年に、いわゆる公布・施行』されたものと推定される。>とある。

(117-8)「御構(おかまえ)」:立ち入ることを禁じること。重い追放ほどその範囲は広くなった。御構場。御構場所。

(117-8)「永々之御暇(ながながのおいとま)」:主従などの関係を絶ちきって去らせること。

(118-4)「当時(とうじ)」:現在。現今。

(118-7)「改(あらため)」:調べただすこと。江戸時代、公儀の役人が罪科の有無、罪人・違反者の有無などを吟味し取り調べること。取り調べ。吟味。

(118-8)「法度(はっと)」:法として禁ずること。禁令。禁制。さしとめ。

 *「法度(はっと)」の読みは、「ほうと」の旧仮名遣い「はふと」の促音化した形。

(118-8)「触出(ふれだし)」:触れを出すこと。

(118-10)「手鎖(てじょう・てぐさり)」:江戸時代、刑具の一種、またこれを用いて庶民にのみ科した軽罪の一種。「てぐさり」ともいう。手鎖は鉄製瓢箪型の金具であって、両手を前に組ませてこれをはめ、小穴に錠をかけ紙で封印する。適用実例としては百姓・町人が筋違いの願事をなした場合、不届きとされ、そのお咎として申し付けられる場合が多く、時として不義密通の女や、博奕の自訴、山東京伝の洒落本、為永春水の『春色梅児誉美』などのごとく風俗紊乱の書物を著わしたお咎として科される場合にもみられる。手鎖は「過怠手鎖」と「吟味中手鎖」とに大別される。過怠手鎖はさらに、過料に代えて入牢させ、牢内で執行するものと、自宅・親族などの私宅・宿預・町預のうえ手鎖を付着、謹慎させるものとに区別される。いずれにせよ過怠手鎖は咎の軽重により一定期間(三十日・五十日・百日)手鎖が施されるもので、『公事方御定書』に、「其掛りニ而手鎖懸、封印付、五日目切ニ封印改、百日手鎖之分ハ隔日封印改」とあるように、三十日、五十日手鎖は五日ごとに「錠改め」と呼ぶ定期検査を行い、百日手鎖は一日置きに検査が繰り返された。牢内ではその掛が改め、町預など牢以外の所での手鎖は監視役の町奉行所配下同心・町役人・大家がこれを改めた。自宅での手鎖などは「せっちんでかかあどのやと手じょう呼び」との古川柳が物語るように、日常雑事・用便に至るまで手がかかり、無事期限がくれば、「両の手を出して大屋へ礼に来る」と、御礼参りも慣習的な作法の一つであった。

 *「てじょう」は、「手錠」だが、「手鎖」を「てじょう」と詠むのは当て字。

(118-11)「七日(なのか・なぬか)」:ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』のほちゅうには、<現代東京語では「なのか」が優勢だが、「なぬか」の例は奈良・平安・鎌倉時代に多数見られ、現代でも関西で多用される。「なのか」の確例に乏しいのは、これが東日本で生まれた新しい形だからか。江戸の人であった滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」には「なのか」の例が多い。>とある。

(118-11119-1)「急度御叱(きっとおしかり)」:江戸幕府の刑罰。幕府法上最も軽いものが叱責の刑であって、それには急度叱と叱の重軽二種があった。庶民だけではなく、下級武士にも適用された。白洲で奉行ら裁判の責任者が判決にあたって罪状を述べたあと「急度叱」、あるいは「急度叱置(しかりおく)」と言い渡すだけである。このような刑罰でも、幕府が士庶の身分的挙動の適否を随時公示するために意味があったし、これを受けた者は居住地域の知人らに対し公然と面目を失うことに苦痛があり、むしろ名誉刑の機能をもった。

(119-1)「三貫文(さんかんもん)」:「貫」は、計銭の単位。銭一千文を一貫と称するが、その由来は一文銭千枚を一条の緡(さし)に貫いて一結としたことにあるという。また一貫を一〆と記すことが多いが、これも一結すなわち一しめ、からきたもののようである。

(119-1)「過料(かりょう)」:中世から近世に行われた財産刑の一種。主刑として経済的負担を課することは律令制の衰退以後に始まる。過怠と称して寺社の修理などを命じたり財物や銭貨を徴したが、ことに銭貨を徴することを過怠銭・過銭・過料などと称した。享保三年に過料刑の体系は整備された。『公事方御定書』は御仕置仕形之事に同年極として「過料、三貫文、五貫文、但、重キハ拾貫文又ハ弐拾両三拾両、其者之身上に随ひ、或村高に応し員数相定、三日之内為納候、尤至而軽キ身上ニ而過料差出かたきものハ手鎖」との箇条をおいている。これらの過料刑は広汎に適用され江戸幕府刑法では博奕その他軽罪に対する主要な刑罰であった。さらに御定書以降もある犯罪に対する従来の刑罰を過料刑に変えた例もかなりあり、過料刑が刑罰に占める位置はいよいよ大きくなった。

(119-4)「御役所限(おやくしょぎり)」:「限(きり・ぎり)」は、「限る」意の名詞から転じたもの。「ぎり」とも。体言またはそれに準ずる語に付いて、それに限る意を表わす。

「…かぎり」「…だけ」の意。

(119-5)「披露(ひろう)」:公表。

12月 町吟味役中日記注記

        
(106-23)「揚屋入(あがりやいり)」:揚屋に入牢させること。また、入牢させられること。

 「揚屋(あがりや)」は、牢屋。本来は、江戸時代、江戸小伝馬町(東京都中央区日本橋)の牢屋敷内にあった牢房の称。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

 *「揚屋」を「あげや」という場合は、近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。大坂では明治まで続いたが、江戸吉原では宝暦10年(1760)頃になくなり、以後揚屋町の名だけ残った。「揚屋入(あげやいり)」は、遊女が客に呼ばれて遊女屋から揚屋に行くこと。また、その儀式。前帯、裲襠(うちかけ)の盛装に、高下駄をはき、八文字を踏み、若い衆、引舟、禿(かむろ)などを従え、華美な行列で練り歩いた。おいらん道中。

(106-5)「日光海道」:日光街道。東京から宇都宮市を経て日光市に至る道路。江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として、千住から宇都宮までの一七宿は奥州街道と同じ道を通り、宇都宮から分かれて徳次良・大沢・今市・鉢石を経由して日光に至る。日光道中。宇都宮までは奥州街道と共用。

(106-5)「海道」:①海上の航路。海路。船路(ふなじ)。②海沿いの道。海沿いの諸地方に通ずる道。また、その道に沿った地域。③街道に同じ。④特に、東海道をいう。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)古くは①を表わすには「海路」が多く使われ、「海道」は主として(2)の意だった。中世、「保元物語」などの軍記物語に頻出する「海道」は④である。

(2)中央から見てその区画の最遠方に至る路線上に海路が含まれる場合、その行政区画ばかりでなく、路線もまた「…海道」と呼ばれた。中世以降、鎌倉─京都の往還が最重要路線となったため、「海道」といえば東海道を指すようになった。④の挙例「平家物語」の「海道宿々の」はその意だが、次第に固有名詞という意識が薄くなり、人通りの多い〈主要道〉という一般名詞③が確立した。

(3)これに基づいて「日光海道」「甲州海道」などの名付けが行なわれたが、これらが海から遠いため、今度は「海」字が不適当と意識されるようになり、「街道」と書かれるようになった。

(4) 「海道」「街道」の表記については、「諺草」が「今俗に陸路を海道と云はあしし。街道といはんが然らん」と論じ、それを挙例の「俚言集覧」が論評していることや古辞書類に「街道」が見えないこと等から、漢籍からの借用というよりは、書き換えによって出現した表記とするのが妥当と思われる。

(5)近世に入ると「街道」の表記が目立つようになるが、次第に「海道」とは同音異(義)語として意識されるようになったものである。

(106-5)「房川(ぼうせん)」:日光道中栗橋宿と中田宿(現茨城県古河市)とを結ぶ利根川の渡船場で、栗橋関所とともに日光道中のなかでも重視されていた交通の要衝であった。呼称の由来は栗橋宿の常薫寺が法華坊と称すことからその坊前の渡の意であるといい(風土記稿)、また中田宿の円光寺が玉泉坊といった頃、坊下の川を坊川とよんだという説、当時この辺りの流れが房状に膨らんでおり、房川(ふさがわ)渡が音読みされたという説もある。「郡村誌」は「ばうかはわたし」と読む。中田渡ともよぶ。

