森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

町吟味役中日記

2月町吟味役中日記 注記

(47-2)「某(それがし)」・・ここでは、自称。他称から自称に転用されたもの。もっぱら男性が謙遜して用い、後には主として武士が威厳をもって用いた。わたくし。

 なお、他称に用いる場合も多く、「なにがし」と読む。名の不明な人・事物をばくぜんとさし示す。また、故意に名を伏せたり、名を明示する必要のない場合にも用いる。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注には、

 <「それがし」が自称にも用いられはじめたのは、「なにがし」の場合よりやや遅い>

 とある。

 *「某彼某(それがし‐かれがし・それがし-かがし)」・・他称。名がわからない、または、はっきり示さない場合、二人以上の人をさしていう。だれだれ。なにがしかにがし。それがしかがし。それがしそれがし。それかれ。

 *「某某(それがし-それがし)・・「それがしかれがし(某彼某)」に同じ。

 *「其此(それこれ)」・・他称。数多くの人や事物をさし示す。あれやこれや。

 *「其彼(それかれ)」・・他称。二人以上の名をそれと明示しないでいう語。

(47-2)<くずし字>「問合(といあわせ)」の「問」・・門構えが、「つ」のようになる。テキスト影印は、極端な「一」。なお。「問」の部首は、門構えでなく、「口」部。

(47-3)「申付(もうしつく)」・・ここは、終止形と見て、下二段動詞「もうしつく」。現代用語では、「付(つ)く」は、「付(つ)ける」。

(47-2)「申渡」・(47-3)「申付」・・「申」の5画目が長く、「申し」と「し」があるように見えるが、古文書では、「申(もうし)」には、「し」の送り仮名は、ほとんど付けない。

 「申入」「申上」「申候」「申立」「申遣」「申越」

(47-7)「乗馬(じょうば・のりうま)」・・乗るために用いる馬。

(47-78)「御側頭(おそばがしら)」・・藩主の側近職の奥用人支配下の役職。なお、勝馬自身、嘉永元年(1848)48日から同3(1850)7月まで、御側頭になり、そして、『御側頭御役中御用手控』、『番日記』(いずれも北海道大学附属図書館蔵)を残している。『番日記』は、嘉永3(1850)77日で終っている。「奥平履歴」にある「病気差重、存命無覚束候ニ付、御役御免奉願」は、この時期か。勝馬は、この年112日、没した。

(47-8)「依而(よって・よりて)」・・動詞「よる(寄)」の連用形に助詞「て」の付いてできた語。漢文の訓読から生じた。前の事柄が原因・理由になって、後の事柄が起こることを示す。だから。故に。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、

 <(「よって」の)出現時期については、読み仮名・送り仮名が無い場合の「因」「依」「仍」を「よりて」「よって」のどちらに読むのか断定できないため、鎌倉時代初頭頃までさかのぼる可能性がある。>

 とある。

(47-8)「其刻(そのきざみ)」・・その時。その当日。そのおり。

*文明本節用集〔室町中〕「其刻 ソノキザミ」

(48-3)四ツ半時」・・午前11時頃。

(48-3)<欠字>「登城」・・「登」と「城」の間の空白は、尊敬の体裁の欠字。

 *多く使用される欠字・・①尊敬の動詞の前「被 仰付(おおせつけられ)」「被 申(もうされ)」「被 召(めされ)」「被 成(なられ)」「被 下(くだされ)」「被 達(たっせられ)

  ②「御」、「公」

  ③テキストのような「城」の前の欠字

(48-5)「下(さが)ル」・・目上の人や客などのいる前などから退く。退出する。

(48-6)「夕七ツ半」夕七ツ半

(48-8)「大塚伴博」・・P38は、「大塚伴亮」としている。

(48-9)「案内」・・事情、様子などを知らせること。しらせ。中古のかな文では、撥音「ん」を表記しないで「あない」と書くことが多い。本来、「案」は文書の写し、および下書きをいい、「案内」は案の内容を意味した。平安時代以後、内情、事情その他の意に転じて用いられている。漢語本来の意味としては「事件の内に・一件中に」などを指すが、日本では、上代・中古の格(律令を執行するための臨時の法令)、符(上級官司から下級官司に出す命令文書)等の古文書、記録、日記類の漢文あるいは変体漢文に盛んに用いられ、日本語として独自の意味をもつようになったもの。

(48-9)「相詰ル」・・「相(あい)」は接頭語。

    「詰ル」は、古文では、下二段活用「詰む」の連体形とすると、「詰(ツム)ル」で、連体止め。

    現代文法では、下一段活用の終止形で、「詰(つめ)ル」。

(49-2)(49-7)<くずし字>「いたし候」・・連綿体。行草書や、かなの各文字の間が切れないでつらなって書かれたもの。

(49-3)「知内村」・・上磯郡知内町。近世から明治39年(1906)までの村。北は木古内い村(現木古内町)、南は小谷石村(現知内町のうち)。

(49-6)「下役(したやく)」・・町奉行の吟味役配下の役職。本テキストは「吟味下役」(P37)としている。永田富智著「松前藩の職制についてー変遷とその特色―」(新北海道史編集機関誌『新しい道史 第11号』1965)には「下吟味役」とある。

(49-6)「梅沢由右衛門」・・松前藩町奉行配下の吟味下役。

(50-2)「古田八平」・・『松前藩士名前控』に、新組足軽として名がある。

(50-2)「岡田作兵衛」・・『松前藩士名前控』に、足軽並として名がある。

(50-3)「下着(げちゃく)」・・都から地方へくだり、その目的地に着くこと。

(50-3)「恐悦(きょうえつ)」・・ひどく喜ぶこと。

(50-4)「小川永郎」・・「栄郎」は「永節」か。小川永節は、松前藩医。

(50-5) <くずし字>「處」・・影印は、「処」の旧字体「處」。「人」のように見える最終画の「ノ」は、「虍」(とらがしら)の4画目の左払いの「ノ」。

 *<漢字の話>「処」の部首は「几」(きにょう・つくえ・かぜかんむり)

   「几繞(きにょう)」ともいうが、実際に「繞(にょう)」の位置にくる文字はない。

   「鬼繞(きにょう)」と同じ読みになりまぎらわしい。

   「几(つくえ)」を音符として、つくえの意味を含む文字ができるが、例は少ない。

   「かぜかんむり」ともいうが、9画の部首「風」があり、これまたまぎらわしい。

(50-6)「差下(さしくだ)シ」・・「差し下す」の連体形。「さし」は接頭語。下の方へ動かす。下方へ移動させる。ここでは、江戸から松前に帰着すること。

(50-6)「当着」・・「当」は、「到」の当て字で、「到着」か。

(51-5)「侍座(じざ)」・・貴人や客など上位の人のおそばにすわること。

(51-8)「柏屋利兵衛」・・「柏屋」は、場所請負人藤野四郎兵衛の屋号。商標は又十。「利兵衛」は、「喜兵衛」か。藤野嘉兵衛(柏屋)は、藤野四郎兵衛の松前における営業名。代々喜兵衛を以て営業した。近江国愛知(えち)郡日枝(ひえ)村(現滋賀県犬上郡豊郷町)出身の近江商人。

(51-9)「萬屋増蔵」・・「萬屋」屋号。商標は、山十。場所請負人宮川増蔵。藤野の義兄にあたる。

(52-1)「抱女(かかえおんな)」・・芸娼妓や茶屋女で、年季契約などでかかえられた者。かかえ。

(52-45)「可相成(あいなるべく)」・・「あい」は接頭語。「なるべく」は、動詞「なる(成)」の終止形に、可能の助動詞「べし」の連用形が付いてできた語。もしできるなら。なるべくは。

(52-2)「相対死(あいたいじに)」・・心中、情死のこと。心中が、近松などの戯曲により著しく美化され、元祿頃から流行する傾向にあって、風俗退廃の大きな原因となったため、八代将軍吉宗が心中に代えて使わせた語。

 *心中・・もともと心中とは心の誠ということで、「心中立て」はこの意味の語である。、心の中の誠を具体的に表現する必要から、放爪(ほうそう)、断髪、切指(指を切り落とすこと)、貫肉(股(もも)などを刃物で突くこと)など身体の一部を傷つけたり、切り取って相手に渡したり、または互いの名をいれずみしたりする風習がおこり、これらの手段を心中というようになった。このなかで互いの生命を賭(か)ける心中死は、心中の極致と考えられ、やがて心中は心中死(情死)を意味するに至った。この変化は、およそ元禄(16881704)前後のことと考えられるが、ちょうどそのころ京坂を中心に情死が多発している。情死事件が起こるとすぐに読売り祭文や近松の浄瑠璃につくられ、それがまた次の情死の誘因ともなった。情死者が斬新な死の手段を考えたことは、明らかに自分たちの死の効果を予想したものであった。

  この風潮に対して、江戸幕府は享保7(1722)に心中死の取締り規則を定め、公式には相対死(あいたいじに)と称するようにした。その罰則は、情死者の死骸取捨て、未遂者の非人扱い、また1人が死亡のときは相手は死刑、さらに、主従関係(主人側は軽い)や男女(女は軽罪)の差異が認められた。

(52-6) <くずし字>「今」・・ひらがなの「て」のようになることがある。

 ここの「今」は、副詞で、「さらに。その上に。あと。もう。」の意味。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 <古くは、挙例「万葉」「古今」の「今二日」「今いくか(幾日)」も、この現在の瞬間に連続する同質時間としての二日・幾日といった意味であったと考えられ、挙例「土左日記」の「いまひといろ(一色)ぞたらぬ」も、現在のこの状況(「いま」)においては、五色には一色足りないという意味で使われていたものととらえられる。>とある。

 *「いま一息(ひといき)」・・もう少し。あとちょっと。

 *「いまひとつ」‥もう一つ。更にもう少し

 *「いま一度(ひとたび・いちど)」・・もういちど。もういっぺん。今いちど。

  **「小倉山峯のもみぢば心あらば今ひとたびの御幸またなむ〈藤原忠平〉」(『拾遺和歌集』

1月学習 町吟味役中日記 注記 

(41-4)「引合(ひきあい)」・・かかわり合い。共犯者。

(41-4)「御仕置(おしおき)」・・処罰。処分。この語は、江戸幕府の法令整備(「公事方御定書」など)が進むなかで、権力による支配のための采配の意から刑罰とその執行の意に移行した。文化元年(1804)以降に順次編集された「御仕置例類集」は幕府の刑事判例集の集大成であるが、それに先立って「御仕置裁許帳」が幕府最初のまとまった刑事判例集として、宝永期(170411)までに成っていたとみられる。

