森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

蝦夷嶋巡行記

12月学習 巡行記 注

(104-1)「のほ(ぼ)り」の「ほ(ぼ)」:変体仮名。字源は「本」。「不(ふ)」に見える。

(104-2)「天神の社」:現北斗市矢不来に鎮座する「矢不来天満宮」。伝承によると、文和年間(135256)の頃、当地に漂着した菅原道真の木像を安置したことに始まるという。『山川取調図』に、「ヤキナイ」の隣に「天ジン下」の名がみえる。

(104-2)「茂部地村」:茂辺地か。現北斗市のうち。近世、東在の村の一つ。茂辺地川右岸に位置し、東は箱館湾に面する。『山川取調図』に「茂辺シ」の名がみえる。

(104-3)「さがり」の「さ」:変体仮名「さ」字源は現行ひらがなの字源の「左」。

    *「左」と「右」:左の「工」は巫祝(ふしゅく=神事をつかさどる者)のもつ呪具(じゅぐ。呪術に用いる道具)。右の「口」祝を収める器をもつ形。左右は神を尋ね、その祐助を求めるときの行動を示す。ゆえに(尋)は左右を重ねた形。左右は援助を意味する語となる。(『字通』)

(104-3)「館(たて)跡」:『新羅之記録』に記された渡島半島に所在した和人の領主層の道南十二館の一つ、「茂別館」跡をさす。『山川取調図』には、「タテノ下」の名がみえる。なお、注記末尾に資料を添付した。(資料①道南十二館の名称と所在地。②館跡・周辺の考古学的知見) 

(104-4)「幅弐拾間計の川」:茂辺地川。流路延長20.6㎞の2級河川。

(104―5)「ちいさき平場」:小さな平地のこと。

(104-6)「當別村」:現北斗市の内。字名に「当別」の名がみえる。近世、東在箱館付村々の一つ。大当別川および当別川流域にあり、南は三石村に接する。『山川取調図』に、「トウベツ、大トウベツ」の名がみえる。

(104-6)「弐拾間程」:「間」は「軒」か。

(105-1)「三ツ谷村」:『山川取調図』の道順と照合すると、「三石村」の誤りか。「三石村」は、現北斗市のうち。「三ツ石村」とも。近世は、東在箱館付村々の一つ。『山川取調図』に「三石」の名がみえる。

(105-1)「打過(うちすぎ)」:「うち」は接頭語。ある場所を通り過ぎる。通過する。

(105-3)「泉沢村」:現木古内町のうち。字名に「泉沢」の名がみえる。近世、東在に存在した村の一つ。元禄郷帳には「いつみ沢村」、天保郷帳には、「泉沢村」としてその名がみえる。『山川取調図』には、「泉サワ」の名がみえる。

(105-2)「やと(ど)り」:(動詞「やどる(宿)」の連用形の名詞化。宿をとること。旅に出て、他の家などで夜寝ること。また、その所。

(105-3)「走野川」:泉沢村と札苅村の境を流れる「橋呉川」か。『廻浦日記』に「ハシクロ 川有、巾十間計。村境なり。」とある。『山川取調図』に「ハシクロ」の名がみえる。

(105-3)「札狩村」:「札苅村」。現木古内町のうち。字名に「札苅」の名がみえる。木古内町の北東に位置し、東から南は津軽海峡に面し、ほぼ南流する幸連川が海峡に注ぐ。『山川取調図』に、「札苅」の名がみえる。

(105-3)「大平川」:木古内町を流れる普通河川。

(105-4)「喜古内村」:現木古内町木古内。木古内町域の南端に位置し、北は札苅村、東は津軽海峡に臨む。『山川取調図』に「木子内」の名がみえる。

(105-4)「喜古内川」:木古内町内を流れる二級河川。流路延長13.6㎞。『山川取調図』に「キコナイ川」の名がみえる。

(105-4・5)「館有川」:建有川、立有川とも当てる。安政2年(1855)、蝦夷地再直轄の際、建有川~乙部間は、松前領として残った。(資料③参照)

(105-5)「中ノ川」:「中野川」。木古内町内を流れる二級河川。『山川取調図』に「中ノ川」の名がみえる。

(105-5)「森越川」:知内町内を流れる普通河川。『山川取調図』に「モリコシ川」の名がみえる。

(105-5)「大茂内川」:知内町内を流れる普通河川「重内川」。

(105-5)「尻内川」:大千軒岳(標高1071.6m)に源を発し、知内町内を流れる二級河川「知内川」。流路延長34.7㎞。『山川取調図』に、「知内川」の名がみえる。寛政11(1799)812日、知内川以東が幕府の直轄地になった。(資料③参照)

(105-6)「尻内村」:現知内町。近世、東在の村の一つ。北は木古内村、南は小谷石村。西は七ツ岳、袴越岳、岩部岳、南は丸山、灯明岳が連なる山岳地帯。東は津軽海峡に臨む。知内川河口部に集落を形成。

(106-1)「山本」:道順から、知内町に所在する、千軒岳麓の「知内温泉姫の湯」か。

『廻浦日誌』に、「温泉、従追分十丁余、山間、人家意一軒、温泉壺一ツ有」とある。

(106-2・3)「真土(まつち)」:耕作に適している良質の土。

(106-3)「一ノ渡」:『廻浦日記』に、知内村と福島村の村境に「網張野、一之渡野、一ノ渡」と「一之渡」の名がみえ、「川巾十間計、転太石川、此川本川也。」とある。また、『日本歴史地名大系 北海道の地名』には、「明治元年十一月、榎本軍は、(福島村の)一ノ渡、山崎などで、松前藩兵と戦闘を行っている。」とある。

(106-4)「弁当」:容器に入れて携え、外出先で食べる食べ物。

(106-5)「福嶋村」:現福島町。近世、東在の一村で、現福島町の北部から東部一帯を占めていた。枝郷を含めると、東は矢越岬を越え、知内村涌元(現知内町)近くの蛇ノ鼻から、西は慕舞西方駒越下の腰掛岩までの海岸線と、北は一ノ渡(字千軒)を越え、知内温泉(現知内町)近くの湯の尻、栗の木堪坂までの広範な地域。『山川取調図』に「フクシマ」の名がみえる。

(106-5)「出立掛(しゅったつがけ)」:出かける時。出発するまぎわ。でがけ。

   「でがけ」は、出たばかりのところ。出だし。第一歩。

(106-5)「白符村(しらふむら)」:現福島町白符。近世は、東在の一村で、「白府」、「白負」とも。『山川取調図』に「白府」の名がみえる。

(106-6)「間内と言川」:「澗内(まない)川」。白符村の南端を流れる二級河川。流路延長37.4㎞。

(106-6)「宮哥(みやのうた)村」:現福島町宮歌(みやうた)。近世、東在の一村。宮歌川の流域に位置し、北方は白符村、東は津軽海峡。『山川取調図』に「宮ノウタ」の名がみえる。

(107-1)「吉岡村」:現福島町字吉岡、字館崎、字豊島、字深山。近世は東在の一村で、吉岡川の流域に位置。道南十二館の内、穏内(吉岡の古名)館があった。吉岡澗(湊)は、「東向の湊ニ而、城下澗(松前湊)より風の憂」なく、「50艘程入選することもある」といわれている。『山川取調図』に「吉岡」の名がみえる。

(107-3)「礼髭村(れいひげむら)」:現福島町字吉野、字松浦。「レヒゲ」とも。近世、東在の一村。北方は吉岡村、東は津軽海峡。『山川取調図』に「礼ヒケ」の名がみえる。

(107-6)「大嶋」:松前大島とも呼ばれ、松前町字江良の西方約56キロにある無人の三重式火山の島。松前小島の北西にある。『山川取調図』に「大島 周七里」とある。

(107-6)「小嶋」:松前小島とも呼ばれ、渡島半島から南西へ約24キロ離れた日本海上に浮かぶ孤島。周囲約4キロ、標高約293メートル。『山川取調図』に「小島 周二里余」とある。

(108-1)「行事(いくこと)」:「古」+「又」は、「事」の異体字。

(108-2)「炭焼沢と言村」:「炭焼沢村」。現松前町字白神。近世、東在城下付の一村。渡島半島南西端に位置し、半島の突端は、白神岬。『山川取調図』に「白神」、「スミヤキ」とある。

(108-3)「荒谷村」:現松前町字荒谷。近世、東在城下付の一村。松前湾に注ぐ荒谷川河口域に位置する。『山川取調図』に「アラヤ」の名がみえる。

(108-3)「大澤村」:現松前町字大沢。東在城下付の一村で、大沢川河口域位置する。『山川取調図』に「大サワ」の名がみえる。

(108-4)「根森村」:現松前町字大沢。近世は、東在城下付大沢村の支郷。『山川取調図』に「子(ネ)モリ」の名がみえる。

(108-4)「大泊川」:現松前町字月島、字豊岡、字東山付近を流れる伝治沢川。享保―宝暦期に、「伝治沢川」を「大泊川」と称していたとある。

(108-5)「唐津内」:現松前町唐津内。近世、城下付の一町。城下のほぼ中央に位置し、南は海に臨む。『蝦夷日誌』では、「此町、中買、小宿、請負人にし而伊達、山田、山仙等有て町並美々敷立並たり。南面海ニ面し船懸り澗有、上の方太夫松前内記、蠣崎蔵人邸等有」と記されている。『山川取調図』に「カラツナイ」の名がみえる。

(109-2)「道法は凡五百里余」:巡見に同行した武藤勘蔵の『蝦夷日記』では、「道法往返にて五百五十六里」となっており、本書とは、約五十里程の差がある。

(109-2・3)「可有之なり(これあるべきなり):断定の助動詞「なり」は、体言と副詞、活用語の連帯形に付く。助動詞「ごとし」には「ごとくなり」のように連用形に付く場合もある。連体形に付く例は上代にはなく、中世以後。

(109-4)「未(ひつじ)九月」:寛政11年(1799)己未。蝦夷地巡検の日程は、寛政10年(1798)戊午4月江戸出立、5月16日松前唐津内到着。5月25日松前出立~(巡見)~8月22日松前唐津内到着となっており、筆者が、本書の『蝦夷嶋巡行記』を著したのは、一年後の翌寛政119月。

(109-4)「公暇齋蔵」:幕吏か。「公暇」は、「官公吏などに公に与えられた休暇」を意味するから、筆名か。筆者は、寛政10(1798)、幕府の蝦夷地調査隊の勘定吟味役・三橋藤右衛門一行の西蝦夷地巡検に参加した巡検隊のひとり。

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『蝦夷嶋巡行記』11月学習分 

(98-1)「昔シ戦」:蠣崎氏が松前氏に改称したのは、慶長四年(1599)であるから、それ以前の戦。アイヌとの抗争は、長禄元年(1457)のコシャマインの乱、永正十二年(1515)のアイヌの蜂起、大永五年(1525)の東西両道のアイヌの蜂起がある。

(98-1)「あない」:案内。「あんない」の撥音「ん」が表記されなかった語。

(98-3)「アカイ川」:現森町字赤井川付近。近世、宿野辺村の内。河川の赤井川は、村内を流れ、南境で宿野辺川に合流する。『山川取調図』に「赤川」、「シユクノヘ」とある。

(98-3)「シタヌツペ川」:「シユクノヘ川」か。『廻浦日記』には、宿野辺川について、「(赤川) 宿の部、前に川有、巾五六間、橋有。此川小沼の水大沼に通ふ筋也。」とあり、『山川取調図』には、「赤川 シユクノヘ」とあり、本書の「アカイ川、シタヌツベ川」とする道順に適合している。

(98-3)「やち」:谷地。野地。沢、谷などの湿地。「やつ」、「やと」とも。

(98-4)「小沼」:現七飯町の北部、駒ケ岳西壁剣ヶ峰南麓に所在し、「大沼」の南西に位置する「小沼」。周囲16.25㎞、面積3.8㎢。

(98-5)「小峠」:『廻浦日記』には、「小沼から少し坂に上り、小沼峠」とあり、この「小沼峠」が、「小峠」か。

(98-6)「くたること」:「下ること」。「こと」は、合字(または「事」の略字)で、「る」と「五」の間に挿入されている。

(98-6)「大沼」:現七飯町の北部、駒ケ岳西壁剣ヶ峰南麓に所在する「大沼」。周囲20㎞、面積5.12㎢。

(99-1)「大峠」:『蝦夷日誌』には、「峠下から大峠を越えて大沼に至り、さらに小沼峠を下って小沼に行く。」とあり、「峠下」と「大沼」間にある峠をいうか。『廻浦日記』には、「大沼峠」とある。茅部峠・長坂峠ともいう。

(99-2)「蝦夷地と松前地の境なり」:享和元年(1801)、ヤムクシナイ(山越内)に関門ができるまで、茅部峠(大峠)が、松前地(和人地)と蝦夷地の境界だった。

(99-2)「纔(わずか)」:決まり字。影印の旁の脚部の「〃」は「兎」の繰り返し記号。

(99-2)「なゝへ村」:現七飯町。「七重村」、「七々井村」とも。近世、東在の一村で、現町域の南西端近く、久根別川の中流域に位置した。後年、明治三年(1870)に、開拓使が設けた農事試験場である「七重官園」が置かれた。『山川取調図』に「七重」とある。

(99-4)「箱館の湊」:函館湾の南東部に位置する湊。松前三港(津)の一つ。享保以降(17411736)松前藩の場所経営が請負制に移行して商品流通が活発になると、箱館を通行する船舶が増加。特に、東蝦夷地からの荷物の集荷湊として飛躍的に発展し、寛保元年(1741)、それまで亀田に置かれていた番所が箱館に移された。嘉永7(1854)三月、日米和親条約が締結され、六月に上知され、安政2(1855)には、薪水・食料の補給港として開港された。

(99-4)「つヽく」:「徒」は「つ」、「ゝ」は「(つ)の踊り字」、「具」は「く」。「続く」で、切れずにつながる。連続する。

(99-4)「そは」:「蕎麦(そば)」。タデ科の一年生作物。種子をひいてそば粉とする。

(99-4)「粟(あわ)」:イネ科の一年草。ヒエとともに古くから栽培される。五穀の一

      つで、飯や団子にしたり、酒、飴などの原料とする。

(99-5)「稗(ひえ)」:イネ科の一年草。実は黄色く細い粒で、食用、鳥の飼料用。丈夫で災害に強く、やせ地にも育つので、古来、備荒作物として栽培する。

(99-6)「女郎花(おみなえし)」:オミナエシ科の多年草。山野に自生。夏から秋にかけて茎頂に、黄色の小さな花が傘状に群がり咲く。秋の七草の一つ。

           *「女郎花(おみなえし)」の語源について<「オミナエシは黄色い粒のような花をたくさん咲かせ、その姿が昔の女性の食べ物とされた“粟飯”に似ているため「女飯(おんなめし)」と呼ばれ、それが徐々に訛って「オミナエシ」に変化したともいわた>など、諸説あり。

