森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

町吟味役中日記

12月 町吟味役中日記注記

(177-2)「通詞(つうじ)」:言語の異なる外国人の間に立ち、そのことばを訳して伝え、その意思を取りつぐこと。また、その人。松前藩では、用人配下の役職。ここでは、アイヌ語を通訳した、いわゆる蝦夷通詞。なお、蝦夷通詞として活躍した人物に上原熊次郎、平山屏山、加賀伝蔵、豊島三右衛門。能登谷円吉らがいる。

(177-2)「冨岡」の「冨」:「冨」は「富」の俗字だが、平成16年に人名漢字に追加された。

 *静岡県富士吉田市にある北口本宮冨士浅間神社の「ふじ」は「冨士」。同神社のHPには、その理由について①「御山の上に人は立てない」説、②「神は見えない」説、③「山頂は神域」説をあげ、「いずれの説も神域に人が踏み入れることを戒めるもの」としています。また、<「ふじの山」を表す漢字は、富士、不二、福慈など様々にありますが、古代日本は音を重視する文化であって、形としての漢字を音にあてたことは、比較的時代が下ってからのこと、これら上記の説も江戸~明治にかけて起こったものと考えられます。>と記載している。

(177-7)「御用人(ごようにん)」:松前藩の家老に次ぐ役職。

(177-34)「永之御暇(ながのおいとま)」:「暇(いとま)」は、仕事、任務、地位から離れ

ること。休暇、退職もしくは解任。ここでは、解雇すること。

(177-10)「壱通り」:江戸時代、最初の裁判の日に、掛り奉行が出座して行う処分。

 

(178-3)「引合(ひきあい)」:訴訟事件の関係者として法廷に召喚され、審理および判決の材料を提供すること。また、その人。引合人。単なる訴訟関係者、証人、被害者および共犯者など。

(178-8)「口書詰爪印(こうしょつまりつめいん・くちがきつまりつめいん)」:「口書(くちがき)」は、江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。「口書詰(くちがきつまり)」は、口書の末尾の罪状の主文。江戸時代、法廷での取調べの後、その口書(くちがき)を読み聞かせてその誤りのないことの承認の証として、それに爪印を押させたこと。

(178-78)「例座」:「列座」か。「列座」は、ならびすわるこ と。座につらなること。列席。

(179-3)「揚家入(あがりやいり)」:揚屋(あがりや)に拘禁されること。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

(179-3)「裁許(さいきょ)」:江戸時代、本公事、金公事(かねくじ)などの民事訴訟事件に関して、当事者を対決させ、裁断を与えること。対決。審問。

(179-6)「節句(せっく)」:人日(じんじつ=一月七日)・上巳(じょうし=三月三日)・端午(たんご=五月五日)・七夕(たなばた=七月七日)・重陽(ちょうよう=九月九日)などの式日をいう。祝いの行事があり、特別の食物を食べる風習があった。節日(せちにち)。ここでは、5月5日の端午の節句をいう。

 ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌には<(1)陰陽五行説においては、、一・三・五・七・九の奇数を陽とする思想があり、それに基づき、月日共に奇数となる一月一日・三月三日・五月五日・七月七日・九月九日を、それぞれ人日(後に一月七日をさすようになる)

・上巳・端午・七夕・重陽と称して、嘉祝の日とする俗信があった。

(2)一月一日は安楽の相で宜しく長久を祈り、三月三日は病患を除くことを念じ、五月五日は毒虫・悪鬼の攘却、七月七日は瘧鬼(ぎゃっき)を払い、九月九日は延命長寿を願うもので、それぞれ桃花・菖蒲・麦餠・菊酒などを供す。これらは朝廷において年中行事化されているが、民間においても、季節の変わり目を実感する五節供として、今日に伝わっている。「せっく」は、これら節日に供御を奉るのを例とするところから発した名称と思われる。>とある。

(179-6)「馬士(ばし)」:江戸幕府の馬事を掌る役人。若年寄の支配で、馬預の下にあり、焼火間詰、高二百俵・役料十五人扶持、または高百俵・五人扶持で四人からなる。元和6年(1620)木村元継が騎法に熟達して馬方になったのが初見で、その後、大武・岩波の二氏が世襲することもあったが、馬術の優秀なものが新たに補された。なお、馬預は官馬の調習、大名旗本へ下賜の馬や野駒の飼立、仙台駒牽入方など、厩馬の一切を掌る役職で、その下には馬方のほか、馬乗などがあった。松前藩にも同様の役職あった。

(179-6)「菖蒲乗(しょうぶのり)」:端午の節会(せちえ)に行なう騎射(きしゃ)の儀のこと。「騎射」は、騎馬で、馬を走らせて的を射る弓技。

(179-7)「重廣院(じゅうこういん)」:松前重廣の戒名。重廣は、松前9代藩主松前章広の5男。天保3428日)に死去した。

(180-8)「内済(ないさい)」:もめごとを表ざたにしないで解決すること。特に江戸時代の和解。江戸幕府が私人間の紛争解決の基本に据えたのは、奉行所の裁許(判決)に基づく決着でなく、当事者の互譲・妥協による内々の話合い解決、つまり内済であった。この背景には、民事上のもめごとは当事者の私利私欲に由来し、これにつき御上の手を煩わすのは、公儀を恐れざる不遜な行為であるという、民事裁判に対する独特の考え方の存したことを挙げねばならないが、なお裁判に伴う厖大な経費と貴重な農耕時間の浪費が村方衰微の因となる危険があったこと、双方納得ずくの解決こそが、実効性確保のうえで最高とされたこと、さらに、村落共同体規制のためには、村役人などの村内有力者を扱人(あつかいにん)とする内済が最上とされたことも見落せない。特に支配者が反封建的な債権関係とみなした金公事(かねくじ)債権(利子付き無担保の金銭債権)や、村落内部の秩序維持上熟談解決が要求された論所(地境論、水論)では内済が強く勧奨された。内済は、訴え提起前はもちろん、裏判送達後差日到来前(裏書中内済)、さらに裁判開始後(吟味中内済)と訴訟の全過程で試みられ、訴え受理に際し、掛り奉行が訴状に施した目安(訴状)裏判には内済勧奨文言が記され、金公事債権では差日到来前に内済が整えば、片済口証文(原告のみの署名・捺印の、内済成立に伴う訴え取下げ願書)の提出という便法が認められ、また裁判開始後は、裁判役人が扱人のごとき役割をも演じ、しばしば脅迫まがいの説得により内済を成立させ、内済が成立する可能性があれば何度も裁判の日延願を許可した。しかし、かかる内済の偏重により、姦訴・逆訴などのいわゆる公事だくみが横行し、特に公事師・公事宿の跳梁という悪弊を招き、往々にして理運ある者が泣き寝入りするという事態がみられた。なお刑事事件でも、内済による解決が図られる場合が存した。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

(180-8)「熟談(じゅくだん)」:話合いで、ものごとや問題となっていることをおさめること。示談。和談。

(181-5)「鳥沢」:現在、旧南部地方の地名で、「鳥沢」は以下の4ケ所ある。

  青森県三戸郡階上(はしかみ)町鳥屋部(とやべ)鳥沢

  宮城県栗原市栗駒鳥沢

  宮城県白石市越河五賀(こすごう・ごか)鳥沢

  岩手県大船渡市赤沢町鳥沢

このうち、ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』に見える「鳥沢村」は、②に該当する。

(181-6)「西館(にしたて)」:近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の西、小松前川と唐津内沢川に挟まれた台地一帯、唐津内町の背後(北側)にあたる。寛永11年(1634)には松前景広が西館に移っている.。文化4年(1807)の松前市街図には西館町・今町・西端立町が描かれる。しかしこれ以降の史料には西館町以外の町名はみえず、西館町として統一されたようである。.

 文化頃の松前分間絵図では台地南東部に蠣崎時松・松前勇馬・蠣崎将監(広年・波響)の屋敷がある。三家の北に稲荷社があり、同社の北の通りを少し西に行くと寺町てらまち通に続き、通りから南方唐津内町に至る南北道沿いに東から西端立町・今町・西立町が並ぶ。

(181-6)「稲荷社」:稲荷社は慶長17(1612)年蠣崎右衛門が西館に造営した。寛文7(1667)蠣崎蔵人が造営、元禄14年(1701)同家が修理している(福山秘府)。明治38(1905)徳山大神宮に合祀された。

(181-7~8)「五勝手村」:江差町字椴川町・字砂川・字柏町・字南浜町など。近世から明治33年(1900)まで存続した村。南は椴川を境にして北村(現上ノ国町)と接し、北は武士川を境にして江差寺小屋町と接する。東は山地、西は日本海。村内に古櫃(ふるひつ)

・上町・相泊・柳町・寺コ町・蔭ノ町・下町・根符子などの字名があったと伝える。中央を武者見(むしやみ)川が西流する。

(182-2)「沖ノ口」:松前藩の役所のひとつ、沖ノ口番所(沖ノ口奉行)。別表参照。

(182-2)「渡海(とかい)」:松前藩独自の量刑。他国人が蝦夷地に渡って刑法に触れた場合の刑。

11月 町吟味役中日記注記

◎10月学習『吟味役中日記』P162の「後方」について:現在は「後潟(うしろがた)」という地名で、津軽半島南部の蓬田の南にあります。

後潟村は、鎌倉時代以来安東氏の支配下にあり、近くに、安東氏の居城といわれる尻八館があリます。なお、村の北端に、天和三年(一六八三)勧請の「後潟神社」があり、明治の神仏分離令で、一時「後方神社」と称したといいます。後潟村は、昭和29年、青森市に合併。

(ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』)

11月学習

(168-1)「御触出(おふれだ)シ」:触れを出すこと。

(168-2)「御坐候(ござそうろう)」:尊敬語「ござある」の「ある」を「候う」にして丁寧の意を添えたもの。のちには、書簡文でもっぱら丁寧語として用いられた。敬意の度合はきわめて高い。

 ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌には、

 <(1)「ご~候」の形式は「平家物語」などに多くの例を見るが、「御座候」は謡曲、虎明本狂言などに散見する程度でしかない。

(2)江戸前期の咄本、例えば挙例の「軽口御前男」では、「御座候」(否定形は「御座なく候」)は文語的色彩の強い文脈で使用されており、当時一般的な語ではなかったことが推定される。

(3)文語的性格が強かったため江戸期から明治大正期に至るまで専ら書簡文(候文体)で使用された。>とある。

*「ござ(御坐・御座)」は、貴人がその座にあること。その座に着くこと。また、いらっしゃること。

*「ござあ・り」:鎌倉時代に起こり、室町時代に多く用いられた語で、「ござる」の前身。尊敬語・丁寧語ともに敬意の度合は極めて高い。

 *影印は「坐」で、現代表記では、「坐」の書き換えに用いる。「坐視」→「座視」、「坐禅」→「座禅」。

 *元来、「座」はすわる場所、「坐」はすわる動作、と使い分けられていた。

 *「坐」は、平成16年、人名漢字に追加された。

 (168-23)「猶亦(なおまた)」:関連ある別のことがらを付加するときに用いる。それに加えて。さらにつけ加えるなら。

 *接続詞「また」の成立は、漢文訓読において、「且」「又」「亦」「復」を「マタ」と訓読したことによると考えられている。

 *「亦」は漢文訓読では助字。~もまた同様に。主語などの後に置かれ、前に述べられていることと同様であることを表す。直前の語に「も」を付して訓読することが多い。

(168-3)「似寄(により)」:似かよっていること。類似。

(168-4)「候半ゝ(そうらわば)」:~したならば。「半」は、変体仮名で「は」の字源。ここの翻刻は「候はゝ」で、よみは「ソーラワバ」。

 *組成は、動詞「候ふ」の四段活用の未然形「候は」+順接の仮定条件(~なら、~だったら)の意味をもつ助詞「ば」。

「候ふ」の活用は、は、ひ、ふ、ふ、へ、へ。左から未然、連用、終止、連体、已然、命令。

(168-4)「下知(げち・げじ)」:上から下へ指図すること。命令。いいつけ。語源説に「クダシシラシムル(下知)義」(『大言海』)がある。ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の音史に<中世・近世は大多数が「げぢ」と第二拍濁音>とある。

(168-6)「置主(おきぬし)」:質入れした者。質置主(しちおきぬし)。

(168-6)「能々(よくよく)」:「よく」を重ねて意味を強めた語。まったく手落ちのないようにして十分に。念には念を入れて。注意の上に注意を重ねて。くれぐれも。よっく。

 *「々」について・同じ漢字を繰り返す場合、「々」だけを用いるのが普通の書き方である。(昭和27.4.4 文部省通知「公用文作成の要領」)

 *丹々、好好、善善とも書く。

 *なお、「民主主義」「漢字字体」「小学校校長」などはそのまま書いたほうがよい。また、「々」に当たる部分が行頭に来る場合は本来の漢字に書き換える。ただし、「佐々木」「多々良」「寿々子」などの固有名詞で「々」を用いるのが本来の形である場合は、行頭に「々」が来てもそのまま用いることになる。(平成7年文化庁編『言葉に関する問答集』)

 *中国では、「粛粛」「洋洋」「淡淡」などと記して、下接の字に「々」を用いていない。

  (木村秀次著『身近な漢語をめぐる』大修館書店 2018

 *「々」は漢字なのか(木村秀次著『身近な漢語をめぐる』大修館書店 2018より)