(41-7)「及部(およべ)村」・・現松前郡松前町字朝日・字東山・字上川。近世の一時期存在した松前城下東在の村。松前湾に注ぐ河川のなかで最大の及部川の河口部と流域に位置する。同川は城下に最も近い鮭漁ができる川である。

   天明元年(1781)の松前広長「松前志」には及部村として「旧記及を覃につくれり、二村あり」とみえ、天明期までには二村に分離されたようである。なおこれ以降も下及部村を及部村と称することがあった。

(41-7)「初鱒(はつます)」・・「鱒」は、サケ目サケ科の魚類のうち「マス」と名のつく種類のものの俗称。多くはサクラマスをいうが、ベニマスとその陸封型のヒメマス、マスノスケ、ビワマス、カワマスなどの略称としても用いられる。

サケは秋に川を遡るが、サクラマスやサツキマスはその名が示す通り春~初夏に川を遡る。この遡上時期の差が本来のサケとマスの区別点となる。 サケもマスも産卵期は秋だが、春に遡上するマスは川で餌をとりながらゆっくりと上流に向うので、川で餌をとらないサケと違って身に脂がのって美味い。サクラマスやサツキマスが遡上する川では、初夏の御馳走として喜ばれる。

(41-7)「在方掛(ざいかたかか)り」・・松前藩町奉行配下の役職。

(41-8)「杦田留平」・・「杦」の字について、『新漢語林』は「国字」とし、「杉の旁の彡を書写体に従って久に改めたもの」とある。

   なお、板橋正樹著「幕末松前藩の警察下僚組織について(1)」(『松前藩と松前―松前町史研究紀要―20号』松前町史編集室刊 1958 所収)には、「杉田留兵衛」とある。

(42-1)「当賀(とうが)」・・松前藩では、表御殿での領主への拝謁が、毎月1日、15日に行われた。

(42-2)「御祝儀(ごしゅうぎ)」・・お祝いの挨拶。「しゅう」は「祝」の漢音。なお、「しゅく」は唐音。

(42-3)「野口屋又蔵」・・場所請負人。白老などを請負った。場所請負人。初代又蔵は、天明元年(1781)陸奥国北郡大畑村に生まれる。寛政年間、家兄に従い福山に来る。栖原角兵衛の店員となり、のち独立。文政10年(1827)、白老場所請負人となる。代々又蔵の名を継ぎ、屋号を(まるまた)と称し、4代まで白老の請負を継続した。なお野口屋は天保12(1841)以降シラヲイ場所の請負人を勤め、漁場経営のほか下宿所・人馬継立・書状継立・異変通報・備米管理・アイヌ介抱などの任にもあたり、明治2(1869)の場所請負制廃止や陸奥一関藩の分領支配を経たのちの同5(1873)以降も一時期白老郡漁場持となっている。

(42-4)<くずし字。「畢而(おわりて)」・・テキスト影印は「畢」の異体字。

(42-6)「蛯子七左衛門」・・箱館の町年寄。

(42-7)「伊藤清三郎」・・町年寄末席並名主締方(箱館詰)

(42-8)「和賀屋宇右衛門」・・箱館在住の場所請負人。有珠、三石、根室など

を請負った。

(43-2)「小林屋重吉」・・文政8(1825)1月箱館に生れる。幼名を庄五郎と言った。5代の祖庄兵衛は陸奥国北郡大畑村の人で、寛政年間松前に渡り、その子半次郎の時箱館に転住した。半次郎の子寅五郎は、文政年間東蝦夷地三石場所請負人となった。安政年間今の大野町に新田20町歩を開発し、また赤川にあすなろや杉を植林した。文久2(1862)私費をもって願乗寺川に鳥見橋を架け、後架け換えの時用材23石を寄附した。明治元年町年寄を命じられ、また箱館戦争で旧幕府脱走軍が港内に敷設した鋼索を自己所有の船を使用して排除した。更に箱館山裏の寒川から新政府軍を誘導して奇襲を成功させ、勝利の一端を担った。これによって後々まで官の信用を得た。またこの年、蛯子友輔が函館山の上より水道を開掘したが、資金が尽きて中止したのを自費1,600円を投じて工事を遂行し、汐見町、元町、会所町に清水を供給した。

    重吉はまた漁具、漁網改良を試み、三石郡姨布村に刻み昆布の製造所を設立し、清国(中国)への昆布輸出の基礎をつくり三石昆布として全国的に有名になった。明治14(1881)9月東川町に移転し、益々その業を盛んにした。その他学校、病院の設立、橋梁の架設、窮民の救済等枚挙にいとまがなかった。明治3643078歳で歿した。

(43-3)「林七郎兵衛」・・箱館の商人。松前藩の御雇船主。

(43-8)「若殿様、御水痘(すいとう)」・・「若殿様」は、8歳の良広(のち松前藩10代藩主)良広は、文政9(1826)523日生まれ。松前見広(ちかひろ。9代章広の次男)の子。「若殿様」とあるが、この時期、良広の父・見広はすでに他界し、祖父章広の嫡孫(承祖者)だった。祖父章広ののあと,天保5(1834)12月、9歳で松前藩主10代となる。病弱のため、同族の旗本松前広茂(ひろしげ)が藩政を担当。天保10(1839)824日死去。享年14

   「水痘」は、水痘ウイルスによって起こる感染症。みずぼうそう。

*松前藩10代松前良広を中心にして、時系列に、松前藩の系譜を見る。

章広(あきひろ)、9代藩主襲封。寛政4(1792)10月就任。

 ・寛政10(1798)、長男慶之助(よしのすけ)を嫡子とする。

  ・享和3(1803)長男慶之助、死亡。10歳。

  ・同年、次男誠之介(のち見広=ちかひろ=)を嫡子とする。

  ・文政6(1823)5月、見広に長男隆之介(のち10代良広=よしひろ=)生まれる。

  ・文政10(1827)7月、見広、死去。23歳。

  ・文政10(1827)8月、見広の次男準次郎(のち11代昌広=まさひろ=)生まれる。

  ・同年、良広、祖父章広(9代藩主)の嫡孫(承祖者)を許可される。

 ○天保3(1832)4月、テキスト・奥平勝馬の「町吟味役中日記」

    「若殿様(良広=9代章広の孫)、御水痘ニ被為在」

  ・天保4(1833)7月、9代章広死去59歳。死去の公表は、翌5(1834)9月。

  ・松前藩、対応策に奔走、同族の旗本松前広茂を藩主名代とし、許可される。

 ○良広、9歳で、10代藩主襲封。天保5(1834)12月。

  ・良広、病弱(『松前町史』には、精神病説も記載)で、将軍への家督御礼の拝謁もできなかった。藩では、新たな善後策を講じる必要を迫られ、名代広茂の在国延長を再三願い出る。

  ・天保10(1839)7月、準次郎(のち、11代昌広)、兄10代藩主良広(14)の嗣子となる。松前藩、領主権の危機を脱する。

  ・天保10(1839)8月、良広死去。14歳。

 ○昌広、13歳で、11代藩主となる。天保10(1839)10

*テキストの天保3(1832)は、松前藩にとって、嫡子(章広の長男・慶之助、次男・見

広の早逝、藩主章広の高齢化、嫡孫良広の病弱という中で、前途に暗雲が立ち込めてい

た時期であった。

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12月学習 町吟味役中日記 注記

(35-3)「無念(ぶねん)」・・不念(ぶねん)に同じ。江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。

(35-7)「馬形東新町(まかどひがししんまち)」・・現松前郡松前町字豊岡豊岡。近世は松前城下の一町。東片(ひがしかた)町、馬形新町とも称された。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の東部の南側に位置し、西は東上町。文化頃の松前分間絵図には「東新町又片町トモ申」と記され、松前大膳邸などがある。

(35-12)<変体仮名>「もの」の「も」・・字母は、「毛」。「毛」の横画は3画ある。現在のひらがなの横は2画だが、古文書のくずし字は横3画の名残を書くことがママある。

(35-14)「馬形端立町(まかどはたてまち)」・・現松前郡松前町字豊岡。近世は松前城下の一町。単に端立町ともいい、羽立はたて町とも称した。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の西側にあり、西方は袋町。当町を含む海岸段丘上の台地を「まかどの」「まがとの」と称し、馬形野観音が文安―宝徳年間(一四四四―五二)頃造立され、のち法華ほつけ寺西隣に移転したという。

(36-3) 「ヲコシリ島」・・奥尻島。菅江真澄は「於胡斯離」を当てている。、「蝦夷日誌」(二編)は「此処へ松前地の咎人は流罪に被仰付候由也。当時は十二、三人計居りけるよし」と流人の居住者があったことが記されている。武田信広がついたとされる地には字初松前(はつまつまえ)の地名が残る。

(36-3)「遠島(えんとう)」・・松前藩の流刑奥尻島遠島について、『松前町史』は、「越山と異なり復興期以降にしか明証を得ることができない」とし、その理由について「藩政初期から越山という松前藩独自の流刑が存在した」とある。遠島者は、「煎海鼠(なまこ)、白星鮑、昆布等の長崎御用俵物生産の労働を課せられていたこともほとんど疑いない」と述べている。なお、奥尻島遠島と類似している「奥尻場所請負人への身柄預け」という奥尻島への追放もあったことが記載されている。

(36-4)「中河原町(なかかわらまち)」・・現松前郡松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。中川原町とも記される。大松前川の下流左岸、川原町と蔵町との間の町。「蝦夷日誌」(一編)に「川原町のうしろ也。少しの町にして此処は妓楼と妓楼の小宿のミ也。(中略)妓楼ニ到らんもの此処に到りて案内を致させ、または此処ニ妓を呼巫山の夢を結ぶも有。(中略)他商売のもの絶てなし」と記される。これより少し前の天保14年(1843)の藩政改革に際して、茶屋渡世は蔵町と当町の二時刻が定められている。明治33(1900)福山町の一部となる。

(36-5)「大松前町(おおまつまえちょう)」・・現松前郡松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川の下流左岸に位置し、西は同川を挟んで小松前町、東は枝ヶ崎町。両町や唐津内町とともに城下の有力商人が店を構える町であった。大松前川河口は松前湊のうちでも最も澗口の広い船入澗で、おそらく福山館築城以前から重要な地域であったとみられる。松浦武四郎は町名について「法華寺の坂ニ松の有しより起るや」と記し、「昔しは此地海湾に而有りしが、当時は城下第一の繁華の地となりたり。請負人岡田等此所ニ住す。北は横町町会所に到る。南法華寺坂、枝ケ崎ニかゝり、西小松前川(町)ニ境ふ也」と続けている(「蝦夷日誌」一編)。明治33(1900)福山町の一部となる。