(99-6)「ふかく」:「深い」は、夜になってからかなり時がたっているさまをいう。また、夜が明けるにはまだかなり間があるさまをいう。

      *宇津保物語・楼上上「夏のはじめ、ふかき夜のほととぎすの声」

*源氏物語・葵「はかなき御屍ばかりを御名残にて、あかつきふかく帰り給」

(100-1)「大野村」::現北斗市の内。旧大野町。近世は東在の村の一つで大野川の中流域に位置し、内陸部の村落で、元禄郷帳には大野村とみえる。また、天保郷帳には、大野村の枝村に本郷、千代田郷、一本木郷の名がみえる。『山川取調図』に「大ノ」とある。

(100-2)「文月(ふみづき)むら」:現北斗市文月。近世、東在の村の一つ。大野川の支流文月川の流域に位置し、北から東は大野村。北海道(蝦夷嶋)で最初に稲作が試みられた土地で、貞享2(1687)説、元禄5(1692)説がある。『山川取調図』に「文月」とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

(100-2)「隣村(となりむら)」の「隣」:現行の「隣」は、部首は「阜(おか)」部。(偏になったときは「阝」=こざと)で、「阜」は、丘や丘状に盛り土したもの。「邑(むら)」(旁になったときは「阝」=おおざと)は、人が群がり住むところ、「むら」を表す。したがって、「鄰」が本来の正字。

      *なお、周代の行政区画名でもあり、五戸を「隣」、五隣を「里」という。

(100-2)「差渡(さしわたし)」:直径のこと。

(100-4)「ゑごま」:荏胡麻。秋、シソに似た穂を出し白い小花を開く。種子より「荏(え)の油」を取る。シソ科の一年草。種(しゅ)としてはシソと同種。東南アジア原産で日本では畑に栽培され、また野生化もしている。全体に特有な匂いがある。茎は高さ八〇センチメートル内外の角柱形で白毛が生じる。葉は、長さ七~一二センチメートル、幅五~八センチメートルの卵円形で対生し、先がとがり縁に鋸歯(きょし)があって裏は淡紫色。夏、白い唇形の花が密生した穂を茎頂および葉腋(ようえき)から出す。果実は四つに分かれ小球形で油がとれ、これを荏の油といって昔は灯油用をはじめ防水用、印刷インキなど広範囲に用いられ栽培も多かった。漢名、荏。え。しろじそ。じゅうね。おおえのみ。えこ。

(100-4)「五升芋(ごしょういも)」:ジャガイモの別名。馬鈴薯とも。一つの種いもから五升とれるところからの呼称。

(100―5)「へな土(つち)」:埴土。粘りけのある土、粘土。ここでは、赤黒い色をした粘土のこと。「へな」の語源説に、「ニ(埴)の転」などがある。

(101-1)「よろしかるへき所」:形容詞(よろし)の連体形「よろしかる」+助動詞(べし)の連体形「べき」+詞の「所」。「似つかわしそうに思われるべき場所」の意。

(101-1)「家こと」:「こと」は、合字。家毎(ごと)。

(101-2)「なしの木」:「梨」の木。

(101-3)「鍛冶在所村」:現北斗市千代田。千代田村は近世大野村の枝村であったが、『検考録』に「枝村の鍛冶在所が、(千代田と)大野の間にある。」とある。

       『山川取調図』に「カシサイ所」とある。

(101-3)「矢田村」:「千代田村」の誤りか。近世、東在の村名(枝村を含む。)に「矢田村」と称する村はない。「千代田村」については、大野川下流域左岸に位置し、近世、大野村の枝村として、『山川取調図』には「千代田」とある。

(101-4)「大野川」:箱館平野の西部をほぼ南東流する二級河川。流路延長28.6キロメートル。大野町字本郷から南流し、以後箱館平野を蛇行して上磯町で、函館湾に注ぐ。

(101-5)「フ子ベチと言川」:「久根別川」か。久根別川は、箱館平野の東部をほぼ南流する二級河川。かって久根別川は、旧上磯町(現北斗市)追分で、西方に転じ、大野川に合流したとある。なお、「クン子ベツ」は夷語で、「クン子は、黒い又濁るの訓にて、ベツは川なり」として、「濁川と訳す」と『地名考幷里程記』にあり、『山川取調図』には、「ニコリ川」と「ク子ベツ」の名がみえる。

(101-5)「龜田村」:現函館市亀田町ほか。亀田半島の基部、亀田川流域にあり、西は箱館湾、南は津軽海峡に面す。近世は東在の村で、箱館よりも先に開け、元禄郷帳、天保郷帳ともに「亀田村」と記されている。元文四年(1749)成立の板倉源次郎の『北海随筆』には、「西は熊石、東は亀田、此両所に関所有て、是より外は蝦夷地とする。」とあり、和人地(松前地)の東境で、松前藩の関所が置かれていた。

(101-6)「八幡宮(はちまんぐう)」:亀田八幡宮。田川の右岸にあり、北海道教育大学函館校と市道八幡通一号を挟んで対面して所在する。祭神誉田別命。旧郷社。「渡島国地誌提要」によれば藤原則房が蝦夷鎮静のため宇佐から遷祭し、明応3年(1494)河野加賀守森幸が社殿を造営したと伝える。慶長8年(1603)・延宝2年(1674)にも造営がなされている。「北海道志」巻一〇は社殿の造営を明徳元年(1390)とし、「明治神社誌料」では同年森幸が越前気比(けひ)神宮(現福井県敦賀市)から応神天皇の分霊を奉じて当地の鎮守として千代(ちよ)ヶ丘に奉斎したのに始まると伝える。文禄3年(1594)蠣崎氏の祈願所となり、慶長八年松前盛広が本殿・拝殿を建立。以後延宝2年・享保9年(1724)と松前氏による修繕をうけ崇敬社としての地位を築く一方、当地の氏神としても崇信を集めた(函館市史)。五月節句には競馬が行われた(「蝦夷日誌」一編)。

       明治2年(1869年)517日に旧幕府軍榎本武揚・大鳥圭介等がここで降伏を黒田清隆に誓約の地でもある。

(101-6)「領主の別荘」:寛政3(1791)の『東蝦夷地松前ヨリアツケシ迄道中記(東蝦夷地道中記)』には、「亀田村は松前藩主直領で」、「藩主の隠居所、八幡宮、弁天宮がある」と記されており、この隠居所をさすか。

(102)「亀田番所」:慶長(15961615)末期には、東在の境として、亀田村に番所が置かれ、松前藩士が詰めていたとされていたが、その後、箱館の方が、東蝦夷地からの荷物の集荷湊となって飛躍的に発展したことから、寛保元年(1741)、亀田番所は、箱館に移設されている。したがって、本書時の亀田番所の所在地は箱館であった。

(102)「片かは町(まち)」:「片町」とも。川や海岸、谷、崖、そのほか武家屋敷などの関係で、道の一方側だけに家が建ち、町名が付されている街並みのこと。これに対し、道の両側に、向かい合って家が建ち、同じ町名が付されている町並を「両側町」という。京都の市街地の町割りや江戸の古い市街地の町割りは、基本的に「両側町」としての区画割りがされている。

(103-2)「津軽家より五百人来りて勤番す」:寛政9(1797)7月、英国のブロートン率いるスクーナー船が蝦夷地周辺に来航したことなど、近年松前に異国船が度々入来したことから、幕府は、同年9月、津軽藩に番頭一名の箱館派遣方を命じ、津軽藩は、これを受け、箱館派遣の番頭以下500人余の人数割を提出、11月、組頭大将山田剛太郎以下が、箱館に到着、浄玄寺に本陣を置いた。

(103-3)「有川村」:現北斗市の内。旧上磯町の区域。久根別川(大野川)・戸切地(へきりち)川の河口付近。近世、東在箱館付村々の一つ。『山川取調図』に「有川」とある。

(103-4)「壁利地村」:戸切地(へきりち)村か。。現北斗市戸切地。箱館平野西端の戸切地川流域、南は箱館湾に面する地域にある。近世は、東在箱館付村々の一つ。『山川取調図』に「戸切チ」とある。

(103-5)「水沢村」:東在に「水沢村」と称する村(枝村を含む)はない。道順から、「三谷(みつや)村」か。「三谷村」は、「三ツ谷村」、「三屋村」とも。現北斗市のうち。近世は東在箱館付村々のうち。『山川取調図』に「ミツヤ」の名がみえる。

(103-5)「取川村」:東在に、「取川村」と称する村(枝村を含む)はない。「富川(とみかわ)村」か。「富川村」は、現北斗市のうち。近世、東在箱館付村々の一つで、矢不来村の北にあり、東は箱館湾に面する。『山川取調図』には「トミ川」の名がみえる。

(103-5)「やき内村」:古くは、「カムイヤンケナイ」、「ヤンケナイ」、「ヤギナイ」とも。現北斗市の内。字名に「矢不来」の名がみえる。近世に存在した村。箱館湾の西端近く、海岸が海に迫った地に位置し、矢不来川が流れる。『山川取調図』に「ヤキナイ」とある。

『蝦夷嶋巡行記』10月学習分注記 

          

(92-1)「積へき」の「き」:変体仮名。字源は「幾」。

(92-2)「此辺にチヤシ跡有」:現洞爺湖町栄町にあるフレナイチャシ。

      *「チヤシ」:アイヌ語。「柵、囲い、城、砦」の意。丘陵の突端を利用して土塁と空堀・柵をめぐらした遺構とも。

(92-4)「ヲトナ」:漢字表記の「乙名(おとな)」。中世末期の村落の代表者から転じ、アイヌコタンの長をいう。アイヌコタンには、乙名の下に、脇乙名、小使、土産取りの役職者がいた。

(92-5)「ヘンベ」:「ベンベ」とも。漢字表記地名「弁辺」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現豊浦町の内。明治初年から明治3年3月まで「弁辺」村があり、後、「豊浦」村に改称。『山川取調図』に「ヘンベ」とある。

(92-5)「ヲツケシ」:「ヲフケシ」。漢字表記地名「小鉾子」、「大岸」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現豊浦町の内。『山川取調図』に「ヲフケシ」とある。

(92-5)「ヲシヤマンベ」:現長万部町。漢字表記地名「長万部」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川名としても記録されている。元治元年(1864)、「村並」とされ、長万部村と唱えた。『山川取調図』に「ヲシヤマンベ」とある。

(92-6)「レブンゲ」:現豊浦町の内。漢字表記地名「礼文華」のもととなったアイヌ語に由来する地名。場所名、コタン名のほか沢、岬、峠などの名称としても記録されている。『山川取調図』に「レフンキ」とある。

(93-1)「観世音(かんぜおん)」:小幌(こぼろ)海岸美利加(びりか)浜の自然の洞窟(小幌洞窟)に安置されている観音像。岩谷観音とも書く。一六六六年(寛文6(1666)円空がレブンゲの岩屋で観音像を鉈で刻んで安置し、さらにこの洞窟で数多くの仏像を刻んだ。秘境駅JR小幌駅から徒歩で行くことができる。

(93-1)「シツカリ」:現長万部町の内。漢字表記地名「静狩」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川、山、峠などの名称としても記録されている。シャクシャインの戦の際には松前軍が600人の軍勢をもって当地に進撃した(津軽一統志・狄蜂起集書)。『山川取調図』に「シツカリ」とある。

(93-3)「内浦がだけ」:駒ケ岳のこと。『北海道誌』に「内浦嶽、今駒嶽ト云」とある。

      駒ヶ岳は、古く、「内浦岳」、「内浦嶽」、「内裏岳」と記録されている。このほか、武四郎の『蝦夷日誌』には、「内浦岳、また砂原岳とも云り」とも記されている。渡島半島の中央から東に延びる亀田半島の付根にそびえる山。標高1,131メートルの成層活火山。

(93-3)「内浦がだけ」の「け(希)」:変体仮名。字源は「希」。「希」を「ケ」と読むのは呉音。「稀有(けう)」など。

(93-5)「温肭獣」:「膃肭臍(おっとせい)」か。アシカ科の哺乳類。「膃肭」は、アイヌ語の音写、「臍(せい)」は、中国で、臍(へそ・ほぞ)を薬用にしたので、このように記されたとある。また、『和漢三才図会』には、「奥州松前の海中にいる。虚寒の人は、その肉を食べて腰足を暖める。松前の人は、膃肭臍の肉を美饌(びせん)としている。」とある。

      安永2年(1773)の武鑑には、松前藩から将軍家への献上品リストの中に、「寒塩膃肭臍」の名が見え、更に、天保十二年(1841)の武鑑には、「寒中 寒塩膃肭臍」のほか、「別段御用ニ付 十二月 膃肭臍タケリ(注:陰茎のこと)」が献上品リストの中にみえる。

(93-5)「モンナイ」:『山川取調図』にある「モヘツ」か。

(93-6)「クロイハ」:現八雲町黒岩。八雲町の北端近くの海岸部。ユウラップとクンヌイ(長万部町)の間にある地域(『日本歴史地名大系 北海道の地名』)。『山川取調図』には「クロイワ」とある。

(93-6)「ユウラツプ」:現八雲町の内。漢字表記地名「遊楽部」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名、場所名のほか河川の名称としても記録されている。

(93-6)「ワルイ」:現長万部町の内。アイヌ語に由来すると思われる地名。コタン名のほか河川の名称としても記録されている。『山川取調図』に「ワルイ」とある。

      *なお、『山川取調図』では、「ヲシヤマンベ→モヘツ→ワルイ→モクンヌイ・クンヌイ→ホンクンヌイ→ホロナイ→クロイワ→シラリカ・ホンシラリカ→フイトシナイヘツフト→フレモエ→フイトシナイ→ユウラツプ→ホンヲ・コツナイ→ヲ・コツナイ」の道順になっており、本書記載の道順と異なっており、筆者は、長万部町所在の地名と八雲町所在の地名を混乱して記載をしており、記載順を誤ったか。

(93-6)「ヲコツナイ」:現八雲町のうち。「アイヌ語に由来する地名。本来は河川名であるが、コタン名としても記録されている。『山川取調図』に「ヲヽコツナイ」とある。

(93-6)「タンヌイ」:影印の「タ」は「ク」で「クンヌイ」か。漢字表記地名「国縫」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現長万部町の内。『山川取調図』に「クンヌイ」とある。

(93-6)「シラリカ」:アイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川の名称として記録されている。現八雲町の内。『山川取調図』に「シラリカ」とある。

(94-1)「ブユンヘ」:「ブヨベ」、「フユンヘ」とも。アイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川の名称としても記録されている。『山川取調図』の「フコヘ」か。現八雲町の内。

(94-1)「ムクンヌイ」:漢字表記地名「茂国縫」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川取調図』に「ムクンヌイ」とある。現長万部町のうち。