(168-8)「請人(うけにん)」:江戸時代、保証人の一般的呼称。人請、金請、座請、地請など、各種保証契約に広く用いられた。証人。加判人。口入人。

(169-2)「胡乱(うろん)」:「う」「ろん」ともに「胡」「乱」の唐音)。(1)乱雑であること。勝手気ままでやりっぱなしであること。また、そのさま。(2)不確実であること。不誠実であること。あやしく疑わしいこと。合点がゆかず、ふに落ちないこと。また、そのさま。胡散(うさん)。

 *ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌に<(1)「正法眼蔵」や、五山僧の「了幻集」に見えること、また唐音で読まれることからも、禅宗によって伝えられた語と見られる。中国でも「碧巖録」など禅籍に見えるが、禅宗用語というわけではなく、「朱子全書」等、宋代以後の様々な文献にも見える。

(2)「胡」も「乱」も「みだれたさま」を表わし、「胡─乱─」の形でも「胡説乱道」「胡言乱語」「胡思乱想」などが見え、「胡」と「乱」がほぼ同じ意味で使われていることがうかがえる。語の意味も、中国では(1)の意味であったが、日本では(2)の意味をも派生し、後にはこちらの意味の方が多用されることとなった。>とある。

 *また、語源説に、「胡(えびす)が中国を乱したとき、住民があわてふためいて避難したところからきた語」がある。

(169-3)「早束(さっそく)」:「束」は、「速」の当て字。すみやかなこと。にわかなこと。急なこと。また、そのさま。転じて、臨機のすばやい処置。

  *ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌に<中国古典籍には見出し難く、類義の二字の組み合わせによる和製漢語かと思われる。院政期の国語辞書「色葉字類抄」に「サウソク」とあり、サッソクと今日のように促音化し、定着するのは室町時代の末頃であろう。>とある。

(169-4)「ヶ條(かじょう)」:箇条。記事を幾つかに分けて並べた時のそれぞれの事柄。条項。項目。

 *「ヶ」:小さい「ケ」は、文字の分類では、カタカナか漢字か。

平成18年の文化庁国語審議会漢字小委員会での同委員・阿辻哲次氏の発言を同委員会の議事録から引用する。

○阿辻委員

  これは歴史的に由緒のある使い方で、地名の「三ヶ日」なんて「ヶ」で書きますね。あれは確か戦国時代の地名であるはずで、そういう「三ヶ日」という言葉を今の静岡県の「三ヶ日」という地名だけではなくて、歴史的に由緒のある、つまり実績があったとしたら、現在の住民の方々は当然古代とのリンクを考えるでしょうから、私どもはこういう「三ヶ日」の古戦場があるということで、自分たちの町が平仮名の「か」で書かれていて、でも、歴史の教科書に出てくるときには「ヶ」であるというのは、ちょっとちぐはぐな感じを持つのではないかなと思うんです。この文字は非常に古くから、おっしゃるように箇条書きの「箇」の竹冠の片割れを中国で略字に使っていたものが、日本人がカタカナの「ヶ」と誤解したという由来なんですけれども、多分一千年ぐらいはその使用の歴史はあると思います。行政の力で現在の地名を変えることは可能でしょうけれども、かなり由緒正しい地名として使われているところが、「吉野

◎「ヶ」は、①「箇」の竹冠の片割れを中国で略字に使っていたもの。②日本人がカタカナの「ヶ」と誤解した。「吉野ヶ里」「外ヶ浜」「霞ヶ関」「袖ヶ浦」「由比ヶ浜」「関ヶ原」「八ヶ岳」「茅ヶ崎」など。札幌市内でも「里塚緑ヶ丘」「美しヶ丘」「旭ヶ里」もそうじゃないですか、かなりあるんじゃないかと思います。ヶ丘」がある。

(169-5)「取質(とりしち)」:質取。質として預かる行為。

 *影印の「質」:冠部分と脚部分が縦長になり、2字のように見える。

(169-6)「如何様(いかよう・いかさま)」:行為や状態に対する疑問の意を表す。どのよう。どんなふう。どんな具合。

 *「如何」は、「いかといかと」「いかに」「いかなり」「いかなる」「いかで」「いかが」「いかばかり」「いかさま」などの語群を作る。物事の様子や状態を疑い、推測する意味を表わす。どのよう。どう。

 *「如何」は、漢文訓読の助字で、漢文訓読では「いかんせん」「いかんぞ」「いかん」と読む。

 *「如」は、「ジョ」(漢音)、「ニョ」(呉音)の読みがあるが、「イ」の読みはない。「何」は、「カ」(漢音)、「ガ」(呉音)の読みがある。下接熟語に「誰何(すいか)」がある。

(169-8)「以□御憐愍」:「以」と「御憐愍」の間が1字分空けてあるのは、尊敬の体裁の欠字。

 *「憐愍(れんびん・れんみん)」:憐憫・憐閔とも。あわれむこと。なさけをかけること。あわれみ。

(170-1)「執成(とりなし)」:双方のあいだに第三者がはいって、悪感情を取り除いたり、互いに都合のよい条件を提示したりして、関係を好転させること。とりつくろい。とりもち。斡旋。

(170-4)「造酒蔵(みきぞう)」:人名。

 *「造酒(みき)」:①奈良時代には、宮内省に属する十三司のひとつに「造酒司(みきのつかさ)」があった。②平安期には、宮内省が管する五司に「造酒司(みきのつかさ)」があった。

 *官舎は、藻壁門(そうへきもん)の内、内匠(たくみ)寮の東、典薬(てんやく)寮の北にあった。

 *「造酒」を「みき」と読むことについて:「み」は美称の「御」、「き」については、酒の古語「ミキ」が登場して来る前の古語では「キ」だけだった。新井白石は、古語時代は食べることまたは食べ物を「ケ」、飲み物はそれが転じて「キ」となったという。天皇の食事の料は「御食」(みけ)、「御饌」(みけ)であり、今日でも朝食のことを「朝餉」(あさげ)、夕食のことを「夕餉」(ゆうげ)という言い方も残っている。つまり、酒を「キ」といったのは、酒は神聖で食べ物、飲み物の最高の者として位置づけ、飲食物の総称として「ケ」を与えた。その「ケ」が「キ」に転化したという説がある。

 *「平手造酒(ひらて・みき)」:講談・浪曲「天保水滸伝」に登場する剣客。

(171-7)「奥印(おくいん)」:江戸時代、文書または帳面の奥に、その文書・帳面の記載の真実または適法であることを証明するために捺した印。奥判ともいう。江戸時代、村々の勘定帳に、総百姓の印をとるほか、名主組頭にも奥印させたごときは、その記載の真実であることを証明させたものであり、質地証文に、名主の加印(ふつう奥印の形式でなされる)を必要としたのは、その質地契約が適法であることを証明させるためであった。同じ目的で、文書の裏に加印する場合には、裏印または裏判と呼んだ。

 *「奥印」の「奥」:冠部と脚部が縦長で、2字のように見える。

(172-5)「諸士(しょし・しょじ・しょさむらい・しょざむらい)」:多くのさむらい。多くの士人。

(172-5)「先前(せんぜん・せんせん)」:さきざき。まえまえ。まえかた。

(172-5)「納屋(なや)」:漁村で、漁業用具などを格納する小屋。また、網元がその下で働く若者を起居させるために提供した建物または部屋。転じて、飯場(はんば)。

 *語源説に「ナ(魚)を入れるヤ(屋)の義」がある。

 *「納」に「な」と読むのは、国訓。「な()」は、食用、特に、副食物とするための魚(さかな)。

(172-6~7)「先年御所替」:「所替(ところがえ)」は、大名、小名の領地を他に移しかえること。くにがえ。移封(いほう)。転封(てんぽう)。

 *「先年」:文化4(1807)。松前藩の陸奥柳川への移封をいう。

 *松前藩の移封の概略

 ・幕府は、対露防衛策として段階的に松前藩から領地を召し上げる。

 ・寛政11年(17991月、幕府は、東蝦夷地浦河から知床およびその属島を公収、同年8月、知内川以東浦河までも公収し、9月、幕府はその代地5000石を下付し、武蔵国埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2年7月まで約3か年間、飛地として領有。

*<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>

・中閏戸(なかうるいど)村、根金(ねがね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)

・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実ケ谷(さねがや)村(現埼玉県白岡市のうち)

・久喜村(くき)、所久喜(ところくき)村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下早見(しもはやみ)村、樋口(ひくち)村(現埼玉県久喜市のうち)

 ・文化4年.3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げ、新規9000石下付され、これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。

・松前氏の梁川移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。

<新領地>

・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余

・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十沢(いさざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余

・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下4373石余

・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下323石余

・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下3626石余

・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下1300石余

総領知高 18,626石余

(172-78)「一円・・公儀」:「一円」で改行するのは、尊敬の体裁で、「平出」。

 *「一円(いちえん)」:ある地域全体。ジャパンナレッジ版『国語大辞典』に

 <中世後期から江戸初期にかけては、程度副詞から陳述副詞へとその用法を転成し、文末に否定表現を伴うことによって「一円」の意味は「ことごとく」から「一向に、全く」に逆転した。江戸初期以降は、副詞の「一円」は次第に衰退し、現在使用されているのは「近畿一円」のような名詞用法だけとなった。>とある。

(172-8)「上(あがり)り」:「上る」の連用形。「上る」は、上に立つ者に物などが収められる。領地、役目などを取り上げられる

 *「アガル」「ノボル」について、ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌に

 <(1)アガルとノボルは、共に上への移動を表わすという点で共通する類義語であるが、アガルが到達点に焦点があり、そこに達することを表わすのに対して、ノボルは経過・過程・経路に焦点があるという点が異なる。「川を(船で)ノボル」「×川を(船で)アガル」「川から(岸に)アガル」「川から(谷づたいに山へ)ノボル」

(2)アガルは、ある到達点に達することを表わすところから、基本的には初めの状態を離れること、ある段階から抜け出すことを表わし、その経過・過程は問題にしない非連続的な移動である。そのため、アガルの場合、アガルものが物全体か一部かにかかわらず、視点の向けられているものの移動ということが問題になる。それに対して、ノボルの場合は、少しずつ移動する過程が明らかになるような、それ自体の全体的移動を表わし、しかも自力で移動が可能な事物に限定される。「生徒の手がアガル(×ノボル)」「ダムの水面がアガル(×ノボル)」「湯からアガル」「いつのまにか血圧がアガッていた」「湯から(煙が)ノボル」「興奮して頭に血がノボッていくのがわかった」

(3)到達点という結果に焦点があるアガルは、「ている」を付けてアガッテイルとすると動作・作用の結果を表わす。過程に焦点があるノボルはノボッテイルとすると現在進行中の動作を表わす。「のろしが(森の上に)アガッテイル」「煙が(空へ)ノボッテイル」

(4)また、アガルは、到達点に達するというところから、最終的にある段階に達して完了すること、終了することをも表わすことになる。>とある。

(172-9)「引越(ひっこし)」:松前藩が、松前から、奥州柳川へ移封すること。

(173-1)「御復古(ごふっこ)」:文政4年(182112月、幕府は、蝦夷全島を松前氏に還与し、蝦夷地は松前藩に復帰した。

<復帰の背景>

・表面の理由は、幕府の蝦夷地直轄の結果、取締、アイヌ人撫育、産物の取捌きなどが行き届くようになり旧家格別の儀をもって、むかしのとおり松前蝦夷地を領有させる。

・その裏面は、水野忠成(ただあきら)が、松前氏の運動をききいれたことがある。水野忠成のそうさせたのは、当時の北辺防備意識の衰退があった。

(173-3)「無筋(むすじ)」:道理に合わないこと。

(174-3)「神明町(じんめいまち)」:現松前町字神明・字福山。世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川の奥まった地域にあり、南は蔵くら町。同川は神明川ともよばれた(「蝦夷日誌」一編)。町名は北西方にある神明社(現徳山大神宮)による。

(174-5)「越山(えつざん)」:『松前町史 通説編第1巻下』の「第4編」の「犯罪・裁判・刑罰」から、「越山」に関する記述を要約する。

 ・復領期の松前藩においては、本来死刑に処すべき犯罪者であっても、これに死刑判決を下すことを極力忌避する法規範、換言すれば死刑を減軽することが習慣となっている独自の刑罰体系が存在していた。

 ・死刑にかえて現実に下された処断、すなわち越山・遠島・渡海にも松前藩の刑罰体系の独自性を見出すことが可能である。

 ・いすれも追放刑でありながら、越山・遠島が百姓もしくは無宿に適用されるのに対し、渡海は旅人に適用される。

 ・越山は流刑の一種 

  越山に処せられるのは18世紀半ば頃までは武士に限られ、逆に18世紀末以降は百姓・無宿人及び武士としては最下級の足軽身分にほぼ限られている。

  越山の地が基本的には和人地と蝦夷地との境界の村に設定されている。

  越山の地が基本的には和人地内に限定され、蝦夷地に及んでいない。

(174-7)「東在(ひがしざい)」:蝦夷地と和人地の境界は、時代により推移があるが、17世紀には、松前城下より北方の熊石、東方の亀田で、熊石までを西在、亀田までを東在(ひがしざい)とよんでいた。

 (174-8)「石崎村」:現函館市石崎町・白石町・鶴野町。近世から明治35年(1902)までの村。現市域の南東端にあり、南は津軽海峡。地名について「地名考并里程記」に「此所石の出崎なる故、和人地名になすと云」と記される。近世は東在の村で、元禄郷帳・天保郷帳ともに石崎村と記す。