(36-13)「金子(きんす)」・・「す」は「子」の唐宋音。金子は金貨幣、銀子は銀貨幣のことで、江戸時代一般に広く用いられた語句であるが、金銀貨幣がようやく一部に流通され出した中世末期から始まるものである。しかし、のちには金子は金貨幣のことを示すのみでなく広く貨幣(おかね)全般のことに拡大されるに至った。なお銀子の語は江戸時代に銀貨幣が中心に動いていた関西で主として使われたものである。

(37-2)「座料(ざりょう)」・・座敷などを貸す料金。席料。

(37-10)「検使(けんし)」・・江戸時代に、一般的には現場の臨検ないしそれを行う役人の称呼。たとえば、刑罰としての武士の切腹や敲刑の執行などに立ち会う者を検使と呼んでいるが、狭義では変死・傷害・出水などに出張する検使をいう。

(38-2)「奥村栄晋(おくむらえいしん)」・・奥村英晋とも。松前藩医。御雇医師。

(38-6)「大塚伴□并藻寄恒齊」・・『蝦夷地醫家人字彙』には、「大塚伴博」「藻寄恒齊」の名がある。ふたりとも、天保3年(1832)、江差に旅人医師として居住しているとしている。

(39-3)「工藤茂五郎」・・『松前藩士名前控』に、「中之間御中小姓」として「工藤茂五郎」の名がある。

(39-5)「羽州温海(うしゅうあつみ)」・・「羽州」は出羽国。「温海」は、現山形県鶴岡市温海。温海岳の西方、日本海沿岸に位置し、地内の南を温海川が西流する。村名は川の中に湧出する温泉で海も温かくなったことに由来するという(温海郷土誌)。浜街道が

通り、その宿駅であった。

(39-6)「口書(くちがき)」・・江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(39-8)「光善寺」・・現松前郡松前町字松城。近世の松前城下寺てら町に所在。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると法幢ほうとう寺の南、龍雲りゆううん院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2二年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1603)(福山秘府)。元和7年(1621)五世良故が後水尾天皇に接見した折宸翰竪額ならびに綸旨を与えられたと伝え、これを機に松前藩主の菩提所の一つに列することになった。文化5年・天保9年(1838)の二度にわたる火災の都度再建(寺院沿革誌)。寺蔵の永代毎年千部経大法会回向帳によれば、永代供養のため五〇〇余人の城下檀信徒が加わっており、そのうちの約二〇〇人が商人であった。明治元年(1868)に正保2年(1645)から支院に列していた義経山欣求ごんぐ院を合併(寺院沿革誌)。同六年の一大漁民一揆である福山・檜山漁民騒動の際正行しようぎよう寺とともに一揆勢の結集の場となった。朱塗の山門・仁王門は宝暦2年(1752)の建立。

(39-8)「江指観音寺」・・現檜山郡江差町字泊町。字泊町にある真言宗寺院。山号白性山、本尊千手観音。嘉吉元年(1441)京都仁和寺真光院僧正の徒弟旭威が泊村に創建したと伝える(夏原家文書)。一時廃寺となったが、永正6年(1509)蠣崎光広の次男高広(剃髪し永快)が中興し、松前阿吽あうん寺の末になったという(江差町史)。しかし「福山秘府」では泊村観音寺は元和元年(1615)の草創、阿吽寺末とある。「蝦夷日誌」(二編)によると、当寺は蝦夷地太田山おおたさん(現大成町太田神社)の別当寺で、太田山に参詣する者は当寺でお札を受けたという。安政年間(一八五四―六〇)伽藍を焼失、その後再建された。円空仏と木食仏が安置されている。

(39-9)「答書(とうしょ)」・・問い合わせに対する返答の書状。こたえの書状。返事。

 

 

11月学習 町吟味役中日記 注記

(30-1)「押込(おしこめ)」・・江戸時代の刑罰の一種。門を閉じ蟄居(ちっきょ)させ、外出を禁ずるもの。「押込」を「おしこみ」と読むと、「人家に押し入って強盗すること。また、その賊。強盗。」の意味になる。

(30-2)「弁天町(べんてんちょう)」・・北西―南東に走る箱館町の表通りに沿う町で、大町の北西に続く。大町などとともに箱館で最も早くに開けた町の一つ。町北端の岬(弁天崎・弁天岬)には弁天社(現厳島神社)が祀られており、町名は同社に由来。

(30-4)「面体(めんてい)」・・かおかたち。おもざし。面貌。面相。

 <漢字の話」「体(テイ)」・・「体」を「テイ」と読むのは、漢音。「タイ」は呉音。

  「体裁(ていさい)」「世間体(せけんてい)」「風体(ふうてい)」「ほうほうの体(てい)」「あり体(てい)」「体(てい)のいい~」「体(てい)たらく」など。

(30-5)「売渡(うりわたし)」・・売買の対象となっている物を売って相手に渡す。⇔買い受ける。

 <漢字の話「売」>・・①テキスト影印は、「売」の旧字体「賣」。②部首は、新字体の「売」が「士(さむらい)」部、旧字体の「賣」は、「貝」部。③「賣」の解字は「出」+「買」「買」が「かう」の意味に用いられたため、区別して、「出」を付し、「うる」の意味を表す。④新字体の「売」は、「賣」の省略体の俗字。

(30-6)<くずし字>「差出」の「出」・・影印は、「山」+「〻」(繰り返し記号)。ほかに「炎」も「火」+「〻」。また、「品」、「州」、「森」、「轟」、「澁」、「姦」、「傀儡」の「儡」、「磊落」の「磊」などの脚部が、繰返し記号になる場合がある。

(30-6)「売徳(うりどく)」・・売得。物を売ることによって利益を得ること。また、その利益。影印の「売徳」の「徳」は当て字。

  ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の用例に

  <高野山文書‐(年月日未詳)〔江戸〕高野山衆僧法度写(大日本古文書六・一二一九)「衆僧山林入薪等取売徳仕間敷事」>を挙げている。

(30-7)「地蔵町(じぞうまち)」・・函館市末広町・豊川町・弁天町・大町・内澗町・当町と続く箱館町の表通りに沿う町で、内澗町の東に位置する。古く北方は海に面していたが、地先の海岸は前期幕府領期から順次埋立てられていった。内澗町寄りから一―六丁目に分れ、内澗町から南東に向かって当町に入った表通りは、当町二―三丁目あたりで緩やかに弧を描いて向きを北東方に変えて進み、六丁目の北東端部には亀田村との境界となる枡形が設けられていた。

(30-8)「手代(てだい)」・・商業使用人の一つ。番頭とならんで、商人の営業に関するある種類または特定の事項について代理権を有するもの。支配人と異なり営業全般について代理権は及ばない。現在では、ふつう部長、課長、出張所長などと呼ばれる。

(31-1)「山之上町(やまのうえちょう)」・・現函館市弥生町。山ノ上町・山の上町・山上町とも記す。「蝦夷日誌」(一編)が「山の上」は東を法華寺(実行寺)、西は神明社、北は裏町(大黒町)の坂を限りとする「此処の惣名也」とし、「箱館夜話草」には「山ノ上町といふは惣じて神明宮の通りより芝居町此辺までをさいていふ処なり」とあるように、元来は箱館町の表通り(弁天町・大町の通り)の上手(山手)、函館山北東面の小高い山裾一帯に開けた新開地をいった。小名を含む広義の山之上町は文化年間(一八〇四―一八)に南部出身の大石屋忠次郎が芝居小屋を設けたのを契機に、茶屋などが集まる遊興地となり、近世末には山ノ上一―二丁目から常盤町・茶屋町・坂町にかけての一帯に山ノ上遊廓が形成された。

(32-1)「深泊り」・・P32の注記参照。

(32-6)「代銭(だいせん)」・・代金。なお、「代銀」は銀目で支払う代価。銀本位であった上方地方で多く用いられた。

(32-7)「不届至極(ふとどきしごく)」・・江戸時代、死罪に処すべき判決の末尾に書く罪名に冠して用いたことば。

(32-78)「可被仰付処(おおせつけ・らる・べき・ところ)」・・

  書下しは「可仰付処」。

  組成は、下ニ動詞「仰付(おおせつく)」の未然形「仰付(おおせつけ)」+尊敬の助動詞「被(らる)」の終止形「被(らる)」+推定の助動詞「可(べし)」の連体形「可(べき)」+名詞「処(ところ)」。

(32-8)「入墨」の「墨」・・影印は2字に見えるが縦長の「墨」1字。脚の「土」はひらがなの「ち」のようになる場合がある。

(32-9)「馬形東上町(まかどひがしうえまち)」・・現松前郡松前町字豊岡。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川と伝治川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にあり、段丘の北側は馬形上町、南は東中町、東は東新町。

(32-11)「身元請(みもとうけ)」・・雇われて働く者の身元を保証すること。

(32-12)「トラメキ町」・・現松前郡松前町字月島・字朝日。「寅向」・「とらめき」とも表記される。ほか登良女喜・度良目木・戸羅目木などの文字を当てる。伝治沢川から及部川に至る海岸沿いの地域にあり、西は泊川町。当町は天明―寛政期に町立てされたとみられる。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)では伝治沢町と合せて家数一二七・人数四一四。また「とらめき町、下は水かふり、平磯にて町裏地所無之、町屋東裏は崖之下ニ而、夫より泊川町際ニ至而は地面無之、崖下往還壱筋計も狭く」と記され、崖際に立地して目前に海が迫り、地形的に恵まれていない様子がわかる。「蝦夷日誌」(一編)には「トラメキ」として「此並川向也。人家より足軽多く有。此上に平野有。野畜の馬多し」とある。

(32-12)「逗宿(とうしゅく)」・・逗宿は足を止めて宿をとること。

(32-15)「不束(ふつつか)」・・江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つで、叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合には「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。

*聞訟秘鑑一口書詰文言之事(古事類苑・法律部三一)「御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可 成と見込之分は、不束或は不埒と認、所払、追放等にも可 成者は、不届之旨と認」

*「不束或は不埒」・・御叱り、急度御叱り、手鎖、過料。

*「不届」・・所払、追放。

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10月学習町吟味役中日記 注記

                        

(24-1)格助詞「へ」・・「え」と発音する。現代かなづかい(昭和211116日、内閣訓令第八号、内閣告示第三三号で示された)は、部分的には、それまでの伝統的な表記意識や方言の語音などを考慮したため、歴史的仮名遣いを受けついでいたり、許容していたりするところがある。それらの例外や許容に助詞の「へ」がある。本則は、「へ」と書くが、「え」を許容する。その他、①助詞の「を」はもとのままとし、②助詞の「は」ももとのままに書くのを本則(「わ」を許容)とする。