(107-2)「抱子(かかえこ・かかえっこ)」:置屋などでかかえている芸娼妓。

(107-2)「酌取奉公(しゃくとりぼうこう)」:宴席に出てお酌をする勤め。

(107-3)「受判(うけはん)」:請判。契約当事者の債務や身元を保証するために保証人が押す判。また、保証人となって判を押すこと。請けあいの判。

(107-4)「口書(くちがき)」:江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(107-6)<くずし字>「伺之節」の「節」:全体に、縦長になる場合があり、特に、脚部の「即」の最終画の縦棒が極端に伸びる場合がある。

(107-7)「訳合(わけあい)」:ことの筋道。理由や事情。訳柄。

(107-7)「口達(くたつ)」:書面でなく、口頭で法令や命令などを伝達すること。

(108-1)「加州」:加賀国(石川県南部)の別称。賀州とも。ただし、「伊賀」が「賀州」ということが多いので、「加賀」は、「加州」という場合が多い。影印の「州」は、異体字の省略体。

 *ほかに、旧字体「澁」の旁の草体(略体)「渋」は、常用漢字に「昇格」した。

(108-1)「橋立(はしたて)」:現石川県加賀市橋立町。江戸後期から明治中期にかけて活躍した北前船の船主や船頭が多く居住した集落。船主数は享和元年(1801)四六人、文化6年(1806)四九人、文政10年(1827)二七人。有力な船主には久保彦兵衛・西出孫左衛門・酒谷長兵衛らがあり、藩の財政改革にも積極的に協力した。現在、国指定の重要伝統的建造物群保存地区に指定されれいる。保存地区には往時の様子を伝える船主屋敷が起伏に富む地形に展開しており、敷石や石垣には淡緑青色の笏谷石(しゃくだにいし)が使われ、集落に柔らかな質感を与えている。

(108-2)「入津(にゅうしん・にゅうつ)」:船が河海の津(港)にはいること。入港。

(108-3)「深浦(ふかうら)」:現青森県西津軽郡深浦町。県最西端にある日本海に臨む港町。中世には西浜と称され、安藤氏の支配下にあった。近世には弘前藩領。

(108-4)「小箪笥(こだんす)」:小さい箪笥。「箪笥」は、

 (1)中国では、竹または葦で作られた、飯食を盛るための器のことを「箪」「笥」といい、丸いものが「箪」、四角いものが「笥」であった。

(2)日本における「箪笥」の初期の形態がどのようなものであったか知ることはできないが、「書言字考節用集‐七」には「本朝俗謂書為箪笥」とあり、近世初期には書籍の収納に用いられていたようである。

(3)その後、材質も竹から木になり、「曲亭雑記」によれば、寛永頃から桐の木を用いた引き出しなどのある「箪笥」が現われ、衣類の収納にも用いられるようになり、一般に普及していったという。

(108-6)「錠前(じょうまえ)」:「錠」は「鎖(ジョウ)」の当て字。「ジョウマエ」は、重箱読み。戸などにとりつけて、開かないようにする金具。なお「前」は接尾語で、その属性、機能を強調していう。「腕前」「男前」など。

(108-6)「小松前」:現松前町字松城。松前城下の一町。小松前の地名について上原熊次郎は「夷語ポンマツナイなり。即、妾の沢又は小サき女の沢と訳す。ポンとは小イと申事。マツは婦人の事なり」「妾の事をポンマツと云ふ」と記し、続けて「則此沢に妾の住けるゆへに此名ありと云ふ」とする。福山城の南側、大松前川と小松前川に挟まれた海岸沿いの地域。沖之口役所があり、有力商人が軒を並べる城下の中心であった。

(108-8)「弐分金」:江戸時代の金貨の一種。二分判ともいう。四分で一両だから、二分金は一両の半分。文政元年(一八一八)にはじめて鋳造された。同十一年品位の異なる二分金が作られたが、貨幣の背に刻された紀年の「文」の字が、前者は楷書、後者は草書であったため、それぞれ、真文二分金(判)、草文二分金(判)とよばれた。その後も、安政三年(一八五六)、万延元年(一八六〇)、明治元年(一八六八)に鋳造されており、それらの通用期間・量目・品位・鋳造高は別表のとおりである。草文二分金以後のものが、当時の小判に比し、品位が低かったのは、一つには改鋳益金(出目(でめ))を得るためであったが、安政以降は、外国との通商が開けたために、不利な条件で金が海外に流出するのを防ぐ意味もあった。しかし幣制に統一を欠き、金銀比価が均衡を失していたために、その目的は達せられなかったが、国内では良貨が退蔵され、二分金が大量に流通した。さらに明治元年から二年までに、二百万両に近い劣悪な二分金が維新政府の手で鋳造された上に、多量の贋貨も市中に出廻ったため、明治初年には二分金が主要な通貨として用いられた。また明治七年に旧貨幣の価格を定めたとき、二分金二枚=一両の価値が算定の基準とされた。

(108-8)「浅黄木綿(あさぎもめん)」:木綿織物の一つ。経(たていと)、緯(よこいと)ともにあさぎ色に染めた糸を使って平織りにした無地の木綿。多くは裏地用に用いる。

(108-8)「肌附(はだつき)」:肌着(はだぎ)。

 *「肌付金(はだつけがね・はだつきがね)」:肌身はなさず持っている金銭。肌につけて大切にしている金。所持金。はだつきがね。

**浮世草子・好色五人女〔1686〕四・三「殊更見せまじき物は道中の肌付金(ハタツケカネ)」

(109-9)「壱朱金」:江戸時代の金貨幣。一両の十六分の一、一分の四分の一に相当する正方形の金貨。品位きわめて悪く、形も小さく、取り扱いが不便で、俗に「小二朱」とも呼んだ一朱の金貨としては、文政期改鋳の一環として、文政七年(一八二四)に発行した一種があるのみ。一個の重さは〇・三七五匁(一・四一グラム)という軽量である上に、規定の品位は三百六十五匁、江戸時代を通じて無類の悪弊であった。通用開始は七月二日と布告されているが、大坂では、七月二十一日から鴻池善右衛門・米屋平右衛門ら十五軒組合の両替屋たちが、二朱金一万五百両を預って引替えにあたった。しかし上方での評判はいたって悪く、主として古二朱銀と引き替えた高は、九月十六日現在で、ようやくにして二千両余。以後、大坂へ一朱金を差し登せることは御免ねがいたいと訴えるほどであった。それにしても、天保四年(一八三三)七月までの発行量は二百九十二万両に達した。

(108-11)「金高(かねだか・きんだか)」:金銭を合計した額。金額。

(109-1)「南鐐銀(なんりょうぎん)」:二朱銀の異称。八枚をもって金一両とする「金代り通用の銀」。つまり、二枚で一分、八枚で一両に当たる。南挺。江戸時代、安永元年(一七七二)以後鋳造された。「鐐」は白銀の美しいものの意。純分比百分の九十八という良質の銀(上銀)を素材としているので南鐐と呼ばれた。なお、幕府は、南鐐一朱銀(文政一朱銀)を鋳造、7月より通用開始した。

*P108・8行~P109・1行の計算

 ①「弐分金拾両」:4分で1両だから、「弐分金」は2枚で4分=1両。

   10両=2分金×10=20枚(2分金換算)

 ②「壱朱金三両」:1朱は、1両の16分の1。3両は16×3=48枚(1朱金換算)

 ③「南鐐銀二両」:(イ)「南鐐銀」は通常、2朱銀だから、2枚で1分。8枚で4分=1両。二両は16枚。(ロ)南鐐一朱銀の場合は、(イ)の2倍で32枚。

(109-3)「猿(さる)」:扉(とびら)や雨戸の戸締まりをするために、上下、あるいは横にすべらせ、周囲の材の穴に差し込む木、あるいは金物。戸の上部に差し込むものを上猿(あげざる)、下の框(かまち)に差し込むものを落猿(おとしざる)、横に差し込むものを横猿という。(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』』)

 *以下、出村道昭氏(6班)のコメント

  「猿」は、一般的に雨戸の戸締り用に使用する。仕掛けについては、「上げ猿」「落し猿」「横猿」があり、それを固定するための「寄せ猿(または、送り猿とも)」がセットになっている。

