森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

蝦夷錦

 『蝦夷錦』12月学習分注記

34-1)「大迷惑(おおめいわく)」・・「大」は、接頭語で、名詞につき、程度のはなはだしい 
     ことを表し、「迷惑」は、どうしてよいか迷うこと。途方にくれること。困惑したり不快 
     に感じたるさま。

34-2)「御城附衆(おしろづきしゅう)」・・お城務めの者。お城詰の者。

34-3)「絵図(えず)」・・19世紀(明治前期)以前の日本での普通の地図に対する呼称。そもそもは条里制施行時代,農地の状態を表した図に〈田図〉があったが、条里名称などを注記した方格のみの〈田図〉を〈白図〉と呼び,方格のほか山川、湖海、道路、家屋など地形・地物を記入した〈田図〉を、〈白図〉と区別して〈絵図〉と呼んだ。

     江戸時代を通じて地図一般を指す呼称として〈絵図〉が主流ではあったが、〈地図〉もまたときにその同義語として使用されていた。

     〈絵図〉という語が影をひそめるのは、明治政府が学校教育に〈地図〉という呼称を持ちこんでからであり、明治中期以降地図一般を〈絵図〉と称することはほとんどなくなった。現在では〈絵地図〉という語があって、古来使用されてきた〈絵図〉を〈絵地図〉と解するむきもあるが、誤り。

     *<漢字の話>「絵」を「エ」と読むのは、国訓ではなく、呉音。漢音は「カイ」。なお、「図」も「ズ」は呉音で、漢音は「ト」。したがって「絵図」を「エズ」と読むのは、呉音読み。

     *「江戸絵図の川という筋」・・江戸の絵図には川筋が青く塗ってあったことから、額の青筋をしゃれていう語。

     洒落本・辰巳婦言〔1798〕四つ明の部「あいつが懸河(けんが)の弁をふるっちゃア、どんなやつでもひたいへ江戸絵図の川といふ筋を出して、一ばんひねって見るのサ」

34-6)「御右筆衆(ごゆうひつしゅう)」・・「右筆」は、「祐筆」とも。江戸城には、御表御祐筆(営中の書記を掌り、日記方、分限方、家督方、吟味方などの分掌を担当)30名位と御奥御祐筆(営中の記録係で、老中の文案を悉く記録し、古例に徴して事の当否を議する役で、機密の事を担当)13名位がおり、御表御祐筆より、御奥御祐筆の方がより重い役であった。

34-4)<くずし字>「等」・・くずし字では、「ホ」の形になる場合が多い。

         ・なぜ「ホ」の形になるかについて、<脚部の「寸」が独立したもの。「す(寸)」と区別するため、肩に「ヽ」つけたもの>(茨木正子偏『これでわかる仮名の成り立ち』友月書房)

     ・<「等」の草体からできた字である。但し、そういうせんさくは一切抜きにして、直ちに古文書の「等」これなりと覚えてください>(笹目蔵之助著『古文書解読入門』新人物往来社)

(34-9)「堀田摂津守(ほったせっつのかみ)」・・江戸時代後期の大名、若年寄。近江国堅田(かたた)藩主、下野国佐野藩主。藤八郎・村由。水月と号す。陸奥仙台藩主伊達宗村の八男。寛政2年(1790)、若年寄に進み、勝手掛となり、寛政の改革の財政を担当。文化3年(1806)勝手掛出精につき三千石加増。翌4年蝦夷地にロシア船来航につき松前へ派遣される。天保3年(1832)七十五歳で致仕するまで四十三年にわたり若年寄の職にあった。同年六月十七日死去。若年寄在任中、『寛政重修諸家譜』編纂を総裁した。

(35-2)「南部大膳大夫(なんぶだいぜんのだいぶ)」・・令制の中宮職・春宮坊・左右京職・大膳職・摂津職の長官。令外の皇后宮(皇太后宮・太皇太后宮)職および修理職の長官も大夫と称した。『貞丈雑記』には、「大夫をすみて云と、にごりて云に差別あり」とし、左京大夫・修理大夫などは濁っていい、「たいふ」と澄んでいうときは五位の事であると説いている。また長官を「だいぶ」と読むのは、八省の次官の大輔を「たいふ」というのと区別するためであるとする説もある。

     *「大膳職(だいぜんしき)」・・令制宮内省所管の官司。「おおかしわでのつかさ」と訓む。内膳司が供御の調製、供進を担当したのに対し、大膳職は主として朝廷の饗膳の調進を職掌とした。職員令によれば、その職員は大夫(だいぶ)一人、亮(すけ)一人、大進(だいじょう)一人、少進(しょうじょう)二人、大属(だいさかん)一人、少属(しょうさかん)二人、ほかに、史生(ししょう)、主醤(ひしおのちかさ)、主菓餅(くだもののつかさ)、膳部(かしわでべ)、使部(しぶ)、直丁(じきちょう)、駈使丁(くしちょう)などから成り、そのほかに雑供戸(鵜飼・江人・網引・未醤戸など)が付属していた。主醤は醤・未醤など調味料の製造を掌り、主菓餅は菓子(木の実)のことおよび雑餅の製造を掌った。

     *「大夫・太夫(だゆう)」・・鎌倉時代末ごろ、大和猿楽座の棟梁が従五位下の位を得て大夫と称してから、芸能の世界でも大夫が棟梁の地位を示す称となり、「たゆう」とよむのを例としたが、江戸時代には遊女の最上級者の呼称にもなった。

(35-3)「大番組(おおばんぐみ)」・・江戸幕府の職名。老中支配で、三河の譜代家臣を母体として、今川氏や武田氏、後北条氏の遺臣を組み込んで編成され、戦時は、先鋒となり、平時は、要地を守衛。後年、江戸城及び江戸市中の警備にあたるほか、毎年、二組ずつ順次交替して、二条城と大阪城に在番した。寛永11(1634)には12組に増設され、以後幕末まで固定した。各組は、大番頭(5000石)1人、組頭(600石)4人、番士(200俵高)50人、与力10騎、同心20人で構成。

35-5~6)<古文書の体裁>「平出」「欠字」・・5行目に「右之通於」で改行しているが、尊敬の体裁で「平出」という。また、6行目「御前被」と「仰付」の間が1字分空いているが、「欠字」という。

35-6)「御前(ごぜん)」・・ここでは、「将軍」を指す。本書時(文化4年)の将軍は、第11代の家斉(いえなり)。

35-7)「榊原式部大輔(さかきばらしきぶのたいふ)」・・越後高田藩(10万石)の藩主榊原政敦(まさあつ)。受領名式部大輔。藩主在任期間(寛政元年(1789)~文化7(1810))。

     *式部省・・令制で、太政官八府の一つ。朝廷の礼式、文官の選課、選叙、賜禄などを司り、大学寮、散位寮を所管した。また、式部省の位階は、卿、大・少輔、大・少丞、大・少録などの順となっている。

35-8)「城請取」・・『松前町史』(別添)によると、松前藩居所受取の幕吏は、男谷平蔵(おだにへいぞう)と守屋権之丞で、榊原政敦の名はない。

36-1)「籏本(はたもと)」・・旗本。影印は、竹冠の「籏」になっている。なお、「旛」は国字。「旗本」は、江戸幕府直属の家臣で、将軍に御目通りできる格の御目見以上で、家禄がおおざっぱにいってだいたい二百石以上の武家。十八世紀半頃の調べでは、5200余家あった。(『江戸幕府役職集成増補版』)

36-3)「勘考(かんこう)」・・よく考えること。思案。思考。

36-3)「了簡(りょうけん)」・・考え。気持ち。思案。「料簡」とも。

36-4)「しかし」・・「し」は、変体かなの「志」。

36-6)「御詫言(おわびごと)」・・あやまりの言葉。

36-8)「かうゑき」・・「交易=こうえき」で、互いに物品の交換や売買をすること。

37-1)「一昨年」・・本書の成立は、文化4年(1807)であることから、「一昨年」は、文化2年(1805)となる。

37-1)「星の貫キ」・・不吉の前兆としてその出現が恐れられている「彗星(別名ほうき星)」、あるいは「流星」を指すか。『近世日本天文史料』(大崎政次編著 原書房)には、文化2年(1805)に、彗星や大規模な流星が出現したとする記録が記載されていない。ただ、ヨーロッパでは、後年に「エンケ彗星」と名付けられた「太陽の周りを周期3.3年で公転する彗星」が1805年に出現している。(『平凡社大百科事典』)