(24-2)「預ケ」・・罪科のある人を他にあずけること。

 ()江戸時代、未決囚を預けること。吟味期間中、重罪人は入牢させたが、軽罪のものは公事宿(くじやど)、町村役人、親類などに預けられた。

()江戸時代の刑罰の一つ。罪人をある特定の者に預けて監禁するもの。武士、庶民共に科せられ、預かり主が誰であるかにより、大名預、頭(組頭、支配頭)預、町預、村預、所預、親類預などの区別がみられた。終身預けることを「永く御預け(永預)」という。

()江戸時代、遠島または追放の刑を申し渡された幼年者を、刑の執行される成年(一五歳)に達するまでの期間預けること。溜預と親類預があった。

(24-5)「揚屋入(あがりやいり)」・・揚屋に拘禁されること。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

  *「揚屋(あがりや)」・・江戸時代の牢屋の一つ。江戸小伝馬町の牢屋敷に置かれ、御目見(おめみえ)以下の御家人、陪臣(ばいしん)、僧侶、医師などの未決囚を収容した雑居房。西口の揚屋は女牢(おんなろう)といって、揚座敷(あがりざしき)に入れる者を除き、武家、町人の別なく、女囚を収容した。テキストにあるように、各藩でも牢屋を揚屋(あがりや)と呼んだ。

  *「揚屋」を「あげや」と呼ぶ場合・・近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。大坂では明治まで続いたが、江戸吉原では宝暦10年(1760)頃になくなり、以後揚屋町の名だけ残った。

(24-7)「牢舎(ろうしゃ)」・・牢舎人。牢屋に入れられている者。囚人。囚徒。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「牢舎」の補注に<和製漢語か。幽閉・禁獄の意味で用いられ、古くは「籠舎」「籠者」と表記された。「牢舎」「牢者」などの「牢」の字は、後に新しい語源解釈によって与えられたもの。>とある。

(24-8)「再応(さいおう)」・・同じことを繰り返すこと。再度。ふたたび。多く副詞的に用いられる。

(25-1)「御目録(おんもくろく)」・・進物の時、実物の代わりに、仮にその品目の名だけを記して贈るもの。

(25-4)「ヲタルナイ」・・漢字表記地名「小樽内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。「ヲタルナイ石カリの境目」であった(廻浦日記)。コタン名のほか、場所(領)や河川の名称としてもみえる。「おたる内」(「狄蜂起集書」・元禄郷帳・享保十二年所附)、「オタルナイ」(蝦夷志)、「おたるなへ」(寛政五年「松前地図」)、「ヲタルナイ」(武藤「蝦夷日記」)、「ヲクルナイ」(蝦夷拾遺)などとあり、「於多留奈井」(支配所持名前帳)、「尾樽内」(蝦夷商賈聞書)、「砂路沢」(蝦夷喧辞弁・行程記)、「小樽内」「小垂内」(観国録)などの漢字表記がみられる。

(25-4)「ユウブツ」・・漢字表記地名「勇払」のもとになったアイヌ語に由来する地名。場所名・コタン名のほか河川名としても記録されている。

  *「ユウブツ越」・・勇払から勇払川を舟でさかのぼり、ウトナイ湖、美々川を経て陸路で千歳に入り、さらに舟で千歳川を経て石狩川に達するルートで、「シコツ越え」とも称し、東西蝦夷地を結ぶ重要な道であった。

  *「アイヌの丸木舟」・・昭和41(1966)、沼ノ端の旧勇払川右岸から、5艘の丸木舟と櫂、棹などの船具が発掘された。舟の長さが7~9メートルの大きさで、材料はカツラやヤナギが使われており、昭和42(1967)年には北海道の指定文化財になっている。現在苫小牧市美術博物館に展示されている。

(25-7)「奉紙(ほうし)」・・奉書紙(ほうしょがみ)。楮(こうぞ)を原料とする厚手、純白の高級紙。室町時代から各地で漉(す)かれ、主に儀式用に用いられた。

(25-9~26-1)「大儀料(たいぎりょう)」・・骨折り賃。苦労してやったことに対する報酬。

(26-5)「越後笹口村」・・現新潟県胎内市笹口浜。西は日本海に面し、東南一帯は砂丘が広がる。東は高畑(たかばたけ)村、東南は山王(さんのう)村に接する。村上藩領に属し、宝永6年(1709)幕府領、翌七年村上藩領に復し、のち幕府領となる。

(26-7)「卯(う)」・・天保2(1831)

(26-7)「唐津内町(からつないまち)」・・近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内の地名について上原熊次郎は「夷語カルシナイなり。則、椎茸の沢と訳す。昔時此沢の伝へに椎茸のある故に地名になすなるべし」と記す(地名考并里程記)。南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢川を境に博知石町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(26-8)「𥿻(きぬ)」・・国字。絹に同じ。旁の「旨」に「うるわしい」の意味がある。

(26-8)「抱」・・「把(は)」か。綛(かせ)をたばねてくくったものを数える単位。生糸の捻り造りしたものを三〇綛ずつ木綿の括糸で三か所結束したものをいう。生糸一俵(約六〇キログラム)は把二八〜三〇個に相当する。

(26-9)「積り」・・みつもり。予算。また、計算

(26-10)「死罪にも被仰付候処、格別之以御憐愍」・・『松前町史』には、「復領期の松前藩においては、本来死刑に処すべき犯罪者であっても、これに死刑判決を下すことを極力忌避する法規範、換言すれば死刑を軽減することが法習慣となっている独自の刑罰体系が存在していたと見做してよかろう」とある。

(26-10)「憐愍(れんびん)」・・なさけをかけること。憐憫・憐閔とも書く。

(26-11)「墨入百擲(すみいれひゃくたたき)」・・江戸時代の刑罰の一つ。入れ墨の刑に付加して罪人の肩、背などを鞭打つもの。普通「擲」は「敲」と表記される場合が多い。

  *「入墨」・・腕、足、額などに墨汁をさし入れて犯罪人の目じるしとするもの。江戸時代には、追放、叩きなどの刑に付加して行なわれた。

  「幕府の遠国奉行の入墨はみな腕に施す。・・藩では・・額に彫るのが多い。・・入墨のあり所およびその形によって、どこで入墨されたかがすぐわかるようになっていた」

  (石井良助著『江戸の刑罰』中公文庫1964 次ページの図も)

 *<漢字の話>「擲」・・①漢音で「テキ」、「投擲競技」など。呉音で「ジャク」。「チャク」は慣用音(中国の原音によらない誤読から生じた日本での漢字音)。

②訓読みでは「うつ」「なげる」「なぐる」「たたく」「はねる」「ふるう」「なげうつ」「ほうる」などがある。

  「主人は此野郎と吾輩の襟がみを攫(つか)んでえいと計りに縁側へ擲(たた)きつけた」(漱石『吾輩は猫である』)

  ③「打擲(ちょうちゃく)」・・打ちたたくこと。なぐること。特に、御成敗式目では刑事犯罪の一つに数えられている。「打」を「チョウ」と発音するのは呉音。「シャク」は慣用音。「呉音」+「慣用音」の例。

(26-11)「渡海(とかい)」・・『松前町史』には、「死刑にかえて現実に下された判断、すなわち越山・遠島・渡海にも松前藩の刑罰体系の独自性を見出すことができる」とある。

  さらに、「越山・遠島が百姓もしくは無宿者に適用されるのに対し、渡海は旅人に適用される点であり、例外や不明例は少ない」としている。

(27-3)「同断(どうだん)」・・「同じ断(ことわり)」の音読。ほかと同じであること。前と同じであること。また、そのさま。同然。同様。「理(ことわり)」(理由。わけ。よってきたるゆえん。また、理由などをあげてする弁明。)と同じ訓の「断(ことわり)」の音をあてた造語。

(27-3)「琴壱面」・・普通、「張 (ちょう) 」は琴を数える語。「調 (ちょう) 」の字をあてることもある。弦を張った楽器であるため「張り」でも数える。「面」は琴・太鼓・琵琶 (びわ) など、表面部分で演奏する日本古来の楽器を数える語。

(27-4)「迄(まで)」・・「迠」は「迄」の誤字(『漢語林』)。しかし、「ショウ」と読み、

「ゆく(行)」の意味がある漢語。古文書にある「迠」を翻刻する場合、「迄」の誤字と見て、

「迄」とする。

(27-4)「そして」・・影印は、連綿体(行草書や、かなの各文字の間が切れないでつらなって書かれたもの)という。

(27-6)「最上(もがみ)」・・最上地方。最上郡。郡域は元和8年(1622)の最上氏改易と相前後して定まったもので、律令制下では当初陸奥国最上郡、のち出羽国最上郡の郡域に含まれ、仁和二年(八八六)出羽国最上郡から村山郡が分れて以降は(「三代実録」同年一月一一日条)、近世初期まで村山郡のうちとして推移した。

(27-6)「日和田村(ひわだむら)」・・現山形県寒河江市日和田。箕輪村の西、葉山の南東麓に位置し、西は慈恩寺の所在する醍醐に続く。中世には檜皮とも記し、慈恩寺領があり寒河江庄(北方)に属した。慈恩寺領は最上氏にも安堵された(慶長五年九月二一日「最上義光願文」工藤文書)。当地の新御堂(すみど)に市神が残り、慈恩寺門前の市が立っていたと思われる。最上氏改易後は高七九一石余(西村山郡史)の日和田村は上山藩領となり、寺領は残らなかった。文化12年(181)幕府領となって幕末に至る。

(27-7)「湯殿沢町(ゆどのさわまち)」・・現松前町字松城・字唐津。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。小松前川下流、東西の両海岸段丘に挟まれた地。東は福山城、南は小松前町・唐津内町、西は西館町。

(27-7)「当時」・・今では、過去のある時点を、あとからふり返っていう場合に使われるが、

  古文書の「当時」は、「ただいま。現在。現今。」という意味に使われることが多い。

(27-8)「馴合(なれあい)」・・なれ合い夫婦。正式の仲介によらないで、なれあっていっしょになった夫婦。出来合夫婦。

(27-10)「不埒(ふらち)」・・「埒」は馬場などの囲いの意。法にはずれていること。けしからぬこと。また、そのさま。ふつごう。ふとどき。不法。

(27-14)「無判(むはん・むばん)」・・無判者。松前藩の許可なく上陸した者。

(27-15)「不念(ぶねん)」・・江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。

(28-1) 「五〆文(ごかんもん)」・・「五貫文」。「〆」は、「貫」の略字。銭貨を数える単位。唐の開元通宝1枚の重さが1匁(もんめ)であったところから、わが国でもそのまま銭1枚を1文と呼称するようになったといわれ、銭1000文をもって1貫と称する。なお、「文」は、足袋(たび)底の長さを測るのに、一文銭を並べて数えたところから、足袋や靴、靴下などの履き物の大きさの単位ともなったが、この場合の1文は尺貫法の8分(ぶ)(約2.4センチメートル)に相当する。また、江戸初期から中期にかけての金1両(4000文)は10万円に相当するといわれ、1貫文は1000文だから、25000円に相当するが、ただ幕末にかけて激しいインフレに見舞われるので、1貫文は7000円程度まで下落するようだ。とすると、5貫文=5000文=3万5000円ほどか。