 『吟味役中日記』の「表入口戸猿外より錐にて明」の読み方だが、

   「表入口戸、猿、外より錐にて明」と読んでも

    「表入口、戸猿、外より錐にて明」と読んでも意味には違いがない。

  しかし、①の「猿」のみの単独表現では、ぎこちない言葉遣いではないか。「猿」は、雨戸に使用するのが一般的であり、「上げ猿」「落し猿」「横猿」の仕掛の総称の呼び方として「戸猿」(雨戸の猿の意)という方が素直な呼び方ではないか。

(110-4)<くずし字>「其旨共」の「共」:脚部の「八」の左払いが省略される場合が多い。

(110-7)「不包(つつまず)」:かくさず。「包む」は、表面にあらわさないで心の中にかくす。心にひめる。涙をこらえることにもいう。

(112-5)「内証(ないしょう)」:影印の「証」は旧字体の「證」。人に知らせないこと。あら

 わにしないこと。

(112-6)「取〆り(とりしまり)」:「〆」は、国字。「封」の草体の極端な省略とする。ここでは「締」の略として使われている。

11月 町吟味役中日記注記       

(102-1)「倅(せがれ)」:影印の「伜」は俗字。自分の息子をさしてへりくだっていう語。古くは男子・女子ともにさしていった。元来、「悴」を当てていたが、人を指すことを明示するために、立心偏を人偏に改めて、「倅」を当てたもの。なお「せがれ」は、室町以降の語で、「痩。せ枯れ」の意とされる。「悴」の字義から生じた訓。

(102-8)「勘定奉行」:金穀収支の業務にあたる。(別表参照)

(102-8)「蠣崎四郎左衛門」:後、松前藩家老(格)となる蠣崎吉包。影印の「蛎」は、「蠣」の俗字。「日本橋蛎殻町」は、俗字の「蛎」を使用。

 *<漢字の話1>①「右」と「左」の書き順・・「右」は払いを1画目、横棒を1画目に書く。「左」は、横棒を1画目、払いを2画目に書く。

 その理由・・「右」は、右手に神に捧げる祈りの文章を入れた器(口)を持っているところで、払いが手のひら、横棒が腕。

「左」は、左手に祈りのときに使う道具(工)を持っている姿で、横棒が手のひら、払いが腕。

 *手のひらを書いてから腕を書くから、「右」は、払いから、「左」は横棒から書く。

  (上記は、日本漢字能力検定協会のHPより)

 ②「筆順指導の手引き」(昭和33年・文部省)・・「本書に取り上げた筆順は、学習指導上の観点から、一つの文字については一つの形に統一されているが、このことは本書に掲げられた以外の筆順で、従来行われてきたものを誤りとするものではない。

(103-1)「寺社町奉行」:松前藩での設置は慶長年間といわれる。寛永16(1639)には、切支丹対策の一環として法制化されている。後松前藩時代、一時寺社奉行と町奉行を分離したこともあるが、ほとんどは両奉行を兼帯している。(別表参照)

(103-2)「触面(ふれめん)」:触書の文面。触書は、江戸時代、幕府や藩主などから一般の人々に公布した文書。特定の役人、または関係官庁などにのみ通達された御達(おたっし)に対する語。

(103-3)「村山傳兵衛」:町奉行配下の町下代。

(103-8~9)「武芸」:江戸時代中期になると、武芸は武士たる者の修むべき道として奨励され、儒書の勉学と並んで武士教育の教科となった。そして中世の弓馬に代わって剣術が表芸の第一とされるようになった。そのような状況から、正式の武芸を修行する武士の階層が広まり、したがって武芸師範を本職とする者も急増した。

 *<漢字の話>「芸」:旧字体は「藝」だが、別に「芸」という字があり、「目宿(ウマゴヤシ)」に似た草の名前。「藝」の解字は「芸」+「執」。園芸技術の意味から一般にわざの意味を表すようになった。

(104-6)「唐津内沢町」:現松前町字唐津・字西館・字愛宕など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。松浦武四郎は「小商人、番人、水主、船方等多く住す。此流れの向に新井田嘉藤太此処へ被下ニ相成屋敷有。水車有」と記しており(「蝦夷日誌」一編)、船乗りが多かったことがわかる。新井田邸跡は現在北海道唯一の孟宗竹林となっている。

(105-1)「青森赤石町」:現青森県西津軽郡鰺ヶ沢町のうち。日本海に面する漁村。

(105-3)「遣ひ者」:遣い物。贈り物。贈答の品。進物。

(105-9)「取障(とりさへ=え=)」:下2段「取障(とりさ)ふ(う)」の連用形。「取障(とりさう」は、争いの間にはいってなだめる。仲裁する。とりなす。

 *<文法の話>下2段動詞「取障(とりさ)ふ」の活用・・「とりさへ」(未然)・「とりさへ」(連用)・「とりさふ」(終止)・「とりさふる」(連体)・「とりさふれ」(已然)・「とりさへよ」(命令)

(106-23)「揚屋入(あがりやいり)」:揚屋に入牢させること。また、入牢させられること。

 「揚屋(あがりや)」は、牢屋。本来は、江戸時代、江戸小伝馬町(東京都中央区日本橋)の牢屋敷内にあった牢房の称。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

 *「揚屋」を「あげや」という場合は、近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。大坂では明治まで続いたが、江戸吉原では宝暦10年(1760)頃になくなり、以後揚屋町の名だけ残った。「揚屋入(あげやいり)」は、遊女が客に呼ばれて遊女屋から揚屋に行くこと。また、その儀式。前帯、裲襠(うちかけ)の盛装に、高下駄をはき、八文字を踏み、若い衆、引舟、禿(かむろ)などを従え、華美な行列で練り歩いた。おいらん道中。

(106-5)「日光海道」:日光街道。東京から宇都宮市を経て日光市に至る道路。江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として、千住から宇都宮までの一七宿は奥州街道と同じ道を通り、宇都宮から分かれて徳次良・大沢・今市・鉢石を経由して日光に至る。日光道中。宇都宮までは奥州街道と共用。

(106-5)「海道」:①海上の航路。海路。船路(ふなじ)。②海沿いの道。海沿いの諸地方に通ずる道。また、その道に沿った地域。③街道に同じ。④特に、東海道をいう。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)古くは①を表わすには「海路」が多く使われ、「海道」は主として(2)の意だった。中世、「保元物語」などの軍記物語に頻出する「海道」は④である。

(2)中央から見てその区画の最遠方に至る路線上に海路が含まれる場合、その行政区画ばかりでなく、路線もまた「…海道」と呼ばれた。中世以降、鎌倉─京都の往還が最重要路線となったため、「海道」といえば東海道を指すようになった。④の挙例「平家物語」の「海道宿々の」はその意だが、次第に固有名詞という意識が薄くなり、人通りの多い〈主要道〉という一般名詞③が確立した。

(3)これに基づいて「日光海道」「甲州海道」などの名付けが行なわれたが、これらが海から遠いため、今度は「海」字が不適当と意識されるようになり、「街道」と書かれるようになった。

(4) 「海道」「街道」の表記については、「諺草」が「今俗に陸路を海道と云はあしし。街道といはんが然らん」と論じ、それを挙例の「俚言集覧」が論評していることや古辞書類に「街道」が見えないこと等から、漢籍からの借用というよりは、書き換えによって出現した表記とするのが妥当と思われる。

(5)近世に入ると「街道」の表記が目立つようになるが、次第に「海道」とは同音異(義)語として意識されるようになったものである。

(106-5)「房川(ぼうせん)」:日光道中栗橋宿と中田宿(現茨城県古河市)とを結ぶ利根川の渡船場で、栗橋関所とともに日光道中のなかでも重視されていた交通の要衝であった。呼称の由来は栗橋宿の常薫寺が法華坊と称すことからその坊前の渡の意であるといい(風土記稿)、また中田宿の円光寺が玉泉坊といった頃、坊下の川を坊川とよんだという説、当時この辺りの流れが房状に膨らんでおり、房川(ふさがわ)渡が音読みされたという説もある。「郡村誌」は「ばうかはわたし」と読む。中田渡ともよぶ。