3712)「水戸の国」・・水戸徳川藩の領地で、国名では、常陸の国。

37-2)「月影(つきかげ)」・・月の形の意で、天文現象としての「月食」を指すか。『近世日本天文史料』には、「文化二年(1805)六月十六日戊辰、月帯食。とらの四刻上と左の間よりかけはしめ、とらの八刻八分はかりかけながら入。食分東国にてハ浅く、西国にてハ深かるへし」、「六月十七日己巳、晴 今暁月蝕也」、「六月十六日、夜寅ノ刻月蝕八分」の記録があり、水戸でも、早朝4時~5時頃に、部分月食が出現したと思われる。

37-4)「仙台(せんだい)」・・仙台伊達藩をさす。

37-4)「佐竹(さたけ)」・・秋田(別称久保田)佐竹藩をさす。

『蝦夷錦』10月学習分注記

30-1)「切者」・・切れ物。「優れもの」の意か。すぐれたもの。最良の品。一級品。

としている。

30-3)「何事」・・「事」は、「古」+「又」で、『漢語林』は「事」の古字としている。

30-4)<漢文訓読の話>「無御座候」

   原文(漢文では白文という)・・「無御座候」

   訓読文1(原文+句読点+返り点)・・「無御座候。」

   訓読文2(原文+句読点+返り点・濁点・半濁点+送り仮名)・・

「無ク御座候ウ。」

   書き下し文・・「御座無く候う。」

*古文書では、漢文の白文のような文章が多い。

*例会の朗読では、④を行っている。

30-9)「珍物(ちんぶつ)」・・珍しい物。珍品。具体的には、山丹交易による軽物といわれる品物で、唐物(蝦夷錦、樺太玉)、クマの毛皮と胆のう、ラッコなどの毛皮、オットセイの睾丸、ワシの羽(真羽)など。

30-9)「替事(かえごと)」・・互いに取り換えること。交換。

31-1)「御法度(ごはっと)」・・近世において、法令によって禁じられている行為や、使用を禁止されている品物。また、一般に禁じられていることを指す。代表的なものに「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」、「寺院法度」、「諸士法度」などがある。

31-2)「御城書」・・「御掟書(おきてがき・ごじょうしょ)」、「御定書(おさだめがき・ごじょうしょ)」「御諚書(ごじょうしょ)」。公布法の一形式。命令書、仰せ書。

31-3)「さ候得ば」・・書簡などでの用語。話を本題に導入する場合などに、文頭に置いて用いる。さて。

31-4)「候候而も」・・「候」がふたつあるが、一つは衍字(えんじ)か。

     *衍字・・「衍」は「あまる」の意。誤って語句の中に入った不要な文字。脱字の逆。誤入の文は衍文。

     *「衍」・・解字は「行」+「水」。「行」はみちの象形。水が道にあふれひろがるの意味をあらわす。

31-4)「少分(しょうぶん)」・・少量。少数。わずかであること。

31-5)「一ケ月三ケ日(いっかげつ、さんがにち)」・・一ケ月のうち三日間の意か。

31-6)「日並(ひなみ)」・・毎日すること。毎日。日ごと。

32-2)「国替(くにがえ)」・・大名の領地を移しかえること。徳川幕府は、大名の統制策として行った。移封。転封とも。

32-4)「当四月帰国」・・文化年間当時、外様大名の多くは、隔年(一年交代)の参勤交代となっており、南部(盛岡)藩は、表(子、寅、辰、午、申、戌)の年の四月参府、翌年の三月入部(江戸から国許へ帰ること。帰国、御暇)を通例としていた。その後、文政期には、半年交代となり、九月参府、三月入部(御暇、帰国)になる。

32-5)「御暇(おいとま)」・・大名や幕臣の場合は、将軍の前を去ること。辞去すること。帰ること。

32-6)「上使(じょうし)」・・江戸幕府および藩などで主家から上意を伝えるために家臣などへ派遣される御使(使者)をいい、その名称は室町幕府に起源をもつという。江戸幕府では、老中・奏者番・使番・小性あるいは高家・側衆などが、時に応じてその役目を勤めた。『柳営秘鑑』によって一例を示すと、老中は三家・国持大名の参府・帰国あるいは三家の病気のとき、奏者番は准国持大名の参府・帰国あるいは国持大名の病気のとき、使番は松平出雲守(富山藩主)・同大和守(白河藩主)・同左兵衛督(明石藩主)の三家の参国・帰国あるいは松平肥後守(会津藩主)・同讃岐守(高松藩主)・同下総守(桑名藩主)・同但馬守(高須藩主)・同左京大夫(西条藩主)の五家の参府のとき、また小性は老中の病気のとき、それぞれ上使に立つ定めであったという。

32-7)「是非々々(ぜひぜひ)」・・「是非」の次の記号は、繰り返し記号。是非(必ず、きっと)の意味を強調している。

32-7)「裁許(さいきょ)」・・役所などで下から上申された事項を審査して許可すること。

32-9)「代り合(かわりあい)」・・順番に代わること。交替すること。

32-933-1)「当四月出府」・・津軽(弘前)藩の参勤交代のパターンは、南部(盛岡)藩と入れ替わる形で、裏(丑、卯、巳、未、酉、亥)の年の四月参府、翌年三月入部(御暇、帰国)となっていた。その後、文政期には、南部藩と同様、半年交代で、裏の年九月参府、翌年三月入部となっていた。

33-2)「拝領物(はいりょうもの)」・・たまわり物。いただき物。

33-4)「御使番(おつかいばん)」・・江戸幕府の職名。はじめは使役とよばれた。戦時中は伝令、指示、戦功の監察、敵方への使者などを任務とし、武功・器量ともにすぐれた者がえらばれた。島原の乱後は軍事的職務は必要なくなり、全国統治上の視察・監察を主要な役職とした。二条・大坂・駿府・甲府城など幕府直轄の要地の目付、両番とともに藩領地の視察、幼少の大名の後見を行う国目付、将軍の代替りごとの諸国の巡察、城郭の受取・引渡しの際の監理などに任ぜられ、また目付役とともに火事場の視察・報告・指揮、大名火消・定火消役の監察・考課などにあたった。若年寄支配。役料五百俵、役高は千石高。慶応三年(一八六七)には役金五百両を与えられ、千石以上はその半額が給せられた。定員は元和三年(一六一七)、二十八名と定められたが、文化年間(一八〇四―一八)以降に五、六十名程度、慶応年間に百十余人の人員がみられる。

33-4)「村上大学」・・ロシアの蝦夷地襲撃事件当時、使番で、文化4(1807)64日、使番小菅猪右衛門、目付遠山金四郎景晋(かげみち)とともに、蝦夷地出張を命じられた。

33-4)「安藤治右衛門(あんどうじうえもん)」・・幕臣(旗本)。家禄2450石。御使番には、文化4卯年(1807)正月11日、西丸御書院番水野石見守組より就任、文化6巳年1111日死去。(『柳営補任』)。なお、蝦夷地出張を命じられた使番は、小菅猪右衛門で、安藤ではない。

33-5)「御目付(おめつけ)」・・江戸幕府の職名。定員は、初め十数名~二十名程に及んだが、享保十七年(一七三二)に十名に定まった。若年寄に属し、旗本・御家人の監察、諸役人の勤方の査検を任とし、日常は、殿中礼法の指揮、将軍参詣・御成の供奉列の監察、評定所出座などを分掌。享保八年(一七二三)に役高千石とされた。

33-5)「遠山金四郎(とおやまきんしろう)」・・遠山景晋(かげみち)。幕臣。通称、金四郎。文化四年(一八〇七)六月四日、蝦夷地出張を命じられた。この時、金四郎は左衛門と改名。目付。その後、長崎奉行、)作事奉行。数度、蝦夷地に渡り、踏査・交渉にあたった。子の景元は、町奉行の「遠山の金さん」。