(174-8)「丑年(うしどし)」:文政12(1829)

(174-8)「七月(しちがつ):「シチ」(漢音)、「シツ」(呉音)、「なな」(国訓)。

 *「ヒチ」は、方言。

(174-9)「寅年(とらどし)」:天保元年(1830)

(175)付札:P174の1~3行の上に重ねて添付されている。

(175-1)「蔵町(くらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿う二本の南北道のうち東側の道に沿った町。南は袋町、西は中川原町。「蝦夷日誌」(一編)では町名の由来について「此処市中問屋、小宿等の荷物蔵を置る故に此名有」とし、町の様子については「中川原と馬形坂の間也。東牢の坂ニ限り、西牛浦ニ及ぶ。此町廿二軒の青楼有り」とある。

(175-1)「旅人(たびにん)」:旅から旅へと渡り歩く人。各地をわたり歩いている博徒・てきやの類。旅行をしている人。旅路にある人。たびゅうど。たびうど。たびと。旅行者。旅客。「たびにん(旅人)」は別意。

(175-2)「川原町(かわらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿って南北に通ずる二筋の道のうち西側の道に沿う町。河原町とも記した。

(167-1)「徊徘」:徘徊。行ったり来たりすること。どこともなく歩きまわること。うろうろと歩きまわること。うろつくこと。

(176-5)「牢番(ろうばん)」:牢屋の番人。監獄の監守。

 *影印の「窂」は、「牢」の異体字。「牢」の解字は囲いに入れられた牛の形にかたどる。かこい・おりの意味を表す。なお、『字通』は、「宀は家ではなく、牢閑(おり)の象」とし、柵かこいの形であるから、 に作るのがよい」とする。

 *「牢」の部首は「宀(うかんむり)」でなく、「牛」部。

 *「牢」はいけにえの意味もあり、牛・羊・豕(ぶた)の三種をそなえたものを「大牢」、羊・豕を「少牢」という。

(176-7~8)「紀三郎」:松前藩町奉行・鈴木紀三郎。

10月 町吟味役中日記注記

 (162-35)「南部」の「部」:旁の「阝(おおざと)」のみに略され、さらに「P」「ア」のように見える場合ある。

(162-3)「二十四才」の「才」:「才」は、川のはんらんをせきとめるために建てられた良質の木の象形で、転じて、もともと備わっているよいもちまえのの意味を表す。うまれつきの能力、素質。

 *俗に年齢の「歳」代用する字。テキストは本来は「歳」が正しい。

(162-3)「五戸(ごのへ)」:現青森県三戸郡五戸町。五戸川の中流左岸の沖積低地と右岸の丘陵地に位置する。東は兎内(うさぎない)村、西は石沢村、南は扇田(おうぎた)村、北は伝法寺(でんぼうじ)村に接する。

(162-5)「花輪村」:現秋田県鹿野市花輪。鹿角盆地中央部、東西から山地が迫り盆地が狭まる所に位置。近世には盛岡藩花輪通の中心として、花輪館を中心に町並ができた。

(162-5)「八戸(はちのへ)」:青森県の東南部に位置する。馬淵(まべち)川と新井田(にいだ)川の最下流部に挾まれた低平地に位置し北東部は太平洋に面している。寛文4年(1664)南部直房が八戸を城下とする八戸藩二万石を創設した。

(162-7)「鯵ヶ沢」: 津軽半島の西側基部、青森県西津軽郡にある町。地名の初見は天文5年(1536)であるが南北朝時代以前から部落が形成されていたことが部落内に散在する板碑によって知られる。赤石川上流四キロにある種里部落は弘前藩祖大浦光信入部の地である。江戸時代には弘前藩九浦の一つとして、町奉行がおかれ、東の青森に対し西の大港と称されて、大坂・蝦夷方面との交易が盛んであり漁港としても栄えた。

(163-2)「大沢村」:現松前郡松前町字大沢。近世から明治2年(1869)まで存続した村。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

(163-2)「宮ノ哥(みやのうた)村」:宮の歌村。現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。近世から明治39年(1909)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢(あじがさわ)から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。2~3年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。

 宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。

 蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。本税は直接藩に納入するが、付加税的な小物成は知行主に納めることになっていた。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。

(163-3)「白府(しらふ)村」:白符村。現松前郡福島町字白符。近世から明治33年(1900)まで存続した村名。近世は東在の一村で、白符川の流域、福島村の南に位置し、東は津軽海峡。白府村(支配所持名前帳)、白負(蝦夷草紙別録)などと記されることもあった。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば「白符之鷹待候ニ付、村名ヲ白符と申」と記す。

(163-3)「生符(いけっぷ)町」:現松前郡松前町字大磯・字弁天・字建石。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。上原熊次郎は「生府」の地名について「夷語イナイプなり。二タ胯の沢と訳す。イはイウゴヒ・イウゴテの略語にて、別れ又は繋くと申事、ナイは沢、プとは所と申事の略語なり」と記す(地名考并里程記)。

不動川と化粧けしよう川に挟まれた海岸沿いの町。東は博知石(ばくちいし)町、台地上は白川町。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」に「生府」と町名がみえる。呼称は「イケツフ」(「蝦夷日誌」一編)、「イゲツブ」(木村「蝦夷日記」)、「エケフ」(蝦夷喧辞弁)、「エケブ」(蝦夷迺天布利)など様々である。

 (163-4)「土橋(つちはし)」:現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「ツチバシ」(大小区画沿革表)、「ドバシ」(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)ともいう。当村は延宝2年(1674)に津軽から来た喜三郎が檜山稼と農業に従事したのに始まるという。

(163-4)「泊り村」:泊村。現江差町字泊町・字大澗町。近世から明治初年まで存続した村。片原町・オコナイ村の北に位置し、東は元山をはじめとした山地で、沢水を集めた泊川が西に流れる。西は日本海に臨み、泊川河口の湾は船泊り。

 (163-5)「碇町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。

(163-6)「新町」:江差村のうち。文化4(1807)の江差図に「中新町、北新町、川原新町」の地名が記載され、このころ北部の東方後背地に裏町として中新町、北新町、川原新町の地名が発生している。

(163-6)「津軽□別」:わかりません。

(164-1)「酌取女(しゃくとりおんな・しゃくとりめ)」:酒席に出て酌をする女。酒興を添え酒を勧める女。酌婦。しゃくとりめ。

(164-2)「力業(ちからわざ)」:強い力をたのんでするわざ。強い力だけが武器であるような武芸。

 *テキスト影印の「力」は「刀」のように見える。

(164-2)「曲持(きょくもち)」:曲芸として、手、足、肩、腹などで重い物や人を持ち上げて自由にあやつること。

(164-6)「黒石(くろいし)」:青森県西部、弘前市の東方一四キロの所にある市。奥羽山脈の西麓、津軽平野の東南端にあり、岩木川の支流浅瀬石川に沿うている田園都市である。中世工藤貞行の領地であったがのち南部領となり、戦国時代末期に津軽領となった。明暦2年(1656)以来、津軽氏の支族津軽信英の所領となり、その子孫津軽親足が文化6年(1809)一万石の諸侯となったとき、その城下町となった。

(164-9)「小杦」の「杦」:『漢語林』は国字とする。「杉」の旁「彡」を書写体に従って「久」に改めたもの。

(166-1)「揚屋(あがりや」:江戸時代の牢屋における特別の部屋。幕府の小伝馬町牢屋では収監者を身分によって分隔拘禁したが、武士を収容するのが揚座敷(あがりざしき)と揚屋である。500石未満の御目見以上直参(じきさん)の武士は揚座敷、御目見以下の直参、陪臣は揚屋に入れ、僧侶、神職も格式により揚座敷、揚屋に分けた。いずれも雑居拘禁であるが、揚座敷に比べると揚屋は食事をはじめとする処遇、牢名主の支配など、実情は庶民の牢とそれほど差異はない。幕府の地方の牢,藩の牢なども,武士を庶民と区別して収容した。

 *「揚屋」を「あげや」と読めば、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。

(166-2)「出物(でもの)」:吹出物。おでき。

(166-2)「膏薬(こうやく)」:1 あぶら・ろうで薬を練り合わせた外用剤。皮膚に塗ったり、紙片または布片に塗ったものを患部にはりつけたりして用いる。軟膏と硬膏があり、ふつう硬膏をいう。

漢方薬の濃い煎液に砂糖などを加え、あめ状にした内服薬。

(167-1)「披見(ひけん)」:文書などをひらいて見ること。

(167-3)「唐津内沢(かわつないさわ)」:現松前郡松前町字唐津・字西館・字愛宕など。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。


9月 町吟味役中日記注記

                                    

(157-1)「嶋袷(しまあわせ)」:縞袷。二種以上の色糸を用いて、たて、またはよこ、またはたてよこに筋を織りだした織物。また、それに似た模様。筋の現われ方によって縦縞、横縞、格子縞に大別される。「嶋(島・縞)」の語源説に「南洋諸島から渡って来た物であるところから、シマモノ(島物)の略」がある。

(157-2)「飯鉢(めしばち)」:飯を入れる木製の器。めしびつ。

(157-3)而巳(のみ)」:漢文訓読の助辞。文末に置かれて限定・強意の語気を表す。~だけである。~にすぎない。 

 *夫子之道、忠怨而巳矣 (『論語 里仁』)

  [夫子(フウシ)の道は、忠怨(チュウジョ)のみ。]

  (先生の説かれる道は、まごころのこもった思いやり、ただそれだけである)

(157-5)「前書」の「書」:決まり字。脚部の「日(ひらび)」が省略されている。

 *「書」の部首は「曰(いわく・ひらび)」部。「ひらび」は、平たい「日の字」の意。

  曲、更、曽、曹、最、替など。

(163-5)「小平沢町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋町・碇町の北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。「西蝦夷地場所地名等控」に江差村の町々の一として小平沢町がみえる。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。

(158-1)「最前(さいぜん)」:さきほど。さっき。いましがた。先刻。多く副詞的に用いる。

 *「最前」を「いやさき」と読めば、「最もさき。いちばんさき。」

 *「最前」の「最」は決まり字。

(158-1)「砌(みぎり)」:「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという。本来は、軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。転じて、庭。さらに、あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。

 「いぬき」と読めば、階下のいしだたみ。

*万葉集〔8C後〕一三・三三二四「九月(ながつき)の 時雨の秋は 大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負ひて〈作者未詳〉」

 *ジャパンナレッジ版『字通』には、<〔説文新附〕九下に「階の甃(いしだたみ)なり」とあり、階下のしき瓦を敷いたところをいう。もと切石を敷いたものであろう。>とある。

(158-4)「出訴(しゅっそ)」:訴え出ること。提訴。

(158-5)「始末吟味(しまつぎんみ)」:事の初めから問いただすこと。「始末」は、始めから終わりまで。

(158-6)「利解(りかい)」:理解。

(159-6)「内済(ないさい)」:表向きにしないで、内々で事をすますこと。また特に、江戸時代、もめごとを裁判沙汰にしないで、隣村役人などの斡旋で話し合いにより事件を和解させること。和談。和融。

(160-4)「噺」:国字。『新漢語林』の解字には「口+新。耳新しいことを話す意」とある。

(160-5)「相談」の「談」:旁の「炎」の脚部は繰り返し記号の「ゝ」「々」のように省略される場合がある。

 *参考「渋」:

  ・昭和21年当用漢字表で「澁」が選ばれた。

  ・昭和24年当用漢字字体表で「渋」に字体整理された。

  ・現行常用漢字表ではいわゆる『康煕字典』体の活字として括弧内に「澁」が掲げられている。

  ・「澁」は、昭和56年に人名漢字許容字体となった。

  ・「澁」は、平成16年に人名漢字に追加された。

(162-35)「南部」の「部」:旁の「阝(おおざと)」のみに略され、さらに「P」「ア」のように見える場合ある。

(162-5)「花輪村」:現秋田県鹿野市花輪。鹿角盆地中央部、東西から山地が迫り盆地が狭まる所に位置。近世には盛岡藩花輪通の中心として、花輪館を中心に町並ができた。

(162-7)「鯵ヶ沢」: 津軽半島の西側基部、青森県西津軽郡にある町。地名の初見は天文5年(1536)であるが南北朝時代以前から部落が形成されていたことが部落内に散在する板碑によって知られる。赤石川上流四キロにある種里部落は弘前藩祖大浦光信入部の地である。江戸時代には弘前藩九浦の一つとして、町奉行がおかれ、東の青森に対し西の大港と称されて、大坂・蝦夷方面との交易が盛んであり漁港としても栄えた。

(163-2)「大沢村」:現松前郡松前町字大沢。近世から明治2年(1869)まで存続した村。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

(163-2)「宮ノ哥(みやのうた)村」:宮の歌村。現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。近世から明治39年(1909)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢(あじがさわ)から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。2~3年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。

 宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。

 蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。本税は直接藩に納入するが、付加税的な小物成は知行主に納めることになっていた。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。

(163-3)「白府村」:白符村。現松前郡福島町字白符。近世から明治33年(1900)まで存続した村名。近世は東在の一村で、白符川の流域、福島村の南に位置し、東は津軽海峡。白府村(支配所持名前帳)、白負(蝦夷草紙別録)などと記されることもあった。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば「白符之鷹待候ニ付、村名ヲ白符と申」と記す。