(107-2)「抱子(かかえこ・かかえっこ)」:置屋などでかかえている芸娼妓。

(107-2)「酌取奉公(しゃくとりぼうこう)」:宴席に出てお酌をする勤め。

(107-3)「受判(うけはん)」:請判。契約当事者の債務や身元を保証するために保証人が押す判。また、保証人となって判を押すこと。請けあいの判。

(107-4)「口書(くちがき)」:江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(107-6)<くずし字>「伺之節」の「節」:全体に、縦長になる場合があり、特に、脚部の「即」の最終画の縦棒が極端に伸びる場合がある。下は『くずし字辞典』(思文閣出版)

(107-7)「訳合(わけあい)」:ことの筋道。理由や事情。訳柄。

(107-7)「口達(くたつ)」:書面でなく、口頭で法令や命令などを伝達すること。

10月 町吟味役中日記注記

(96-1)「被成下(なしくだされ)」:組成は4段動詞「なしくだす」の未然形「なしくださ」

+尊敬の助動詞「る」の連用形「れ」。「成し下す」は、命令などを下す。

(96-2)「国政(こくせい)」:ここいう「国」は、松前藩のこと。

(96-2)「彼是(あれこれ・かれこれ)」:なんのかのと文句をつけて。苦情をいろいろと。

(96-3)「若(もし)」:「若」は、漢文の接続詞.。「もし」と読むのは、国訓。「若」を「わかい(年齢が少ない)の意味に使うのは、同音の「弱」との共通で、上代以降の用法。

(96-4)「実事(じつじ)」:ほんとうのこと。根拠のあること。実際のこと。

(96-6)「可相成(あいなるべき)」:「あい」は接頭語。 下に「儀」「事」を伴って、当然のことながら。

(96-6)「御隣国(ごりんごく)」・・ここでは、津軽藩のこと。

(96-7)「御沙汰ヲ」の「ヲ」:五十音図の第十行第五段(ワ行オ段)におかれ、五十音順で第四十七位(同字の重複を除いて)のかな。いろは順では第十二位で、「る」の次、「わ」の前に位置する。定家かなづかいの流では、「端のを」と呼んでいる。なお、「お」は、いろは順では第二十七位で、「の」の次、「く」の前に位置する。定家かなづかいの流では、「奥のお」と呼んでいる。

*「ヲ」は、「乎」の最初の3画からできている。「ニ」+「ノ」と三画で書く。「フ」+「一」と2画で書くのは間違い。

 *カタカナは、字源の漢字の最初の1~3画からできている場合が多い(別添『片仮名の由来』)  

(96-8)「手軽(てがる)」:面倒な手数をかけないさま。簡単でたやすいさま。筒易。軽便。

(96-8)「事済(ことずみ)」:4段動詞「事済(ことず)む」の連用形。仕事や事件などが完了または、解決する。 

(96-8)「被成下間敷(なしくだされまじき)」:組成は4段動詞「成下(なしくださる)」の終止形「なしくださる」+推量の助動詞「まじ」の連体形「まじき」。

 *推量の助動詞「まじ」は動詞の終止形に接続する。

 *<くずし字>「被成下」の「被」:衣偏が、旁の「皮」より上に飛び出す形になることがある。

(96-9)「差出ヶ間敷(さしでがましき)」の「ケ」:諸説あるが、「ケ」は、もともと「箇」の略体「个」から出たものといわれている。しかし、「箇」は、漢音で「カ」、唐音で「コ」で、「ケ」の音はない。「箇」の冠の「竹」の片割れの「ケ」が起源で、カタカナというより、記号であるという説がある。「ケ」を「カ」と読みのは、「箇」を「カ」と読むことから派生したといえる。

 *「君ケ代」「越ケ谷」「八ケ岳」のように連体助詞の「が」にあてることがある。これは前例の「三ケ日(さんがにち)」等の「ケ」の転用。

(97-1)「如是(かくのごとく)」:このようである。「如斯」「如此」も「かくのごとし」と読む。『類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう』には、「是」の和訓に「コレ・ココニ・カカルコト・ヨシ・コトハル・コトハリ・スナハチ・ナホシ・カクノゴトキ・カクノゴトク・タツ」を挙げている。

 (97-1)「恐惶謹言(きょうこうきんげん)」:男子が、手紙の末尾に書いて、敬意を表す語。恐れながら謹んで申し上げます。書留(かきとめ)といい、書状など文書の末尾に書く文言。書状では「恐々謹言・謹言」、綸旨では「悉之」、御教書(みきょうじょ)などでは「仍執達如件」、下文などでは「以下」というように文書の様式によってその文言はほぼ定まっている。とくに書状では相手との上下関係によって書札礼(しょさつれい)が定まっていた。*書留などは、受取人の敬意の程度を示めし、その書風が楷書、行書、草書と細かく区別されていた。場合によっては、漢字であることが判らないほど崩されている。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

  <代表的な例である「弘安礼節‐書札礼之事」(一二八五)によれば、「恐惶謹言」は、「誠恐謹言」に次いで敬意が高く、目上に対して最も広く用いられ、以下「恐々謹言」「謹言」等があって、目下に対しては「…如件」で結ぶ形式をとるという。実際の文書では「誠惶誠恐謹言」というさらに上位の表現や、「恐惶かしく」「恐惶敬白」といった「恐惶謹言」に準じた形式も見られ、他に「恐惶頓首」「匆々(草々)頓首」「以上」等が用いられる。いずれも実際の書状では符牒のように書かれる。>とある。

(97-5)「書判(かきはん)」:文書の後に自筆で書く判、署名、サイン。奈良時代から平安初期に、自筆で署名する場合には楷書が用いられ、これを自署(じしょ)と呼ぶ。次第に草書体にくずされて、草名(そうみょう)といわれ、草名がさらにくずされて原字が読解不能になり、図案化されて、書判、花押(かおう)と呼ばれる。

 *テキストは、奥平日記の原本だが、津軽家へ差出した手紙の写しだから、手紙にあった花押を書かず、花押があったことを「書判」とした。

(97-8)「御内(おんうち)」:「おん」は接頭語。手紙のあて名の下に書きそえることばの一つ。家族全体にあてて出すときに使う。

(97-10)「大沼又太郎」:『蓬田村史』所収の「積載箚記」に、外が浜代官といして、「大沼又太郎」の名がある。

(98-2)「去卯(さる・う)」:天保2年辛卯(シンボウ・かのとう)。

(98-2)「私(わたくし)」:「わたし」は、。「わたくし」よりくだけた言い方。現在では自分をさす、もっとも普通のことば。近世においては、女性が多く用い、ことに武家階級の男性は用いなかった。

 「わたくし」は、中世前期までは「公(おおやけ)」に対する「個人」の意味で用いられ、一人称の代名詞として用いられたのは、中世後期以降のこと。

(98-3)<くずし字>「三月」の「月」

(98-4)「多分」:ある物事の中の大部分。

(98-4)「偏(ひとえ)に」:もっぱらその行為に徹するさまを表わす語。いちずに。ひたすらに。

*語源は「一重」から。まじりけのないこと。純粋であること。そのことに専心すること。また、そのさま。ひたすら。

<古文書の体裁>「平出(へいしゅつ)」:敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。     

テえキスト影印の場合、5行目行頭の「御威光」を尊敬して、「偏に」で改行している。

(98-5)「難有(ありがたき)」:形容詞「ありがたし」の連体形。「有り」+「難し」で、有ることが難しい、が元の意。めったにない、ということから、めったにないくらい優れている、の意になり、さらに現代語に通じる、感謝にたえない、の意になった。

 *「ありがとう」は「有り難し」から

お礼のことば「ありがとうございます」は、もともと「有り+難(かた)し」、つまり「有ることが難しい(めったにない)」という意味でした。

『枕草子』の「ありがたきもの」の段には、「舅(しうと)にほめらるる婿(むこ)。また、姑(しうとめ)に思はるる嫁の君。毛のよく抜くる銀の毛抜き。……物語・集など書き写すに、本に墨つけぬ」など、まさに「めったにない」ものが集められています。

この「めったにない」が、のちに「(めったにないほど)尊く優れている」「身にあまり、もったいない」の意味になり、さらに現代語に通じる「感謝にたえない」の意味になったのです。

それにしても『枕草子』の「ありがたきもの」が「かたち・心・有様、すぐれ、世に経(ふ)るほど、いささかのきずなき」(容姿・性質・態度ともに優れ、世間で日を送る間に、少しの欠点も持たない人)と続くところには、思わずうなずいてしまいますね。

(『ジャパンナレッジ版小学館全文全訳古語辞典』)