33-7)「望人(のぞみひと)」・・あることを希望する人。ある職業や地位につくことを希望する人。  

33-8)「高達(こうたつ)」・・「公達(こうたつ)」か。「公達」は、政府や官庁が言い渡すこと。また、そのもの。おおやけからの通達。

『蝦夷錦』9月学習分注記

             
25-1)「関谷茂八郎(せきやもはちろう)」・・箱館(後松前)奉行支配調役下役。ヱトロフ島シヤナ会所詰め。『休明光記』では、関谷茂八郎は、児玉嘉内と共に、「其方ども儀、ゑとろふ嶋へ魯西亜人渡来之節、会所を明退候段、未練之始末、不届之至に候。依之重追放申付之」として、重追放の処分を受けている。

         *関連資料(『北辺紀聞』北海道立文書館蔵より

25-1)「御府」・・「御雇」か。『藤岡屋日記第一巻』(近世庶民生活史料 三一書     房発行)所収の「五月十九日付けの鈴木甚内書状」には、「御雇医師久保田見達」

とある。

*<漢字の話>

 ①「府」の部首は「广」(まだれ=麻垂)。「府」は、国家が文書や財物を収納する建物。転じて官庁・屋敷。また、「庫」は兵車や武器を収納するものを指した。「倉」は、穀物を入れておく建物。「蔵」は仏語では経典をおさめる所。

 ②「雇」の部首は、「戸」でなく、「隹」(ふるとり。「𦾔」の字に用いられているのでいう。「鳥」「酉(ひよみのとり)」と区別する。『説文解字』に「九雇。農桑の候鳥なり。」とある。9種類の雇(ウズラ)は、農業や養蚕における時期を知らせる渡り鳥で、農民に農時を誤らせないものである。「隹(とり)」から構成され、「戸」が音。(『漢辞海』)

25-1.2)「久保田見達(くぼたけんだち)」・・本事件当時、箱館奉行支配のヱトロフ島(シヤナ会所)詰御雇医師。備前の人。初め後藤十郎と称し、備中松山藩士。性来武を好み、軍学を修めたが、藩を退去。後、幕府の医師となり、長崎に赴いた。文化四年の露寇に際し、御雇医師として実地を見分し、その詳細を箱館に注進。『北地日記』(『蝦夷筆記』、『見達筆記』とも)を著す。

25-2・3)<くずし字>「申越」・・「申」は「P」のように見える。「越」の旁の「戉」は「月」のようになる場合がある。

25-2)「早飛脚(はやびきゃく)」・・特別に急いで書状を運んだ飛脚。依頼のあり次第出立することも、昼夜兼行で運搬にあたることもあった。早便。

25-4)「如何計(いかばかり)」・・程度についての疑問の意を表す。 どれくらい。どれほど。どんなに。

    *<くずし字>「如何」の「如」・・ひらがなの「め」または、「女」のようになる。

    *<くずし字>「如何計」の「計(ばかり)」・・「計」と「斗」は似ているが文意が「ばかり」であれば、「計」とする。

     *「ばかり」の語誌・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

     <語源については、名詞の「はかり(計)」から転じたものと考えられる。上代では副詞的な要素に下接した「かくばかり」「いかばかり」の形が過半を占め、語源である名詞「はかり」の意そのままに「おおよそ…ぐらい」の意を表わしており、多く疑問・推量・仮定などの不確実な意味の表現において用いられているが、中古には確定的な意の表現と共存する例が多くなる。

     次第に限定の「ばかり」が勢力を増し、「ばかり」より語史的には古い「のみ」を侵していく。しかし、中世では副助詞「ほど」に、近世では「ほど」「ぐらい」に程度の用法を侵され、また、近世以後「だけ」「きり」に限定の用法を侵されることになる。>とある。

25-4)「愁傷(しゅうしょう)」・・人に死なれて嘆き悲しむこと。気の毒なこと。

25-6)「御帰府(ごきふ)」・・江戸府内に帰ること。

     箱館奉行(後松前奉行)は二人体制で、一人は在府、一人は箱館在勤だった。再直轄後の箱館奉行三人体制では、それぞれ、在府、在勤、蝦夷地巡検と分担した。

(参考)箱館奉行(蝦夷地奉行、松前奉行)の任免と在府・箱館在勤について

享和2年から文化5年の動きを中心に一覧表を作成(「新北海道史年表」など参照)

ことがら

戸川安論

羽太正養

寛政12

(1799)

 

2.16小納戸頭取格・戸川藤十郎安論(やすのぶ)、蝦夷地巡見を命じられる。

3.-江戸出発、東蝦夷地クナシリに至り9月帰府。

12.-筑前守(従5位下)に叙任。

 

享和2

1802

2.23蝦夷地奉行新設

5.10箱館奉行と改称

12.14戸川、羽太、一年毎交代で箱館在勤を下命

2.23蝦夷地奉行に任命。禄百石を増賜され五百石となる。

目付・羽太庄左衛門正養(まさよし)、蝦夷地奉行に任命。

 

12.-、安藝守(従5位下)に叙任

享和3

(1803

 

3.27江戸出発。

在府

享和4

(1804)

2.1「文化」に改元

夏、帰府

4.21江戸出発、箱館で戸川と交代

文化2

(1805)

 

箱館在勤

在府

文化3

(1806)

 

在府

箱館在勤

文化4

(1807)

3.22松前西蝦夷地一円上地

4.6前年のロシア人のカラフト襲撃の報、福山に到来

5.18ロシア人、エトロフ島シャナ会所襲撃の報、箱館に到来。

10.24奉行所を福山に移し、松前奉行と改称。河尻春之、村垣定行、松前奉行に任命

12.22荒尾成章、松前奉行に任命

 

5.10江戸出発

赴任の途中、事件の報に接し、江戸に注進

6.12箱館到着

89.蝦夷地巡見、福山に至る。

 

 

5.18羽太は、南部・津軽藩に増兵を促し、秋田・庄内藩に臨時人数催促の書簡を送る。

10.-帰府

11.18罷免される

文化5

(1808)

2.28村垣、福山到着、戸川と交代

3.29河尻、福山着、西蝦夷地を宗谷まで見分

9.22河尻、福山出帆10.19河尻、江戸着

3.8福山出帆

 

4.3江戸へ帰る

4.6罷免される

 

25-7)「品々(しなじな)」・・いろいろな品物やさまざまな物事があること。さまざまな種類があること。また、そのさま。くさぐさ。いろいろ。

25-7)「相含(あいふくみ)」・・「相含む」の連用形。「相」は接頭語として、動詞に付いて、語調を整え、また意味を強める。「含む」は、「事情を理解して考慮に入れる」の意。

25-8)「扶助(ふじょ)」・・たすけること。力をそえること。

26-2)「鈴木甚内」・・『休明光記』では、「御勘定所勘定吟味役方改役」から「箱館奉行支配調役」に補任。後、イシカリ詰の「箱館奉行支配吟味役」を務めている。

26-3)「御目見以上(おめみえいじょう)」・・江戸幕府の場合、将軍にお目通りできる格のものを「御目見」という。だいたい、家禄が二百石(俵)以上か、御番方、または異例もあるが役高二百石(俵)以上の者。御目見以上を俗に「旗本」といっている。(『江戸幕府役職集成 増補版』)

26-5)「大嶋米次郎」・・『休明光記』では、「御勘定奉行支配御勘定役」から「箱館奉行支配調役」に補任、後、江差詰の「箱館奉行支配吟味役格」を務めている。

26-8)「ヲロシヤ人拾八人召捕」・・文化四年(1807)、ヱトロフ島において魯西亜人を召し捕った事件はない。『休明光記』によれば、「奥州北郡牛瀧村(南部藩領)百姓源右衛門の持船「慶祥丸」が、享和三年(1803)、難風のため破船、ロシアへ漂着。その後、船頭継右衛門ら六人が、文化三年(1806)七月、ヱトロフ島シベトロへ帰着。翌四年(1807)四月、菊池惣内が、彼らを引連れて箱館へでかけていたため、本事件当時、シヤナを不在にしていた。」としている。

2610)「菊池惣内」・・箱館奉行支配調役。ヱトロフ島シヤナ会所の責任者。後、松前奉行支配吟味役格。本件に関し、「其方儀、ゑとろふ嶋之儀、引請罷在候上者、御要害第一心懸可申処、御備向等閑にいたし置、去夏魯西亜人及乱妨候節も、於箱館相違之儀を申立候始末、旁不埒之至に候。依之役儀召放。」と、役儀召放の処分を受けた。