(28-1)「過料(かりょう)」・・江戸時代の刑罰の一種。銭貨を納めて罪科をつぐなわせたもの。軽過料、重過料、応分過料、村過料などの種別があった。

(28-2)「馬形町(まかどまち)」・・現松前町字豊岡。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にあり、西は蔵町、南西は端立町。。「蝦夷日誌」(一編)に馬形町として「また山之上とも云。一段高きところにしてひろし。藩士また小商人、番人入接り。其山を名になし有」と記される。

(28-3)「悴(せがれ)」・・影印の「忰」は、「悴」の俗字。なお、自分のむすこを意味する「せがれ」は、「倅」が正しい。「悴」は、「倅」と似ていることから起こった誤用。(『新漢語林』)

(28-7)「構(かまえ・かまい)」・・江戸時代の一種の追放刑。特定地域から排除する場合と,特定団体・社会関係から排除する場合とがあった。日本国外追放を日本国構と称したことなどは前者の例であるが,後期幕府法においては,刑名はおもに追放,払(はらい)の語を用い,立入り,居住制限区域をとくに御構場所(おかまいばしよ)と呼んでいた。一方団体・社会関係からの排除として《公事方御定書》には,僧尼の閏刑で追院,退院より重い一宗構(所属宗旨からの追放),および一派構(宗旨中の所属宗派からの追放)の刑名がある。さらに武家が家中に科する刑罰的処分に奉公構があった。これは家臣が主従関係を離れる際,将来他家へ召し抱えられることを禁ずるもので,1635年(寛永12)の武家諸法度および諸士法度によって幕府法上も保障された。以後主家からの出奔は武士にとって容易なことではなくなった。近代に至って,追放刑の廃止,封建的身分制度の廃止により構の概念も消滅した。

  なお、処分しない、とがめがないことをいう「かまい 無し」の語源でもある。

(28-11)「留主(るす)」・・留守。元来は、天皇・皇帝・王などの行幸の時、その代理として都城にとどまり、執政すること。また、その人。令制では皇太子もしくは公卿がこれにあたること。「主」を「ス」と読むのは呉音。なお、「守」を「ス」と読むのは、日本での慣用音。

(28-11)「盗賊与者(とは)」・・「与者」が、上書きされている。

(28-13~14)「所払(ところばらい)」・・江戸時代の追放刑の一種。居住の町村から追放し、立入りを禁止する軽罰。ところがまえ。

(28-15)「仲町(なかまち)」・・中町。現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川下流左岸に位置し、南は大松前町、北は横町、東は袋町で町域は狭い。)。「蝦夷日誌」(一編)には「少しの町也。大松前のうしろに当る。小商人のミ也」とある。

 

9月学習 町吟味役中日記 注記

                   

(18-1)「御免」・・「ご」は接頭語。ここでは、免官、または、免職することを、その動作主を敬っていう語。。「御免」は、もともと「許可」を意味する「免」に尊敬を表わす接頭語「御」のついた語で、鎌倉時代から使われている。その後、「御免」の下に命令形を伴って、軽いことわりや、詫びの意を表わす「ごめんあれ」「ごめんくだされ」「ごめんなされ」などの形が生じた。これが定着すると、省略形としての「ごめん」も近世中期頃から用いられるようになった。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(18-4)「江良村」・・現松前町字江良・字高野・字大津・字二越・字白坂。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、南方は清部村、西は海に臨む。大正4年大島村の一部になる。なお大島村は昭和29年(1954)松前町の一部となる。現在、江良地域に、大島小学校がある。

(18-4)「米塩(べいえん・まいえん・こめしお)」・・人間の生活に欠くことのできない米と塩。食料一般をもいう。

 *「米塩の資(し・たすけ)」・・生計を立てるための費用。生活費。

 *「米塩の虫」・・食べていかなくてはならない者。生計をたてていかなくてはならない存在。

(18-5)「粒鯡(つぶにしん)」・・①荷出しする生の鰊。②数の子も白子も取り出した後の鰊。

(18-5)「空船(からぶね)」・・貨客を積んでいない船。とくに、江戸時代の御城米船では積込港まで貨客を積まないで航海させられた。

(18-6)「小砂子(ちいさご)村」・・現檜山郡上ノ国町字小砂子(ちいさご)。近世から明治35年(1902)まで存続した村。石崎村の南に位置し、東部は山地、西は日本海に面する。児砂(蝦夷草紙別録)、児砂子(「蝦夷日誌」二編)などとも記される。「地名考并里程記」に「小砂子 夷語チシヱムコなり。則、高岩の水上ミといふ事」とある。明治35(1902) 上ノ国村に合併。

(18-6)「落船(おちぶね・らくせん)」・・漂着船。津軽海峡横断の航路は津軽三厩から南または東の風に乗るのが最良とされ、途中風が南西に変わる場合は松前に着けず、押流されて吉岡付近の海上に漂着することが多く、これを落船とよんでいる。(『福島町史』)松前藩は沖之口おきのくち役所のある松前・江差・箱館の三湊以外での入国・通関は認めなかったが、航海が繁多になってくるにしたがい落船が増加したため、寛政年間には一部の落船を認める措置をとった

(18-7)「沖ノ口」・・江良に沖ノ口奉行配下の番所があった。武四郎の。『廻浦日記』では「廻船懸る由なればとて沖の口出張所有て下役一人出張す。」とある。

(18-7)「出役(でやく・しゅつやく)」・・①江戸時代、本役を持つものが、そのままで、臨時に他の職務に服すること。また、その役人。しゅつやく。広く、本業以外の公的な役回り、役職などのことをもいう。②職務上の出張。出張勤務。また、その役人。

(18-7)「船改(ふねあらため・ふなあらため)」・・港に出入する船舶の積荷・乗組・便船人などを船番所の役人が検査すること。また、その役人。江戸時代では、江戸に出入する廻船を下田または浦賀で改め、禁制の品や人間の流入・流出を防止したのが代表的な例。

(18-9)「沖口下代」・・沖ノ口奉行配下の役職。

(20-7)「挨拶(あいさつ)」・・応答。受け答え。

(21-2)「印紙(いんし)」・・署名捺印した書付。

(21-3)「売渡(うりわたし)」・・影印の「賣」は、「売」の旧字体。

 <漢字の話>「賣」・・①部首は「貝」で、「貝」部は、金銭・財貨や、それらにかかわる行為・状態などに関する文字でできている。「貢」「財」「貨」「貧「販」「貴」「賤」など。

 ②「貝」は、古代中国では貨幣とされ、財産のシンボルとして珍重された。しかし、近くにある川や池でたやすく手に入る貝ではなく、財産とされた貝は、黄河中流域に位置した殷王朝が、はるか遠方の東南沿海地方から運ばれてきた子安貝だった。

 ③「貝」は、子安貝の象形。子安貝は、その形から、生殖・安産・豊熟の象徴として珍重される。妊婦がお産をするときこれを握っていると安産すると信ぜられ,コヤスガイの名もそれによる。また《竹取物語》にはかぐや姫が〈いそのかみの中納言には,燕の持ちたる子安の貝ひとつとりて給え〉と条件を出した一節があるが、中国からの伝承と言われている。                              

③「貝」は、子安貝の象形。子安貝は、その形から、生殖・安産・豊熟の象徴として珍重される。妊婦がお産をするときこれを握っていると安産すると信ぜられ,コヤスガイの名もそれによる。また《竹取物語》にはかぐや姫が〈いそのかみの中納言には,燕の持ちたる子安の貝ひとつとりて給え〉と条件を出した一節があるが、中国からの伝承と言われている。

④「買(かう)」と「賣(うる)」・・「売」の旧字体「賣」の解字は、「出」+「買」。「買」が「かう」の意味に用いられたため、区別して、「出」を付し、「うる」の意味を表す。常用漢字の「売」は、「賣」の省略形の俗字による。なお、「買」の解字は「网」+「貝」で、「网」は「あみ」の意味、「貝」は「財貨」の意味。あみをかぶせて財貨をとりいれる、かうの意味をあらわす。

 ⑤また、「賣」は、平成16年に人名漢字になった。「賣野(うりの)」「木賣(きうり)」「賣豆紀(めずき)」など。

(21-3)「筈」・・①矢の上端で、弓の弦をかける部分。矢筈(やはず)。②弓の両端。弓の弦を受けるところ。弓弭(ゆはず)。③矢筈と弦とはよく合うところから、物事が当然そうなること。道理。理屈。筋道。転じて、予定・てはず・約束などの意にもいう。

 なお、棒の先に股のある、掛け物を掛ける道具も「矢筈」という。

 <漢字の話>「筈」・・解字は、「竹」+「舌」。音符の「舌」は、「会」に通じ「あう」の意味。弓のつると矢とが会する部分。

(21-5)「大留(おおどめ)村」・・現檜山郡上ノ国町字大留。近世から明治35年(1902)まで存続した村。上ノ国村の北、天ノ川の下流域北側に位置する。明治35年上ノ国村に合併。

(21-6)「年寄(としより)」・・近世では町役人・村役人・宿役人などの称ともなった。村役人としては、名主または庄屋に次ぐ地位の者をいうことが多い。大留村では、次に「百姓代」とあるので、「年寄」は、村の長を年寄と称していたか。

(21-1022-1)「碁盤坂」・・現松前郡福島町字千軒附近。なお、昭和13(1938)1021日国有鉄道福山線渡島知内駅 - 当駅間開通に伴い、碁盤坂駅として開業。昭和47(1972)15日に千軒駅に改称。

(22-1)「倒死(たおれじに・とうし)」・・路上などでたおれて死ぬこと。ゆきだおれ。

(23-5)「碇町」・・檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。武四郎の『再航蝦夷日誌』に「寺小屋町の上也。漁者、水主、小商人等也」とある。

(22-7)「通書(つうしょ)」・・手紙。

(22-7)「山之上町」・・武四郎の『再航蝦夷日誌』に「薬師町より上なる町也。此辺り青楼の小宿、水主、船頭の囲ひもの、小商人多し」とある。

(22-9)「幸便(こうびん)」・・つごうがよいこと。よいついで。また、そのような時に人に手紙を託することが多かったので、手紙の書き出しの文句や添え書きのことばとしても用いる。

(23-1)「被仰出(おおせいだされ)」・・ご命令されて。「仰せいだす」は、「命じ出だす」「言い出だす」の尊敬語。命令を発せられる。お言いつけになる。お言葉を口に出される。