(94-1)「ヤマサキ」:現八雲町山崎。現八雲市街地の北にある。の地名』)。『山川取調図』の「フレモヱ」の付近。

(94-1)「ヤムクシナイ」:現八雲町の内。漢字表記地名「山越内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は河川名であったが、コタン名のほか場所、会所名としても記録されている。寛政十二年(1800)に、「ノタヲイ迄」が「村並」とされたため、「ヤムクシナイ」は東蝦夷地との出入口となり、西の山際から東海岸まで皆柵を結んで番所(山越内関所)を設置し、蝦夷地出入りの者の切手を改めた。元治元年(1864)、「村並」とされ、「山越内村」と唱えた。『山川取調図』には「ヤムクシナイ 境柱」とある。

(94-1)「ポロナイ」:現長万部町の内。漢字表記地名「幌内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は河川名であったが、コタン名のほか嶺の名称としても記録されている。『山川取調図』に「ホロナイ」とある。

(94-2)「フイタヲシナイ」:現八雲町の内。「ブイタウシ」とも。アイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、河川の名称としても記録されている。『山川取調図』には「フイトシナイ」とある。

(94-2)「ユヲイ」:現八雲町の内。「ユヲヱ」とも。漢字表記地名「由追」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、河川の名称としても記録されている。『山川取調図』に「ユヲイ」とある。

(93-3)「うるさし」:「わずらわしい、めんどうだ」の意。

(94-5)「ポロムイ」:現八雲町の内。『山川取調図』の「ホロムイ」か。

(94-5)「ヌマシリ」:現八雲町の内。「ノマシリ」、「モナシヘ」とも。漢字表記地名「沼尻」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川取調図』に「ヌマシリ」とある。

(94-5)「ノダヲイ」:現八雲町の内。漢字表記地名「野田追」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名、場所名のほか河川の名称としても記録されている。寛政12(1800)、「ノタヲイ迄」が「村並」とされた。「野田追場所」は、箱館付近から東蝦夷地沿岸に広がる箱館六箇場所(持場)の一つ。『山川取調図』には、「野田老」とある。

(94-5)「モンノダヲイ」:現八雲町の内。『山川取調図』の「モノタイ」か。

(94-5)「ヲトシベ」:現御八雲町の内。漢字表記地名「落部」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川取締り図』に「落部」とある。

94-6)「モナシベ」:現八雲町の内。漢字表記地名「茂無部」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川取調図』に「モナシヘ」とある。

(94-6)「ハマナカ」:現八雲町の内。漢字表記地名「浜中」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『東蝦夷地場所大概図』には、山越内場所のうち、「ヲコツナイ」と「ユウラツプ」の間に「ハマナカ」の地名がみえる。『山川取調図』には表記がない。

(94-6)「ヒコマ」:現砂原町の内。字名に「彦澗(ヒコマ)」がある。『山川取調図』には「砂原」の西隣に「ヒコマ」の名がみえる。

*本書の記載の順が、森町と砂原町とで、入り乱れ、で混乱している。

(94-6)「ポンナイ」:不詳。

(94-6)「イシクラ」:現森町の内。字名に「石倉(イシクラ)」がある。『山川取調図』に「石クラ」とある。

(94-6)「ニコリ川」:現森町の内。字名に「濁川(にごりかわ)」の名がみえる。近世は、鷲ノ木村のうち。『山川取調図』に「ニコリ川」とある。

(95―1)「ホンカヤベ」:現森町の内。字名に「本茅部(ほんかやべ)」の名がみえる。近世、鷲ノ木の持場の一つ。『山川取調図』に「ホンカヤヘ」とある。

(95-1)「メツタマチ」:現森町の内。『蝦夷巡覧筆記』によれば、「ホンカヤエ」と「ヱヒヤコタン」の間に、「メツタマチ」の名がみえる。

(95-1)「イヒヤコタン」:「エヒヤコタン」とも。漢字表記地名「蛯谷古丹」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現森町の字名に「蛯谷町」がみえる。『山川取調図』に「ヱヒヤコタン」とある。

(95-1)「ボウヒ」:現森町の内。近世の史料に見える地名。『山川取調図』に、「ユノサキ」の東隣に「ホ-ヒ」とある。

(95-1)「ユノサキ」:現森町の内。『山川取調図』に「ユノサキ」とある。

(95-2)「ワシノキ」:現森町の内。字名に「鷲ノ木」の名がみえる。箱館六箇場所の一つ茅部場所に含まれていたが、寛政十二年(1800)に「村並」となり、持場として「尾白内、森、蛯谷古丹、本茅部、石倉」とされた。『山川取調図』に「鷲ノ木」とある。明治元年1020日、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍の艦隊が北上して当地に上陸の地であり、ここから箱館戦争が始まった。

(95-3)「脇運上屋」:本州の宿場における脇本陣に当たる。脇本陣は、江戸時代の宿駅で、本陣の予備にあたる宿舎。大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時は、家老や奉行の止宿にあてられたが、平常は一般旅客の宿泊にも供された。

(95-6)「出百性(でびゃくしょう)」:「百性」の「性」は、「姓」の誤用。「出百姓」は、居住地を離れて近在の他所へ行って耕作する農民のこと。ここでは、東在の村(松前地・和人地)から、隣接する東蝦夷地へ出向いて耕作をすること、またその人をいう。

(96-2)「モリ」:現森町。寛政12(1800)、村並」とされ、鷲ノ木持場の一つとなった。その後、安政5(1858)、鷲ノ木から独立して「森村」になった。『山川取調図』には、異体字で「森」とある。ほかに「品」「渋」の旁など。

 

(96-2)「ヲシラナイ」:「ヲシラナヰ」、「ヲシラナヘ」とも。漢字表記地名「尾白内(おしろない)」。寛政12(1800)に「村並」となり、安政5(1858)に「鷲ノ木村」から独立し、「尾白内村」になった。『山川取調図』に「ヲシラナイ」とある。

(96-2)「ホリサキ川」:「トリサキ川」か。「鳥崎川」は、松浦武四郎の『蝦夷日誌』には、「此川、森と鷲ノ木の境也。川巾十七八間」とある。また、森町の字名に「鳥崎」の名がみえ、鳥崎川河口部西岸にあたる。『山川取調図』には「鳥サキ川」とある。

(96-2)「カヽリマ」:現砂原町の内。字名に「掛澗」の名がみえる。砂原町の西端に位置し、北は太平洋(内浦湾)、南は砂原岳(駒ケ岳北壁をいう。)の北西麓。『山川取調図』に「カヽリマ」とある。

(96-2)「小サワラ」:現砂原町の内。本書では、「カヽリマ、小サワラを通てサワラの

運上屋に宿る。」とあることから、『山川取調図』の「モンヘサワラ」で、現字名紋兵エ砂原)」を指すか。なお、「砂原」は、寛政12(1800)に、「村並」となり、安政5(1858)、正式に「村」となった。また、文化四年(1807)四月、ロシア船が「ヱトロフ」を襲った(文化露寇事件)ため、砂原には盛岡藩兵100人が配置された。

(96-4)「松前」の「松」:「木」が冠にきて、「公」が脚になっている異体字。ほかに、「桃」「梅」「紙」など。

(97-4)「カケユミ」:不詳。

(97-5)「是迄、昨日通りし道ナリ」:一行は、10日鷲ノ木を出て、箱館への分岐の森を通り過ぎて、この日は砂原に宿泊している。翌11日に砂原を立っている。

(97-7)「山路にかゝり」:森まで戻って、箱館への山路に入った。現在でいう大沼回り。

(97-6)「ユタグリ」:「ユノタイ」か。

(97-7)「馬立帰」:「帰」は「場」で、「馬立場」か。『山川取調図』に「ムマ立ハ」とある。

 『蝦夷嶋巡行記』9月学習分注記 

(87-1)「虫」:テキスト影印は「虫」の俗字。

     *「虫」と「蟲」:「虫」は、本来は「むし」の意味でなく、毒蛇の一種の「マムシ」を表す漢字だった。「虫」は頭の大きな蛇の形をかたどった象形文字で音読みは「キ」だった。一方「蟲」はその「虫」を三つ組み合わせた形で、多種類の小動物を表す。音読みは「チュウ」。両者はもともと別の漢字だったのが、いつのまにか「蟲」の簡略体として「虫」が使われるようになり、やがて「虫」が「むし」を意味する正規の漢字とされた。(この項阿辻哲治著『部首のはなし』=中公文庫=参照)

(87-1)「音(ね)」:類義語「こゑ」(聞き手を意識して出す)と「ね」(おさえきれず自然に出てしまう)とが、意図的か自然発生的かによって区別して使用されるのに対し、「おと」はその区別に中立であって、聞く人の感情移入がない。中古の和歌・和文では、「虫のね」「虫のこゑ」、「琴のね」「琴のこゑ」をはじめ感情移入表現が幅をきかしたが、「平家物語」の頃までに「ね」と「こゑ」の区別は稀薄になり、「ね」が「こゑ」に吸収される傾向が顕著となる。「こゑ」の用法も狭まり、表現も類型化し、替って音声(おんじょう)・高声(こうしょう)などの漢語が多用されるようになる。(ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の補注)

      *「ね」と「おと」の違い:①「ね」は、笛・琴など楽器の音、虫の声、鹿の声など、心にしみる小さな音。→「おと」との区別は次第に失われる。

      ②「おと」は、「ね」を含めて、風の音、車の音、獣や鳥の声など、耳に聞こえる音一般。(ジャパンナレッジ版『全文全訳古語辞典』)

      *平安時代には「おと」と「ね」の用法に区別があって、風・鐘などの比較的大きい音には「おと」、楽器・人の泣き声・鳥や虫の声などには、「ね」を用いた。(旺文社『古語辞典』)

(87-1)「きりぎりす」:「きりぎりす(螽斯)」。昆虫。体長4cm内外。雄は、夏、草むらで、「チョンギース」と鳴く。コオロギの古名。

(87-2)「あまかいる」:「雨蛙」。小型のカエル。体長4cmほど。夕立の降る前に高い声で鳴く。ユーラシアから日本にかけて広く分布する。

(87-3)「マコマイ」:現苫小牧市勇払のうち。漢字表記地名「真小牧」のもととなったアイヌ語に由来する地名。場所名、コタン名のほか、河川名としても記録されている。シコツ16場所の一つがあった。『山川地理取調図』に「マコマイ」とある。「マコマイ」の西が「トマコマイ」。

(87-3)「コイトヰ」:現苫小牧市字小糸井。漢字表記地名「小糸魚」のもととなったアイヌ語に由来する地名。川名に「小糸魚」が残っている。『山川地理取調図』に「コイトイ」とある。

(87-3)「タルマイ」:現苫小牧市字樽前。漢字表記地名「樽前」のもととなったアイヌ語地名に由来する地名。場所名(シコツ16場所の一つ)、コタン名のほか、山(樽前山)、河川名の名称としても記録されている。『山川地理取調図』に「タルマイ」とある。

(87-3)「ベツベツ」:現苫小牧市樽前のうち。アイヌ語に由来する地名。コタン名、河川名としても記録されている。『山川地理取調図』に「ベツベツ」とある。

(87-4)「シラヲイ」:現白老町。漢字表記地名「白老」のもととなったアイヌ語に由来する地名。場所名のほかコタン名、山川名としても記録されている。『山川地理取調図』に「シラヲイ」とある。

(87-6)「此山、八拾年以前大ニ焼たるよし」:樽前山は、寛文7(1667)以降のみでも数十回の噴火を繰返す。「八拾年以前」の大噴火といえば、寛永17(1635)の大噴火だが、60年前の元文7年(1739)にも大噴火があった。

(87-6・88-1)「黄黒(きぐろ)」:黄色がかった黒色。

(88-1)「けふ(ぶ)り」:「け(ふ)ぶる」の連用形。「けぶる」は、煙が立ちのぼったり、たなびいたりする。

      *はじめ「けぶり」であったが、平安時代末に「けむり」の語形を生じ、中世には両者が並存し、近世に入ってほぼ「けむり」に統一された。「けぶり」と書きながら「けむり」と発音した、とする記録もある。

      *文学的には、鳥部野の火葬の煙が、死者を悼む者の心理の象徴として用いられるように、はれぬ思いや鬱屈した心情の投影として使われることが多い。

     *「けぶり」の「け」:変体かな。字源は「希」(呉音「ケ」)。「稀有(ケウ)」など。万葉仮名(乙類)に「希」がある。 

(88-2)「シキウ」:現白老町敷生。漢字表記地名「敷生」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川地理取調図』には「シクエ」とある。

(88-3)「アイロ」:アヨロ。現白老町字虎杖浜。アイヌ語に由来する地名。場所名のほか、コタン名、河川名としても記録されている。アヨロ川河口に、続縄文時代の墳墓遺跡であるアヨロ遺跡がある。

(88-3)「ランホク」:現登別市札内町、富浦町。「ランホツケ」とも。漢字表記地名「蘭法華」のもととなったアイヌ語に由来する地名。なお、『山川地理取調図』には「ランボキ」と「ランホケ」のニケ所の地名が並んで記載されている。

(88-4)「未申(ビ・シン、ひつじ・さる」:南西の方角。

(88-4)「サハラの奥山」:駒ヶ岳のことか。現砂原(さわら)町。「サワラ」とも。近世、箱館六箇所場所の一つ茅部場所の中心地。『山川地理取調図』には「砂原」とある。

(88-6)「エサン」:「ヱサン」とも。漢字表記地名「恵山」のもととなったアイヌ語の「ヱシヤニ」に由来する地名。ここでは、旧恵山町(函館市恵山地区)と旧椴法華村(函館市椴法華地区)の境界にある標高618.1mの活火山である「恵山」を指すか。恵山は成層火山として知られ、噴煙をあげて赤壁・赤崖の山容を海峡に突き出す姿は、古くから海上を行く船の目標にされてきた。

(88-6)「巳午(シ・ゴ、み・うま)」:南南東の方角。

     *「巳午」の「巳」:影印は「己」のように見えるが、「巳」。

(89-1)「ポロベツ川」:胆振幌別川。登別市を流れ、太平洋に注ぐ二級河川。『山川地理取調図』には「ホロヘツ」とある。

(89―1)「ワシベツ川」:「鷲別川」。室蘭市と登別市の境界を流れ太平洋に注ぐ二級河川。『山川地理取調図』には「ワスヘツ」とある。

(89-2)「イトナカレ」:『山川地理取調図』の「ウトナルカルウシ」か。

(89-2)「イタキ」:室蘭市内の「イタンキ岬」の付近。イタンキ岬は絵鞆半島基部の太平洋に面する岬。『山川地理取調図』に「イタンケ」とある。

(89-3)「ベシボツケ」:『山川取調図』に「ヘシホク」とある。

(89-4)「シコツよりの山越えより難義なり」:いわゆる「シコツ越え」は、、勇払から勇払川を船でさかのぼり、ウトナイ湖、美々 川を経て、陸路で千歳に入り、さらに舟で千歳川を経て石狩川に達するルートで、「ユウフツ 越」、「シコツ越」と称し、東西蝦夷地を結ぶ重要な道があった。(別紙『元禄御国絵図』参照)なお、「シコツ」の影印の「コ」は「ユ」に見え、「シユツ」に見えるが、筆の勢いか。ここは「シコツ」。  