(163-3)「生符(いけっぷ)町」:現松前郡松前町字大磯・字弁天・字建石。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。上原熊次郎は「生府」の地名について「夷語イナイプなり。二タ胯の沢と訳す。イはイウゴヒ・イウゴテの略語にて、別れ又は繋くと申事、ナイは沢、プとは所と申事の略語なり」と記す(地名考并里程記)。

不動川と化粧けしよう川に挟まれた海岸沿いの町。東は博知石(ばくちいし)町、台地上は白川町。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」に「生府」と町名がみえる。呼称は「イケツフ」(「蝦夷日誌」一編)、「イゲツブ」(木村「蝦夷日記」)、「エケフ」(蝦夷喧辞弁)、「エケブ」(蝦夷迺天布利)など様々である。

 (163-4)「土橋(つちはし)」:現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「ツチバシ」(大小区画沿革表)、「ドバシ」(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)ともいう。当村は延宝2年(1674)に津軽から来た喜三郎が檜山稼と農業に従事したのに始まるという。

(163-4)「泊り村」:泊村。現江差町字泊町・字大澗町。近世から明治初年まで存続した村。片原町・オコナイ村の北に位置し、東は元山をはじめとした山地で、沢水を集めた泊川が西に流れる。西は日本海に臨み、泊川河口の湾は船泊り。

 (163-5)「碇町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。

(163-6)「新町」:江差村のうち。文化4(1807)の江差図に「中新町、北新町、川原新町」の地名が記載され、このころ北部の東方後背地に裏町として中新町、北新町、川原新町の地名が発生している。

(163-6)「津軽□別」:わかりません。


7月 町吟味役中日記注記

(146-6)「漸(ようやく・ようよう)」:①漢語「漸」は「しだいに、だんだん」の意。②和語の「ようやく」は、①「しだいに、だんだん」に加えて、「やっと、どうにかこうにか」の意味もある。つまり、古くは漢文訓読用語であった「ようやく(漸)」に対して、主として仮名文学、和文脈で用いられた。別添資料『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』(古田島洋介著 吉川弘文館 2013)参照。

(148-1)「最前」の「最」:テキスト影印は「最」の俗字「㝡」のくずし字。

(148-2)「若(もし)」:「若」を「もし」と読むのは、漢文訓読体。「若(わか)し」は、国訓に過ぎず、漢字本来の意味ではない。なお、漢文訓読体で「わかし」は、「少(わか)し」。

(148-2)「如何(いかが)」:くずし字の決まり字。形で覚える。

(148-3)「周章(しゅうしょう)」:あわてふためくこと。うろたえ騒ぐこと。

(148-5)「別て(而)」:副詞。特に、とりわけ、ことに。

(148-6)「其方(そのほう)」:室町時代以降の用法。武士や僧が、自分より目下の者に対して用いるやや固い響きの語。おまえ。きさま。

(150-4)「曽(かつ・かっ・かつっ)て」:①ある事実が、今まで一度として存在したことがない、という経験に基づく否定を表わす。今まで一度も。まだ全然。かつてもって。

 ②ある事実が、過去のある時点に存在したことがある、という回想的な肯定を表わす。以前。昔。ある時。③まだ起こらない事について、それは実現しないだろう、また、実現させるべきではない、という否定を表わす。どんな事態になっても。ちょっとでも。

 *テキストでは、①か➂。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <(1)「日本書紀」の古訓や訓点本などにみられるが、上代の文献で仮名書きの例は見当たらない。「万葉集」では「都」と「曾」の文字がカツテと読まれている。

(2)「都」は本来、すべての意であるが、打消の語を伴って完全否定のような用いられ方をし、「曾」は以前の意で「嘗」と通用して使われる一方、打消の語とともに用いられて「都」同様、否定の強調に使用される。

(3)この語は平安時代では漢文訓読に用いられ、和文では、「つゆ」が用いられる。カッテと促音に読むのは近世以後のことである。>とある。

(150-4)「無御座候」:「無」が極端に平になっている。また、「御」と接近している。

(150-5)「手合利(てごうり)」:手行李。行李は、携行用収納具の一種。竹・柳・真藤などでつくられ、古代より行われる。大中小さまざまの形態があり、大は衣服入れ、小は弁当行李として利用され、中は越中の薬売や越後の毒消売をはじめ、近世社会の行商人はこれを風呂敷に包んでかついだ。それより少し大きいものは旅人たちの振分荷物を入れるものとして手行李とよばれた。江州水口では小さな精巧な真藤製品がつくられ、同高宮や山城でも同じく真藤製品が名産、但州の豊岡・出石と因州用瀬は柳製品の産地である。現在では兵庫県豊岡市(柳行李)、静岡県御殿場市周辺(竹行李)などで生産されている。

(150-6)「差図(さしず)」:「差図」は、本来は、地図・絵図・設計図をいう。また、建築の簡単な平面図をいう。設計のため、あるいは儀式などの舗設を示すために描いたもの。平安時代の日記類には指図が多く描かれていて、風俗史・住宅史の貴重な史料となっている。なお正倉院蔵の東大寺講堂院の図はこれに類するもので、建築の平面図として最古のものである。

 *テキストでは、物事の方法、順序、配置などを指示すること。指揮すること。また、その指示・指揮。命令。現在では、「指図」が一般的。

 *「差図」の「図」:くずし字では、「囗(くにがまえ)」の縦棒を、最後に、左右に「ヽ」を書く場合がある。


5月 町吟味役中日記注記

                                       

4月学習テキストP1403行の「左近将監」の注記について>

◎参加者から<近衛府と衛門府とでは次官(スケ)の呼び方(表記の仕方)が異なる。すなわち、近衛府の次官は『中将または少将(左や佐ではなくて)』だから、『右近衛中将(うこんえのちゆうじょう』『左近衛少将(さこんえのしょうしょう』という呼び方になる。、吉良上野介は『左近衛少将』>とのご意見をいただきました。

◎「近衛府」と「衛門府」の官名を混同していましたので訂正します。

・近衛府の4等官名・1位(かみ):大将、2位(すけ):中将、少将、3位(じょう):将監(しょうげん)、4位(さかん):将曹(しょうそう)

・衛門府の4等官名・・1位(かみ):衛門督(えもんのかみ)、2位(すけ):衛門佐(えもんのすけ)、3位(じょう):衛門大尉(えもんのだいじょう)、衛門少尉(えもんのしょうじょう)二人、4位(さかん):衛門大志(えもんのだいさかん)、衛門少志(えもんのしょうさかん)

 

5月学習分>

(141-1)「貴意(きい)」:相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く

書簡文に用いる。

(141-4)「其(それ)」:文の初めに用いて、事柄を説き起こすことを示す。

(141-4)「領分(りょうぶん)」:江戸幕府の制。目見(めみえ)以上の領地を知行、目見以下の領地を給知といったのに対し、一万石以上の大名の領地の称。

(141-4)「平内茂良(ひらないもら)村」:現青森県東津軽郡平内町茂浦。東は夏泊半島の脊梁山脈で白砂(しらすな)村・滝村と境し、南は浪打(なみうち)山で浪打村に接し、西は陸奥湾に面し、北は支村の浦田村。茂浦から北方の夏泊崎まではリアス海岸で、漁業に適し、藩政時代海浜は製塩地として重視され、平内地方の総生産は月一千俵とみられた。塩は青森の塩しお町の業者に移出し、飯米と交換していた。

当村は平内地区のうちでも街道から外れており、アネコ坂の難路を通らないと来られないため、特色ある風習が残る。前述の「一人旅に宿貸すな」もその一つで、若者たちの寒垢離の神事である「お籠り」は、現在まで継承されている。旧暦一月一六日は塩釜しおがま神社の祭日で、若者たちは夕方から神社にこもり、下着一つで八時・一〇時・一一時の三回海に入って水垢離をとり、一二時までに供餅を御神酒で清め神事を済ませる。神事が終わるまで神社は女人禁制で、一二時過ぎになると村の老若男女が神社にこもり、夜の明けるまで賑かに過ごす。身を切るような冬の夜、水浴して心身を清めるのは、海に生きる若者たちへの試練であろう。

(141-5)「五ヶ年」の「ヶ」:「ヶ」は、もともと「箇(か)」の略体「个」から出たもので、かたかなとは起源を異にする。いわば記号といえる。「三ケ日(さんがにち)」「君ケ代」「越ケ谷」「八ケ岳」のように、読みに、連体助詞の「が」にあてることがある。これは「ケ」の転用である。

(141-5)已前(いぜん)」:「已」は、「以」と通用する。「已」も「以」も漢文訓読用法では

助詞「から」「より」で、「已前」は、「前より」と返読する。テキストの「已前よ

り」は、「前よりより」となり、「より」が重複することになる。

(141-6)「去卯(さるう)」:去年の卯年。天保2(1831)辛卯(シンボウ・かのとう)。

    *「天保」の読み方:「保」は、「ホ」(呉音)でなく、漢音「ホウ(ボウ・ポウ)と読む。年号の「保」は、漢音で読む。「享保(きょうほう)」「保元(ほうげん)」「神田神保町(かんだじんぼうちょう)」など。

(142-2)「鯡(にしん)」:<近世蝦夷地の漁業の中核をなしたものはニシン漁業である。ニシンは和名を「かど」、「青魚」「鯖」「白」「鰊」の文字をあてていたが、近世において特に「鯡 」の俗字が用いられていた。蝦夷地では米が穫れず、ニシンが肥料として本州へ移出され、米となって還元されて来るので、米に代わる魚として「鯡 」という字が造られたといわれている。それほど、ニシンは蝦夷地の漁民にとって重要な魚であった>(『福島町史』)

*「鯡」は、「金肥」といわれ、「魚に非(あら)ず」と書いて「ニシン」と読んだことから、国字とする向きもあるが、「はららご」(産卵前の魚類の卵塊)を意味する漢字である。音は「ヒ」。国訓で「にしん」だが、近世、中国に逆輸出され、現在、中国でも「鯡」を「にしん」の意味で使う。もともと、中国で「にしん」には「鯖」を当てた。

(142-3)「さも無之(これなく)」:「さ(然)もなし」は、たいしたこともない。どうということもない。影印は「左茂無之」とあるが、「左」も「茂」も変体仮名。翻刻は「さも無之」とする。

(142-3)「酒狂(シュキョウ・さかぐるい)」:酒に酔って狂い乱れること。また、酒におぼれること。酒乱。

(142-4)「不法之儀等」の「等」:カタカナの「ホ」に近いくずしになる場合がある。この形になることについて、茨木正子著『これでわかる仮名の成り立ち』(友月書房)は「脚部の寸が独立したものと思われる。『す』と区別するため、肩に「ヽ」がついたものか」とある。

(142-4)「手向(てむかい・たむかい・てむかえ・たむかえ)」:てむかうこと。はむかい。抵抗。反抗。てむかえ。

(142-5)「異見(いけん)」:いさめること。忠告。説教。訓戒。

    *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

     <(1)表記は、「色葉字類抄」に「意見」とあるが、中世後期の古辞書類になると「異見」とするものが多く、「又作意見」(黒本本節用集)のように注記を添えているものも見られる。近世の節用集類も「異見」を見出し表記に上げているが、明治時代に入ると典拠主義の辞書編纂の立場から「意見」が再び採られるようになり「異見」は別の語とされた。文学作品の用例を見ても、中世後期から近世にかけては、「異見」が一般的であった。

(2)「意見」は、「色葉字類抄」に「政理分」と記されていることや「平家物語」の用例によると、本来は政務などに関する衆議の場において各人が提出する考えであった。そのような場で発言するには、他の人とは異なる考えを提出する必要がある。そのようなところから、「異見」との混同が生じたものと思われる。

(3)中世も後期になると、「異見」の使用される状況も拡大し、「虎明本狂言・宗論」などに見られるように、二者間においても使用されるようになった。それに伴い、「日葡辞書」が示すような(2)の意味も生じてきた。この意味での使用が多くなり、「異見す」というサ変動詞や「異見に付く」や「異見を加ふ」といった慣用句までできてきた。最初のうちは、相手が目上・目下に関わらず使用されていたが、訓戒の意が強くなり、次第に目上から目下へと用法が限定されてきた。>とある。

(142-6)「差加(さしくわ)へ」:「差し」は接頭語。動詞「さす(差)」の連用形から転じたもの。動詞の上に付いて、その意味を強め、あるいは語調を整える。「さす」の原義を残して用いるものもある。「さし出す」「さし置く」「さし据う」「さし曇る」など。

    *「差」など、冠と脚で構成される漢字のくずしは、2字分あると思うほど縦長になる場合がある。

(143-4)「腰縄(こしなわ)」:江戸幕府の被疑者・犯罪者戒護の一方法で、捕縄を用いた縛り方。被疑者・犯罪者の逮捕や護送などにあたり、捕縛に本縄と腰縄の別があった。腰縄は軽い罪の場合に用いられ、腰に縄を巻き、併せて両腕が伸びないように羽がいじめに縛り、羽織着用の場合はそのうえから縄をかけた。上級武士には本縄はかけず、腰縄だけであった。遠隔地からの庶民の護送は、軽い場合には手鎖腰縄つき、または腰縄だけで歩かせ、重い場合には唐丸駕籠(とうまるかご)に入れた。