 なお、「被仰出(おおせいだされ)」は、「おおせいださる」の連用形の名詞化で、名詞として、「おいいつけ。御命令。おおせいで」の意味になることがある。「被仰出書(おおせいだされがき)」(ご命令書)

(23-1)「供(ども)」・・人を表す言葉について複数を表す接尾語。複数の意味がうすれた「子供」以外は、多く「共」と書く。

 *「子供」・・(1)元来は「子」の複数を表わす語であり、中古でも現代のような単数を意味する例は確認し得ない。ただ、複数を表わすところから若年層の人々全般を指す用法を生じ、それが単数を表わす意味変化の契機となった。

(2)院政末期には「こども達」という語形が見出され、中世、近世には「こども衆」という語を生じるなど、「大人に対する小児」の用法がいちだんと一般化し、同時に単数を表わすと思われる例が増える。

(3)漢字表記を当てる場合、基本的には上代から室町末期まで「子等」であるが、院政期頃より「子共」を用いることも多くなる。近世に入り、「子供」の表記を生じた。

(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌)

(23-2)「辰之刻」・・午前8時。

(23-8)「差添(さしぞい・さしぞえ)」・・他の人を守ったり助けたりするために同伴すること。また、その人。

8月学習 町吟味役中日記 注記 

         

(12-1)「服薬(ふくやく・ぶくやく)」・・服用するために薬を調合すること。また、その調合した薬。調剤。

 *「服」の解字は、舟の両側にそえる板の意味を表す。転じて身につける意味を表す。

 *「服」は、『康煕字典』では、「舟月(ふなづき)」部。「舟月」部に属する漢字といして、「朋」「朝」「朕」がある。現在の漢和辞典は「月」部に統一されているが、元来、「月(つき)部、「肉月(にくづき)」「舟月(ふなづき)」に分かれていた。

 *「服用」を「薬を飲むこと」とするのは日本での意味。漢語では、身につけて用いること。「和漢異義語」という。国訓が漢字一字の字義に和文要素が混入する現象であるのに対し、「和漢異義語」は、漢字二字以上の熟語の語義に和文要素が混入する現象。(古田島洋介著『日本近代史を学ぶための文語文入門 -漢文訓読体の地平―』吉川弘文館 2013

<くずし字>「服薬」の「服」、「薬」。

 *「服」の偏「月」のくずし字

 *「薬」・・「廾(くさかんむり)」+「楽」の「楽」のくずし字は頻出します。

(12-1)「煎薬(せんじぐすり・せんやく)」・・植物の根・実・皮などを煎じて用いる医薬。

漢方薬の主流をなす。

(12-1)「一角(イッカク)」・・北極海に生息するイッカク科の哺乳類イッカクの牙を用いる。

イッカクはイルカの近縁動物で、体調は約5mで、雄の上顎に1対ある歯牙のひとつの門歯が長くなり、細長く2m以上に伸びるため、イッカクと呼ばれている。牙は象牙質で螺旋形になっている。

 イッカクの角は中世ヨーロッパにおいて神秘的な解毒薬として珍重されていた。日本に 

 はオランダ医学とともに江戸時代に伝えられた。

漢方薬ではないが、サイカク(犀角)と同様の解熱・鎮静の効能があるといわれ、粉末にして服用する。

(12-2)「壱分目」・・全体の十分の一。「分目」は、数詞につけて、あるものの全体の量を

 10としたとき、その内のどれだけの量であるかを表わすのに用いる。

(13-6)「風説」の「風」・・普通は2画目は外側から中に入る。

(14-6)「江指(えさし)」・・江差。江刺とも書く、村の成立時期は不明であるが、寛永7(1630)沖の口番所は市中津花町に設置され、交易港となる。続いて上の国に設置されていた檜山(ひのきやま)番所が延宝6(1678)市中中歌町に移転、のち安永元年(1772)江差奉行所と改称、松前藩西在の官府となる。

(14-6)「山之上町(やまのうえまち)」・・はじめ江差は、桧材、続いて元禄年間(16881703)以降鰊荷物が主な積出し荷物となる。港としての機能が高まるとともに沿岸部の津花、姥神、中歌、九艘川、詰木石で町場化が進み、慶安年間(16481651)には法華寺の前身妙翁寺が創建されも寺町の様相を呈した。市中の発展により後背段丘は「山の上町」として町場化が進んだ。

 海岸沿いの市街地(下町)と段丘上(山の上町)は、それぞれ断崖を掘削して、阿弥陀寺坂・法華坂・馬坂などの坂道や石段を造築して参道とした。

 松浦武四郎『再航蝦夷日記』には、「縦町十町」と並んで「横巷十九町」を挙げ、その中に、「山の上町」が見える。さらに「山の上町 薬師町より上なる町也。此辺り青楼の小宿(こやど)、水主、船頭の囲ひもの、小商人多し」とある。松前口説に「国は サァーエー 松前 江差の郡(こおり) 江差 山の上 げんだい町の 音に聞こえし こばやし茶屋に 抱えおなごは 三十二人」と唄われた花街であった。

(14-7) 「横死(おうし)」・・殺害されたり、不慮の災難にあったりして死ぬこと。天命を全うしないで死ぬこと。不慮の死。非業の死。

(14-8)「到着」の「到」・・「リ(リットウ)」が、「()」になる場合がある。

(14-8)「下役梅沢由右衛門」・・「下役」は、吟味下役で、町奉行吟味役吟味下役と、役職があった。

(15-2)「小使(こずかい)」・・町奉行の職制で、下代の下に「小使」があった。

(15-4)「今日」の「今」、「日」・・「今」は「て」のようになる場合がある。また、「日」の

 縦画を最後に「ゝ(点)」をつける場合がある。

 (15-4)「手鎖(てじょう・てぐさり)」・・「手鎖」は、罪人の手に施す刑具。鉄製瓢箪型で、両手にはめて錠をかけ、手が使えないようにするもの。てがね。

 ①江戸時代の刑罰の一つ。手鎖をかけるところから起こった名で、庶民の軽罪に科せられ、三〇日、五〇日、一〇〇日の別があり、前二者は五日目ごとに、後者は隔日に封印を改める。御咎手錠。

 ②江戸時代、未決囚を拘留する方法。手鎖をかけた上、公事宿、町村役人などに預け、逃亡を防いだ。

 ここでは、②か。

(15-45)「旅人宿(りょじんやど)」・・江戸時代、訴訟・裁判のため地方から出府したものが泊まった公事宿(くじやど)の一つ。

(15-6)「四月九日」の「九日」・・「ここのか」か、「ここぬか」か。

 *「九(ここのつ)」の語源説(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

 (1)ココラ、またはココタ(許多)の転音か〔東方言語史叢考=新村出〕。

(2)陽数で、一の子は三、三の子は九とするところからコノコ(子子)の義〔志不可起〕。

(3)ココ(此処)でトヲ(十)に迫ったとの意か〔大言海〕。

(4)ココノツ(凝々箇・凝津)の義〔十数伝・紫門和語類集〕。

(5)八方の中央という意から凝の義。また、イヤツ(八)よりココダ(多数)の意か〔和訓栞〕。

(6)コタツ(甲立)の転〔名語記〕。

(7)爰ぞよく熟する時の意からココトス(爰)の転〔名言通〕。

(8)古韓語コ(大)の畳語。本来は多大の義であるが、ヤ(八)を最大数とした時代があったので、更にその上に一つ加えた数九をココと称えるようになったか〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。

(15-8)「雁(がん・かり)の御吸物」・・雁、鴻、鶴、白鳥、などの吸物は、普段は、藩主などが食した。

 *<漢字の話>

①「雁」の部首は「厂(がんだれ)」ではない。

②「雁」の部首は「隹(ふるとり)」

③「隹」を「ふるとり」というのは、「舊(きゅう・ふるい)」(新字体は「旧」)

 に用いられているので、「鳥」「酉(ひよみのとり)」と区別する。

(16-1)「四月十日」の「十日」・・「とお」か「とう」か。

遠く大きな氷の上を多くほおずきくわえて、づつ通った。」

 *「十(とお)」の語源説(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

 (1)トはタル(足)の反ツの転。オはヨコ(横)の反ヨの転。算の位において、十に満ちるとその後は横の算になるところから〔名語記〕。

(2)一から十まで通っているところから、トホル(通)の略トホの転〔本朝辞源=宇田甘冥〕。

(3)トはト(止)の意〔百草露・大言海・日本語源=賀茂百樹〕。上の五と下の五とが合い止まる数であるところからトは止の義。ヲは、陽の一数を含み鎮める意で陽の義〔紫門和語類集〕。

(4)数は九で極まるところからトは外の意〔日本釈名・紫門和語類集〕。十は位の一つであるところから数のト(外)の義〔志不可起〕。

(5)一から数えて遠くにあるところから、トホ(遠)の義〔和句解〕。

(6)トヲ(止尾)の義で、数の終わりの意〔国語の語根とその分類=大島正健〕。

(7)一ツから九ツまでの終わりであるところから、ツヲ(津尾・筒尾)の転〔和訓栞・紫門和語類集・言葉の根しらべ=鈴江潔子・大言海〕。

(8)テヲ(手終)の義〔言元梯〕。

(9)筒尾の義という〔日本語源=賀茂百樹〕。

(10)トヲ(瓊尾)の義〔十数伝〕。

(16-2)「腹痛」の「腹」・・「服」と似ている。

 (16-5)「三関勝蔵」の「関」・・門構えは、「ワ」の形になることが多い。中には「一」になる場合もある。

(17-1)「小書院(こじょいん)」・・一般には、母屋(もや)に続けて建てのばした部屋。小さな書院。松前城での位置は不明。『嘉永癸丑年御役人諸向勤姓名帳』に、「御小書院御次詰」という職務がある。

(17-3)「立石野(たていしの)」・・松前城下の西端、けわい坂を上り、折戸坂を下るまでの間の野原をさす。武四郎は「海岸に大なる自然の弐丈ばかりなる岩石有。立石野の名も是より起るか」(『再航蝦夷日誌』)とする。

(17-3)「ツクシナイ」・・和名は尽内、津久志内。松前城下西方の海浜をさす。折戸の次の集落。『蝦夷日誌』(二編)では、東から西に進んで「小ツクシ川と云、尺一刎也。清水にして甚冷し。越て」として大ツクシ川をあげる。

(17-4)「手限(てぎり)」・・上役などの意見・指図も得ないで自己の判断で処理すること。

(17-4)「市在(しざい)」・・「在」はいなか。松前市中と、近郊。城下には、東在、西在があった。

(17-7)「忠兵衛」の「忠」・・「中」の縦画が、「心」の1画目の点へ繋げるため、「ノ」のように右払いになる場合がある。

町吟味役中日記 7月注記

(6-4)「新井田壽右衛門」・・『松前藩士名前控』(北大附属図書館蔵)の「新組御徒士衆」に名前がある。

(6-4)「木村弥三郎」・・『松前藩士名前控』の「士席御先手組」に、「木村弥三郎」の名前が

ある。また、『御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳』(『松前町史史料編第1巻』所収)