(98-5)「仕合(幸せ)」: 「しあわす(為合)」の連用形の名詞。

(1)  めぐり合わせ。運命。なりゆき。機会。よい場合にも、悪い場合にも用いる。

(2)  幸運であること。また、そのさま。

*今日「しあはせ」は「幸せ」と書いて、もっぱら運のよいことにいうが、古くは(1)だけの意味で、運のよい場合にも悪い場合にも用い、「しあはせよし」とか、「しあはせ悪(わろ)し」のように言い表した。

(98-7)「風聞(ふうぶん)」:ほのかに伝え聞くこと。うわさに聞くこと。うわさ。

*「風」には、「ほのかに」の和訓がある。熟語は、風説、風評など。

*「風す」は、「そよそよと吹く」で、遠まわしにいう。それとなくいう。ほのめかす。

(98-7)「驚入(おどろきいり)」:「おどろきいる」の連用形。ひじょうに驚く。すっかり驚いてしまう。「入る」は、補助動詞として用いられる。動詞の連用形に付く。せつに、深くそうする意を表わす。「思い入る」「念じ入る」「泣き入る」「恐れ入る」「痛み入る」など。

(98-8)「実説(じっせつ)」:)作り話でない、ほんとうにあった話をすること。また、実際にあったとおりの話。実話。

(98-8)「畢竟(ひっきょう)」:途中の曲折や事情があっても最終的に一つの事柄が成り立つことを表わす。つまるところ。ついには。つまり。結局。

(98-8)「聊(いささか)」:「か」は接尾語。程度の少ないさまをいう。少しばかり。わずか。

 *「いささ」:《名詞に付いて》 小さい、ささやかな、わずかな、の意を表す。「いささ群竹(むらたけ)」「いささ小笹(をざさ)」など。

(98-9)「品(しな)」:理由。わけ。

(98-9)「事起(ことおこし)」:事件を起こすこと。

(99-5)「何卒(なにとぞ)」:代名詞「なに(何)」に助詞「と」「ぞ」が付いてできたもの。

*「何卒」の「卒」は特別な意味はなくて「とぞ」ではなく「なに・と・ぞ」の「ぞ」(音のソツ)。あまりいい例が「武蔵国」を「の」が無いのに「むさし・の・くに」と読むように、「と」は省かれている。一種の熟語訓。

(99-6)「仁徳(じんとく・にんとく)」:仁愛の徳。民の辛苦を除き喜びや楽しみを与えようとする徳。

(99-7)「掛合(かけあい)」:要求などを話し合うこと。談判。交渉。

(101-5)<漢文訓独>「右者」の「者」:「者」は、漢文訓読の助辞で、名詞(名詞句)後に置く。音読みは「シャ」、訓読みは「もの」で、「は」は漢文訓読の置き字であり、変体仮名ではない。

 *仁者、天下之表也(じんてんかのひょうなり) 訳<仁とは人の世における規範である>(『礼記』)

 *古者、大事必乗其産 [古者(いにしへ)、大事(だいじ)には必(かなら)ず、其(そ)の産(さん)に乗(の)る。] 通釈の<昔は戦争という国の大事な場合には必ず自国産の馬を用いたものである>(『春秋左氏伝』)

  **「古者」の読みを「古くは」とせず、「いにしへ」と訓じている書き下し文。

(101-5)「久保田松五郎」:『松前藩士名前控』の「中之間中小姓」に「久保田松五郎」の名がある。

(101-6)「留主(るす)」:①漢音で「リュウシュ」。天皇・皇帝・王などの行幸の時、その代理として都城にとどまり、執政すること。また、その人。令制では皇太子もしくは公卿がこれにあたる。②呉音で「ルス」。主人、また、家人が外出した時、その家を守ること。また、その人。③「外出して不在になること。内にいないこと。在宅してないこと。」を意味する「るす」は、国訓。

(101-6)「下乗(したのり)」:調教として他人の馬を乗りならすこと。またその役。

9月 町吟味役中日記注記  

                             

(90-2)「唐津内町(からつないまち)」:現松前町字唐津。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内の地名について上原熊次郎は「夷語カルシナイなり。則、椎茸の沢と訳す。昔時此沢の伝へに椎茸のある故に地名になすなるべし」と記す(地名考并里程記)。南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢川を境に博知石町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(90-3)「加留堂(かるた)」:カルタ。加留多・賀留多・歌留多・骨牌などの文字を宛て、近世南蛮人の来航に伴って伝来し流行をみるようになったカルタの名はポルトガル語のcartaによったもの。カルテ、カードと同源。博奕の弊害があって、はやくも慶長二年(一五九七)の『長宗我部元親百箇条』に「博奕カルタ諸勝負令 停止 」とみえる。カルタ札は四十八枚一組で、イス(剣)・コップ(盃)・オウル(貨幣)・ハウ(棒)の四種の紋標のそれぞれが一から九までの数の札と妃・騎士・王の絵の札と合わせて十二枚によって構成されている。伝来後まもなくそれをまねてわが国で版行するようになった。

 天明7年(1787)、老中松平定信の「寛政の改革」が始まると、 カルタの流行に終止符が打たれる。 この改革の中で、教育系のかるた(歌カルタ・いろはカルタ等)以外の賭博用かるたが全面禁止された。

 そんな状況の中19世紀初頭、それら全面禁止された賭博カルタに代わって、幕府の弾圧を避けるために巧みに転換し生み出されたのが、「花かるた(後の花札)」である。賭博かるたに付きものであった数標を表に出さず、それを花鳥風月と12ヶ月に託したが、やがて花札も賭博の対象となった。

 明治元年(1868)、新政府は幕府に続いて、賭博用カルタ(花札も含む)販売を禁止した。

文明開化により西洋文化の流入。この時期「西洋かるた(トランプ)」が輸入され人気に。 西洋では、トランプは賭博に使用した場合は罰せられるが、遊戯用としてなら問題ない。

明治新政府はこれに倣い、花札も売買まで禁じることは不自然との考えから、 明治18(1885)末で「花札」の禁令を解除し、発売が公に許されることになる。この解禁を機に、「花札」は庶民の間に急速に広まり、爆発的な流行を見せ始める。

明治22年(1889)には、他の禁止されていたカルタの禁令も解除、販売が再開された。

*<変体仮名>「堂」:「堂(どう)」の歴史的仮名遣いの「だう」から。

(90-3)「八間田綱右衛門(やつまだあみえもん)」:『松前藩士名前控』の「古組御足軽中」に「八間田綱右衛門」の名がある。また、嘉永6(1853)の松前藩の「御役人諸向勤姓名帳」(『松前町史史料編第1巻』所収)に「足軽頭取」として「八間田網右衛門」の名がある。テキスト4ページ2行目に「八ツ間縄右衛門」とある。

(90-5)「上在(かみざい)」:松前城下から西の集落。広域名称として松前城下から東海岸を「下ノ国」「下在」と称したのに対し、西海岸を「上ノ国」「上在」と称していた。

(90-6)「町代(ちょうだい・まちだい)」:町内のことをとりしきる者。特に江戸時代、個別の町(ちょう)の名主や年寄などを補佐した。松前城下では、町年寄―町下代―町小使―名主―町代―組合頭―五人組という系列であった。

 (90-6)「五人組」:江戸時代における最末端の治安・行政単位。地域ごとに五戸前後を組み合わせ、年貢納入・治安維持の連帯責任単位とした。

 江戸幕府の五人組の起源は、慶長二年(一五九七)三月の豊臣秀吉の「御掟」とするのが有力である。この「御掟」は、辻斬り・すり・盗賊・悪逆人などの相互検察を目的として、侍は五人組、下人は十人組を組織させたものである。これは武士を対象としたもので、農民や町人にかかわるものではなかったが、やがて、五人組や十人組による相互検察・連帯責任制が農民・町人の間に及ぼされていった。