(143-4)「酔醒(よいざめ・よいざまし)」:酒の酔いがさめること。また、その時。

    *「酔」:「酉」+「卒」。「酉」は酒つぼの象形で、酒の意、「卒」は、「まっとうする」で、「酒の量をまっとうする」→「よ(酔)う」の意を表す。

    *「醒」:「星」は「澄みきったほし」の意味。酒の酔いがさめて気分がすっきりするの意味を表す。

    *「酔」は、常用漢字になっている。旁は「卒」の俗字「卆」。旧字体は「醉」で、旁は「卒」。「酔」の構成部分(旁)に、俗字が採用された例。

    *常用漢字になって構成部分が俗字の「卆」が使用された例:「粋」(旧字体は「粹」)

    *常用漢字でないので、構成部分が「卒」のままの例:「悴(せがれ)」、膵臓の「膵」、翡翠の「翠」

(143-4)「酔醒候迄」の「迄」:決まり字。

(144-2)「一体(いったい)」:もともと。

(144-2)「不快(ふかい)」:病気などのために気分がよくないさま。また、病気。

(144-4)「合利(こうり)」:行李。携行用収納具の一種。竹・柳・真藤などでつくられ、古代より行われる。大中小さまざまの形態があり、大は衣服入れ、小は弁当行李として利用され、中は越中の薬売や越後の毒消売をはじめ、近世社会の行商人はこれを風呂敷に包んでかついだ。

(144-6)「手合利」:手行李。旅人たちの振分荷物を入れるもの。

(145-3)「朋輩(ほうばい)」:「朋」はあて字。同じ主君、家、師などに仕えたり、付いたりする同僚。同役。同門。転じて、仲間。友達。

4月 町吟味役中日記注記 2018.4.9

(134-1)「鯡(にしん)」:国訓では「ニシン」。漢語では「ヒ」と読み、魚の卵のこと。なお、中国では「鯖」が「ニシン」を表す。

(134-3)「家内(かない・いえうち)」:家中の者。家の者全部。

    ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

    <(1)「家庭」という言葉が一般に用いられるようになる明治中期以前は、「家内」や「家」がその意味を担っていた。明治初期の家事関係の書物には「家内心得草」(ビートン著、穂積清軒訳、明治九年五月)のように、「家内」が用いられている。

(2)現在では「家内安全」のような熟語にまだ以前の名残があるものの、「家庭」の意味ではほとんど使われなくなり、自分の妻を指す意味のみが残る。>とある。

(13-4)「荒増(あらまし)」:事件などのだいたいの次第。概略。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

    <「粗(あら)まし」という語源を考える説もある。また、「まし」は「はし(端)」の転で、有り始めの意からともいう。>とある。

(135-3)「呼越(よびこし)」:「呼び越す」は、呼んで来させる。招き寄せる。

(135-6)「幸ひ」:「幸」の脚部の「干」が円(まる)になる場合がある。

 (136-3)「別心(べつしん)」:相手を裏切るような心。そむこうとする気持。ふたごころ。異心。

(136-4)「手限(てぎり)」:江戸時代、奉行、代官などが上司の指図を得ないで事件を吟味し、判決を下すこと。手限吟味。

(136-4)「相当(そうとう)」:ふさわしいこと。また、そのさま。相応。6

(136-4)「申付度(もうしつけたく)」の「度(たく)」:願望の助動詞「たし」の連用形で、訓読み。漢音を和語に利用した。

    *「忖度」の「度(タク)」は漢音。(「度」は呉音)

    *鎌倉時代ころから、「度」の字音「タク」を利用して「めでたく」「目出度」と表記した   例が見られる。のち、願望の助動詞「たし」の各活用の表記に用いられた。(『漢辞海』)

(136-5)「無急度(きっとなく)」:急度と同じ。かならず。

(136-5)「利解(りかい)」:理解。道理。わけ。また、わけを話して聞かせること。説得すること。

(136-6)「兎角(とかく)」:副詞「と」と副詞「かく」を合わせたもの。「兎角」は、当て字。

あれこれ。あれやこれや。何やかや。さまざま。いろいろ。とかくに。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

(1)対照的な内容をもつ副詞「と」と「かく」を複合して用いるもので、中古以降現代まで使われている。古語においては、「かく」のクがウ音便化して「とかう」となることもある。

(2)「と」「かく」にそれぞれ付加的要素をつけて、「とにかくに」「とにもかくにも」「ともかくも」「とやかくや」「とてもかくても」「とてやかくてや」、また「とあるもかくあるも」「と言ふともかく言ふと」「とやせんかくやあらまし」など、「と」「かく」それぞれが単独で副詞本来の用法を果たすものである。名詞が結びついて、「戸様各様」の用に用いられることもある。>とある。

(136-6)「得心(とくしん)」:心から承知すること。納得(なっとく)。

(137-2)<尊敬の体裁・平出>:2行目の行末「吟味」のあと、空白があり改行されている。この体裁を「平出」といい、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。テキストでは、「公辺」に敬意を表している。

(137-2)「公辺(こうへん)」:公儀。将軍家。幕府。政府。お上(かみ)。また、それにつながるもの。役所。

(137-3)「差出」の「差」:冠部と脚部が離れており二字見えるが「差」一字。

(137-3)「左候節(さそうろうせつ)」:然(さ)候節。そのような折。「左」は本来は、縦書きの文章では、次のことが左側にあるところから、次に述べるような、文章や事項をいうが、テキストでは、「然(さ=そうような)」の当て字。

(137-4)「遠国(おんごく・えんごく)」:①遠くはなれた国。都から遠くはなれた辺鄙(へんぴ)な土地.②律令制の行政区画である国を、都からの距離によって、近・中・遠の三等に分けた一つ。延喜式によると、遠国には、関東以北、越後以北、安芸石見以南および土佐国が含まれた。テキストでは①。「オン」は呉音、「エン」は漢音。

(137-5)「手数(てかず・てすう)」:それに施すべき手段・手法・技(わざ)などの数。「てすう」と読むと湯桶読み。

(137-6)「腹蔵(ふくぞう)」:心の内にひめ隠すこと。心に思っていることをつつみ隠して外に現わさないこと。

(137-6)「被仰合(おおせあわせられ)」:「仰せ合す」は、多く、助動詞「らる」を付けて用いる。「言い合わす」の尊敬語。御相談になる。

(137-6)「被仰合」の「仰」のくずし字:旁が極端に省略されている。

(138-4)「乍去(さりながら)」:そうではあるが。しかしながら。「さり」は、本来「然り」で、「去」は当て字。

(138-5)「被仰聞(おおせきけられ)」:下一段活用他動詞。「聞ける」は「聞かせる」の意。

    「いいきかせる(言聞)」の尊敬語。言ってお聞かせになる。聞かせて下さる。また、上の命令などをお言い聞かせになる。

     *「聞ける」の活用:れ(未然)・れ(連用)・ける(終止)・ける(連体)・けれ(已然)・けよ(命令)。

     *「被仰聞(おおせきけられ)」の組成:「仰聞(おおせきける)の未然形「おおせきけ」+尊敬の助動詞「らる」の連用形「られ」。

      **助動詞「らる」の接続:未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に接続する。「おおせきく」の未然形は「おおせきけ」で「け(ke)」で「e」。

(138-6)「可得貴意(きいをうべく)」:「貴意」は、相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

    *組成:「貴意」+下2段動詞「得(う)」の終止形「う」+推定の助動詞「べし」の連用形「べく」

      **助動詞「べし」は動詞の終止形(ラ変動詞は連体形)に接続する。

(139-1)「恐惶謹言」:男子が、手紙の末尾に書いて、敬意を表す語。恐れながら謹んで申し上げます。「惶」はおそれかしこむ。書き止めという。テキスト影印はわりとしっかりかかれているが、崩した連綿体も多い。

    *「書き止め」:書状など文書の末尾に書く文言。書止め文言。書状では「恐々謹言・謹言」、綸旨では「悉之」、御教書(みきょうじょ)などでは「仍執達如件」、下文などでは「以下」というように文書の様式によってその文言はほぼ定まっている。とくに書状では相手との上下関係によって書札礼(しょさつれい)が定まっていた。

    代表的な例である「弘安礼節‐書札礼之事」(一二八五)によれば、「恐惶謹言」は、「誠恐謹言」に次いで敬意が高く、目上に対して最も広く用いられ、以下「恐々謹言」「謹言」等があって、目下に対しては「…如件」で結ぶ形式をとるという。

実際の文書では「謹言」というさらに上位の表現や、「恐惶かしく」「恐惶敬白」といった「恐惶謹言」に準じた形式も見られ、他に「恐惶頓首」「匆々(草々)頓首」「以上」等が用いられる。いずれも実際の書状では符牒のように書かれる。

(139-3)「蛎崎四郎左衛門」:当時、松前藩の勘定奉行で、町奉行も兼ていた。のち家老格となった。

(139-6)「新井田周次」:松前藩町奉行。

(140-1)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(140-3)「津軽左近将監」:弘前藩11代藩主・津軽順承(ゆきつぐ)。在位期間天保10年(1839)~安政5(1859)。寛政12(1800)113日生まれ。三河吉田藩主松平信明(のぶあきら)3男。津軽親足(ちかたり)の養子となり、文政8(1825)陸奥黒石藩藩主津軽家2代。ついで宗家津軽信順(のぶゆき)の養子となり、天保10

(1839)陸奥弘前藩藩主津軽家11代。倹約,開墾により藩財政を再建,また洋式兵学をとりいれた。元治2(1864)25日死去。66歳。

   *「左近将監」:官位名。「左近」は、左近衛府。右近衛府禁中の警固、行幸の警備などに当たった律令国家の軍事組か。「将監」はその近衛府の第三等官(ジョウ)。なお、第一等官(カミ)は、大将、第二等官(スケ)は、衛門左、第三等官(ジョウ)が将監、第四等官(サカン)は、将曹(しょうそう)。

(139-46及び140-2)<花押・華押(かおう)>:花字(かじ)の押字の意。 文書で、署名の下に書く自筆の書き判。多くは、実名の文字をくずして図案化したものを用いた。

   *花押:自署の代りに書く記号。押字ともいい、その形が花模様の如くであるところ

から花押とよばれた。また判・判形ともよばれ、印判と区別して書判(かきはん)と

もいう。花押は個人の表徴として文書に証拠力を与えるもので、他人の模倣・偽作を

防ぐため、その作成には種々の工夫が凝らされた。

   花押は中国唐代の文書からみえるが、我が国では十世紀の頃から次第に用いられる

ようになった。はじめ自署は楷書で書くのが例であったが、行書から草書へと変わ

り、特に実名の下の文字を極端に簡略化し、次第に二字の区別がつかなくなって図

様化した。これを草名(そうみょう)という。

   花押には、その人の趣向や時代の流行により、各種の作り方があった。江戸時代の有

職家、伊勢貞丈(一七一七―八四)の『押字考』は、草名体・二合体・一字体・別用

体・明朝体の五種を挙げている。草名体は、上記の如く花押の発生期に現われたもの

であるが、鎌倉時代以降も書札様文書に多く用いられた。藤原行成・吉田定房・一条

兼良(覚恵)などの花押がそれである。二合体は、実名の二字の一部を組み合わせて

草体にしたもので、藤原佐理・藤原頼長・源頼朝などの花押にみられる。一字体は、

名の一字だけをとって作るもので、平忠盛・北条義時・足利義満などの花押がその例

である。別用体は、文字と関係のない図形を用いたもので、三好政康・真木島昭光・

伊達政宗・徳川光圀などの花押がそれにあたり、いずれも鳥の姿を図形化したもの

である。明朝体は、中国明朝の頃に流行した様式であるためにこの名があり、天地の

二本の横線の間に書くことを特徴とする。徳川家康・加藤清正など、その例は多い。

花押の類型は、以上に尽きるわけではなく、前述の複合型もあり、戦国・織豊時代から文字を倒置したり、裏返したものが現われ、苗字・実名・通称などの 組み合わせによるものなど、新様式が発生し、その様相は一段と複雑になった。また一字体の変種とみることもできるが、足利義持・義政の「慈」、織田信長の「麟」、豊臣秀吉の「悉」のように、実名と関係のない文字を選んで花押とすることも行われた。禅僧様の花押も一種独特の類型に属するもので、文字よりは符号に近く、抽象的表現の中に禅宗風の寓意がこめられたものと思われる。さらに平安時代よりみられる略押も花押の一種で、画指に代り身分の低い者や無筆の者が用いる、簡略な符号であった。

 同一人でも、草名体と他の形式の花押を持つ例があり、義満以降の足利将軍のように、尊氏に始まる武家様(特に足利様ともいう)の花押と公家様の花押の両種を使用する例もあった。また一生の間には花押の変遷があり、若年期と老年期では書風の変化がみられるが、意識的に花押を改変することも多かった。改名、出家、政治的地位の変化等を転機とするものであるが、偽造を防ぐために頻繁に変えたり、数種の花押を用途によって使い分けることもあった。