に、「先手組」「御武器方」に「木村弥三郎」の名がみえる。

(6-4~5)「新井田壽右衛門、木村弥三郎居宅江之通り」・・「福山城下家臣屋敷割復元図」(『松前町史通説編第一巻下』所収)を見ると、松前城下愛宕町通りか。

(6-5)「ちりあくた」・・ちりとあくた。「ちり」は「チリ(散)」から、「あくた」は、<アは接頭語。クタはクタル(腐)の語根>など、語源には諸説ある。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

<乾燥した粉末状のものを指す「ちり」に対し、「あくた」は水気をもった廃物をいう。

「ほこり」と「ごみ」にもこれと類似の対応が認められるが、水気をもつものの方が廃物

の意味全体の代表となる点で、「あくた」は「ごみ」と共通している。>とある。

(6-7)「可申達旨(もうし・たっす・べき・むね)」・・組成は、「申す」の連用形「申し」+「達す」の終止形「達す」+「可(べし)」の連体形「可(べき)」+「旨(むね)」

(6-9)「可被申達(もうし・たっせ・らる・べく)」・・組成は、「申す」の連用形「申し」+「達す」の未然形「達せ」+「らる」の終止形「らる」+「可(べし)」の連用形「可(べく)」

(6-7)「則(すぐ)」・・「則」は「即」。「即」は「則」と通じ、すなわち、あるいは、もし、などの副詞に用いるが、ここでは、その逆をいうか。つまり、「則」は「即」。

(7-1)「御会席」・・会合する席。

(7-12)「引取(ひきとる)」・・その場から退き去る。

(7-4)「正九ツ時」・・正午。

(7-45)「御側頭(おそばがしら)」・・藩主の側近職の奥用人支配下の役職。

(7-5)「杦村伝五郎」の「杦」・・国字。「杉」の旁の「彡」を書写体に従って「久」に改めた

もの。筆書きで、「彡」の最後の[]を「ゝ」のように書いたのを「亥」の最後3画のよう

にし、[ノ人]の初め2画[ノノ]をИ字状に続けて[]のように書いたものを、活字にす

るときに、書かれたとおりに作ったので、[][ノ人][]と変化した。

*同様に、「形」「彫」「影」など、「彡」を含む漢字のくずし字は、「久」となる場合があ

る。

(7-5)「紙面(しめん)」・・書面。

(7-6)「新井田」の名前は「周治」か「周次」か。

(7-8)「押込(おしこめ)」・・江戸時代の刑罰の一種。門を閉じ蟄居(ちっきょ)させ、外出

を禁ずるもの。

(7-8)「御免(ごめん)」・・容赦、赦免すること。

(8-3)「深泊り」・・現青森県東津軽郡外ケ浜町蟹田塩越。東は陸奥湾に面し、南は石浜村、

西は山を隔てて小国村、北は二ッ谷村に接する。古くは、東風泊(こちどまり)と呼

ばれ、貞享4年(1687)の検地帳には深泊の名がみえる。小字に塩越の名がある。明治

22年(1889)の町村制施行と同時に、石浜村の字として貞享年の検地帳の字名をと

り、塩越となった。享和2(1802)の「測量日記」に家一六軒とあり、嘉永3年(1850

の「東奥沿海日誌」に「深泊り村同じく人家二十軒斗」とある。明治初年の「新撰陸奥国

誌」に家数四六としてる。

 『蟹田町史』には「蟹田浜の追鰊漁師らは二月末から・・松前へ渡海し、あるいは、鰊漁場の使用人に転向したり、土着する人も多かった」とある。

(8-5)「引合(ひきあい)」・・連れ。配偶者。

(8-7)「馬形端立町(まかどはたてまち)」・・大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にある。海岸段丘上の台地を「まかどの」「まがとの」と称し、馬形野観音が文安―宝徳年間(1444―)頃造立された。多くの文献は、「馬形町」と「端立町」を別々にしている。天保14年(1843)の御触留書(市立函館図書館蔵)に「馬形羽立(まかどはたて)町一本橋通り」とある。

 『松前町史通説編第一巻下』所収の天保14(1843)の「公定価格・借家家賃」表」には、「馬形足軽町」「馬形東新町」「馬形東上町」「馬形東中町」「馬形東下町」があり、「馬形羽立町通り」もある。

(8-9)「口書爪印(こうしょつめいん)」・・江戸時代、法廷での取調べの後、その口書(くちがき)を読み聞かせてその誤りのないことの承認の証として、それに爪印を押させたこと。

 *「口書(くちがき)」・・江戸時代、検使役人が作成した調書のこと。変死や殺人、傷害など検使を要する事件が発生した際、現場で関係者の供述を記したもの。

 *「爪印(つめいん)」・・江戸時代の刑事裁判で、被疑者が口書(くちがき)に捺印する場合に用いられた印。重罪にあたる被疑者は吟味中入牢させられ、普通、印を所持していないため、この方法がとられた。ただしこれは庶民に限られ、武士には書判(かきはん)を書かせた。爪判。

*「爪印(つまじるし)」・・①文章などの注意すべきところや、よくわからないところ、すぐれたところ、またすぐれた和歌などにつめの先でつけておくしるし。爪点。②遊女と客が互いの愛情の変わらないことを表わすための証。また、そのような行為。もと、客への心中だてのために、遊女が自分のつめをはがしておくったことから派生したことばという。

(8-9)「某(それがし)」・・自称。他称から自称に転用されたもの。もっぱら男性が謙遜して用い、後には主として武士が威厳をもって用いた。わたくし。

 *「某(なにがし)」・・他称。名の不明な人・事物をばくぜんとさし示す。また、故意に名を伏せたり、名を明示する必要のない場合にも用いる。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注には<「それがし」が自称にも用いられはじめたのは、「なにがし」の場合よりやや遅い。>」とある。

(10-3)「年行事(としぎょうじ)」・・

江戸時代、一年任期で五人組や問屋・株仲間など商工業の組合の事務を処理した世話役。「行事」は、江戸時代、町内または商人の組合などで、その組合を代表して事務を執り扱う人。

(10-5)「薬服(やくふく)」・・薬を服用すること。

(11-1)「取質(とりしち)」・・品物を預かって、お金を渡すこと。

(11-2)「受質(うけしち)」・・元金と質料を受け取り、預かっている質草を返却すること。

(11-2)「御目長(おめなが)」・・「めなが(目長)」の敬語。目先のことにとらわれないで気ながに物事を見るさま。ながい目でみるさま。

(11-4)「傳兵衛(でんべえ)」・・町吟味役配下の町年寄。場所請負人。

 *「町年寄」・・鈴江英一著『北海道町村制度史の研究』(北海道大学図書刊行会 1985

 を引用して、町年寄について記す。町年寄は、「藩士目見以上ノ格式ヲ付与シ、且帯刀ヲ許ス。其町年寄ニ登用セラレ勤功アルモノハ士席ニ列ス」(村尾元長著『維新前町村制度考』)とあるように、町年寄に選任されるのは、全町民一般からでなく、上層の町人に限られる。この町人層はまた、藩主らの吉凶などにあたって先んじて多額の献金をし、これに対して酒肴などを下賜される関係を持つなど、藩とは特別な交渉のある城下の特権的商人層である。表の町年寄の氏名をみても、町年寄と特権的商人層の結合が窺える。

    藩御用達・・伊達・栖原

    問屋及び頭取一族・・上田(近江屋)・富永・張江

    場所請負人とその一族・・村山・西川・林・塩田・桜庭

(11-8)<漢字の話>「醫師」の「醫」・・①「醫」は「医」の旧字体。音符の「殹」は、「エイッという、まじないの声の擬声語。治療に薬草酒を用いるようになり、酉を付し、病気をなおす人の意味を表す」(『新漢語林』②部首は「酉」。「ひよみのとり」「さけのとり」という。「酉」は、酒つぼの象形。②「酒」「酩」「酊」「酔」「酌」「酎」「酢」「酪」「酵」「醸」など、酒や発酵させて作る食品にかんする文字ができている。

(11-8)「高木三省(たかぎさんせい)」・・島田保久編著『蝦夷地醫家人名字彙』(自費出版2015)

には、「たかぎーさんせい」とし、「松前藩医。天保十一年(一八四〇)二月七日、病死者 

の容躰書を書く」とある。 

町吟味役中日記 6月注記

(1-1)「天保(てんぽう)三壬辰年」・・1832年。

 *<漢字の話>「天保(てんぽう)」の「保(ほう・ぽう)」・・「保」は、呉音が「ほ」、漢音が「ほう」。日本の元号の「保」は、漢音の「ほう(ぽう)」と読む。

「保元(ほうげん)の乱」、「享保(きょうほう)」「寛保(かんぽう)」「神田神保町(ジンボウチョウ)など。

*古文書に見る年月日の表記・・①元号・年数字・十干・十二支・年②元号・年数字・十干・十二支(年を省略)③元号・年数字・十二支(十干だけを残すことはない)など様々な形式がある。

(1-23)「小四月・小五月」・・太陰太陽暦(俗に陰暦・旧暦と呼ばれる)では、月のみちかけの周期である一朔望月をもとに暦を組立てる。一朔望月は、平均で29.53日であるから、暦の一ヶ月の日数は必ず30日か29日のどちらかになる。30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」という。平朔(各月の朔をきめるのに、朔望月の平均の長さを順次加え朔の日をきめたもの)を用いて暦を作れば、大小の配列は大小大小大小と順序よく大小が交互にあらわれ、16ヶ月くらいに大大となるが、月の運動は大変複雑であるから、定朔(新月の日=朔=が一日となるように、小の月と大の月とを適当に組み合わせていく暦法。)を採用すると大小の順序、配列は多様になる。本テキストの天保3年の場合、大小大小小小大小大小大大小であった。

(2-1)「当番」・・なお、町奉行と町吟味役の勤務は、ともに一人ずつが毎日、一と六の日、すなわち、一・六・十一・十六・二十一・二十六日にそれぞれ交代する五日交代勤務であった。ただし非番でも原則として毎日出勤し、必要に応じ当番にあたる者を助けていた。また、奉行と吟味役のうち一人が毎夜泊り番として宿直に当っていた。