 この五人組制度が全国的規模で幕領・譜代大名領などで実施されたのは寛永10年(1633)代である。

 兵農分離による武士階級の城下町集住化に伴う近世農村の治安対策に、年貢納入・耕作労働の連帯責任制の確立、また小農民の土地緊縛などを実現するところに、五人組制度を強力に推進した幕府のねらいがあったとする。五人組の編成方法は、町では家持(地主)と家主(家持の代理人)とをもって構成し、村では本百姓または高持百姓をその構成員とした。組合せ方は、家並に最寄り次第五人ずつ組み合わせるのが普通であったが、また百姓の持高の大小を考えて平均するように組んだところもあり、また仲のよい者や親類ばかりを組み合わせてはならないと限定したところもある。人数は五人あるいは、六人・七人にしたところもあり、十数名を一組にしたのも稀にはある。組の中から重立った者を五人組頭とした。それは組員で選んだこともあり、庄屋などが選定したこともある。この五人組頭は、五人頭・判頭(はんがしら)・組親・組持・つりがしらなどともいっている。松前藩では「組合頭」という。五人組としての責務は、組中に徒(いたずら)者・悪者があれば申告すること、キリシタン関係の者は隠しておかないこと、欠落人のないように注意すること、もしあれば組中にて尋ね出すこと、組中に病人などがあって耕作のできかねる時はお互いに助け合って、年貢そのほかを不納することのないように努めること、もし未進者があれば組中で弁済することなどであって、相互検察・連帯責任制を明確にしている。

(90-8)<くずし字>「六月初旬」の「月」:連綿体のように極端にくずれている。

 *<漢字の話>「旬」:ぐるりとめぐる。十日を旬とする。解字は、「勹(つつむ)」+「日」。「徧(あまね)くするなり。十日を旬と爲す。勹日に從ふ」(『説文解字』)

(91-2)「内吟味役(うちぎんみやく)」:目付配下の役職。松前藩では、目付―内吟味役―徒士目付―足軽目付の系列であった。

(91-2)三村周太(みむらしゅうた)」:『松前藩士名前控』の「御目附」に「三村周太」の名がある。

(91-3)「祐筆」:武家社会に多く見られる職務。文書・記録の執筆・作成 にあたる常置の職。鎌倉幕府の引付(ひきつけ)の右筆、江戸幕府の奥右筆・表右筆など。武将の家などにも見られる。松前藩では、奥用人の配下に、側頭―御近習頭―御納戸番―祐筆の系列がある。

(91-3)「新井田五郎左衛門(にいだごろうざえもん)」:『松前藩士名前控』の「御目附」に「新井田五郎左衛門」の名がある。

(91-3) 「同断(どうだん)」:「同じ断(ことわり)」を音読みにした語。 「断(ことわり)」は、理由。わけ。よってきたるゆえん。

(91-4)「工藤小伝治(くどうこでんじ)」:『松前藩士名前控』の「御目附」に「工藤小伝次」の名がある。

(91-5)「御勘定吟味役」:勘定奉行の補佐役。

(91-5)「藤林重治(ふじばやししげじ)」:『松前藩士名前控』の「御勘定吟味役」に「藤林重次」の名がある。

(91-6)「御前(ごぜん)」:近世、大名、旗本などをその家臣が敬って呼ぶ語。また、明治以後、高位高官の人を敬って呼ぶ語。

(91-7)「工藤茂五郎」:松前藩士。天保5(1834)には町奉行吟 味役に就任した。安政2(1855)、幕府の蝦夷地再直轄に際し、幕吏へ事務引継を行った。町奉行吟味役時、「工藤長栄」の名で、吟味役日記である「工藤長栄日記」を著わしている。

 (91-9)「御厩頭取(みまやとうどり)」:御用人配下の職。厩(うまや)のことを担当する責任者。「御厩(みまや)」は、「みうまや」の変化した形。「み」は接頭語。「うまや(馬屋・厩)」の敬称。

(91-9)今泉新八(いまいずみしんぱち)」:『松前藩士名前控』 の「中之間御中小姓」に「今泉新八」の名がある。

*<くずし字>「今泉新八」の「今」:楷書は4画だが、かなの「て」のように一気に書く場合がある。

(92-1)「山下達次郎(やましたたつじろう)」:『松前藩士名前控』 の「士席御先手組」に「山下辰次郎」の名がある。

(92-2)「石塚官蔵(いしづかかんぞう)」:『松前藩士名前控』 の「士席御先手組」に「石塚官蔵」の名がある。

(92-4)「東蝦夷地一番手牧田七郎右衛門」:天保2(1831)2月、イギリス船「レディロウエナ」号が厚岸のウライネコタン沖に来航、日本側と戦闘になった。松前藩は、1番手・2番手人数を派遣した。牧田は、1番手の隊長。

(92-4)「牧田七郎右衛門(まきたしちろうえもん)」:牧田はウライネコタン事件のとき、1番手の隊長。アッケシからの帰路、このとし6月、絵鞆に滞在していた時、噴火湾でまたまた異国船に遭遇、戦闘があった。天保4(1833)915日、松前藩の箱館奉行になった。

(92-5)「侍中(さむらいじゅう)」:侍ども。侍のものども。侍の連中。侍衆。

(92-6)「出役(しゅつやく)」:江戸時代、本役のほかに、臨時に他の職務を兼ねること。また、その役人。

(93-7)「薄暑(はくしょ・うすしょ)」:夏の初めの、やや暑さを覚える時分。

(93-8)「御堅固(ごけんご)」:無事息災であること。健康であること。また、そのさま。達者。書簡のあいさつ文に使用される。

(93-8)「珍重(ちんちょう)」:書簡などに用いて、相手に自重自愛をすすめる語。

(93-9)「然者(しかれば)」:先行の事柄を一応おさめて、話題を転じるのに用いる。そうして。さて。ところで。

(94-3)「繁用(はんよう)」:用事の多いこと。多忙なこと。

(94-4)「段々(だんだん)」:事柄の一つ一つ。

(94-4)<くずし字>「奉存候」:連綿体様になっている。「存」のくずしが極端。

(94-5)「御状(ごじょう)」:他人を敬って、その書状をいう語。お手紙。御書。

(94-6)「手掛(てがかり)」:手をつけるいとぐち。調べたりするためのいとぐちとなるもの。

(94-7)「可得貴意(きいをうべき)」:多く、手紙の慣用語。お聞きしたい。「貴意」は、相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

(94-7)「被仰越(おおせこされ)」:「仰越」は、言っておよこしになること。

(94-8)<くずし字>「青」「森」:「青」は、冠が「木」、脚が「て」のようになる。「森」の脚は、「成」のように書く場合がある。

(94-8)「駅(えき)」:令制で、官道に設置された宿場。官人のために駅家(えきか)が人馬を継ぎ立て、宿舎、食料を供した。鎌倉以降衰え、代わって宿(しゅく)が発生した。

 明治のはじめには、「ステーション(ステンショ)」「停車場(ていしゃば・ていしゃじょう)」が旧来の駅と区別して使われたが、しだいに音節数の少ない「駅」が一般的になる。「ステーション」は、早くに用いられなくなる。

(95-1)「難渋之者」:経済的に困窮している者。貧困な者。難渋人。ここの「難渋」は、暮らし向きが悪くて苦しむこと。また、貧困であること。

(95-2)「元質取主(もとしちとりぬし)」:「質取主」は、質権を有する人。質権者。「元質取主」は規模の大きい質屋。 

8月 町吟味役中日記注記  

            

(84-2)「惣御役人中」の「中(じゅう)」・・集団の成員のすべて。「親戚中」「生徒中」

   *テキストタイトルの「町吟味役中」の「中(じゅう)」・・物事を行なっているあいだの時。

(84-2)「御七日(おなぬか・おなのか・ごしょしち)」・・人が死んでから七日目に当たる日。

   *「なぬか」と「なのか」・・現代東京語では「なのか」が優勢だが、「なぬか」の例は奈良・平安・鎌倉時代に多数見られ、現代でも関西で多用される。「なのか」の確例に乏しいのは、これが東日本で生まれた新しい形だからか。江戸の人であった滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」には「なのか」の例が多い。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(84-23)「御伺機嫌(ごきげんうかがい)」・・(1)目上の人を訪問して、その人や家族の安否をたずねること。(2)相手のきげんを見てうまくとりいろうとすること。

   ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「機嫌」の項には、

<①(譏嫌)そしりきらうこと。世人の嫌悪すること。②事を行なうしおどき。③その時々の様子や形勢。事情。④表情、言葉、態度にあらわれている、その人の気分のよしあし。⑤(形動)気分のよいこと。心持の愉快なさま。ごきげん。>とある。