(89-5)「白鳥澗(はくちょうのま)」:室蘭湾の別名。室蘭湾が埋立てられる前、湾の奥に行くほど浅くなっていて白鳥が飛来していたのが地名の由来。

(89-6)「ヱトモ」:室蘭市絵鞆。漢字表記地名「絵鞆」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名、場所名のほか、岬や港の名称として記録されている。

(90-1)「去巳夏(さるみのなつ)」:ここでは、本紀行文の前年の寛政9年(1797)丁巳の夏のことをさす。

(90-1)「アンゲリアの舟」:ブルートン指揮するイギリス船ポロビデンス号。「アンゲリヤ」は、近世の学者が用いたイギリスの呼び名。「インギリヤ」→「アンゲリヤ」。ラテン語「Anglia」から。漢字表記「暗(諳)厄利亜」、「暗(諳)厄里亜」など。イギリス。

        *<外国船の渡来>(別添図参照)

     ・欧州人が北海道に注意を向ける原因:①キリスト教の伝導地②金銀島の発見③地理的な探検

     ・1295年、イタリア人マルコ・ポーロが『東方見聞録』でジパング(日本)は黄金の島と記す。→世界を舞台とする探検時代を現出要因となる。

     ・寛永20(1643)、オランダ人ド・フリーズを司令官とする船、厚岸に寄港。(欧州の船が北海道に寄港した最初)17日間滞在し、船体を修理、糧食を得て出帆。

     ・天明8(1787)、フランス人ラ・ペルーズ、国王ルイ16世の命を受け、北辺を周航、宗谷海峡(現在、国際水路機関が定める国際的な名称は、ラ・ペルーズ海峡)を発見。

    *イギリス船の来航

     ・寛政8年(1796814日、東北地方を北上してきたブロートンの指揮するプロビデンス号(430トン、乗員150人)は、東蝦夷地内浦湾に入り、アブタ沖に停泊、その後、17日にヱトモ(絵鞆)に移動、停泊をした。この湾を噴火湾と名付ける。

     ・寛政9年(17974月、ブロートンは、再び北方探検のため中国の厦門(アモイ)を出発したが、420日、宮古沖でプロビデンス号が座礁、沈没したため、スクーネル船(80トン、乗員34人)に乗り換え、日本の東海岸を北上、719日、ふたたびヱトモ沖に姿を現した。

      松前藩は、アブタ勤番の酒井栄からの急報により、前年と同様、工藤平右衛門と加藤肩吾を派遣、724日、ブロートンを訪問したが、二人の監視するような応接の態度を怪しんだブロートンは、閏72日、ヱトモを出帆、その後、恵山沖で水深を測り、7日箱館沖に現れ、白神岬をまわって、閏79日には福山城下に接近、その後、津軽海峡を日本海に出、西蝦夷地リイシリ(利尻)島、レブンシリ(礼文)島を経てカラフト西岸を北緯52度まで北上後、反転し、対馬を経て、南シナ海を探検し、厦門に帰帆した。

    *幕府の対応

     ・幕府は、ロシア船やイギリス船の相次ぐ来航により、松前藩の北方警備に対し重大な危惧を抱き、寛政10年(1798314日、目付渡辺久蔵胤、使番大河内善兵衛政寿に、同17日には勘定吟味役三橋藤右衛門成方に、それぞれ松前表異国船見届御用を命じた。勘定組頭松山惣右衛門、勘定太田十右衛門、支配勘定近藤重蔵、勘定吟味方改役並水越源兵衛、大島栄次郎、その他御徒目付5、小人目付8、普請役7など総勢180余名で、415日江戸出立、516日福山城下に到着した。

     ・本書の著者・公暇斎蔵は、西蝦夷地巡行の三橋藤右衛門の従者のひとり。一行は、525日、松前を出発し、西蝦夷地をソウヤまで、帰路は、石狩川、千歳経由で巡見した。松前帰着は822日で、86日間、556里の旅であった。

 帰府した渡辺、大河内、三橋の三人は、1115日、将軍(11代家斉)に拝謁、復命した。幕閣らは、この復命に基づいて評議を重ね、ついに、蝦夷地の経営を幕府みずから行うことを決した。

(90-3)「四百石(こく)が積(つみ)」:四百石積。船などに米400石、またはそれと同じ重量の荷物を積むこと。また、その能力。

(90-3)「有しとなり」の「有」:影印は「月」の横線が省かれ、「右」「石」のように見える。

(90-4)「ムロラン」:現室蘭市。漢字表記地名「室蘭」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名、場所名、河川名として記録されている。『山川地理取調図』には「モロラン」とある。

(90-4)「ツマイベツ」:現室蘭市崎守町、石川町、香川町付近。「チマイベツ」とも。漢字表記地名「千舞龞」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川地理取調図』には「チマイヘツ」とある。

(90-4)「ヲヒル子ツプ」:現伊達市南黄金町、北黄金町付近。『山川地理取調図』には「ヲヒル子フ」とある。

(90-5)「ヲサルベツ」:現伊達市長和町付近。漢字表記地名「長流(オサル)」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川地理取調図』には「ヲサルヘツ」とある。

(90-5)「ウス」:現伊達市有珠町付近。漢字表記地名「有珠」のもととなったアイヌ語に由来すると思われる地名。アイヌ語の「ウシヨロ」が詰まって「ウス」となったという説と日本語の「臼(山や湾が臼の形状をしていたから)」に由来するという説がある。場所名として用いられ、コタン名のほか山や岬などの名称としても記録されている。有珠町の北西、有珠湾に臨む丘陵上に、文化元年(1804)、蝦夷三官寺(三か寺とも)の一つである浄土宗の善光寺(山号大臼山道場院、本尊は阿弥陀如来)が建立されている。『山川地理取調図』には「ウス、善光寺」とある。

(90-6)「善光寺如来」:長野市にある山号:定額山善光寺の本尊、阿弥陀如来を指す。この阿弥陀如来は「臼座」に安置されていることから、「ウス」の地名と「臼座」との関連で、有珠の「善光寺」の名称が付されたとする説がある。

(91-1)「信州」の「州」:影印は「刀」+「刀」+「刀」で、「州」の俗字。

(91-1)「臼の嶽」:有珠山。洞爺湖の南岸に位置する標高737mの活火山。山頂は壮瞥町にあり、山体は、伊達市、洞爺湖町、壮瞥町にまたがっている。

(91-1)「信州」:信濃国(長野県)の別名。

(91-3)「アブタ」:現洞爺湖町の旧虻田町地区。漢字表記地名「虻田」のもととなったアイヌ語に由来する地名。場所名、コタン名として記録されている。『山川地理取調図』には「アフタ」とある。

(91-4)「フレナイ」:現洞爺湖町のうち旧虻田町大磯町、青葉町ほか。漢字表記地名「振苗」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は河川名であったと思われる。『山川地理取調図』には「フレナイ」とある。

(91-6)「ホロナイ」:現洞爺湖町のうち。アイヌ語に由来する地名。本来は河川名と思われるが、峠や岬などの名称として記録されている。『山川地理取調図』には「ホロナイ」とある。

『蝦夷嶋巡行記』8月学習分注記

             

(82-1)「岸(きし)」:脚部の「干」が「年」のように見える。「崖」に似ているので、文意から判断する。

(82-1)「トイシカリ」:現江別市対雁。「ツイシカリ」とも。漢字表記地名「対雁」のもととなったアイヌ語に由来する地名。なお、「ツイシカリ場所」は、イシカリ十三場所の一。『山川取調図』には、「ツイシカリ」とある。

(82-2)「イサリの川」:「イサリ」は、漢字表記地名「漁」のもととなったアイヌ語に由来する地名。「イサリの川」は、「漁川」のこと。恵庭市を南西から北東に流れる石狩川水系千歳川の支流。一級河川で、流路延長44.8キロ。漁岳(1318)に発して東に流れ、恵庭市中央部を通って漁太(いざりぶと)で、千歳川(近世、祝梅川との合流点から上流分を千年川(シコツ川とも))、旧夕張川との千歳川、に合流する。その後、漁川と合流した千歳川は、石狩平野を北上して(江別市の新江別橋の北で)石狩川に合流する一級河川。流路延長107.9キロ。

     支流には、ママチ川、祝梅川、長都川、漁川、島松川、旧夕張川がある。

(82-3)「フシコベツと言小河」:現長沼町フシコの千歳川支流の富志戸川か。
(82-3)「昔は」の「は」:変体かな。字源は「盤」。

(82-4)「ユウバリの川筋」:「夕張川」は、石狩川水系左岸の支流で、一級河川。流路延長135.5キロ。芦別岳に水源をもつ本流筋のシューパロ川、夕張岳に水源をもつペンケモユーパロ川、パンケモユーパロ川などが合流して夕張川となり、現在は、江別市江別太で、石狩川に注ぐ。以前(昭和11年)は、馬追丘陵北部の先行谷を出てから南西に蛇行して夕張太(現南幌町)で、千歳川(旧江別川)に合流した。この旧夕張川の流路跡は現在も残り、一級河川に指定されている。

(82-3.4)「イベチトウ」:現江別市江別太。「エベツプト」とも。漢字表記地名「江別太」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川取調図』には「エヘツフト」とある。

(82-4)「バロといふ川」:夕張川か。夕張川は、シューパロ川、ペンケモユーパロ川、パンケモユーパロ川が合流し夕張川となり、馬追丘陵北部を経由し、石狩平野を流れ、南幌町で江別川に合流。

(82-8)「泝(さかのぼる)」:音読みは「ソ」。「遡」と同字。

     *同字:正字とは字体が異なるが、それと同等に用いられてきた字体。「島」に対する「嶋」、「峰」に対する「峯」、「涙」に対する「泪」など。(『新漢語林』)

(83-1)「ユウバリ山」:夕張岳。夕張山地の中央にあり、夕張市と南富良野町との境界に位置し、標高1,667.8メートル。

(83-1)「サツボロ山」:札幌岳。札幌市南部にある山で、標高1,293.8メートル。

(83-2)「図合船」:比較的大きな漁船。沿岸旅行には多くこの船が使われていた。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「図合船寸法 長七間(12.74m)、巾七尺(2.121)、深二尺五寸(0.7575)。鯡、鮭等都て漁船にこれを用ゆ。此度巡行乗船にも、みな此船を用ゆ」とあり、熊石村からクドウ場所迄海上五六里を図合船で渡ったことが記されている。

(83-2)「南に」の「に」:変体かな「に」。字源は「耳」。「耳」を「ニ」と読むのは呉音、「ジ」が漢音といわれるが、耳の古代中国語音あるいは 唐代中国語音は耳[njiə]であると考えられている。「耳」は耳(ミ)だった可能性があるという。

(83-3)「幅せはき」:幅せまき。「せはき」は「せはし(現代語では「せわし」)の連用形で、「狭い」の意味がある。

     *用例「袖下(そでした)せはしく、裾(すそ)回り短く」〈西鶴・日本永代蔵・〉

訳(時代遅れの着物で)袖の下の部分も狭く、裾回しも短く。

(83-4)「漸(ようやく)」:やっとのことで。(「ややく(稍)」に「う」の音の加わってできた語か。他に、「やくやく(漸漸)」の変化した語、「やをやく」の変化した語などとする説がある。漢文訓読では「に」を伴って用いることが多い)

ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の補注には、<古くは漢文訓読特有語で、仮名文学、和文脈の「ようよう(漸)」に対して用いられた。>とある。

(83-5)「シコツ」:現千歳市。「シコツ」は、アイヌ語に由来する地名。「シコツ」は、「死骨」に通じ縁起が悪く、当地に鶴が多く生育していたことから、「鶴は千年」に因み、松前奉行の羽太安芸守(正養)が、文化二年(1805)、「千年(千歳)」と改名したとされている(『地名幷里程考』)。

(84-1)「ことことく」;「こ」「と」は、「こと」の合字。「具」は「く」。

(84-2)「沈没」:「沉」は、「沈」の異体字。

(84-4)「たもぎ」:「タモノキ」。「トリネコ」とも。モクセイ科の落葉高木で、本州中部以北に広く分布。田の稲架木(はざぎ)として植えられる。高さ15m、直径60cmに達し、樹皮は淡灰色を呈する。

(84-4)「はんの木」:「榛の木」。カバノキ科の落葉高木。山野の湿地に自生。幹は直立し、15mに達する。「ハリノキ」とも。

(84-4.5)「胡桃(くるみ)」:クルミ科の落葉高木。果実の核は球形・鈴形などできわめて堅い。中の子葉は食用、または油脂をとる。

      *語源説に「呉国から渡ったものであるところから、クレミ(呉実)の転」〔日本釈名・滑稽雑談所引和訓義解・東雅・大言海〕。などがある。

      *「胡桃」を「くるみ」と読むのは熟字訓。

      *熟字訓:漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。昨日(きのう)、乳母(うば)、大人(おとな)、五月雨(さみだれ)など。

 

(84-5)「槐樹」:「槐(えんじゅ)」のこと。マメ科の落葉高木。高さ20mに達する。花を乾かしたものを煎じて止血薬にする。

(84-5)「廿三日」:「廿八日」の書き誤りか。『蝦夷日記』には、「二十八日出立」とある。

(84-6)「さのみ」:「然のみ」。副詞「さ」に強意の助詞「のみ」の付いた語。下に打ち消しをともなう。字義は、それほど~でない。たいして~でない。

(84-6)「けわしき」の「け」:変体かな。字源は「希」。「希」を「け」と読むのは呉音。「稀有(けう)」など。

(84-6)「あらね」の「ね」:変体かな。字源は「年」。

(85-1)「しげく」:副詞(文語形容詞「しげし」の連用形から転化)。回数が多いさま。しばしば。

(85-2)「白雨(はくう)」:にわか雨。ゆうだち。

(85-2)「白雨ふり」の「ふ」:変体かな。字源は「婦」。

(85-2)「辛労(しんろう)」:ほねを折ること。つらい苦労をすること。また、そのさま。辛苦。

(85-3)「タルマイと言う焼山」:樽前山のこと。支笏湖の南側にあり、苫小牧市・千歳市・白老町にまたがる活火山。世界でもまれな三重式火山。

(85-3.4)「ヲタケシ」:苫小牧市ウトナイ地区。現ウトナイ湖(ウトナイ沼)の南端部の出口の勇払川の川筋付近。『山川取調図』の「ヲタムシ」か。

(85-4)「戌亥(いぬい)」:北西の方角。漢字一字では、「乾」とする。

(85-4・5)「当りて」の「て」:変体かな。字源は「帝」。

(85-6)「ヲタケシと言う川」:「勇払川」の支流の一つか。『廻浦日記』には、「ユウフツ」の項に、「会所元より船にて川(勇払川)すじを遡り行候時は、フシコアヒラ、~(中略)~アヒラブト、ヲタケシ、ユウル、キムンケトウ、少々の沼有。ウツナイ、此所に一里四方の沼あり、」とあり、「ヲタケシ」の名がみえる。