27-2)「三拾弐才」・・『藤岡屋日記』では、戸田又太夫の年齢は、「三十六」としている。

27-3)「児玉嘉内」・・箱館(松前)奉行支配調役下役。ヱトロフ島シヤナ会所詰め。本事件に関し、調役下役の関谷茂八郎と同じく、重追放の処分を受けている。

27-6)「別段(べつだん)」・・特に異なること。常と異なること。特別なこと。

27-7)「賊舟(ぞくぶね)」・・敵対する舟。文化三年に樺太のクシュンコタンなどを襲ったのは露米商会のユナイ号。なお、翌年の文化四年にヱトロフ島のナイホ、シヤナを襲ったのはユナイ号とアヴォシ号の二艘。(『新北海道史年表』)

27-6)「さわり」・・「障り」か。妨げとなる。じゃまになる。

27-7)「出懸(でがけ)」・・「出懸(でか)く」の連用形。出て行く。でむく。

27-7)<くずし字>「申候」・・「申」が連綿体風のきまり字。

27-8)「東西」・・「東北」か。

28-4)「退(のき・しりぞき)」・・「退(の・しりぞ)く」の連用形。その位置、立場からははなれる。立ち去る。

28-4)「妖術(ようじゅつ)」・・人をまどわすあやしい術。奇怪なわざを見せる術。

28-6)「戸川筑前守(とがわちくぜんのかみ)」・・戸川安諭(やすのぶ)。本事件当時、箱館(松前)奉行(在任期間:享和2戌年(1802)223日~文化5辰年(1808)45日)。『柳営補任』では、「享和二戌年二月廿三日御小納戸頭取より、百石御加増五百石高被成下」、箱館奉行に補任。その後、「文化五辰四月五日、去年魯商人罷越候節、取締不宜候一件ニ付、御役被召放寄合之旨、堀田摂津守殿、於御宅被仰渡、且差扣被仰付」の処分となった。

29-1)<くずし字>「参(まい)り」

29-4)<くずし字>「船覆り」の「覆」・・テキスト影印は縦長で、冠の「西」と脚の「復」の大きさが違うので2文字のようにみえる。

    <漢字の話>「覆」・・部首は、「(かなめのかしら)」。「要」の旧字体       の冠部は「西」でなく、「襾」

28-8)「筈(はず)」・・①弓の両端の弦をかけるところ。弓筈(ゆはず)。②弓弦(ゆづる)からはずれないように、矢の末端につけるもの。③相撲で、押し相撲の手の型の一。親指を人差し指から離して広げ、相手の脇の下か腹にあてること。④(弦と筈がよく合うことから)道理。当然なこと。転じて、予定、見込みなどの意にもいう。ここでは、④の意味で、予定、見込みの意。

29-4)「折節(おりふし)」・・ちょうどその時節。ちゅどその時。折から。

29-8)「家門(かもん)」・・一家一門。一族。身分の重い家筋。

29-9)「手助(てだすけ)」・・手伝うこと。また、手伝いとして役に立つこと。

 『蝦夷錦』8月学習分注記

20-1)<くずし字>「行方(ゆくえ)」・・「行」のくずし字は「り」のようになる場合がある。

   *なお、「行方」のように、「方」を「え」と読むのは当て字。「行衛」ともあてる。

    ほかに、「方」の読みに、「何方(どちら)」、「彼方(かなた)」「貴方(あなた)」など、「ら」「た」などを当てる。

20-1)<くずし字>「仍之(これによりて・これによって・これにより)」・・「仍」はきまり字。

     *<雑学>「仍(ジョウ)」解字は、人+乃。音符の「乃」は胎児の象形で、人と胎児と世代が重なる様から、「かさなる」「よる」の意味を表す。

     *「仍孫(じょうそん)」・・自分から八世後の世代の呼び名。

       本人・子・孫・曽孫・玄孫・来孫(耳孫)・昆孫・仍孫・雲孫の順。

      **玄孫以下を「鶴の子」ともいい、千年の寿命を保つといわれる鶴のひなに托して長寿を祝い、期する気持で用いられる。

20-3)「後詰(ごづめ・うしろづめ)」・・先陣の交替補充のため、後ろに控えている軍勢。予備軍。援軍。

20-4)「軍船(ぐんせん・いくさぶね)」・・水上の戦に用いる船。戦争に使用する船。

20-5)「兵船(へいせん)」・・戦争に使用する船。兵艦。

20-6)「もつて」の「つ」・・①「つ」「ツ」の字形の起源は諸説があって定めがたい。その原字には、「川」「州」「津」「闘」などがあげられているが、古代朝鮮半島における用字を参考にした「州」の説が有力である。」(『ジャパンナレッジ版本国語大辞典』)②平仮名の「つ」および片仮名の「ツ」は「川」または「州」からできたものかと考えられるが、未詳。(『ジャパンナレッジ版日本百科全書(ニッポニカ』)

     *「川」は、漢音・呉音とも「セン」。訓では「かわ」。万葉仮名で「ツ」と音に用いられているが、漢・呉・唐のいづれの音にも属さない。「州」の呉音「ス」が「ツ」に近いか。

20-8)「天満舟(てんまぶね)」・・伝馬船。橋船。はしけ。本船に搭載し、岸との連絡や荷物の積み下ろしに使用する木造の小船。

20-9)「宛(ずつ)」・・「宛」を「あて」と読めば割当てること、「ずつ」と読めば一定量の割り当てを示す副助詞。本来の用字「充」の異体字が「宛」と似ているため、中世以降混用された。(『漢辞海』)

21-1)「飛道具(とびどうぐ)」・・遠くから飛ばして敵を撃つ武器。鉄砲、弓矢の類。

21-1)「石火矢(いしびや)」・・戦国末期に西洋から伝来した大砲の呼び名。

21-3)「人数働(にんじゅばたらき)」・・軍勢を人員を手配し、配置すること。

21-4)「かね」・・兼ね。「ね」は、変体仮名の「年」。「兼(か)ぬ」の連用形。補助動詞として用いられる場合、動詞の連用形について、「~し続けることができない」、「~しようとしてできない」と、否定の意をあらわす。

22-1)「戸田久大夫」・・戸田又太夫。本事件当時は、ヱトロフ島紗那会所詰めの箱館奉行支配調役下役元〆。八十俵三人扶持、役金拾両、在勤年数御手当金二十両、雑用金五十五両。なお、戸田又太夫に関しては、「ゑとろふ嶋へ魯西亜人渡来候節、会所を明退、自殺候に付、御宛行並屋敷上候」となり、「又太夫が悴、後に松前奉行所同心に御抱入ありけるよし聞へぬ。」と『休明光記』にある。

     また、『写真集 懐かしの千島』(写真集懐かしの千島編纂委員会編 国書刊行会 1981)には、「戸田亦太夫藤原常保の墓」なる写真が掲載されており、「戸田亦太夫の男亦五郎本島に来り石碑を建てしものなりという」と説明がある。

22―1)「縁類(えんるい)」・・縁者。姻戚。親類。

22-5)「ナイホ番所」・・ヱトロフ島のナイホに、場所請負人の番人らが、漁期に出張して住み込んだ番屋。

23-3)「両家」・・南部、津軽両藩のこと。『休明光記』には、「ヱトロフ掛りは、吟味役格菊池惣内、下役元〆戸田又太夫、下役關谷茂八郎、児玉嘉内、其外同心共、在住御家人并南部津軽勤番士足軽等詰合たり」とある。また、日置英剛編著の『新国史大年表』には、「盛岡藩南部家・弘前藩津軽家の藩士300人が、ヱトロフ島紗那の会所を守った」とある。

23-3)「相妨」・・「相防」の誤りか。

23-7)「ルベツ」・・日本語表記地名「留別」。留別村は、択捉島のほぼ中央部に位置し、西は振別村、東は紗那郡有萌村、北はオホーツク海に臨み、留別川の河口に留別港がある。南は太平洋に面し、単冠湾に年萌港がある。寛政10(1798)幕府蝦夷地調査の別働隊近藤重蔵一行が「ベレタルヘ」へ着き、タンネモイに「大日本恵登呂府」の標柱を建てた(木村「蝦夷日記」)。翌年エトロフ島が幕府直轄地となり、1800年にエトロフ場所が設定されると、ヲイトに会所が置かれた。会所は享和3(1803)までに現紗那村のシャナに移されたが、文化4(1807)にロシア船によりナイボの番屋とシャナ会所が襲撃され、老門湾のフウレベツに移された。