   *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

   <①「譏嫌」が本来の用字と思われる。「随筆・安斎随筆‐一六」に「言偏の譏の字を用いて譏嫌と書たるは〈略〉人に譏られ嫌らはるると云事なり。木偏の機字を用ひたるとは別の事なり」とあって、「譏嫌」と「機嫌」を別語としているが、疑問。①を考慮するところから②の意が生じ、②を見はからうために③の意が生じることになったと見られる。

②③の挙例「色葉字類抄」で「気験」を当てるのは早くから④の意味のニュアンスが生じていたからと思われる。さらに転じて、⑤の意になり、現代語ではもっぱらこれを「ごきげん」の語形で用いている。>とある。

*ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「機嫌」の項には、

<「本来は仏教語で「譏嫌」と書き、譏(そし)り嫌うの意で、世間の人々が嫌うことをさしたが、のち意義が多様に分かれ、それとともに「機嫌」とも書くようになった。「嫌」の字を「げん」と読むのは呉音(ごおん)による。譏り嫌うことに気を配る必要があるところから、ことばや態度、物腰などに表れた他人の意向や思惑(おもわく)を意味するようになり、さらに転じて、ようすや形勢、あるいは気分や気持ちの意となり、他方では事のおこる時機や機会を意味するようにもなった。今日では一般的に感情や気分をいい、「御」の字を冠して、愉快な心持ち、晴れやかな気分をいうことも多い。>とある。

(84-3)「継肩衣(つぎかたぎぬ)」・・継上下(つぎがみしも)。肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)をそれぞれ別の生地で仕立てた江戸時代の武士の略儀の公服。元文(173641)末頃から平日の登城にも着用した。

*肩衣(かたぎぬ)・・室町末期から素襖(すおう)の略装として用いた武士の公服。素襖の袖を取り除いたもので、小袖の上から着る。袴(はかま)と合わせて用い、上下が同地質同色の場合は裃(かみしも)といい、江戸時代には礼装とされ、相違するときは継ぎ裃とよんで略儀とした。

(84-4)「罷出得共」・・「罷出」のあとに「候」欠で、「罷出候得共」か。

(84-4)「羽織袴(はおり・はかま)」・・羽織と袴。羽織と袴を着用した、正式の服装。

(84-6)「田村達右衛門」・・『松前藩士名前控』に「新組足軽」として「田村辰右衛門」の名

がある。

(84-6)「去年中(きょねんじゅう)」の「中(じゅう)」・・ある期間のなかのあるとき。

(84-8)「塩屋惣左衛門与申者」の「与(と)」・・1.「与」は漢文の助字で、漢文訓読の場合、①接続詞「と」、②前置詞「ともに」などに使われる。テキストの場合、日本語の格助詞「と」に「与」を当てているが、漢文訓読の場合の「与(よ)」の流用といえる。

   2.変体仮名「与」は「よ」で、「と」と読む場合は、変体仮名ではなく、「漢文訓読」の「与(よ)」の流用。

(85-3)「粗(あらあら・あらら)」・・詳細、丁寧にではなく物事を行なうさまを表わす語。おおよそ。ざっと。概略。通常は「粗粗」とするが、「粗」一字でも「あらあら」と読む場合がある。

(85-4)「私ニおゐて」・・~に関しては。…にあっては。「おゐ(い)て」は、おきて」の変化した語。漢文訓読において用いられ始めた。「…において」の形で、格助詞的に用いられる。

   ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

   <格助詞「に」をともなう「において」の形は「於」を訓読した「ニオキテ」の音便形。「於」は平安時代から「ニオイテ」の他、「ニシテ」とも読まれ(その際、平安初期では、「於」は不読とされ、「ニシテ」は読み添えられる場合が多い)、「ニシテ」が主として具体的な場所を指すのに対し、「ニオキテ(ニオイテ)」は論理的・抽象的な関係を示していた。院政期頃まではこのような使い分けがなされていたようであるが、それがやがて場所・時間を表わす場合にも「ニオキテ(ニオイテ)」が用いられるようになった。平安時代の和文では、「宇津保物語」「源氏物語」「浜松中納言物語」の男性の会話または手紙の中に用いられている。>とある。

(85-4)「奉存候」の「存」・・「存」の中の「子」が、大きく書くことがある。

(86-187-5)「何連より」の「連」・・翻刻の際、①「何連」を「いずれ」と読む熟字訓とし、「何連」とするか。②「連」を変体仮名と見て「何れ」とするか。

(86-2)「近藤吉左衛門」・・『松前藩士名前控』に「勘定奉行吟味役」として「近藤吉左衛門」の名がある。

(86-3)「参府(さんぷ)」・・江戸時代、大名などが江戸へ参勤したこと。また、一般に江戸へ出ること。出府。

(86-4)「払方(はらいかた)」・・金銭を支払う人。会計方。

   *江戸幕府の金奉行の中に、収納をつかさどる「元方(もとかた)」と、支払いを担当する「払方」があった。それぞれ「元方同心」「払方同心」と呼んだ。

   *金奉行(かねぶぎょう)」・・江戸幕府の職名。定員は四~七人。職掌は、幕府の金庫の管理・出納をつかさどるものであり、元方・払方の二局に分かれ、おのおの収納・支払いを担当した。文政三年(一八二〇)七月、元方・払方の分掌は廃止となり、一局に統合される。

 (86-9)「油川(あぶらかわ)」・・現青森市油川。東は陸奥湾に面し、東南は新田村、西は羽白村・岡町村、西北は十三森村に接する。油川を含む外ヶ浜上磯地域は鎌倉時代から戦国期にかけて、日本海航路の終点の港として栄え、近江や北陸出身の商人たちが移住した。なかでも津軽平野を後背地にもつ油川は、陸奥湾の中心港として大浜の名で知られ、多くの寺社も勧請された。

(87-1)「御用部屋」・・町奉行所で奉行が執務した部屋。

(87-2)「差図被致候方」の「方」・・ここでは、指図されたこと。「方」は、その内容。動詞の連用形、また動作性の漢語名詞に付いて、それをする意を表わす。「打ちかたやめ」「事件の調査かたを頼む」など。

(87-4)紙(きりがみ)」・・切紙。折り紙を折り目から二つに切ったもの。また、それに書きつけた書簡や文書。なお、「剪紙(せんし)」は、一般には中国の民芸品の切り絵細工をいう。

   *「剪」は「ととのえて切断する」の意。

   *「剪髪易書(かみをきりショをかう)」・・元の陳祐(ちんゆう)の母が、髪を切って書を買い、子供に読ませた故事。

(87-4)「然者(しかれば、されば)」・・行の事柄を一応おさめて、話題を転じるのに用いる。そうして。さて。ところで。「しかれば」は、<動詞「しかり」の已然形「しかれ」+接続助詞「ば」>、「されば」は<さあれば>の変化した形。

   *「然者」を「しからば」と読めば、 順接の仮定条件を表す。そうであるならば。そうしたら。

(87-7)「官吾殿」・・『松前藩士名前控』に「御用人御留主居兼」として「藤倉官吾」の名がある。

(87-8)「幸(さいわ)ひ」・・「さきわひ」のイ音便。

   *イ音便・・音便の一つ。発音の便宜のために、おもに活用語末などの、「き」「ぎ」「し」の子音k・g・sが脱落して、「イ」の音になる現象。「書きて」が「書いて」に、「次ぎて」が「次いで」に、「熱き」が「熱い」に、平安時代初期に発生し、以後多くなった。現代語の形容詞「─い」は文語の形容詞の連体形「─き」のイ音便がもと。また、サ行四段の動詞の連用形は現代の共通語ではイ音便にならない。

   *「幸」の解字・・吉であって凶から免れる。「屰(=逆らう)」と「夭(=若死)」から構成される。「夭」は死ぬこと。したがって「死」は「不幸」ともいう。

(88-1)「貴公様(きこうさま)」・・「さま」は接尾語。武家が目上の男性を敬って用いる。「貴公」より敬意が高く、多く書簡文に用いた。

(88-3)「貴所様(きしょさま)」・・「さま」は接尾語。身分の高い人の居所や、また、そこにいる人を敬っていう語。

(88-789-1)「披露(ひろう・ひろ)」・・文書などを披(ひら)き露(あらわ)す意。報告すること。上申すること。意見を申し上げること。

   *<くずし字>「披露」の「露」・・「雨」冠と脚部の「路」大きく縦長に書かれ、二文字あるように見える。また、脚の「路」が冠の「雨」より大きく書かれる場合がよくある。一般に、冠と脚で構成される漢字は、縦長に書かれる場合がある。