(86-1)「ユウブツ」:「ユウフツ」とも。漢字表記地名「勇払」のもとになったアイヌ語の由来する地名。場所名、コタン名、河川名としても記録されている。

(86-2)「ビヽ」:千歳市美々。漢字表記地名「美々」のもととなったアイヌ語に由来する地名。

(86-3)「目馴(めなれ)ざる」:「目馴れる」の未然形+「ざる」(古語の打ち消しの助動詞「ざり」の連体形。)。見なれない。あまり見ず、珍しい。

(86-3)「かも」:「鴨」。ガンカモ目ガンカモのうち、ハクチョウ類、ガン類などを除いたものの総称。マガモ、コガモ、オナガモなど。

(86-3)「おし鳥」:ガンカモ目の水鳥。雄は橙色のイチョウの波形の飾り羽をもち、非常に美しい。

(86-4)「かわせみ」:「川蝉(翡翠)」。ブッポウソウ目カワセミ科の鳥の総称。

(86-4)「蚊喰鳥(かくいどり)」:「こうもり(「かわほり」の転)」の異名。

(86-4)「蝙蝠(こうもり)」:哺乳網翼手目に属する動物の総称。鳥のように自由に飛べる唯一の哺乳類。江戸中期に編纂された『和漢三才図会』では「原禽類(鶏、矮鶏、雀、蒿雀、燕など)」として、鳥類に分類されている。また、蝙蝠の肉について、「肉の上毛、爪・腸を取り去り、炙って薬に入れる(古い処方で多く用いる。けれども、よく下痢をおこさせる性質があるので、そこをよく考慮して用いるべきである。)」とある。

(86-4)「夜鷹(よたか)」: ヨタカ科の鳥。全長約二九センチメートル。くちばしは扁平で短く、口が大きい。羽色は全身に黒・茶・淡黄褐色などの複雑な斑紋があり、のど・尾羽・風切り羽に白斑がみられる。昼間は樹上の枝に平行にとまって眠り、夕方から巧みに飛んで昆虫を捕食する。アジア東部・南部に分布し、日本では各地の森林で繁殖し秋に南方へ渡る。巣はつくらず、地上の落葉の間などに直接産卵する。鳴き声はキョキョキョキョキョキョと聞こえ、なますきざみと称する地方もある。蚊吸鳥(かすいどり)。

(86-4.5)「青しとゝ」:「あおじ(蒿雀、青鵐)」の異名。ホオジロ科の鳥。外形と大きさはスズメに似る。全長16センチほど。

(86-5)「ひたき」:スズメ目ヒタキ科ヒタキ亜種に属する鳥の総称。キビタキ、オオルリなど。

(86-5)「もず」:「百舌、鵙」。スズメ目モズ科の鳥。

(86-5)「かけす」:スズメ目の鳥。全長33センチほど。体は淡い葡萄色、尾は黒、腰は白、翼は黒・白・青の斑で、美しい。

(86-5)「山雀(やまがら)」:スズメ目の小鳥。全長14センチ。

(86-5)「四十から(しじゅうから・しじゅうがら)」:「四十雀」。スズメ目の小鳥。

(86-5)「しなか」:「しながどり(息長鳥)」。水鳥の名で、「カイツブリ」の古名か。

(86-6)「きつゝき」:「啄木鳥」。キツツキ目キツツキ科の鳥。アカゲラ、ヤマゲラ、クマゲラなど。

(86-6)「ましこ」:「猿子」。アトリ科に属し、雄の羽色が紅または桃色を帯びた鳥の総称。大きさ、体形はスズメに似ている。多くは寒帯性で、小群で雑木林にすみ木の実などを食べる。北海道で繁殖し本州以南に渡来するベニマシコ、大雪山のハイマツ帯で繁殖するギンザンマシコのほかオオマシコ、ハギマシコなどがあり、近縁種は世界に三十数種ある。ましこどり。

(86-6)「すかし」:動詞「透かす」の連用形。すき間を通す。

(86-6)「すかし見(み)、仰(あおぎ)たり」:「すかし見(み)る」は、よく見えないものを、目をこらして見る。「仰ぐ」は、上のほうを向いて、高い所を見る。高所を望み見る。あるいは「すかし・見仰たり」か。


 『蝦夷嶋巡行記』6月学習分注記                 

*今月からの学習範囲:寛政10(1799)、幕府は、異国船渡来が予想されるとして、蝦夷地巡検を企画、二手に分かれて、東西蝦夷地巡検するが、西蝦夷地調査隊の武藤勘蔵一行は、ソウヤまで巡検し、引き返す。帰途、石狩川をさかのぼり、千歳川に入り、ユウフツに出て、オシャマンベ、箱館を経て松前に帰着する。

6月学習は、ソウヤからの戻り道の記述と、石狩川を遡上しはじめた記述である。

(77-1)「トカチと云処の方角に当る山」:「山」は、大雪山系をさすか。「トカチ」は、漢字表記地名「十勝」のもととなったアイヌ語に由来する地名。。語義について「東行漫筆」は「トカチ トウカプチイとは女の乳を云。此トカチ川は夷人女の川なりと云」とある。

(77-1)「處(処・ところ)」:『説文解字』では、「処」が本字、「處」は別体であるが、後世、「処」は、「處」の俗字とみなされた。現在、「処」は、常用漢字、「處」は旧字体扱いになっている。

      *「処」と「所」:「処」は、「おる(居)」「おく(置)」「とりさばく」など、動詞的に使われることがある。「所」は、名詞的な語。

(77-3)「委敷(くわしく)」:「くわし」の未然形。こまかいところまで行き届いている。詳細である。

      *上代には「詳細」「委細」の意を表わす語として「つばら」「つぶさ」などが行なわれていたが、これらは平安時代以降「つばひらか」(鎌倉時代以降は「つまびらか」になる)などとともに、漢文訓読の世界で用いられるようになり、和文ではもっぱら「くはし」を使うようになった。

(77-4)「積(あつまり)て」:『名義抄』には、「積」の訓に「アツム」を挙げている。

(77-5)「ヲムシヤ」:オムシヤ。場所ごとに行われたアイヌの撫育策の一つ。

      初期的な形態は対アイヌ交易に伴う交歓儀礼であったが、後にはアイヌの人々を統治する手段として場所における主要な年中行事となる。語源的には日本語の「おびしゃ(祭礼の際の酒宴)」や御赦、御撫謝によるという説とアイヌ語の「ウムシャ(無沙汰の挨拶)」による説がある。「オムシヤ」に「御撫施」の文字があてられるようにもなった。

      オムシャは松前におけるウイマムと同様に、当初は交易に伴う挨拶儀礼だったが、後には交易や漁労の終了時の慰労のための行事として、さらには場所内のアイヌの人々を支配するための手段として取り行われるようになる。その内容は、時と場所によって細部を異にするが、おおむね一つの形式ができあがっていた。

      まず、場所内の運上屋(会所)に場所内の役蝦夷のすべてと付近のアイヌの人々を集める。時期は7月~9月頃となる。

      役蝦夷は、陣羽織などを着た礼装で、平蝦夷は常服のままで土間に座る。     正面座敷には詰合(又は巡回)の役人が威儀を正して座る。そして「公儀を重んじ親を大切に・・」など詳細な掟書を読み聞かせ、役蝦夷の任免、役料の下賜、孝子・善行者への褒賞を行い、老・病者・一人者に対して品物を給するといったことを行って、やがて酒宴に移る。オムシャの際に給される物は、初めは役蝦夷・表彰者などに限られていたが、幕末(1849年=嘉永2)には、15歳以上のすべてのアイムの人々にも与えられるようになった。1857年(安政4)の西蝦夷地モンベツの例では「清酒五升、葉煙草二把」ずつが役蝦夷に、「濁酒七斗五升」が女を含む平蝦夷に、「マキリ壱挺」ずつが15歳以上の男に、「縫針五本」ずつが15歳以上の女にそれぞれあたえられている。なお、オムシャは、臨時(巡見使の謁見)に行われることもあった。(『北海道大百科事典』 佐々木利和)

     【参考】 古文書に記述された初期的形態の「ヲムシヤ」の様子

    (1)寛政十年(1798)、武藤勘蔵著『蝦夷日記』(『日本庶民生活史料集成第四巻』所収)

     (ソウヤ)逗留中夷人へ濁酒をふるまうべき由申渡すに、所々へふれて前日より集りたる夷人左のごとし。

 

     ・エゾ錦着    ソウヤ乙名      ウダトムウングル 

・白綸子紅裏小袖 同脇乙名       カスムイレ 

・黒綸子小袖   同小使        シラクトイ 

・同引とき    ユンロムイト乙名   シヤフレンコ 

・黒縮緬引とき  シコナイ乙名     シカントリ白髪なり

・白色木綿紋付  クツシヤブ乙名    ヒラダンテ 此夷踊り上手なり

・エゾツヾレ   リヤコタン乙名    イキヌンバ 

・緋縮緬小袖   ヲンコロマナイ乙名  ビダマサシ

・黒木綿紋付   クツシヤブ乙名    カムヒシクンデ 

・浅黄縮緬小袖  トマヽイ乙名     シラヌンカル 

・白綸子小袖   ヲンコロマナイ    イキサクサ 

・浅黄木綿紋付  ゼイドマリ      シリバン 

・同       トンベツ       テキワセ 

・同       テシヲ        ウサモツテ

・嶋綿入     サルブツ       トンハライ

     右十五人はいづれも太刀を背負ふ。此外アツシ着用の夷人都合百六十人余、帯は木綿のしごき或はアツシ其外はみな縄の帯なり。各手に煙草入を下げ、不残跣足なり。濁酒を呑む式、両人づゝ向ひ合、二、三十人づゝ幾側も並ぶ。尤砂地へ其侭にて座す。やがてメノコ樽にある酒を汁つぎへ汲こみ持出し酌をすると、向ふの夷人ばかりへ一寸会釈の体ありて、イクバシ髭上げの事をいふ。を盃大きなる飯椀なり。の上に載おるを右の手にとり、左に椀を持上げ、前後三ケ所へイクバシを以て備ふる体をなす。是は海神、山の神及び神酒をふるまふ主へ備る意なり。それより肴は一向になく、二口程にのみ、向ふの夷人え渡す。同様に呑干て又さすなり。互に無言にてなんべんもやりとりす。其度毎メノコ酌をす。酌人も白リンズ、緋ちりめん着し、縄の帯、はだしにて五人あり。其外の夷人は貝桶に酒を入、前に並べあるを椀へ柄杓にて汲入銘々にのむなり。数盃かさぬると、みなみな踊り出す。女夷は樽の酒を柄杓にてのみ、男夷は髭も飯粒だらけになり。男女の夷人踊りあるくさま次第に興もさめ、うとましくさへ成て、支配人番人などへ申付け追払はせても一向に聞入ず、酔に乗ずるまゝ一向に分らぬ歌を謡ひ、メノコの中には子を背負ながら踊をる体、あまりにうとましく、戸障子を引〆籠りをるに、やはり謡ひ踊るやうすなり。翌日きくに、カムイドノ藤右衛門をさして云なり。酒を賜はり嬉しさに踊りし由。うたふ歌もカムイ殿の御家繁昌と申事をうたひしよし、通詞の話しなり。(中略)振舞たる濁酒の石数三十五石、酒に作り上て弐斗樽に三百樽余りに成たるよしをいふ。

     (2)寛政四年(1792)、最上徳内著『蝦夷草紙(別称蝦夷国風俗人情之沙汰)弐』

(北海道立文書館蔵)

     【おむしやの事】

浚明廟(10代将軍徳川家治)の御時に蝦夷国界の見分御用として有司両輩東蝦夷地へ巡行す。既にクナシリ嶋に至りしに、蝦夷のならひにてヲムシヤといふ事を催す。此ヲムシヤは高貴の賓客を尊崇の饗応に興行す。偖、蝦夷土人の内に乙名と小使といふ役目あり。日本の名主と組頭の様なるものなり。此ものともの日本の有司に目見のときにヲモシヤを興行するは定例なり。此とき日本の土産をあたへ酒を振舞を蝦夷土地の定例とす。時に松前所在嶋の内アツケシの小使シモチ、ノツカマフの乙名シヨンユおよびクナシリ嶋の乙名サンキチ脇乙名ツキノヱ等を呼出し、此もの共は何れもクナシリ嶋近所海辺場所の長蝦夷土人なり。偖、此ものともの装束の下着は、平生の蝦夷産のアツシといふて日本の太布(フトリ)に似たるものを着し、其上に日本の小袖の引ときの単物を着いたし、或は領主より賜りたる赤地のえぞ錦の陣羽織なとを着したり。時に松前土人に通詞ありて此通詞に蝦夷人等手を牽れ出る。大勢ありても段々に蝦夷土人より蝦夷土人に互に手を採り合て連なりひき伴ひ、有司の前に目見にのそむ。其体甚おそれ敬ひて肌を震ふて謙遜して傴痿歩み、礼譲厚く慎みて其席に跪座す。有司の命ありて通詞せさる内は謹て、ものいふことなし。恭敷合掌し、良ありて後、有司にむかひ座をいさり、すゝみ寄たる時、通詞によつて有司手を伸出す。土人諸手にて拝しなからに取て、己か胸にすりつけ、いかにも敬ひ手を摺、まことに真の活神に応体せし体にて、再拝して其手にて己か鬚(ひげ)の毛を撫ておろし、感伏したる体にて初て音声を発するなり。その音声、呼(アヽ)嗟〃〃〃〃といふて頭をさげ、謹拝して座を退きなから、ヤイコユルシカレ難有し、忝しといふ事なり。と初てものいふて又呼と呼〃〃〃と叩り声を発し、再拝して容貌正しく安座したる体にて夷狄に天晴なる礼義なり。扨盃に酒を盛て給れは盃台共請て再拝しイクバシとて平直なるへらを以て天地海山火水の神に手向、再拝しながら何事か口中にとなへ事して後に、昆(箆)にて鼻下の髭をすくひあげて、其酒を飲むなり。是まてハ巍々蕩々として跪座し居れ共、漸々と酔ひ来れは座も崩れ狂動す。此期を待ち、有司の御土産と名付て、米と麹と俵酒一両樽、煙草数把を累々と其席に積みかざりて与ふるなり。於是通詞の告に云く、御土産を皆の者に下さるゝ間、謹て戴くべしと演説あれば、領解し恐敬して頂戴せるなり。是皆ヲムシヤの法式なり。畢て其席を退き戸外に出て、賜りものを疑ひ仮ふなり。時に有司下知して与へたる物を贈りつかハせは、途中にて早速樽内の酒の虚実をうかゞふに指をいれて探りなめて、好悪をあじハひ試るなり。にしきの装束のまゝに酒樽かつき、蝦夷旅宿へ帰るなり。都て蝦夷土人の情は初めには厳にして、終りは崩れたるものなり。万事万端、みな是に準する人情なり。依て謁見の礼儀は厳しくあつくて、離別の礼はなし。