(2-1)「新井田周治」・・町奉行。町奉行は2名いた。

(2-2)「御用番(ごようばん)」・・月番。家老職も月ごと当番で業務にあたっか。

(2-2)「松前監物(まつまえけんもつ)」・・当時の松前藩家老職。

(2-3)「鈴木紀三郎」・・町奉行。

(2-3)「泊番(とまりばん)」・・町奉行2名と町吟味役2名の4人が交代で宿直にあたった。

(2-4)「当賀(とうが)」・・祝賀に当る日。記念日。お祝い。

(2-4)「表御礼(おもておれい)」・・表御殿での領主への拝謁。松前藩では、毎月1日、15に行われた。

(2-4)「内御礼」・・御内礼か。御内礼とは家老以下役職によって直接藩主に謁見することを許されること。

(2-5)「被仰出達(おおせいだされたっし)」・・指令書、指示書、命令書。

(2-7)「新組御徒士席(しんぐみおかちぜき)」・・松前藩の士分の職制のひとつ。足軽から昇進した。町奉行では、小使の職務。

(3-2)「御用状(ごようじょう)」・・御用の書状。主君あるいは官府の公的書状。

(3-5)「内澗町(うちまちょう)」・・現函館市末広町。箱館町のほぼ中央部に位置し、弁天町・大町・当町・地蔵町と続いて北西―南東に走る、箱館町の表通りにあたる通りに沿って町屋が形成される。近世に北東方が海に面し、地先海岸は箱館湊の良好な係船地の一つであったが、近世末期から明治初年にかけて海岸は埋立てられ、東浜ひがしはま町などが成立した。弁天町・大町などとともに箱館で最も早くに開かれた町の一つ。

(3-3)「引合(ひきあい)」・・訴訟事件の関係者として法廷に召喚され、審理および判決の材料を提供すること。また、その人。引合人。単なる訴訟関係者、証人、被害者および共犯者など

(3-5)「百姓(ひゃくしょう・ひゃくせい)」・・江戸時代の町人に対して、百姓身分の人々。検地帳に登録された田畑をもち年貢を納める。大部分は農民。年貢を納める漁民・職人・商人なども百姓と称された。

(3-7)「旅籠(はたご)」・・旅籠屋。宿駅で武士や一般庶民の宿泊する食事付きの旅館。近世においては、普通に旅人を泊める平旅籠屋と、黙許の売笑婦を置く飯盛旅籠屋とがあった。

旅籠は元来,馬料入れの丈の低い竹籠をさしたが,《今昔物語集》等によれば旅行中に食糧を入れて持参する旅具であった。中世には宿屋が出現して馬の飼料を用意し,その馬槽を宿屋の看板としたことから〈馬駄餉〉,後世転じて旅籠屋というようになった。このようにして旅籠には,馬の食を盛る籠,旅行の食糧雑品を入れる竹の容器,宿屋,宿屋の食料,宿料といった各様の意味と変遷がある。宿屋としての旅籠は江戸時代初期に成立した。

 なお、「旅籠」は、「旗籠」を「旅籠」に書き誤ったところからという説がある。

(4-2)「町方(まちかた)」・・松前藩では、町奉行配下の士分以下の同心。幕藩制国家は従来の農民混住の都市から農民を除外した行政区画を設定して町方とし、農村の村方、漁村の浦方と区別した。町方は町奉行支配とした。松前藩では、町奉行配下に、町方掛、在方掛、下代があり、町方掛には、町方頭取の下に町方がおかれた。

(4-2)「八ツ間縄右衛門」・・嘉永6(1853)の松前藩の「御役人諸向勤姓名帳」(『松前町史史料編第1巻』所収)に「足軽頭取」として「八間田網右衛門」の名がある。

(4-3)「下代(げだい・しただい)」・・一般には下級の役人。松前藩では、町奉行配下に、町下代が置かれた。なお、鈴江英一氏の論考「松前城下・町年寄の職掌と機能―松前藩における城下町支配解明のための一考察―」(『松前藩と松前11号』1977)には、寛政10(1798)の事例として町年寄(2名)のうち1名は町下代兼勤としている。「下代 伝兵衛」とあるから、当時の町年寄の一人、ここでいう「下代」は、町年寄の村山伝兵衛さすのだろうか。

 また、前記鈴江氏の論文で、天明3(1783)の平秩東作の『東遊記』を引いて「江差の地役人として下タ代・・」の記事を紹介している。時代は違うが、「下代」は「しただい」と読んだことも考えられる。

(4-4)「伝兵衛」・・村山伝兵衛か。伝兵衛は、元禄年間に能登国羽咋郡安部屋村から蝦夷地に進出した商人。「伝兵衛」は初代以降の当主によってたびたび襲名されている。本書当時の伝兵衛は6代目。

(4-6)<くずし字>「もの共」の「共」・・脚部の「ハ」は、「ん」のようになる場合がある。

(4-6)「欣求院(ごんぐいん)」・・松前にあった寺院。正保2年(1645)から光善寺の支院に列していた。明治元年(1868)に光善寺に合併。欣求院は、山号が「義経山」で、義経が津軽海峡を渡った際に海上の安全を弥陀如来に祈り、無事に渡ることが出来たので御礼として、仏像千体を作り、祭ったという、いわゆる「義経北行伝説」も伝わる。ちなみに、「欣求」は、仏語。よろこんで願い求めること。心から求めること。

(4-8)「殿様(とのさま)」・・松前藩12代藩主松前崇広(たかひろ)。

 *「殿様」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「殿」の表わす敬意の程度が低下し、それを補うために、「様」を添えてできたもので、成立事情は「殿御」と同様。室町期に「鹿苑院殿様」のように、接尾語「殿」に「様」を添えた例があり、この接尾語「殿様」が独立して、名詞「殿様」が生まれた。>とある。

 *「殿」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、<(1)もともとは貴人の邸宅の意だが、のちには邸宅とその住人の両方を表わすようになる。さらに、貴人の名を直接表現することを避ける風習により、住人だけを表わすようになったが、「殿」で称される人物が増加するとともに「殿」の表わす敬意の程度は低下した。

   (2)社会的な高位者に対する呼称から、相対的上位者、すなわち表現者よりも高い地位の者に対する呼称として用いられるようになり、たとえば、従者が主人に、妻が夫に、女が男に対して用いることになる。>とある。

   **「殿(しんがり)」・・「臀(デン)」と通じ、しり、うしろ、しんがり、最後部。なお、軍隊の先鋒、さきぞなえ・さきばらいは「啓」。

 *「様」・・室町時代から用いられ、「殿(どの)」より丁重な表現であった。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「殿」の表わす敬意が低下し、それに代わって「様」が使われるようになった。室町期においては「様」が最も高い敬意を表わし、「公」に続く三番目に「殿」が位置していた。江戸期には「様」の使用が増加し、「様」から転じた「さん」も江戸後期には多用されるようになる。なお「殿」から転じた「どん」は、奉公人に対してだけ用いる呼称という制約もあり、勢力が拡大しないまま衰退したが、方言として敬意を示すのに使う地域もある。>とある。

   **「さん」・・「さま(様)」の変化した語。「さま」よりくだけたいい方。

   ***ビジメスマナーとしての「殿」、「様」・・公文書の宛先は「殿」を用いるのが一般的だが、尊大な印象があるので、「様」を用いる自治体も増加しており、使い分けは揺れている。

(4-8)「被為入(いらせられ)」・・おはいりになり。「入(い)る」の未然形「入(い)ら」+尊敬の助動詞「為(す)」の未然形「為(せ)」+尊敬の助動詞「被(らる)」の連用形「被(られ)」

(5-12)「南條長六郎」・・町吟味役。

(5-3)「砌(みぎり)」・・「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという。軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。転じて、庭。また、境界。さらに転じて、あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。

(5-4)「御直(おじき)」・・直接、主君の側近に親しく仕えている家臣。松前藩では、奥用人を指すか。なお、永田富智著「松前藩の職制についてー変遷とその特色」(『新しい道史 第11号』 所収 北海道総務部文書課 1965)に、「奥用人」について「藩主の側近にあって、藩主の行動日程の設定、家老、用人との連絡事項の伝達、大奥弘敷との連絡などが、主たる業務で1~2人が任命された。その系列には、側頭=御近習頭=御納戸番=祐筆=御奥弘敷番=御近習=御部屋付=北ノ丸御隠居番=刀番=医師=御馬取=草履取などがあった」と述べている。

(5-6)「口書(くちがき)」・・口書は広義では被糺問者の供述を録取したものをいうが、狭義では吟味筋における「吟味詰りの口書」を意味した。武士およびこれに準ずる身分を有す町人の分は「口書」といった。吟味筋の手続では、被疑者および関係者を訊問し、ときには拷問を用いたが、これによって犯罪の事実が認定されると、吟味詰りすなわち吟味終結る者(寺社侍以上)については「口上書(こうじょうがき)」と呼び、足軽以下、百姓・の口書が作られる。この訊問および口書の作成は奉行の下役によって行われる。

(5-6)「取調子(ちょうしと)ル」・・「調子」は、語調。「調子を取る」は、物事のぐあいをちょうどよい状態に整えること。「てにをは」を合わせる、漢詩などで平仄(へいそく)・韻を踏むこともいう。

(5-8)「光善寺(こうぜんじ)」・・松前郡松前町字松城にある浄土宗の寺院。近世の松前城下寺町に所在。文化(180418)頃の松前分間絵図によると法幢寺の南、龍雲院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1602)(福山秘府)。松前藩主の菩提所の一つで、藩主の奥方の墓がある。なお松前藩主の墓所のある菩提寺は、法幢寺(ほうとうじ)。

(6-4)「新井田寄右衛門」・・不詳。

(6-4)「木村弥三郎」・・「御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳」(『松前町史史料編第1巻』

所収)に、「先手組」「御武器方」に名がみえる。

(6-5)「ちりあくた」・・ちりとあくた。「ちり」は「チリ(散)」から、「あくた」は、<アは接頭語。クタはクタル(腐)の語根>など、語源には諸説ある。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

<乾燥した粉末状のものを指す「ちり」に対し、「あくた」は水気をもった廃物をいう。

「ほこり」と「ごみ」にもこれと類似の対応が認められるが、水気をもつものの方が廃物

の意味全体の代表となる点で、「あくた」は「ごみ」と共通している。>とある。

(6-7)「則(すぐ)」・・「則」は「即」。「即」は「則」と通じ、すなわち、あるいは、もしなどの副詞に用いるが、ここでは、その逆をいうか。

(7-1)「御会席」・・会合する席。

(7-12)「引取(ひきとる)」・・その場から退き去る。

(7-4)「正九ツ時」・・正午。

(7-5)「紙面(しめん)」・・書面。

(7-45)「御側頭(おそばがしら)」・・藩主の側近職の奥用人支配下の役職。(5-4)「御直(おじき)」の項参照。

(7-8)「押込(おしこみ)」・・監禁する。とじこめる。

(7-8)「御免(ごめん)」・・容赦、赦免すること。

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