   花押は時代によりその様相が変遷する。平安時代は草名体・二合体が主流であり、中

世に至って二合体・一字体がそれに代わり、さらに前述の如き新様式が現われ、江戸

時代には明朝体が一世を風靡した。また特に武家社会では、同族や主従の間に類似

の花押が用いられる傾向が強く、足利様や徳川判の流行のような現象もみられた。

 花押は自署の代りとして発生したが、平安末期より実名の下に花押が書かれるよう

になり、後には自署と花押を連記する風が生じた。一字体の出現以降は、実名と花押

との関係が薄れ、名と関係のない文字で理想や願望を表わしたりするようになると、

印章と変わるところがなくなった。版刻の花押は鎌倉時代中期から現われるが、近

世になると花押を籠字に彫って、これを押した上に填墨する方法、花押を印章の中

に組み入れたものが現われるなど、花押の印章化が進み、花押と印章は文書の上で

その地位を交代した。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

3月 町吟味役中日記注記

◎2月学習のうち、「旅人」について

例会後、参加者からご意見が寄せられましたので、コメントします。

<意見>罪人の肩書の「旅人」は、「たびびと」でなく「たびにん」と読むべきでないか。

<森のコメント>

・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』によると、

1.「旅人(たびびと)」:旅行をしている人。旅路にある人。たびゅうど。たびうど。たびと。旅行者。旅客。「たびにん(旅人)」は別意。

2.「旅人(たびにん)」旅から旅へと渡り歩く人。各地をわたり歩いている博徒・てきやの類。わたりどり。テキストの罪人の肩書はこの「たびにん」が適当か。

  *なお、「旅人」を「たび・にん」と読むのは湯桶(ゆとう)読み(訓読み+音読み)

   逆は重箱読み(音読み+訓読み)

3.「旅人(たびじん)」:他国の人。

4.「旅人(りょじん)」:中国周代の官名。官位のある平民で料理をつかさどる。

*「旅」:解字は「軍旗の象形。多くの人が軍旗をおしたてて行くの意味から。軍隊・たびの意味を表す。

*「旅(りょ)」は、中国周の時代に、兵士五百人を一団とした軍隊。五旅を一師、五師を一軍とした。つまり、

  「1旅」・・500人 (旧日本陸軍・・2~4連隊で1旅団)

  「1師」=5旅・・2500人 (旧日本陸軍・・2~4旅団で1師団)

  「1軍」=5師・・12,500人

 

(127-1)「処」:影印は、旧字体の「處」。『説文解字』では「処」が本字、「處」は別体であるが、後世、「處」の俗字とみなされた。我国では、昭和21年当用漢字表制定当初に、俗字であった「処」が「處」の新字体として選ばれた。

  *「処」は、「本字」→「俗字」→「当用漢字」(現常用漢字)と変遷の道をたどる。

  *「説文解字(せつもんかいじ)」:中国の漢字字書。略して『説文』ともいう。「文字」の「説解」の意。許慎著。序一、本文十四の全十五巻。のちに、各巻は上下に分けられて三十巻となった。後漢の100121年に成立。字形の分析にもとづき、漢字を偏や旁(つくり)などの構成要素に分け、その相違によって、9353字を五百四十部に類別した。なお重文(じゅうぶん、異体字)も1163字入れてある。部首別字書として、また、形音義を説明したものとしては最古。これ以前の字書は、識字用が普通。六書(りくしょ)説による字形の説明は、漢字成立の根本にまで及んでいて、高い評価を受けている。古来、重視され研究が重ねられているが、特に、南唐の徐(じょかい)が注を加えた『説文解字繋伝』(小徐本)四十巻、その兄、北宋の徐鉉(じょげん)が986年に校訂刊行したもの(大徐本)三十巻(以後の標準的テキスト)、また、清の段玉裁が1807年に作った訓詁の書『説文解字注』などが有名。小徐本は華文書房、大徐本は世界書局(ともに台湾)などが刊。原本は現存しない。

(127-2)「入牢(じゅろう・にゅうろう)」:牢屋にはいること。牢屋に入れられること。

  *「入」を「ジュ」と読むのは慣用音(日本での漢字の音。和製漢語音)

   例として「入内(じゅだい・中宮・女御などが内裏に参入すること)」、「入水(じゅすい・人が死ぬために、水中に身を投げること)」、「入御(じゅぎょ・天皇・皇后・皇太后が内におはいりになること)」「入院(じゅいん・じゅえん・寺に入ること、または、新任の住持がはじめて寺に入り住持となること)」「入輿(じゅよ・身分の高い人が嫁入りすること)」など。

  **「慣用音」呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」、「情緒」の「緒(しょ)」を「ちょ」と読むなど。このほか、「喫」は正しくは「ケキ・キヤク」であるのを「キツ」に転じ、「劇」は正しくは「ケキ・ギヤク」であるのを「ゲキ」に転じ、「石」は「セキ・シヤク」であるのを「斛」と混じて「コク」とするような例もある。

(127-5)「力業(ちからわざ)」:強い力をたのんでするわざ。強い力だけが武器であるような武芸
(127-5)
「曲持(きょくもち)」:曲芸として、手、足、肩、腹などで重い物や人を持ち上げて自由にあやつること。

(127-5/6)「旅人宿(りょじんやど)」:旅人を宿。旅籠(はたご)。旅籠屋。やどや。

(128-1)「平内(ひらない)」:陸奥湾に突き出た夏泊半島と南部の山地からなる。平内とい

う地名はアイヌ語の「ピラナイ」(山と山の間に川がある土地の意)からきたといわれ

る。鎌倉~南北朝時代までは南部氏の支配下にあったが、1585年(天正13)以降津軽

氏領となった。盛岡藩境の狩場沢(かりばさわ)には関所が置かれ、藩境塚(県の史跡)

が残る。

(128-3)「如何(いかが)」:「いかに」に助詞「か」の付いた「いかにか」が変化したもの。(心の中で疑い危ぶむ意を表わす)どう。どのように。どうして。どんなに。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

 <(1)「いかにか」から「いかが」という変化は、「に」の撥音化とそれに並行する「か」の濁音化、すなわち「イカンガ」を媒介にして成立したと考えられる。すなわち一〇世紀初頭の仮名資料に「いかか」が現われ始めるが、この時期はまだn撥音を無表記としており、例えば「土左‐承平五年二月四日」の「しし(こ)」が「死にし(子)」であり、「シンジ(コ)」と発音されていたと推測されるように、同じく「そもそもいかかよむたる」〔土左‐承平五年一月七日〕の「いかか」も「イカンガ」と発音されていたかもしれない。

(2)意味は上代の「いかにか」「いかに」とほぼ同じであり、呼び掛け的に使われたり、状態や様子が甚だしいことを表わしたりする点も同様である。

(3)平安期以降ほぼ状態や様子に限定されながら、鎌倉期には「その様子が望ましくない、困ったものだ」という意味を派生する(中世後半から近世になると「いかがし」「いかがはし」を派生する)のに対して、「いかに」は状態・様子以外に理由・原因を問う用法が発達する。>とある。

*「如何」を「いかが」「いかん」「いかんセン」と読むのは漢文訓読の熟字訓。

「取妻如何(つまヲめとルコトいかん)」[妻を娶(めと)るのには、どのようにすればよいか](詩経・伐柯=ばっか=)

**なお「何如」は、「いずレゾ」と訓じる。

(128-8)「丹地八五郎」:P15に「丹地屋八五郎」がある。

(129-4)「小平沢町(こへえさわ町)」:現檜山郡

江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)で存続した町。寺小屋町・碇町の

北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。「西蝦夷

地場所地名等控」に江差村の町々の一として小平沢町がみえる。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。「蝦夷日誌」(二編)によれば、茂尻(中茂尻か)より沢(小川)の南にあって、町の上は皆畑で広い。「人家二十二軒といへども五十軒計も有。(中略)津軽陣屋跡といへるもの有」とある。弘化3年(1846)夏に出た温泉があり、薬湯として用いられ、傍らに薬師堂が建てられていた。「渡島日誌」には「小兵衛沢」と記され、「畑多く、近頃人家少し立たり」とある。

(130-1)「内済(ないさい)」:江戸時代、裁判上の和解のこと。江戸幕府は、民事裁判ではなるべく両当事者の和解による訴訟の終了を望んだが、ことに無担保利子付きの金銭債務に関する訴訟、すなわち金公事(かねくじ)においては、強力に内済を勧奨した。内済は訴訟両当事者連判の内済証文を奉行(ぶぎょう)所に提出して、その認可を受けることによって有効となったが、金公事の場合には片済口(かたすみくち)と称して原告が作成した内済証文だけで足りた。

(130-1)「熟談(じゅくだん)」:話合いで、ものごとや問題となっていることをおさめること。示談。和談。

  *「場所熟談」:江戸時代、用水、悪水、新田、新堤、川除(かわよけ)などの訴訟。これらの争いについて、奉行所では訴が提起されても直ちに受理せず、問題の地の代官や地頭の家来を呼びだして訴状を下げ渡し、現場で双方の納得のいくような話合を命じ、極力和解による問題の解決を図って、和解が成立しない場合に初めて訴が受理された。

(133-1)「貴意(きい)」:相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

(133-3)「堅勝(けんしょう)」:からだに悪いところがなく健康なこと。また、そのさま。多く「御健勝」の形で相手の健康についていう。

(133-4.5)「其御許様(そこおもとさま)」:「そこもと」に敬意を表わす接尾語「さま」の付いたもので、更に「其許」の「許」に敬語の「御」がついたもの。

  *平出の体裁:4行目の「其」で改行して、「御許様」としているのは、尊敬の体裁で、「平出(へいしゅつ)」という。

  **「平出」:律令国家の公文書の記述中に,天皇・皇后・皇祖等を示す語があるとき,文章を改行してその語を行の先頭に置き,敬意を表す記述方法。律令国家の公文書(公式様文書)の様式等を制した公式令に定められている。同令には,平出のほか皇太子・中宮の称号あるいは天皇の行為を示す語について,その1~数字分上を空ける闕字(けつじ)の方法も定められている。中世では,この平出,闕字は,公式様文書ばかりでなく,書札様文書にも使用され,平出はもっぱら院宣・綸旨の院・天皇の仰せを表す〈院宣〉〈院〉〈御気色〉〈天気〉〈綸旨〉等にのみ用いられ,文書としての院宣・綸旨,その他〈奏聞〉〈天裁〉〈禁裏〉等の語,あるいは皇太子・親王・摂関を示す語には闕字が用いられている。将軍については,鎌倉時代には闕字・平出ともにみられない。室町時代以降〈公方〉が闕字扱いされ,近世には〈御公儀〉や公儀からの〈仰出〉に平出が用いられるようになる。また近世では,公儀のほか〈太守様〉や〈御役所様〉まで闕字あるいは平出で扱われ,さらに平出より敬意を表す擡頭も現れる。

(133-5)「茂良村」:現青森県平内町茂浦(もうら)。「茂良」は、「もうら」を詰まって「もら」と発音し、「良」の呉音「ら」から、「茂良」を当てたか。なお、ひらがなの「ら」は、「良」の草体からできた。

  茂浦村は、東は夏泊半島の脊梁山脈で白砂村・滝村と境し、南は浪打山で浪打村に接し、西は陸奥湾に面し、北は支村の浦田村。当村は平内地区のうちでも街道から外れており、アネコ坂の難路を通らないと来られないため、特色ある風習が残る。若者たちの寒垢離の神事である「お籠り」は、現在まで継承されている。旧暦一月一六日は塩釜神社の祭日で、若者たちは夕方から神社にこもり、下着一つで八時・一〇時・一一時の三回海に入って水垢離をとり、一二時までに供餅を御神酒で清め神事を済ませる。神事が終わるまで神社は女人禁制で、一二時過ぎになると村の老若男女が神社にこもり、夜の明けるまで賑かに過ごす。

(133-6)「悴(せがれ)」:影印は俗字の「忰」。自分の息子。「せがれ」は、室町以降の語で、語源説に、「痩(や)せ枯(か)れ」がある。なお、「忰」を「せがれ」と読むのは、「倅」の字と似ていることから起こった誤用説もある。(『新漢語林』)

  また、『くずし字用例辞典』には「悴」の項に<「忰」は「せがれの場合に用い>とあるが、「悴」も「せがれ」の意味に使われる。「忰」は、「悴」の俗字に過ぎない。

  *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<元来、「悴」を当てていたが、人を指すことを明示するために、立心偏を人偏に改めて、「倅」を当てたもの。>とある。

  *語源説に、<自分の子を卑下していうヤセカレ(痩枯)の略。ヤセカレは屈原の「漁父辞」にある「顔色憔悴(やせ)、形容枯槁(かれ)」から>がある。

  **「顔色憔悴、形容枯槁。」<顔色憔悴し、形容枯槁(ここう) せり。>

     [顔はやつれて、その姿は痩せ衰えています]

1月 町吟味役中日記注記

(113-3)「下男供」の「供(ども)」:名詞・代名詞に付いて、そのものを含めて、同類の物事が数多くあることを示すが、必ずしも多数とは限らないで、同類のものの一、二をさしてもいう。人を表わす場合は「たち」に比べて敬意が低く、目下、または軽蔑すべき者たちの意を含めて用いる。現代では、複数の人を表わすのに用いられることが多い。名詞に付いて複数を表す。人を表す名詞に付いた場合は、「たち」よりも敬意が低い。

*「共」と同語源。一般には、「共」が多いが、「供」は、現在、「子供(こども)」などに残っている。

(113-4)「親ニ代り」の「代」:「代」に左払いの「ノ」があり、「伐」に見えるが、筆運びの勢いの「ノ」。

(113-6)「篤与(とくと)」の「与」:「与」は変体かなではなく、漢文訓読の助辞の「与」

の訓読みであり、日本語の古文や古文書に援用されたもの。

 *「富貴、是人之所欲也」(『論語』)