 

(3)寛政四年(1792)、串原正峯著『蝦夷俗話(本名夷諺俗話)巻之五』(北海道立文書館蔵)

【ヲムシヤ】

ヲムシヤといふは蝦夷草紙にも出たるごとく、蝦夷饗応振舞なり。六月十日曹

谷会所にてヲムシヤを致したり。これハ、はや、海鼠引漁事も仕まひ、夷とも夫々我場処へ帰りたき旨相願ひ、ヱノベツ其外下地の夷とも帰村いたすニ付、夷ども三人、今日会所にてヲムシヤを致す。此時は夷も着服をあらため、会所の下段にキナを敷、それへ出る。そのときタカサラにツウキをのせイクハシを添出す。タカハラは盃台、ツーキは盃、尤汁椀を用ゆ。イクハシは粘箆(のりへら)の如きものなり。これハ髭あげなり。木村と予両人亭主にて盃を始め、尤盃をさすに右のツーキに酒を一盃つがせて差出せバ、盃台ともに受取て、アヽ、〃、〃といふて礼をなし、酒をつぎ天地四方、海山火水の神へ手向け、そのイクハシを以て鼻の下の髭をすくひあげ呑むなり。尤如何ほど大盛にても二口に呑み仕まふなり。

それより亦酒をつぎ此方へ戻すなり。如此銘々盃事を終りて一人に酒小樽一か、

醪一樽、煙草二把、塗箸一膳、匕壱本ツヽ相渡、礼をのべて退くなり。其外の

     夷どもへも濁り酒を呑すなり。右乙名どもへ遣ハしたる品の内、酒一樽は差引勘定の節、勘定に入るゝなり。其外の品は無代にて出す也。扨七月下旬に成りて交易済、ヲムシヤの時は曹谷乙名二十三人へ一人前米八升入二俵、糀七升入半俵、煙草一把ツヽ遣ハし、銘々盃事ハ前の通りなり。此時、一処にてハ手狭故、会所の外に差懸を出来し、其処へ乙名ともを呼出し、壱人ツヽ通詞手を引、出る。其時、被下物を渡し、飯を給させ、盃事をなす也。其外の夷どもハ不残外へ莚を敷、汁器に濁り酒を入レて段々間配りをなし、両方に夷ども向ひ合て並び酒盛をなすなり。それより酔に乗じ踊をおどり、其外いろいろに戯れをなし、メノコ打交り、終日祝ひ遊ぶなり。

(77-6)「四拾六間」:「間」は、「度」で、「四拾六度」か。宗谷岬の緯度は453112.12秒。なお緯度は江戸時代「北極出地度数」ともいわれた。

(78-1)「わた入じはん」:「じはん」は「襦袢」。綿の入った襦袢。ポルトガル語gibãoの当て字。(別掲資料「日本語になったポルトガル語」参照)

      なお、「襦」も「袢」も表外漢字。

     *「襦袢」の「袢」:旁は「半」の旧字体で、上部は「ソ」でなく「八」。

      **常用漢字の「半」「伴」「畔」は、「ソ」。常用漢字でない字体は「八」。「絆」は平成16年に人名漢字に追加された。

       ***「半」の解字:〓。「八」+「牛」。「八」はわけるの意味。牛のように大きな物をふたつに分けるの意味を表す。

     *「襦袢」:肌に着用して汗をとるのに用いる。元来は白地でつくられ肌着と称えたが十六世紀南蛮文化が舶載されてから肌着をgibão(ポルトガル語、襦袢)と称えるようになり、従来の肌着の上にも変化をきたした。古名は汗衫(かざみ)・汗取ともいって、その構成は対丈のものであった。南蛮服飾は上下二部式であり、元禄時代でも南蛮系の丈の短い襦袢のことを「腰切襦袢」と称えて元の形を表現している。近世に入り、丈の短い襦袢が行われるようになると、従来の肌着を長襦袢、丈の短いものを半襦袢と称えるようになり、また袖も胴も元は同一の布であったのが、袖裂を華麗なものにかえたものや、みえがかりの所に色物を用いた装束襦袢、仕立の上で裄を表着より五分(約一五ミリ)長くしたものが十八世紀に流行した。またかな糸であんで網の目をした「網襦袢」また篠竹を短く切ってつくった「管(くだ)襦袢」、あるいは手拭二枚でつくった「四ッ手」などが下層の人たちの間で行われた。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』)

(78-2)「マスボヾ」:現稚内市宗谷村増幌。「マスホホ」、「マスポポイ」とも。漢字表記地名「増幌」のもととなったアイヌ語地名。

(78-3)「クツシヤフ」:現稚内市のうち。「クシャンル」、「クサンル」とも。『山川取調図』には「クシヤフ」とある。

(78-5)「ひかしむる」:動詞「引く」の連用形+助動詞「しむ」の連体形。「引かさせる」。

(78-5):「浪濤(ろうとう)」:大波。波濤(はとう)。

(78-5)「しきりに」:「志」は「し、「支」は「き」。「頻りに」で、「しばしば、ひっきりなし。」

(79-1)「吃(きつ)し」:食べて。「吃」に「くう、くらう、食べる、飲む、吸う」の意味がある。現代表記では「喫」に書き換えることがある。

      *「吃」(どもり・どもる)は差別用語になっている。「発音が不自由な人、言語障害者、吃音」と」いいかえる。

      *「吃」の解字:音符の「乞」は「乙」に通じ、ジグザグするの意味。口がなめらかに動かない意味を表す。

(79-3)「ウエンへツ」:現遠別町。漢字表記名「遠別」のもととなったアイヌ語地名。

(79-3)「フウレベツ」:現初山別村豊岬。漢字表記名「風連」、「風連別」のもととなったアイヌ語地名。『山川取調図』には、「フウレベツ」とある。

(79-3)「テブレ」:「テウレ」とも。漢字表記地名「天売」のもととなったアイヌ語地名。「羽幌(ハボロ)」の西方沖合に浮ぶ島で、周囲12キロ、面積5.5平方キロ。東に「焼尻島」がある。

(79-3.4)「アンケシリ」:「ヤンケシリ」とも。漢字表記地名「焼尻」のもととなったアイヌ語地名。羽幌港から約23キロ北西にある島。周囲12キロ、面積5.3平方キロ。

(79-5)「シユシヤンベツ」:現初山別村。漢字表記地名「初山別」のもととなったアイヌ語地名。

(79-6)「ウシヤ」:現小平村臼谷(うすや)。アイヌ語に由来する地名。『山川取調図』には、「ウシヤ」とある。

(80-3)「初鮭」:その季節の最初にとれた鮭をいう。初物を食べると寿命が75日延びると言われて、縁起が良いものとされた。

(80-5)「夜深(よぶか)」:夜がとっぷりと更けていること。また、その様。深夜。

(80-5)「ヲシヤントモナイ」:雄冬岬付近の「エシヤマルヲマナイ」(『山川取調図』)あるいは「ヱシヤマンヲマナイ」(『北蝦夷地迄地名里数書』)を指すか。

(81-2)「意気」:心情、気たて。

(81-3)「幕情(ばくじょう)」:「幕」は「莫」か。「幕府」は「莫府」とも表記され、「幕」と「莫」は類語。また「莫」は、①ない(無)、②なかれ(勿)の意から、「莫情」は、「情がなく、不誠実なこと。」

(81-3)「表裏(ひょうり)」:表と裏の関係。ここでは、正反対、あるいは真逆のこと。

(81-6)「ビトイ」:「ビトヱ」とも。現当別町ビトエ。また石狩市「美登位」。漢字で「美登江」なども当てる。アイヌ語で「小石が多いところ」の意味。コタン名として記録されており、『天保郷帳』には、「イシカリ持場」のいち「ヒトイ」と見え、当地一帯は近代に入って当別村に包含された。『山川取調図』には、「ヒトイ」とある。

           *「太美」:当別太の「太」と美登江の「美」を合わせた地名。      


『蝦夷嶋巡行記』5月学習分注記 

(72-1)「アミダコタン」:漢字表記では「阿弥陀古丹」となるか。阿弥陀の西方極楽浄土。

(72-2)「咄(はなし)」:解字は「口」+「出」で、国字のように見えるが、漢字。漢音で「トツ」。意味は、①〈しか・る〉責めとがめる。また、舌うちする声。チェッ。こらっ。②悲しみ嘆く声。ああ。③おどろきあやしむときの声。おやまあ。 

      *「咄咄逼人」(トツトツ人にせまる)①人の能力や作品のすばらしさのたとえ。(『与釈某書』)②ことばで人を傷つけ、つらくあたることのたとえ。(『俳調』)

(72-3)「樺(かにわ)」:ここでは、桜の樹皮をいうか。上代においては、舟に巻いたり、種々の器物に張ったり、曲げ物などを縫い合わせたりするのに用いられた樹皮をいう。

(72-3)「炭取(すみとり)」・・炭斗とも。炭を入れて置く器。すみかご。すみいれ。

      炭取は、亭主が客の前で炉や風炉に炭を組み入れる炭点前(すみでまえ)で用

いる、炭を組み入れ、香合・羽箒・釜敷・鐶・火箸を添えて席中に持ち出す器のこと。烏府(うふ)ともいう。炭斗は、多くは籠などの組物で、内張をしてそれに漆をかけたものが用いられる。炭斗には、唐物と和物があり、唐物炭斗は、藤、竹などで編まれた籠で、編み方は部分々々に変化をつけ精巧を極めたものが多く、藤と竹の交ぜ編み、棕櫚皮を編み込んだものなどもある。唐物炭斗は、籠以外には、漆器類や青貝入り、金馬(きんま)などもある。和物炭斗は、籐、竹、藤蔓、蓮茎(はすくき)などで、編み方は唐物よりざんぐりしている。和物炭斗は、籠以外には、瓢、一閑張、蒔絵、曲物、指物などがあり、「冊屑箱」(さくずばこ)、「茶撰籠」(ちゃよりかご)、「散華皿」(さんげざら)、「箕」(み)、「炮烙」(ほうろく)などが用いられることもある。炭斗の種類には、「菜籠」(さいろう)、「瓢炭斗」(ふくべすみとり)、「神折敷」(かみおしき)、「炭台」(すみだい)、「箱炭斗」(はこすみとり)などがある。利休形の炭斗には、油竹、鱗籠、達磨、菊置上椽高(きくをきあげふちだか)、木地炭台、瓢、水屋用の桑箱炭斗がある。宗旦好には、瓢手付、一閑秕目神折敷(大)、葛桶(くずおけ)がある。『和漢茶誌』に「烏府 炭斗也 見茶譜。烏府貯炭籃籠也 和名曰手菜籠是也。品形不一定、以竹織之、或藤茘造之、必以有提梁者曰烏府、賛見下」とある。『山上宗二記』に「炭斗 紹鴎籠、宗久に在り、昔は籠の手、又食籠はやる、当世は瓢箪まてなり」とある。『茶道筌蹄』に「唐物籠 竹組 ト組あり」「和物籠 竹くみに利休形あり、有馬土産は如心斎好也、啐啄斎好に寐覚籠あり、トくみ藤くみ宗全好」「菊檜縁高 利休形 正親町天皇へ進献の形杉木地」「瓢 利休形 手付は元伯」「神の折敷 一閑張、大は元伯このみ、小は原叟」「葛桶 一閑張元伯このみ、大は底に輪なくて深し、小は底に輪ありて浅し」「炭台 檜利休形」「桑箱 利休形、勝手物、かまの仕懸け仕舞にもちゆ、老人わび者は座しきに用いてもよし」とある。

『千家茶事不白斎聞書』に「炉はふくべを用、風炉は組物を用、併春に成り而は炉も組物を用候、瓢を用ても能候、是も口切を出し不申、春に成り茶を出したる時杯、ふくべの新しきを遣ふ事よし、常体春は組物能候、組物は何成共用、ふくべは年々出来候物故、新しきを用、古きは悪し、炉の時、古きを用候よりは組物を遣ひたるがまし也、併古き迚も宗匠の判杯有るは能候、是は内黒塗にいたし候がよし、菊桐の絵縁高炭斗を遣時は紙を敷也、内一はいに折て入る、紙は奉書又色奉書也、炭台を遣時は、奉書之両方を台の内一はいに折、前の縁をはづし、内江落し、向を先江出し敷也、桑の炭取利休、是は勝手物也、常体座敷には廻り炭の時など遣ふ、松の木皮付にて炭取、覚々斎好て大名江上る、さくづ箱、是は禁裏にて唐粉箱也」とある。『茶道要録』に「炭斗之事、夏は菜籠を用、色々形あり、冬は瓢を用ゆ、大瓢は取手を付て伐べし、必ず茎を少残して鐶を置べし、瓢の切口鋸目の儘用ゆべし、手瓢は必ず老人の用具とす、各釜の形に因て取合肝要也、総じて炉は瓢を用、風炉は籠なり」とある。

(72-4)「ビタカ」:『蝦夷日記』には「ビバカ」、『山川取調図』には「ヒハカウシ」、『北海道蝦夷地地名解』には「ピパカルシ(沼貝ヲ捕る処)」とある。「ワツカシヤカナイ(稚咲内)」の付近。

(72-4)「上陸せずして」の「て(亭)」:変体仮名「亭」。

(72-5)「バツカイベツ」:現稚内市抜海村。「バツカヱ」、「ハツカイ」とも。漢字表記名「抜海」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、岬名、番屋元名などとしても見える。『西蝦夷地名考』には、「バッカイは物を背負ふ事をいふ也。此所に石二ツかさなりたる所有、其形、物を負ふたる如くなる故なづく。」とある。

(72-6)「走て」の「て」:現在のひらがな「て」は横棒は一本だが、「て」の字源は「天」なので、「て」のくずし字では横棒が二本あるようにみえる。

(72-6)「上陸す」の「す」:変体仮名「す(春)」。「春」は、現在の音読みは「シュン」だが、漢字伝来当初は「シュ」と聞こえ、「ス」になった。

(73-1)「歩行」の「歩」:冠の「止」と脚の「少」が離れており、「止の」、「上の」と、2字にみえるが、1字の「歩」。

      *「歩」(8画・常用漢字)と(7画・旧字体)。常用漢字が旧字体より画数が多い例。

       ・昭和21年の当用漢字表では7画の「步」が選ばれた。

       ・昭和22年7月15日、当時の文部省教科書局国語科は「活字体整理に関する協議会」を発足させた。「劣」や「省」と同じ部分字体にするために、7画の「步」を8画の「歩」に整理することが提案された。活字字体整理案は、部分字体の統一が主眼であって、画数の増減には、あまりこだわっていなかった。