24-9)「自害(しがい)」・・自分自らを傷つけて死ぬこと。自殺。『休明光記』によると、戸田又太夫は、「五月朔日、アリムイ(有萌)とシベツとの間において、一同休居している間に、脇差で咽を突きたて、うつぶしになりはや事きれたり。」とある。

 『蝦夷錦』7月学習分注記

15-1)「遠見番所(とおみばんしょ)」・・江戸時代、異国船を見張るため沿岸各地に設けられた番所。北郡には、寛政5(1793)、黒岩に遠見番所が設けられたほか、泊ノ崎、尻屋崎、牛滝にも設置された。

15-2)「境伍(けいご)」・・警固の当て字か。「境」を「ケイ」と読むのは漢音。「境内(ケイダイ)」など。

15-5)「有之哉(これあるや)」・・係助詞「や」は、①文末に用いる場合、活用語には終止形につく。②文中に用いられる場合、係り結びの法則により、それを受けて終止する活用語は連体形となる。テキストは文中にあるので、②.ラ変動詞「あり」の連体形は「ある」なので、ここは、「あるや」となる。

     『蝦夷紀聞』のこの部分は、「可有之哉(これあるべきや)」とある。助動詞「べし」の連体形は「べき」。

15-6)「火業師(ひわざし)」・・砲術師のこと。

156.7)「歩行武者(かちむしゃ)」・・「徒武者」とも。「徒」は、武士の身分の一つ。江戸時代、騎馬を許されぬ軽輩の武士。徒歩の兵士、歩卒。

     *「歩行」を「かち」と訓じる用法を熟字訓という。     

      **「熟字訓」:漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。昨日(きのう)、乳母(うば)、大人(おとな)、五月雨(さみだれ)など。

     *「歩行(かち)」の語源説(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』

      (1)クガチ(陸地)の略であるカチ(陸)の義。カチ(陸)より行くこと〔大言海〕。

(2)クガダチ(陸立)の反〔名語記〕。

(3)カチ(駈道)の義〔言元梯〕。

(4)蹴分けて行く義〔和訓集説〕。

(5)韓語カタ(行くの意)の転〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。

15-9)「佐久井」・・「佐井」か。

15-9)「䑺通(はしりとおり)」・・「䑺」は、「舟」と「風」からなり、帆船が風のように速く走る意を表す。類似例として、馬が風のように速く走る意の「馬+風」がある。

16-1)「下風呂(しもふろ)」・・北郡田名部通風間浦のうち。盛岡藩領。現青森県下北郡風間浦村下風呂。下北半島の津軽海峡に面した本州最北部の地区。享和3(1803)、幕府から佐井が箱館への渡航地に指定されたことにより、文化元年((1804)、大畑大赤川から下風呂境滝まで新道開削し、人足伝馬の徴発が頻繁となる。古く、松前への出稼ぎも見られ、寛政元年(1789)のクナシリ事件(クナシリ・メナシ蝦夷乱)における和人犠牲者の71人中3人が当村出身者。

16-1)「申ノ刻(さるのこく)」・・午後4時から午後6時の間の2時間程。なお、江戸時代は、不定時法によって、昼・夜それぞれを六等分した一区切りを、一刻あるいは一時などと称したが、その長さは、一時間60分ではなく、季節によって、長さが異なり、夏の日中の一刻は長く、反対に、冬は短くしていた。

     時刻の表示は、以下のとおり(形式上、一刻:2時間として表示)。

     ・子刻(九つ):0時~ ・丑刻(八つ):2時~ ・寅刻(七つ):4時~

     ・卯刻(明六つ):6時~ ・辰刻(五つ):8時~ ・巳刻(四つ):10時~

     ・午刻(九つ):12時~ ・未刻(八つ):14時~ ・申刻(七つ):16時~

     ・酉刻(暮六つ):18時~ ・戌刻(五つ):20時~ ・亥刻(四つ):22時~

16-2)「赤川(あかがわ)」・・北郡田名部通大畑町のうち。盛岡藩領。現青森県むつ市大畑町のうち。享和3(1803)の「仮名付帳」の町場の名前の一つに「赤川」の名が見え、また、『原始謾筆風土年表』に、「赤川に硫黄山があった。」と記されている(『青森県の地名』)。

16-4)「漕戻し(こぎもどし)」・・漕いで、もとへもどる。漕ぎ返る。

16-5)「従在所(ざいしょより)」・・「従(より)」は、格助詞。ここでは、動作、作用の時間的、空間的起点をあらわす。したがって、「従在所」と返読。起点を示す同訓としては、「自」がある(P14-4)。

16-7)「津軽越中守」・・本届書の内容は、盛岡藩領内の北郡田名部通の状況を記述していることから、差出人の名義は、弘前藩主の「津軽越中守」は、盛岡藩主の「南部大膳大夫」か。『蝦夷紀聞』は「南部大膳大夫」としている。

     *青森県の変遷

     1.江戸時代、西には弘前藩および黒石藩が、東には盛岡藩の支配地と八戸藩とがあった。

2.明治元年(1868)盛岡藩の一部北郡・三戸郡・二戸郡が弘前藩主の支配を、続いて大関美作守の支配を受け三戸県と称された。

3.同3年、南部信順・同信方、津軽承昭・同承叙がそれぞれ八戸・七戸・弘前・黒石藩知事となった。

4.その後若干の変遷を経て同35月、松平容大が斗南藩知事となった。

5.同年7月廃藩置県により、弘前・黒石・斗南・七戸・八戸・館の諸県が併存した。

6.同年9月諸県を弘前県に合併、ついで青森県と改称。

7.同年11月改めて青森県を新置した。同五年館県を開拓使に移した。

8.同9年二戸郡を岩手県に移して現在の行政区域に落ち着いた。

17-1)「飛脚(ひきゃく)」・・①鎌倉時代から江戸時代まで、文書、金銭、小貨物などを送達する使いや人夫。②他人の急用の使いをする者。

      「飛脚」の源流は、古代の駅馬に発し、鎌倉時代には、京・鎌倉間に早馬を用い、7日間で通信の速達にあたり、鎌倉飛脚、六波羅飛脚、関東飛脚といった。

     その後、駅伝の法が衰退したが、戦国末期に復活、江戸幕府が通信機関として採用し、その整備に努めた。幕府公用のための「継飛脚」、諸大名が前者にならって設けた「大名飛脚」、民間の営業にかかる「町飛脚」に大別される。

17-3)「川支(かわづかえ)」・・「川止、川留」とも。川の水量が増して、人の渡ることが禁止されたり、できなくなったりすること。

17-3)「日間取(ひまどり)」・・日数がかかること。手間取ること。

17-4)「演舌(えんぜつ)」・・(1)文書でなく、音声によって説明すること。(2)多くの人の前で自分の主義、主張や意見を述べること。テキスト場面では(1)

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

     <(1)中国の古典語であるが、日本でも平安時代から幕末・明治初期まで(1)の意味で用いていた。

(2)江戸中期以降、蘭学者の間で、オランダ語 redevoering の訳語として用いられ、さらに明治時代になってから英語 speech の訳語にも当てられるようになった。なお、当時の表記としては「演説」の他に「演舌」なども見られるが、後に次第に「演説」に統一されていった。>とある。