(フウは、これひとのほっするところなり)

  [富と尊い身分とは、どんな人でも望むものである。]

 *漢文の語が、わが国の古文書で読まれるとき(訓読)、助詞として援用される語

  ・「与」・・「と」

  ・「之」・・「の」

  ・「自・従」・・「より」

  ・「者」・・「は」「ば」

  ・「而」・・「して」

  ・「也・乎・耶・歟」・・「や」「か」

  ・「耳・爾・而已」・・「のみ」

  ・「許・可」・・「ばかり」

  ・「哉・夫・矣」・・「かな」

  ・「也」・・「や」(呼びかけ)

  ・「乎」・・「よ」(呼びかけ)

(113-6)「御認メ(おしたため)」の「御」:極端に崩され「ワ」「ツ」「ソ」のようになる場合がある。      

(113-7)「岡田團右衛門」の「岡」:構の「冂」が、極端に省略される場合がある。

(113-7)「岡田團右衛門」の「團」:「囗」(くにがまえ)は最後に書く場合がある。さらに、

「囗」(くにがまえ)の横棒は省略され、縦棒も「ヽ(点)」で書く場合がある。

(113-7)「某供(それがし)」の「某」:①〔代名詞〕 《人称代名詞。自称》 男性があらたまった気持ちで謙譲的にいう語。わたくし。拙者(せっしゃ)。小生(しょうせい)。

 ②人名や地名、事物などが不明の時、または具体的なことを省略する時に用いる語。だれそれ。どこそこ。何とかいう。

 ➂人名、地名、事柄など、一般によく知られているためにかえってぼかしていう時に用いる語。

 ここでは、①。

(113-7)「某供(それがしども)」の「供(ども)」:自称の代名詞、または自分の身内の者を表わす名詞に付けて、単数・複数にかかわらず、謙遜した表現として用いる。「私ども」「親ども」など。

(114-1)「湯殿沢町(ゆどのさわまち)」:現松前町字松城・字唐津。近世から明治33年(1900まで存続した町。近世は松前城下の一町。小松前こまつまえ川下流、東西の両海岸段丘に挟まれた地。東は福山城、南は小松前町・唐津内町、西は西館町。

(114-2)「唐津内町(からつないまち)」:松前町字唐津。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢川を境に博知石町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(114-6)「目操札(めくりふだ)」: 捲(めくり)札。カルタ札の一種。日本で初めてのカルタである天正カルタの図柄が後に極端に崩れ、一枚ずつめくり、手札としたものの組合せなどにより点数を競う競技に使用されるようになって以後の呼称。また、それを用いて行なう競技や賭博(とばく)。めくりカルタ。

 *「紙をめくる」など、「はがす」の意味の「めくる」は、「捲(めく)る」と「捲」を当てる。影印の「繰」は、「あやつる」の意味で、「目操」は「めくり」と読むのだろうが、当て字としては「目捲」が適当か。

(114-9)「畢而(おわりて)」の「畢」:「畢」は、あみの形。鳥獣などを捕るあみで、下部に長い柄がある。上のまるい形が小網の部分。〔説文〕四下に「田罔(でんまう)なり。田に從ひ、(はん)に從ふ。象形。或いは曰く、田(でん)聲」(段注本)とするが、字の全体が象形である。原の初文である(げん)は、狩猟のはじめに祈る儀礼を示し、犠牲の獣の上に畢をおいて、成功を祈る。田は畢(あみ)の形。夂(ち)は神霊の降下する形。畢で一網打尽にとり尽くすので「畢(おわ)る」意となり、「畢(ことごと)く」という副詞に用いる。

 *テキスト影印の「畢」は、異体字。

(114-6)「店売(たなうり)」:暖簾(のれん)をかかげた商店で品物を売ること。店を構えて商売すること。みせあきない。

(114-67)「吟味詰口書(ぎんみつまりのくちがき)」:江戸時代の刑事訴訟文書の一種。奉行所吟味役人が被疑者を吟味した結果、有罪判決を下すのに十分な供述が得られた場合に作成する文書。被疑者が罪を白状した形式になっていて、被疑者の爪印(武士の場合は書き判)が必要とされ、奉行所ではこれをもとにして刑罰を決定した。

 *「吟味詰(ぎんみづめ)」:江戸時代の刑事訴訟で、吟味筋の裁判を終結させること。被疑者はもはや異議を申し立てることはできず、判決を待つばかりだった。

(115-1)「始メお目見得(はじめおめみえ)」:御目見以上の家に生まれた者が、はじめて将軍に謁見することを特に「初御目見(はつおめみえ)」といった。ここでは、松前藩主へ初めて謁見することをいう。

(115-6)「両浜(りょうはま)」:両浜組。近世初期から北海道に進出して活躍した近江商人の仲間組織。おもに近江国愛智郡薩摩村・柳川村両村(彦根藩領)と蒲生郡八幡町(幕領→尾張藩領→幕領)出身の商人で組織され、両浜組に属する商人を両浜商人または近江店などと称した。両浜の語源については、薩摩・柳川両村にちなんだとするものと、薩摩・柳川両村は互いに隣村であることから両村を一浜とみ八幡を加えて両浜としたとする二説がある。

(115-6)「問屋(といや・とんや)」:近世における商業組織では仲買とともにその中心をなし、荷主から委託された物資を仲買人に売りさばいた。江戸では「とんや」ともいう。

(115-6)「都合(つごう)」:「都」はすべての意。 みんな合わせて。ひっくるめて。全部で。

(115-7)「表座敷(おもてざしき)」:家の表の方にある座敷。客間とする。「座敷」は、表居間昔の部屋の床は板張りのままで、畳・しとね・円座などを敷いて座ったことからできた語。室町時代、書院造りが発達し、畳が敷きつめられるようになってから、よく用いられるようになる。

(115-8)「砌(みぎり)」:「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからというその時。おり。場面。雨だれを受けるために軒下に石を敷いた所。転じて、庭。

 *「砌」:〔説文新附〕に「階の甃(いしだたみ)なり」とあり、階下のしき瓦を敷いたところをいう。もと切石を敷いたものであろう。(『ジャパンナレッジ版字通』)

  **「玉砌(ぎょくせい)」:玉の石だたみ。

(116-2)「同断(どうだん)」:「同じ断(ことわり)」の音読。ほかと同じであること。前と同じであること。

(116-7)「参府(さんぷ)」:江戸時代、大名などが江戸へ参勤したこと。また、一般に江戸へ出ること。出府。

 *「府」:国家が文書または財物を収蔵する場所。くら。「秘府(ひふ)=宮中の書庫」、「内府(だいふ)=宮中の金庫」。

  **「府」は、文書や財物を収蔵し、「倉」「庫」は、兵車や武器を収蔵、「蔵」は、穀物を収蔵するところ。

(116-8)「一統(いっとう)」:総体。一同。

(117-2)「ウス場所(ばしょ)」:現在の有珠うす湾を中心に開かれた近世の場所(持場)名。

一六一三年慶長18(1613)に松前藩主松前慶広がウス善光寺を再建したといわれ(新

羅之記録)、その頃には開設されていたという(伊達町史)。往古の境界は、西側はウコソ

ンコウシ(現在の北有珠町付近)をもってアブタ場所に、東側はヘケレヲタ川(現室蘭市

陣屋町付近)をもってヱトモ場所に接していたが、一八〇〇―一八一〇年代にモロラン

会所(現室蘭市崎守町)が新設されてから、チマイヘツ川(現在の伊達市・室蘭市境のチ

マイベツ川)をもってモロラン場所に接していた(場所境調書)。

「ウス場所」は新井田浅次郎の給地で、運上金七〇両、場所請負人は箱館の浜屋兵右衛門

であった。当時の運上屋は一戸(蝦夷拾遺)。九一年(寛政三年)の「東蝦夷地道中記」

によれば、ウス場所は細見磯右衛門の給地で、請負人は箱館の覚左衛門、ウスに運上屋が

あり、ヲサルベツ、ツバイベツの家数は二軒ほどであった。

寛政11(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄地とし、場所請負制を廃止して直捌としたため、

運上屋は会所と改められた。

(117-3)「下乗(げしょう)」:寺社の境内や城内などに車馬を乗り入れることを禁じること。

(117-5)「ウス牧場(まきば)」:文化2(1805)、箱館奉行は蝦夷地初の牧場経営を行ない、アブタ・ウスに牧場を開設した。戸川は、種馬三頭の下付を受けて、南部藩からの献上された馬で、牝馬四頭、購入牝馬五頭とともに放牧、順次繁殖などで増やした。文政5(1822)の記録では、2553頭に達した。なお、この年の有珠山噴火で多くの馬が斃死(へいし)した。

(117-7)「六ヶ場所(ろっかばしょ)」:『北海道史附録年表』(河野常吉編)には、

<享和元年(1801年)「是歳(このとし)幕府、六箇場所『小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追』の地、和人の居住するもの多きを以て村並となし、山越内を華夷(かい)の境界となす」と記述されており、地名も漢字で表記されている。これらの記録から『箱館六ケ場所の村並化は1800年、寛政12年に決定し、翌年、1801年、享和元年に、いわゆる公布・施行』されたものと推定される。>とある。

(117-8)「御構(おかまえ)」:立ち入ることを禁じること。重い追放ほどその範囲は広くなった。御構場。御構場所。

(117-8)「永々之御暇(ながながのおいとま)」:主従などの関係を絶ちきって去らせること。

(118-4)「当時(とうじ)」:現在。現今。

(118-7)「改(あらため)」:調べただすこと。江戸時代、公儀の役人が罪科の有無、罪人・違反者の有無などを吟味し取り調べること。取り調べ。吟味。

(118-8)「法度(はっと)」:法として禁ずること。禁令。禁制。さしとめ。

 *「法度(はっと)」の読みは、「ほうと」の旧仮名遣い「はふと」の促音化した形。

(118-8)「触出(ふれだし)」:触れを出すこと。

(118-10)「手鎖(てじょう・てぐさり)」:江戸時代、刑具の一種、またこれを用いて庶民にのみ科した軽罪の一種。「てぐさり」ともいう。手鎖は鉄製瓢箪型の金具であって、両手を前に組ませてこれをはめ、小穴に錠をかけ紙で封印する。適用実例としては百姓・町人が筋違いの願事をなした場合、不届きとされ、そのお咎として申し付けられる場合が多く、時として不義密通の女や、博奕の自訴、山東京伝の洒落本、為永春水の『春色梅児誉美』などのごとく風俗紊乱の書物を著わしたお咎として科される場合にもみられる。手鎖は「過怠手鎖」と「吟味中手鎖」とに大別される。過怠手鎖はさらに、過料に代えて入牢させ、牢内で執行するものと、自宅・親族などの私宅・宿預・町預のうえ手鎖を付着、謹慎させるものとに区別される。いずれにせよ過怠手鎖は咎の軽重により一定期間(三十日・五十日・百日)手鎖が施されるもので、『公事方御定書』に、「其掛りニ而手鎖懸、封印付、五日目切ニ封印改、百日手鎖之分ハ隔日封印改」とあるように、三十日、五十日手鎖は五日ごとに「錠改め」と呼ぶ定期検査を行い、百日手鎖は一日置きに検査が繰り返された。牢内ではその掛が改め、町預など牢以外の所での手鎖は監視役の町奉行所配下同心・町役人・大家がこれを改めた。自宅での手鎖などは「せっちんでかかあどのやと手じょう呼び」との古川柳が物語るように、日常雑事・用便に至るまで手がかかり、無事期限がくれば、「両の手を出して大屋へ礼に来る」と、御礼参りも慣習的な作法の一つであった。

 *「てじょう」は、「手錠」だが、「手鎖」を「てじょう」と詠むのは当て字。

(118-11)「七日(なのか・なぬか)」:ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』のほちゅうには、<現代東京語では「なのか」が優勢だが、「なぬか」の例は奈良・平安・鎌倉時代に多数見られ、現代でも関西で多用される。「なのか」の確例に乏しいのは、これが東日本で生まれた新しい形だからか。江戸の人であった滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」には「なのか」の例が多い。>とある。

(118-11119-1)「急度御叱(きっとおしかり)」:江戸幕府の刑罰。幕府法上最も軽いものが叱責の刑であって、それには急度叱と叱の重軽二種があった。庶民だけではなく、下級武士にも適用された。白洲で奉行ら裁判の責任者が判決にあたって罪状を述べたあと「急度叱」、あるいは「急度叱置(しかりおく)」と言い渡すだけである。このような刑罰でも、幕府が士庶の身分的挙動の適否を随時公示するために意味があったし、これを受けた者は居住地域の知人らに対し公然と面目を失うことに苦痛があり、むしろ名誉刑の機能をもった。

(119-1)「三貫文(さんかんもん)」:「貫」は、計銭の単位。銭一千文を一貫と称するが、その由来は一文銭千枚を一条の緡(さし)に貫いて一結としたことにあるという。また一貫を一〆と記すことが多いが、これも一結すなわち一しめ、からきたもののようである。