       ・昭和24年の当用漢字字体表では8画の「歩」に字体整理された。

       ・現行常用漢字表では、いわゆる康煕字典体の活字として、括弧内に7画の「步」が掲げられている。

       ・なお、旧字体の7画の「步」は、平成16年人名漢字に追加され、「步」も「歩」もどちらも子供の名づけに使ってよいことになった。

     *常用漢字になって、「歩」の下の部分が1画増えて「少」になった例

       ①「賓」(14画から15画に)

       ②「頻」(16画から17画に)

       ③平成22年の常用漢字改定で追加された「渉」(10画から11画に)

      **「濱」は、常用漢字ではないので、「貝」の上の部分は4画の「少」ではなく、3画の「步」。

(73-2)「バツカイ」:萱野著『アイヌ語辞典』には、「バツカイ(pakkay)」として「子供をおぶる。」とある。

(73-4)「山に」の「に(耳)」:「耳」は変体仮名で「に」の字源。万葉仮名乙類で「に」。「ニ」は呉音。「耳」を「ニ」と読む例は少ない。

*「耳根(ニコン)」(聴覚器官とその能力、はたらき。六根の一つ。)

(73-4)「重(かさな)りたる」の「たる」:変体仮名の「た(多)」と「る(流)」

     *「る(流)」は呉音。「流転(ルテン)」「流浪(ルロウ)」「流罪(ルザイ)」「遠流(オンル)」など。

(73-4)「略(ほぼ・あらあら)」:影印の冠に「田」+脚に「各」は、「略」の同字。

     *「略」は、現代表記では「掠」の書き換えに用いる。「掠奪」→「略奪」、「侵掠」→「侵略」。

(73-5)「名つ(づ)く」の「つ(徒・づ)」:変体仮名「つ(徒)」。「徒」は、漢音で「ト」、呉音で「ド」。上古、漢字伝来時に、「徒」は、「tu」と聞いた。万葉仮名で「つ」。「徒」を「つ」と読む例に「徒然草(つれづれぐさ)」がある。

(74-1)「しつらひ」:「しつらふ」の連用形。「しつらふ」は、「設ふ」。設備すること。

(74-3)「末明」:未明。夜がまだすっかり明けきらない時。明け方。夜明け前。

(74-5)「トベナイ」:「トベナヱ」、「トヘナヱ」とも。現稚内市のうち。『山川取調図』の「トウヘンナイ」。

(74-6)「ソウヤ」:現稚内市宗谷村。漢字表記地名「宗谷」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタンの名のほか、場所名、岬名などとしてもみえる。蝦夷地の北端に位置し、カラフトに渡海する拠点。なお、ソウヤ場所の運営は、寛政元年(1789)のクナシリ・メナシの戦の後、飛騨屋久兵衛が失脚、寛政四年(1792)ソウヤに御救交易会所が設けられ、松前藩主の直差配場所となり、村山伝兵衛が差配人に命じられたが、寛政8(1796)に罷免。本書当時(寛政十年(1798))は、板垣豊四郎が支配人となっていた。

(74-6)「勤番所」:松前藩が、直支配の場所を経営管理するため設けた番所。

(75-2)「番頭(ばんがしら)」:番の構成員の中の責任者。ばんとう。

(75-3)「リイシリ」:漢字表記地名「利尻」のもととなったアイヌ語に由来する地名。利尻島は、利尻水道を挟み日本海に浮かぶ島。周囲約63.3キロ、面積182.11平方キロ。円錐形火山の利尻山(1721㍍)からなるほぼ円形の火山島。

(75-4)「レブンシリ」:漢字表記地名「礼文」のもととなったアイヌ語に由来する地名。利尻島の北側に位置する島。周囲72キロ、面積81.97平方キロ。

(75-5)「孤(こしょ、こじま)」・・一つぽつんと離れた島。孤島。「嶼」は、小島の意。

(75-5)「とぞ」の「ぞ(楚)」:変体仮名「そ(楚)」。

(75-6)「カラフト」:現ロシア連邦極東管区サハリン州のカラフト島。近世、「唐太島」、「北蝦夷地」とも。

(75-6)「幽(かすか)に」:わずかに感じられる程度である様子。

(76-1)「たつ巻」・・竜巻。

(76-2・3)「リヤコタン」:アイヌ語に由来する地名。ソウヤ場所のうち。

(76-3)「イチウチと言河」:「イチャンナイ川」で、増幌川の支流。イチャンナイ川は、宗谷丘陵のモイマ山(232㍍)を源として、稚内市下増幌で増幌川に合流し、日本海に注ぐ。

(76-3・4)「シイト言山」:『松浦図』には「シイトウノホリ」とある。「モイマ山」のことか。アイヌ語で、「シ(Si)」は、「おおきな、本当の、本来の」を意味し、「ト(to)」は、「沼」を意味する。「シイト(Sito)」は「大きな沼」をいう。

(76-4)「様々」の「様」:決まり字。「横」に似ている。旁は「頁」のように省略される場合がある。

(76-4・5)「イチウチと成」:3行目の「イチウチ」(イチャンナイ川)が、「様々に屈曲してイチウチと成」は、文意が通じない。ここの「イチウチ」は、イチャンナイ川の本流増幌川のことか。「増幌川」は、「マシュポポイ」といわれていた。

増幌は、『松浦図』では「マシウホヽ」。

『蝦夷嶋巡行記』4月学習分注記 

(66-6)「アツタ」・・現石狩市厚田地区。漢字表記地名「厚田」のもととなったアイヌ語に由来する地名。アツタ場所の運上屋の所在地。このほか、コタン名、河川名としても記録されている。

(67-2)「ハマシケ」・・「ハママシケ」か。現石狩市浜益地区。漢字表記地名「浜益」のもとになったアイヌ語に由来する地名。

(67-2)「マシケ」・・現増毛町。留萌地方の最南部に位置する。漢字表記地名「増毛」のもととなったアイヌ語地名。コタン名や場所名のほか、河川や港、泊、湾、崎、山岳等の名所としてもみえる。なお、マシケ場所は、開設当初、その中心地が「ハママシケ(浜益)」であったことから、「ハママシケ」が、「マシケ」と呼ばれ、「マシケ(増毛)」は、「ポロトマリ」と呼ばれていた。その後、1780年代(天明年間)に、「ハママシケ場所」と「マシケ場所」が分かれ、マシケ場所の運上屋は、「ホロトマリ(弁天町)」に置かれた。『山川取調図』には、「ハママシケ(浜益)」の表記はあるが、「マシケ(増毛)」の表記はなく、「ポロトマリ」としている。

(67-4)「タンテウシナイ」・・「タントウシナイ」、「タンチナイ」とも。アイヌ語に由来する地名。『山川取調図』には、「タンテウシナイ」とある。『蝦夷語地名解』(永田方正著)は、「タント・ウシュ・ナイ」として、アイヌ語の意味は「?」としている。

(67-5)「蓼(たで)」・・タデ科タデ属に属する植物の総称。食用として、刺身のつま、蓼酢などに用いられる。

(67-5)「タンテ」・・知里真志保著『分類アイヌ語辞典植物篇』には、「ハナタデ・イヌタデ」について、「辞書にtandeとある。日本語タデからきたもの。」とある。

(67-6)「ウシ」・・萱野茂雄著『アイヌ語辞典』には、「ウus)」として、「生える」の意がある。

(68-2)「ルヽモツペ」・・現留萌市。漢字表記名「留萌」のもととなった地名。留萌川の河口部に当たる。なお、「ルルモッペ」場所は、マシケ場所の北に設定された場所で、北はトママイ場所に接する。当初は、トママイ場所に含まれていたが、安永八年(1779)、ルルモッペ場所として独立した。

(68-4)「曠曠(こうこう)」・・広いさま。

(68-6)「コタンベツ」・・現苫前町の内。漢字表記地名「古丹別」のもととなったアイヌ語地名。また、古丹別川は、苫前町域を流れる二級河川で、流路延長60.3キロメートル。

(69-1)「ヲニシカ」・・現留萌市小平町字鬼鹿。漢字表記地名「鬼鹿」のもととなったアイヌ語地名。コタン名のほか、河川、岬の名称としても見える。

      なお、本書では、「ルヽモッペ(留萌)」→「コタンベツ(古丹別)」→「ヲニシカ(鬼鹿)」→「トマヽイ(苫前)」の順で出現しているが、実際の地理では、「ルヽモッペ」→「ヲニシカ」→「コタンベツ」→「トマヽイ」の順が正しい。

(69-2)「トマヽイ」・・現苫前町苫前。漢字表記地名「苫前」のもととなったアイヌ語地名。コタン名のほか、場所、岬の名称としても見える。また、「トママイ」場所は、北はテシホ場所、南はルルモッペ場所、東はイシカリ場所に接する。

(69-3)「ツクベシ」・・現羽幌町築別。漢字表記地名「築別」のもととなったアイヌ語。「チクベツ」、「ツクヘツ」、「チユクベツ」とも。『西蝦夷日記』には、「ハボロより二里程、川あり、舟渡」と、「ハボロ」の北側にあることが記されている。

      また、築別川は、羽幌町築別地区で日本海に注ぐ、流路延長35.3㎞の二級河川。なお、此処でも、「トマヽイ」と「チクベツ」の位置関係が誤っており、北へ向い、「ハホロ」→「チクベツ」→「トマヽイ」の順となる。

(69-4)「しつらひ」・・「しつら()ふ」の連用形。設備する。整える。

(69-5)「ポントシベツ」・・不詳。「ハボロ」と「チクベツ」の間の集落は、『山川地理取調図』や『松前西村々並クトウより北蝦夷地迄地名海岸里数書』には、「エカウシナイ、ニカルウシナイ、ヲチウシナイ、マシエナイ(マチユナイ)」の地名はあるが、「ポントシベツ」の名は見えない。

(69-6)「ハボロ川」・・羽幌町を流れる二級河川。流路延長57.3キロメーター。元文二、三年(1737.1738)に金山調査をした江戸金座の後藤庄三郎の手代板倉源次郎の『北海随筆』には、「ハボロは四十里の砂浜なり。~()~、秋冬に到り西風の荒には、大洋より波濤を押しあぐるゆえ、此時海底の砂金を陸へ打揚るなり。春夏とても大荒ありたる翌日は、砂金有となり。」と記され、砂金は、ハホロ山からハホロ川により浜方に流出ともいう。

       しかし、最上徳内の『蝦夷草紙』には、「金山松前所在嶋の内、センケン山、クンヌイ山、ホロ山等書々に載たれども、皆芝下金といふ物にて、土砂の内に交じりたる砂金なり。今ハなし。又ウラカハといふ所に金山跡あり。是ハ堀たらハ出へきとおもはるゝ。其の外ヱリモ辺、ラツコ嶋等に有。又深山に有へきか未開の大国なれは明細探索に及かたし。時を得て是を達すへし。」とあり、ハボロ川に金(砂金)が産する旨の記述がない。

(70-1)「最上徳内」・・著名な蝦夷地探検家。幕吏。宝暦五年(1755)出羽国村山郡楯岡生まれ。江戸に出て、官医山田立長の僕となり医道を修め、本多利明に従い算数、測量の術を学ぶ。天明五年(1785)幕府普請役青嶋俊蔵の僕となり東蝦夷地を踏査。翌天明六年(1786)、東海岸を巡りて択捉島に渡り、露人イジュヨ外1名を伴いて国後島に帰り、更に進みて得撫(うるっぷ)に航し、同島を調査して帰る。寛政元年(1789)国後蝦夷の乱に当たり、小人目付笠原五太夫の下人として松前に入り騒乱の状況を偵察。翌二年(1790)八月幕府勘定所普請役下役、同十二月普請役に昇進。寛政三年(1791)蝦夷御救交易掛として択捉、得撫二島を踏査、同四年(1792)樺太に渡り西はクシュンコタン、東はトウブツに至る。

      寛政十年(1798)、又蝦夷地出張を命じられ、東海岸を視察し、近藤重蔵とともに国後より航し択捉に至る。翌十一年(1799)蝦夷地道路開鑿掛となり、様似山道、猿留山道等を開く。文化二年(1805)蝦夷地に出張、翌三年(1806)普請役元締格、同四年(1807)箱館奉行支配調役並、翌五年(1808)樺太に在勤。天保七年(1836)九月五日江戸で没。歳八十三。著書には、蝦夷草紙、蝦夷草紙後編、松前史略等あり。明治四十四年(1911)特旨を以て正五位を贈られる。(以上『北海道史人名字彙』より抜粋。)

       また、『北辺記聞(北海道立文書館蔵)』による履歴は、以下のとおり。

      父 出羽国百姓甚兵衛。本国加賀、生国出羽。

      高 百俵三人扶持  内三拾俵三人扶持(本高)、外御役扶持七人扶持。

      宿所 本郷附木店組屋敷。拝領屋敷 牛込山伏町甲所屋敷脇。

      寛政二戌年八月御勘定所詰御普請役下役江被 仰付。同年十二月御普請役 操上被 仰付。文化三寅年十月御普請役元締格被 仰付。文化四卯年箱館奉行支配支配調役並被 仰付候。

(70-3)「クシヤンベツ」・・現初山別村のうち。漢字表記地名「初山別」のもととなったアイヌ語に由来する地名の「シヨシヤンヘツ」の隣接の集落か。一行の帰りの道順には、「クシヤンベツを過、シユシヤンベツという処の仮屋に着、宿る。」と書かれている(P79-5、6)。また、『北蝦夷地嶋迄地名海岸里数書』には、「シユサンベツ」と「モシユサンベツ」、『山川取調図』には、「ホロシユサンベ」と「モシヨサンベツ」として、両者が隣接して記載されている。

(70-5)「テシホ」・・現天塩町。漢字表記地名「天塩」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、河川や場所の名称としても見える。なお、テシホ場所は、天塩川の流域を中心に設定された場所名。

(70-5)「テシホ川」・・北海道北部を北北西方に流れ、留萌地方天塩町で日本海に注ぐ一級河川。流路延長256.3キロメートルは、道内で石狩川に次ぎ第二位、国内では第四位。

(71-4)「蜆」・・シジミ科の二枚貝の総称。殻表は多くは黒褐色。マシジミは湖・川、ヤマトシジミは河口、セタシジミは琵琶湖水系に分布。いずれも食用となる。

(71-4)「ミリチ」・・ミントゥチ。アイヌの口承伝承で、という河童のような妖怪。萱野茂著『萱野茂のアイヌ語辞典では、「ミンドチ(mintuci)河童」とある。

(71-5)「川しり」・・「川尻(かわじり)」の意で、川が海に注ぐあたり。河口。天塩川の河口域は、汽水域になっており、蜆の産地になっている。

 


『蝦夷嶋巡行記』3月学習分注記

『蝦夷嶋巡行記』3月学習分注記                

(61-1)「鶏大猫」・・影印の「大」は、「犬」か。または「大猫」か。

(61-3)「さのみ」・・副詞「さ(然)」に助詞「のみ」が付いてできたもの。否定的表現を伴って、程度が大したことはない気持を表わす。それほど(…ない)。さして(…でない)。格別(…でない)。