17-5)「大兵船(だいへいせん)」・・戦用の大型船。

17-6)「取懸り(とりかかり)」・・着手する。相手に打ってかかる。

17-7)<くずし字>「南部」の「部」・・影印は「部」の旁の草書化。さらにくずして、現在のひたがなの「へ」になった。

17-7)「往来(おうらい)」・・行ったり来たりすること。人の行き来。つきあい。

17-7)「断切(たちきり)」・・行動などをさえぎりとめること。

17-8)「両諸喉」・・「喉」は「侯」か。「諸侯」は諸大名のこと。

17-8)「無勢(ぶぜい)」・・古くは「ぶせい」。人数が少ないこと。

18-1)「早舟(はやぶね、はやふね)」・・江戸時代、大坂はじめ瀬戸内海諸港を連絡した速力の早い貨客船。漕ぎ手を多くのせ、高速で走る船。

18-1)「国元(くにもと)」・・弘前藩津軽家の居城地と盛岡藩南部家の居城地。

18-1)「早打(はやうち)」・・馬を走らせて急用を伝えること、また、その使者。

18-2)「鷹野(たかの)」・・「鷹狩(たかがり)」に同じ。飼いならした鷹や隼を放して鳥獣をとらえる狩猟。古代から貴族や武家の間で行われていた。

18-3)「人数配(にんじゅくばり・にんずくばり)」・・いくつかの箇所へ人員を配置すること。

18-5)「将又(はたまた)」・・接続詞。それともまた。あるいは。

18-5.6)「被仰渡(おおせわたされ)」・・ご命令。「被仰渡(おおせわさる)」の連用形「被仰渡(おおせわたされ)」が名詞になったもの。「連用形転成名詞」という。「被仰出書(おおせいだされしょ)」など。

     *連用形転成名詞・・「流れ(流る)」「遊び(遊ぶ)」「もみぢ(もみつ)」「心得(こころう)」「浮き(浮く)」「斎(いつき・斎く)」「暮(暮る)」「など。現代用語では、「一気飲み」「かばん持ち」「仁王立ち」「立ち読み」「読み書き」「左打ち」「普段着」「模様替え」「子育て」など。

18-8)「右国元(みぎくにもと)」・・秋田藩(久保田藩)佐竹家の居城の地(現秋田県秋田市)。

18-8)「五月晦日出立」・・秋田藩では、箱館奉行からの援兵要請を、524日受け取り、翌25日に369人、26日に222人が秋田を出発している(『新国史大年表』)。

18-9)「未だ不相知(いまだあいしらず)」・・「未」は漢文訓読の再読文字で、本来は、「不」がなくても、「いまだ~ず」と読むが、テキストでは、「未(いま)だ」を再読文字にしていない。日本流(亜流)の漢文訓読といえる。

19-3)「近々(ちかぢか、きんきん)」・・しばしば。頻繁に。

19-7)「地方(じかた)」・・江戸時代、町方に対して、村方のこと。農村。

19-7)「問屋(といや、とんや)」・・「問屋場(といやば)」、「伝馬(てんま)」とも。江戸時代、宿駅で人馬の継立などをする事務所。宿の中央に一か所ある場合や、上下に一か所ずつ、あるいは、上、中、下と三か所あるなど、各宿によって異なる。ここを主宰するのは、問屋役で、年寄役がこれを補佐し、その下に、帳付、馬指、人足指、小指などがあった。

19-7)「町屋(まちや)」・・町の中にある家。町人の家。商人の家。

19-8)「雑物(ざつぶつ)」・・雑多なもの。こまごましたもの。

『蝦夷錦』6月学習注記


10
-2)「別条」・・変った事。変事。

10-2)「世上(せじょう)・・世の中。世間。

10-3)「彼是(あれこれ・かれこれ・それこれ)」・・数多くの人や事物を指し示す。あれやこれや。

10-3)「風聞(ふうぶん)」・・うわさ。風のたより。

10-4)「向々(むきむき)」・・諸方面。思い思いであること。

10-4)「無急度(きっとなく)」・・「急度」に同じ。きちんと。間違いなく。

     *「且形()部卿様御事、御隠居御慎被仰出候。夫に付ては外々にも御座候様子に候へ共、未不承候、且又 御城無急度御堅めも有之候由、此御方へも品に寄御人数被差越候様心得」(川合小梅著『小梅日記 1 幕末・明治を紀州に生きる』 東洋文庫256所収 1974

     *「一体大身之輩ハ心掛次第大部之書一二部ズツ茂蔵板致シ普ク後来ニモ相伝候様有レ之度事二候。此段十万石以上之面々江無急度可レ被二相達一候事。六月二十日。七月被二仰出」(松崎慊堂著『 慊堂日暦』東洋文庫420所収 1983

     *「きっと」は、「きと(すばやくの意)」の促音便。「急度」は当て字。

10-6)「南部」・・盛岡藩の藩主家の姓。当時の藩主:南部大膳太夫利敬(天明4.7.17~文政3.6.15)。領地:陸奥国北、三戸(以上青森県)、二戸、九戸、閉伊、岩手、志和、稗貫、和賀(以上岩手県)、鹿角(秋田県)の10郡。当時の石高10万石(文化520万石)。外様中藩(後期から大藩)。居城:盛岡市内丸。

10-6)「津軽」・・弘前藩の藩主家の姓。当時の藩主:津軽越中守(当初出羽守)寧親(寛政3.8.28~文政8.4.10)。領地:陸奥国津軽郡。当時の石高:7万石(文化510万石)。外様小藩(後期中藩)。居城:青森県弘前市下白銀町。

10-6)<くずし字>「書写」の「書」・・・脚部の「日」が省略されることがある。

11-1・6)<くずし字>「趣」・・何とも「おもむき」のあるくずし字。

11-1)「騎(き)」・・接尾語。馬に乗った人、また馬に乗ること。江戸時代、武士の身分の称の一つで、主君から知行を分与される上士をいう。

     また、『地方凡例録(寛政6年(1794))』には、「今の一騎は、知行高二百石以上。侍二人、馬口取一人、鎗持一人、草履取一人、自分とも六人也」とある。

11-4)<くずし字>「目付役」の「目」・・3~5画の横画が省略される場合がある。

11-4)「小奉行(こぶぎょう)」・・奉行の下で、これを補佐する職名。『休明光記』の「南部大膳大夫領分海辺付場所々幷箱館蝦夷地松前表備人数武器員数」中に、物頭、目付、歩武者の役職名とともに、「小奉行」の職名が見える。

11-9)「浦(うら)」・・海や湖の陸地に入りこんだ所。入江。海辺の村里。

12-4)「五月晦日」・・「晦日(みそか)」は、暦の月の初めから30番目の日、または月の末日。旧暦では、月の日数が、大の月(30日)と小の月(29日)があり、本書の「文化四年(1807)五月」は、大の月となっており、晦日は「30日」である。反対に、月の第一の日は、「朔日(さくじつ、ついたち)」である。

12-6)「タナリ島」・・クナシリ島か。『休明光記』によると、当時、箱館奉行支配調役下役元〆中村小市郎(当時シャリ会所詰合)は、クナシリ島へ参り、居合わせており、また、向井勘介(助とも)は、クナシリ詰の箱館奉行支配調役下役であったことから、「タナリ島」は、「クナシリ島」と比定できる。

12-6)「同所会」・・「会所」の「所」が脱で、「同所会所」か。または、「所」と「会」が逆で、「同会所」か。「会所」は、クナシリ島の泊(トマリ)に置かれた会所のこと。

12-7)「中村小市郎」・・当時、箱館奉行(後松前奉行に改称)支配調役下役元〆。本事件発生の際、クナシリ島に居合せた。しかし、その際の対応が悪く、後日(1215日)、(老中)牧野備前守の御下知にて、(松前奉行)村垣定行の宅に於て、左の通申渡しがあった。(『休明光記』)

        松前奉行支配調役下役元〆  中村 小市郎

      其方儀夏クナシリ島へ参り合居候節、ルシア之方に大筒の音相聞、異国船寄来候趣に候処、右場所には向井勘助壱人詰合罷在候を取急不心付、自分持場江罷越とは乍申、右場所引取候段不行届之儀に付、急度可叱置旨、牧野備前守殿被仰渡候。   

12-7)「向井勘介」・・「勘助」とも。当時、クナシリ島詰合の箱館奉行支配調役下役。本件事件発生の際、クナシリ島の防御の手配などに功績があり、老中から以下のとおり、お誉があった。(『休明光記』)

      魯西亜船相見候節防方手配之次第委細老中衆へ申達候処、心掛宜一段之事        

      に候旨被申候、此段申聞誉置可被申事。(箱館奉行より、名代の者に対して申渡があった。)