(119-1)「過料(かりょう)」:中世から近世に行われた財産刑の一種。主刑として経済的負担を課することは律令制の衰退以後に始まる。過怠と称して寺社の修理などを命じたり財物や銭貨を徴したが、ことに銭貨を徴することを過怠銭・過銭・過料などと称した。享保三年に過料刑の体系は整備された。『公事方御定書』は御仕置仕形之事に同年極として「過料、三貫文、五貫文、但、重キハ拾貫文又ハ弐拾両三拾両、其者之身上に随ひ、或村高に応し員数相定、三日之内為納候、尤至而軽キ身上ニ而過料差出かたきものハ手鎖」との箇条をおいている。これらの過料刑は広汎に適用され江戸幕府刑法では博奕その他軽罪に対する主要な刑罰であった。さらに御定書以降もある犯罪に対する従来の刑罰を過料刑に変えた例もかなりあり、過料刑が刑罰に占める位置はいよいよ大きくなった。

(119-4)「御役所限(おやくしょぎり)」:「限(きり・ぎり)」は、「限る」意の名詞から転じたもの。「ぎり」とも。体言またはそれに準ずる語に付いて、それに限る意を表わす。

「…かぎり」「…だけ」の意。

(119-5)「披露(ひろう)」:公表。

12月 町吟味役中日記注記

        
(106-23)「揚屋入(あがりやいり)」:揚屋に入牢させること。また、入牢させられること。

 「揚屋(あがりや)」は、牢屋。本来は、江戸時代、江戸小伝馬町(東京都中央区日本橋)の牢屋敷内にあった牢房の称。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

 *「揚屋」を「あげや」という場合は、近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。大坂では明治まで続いたが、江戸吉原では宝暦10年(1760)頃になくなり、以後揚屋町の名だけ残った。「揚屋入(あげやいり)」は、遊女が客に呼ばれて遊女屋から揚屋に行くこと。また、その儀式。前帯、裲襠(うちかけ)の盛装に、高下駄をはき、八文字を踏み、若い衆、引舟、禿(かむろ)などを従え、華美な行列で練り歩いた。おいらん道中。

(106-5)「日光海道」:日光街道。東京から宇都宮市を経て日光市に至る道路。江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として、千住から宇都宮までの一七宿は奥州街道と同じ道を通り、宇都宮から分かれて徳次良・大沢・今市・鉢石を経由して日光に至る。日光道中。宇都宮までは奥州街道と共用。

(106-5)「海道」:①海上の航路。海路。船路(ふなじ)。②海沿いの道。海沿いの諸地方に通ずる道。また、その道に沿った地域。③街道に同じ。④特に、東海道をいう。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)古くは①を表わすには「海路」が多く使われ、「海道」は主として(2)の意だった。中世、「保元物語」などの軍記物語に頻出する「海道」は④である。

(2)中央から見てその区画の最遠方に至る路線上に海路が含まれる場合、その行政区画ばかりでなく、路線もまた「…海道」と呼ばれた。中世以降、鎌倉─京都の往還が最重要路線となったため、「海道」といえば東海道を指すようになった。④の挙例「平家物語」の「海道宿々の」はその意だが、次第に固有名詞という意識が薄くなり、人通りの多い〈主要道〉という一般名詞③が確立した。

(3)これに基づいて「日光海道」「甲州海道」などの名付けが行なわれたが、これらが海から遠いため、今度は「海」字が不適当と意識されるようになり、「街道」と書かれるようになった。

(4) 「海道」「街道」の表記については、「諺草」が「今俗に陸路を海道と云はあしし。街道といはんが然らん」と論じ、それを挙例の「俚言集覧」が論評していることや古辞書類に「街道」が見えないこと等から、漢籍からの借用というよりは、書き換えによって出現した表記とするのが妥当と思われる。

(5)近世に入ると「街道」の表記が目立つようになるが、次第に「海道」とは同音異(義)語として意識されるようになったものである。

(106-5)「房川(ぼうせん)」:日光道中栗橋宿と中田宿(現茨城県古河市)とを結ぶ利根川の渡船場で、栗橋関所とともに日光道中のなかでも重視されていた交通の要衝であった。呼称の由来は栗橋宿の常薫寺が法華坊と称すことからその坊前の渡の意であるといい(風土記稿)、また中田宿の円光寺が玉泉坊といった頃、坊下の川を坊川とよんだという説、当時この辺りの流れが房状に膨らんでおり、房川(ふさがわ)渡が音読みされたという説もある。「郡村誌」は「ばうかはわたし」と読む。中田渡ともよぶ。

(107-2)「抱子(かかえこ・かかえっこ)」:置屋などでかかえている芸娼妓。

(107-2)「酌取奉公(しゃくとりぼうこう)」:宴席に出てお酌をする勤め。

(107-3)「受判(うけはん)」:請判。契約当事者の債務や身元を保証するために保証人が押す判。また、保証人となって判を押すこと。請けあいの判。

(107-4)「口書(くちがき)」:江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(107-6)<くずし字>「伺之節」の「節」:全体に、縦長になる場合があり、特に、脚部の「即」の最終画の縦棒が極端に伸びる場合がある。

(107-7)「訳合(わけあい)」:ことの筋道。理由や事情。訳柄。

(107-7)「口達(くたつ)」:書面でなく、口頭で法令や命令などを伝達すること。

(108-1)「加州」:加賀国(石川県南部)の別称。賀州とも。ただし、「伊賀」が「賀州」ということが多いので、「加賀」は、「加州」という場合が多い。影印の「州」は、異体字の省略体。

 *ほかに、旧字体「澁」の旁の草体(略体)「渋」は、常用漢字に「昇格」した。

(108-1)「橋立(はしたて)」:現石川県加賀市橋立町。江戸後期から明治中期にかけて活躍した北前船の船主や船頭が多く居住した集落。船主数は享和元年(1801)四六人、文化6年(1806)四九人、文政10年(1827)二七人。有力な船主には久保彦兵衛・西出孫左衛門・酒谷長兵衛らがあり、藩の財政改革にも積極的に協力した。現在、国指定の重要伝統的建造物群保存地区に指定されれいる。保存地区には往時の様子を伝える船主屋敷が起伏に富む地形に展開しており、敷石や石垣には淡緑青色の笏谷石(しゃくだにいし)が使われ、集落に柔らかな質感を与えている。

(108-2)「入津(にゅうしん・にゅうつ)」:船が河海の津(港)にはいること。入港。

(108-3)「深浦(ふかうら)」:現青森県西津軽郡深浦町。県最西端にある日本海に臨む港町。中世には西浜と称され、安藤氏の支配下にあった。近世には弘前藩領。

(108-4)「小箪笥(こだんす)」:小さい箪笥。「箪笥」は、

 (1)中国では、竹または葦で作られた、飯食を盛るための器のことを「箪」「笥」といい、丸いものが「箪」、四角いものが「笥」であった。

(2)日本における「箪笥」の初期の形態がどのようなものであったか知ることはできないが、「書言字考節用集‐七」には「本朝俗謂書為箪笥」とあり、近世初期には書籍の収納に用いられていたようである。

(3)その後、材質も竹から木になり、「曲亭雑記」によれば、寛永頃から桐の木を用いた引き出しなどのある「箪笥」が現われ、衣類の収納にも用いられるようになり、一般に普及していったという。

(108-6)「錠前(じょうまえ)」:「錠」は「鎖(ジョウ)」の当て字。「ジョウマエ」は、重箱読み。戸などにとりつけて、開かないようにする金具。なお「前」は接尾語で、その属性、機能を強調していう。「腕前」「男前」など。

(108-6)「小松前」:現松前町字松城。松前城下の一町。小松前の地名について上原熊次郎は「夷語ポンマツナイなり。即、妾の沢又は小サき女の沢と訳す。ポンとは小イと申事。マツは婦人の事なり」「妾の事をポンマツと云ふ」と記し、続けて「則此沢に妾の住けるゆへに此名ありと云ふ」とする。福山城の南側、大松前川と小松前川に挟まれた海岸沿いの地域。沖之口役所があり、有力商人が軒を並べる城下の中心であった。

(108-8)「弐分金」:江戸時代の金貨の一種。二分判ともいう。四分で一両だから、二分金は一両の半分。文政元年(一八一八)にはじめて鋳造された。同十一年品位の異なる二分金が作られたが、貨幣の背に刻された紀年の「文」の字が、前者は楷書、後者は草書であったため、それぞれ、真文二分金(判)、草文二分金(判)とよばれた。その後も、安政三年(一八五六)、万延元年(一八六〇)、明治元年(一八六八)に鋳造されており、それらの通用期間・量目・品位・鋳造高は別表のとおりである。草文二分金以後のものが、当時の小判に比し、品位が低かったのは、一つには改鋳益金(出目(でめ))を得るためであったが、安政以降は、外国との通商が開けたために、不利な条件で金が海外に流出するのを防ぐ意味もあった。しかし幣制に統一を欠き、金銀比価が均衡を失していたために、その目的は達せられなかったが、国内では良貨が退蔵され、二分金が大量に流通した。さらに明治元年から二年までに、二百万両に近い劣悪な二分金が維新政府の手で鋳造された上に、多量の贋貨も市中に出廻ったため、明治初年には二分金が主要な通貨として用いられた。また明治七年に旧貨幣の価格を定めたとき、二分金二枚=一両の価値が算定の基準とされた。

(108-8)「浅黄木綿(あさぎもめん)」:木綿織物の一つ。経(たていと)、緯(よこいと)ともにあさぎ色に染めた糸を使って平織りにした無地の木綿。多くは裏地用に用いる。

(108-8)「肌附(はだつき)」:肌着(はだぎ)。

 *「肌付金(はだつけがね・はだつきがね)」:肌身はなさず持っている金銭。肌につけて大切にしている金。所持金。はだつきがね。

**浮世草子・好色五人女〔1686〕四・三「殊更見せまじき物は道中の肌付金(ハタツケカネ)」

(109-9)「壱朱金」:江戸時代の金貨幣。一両の十六分の一、一分の四分の一に相当する正方形の金貨。品位きわめて悪く、形も小さく、取り扱いが不便で、俗に「小二朱」とも呼んだ一朱の金貨としては、文政期改鋳の一環として、文政七年(一八二四)に発行した一種があるのみ。一個の重さは〇・三七五匁(一・四一グラム)という軽量である上に、規定の品位は三百六十五匁、江戸時代を通じて無類の悪弊であった。通用開始は七月二日と布告されているが、大坂では、七月二十一日から鴻池善右衛門・米屋平右衛門ら十五軒組合の両替屋たちが、二朱金一万五百両を預って引替えにあたった。しかし上方での評判はいたって悪く、主として古二朱銀と引き替えた高は、九月十六日現在で、ようやくにして二千両余。以後、大坂へ一朱金を差し登せることは御免ねがいたいと訴えるほどであった。それにしても、天保四年(一八三三)七月までの発行量は二百九十二万両に達した。

(108-11)「金高(かねだか・きんだか)」:金銭を合計した額。金額。

(109-1)「南鐐銀(なんりょうぎん)」:二朱銀の異称。八枚をもって金一両とする「金代り通用の銀」。つまり、二枚で一分、八枚で一両に当たる。南挺。江戸時代、安永元年(一七七二)以後鋳造された。「鐐」は白銀の美しいものの意。純分比百分の九十八という良質の銀(上銀)を素材としているので南鐐と呼ばれた。なお、幕府は、南鐐一朱銀(文政一朱銀)を鋳造、7月より通用開始した。

*P108・8行~P109・1行の計算

 ①「弐分金拾両」:4分で1両だから、「弐分金」は2枚で4分=1両。

   10両=2分金×10=20枚(2分金換算)

 ②「壱朱金三両」:1朱は、1両の16分の1。3両は16×3=48枚(1朱金換算)

 ③「南鐐銀二両」:(イ)「南鐐銀」は通常、2朱銀だから、2枚で1分。8枚で4分=1両。二両は16枚。(ロ)南鐐一朱銀の場合は、(イ)の2倍で32枚。

(109-3)「猿(さる)」:扉(とびら)や雨戸の戸締まりをするために、上下、あるいは横にすべらせ、周囲の材の穴に差し込む木、あるいは金物。戸の上部に差し込むものを上猿(あげざる)、下の框(かまち)に差し込むものを落猿(おとしざる)、横に差し込むものを横猿という。(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』』)

 *以下、出村道昭氏(6班)のコメント

  「猿」は、一般的に雨戸の戸締り用に使用する。仕掛けについては、「上げ猿」「落し猿」「横猿」があり、それを固定するための「寄せ猿(または、送り猿とも)」がセットになっている。

 『吟味役中日記』の「表入口戸猿外より錐にて明」の読み方だが、

   「表入口戸、猿、外より錐にて明」と読んでも

    「表入口、戸猿、外より錐にて明」と読んでも意味には違いがない。

  しかし、①の「猿」のみの単独表現では、ぎこちない言葉遣いではないか。「猿」は、雨戸に使用するのが一般的であり、「上げ猿」「落し猿」「横猿」の仕掛の総称の呼び方として「戸猿」(雨戸の猿の意)という方が素直な呼び方ではないか。

(110-4)<くずし字>「其旨共」の「共」:脚部の「八」の左払いが省略される場合が多い。

(110-7)「不包(つつまず)」:かくさず。「包む」は、表面にあらわさないで心の中にかくす。心にひめる。涙をこらえることにもいう。

(112-5)「内証(ないしょう)」:影印の「証」は旧字体の「證」。人に知らせないこと。あら

 わにしないこと。

(112-6)「取〆り(とりしまり)」:「〆」は、国字。「封」の草体の極端な省略とする。ここでは「締」の略として使われている。

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