(61-4)「フルヒラ」・・現古平町。漢字表記地名「古平」のもととなったアイヌ語に由来する地名。積丹半島の北東部に位置。

(61-4)「ヨイナ」・・「ヨイチ」か。現余市町。漢字表記地名「余市」のもととなったアイヌ語地名に由来する地名。積丹半島の北東部の付根に位置。

(61-4・5)「ヲシヨロ」・・現小樽市忍路。漢字表記地名「忍路」のもととなったアイヌ語に由来する地名。小樽市西部にある忍路半島に位置。

(61-5)「高嶋運上屋」・・赤岩海岸から於古発川(おこばちかわ)にかけての一帯を中心に設定されたタカシマ場所を経営管理する運上屋。当初、タカシマ場所は、シクヅシ場所として開かれたが、1780年代頃までに、タカシマに運上屋が移され、タカシマ場所と称することが多くなった。

(62-1)「シツクシ」・・「シクヅシ」か。現小樽市祝津。漢字表記地名「祝津」のもととなったアイヌ語に由来する地名。場所や岬の名称にもみえる。

(62-2)「小祠(しょうし)」・・小さいやしろ。小さいほこら。

(62-2)「みちから」・・「ハチガラ」のことか。知里真志保の『分類アイヌ語辞典』の「エゾメバル、ガヤ」の項に、「ムラゾイ(ハチガラ)」との附記。

(62-3)「パツチンカラ」・・萱野茂の『アイヌ語辞典』には、パチンカラ(pacinkar)としてガヤ、エゾメバル。知里真志保の『分類アイヌ語辞典』には、ぱチンカル(pacinkar)、ぱっチンカル(patcinkar)としてエゾメバル、がやとある。

(62-3)「薄魚」・・「藻魚(もうお、もいお)」か。和漢三才図会には、「薄魚」の記述はなく、「パッチンカラ」の類似の魚である「メバル、ハタ、べら、カサゴ」をいう「藻魚(もうお、もいお)」の記述がある。

(62-4)「褐色(かっしょく)」・・黒っぽい茶色。こげ茶色。

(62-4)「御厩(みうまや・みまや)」・・タカシマ(スクヅシ)場所内に所在するアイヌ語による地名「ヲムマヤシ」(『東西蝦夷地山川取調図』)。

      「御厩」:小樽市手宮1~3丁目。明治32年(1899)に成立した町。手宮公園の東にある。近世のムマヤ、開拓期の高島郡高島村字厩に相当する。明治29年小樽築港に関連して当地の烏帽子岩から入船川河口の立岩まで埋立が計画され、同30年北防波堤の工事が開始された(史談会編「写真集小樽」)。港湾整備の重要性から同32年小樽区に編入され、大字厩町とされた。同41年北防波堤竣工。大正4年(1915)小樽区の町名改正に伴い大字をとって厩町となる。同15年の小樽港湾市街図ではポントマリ岬の南より北防波堤が延びる。

(62-5)「ヲタルナイ」・・現小樽市銭函。漢字表記地名「小樽内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタンの名のほか、場所、河川の名称としてもみえる。

(62-6)「クタレウシ」・・現小樽市港町。「クッタルウシ」とも。アイヌ語に由来する地名で、ヲタルナイ場所の運上屋が置かれたことから、「ヲタルナイ」とも称された。

(62-6)「飼てをける」・・「飼て置ける」。

(63-5)「クマイシ」・・現小樽市船浜町、桜。「クマウシ」、「クマウス」とも。漢字表記地名「熊碓」のもととなったアイヌ語に由来する地名。

(63-6)「源義経」・・平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍頼朝の異母弟。のち、頼朝と対立、奥州の藤原氏を頼ったが、藤原泰衡に攻められ、平泉の衣川館において自刃。しかし、後世、日本人の判官贔屓の心情から、義経の不死伝説が広く流布し、蝦夷地に逃れたとする伝説、更に大陸に渡り成吉思汗(ジンギスカン)になったとする伝説がある。なお、江戸中期に出版された『和漢三才図会』には、「言い伝えによれば、源義経は奥州衣川館にいたが、泰時が変身して無謀にもこれを攻めた。義経の従者はすべて戦死したが義経は自分も死んだように装い、逃れて蝦夷に奔った。蝦夷島民は義経を敬服し、ここで義経は天寿を全うして死んだ。その地を沙古丹という。神祠を建てて厚く崇信し、つねに南無義経と称している、という。」とある。

(64-1)「カムイコタン」・・現小樽市張碓にある「神居古潭」のアイヌ語地名。

(64-3)「文(あや)」・・いろいろな形や色合い。模様。特に斜交する線によって表された模様。

(64-4)「ハルウシ」・・現小樽市張碓。漢字表記地名「張碓」のもととなったアイヌ語に由来する地名。

(64-5)「河」・・札幌市と小樽市を流れ、日本海の石狩湾に注ぐ星置川(旧ヲタルナイ川)。なお、星置川は、河口から2.3キロメーターが二級河川に指定されている。

(64-6)「石炭(いしずみ・せきたん)」・・(1)「和漢三才図会‐六一」(1731)には「石炭 いしすみ」とあり、近世中期頃においてはイシズミと呼ばれるのが一般的であった。近世後期の「重訂本本草綱目啓蒙‐五・石」(1847)には、石炭の各地の方言形が示されているが、イシズミは筑前の方言とされている。

(2)現在のように「石炭」を音読みしたセキタンは、本草関係の影響や幕末頃からの漢語重視の風潮によって定着し始めた。ただし、ヘボンの「和英語林集成(初版)」(1876)の「Ishidzmi 」項には、同義語として「Sekitan 」が上げられているが、まだ見出し語にはなっていない。見出し語となったのは改正増補版(1887)である。(ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌)

(64-6)「豊前(ぶぜん)」・・西海道十一国のうちの一国。現在の福岡県東部と大分県北部の地域。

(65-2)「やに」・・樹脂のこと。

(65-2)「凝(こら・こごら)して」・・固まらせて。凝固させて。

(65-3)「チヤン」・・瀝青(れきせい)。近世の和船や唐船の船体、網具などに用いる濃褐色の防腐塗料で、松脂、油、蜜陀僧、軽粉などを混ぜ合わせ、熱してつくる。(『日本国語大辞典』)。また、『大辞林』では、天然アスファルト・コールタール・石油アスファルト・ピッチなどをいう。因みに、「瀝青炭」は、石炭の一で、無煙炭に次いで炭素の含有量が多く、緻密で光沢があり漆黒色とある。

(65-4)「烽火(ほうか、のろし)」・・狼煙と同義。

(65-5)「イシカリ」・・現石狩市。漢字表記地名「石狩」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名、河川名、山岳名のほか、場所名や運上屋の(元小屋)所在地として記録されている。

(66-1)「イシカリ川」・・石狩川。一級河川。流路延長268キロメーター、流域面積14,330㎢で、ともに道内第一の川。石狩山地に源を発し、北海道中西部を流れ、石狩市において日本海に注ぐ。

(66-3)「蛤●」・・影印の●(にすい+別)の字は、漢和辞典に見えない。「蛤蜊(こうり・しおふき)」か。「しおふき(潮吹き)」は、海産の二枚貝の一種。貝殻は、球状三角形で、表面にあらい輪紋がある。浅蜊(あさり)、蛤(はまぐり)、と同所に住む。

(66-4)「螺(にな・にし)」・・一群の巻貝の総称。螺貝のこと。『和漢三才図会』には、「螺」の仲間として、「香螺(ながにし、つぶ)」、「蓼螺(あぎにし)」、「栄螺(さざえ)」、「田螺(たつぶ、たにし)」、「蝸螺(にな、みな)」、「宝螺(たからのかい)」、「鸚鵡螺(おうむがい)」の名が見える。

(66-6)「アツタ」・・現石狩市厚田地区。漢字表記地名「厚田」のもととなったアイヌ語に由来する地名。アツタ場所の運上屋の所在地。このほか、コタン名、河川名としても記録されている。

            享保十二年所附には「厚多」に続けて「おしよろこつ ごきひる」がみえる。「蝦夷拾遺」によると運上屋一軒があるが、「西蝦夷地日記」には「蝦家あり」(文化四年九月三日条)とのみ記される。一八世紀末にはマシケ場所の運上屋がヲショロコツに移っており(蝦夷巡覧筆記)、運上屋の移動について「協和私役」はアツタ場所の説明に続けて、「地本ヲシヨロコツと云。アツタより便宜此所に移る。アツタ此所より海岸北に一里」(安政三年七月八日条)と記す。

『蝦夷嶋巡行記』2月学習分注記

<1月学習>の検討事項

1. P523「三里程行ば、□に滝の音聞ゆ」:□は「遥(はるか)」か、「辺(あた)り」か

結論出ず。

2. P542「「夷、□恐るゝ」:□は「陰(ひそかに)」か、「隆(さかんに)か。ここは、「陰(ひそかに)」とする。

 

2月学習>

(56-1)「酩酊(めいてい)」・・飲酒などによってひどく酔うこと。

*「酩」「酊」の部首:部首は「酉(ひよみのとり)」。「ひよみ」は、「暦(こよみ)」。ま

た、十二支の「とり」の意味で、「鳥」と区別していう。「酉」は、元来は酒つぼの象形。

「酉」を音符として、酒類やその他の発酵させて造る食品、酒に関する文字でできてい

る。

*「酉」部の常用漢字は、「酌」、「焼酎」の「酎」、「酔」、「応酬」の「酬」、「酪農」の「酪」、

「酵母」の「酵」、「残酷」の「酷」、「酸」、「覚醒」の「醒」、「醸造」の「醸」など。

*「酒」も「酉」部。解字はさけつぼの象形。のち、水を付し、さけを表す。

*「医」の旧字体「醫」で、治療に薬草酒を用いるようになり、「酉」を付し、病気を治

す人の意味を表す。

(56-1)「謡舞(うたいまい)」:謡などを歌いながら舞いを舞う。

(56-3)「サネナイ」・・・・現神恵内村珊内村。漢字表記地名「珊内」のもととなった

アイヌ語に由来する地名。

(56-3・4)「シリベツ山」・・羊蹄山のこと。近世より「シリベシ」、「後方羊蹄(しり

べし)山」とも記され、またその秀麗な富士山型から「蝦夷富士」とも呼ぶ。標高1,8

93㍍。

(56-5)「チフカイ」・・「チブカイ」とも。エオナ岬とノナマイ岬の間にある。上原熊

次郎著『蝦夷地名考幷里程記(地名考幷里程記)』に「夷語チプカイなり、即、舟の折れ

ると訳す。扨、チプとは船の事、カイとは折れると申事にて、此海辺別而風波あらくして

今に破船のある故、字になすといふ」とある。

(56-6)「カムヰ崎」・・神威岬のこと。積丹半島の北西端にある岬。岬の北西にカムイ

岩、メノコ岩などがあり岩礁地帯となっている。近世には、「ヲカムイ岬」(正保日本図)

「ヲカムイ崎」(西蝦夷地日記)、「神岩岬」(行程記)、「神岬」(西蝦夷日誌)などと記さ

れている。

 神威岬の地は、アイヌの娘チャレンカに関する言伝えから、女人禁制の地として松前藩

から奥地への移住が規制されていたが、蝦夷地が幕府の直轄領になり、安政3(1856)

箱館奉行支配調役下役元締の梨本弥五郎が、ソウヤへ赴任するため奉行所の許可を得て

妻子を伴い、船で神威岬を通過したことにより長年の女人禁制が解かれた。

(58-1)「甚(はなはだ)」:非常に。とっても。

(58-2)「忌(いむ)」:嫌って避ける。忌はばかる。

(58-3)「卸(おろし)」:「下す」の意。

(58-3)「神酒(しんしゅ・じんしゅ・みき)」:神に供える酒。

 *「神酒」を「みき」と読むのは、「ミは御の意。キは酒の古語」説がある。(ジャパンナ

レッジ版『国語大辞典』)

(58-3)「礼拝(らいはい)」:「礼」の読みには、「呉音」の「ライ」「漢音」の「レイ」がある。このうち、「呉音」(中国・六朝時代の南方―呉の発音といわれる)は、「漢音」よりも先に日本に伝わり、比較的古い時代のことばや仏教用語の読みに多く用いられている。「礼拝」の読みも、仏教では「呉音」の読みの「ライ」を用いて[ライハイ]と読む。しかし、キリスト教やイスラム教では同じ「礼拝」でも「漢音」の「レイ」を用いて「レイハイ」と読み。

「ライ」:「礼拝(ライハイ=仏教)」、「礼賛(らいさん)」

「レイ」:「礼拝(レイハイ=キリスト教やイスラム教)」、「礼節(れいせつ)」

 *なお、古代中国の経書(けいしょ=儒学の経典=である「五経」の中の「礼記」の読みは、「ライキ」。

(58-5)「レコナイ」:『山川地理取調図』には、「レホナイ」とある。

(58-5)「ライケヰシ」:漢字表記地名「来岸」のもととなったアイヌ語に由来する地

名。『蝦夷日誌』に「ラエケウシ」、『行程記』に「ライケイシ」、『山川地理取調図』には、

「ライキシ」とある。

(58-6)「シヤコタン」:集落としての「シヤコタン」は、現積丹町野塚付近。漢字表記

地名「積丹」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、場所名や山岳、

河川の名称として見える。なお、シャコタン場所は、積丹半島の神威岬と北東の積丹岬に

わたる一帯に設定された場所。

(58-6)「運上屋に宿る」:シヤコタン場所の運上屋は、「クツタリシ」(現積丹町日司=ひづか=町)に置かれていた。

(59-1)「斑文(まだら・はんちく・はんもん)竹)」:まだら模様の竹。とらふ模様の

竹。積丹竹ともいう。軸を班竹で作った筆を「班竹筆(はんちくふで)」という。

(59-2)「虎彪(とらふ)竹」:虎や豹の毛皮のようにまだら模様の入った小竹。

(59-2・3)「豊後(ぶんご)の笹」:「豊後」は、西海道十一国の一国で、現在の大分

県の大部分の地域。笹は、「ササダケ」の下略で、細い竹、小さい竹の総称と用いられ、

篠竹の類をいう。

(60-5)「せいかい浪」:青海波(せいがいは)。文様名。海面の波頭を併列重畳して海原(うなばら)を連想させる総文様。舞楽の左方(さほう)二人舞の青海波の袍(ほう・羽織のこと)に表現された文様からこの名称がある。平安・鎌倉時代のころの波の総文様はきわめて写実的であり、打ち寄せる波を綾杉状に配置し、砕けて散る飛沫に立波を点在させて、装束の織文様や染文用に用い、さらに螺鈿・金銀の平文(ひょうもん)・蒔絵などの意匠とした。室町時代以後は、波文様が固定し、いずれも子持筋(こもちすじ)を入れた円頭となって整然と配列されて図案化した。普通にいう青海波は、この固定した文様のことである。これに千鳥を配して著名なのは、青海波の袍と、采女装束の波衣(なみぎぬ)である。 

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