12-9)「ヘシヨコタン」・・不詳。記述の内容は、「ナイホ」への襲撃事件であることから、「ナイホ」のことか。

132.3)「ゑとろふ之会所」・・ヱトロフ島の会所は、シヤナ(紗那)に置かれていた。

13-1)「生捕(いけどり)」・・「いけ」は生かしておく意の「いける」の連用形から。

つかまえること。捕虜にすること。

13-3)「浪懸(なみがかり)」・・船を碇泊させる意の「澗懸(まがかり)」の誤りか。

13-4)「御番所(ごばんしょ)」・・番人の詰め所。江戸時代、交通の要所などに設けられ、監視、徴税などを行った所。ここでは、クナシリ島に置かれた箱館奉行所の役人の詰め所。「御(ご)」は、番所を敬って言う語。

13-5)「相囲(あいかこみ)」・・連用形。「相」は、接頭語で、動詞についた場合は、語調を整え、また、意味を強める。「囲う」は、中にとりこめて周囲をふさぐ。害から守ってやる。助けまもる。

13-8)「唐太島一件」・・前年(文化3年)に起こった樺太オフイトマリやクシュンコタンへロシアによる襲撃事件をさすか。

14-1)「出来兼(できかね)」・・「かねる」は、補助動詞として用いられる場合は、動詞の連用形について、「~し続けることができない。~しようとしてもできない。」と否定のために用いられる。

14-2)「難計(はかりがたき)」・・「難計」と返読。「計る」は、思いめぐらす。配慮する。「難い」は、難しい。容易でない。困難だ。「計りがたい」は、思いめぐらすことができない。考慮できない。

14-2)「増人数(ましにんずう)」・・「増し」は、「増す」の連用形の名詞化した形で、増すこと。「増人数」は、「増員」の意。箱館奉行は、518日、盛岡、弘前両藩に増兵を、秋田、庄内両藩には援兵を命じた。これを受け、弘前藩は、523日、692人を派遣。秋田藩は、525396人、同26222人計618人が秋田出発。盛岡藩は、65日から806人が盛岡出発。庄内藩は、526319人を派遣。(『新国史大年表』日置英剛編著 図書刊行会)

なお、『新北海道史』では、各藩の人数は、南部藩兵692人(ほかに定式人数250人)、津軽藩兵500余人、秋田藩兵591人、庄内藩兵319人としている。

14-4)「申越(もうしこし)」・・連用形。手紙や使いなどで、言ってよこす。

14-4)「在所(ざいしょ)」・・江戸時代、大名の政庁の所在地、または、旗本や給人の知行地をいう。

14-5)<くずし字>「以上」・・書簡文の末尾を、「以上」という語で結ぶことを「以上止め」という。かなりくずされて、連綿体になる場合がある。

14-6)「南部大膳大夫」・・本御届書の差出人「南部大膳大夫」となっているが、その前の御届書(P10P12)も同じ「南部大膳大夫」となっており、差出月日も、同じ「五月晦日」になっている。同日の日付で、かつ、同じ大名から、幕府への御届出書二通が出されるのが、本御届書の差出人は、「津軽越中守」か。

14―8)「私(わたくし)」・・自分自身に関すること。一人称の代名詞。男女ともに丁寧な言い方として、多く目上の人に対するときやあらたまった場面などで用いられる。ここでは、津軽越中守か。

14-8)「領分(りょうぶん)」・・領有する分。所有する地域。領地。

14-8)「北郡(きたぐん・きたごおり)」・・陸奥国にあった郡。江戸期は南部藩領。現在の下北郡、上北郡、むつ市、十和田市、三沢市にあたる地域。中世以来、南部氏領(盛岡藩領)に属し、正式に北郡という名で呼ばれたのは、江戸時代初期。津軽郡および三戸郡(津軽藩領)に接していた。。明治11(1876)上北・下北の二郡に分かれたため「北郡」は消滅した。津軽越中守が幕府に対する御届書で、南部藩領の北郡について、「私領分」というのは、矛盾がある。

14-8)「田名部(たなぶ)」・・現青森県むつ市の地名。北郡のうち。江戸時代、盛岡藩領。寛文13年(延宝元年 (1673))、盛岡藩の田名部代官所が設置され、田名部通34ケ村を統治し、下北半島の行政上の中心地。このため、下北半島一円を田名部と総称することもあった。

14-8)「佐久浦」・・「佐久」は「佐井」か。「佐井」は、現青森県下北郡佐井村。盛岡藩領の北郡田名部通に属す。下北半島西北端、津軽海峡に注ぐ大佐井川と古佐井川の河辺に位置。享和3(1803)、箱館への渡航地として幕府から指定された。また、寛政5(1793)、黒岩に船遠見番所、文化5(1808)東村に大砲3門、矢越に同8門設置された。なお、佐井は、ヒバの産地、積出港としても栄えた。

14-9)「巳ノ下刻(みのげこく)」・・「下刻」とは、一刻(2時間)を、上、中、下刻に三分した最後の時。したがって、「巳の下刻」は、午前11時30分頃をいう。

14-9)「異国船一艘」・・アラスカ・広東間の毛皮貿易に従事し、津軽海峡を通ってペテルパブロフスクに向かった米国船「イクリプス号」か。

『蝦夷錦』5月学習注記

(5-1)「候之義」・・普通は、「候義」で助詞「之」はないのが一般的だが、「之」が挿入されている文書もある。組成はハ行四段活用動詞「候」の連体形「候」+格助詞「の」+形式名詞「義」。ほかに「候之間」「候之処」「候之時」「候之条」「候之由」「候之旨」「候之様」など。

     *「候」の活用:は(未然)・ひ(連用)・ふ(終止)・ふ(連体)・へ(已然)・へ(命令)。終止形と連体形が同じ「さふらふ」(現代仮名遣いでは「そうろう」)

     *格助詞「の」の接続:「の」は、体言と活用語の連体形に接続する。

     *形式名詞:国文法で、名詞の下位分類の一つ。松下大三郎の用語。それ自体には実質的意義が薄く連体修飾語を受けて名詞句を作る。和語では「こと・もの・あいだ・うち・とおり・とき・せい・はず・かた・ほど・よし・ふし・ところ・ゆえ」など、漢語では「件・儀(義)・体(てい)・方(ほう)・点・段・分」などがある。「事(こと)重大である」「そんなことをいうと為(ため)にならぬぞ」など、単独に用いられる場合は特に「実質名詞」として区別される。

**「形式名詞は形式的意義ばかりで実質的意義を欠く名詞である」(松下大三郎『標準日本口語法』〔1930〕)

     *連体形+「の」について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

     <中世中頃、漢文訓読の場から、「あざむかざるの記」と書くような用法が成立する。連体形は連体格表示機能を有するから、その下にさらに連体格助詞「の」を用いることは本来あり得ないが、漢文の字面を離れても置字のあることがわかるようにとの配慮から、朱子新注学を奉ずる人々が従来不読の置字であった助字「之」を読んだところから生じたもの(小林芳規「『花を見るの記』の言い方の成立考」〔文学論藻‐一四〕)。>とある。

(5-5)「伯父(おじ)」・・父または母の兄弟。また、父または母の姉妹の夫。若年寄堀田摂津守正敬と仙台藩9代藩主松平政千代との関係は、正敬は、政千代の父(仙台藩8代藩主斉村)の弟にあたり、政千代にとって中国の序列に従えば、「叔父」になる。

*中国では、兄弟の序列は、「伯・仲・叔・李」の順。

**「伯仲(はくちゆう)」・・伯・仲・叔・季のうちの伯仲。一番上の兄と次の兄の間にある差という意味で、ほとんど変わらないこと。優劣がつけにくいこと両者匹敵する状態をいう。

傅毅之於班固、伯仲之閒耳。[傅毅(ふき)の班固(はんこ)に於ける、伯仲の閒なるのみ。]

〔(後漢の章帝のときに宮廷に仕えていた)傳毅と班固においては、(その才に)優劣はありませんでした。]

*<くずし字>「伯父」の「伯」の旁の「白」・・極端に崩れると、左右の縦画が「ヽ(点)」になる場合がある。

(5-5)「合力(ごうりき)」・・力を貸して助けること。金銭や物品を恵み与えること。

(6-1)「調役下役(しらべやくしたやく)・・奉行所の役職名。303人扶持。役扶持3人扶持。役金30両。なお、当時の松前奉行所の体制は、奉行→吟味役→吟味役格→調役→調役並→調役下役元締→調役下役→同心。