(88-9)「被為入(いらせられ)」・・「入る」は、敬語とともに用いられて、 「行く」「来る」「居る」の意を表す。いらっしゃる。組成は、4段動詞「入る」の未然形「入(い)ら」+サ変動詞「す」の未然形「せ」+尊敬の助動詞「被(ら)る」の連用形「被(ら)れ」。

   *サ変動詞「す」は、活用語の未然形に接続する。

   *尊敬の助動詞「被(ら)る」は、未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に節読する。

   *なお、「いらっしゃる」(おいでになるの意)は、この「いらせらる」が変化して、四段化したもの。

(88-9)「忌明(いみあき・いみあけ・きあけ)」・・喪に服する期間が終わること。

(89-7)<カタカナの話>「趣ヲ以」の「ヲ」・・ひらがな「を」の字形は「遠」の草体から出たもの、「ヲ」の字形は「乎」の変形。従って、「ヲ」は、「二」+「ノ」と三画で書く。

(89-9)<くずし字の話>「加筆」の「筆」・・楷書や活字では最終画の縦棒は、真っすぐだが、くずし字には、右にはねる場合がある。  

7月 町吟味役中日記注記 

( 78-2)「詰木石町(つみきいしちょう)」・・現江差町字愛宕町。近世から明治33年(1900)まで存続した町。緒木石(しみきいし)町(罕有日記)とも記される。海岸沿いの道に沿う縦街十町の一(「蝦夷日誌」二編)。もと詰木石村であったが、町場が形成されて改称された。九艘川町・豊部内町の北、豊部内川の河口部の北岸に位置する。東に川原新町・中新町・北新町がある。江戸後期から明治初期の鍛冶町・浜町は当町に含まれるという。

(78-3)「引合(ひきあい)」・・訴訟事件の関係者として法廷に召喚され、審理および判決の材料を提供すること。また、その人。引合人。単なる訴訟関係者、証人、被害者および共犯者など。

(78-3) 「山之上町(やまのうえまち)」・・江差は、桧材、続いて元禄年間(16881703)以降鰊荷物が主な積出し荷物となる。港としての機能が高まるとともに沿岸部の津花、姥神、中歌、九艘川、詰木石で町場化が進み、慶安年間(16481651)には法華寺の前身妙翁寺が創建されも寺町の様相を呈した。市中の発展により後背段丘は「山の上町」として町場化が進んだ。

 海岸沿いの市街地(下町)と段丘上(山の上町)は、それぞれ断崖を掘削して、阿弥陀寺坂・法華坂・馬坂などの坂道や石段を造築して参道とした。

 松浦武四郎『再航蝦夷日記』には、「縦町十町」と並んで「横巷十九町」を挙げ、その中に、「山の上町」が見える。さらに「山の上町 薬師町より上なる町也。此辺り青楼の小宿(こやど)、水主、船頭の囲ひもの、小商人多し」とある。松前口説に「国は サァーエー 松前 江差の郡(こおり) 江差 山の上 げんだい町の 音に聞こえし こばやし茶屋に 抱えおなごは 三十二人」と唄われた花街であった。

(78-7)「正覚院(しょうがくいん)」・・曹洞宗寺院。山号嶽浄山、本尊釈迦如来。「福山秘府」に寛永8年(1631)建立、元禄2年(1689)江差村に移転とある。もと江良町村(現松前町)にあった泉龍寺境内に造立されていたが、松前法幢寺三世の良天が寛永八年江差中歌町に移し、頭陀山正覚院と称したという。元禄2年明石文左衛門が周辺の山谷を開いて伽藍を建立し、翌3年嶽浄山正覚院と公称した。

(78-9)「且者(かつは)」・・その上に。加えて。

(79-1)「都合(つごう)」・・〔副詞〕 「都」はすべての意。 すべて合わせて。ひっくるめて。全部で。合計で。

(79-6)「突合(つきあわせ)」・・突合吟味。原告と被告とを対席させて吟味すること。

(79-7)「明(あくる)」・・動詞「あく(明)」の連体形。「夜、年などが明けてから」の意。連体詞としても用いる。次の。翌。次にくる日、月、年などについていう

 *連体詞・・日本語の品詞の一つ。もっぱら連体修飾語として用いられる自立語。主語・述語・被修飾語あるいは独立語とはならない。口語では「この・その・あの・かの・どの・わが・あらゆる・いわゆる・ある・さる・とある・いろんな・ほんの・大した・とんだ」など、文語では「ある・あらゆる・いはゆる・さしたる・させる・さんぬる・いんじ・然(さ)る・来(きた)る・あらぬ・明くる」などがこれにあたる。ただし、学者によってはこの品詞を立てず、また、所属の語に若干の異同がある。

(79-8)「寔元(ここもと)」・・自分の方。わたくしの方。「是」に通用する。

(79-9)「賄手馬(まかないでま)」・・「手馬」は「手間」の当て字か。食費を含み旅費をさすか。

(79-9)「印鑑(いんかん)」・・江戸時代、照合用として、あらかじめ関所、番所などに届け出ておく特定の印影の見本。判鑑(はんかがみ)。いんかがみ。

(80-1)<くずし字>「問合」の「問」・・門構えが「ワ」、また「一」のようになっている場合がある。

(80-5)「追咎(ツイキュウ・おいとがめ)」・・事が済んだあとで、とがめだてをすること。

(80-8)「一七日(いちしちにち・ひとなぬか)」・・人の死後の七日間。または、七日目にあたる日。初七日(しょなのか)。

(81-2)「香奠(こうでん)」・・香奠は今日では見舞い・悔みという性格がつよいが、以前は米などをおくって実質的な葬儀への協力が行われた。

 *<漢字の話>「奠(漢音でテン、呉音でデン)」・・解字は「一」+「酉」。「一」は台を示す。神に酒をそなえてまつるの意味をあらわす。現代表記では「典」に書き換えることがある。

(81-2.3)「拾五挺」・・蠟燭の数え方は、形状によって数え方が異なる。

1.細長いものは「本」、

2.燭台 (しょくだい) に載せて手に持って使うものは「挺(丁)」

3.立方体や太く短い円柱などの、細長くはない形状のろうそくは「個」。

*取引単位はろうそく100本で「1 (いっそく) 」。

(81-3)「備(そなう・そなゆ)る」・・神仏や貴人に、物を整えてさしあげる。現在では「供える」と使用する。なお、室町時代頃からヤ行(備ゆ)にも活用した。

(81-4,5)「席」・・席次。

(81-5)<くずし字>「如何」・・「如」は、「め」のように見える。   

(82-1)「当節句」・・祝いの行事があり、特別の食物を食べる風習

があった。節日(せちにち)。五節句は、

人日(じんじつ=一月七日)

上巳(じょうし=三月三日)

端午(たんご=五月五日)

七夕(たなばた=七月七日)

重陽(ちょうよう=九月九日)

(82-1)「馬士(ばし)」・・江戸時代、宿駅や農村において駄馬を牽いて渡世する者。馬子・馬口取・馬追・馬方ともいう。宿駅では、伝馬役は馬役・歩行役両屋敷地の者が負担したが、特に馬の飼養は馬役の者の義務であった。しかし、直接の労役は宿内外の馬子を雇って代替させてもよく、当時はそれが一般的であった。もっとも、馬子の中には、自分の馬で駄賃取を営業とする者もいたが、多くは零細農民が馬役の者の田地を小作したり、給金を得て伝馬役に従事し、江戸時代後期には次第に博徒化して雲助に接近する傾向もみられた。

(82-1)「町端(まちはな)」・・ここから町になるというあたり。

(82-1)「馬乗(うまのり)」・・競馬。松前では、端午の節句に競馬が行われた。(『松前町史 通説編第1巻下』P1054)                      

(82-2)<くずし字>「今日」の「日」・・縦画を最後に書く場合がある。   

(82-2)<古文書の体裁・欠字>「今日者 殿様」・・「者」と「殿」間に空白があるが、古文書独特の尊敬の体裁で「欠字」という。

 (83-1,2) <古文書の体裁・平出>「江戸表江」で改行している。次の行の「御用物」を尊敬する古文書の体裁で「平出」という。「平出」は、「平頭抄出」の意と釈し、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。

(83-2)「御用物(ごようもの)」・・宮中や官府などの用に供するもの。

   

記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

drecom_moriyuzi

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