(6-1)「庵原直市」・・「直一」とも。(『休明光記附録別巻三』)。また、慶応三年の『履歴明細短冊』でも、箱館奉行支配向調役下役(定役)庵原勇三郎の祖父として、「庵原直一」の名前がある。

     *「庵原」の読み(『人名漢字辞典』)

テキスト ボックス: 姓	読み方
庵原	     あいはら
庵原	あまはら
庵原	あんばら
庵原	いおはら
庵原	いおばら
庵原	いおりはら
庵原	いはら
庵原	いばら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


(6-3)「寺西十次郎(てらにしじゅうじろう)」・・「重次郎」とも。寺西重次郎封元(たかもと)。幕臣。禄高705人扶持。徒組頭から陸奥国代官に昇進(『江戸幕府旗本人名辞典』)。寛政4(1792)塙代官として赴任。人口増のため、妊産婦登録制、乳幼児の保護と指導、衣服の簡素化、農村振興策、商工業振興策など多岐にわたる業績を上げた(『角川日本地名辞典』)。また、『国史大辞典』では、寺西封元を寛政の改革から文化期にかけての名代官の一人に挙げている。

(6-3)「花輪」・・「塙(はなわ)」か。陸奥国白川郡のうち。現福島県東白川郡塙町。享保14((1729)から幕府領として塙代官所が支配。塙代官所が所管役所(出張陣屋)を置いたのは、竹貫、小名浜、浅川。

(6-5)「郡中(ぐんちゅう)」・・小名浜は、陸奥国磐前(いわさき)郡に属しており、磐前郡を含めた小名浜陣屋の管轄地をさすか。

(6-4)「男名濱(おなはま)」・・「小名浜(おなはま)」か。陸奥国盤前(いわさき)郡のうち。現福島県いわき市小名浜。米野村、中島村、中町村、西町村の4か村の総称。寛文10((1670)河村瑞賢によって東廻り海運が創始されると、小名浜港は重要な寄港地となる。

(6-8)「御殿(ごてん)」・・代官は、勘定奉行の支配下にあることから、勘定奉行、若年寄、老中らの幕閣が勤務する江戸城さすか。

(6-8)「実音」・・「実音也」は朱書きとなっており、7頁の朱書きに続いている。

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『蝦夷錦』4月学習注記(1)

【書誌】

  本書の影印は、昭和8(1933)127日、北海道帝国大学附属図書館(現北海道大学附属図書館)の所蔵になった『蝦夷錦』である。成立年は文化4(1807)

内容説明 文化丁卯事件の際の公私文書を収録。不正確な情報とデマの流行に当時の     狼狽振りがよくあらわれている。

【文化露寇事件まで】(『新北海道史年表』参照)

<寛政4年(1792)

9.5 ロシアの遣日使節ラックスマン、大黒屋幸太夫をともないネムロに入津。修好要望の書簡を持参。

<寛政5(1793)

6.27 ラックスマン、幕臣石川忠房より長崎に至るべき信牌の交付をうける。

<寛政11(1799)

1.16 幕府、書院番頭松平信濃守忠明・勘定奉行石川左近将監忠房・目付羽太庄左衛門正養(まさやす)ら、東蝦夷地仮上知に付、この件の担当老中戸田采女正氏教より、蝦夷地取締御用を命じられる。

1.16 幕府、異国境取締のため、東蝦夷地を当分の間、試みに上知する旨松前藩に通達(上知の範囲を東蝦夷地浦川より知床および東奥島までとし、期間を7か年。『松前家記』によれば211日に松前藩に通達。)

6.- 松前藩、東蝦夷地の仮上知にともない幕吏の松前藩領往来繁雑にて困難の筋もあるにつき、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知を内願(同じ頃仮上知の代地も内願)。

8.12 幕府、内願のとおり5000石の代地(武蔵国埼玉郡の12か村)を下付し、追上知を認める旨、松前章広に達す。

11.2 幕府、箱館表の警固を罷め、サハラならびにクスリ辺に勤番所を取建て、御用地年限中、重役の者2~3人、足軽1000人程を駐留させるべき旨、南部大膳太夫・津軽越中守に命じる。毎年、双方より、500人ずつ足軽を派遣、津軽藩は、サハラよりウラカワまで、南部藩は、ウラカワ以東を固め、南部・津軽藩は、箱館にそれぞれ本陣を置き、以後、津軽藩は、サハラ・エトロフに、南部藩は、ネモロ・クナシリ・エトロフに勤番所を補理する。

<寛政12(1800)

2.16 幕府小納戸頭取格戸川藤十郎安諭(やすのり)・小納戸大河内善十郎政良、蝦夷地巡見を命じられる。3月江戸出発、東蝦夷地クナシリ島まで巡見、9月帰府。

<享和元年(1801)

4.1 松平忠明・羽太正養・石川忠房、箱館に到着。忠明は4.22箱館出発、勇払よりシコツ川を通り西蝦夷地を巡見、7.7箱館帰着、7.10帰帆。正養は4.22箱館出発、東蝦夷地をクナシリ島まで巡見、9.5箱館帰着、福山見分、9.16出帆。忠房は4.21箱館出発、東蝦夷地をシレトコ崎まで巡見、7.10箱館帰着、出帆。

5.30 幕府普請役中村小市郎・小人目付高橋次太夫、カラフト島見分の命を受け、東海岸を小市郎が担当してナイブツまで、西海岸を次太夫が担当してショウヤ崎まで検分、8月山丹交易事情や松前藩の樺太の取扱い等を復命。

6.27 幕府支配勘定格富山元十郎・仲間目付深山宇平太、ウルップ島見回り御用にて、エトロフ島シベトロを出船、ウルップ島オカイワタラの岡に「天長地久大日本属島」の標柱を建て、ラッコ猟のためトウボ滞在中のロシア人に遇い、その状況をさぐり、7.7シベトロに帰着。

<享和2年(1802)

2.23 幕府、蝦夷地奉行を新設。戸川筑前守安諭・目付羽太庄左衛門正養(12.16安芸守に任ぜられる。)をこれに任命。

5.10 幕府、蝦夷奉行を箱館奉行と改称。

7.24 幕府、東蝦夷地の仮上知を改め、永上知とする旨松前藩に申渡す。永上知の代価として年々3500両ずつ下付し、武州久喜の所務および東蝦夷地収納よりの下渡金を廃止。

12.14 幕府、戸川安諭、羽太正養に1年毎交代にて箱館在勤を下命。

<享和3癸亥年(1803)

1.18 幕府、箱館奉行支配調役6人・同調役並5人、同調役下役10人を任命、箱館奉行所の体制を整える。2.2321人のうち14人在勤、7人を江戸掛と決定。

<文化元年(1804)

4.21 箱館奉行羽太正養、江戸出発、箱館に到り、戸川安諭と交代。

8.2 幕府、南部・津軽藩の蝦夷地勤番を寛政11年より7か年間の期限付きから永々勤番に改める。

9.6 ロシアの遣日全権使節レザノフ、クルーゼンシテルンの率いる世界周航の探検隊と共に、ナデジダ号に搭乗し、仙台の漂流民津太夫ら4人を伴い長崎に来航。通商をもとめる。レザノフは、上陸中も幽囚同様の扱いを受けた。レザノフは、寛政4(1793)に松前で幕府がラックスマンに交付した信牌を携えた正式な使節であった。

<文化2年(1805)

3.7 ロシア使節レザノフ、長崎奉行所にて、奉行肥田豊後守、幕府派遣の目付遠山金四郎出席のもと、通商要求を拒絶される。

3.18 ナデジダ号、レザノフをのせて長崎出航。日本海を北上してカムチャッカに向かう。レザノフは、帰国後、ロシア皇帝に樺太の領有を具申し、かつ部下のスヴォストフとダヴィドフに報復処置を示唆するという。

7.16 幕府、目付遠山金四郎・勘定吟味役村垣左太夫定行に、西蝦夷地派遣につき準備を命じる(西蝦夷地を収公するための調査と考えられている。)。遠山金四郎は、勘定・徒目付などを伴い閏8.13江戸出発、冬(10.3)福山に到着。村垣左太夫は病気のため途中引き返し、翌年春福山着。

 

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