(104-1)「のほ(ぼ)り」の「ほ(ぼ)」:変体仮名。字源は「本」。「不(ふ)」に見える。
(104-2)「天神の社」:現北斗市矢不来に鎮座する「矢不来天満宮」。伝承によると、文和年間(1352~56)の頃、当地に漂着した菅原道真の木像を安置したことに始まるという。『山川取調図』に、「ヤキナイ」の隣に「天ジン下」の名がみえる。
(104-2)「茂部地村」:茂辺地か。現北斗市のうち。近世、東在の村の一つ。茂辺地川右岸に位置し、東は箱館湾に面する。『山川取調図』に「茂辺シ」の名がみえる。
(104-3)「さがり」の「さ」:変体仮名「さ」字源は現行ひらがなの字源の「左」。
*「左」と「右」:左の「工」は巫祝(ふしゅく=神事をつかさどる者)のもつ呪具(じゅぐ。呪術に用いる道具)。右の「口」祝を収める器をもつ形。左右は神を尋ね、その祐助を求めるときの行動を示す。ゆえに(尋)は左右を重ねた形。左右は援助を意味する語となる。(『字通』)
(104-3)「館(たて)跡」:『新羅之記録』に記された渡島半島に所在した和人の領主層の道南十二館の一つ、「茂別館」跡をさす。『山川取調図』には、「タテノ下」の名がみえる。なお、注記末尾に資料を添付した。(資料①道南十二館の名称と所在地。②館跡・周辺の考古学的知見)
(104-4)「幅弐拾間計の川」:茂辺地川。流路延長20.6㎞の2級河川。
(104―5)「ちいさき平場」:小さな平地のこと。
(104-6)「當別村」:現北斗市の内。字名に「当別」の名がみえる。近世、東在箱館付村々の一つ。大当別川および当別川流域にあり、南は三石村に接する。『山川取調図』に、「トウベツ、大トウベツ」の名がみえる。
(104-6)「弐拾間程」:「間」は「軒」か。
(105-1)「三ツ谷村」:『山川取調図』の道順と照合すると、「三石村」の誤りか。「三石村」は、現北斗市のうち。「三ツ石村」とも。近世は、東在箱館付村々の一つ。『山川取調図』に「三石」の名がみえる。
(105-1)「打過(うちすぎ)」:「うち」は接頭語。ある場所を通り過ぎる。通過する。
(105-3)「泉沢村」:現木古内町のうち。字名に「泉沢」の名がみえる。近世、東在に存在した村の一つ。元禄郷帳には「いつみ沢村」、天保郷帳には、「泉沢村」としてその名がみえる。『山川取調図』には、「泉サワ」の名がみえる。
(105-2)「やと(ど)り」:(動詞「やどる(宿)」の連用形の名詞化。宿をとること。旅に出て、他の家などで夜寝ること。また、その所。
(105-3)「走野川」:泉沢村と札苅村の境を流れる「橋呉川」か。『廻浦日記』に「ハシクロ 川有、巾十間計。村境なり。」とある。『山川取調図』に「ハシクロ」の名がみえる。
(105-3)「札狩村」:「札苅村」。現木古内町のうち。字名に「札苅」の名がみえる。木古内町の北東に位置し、東から南は津軽海峡に面し、ほぼ南流する幸連川が海峡に注ぐ。『山川取調図』に、「札苅」の名がみえる。
(105-3)「大平川」:木古内町を流れる普通河川。
(105-4)「喜古内村」:現木古内町木古内。木古内町域の南端に位置し、北は札苅村、東は津軽海峡に臨む。『山川取調図』に「木子内」の名がみえる。
(105-4)「喜古内川」:木古内町内を流れる二級河川。流路延長13.6㎞。『山川取調図』に「キコナイ川」の名がみえる。
(105-4・5)「館有川」:建有川、立有川とも当てる。安政2年(1855)、蝦夷地再直轄の際、建有川~乙部間は、松前領として残った。(資料③参照)
(105-5)「中ノ川」:「中野川」。木古内町内を流れる二級河川。『山川取調図』に「中ノ川」の名がみえる。
(105-5)「森越川」:知内町内を流れる普通河川。『山川取調図』に「モリコシ川」の名がみえる。
(105-5)「大茂内川」:知内町内を流れる普通河川「重内川」。
(105-5)「尻内川」:大千軒岳(標高1,071.6m)に源を発し、知内町内を流れる二級河川「知内川」。流路延長34.7㎞。『山川取調図』に、「知内川」の名がみえる。寛政11年(1799)8月12日、知内川以東が幕府の直轄地になった。(資料③参照)
(105-6)「尻内村」:現知内町。近世、東在の村の一つ。北は木古内村、南は小谷石村。西は七ツ岳、袴越岳、岩部岳、南は丸山、灯明岳が連なる山岳地帯。東は津軽海峡に臨む。知内川河口部に集落を形成。
(106-1)「山本」:道順から、知内町に所在する、千軒岳麓の「知内温泉姫の湯」か。
『廻浦日誌』に、「温泉、従追分十丁余、山間、人家意一軒、温泉壺一ツ有」とある。
(106-2・3)「真土(まつち)」:耕作に適している良質の土。
(106-3)「一ノ渡」:『廻浦日記』に、知内村と福島村の村境に「網張野、一之渡野、一ノ渡」と「一之渡」の名がみえ、「川巾十間計、転太石川、此川本川也。」とある。また、『日本歴史地名大系 北海道の地名』には、「明治元年十一月、榎本軍は、(福島村の)一ノ渡、山崎などで、松前藩兵と戦闘を行っている。」とある。
(106-4)「弁当」:容器に入れて携え、外出先で食べる食べ物。
(106-5)「福嶋村」:現福島町。近世、東在の一村で、現福島町の北部から東部一帯を占めていた。枝郷を含めると、東は矢越岬を越え、知内村涌元(現知内町)近くの蛇ノ鼻から、西は慕舞西方駒越下の腰掛岩までの海岸線と、北は一ノ渡(字千軒)を越え、知内温泉(現知内町)近くの湯の尻、栗の木堪坂までの広範な地域。『山川取調図』に「フクシマ」の名がみえる。
(106-5)「出立掛(しゅったつがけ)」:出かける時。出発するまぎわ。でがけ。
「でがけ」は、出たばかりのところ。出だし。第一歩。
(106-5)「白符村(しらふむら)」:現福島町白符。近世は、東在の一村で、「白府」、「白負」とも。『山川取調図』に「白府」の名がみえる。
(106-6)「間内と言川」:「澗内(まない)川」。白符村の南端を流れる二級河川。流路延長37.4㎞。
(106-6)「宮哥(みやのうた)村」:現福島町宮歌(みやうた)。近世、東在の一村。宮歌川の流域に位置し、北方は白符村、東は津軽海峡。『山川取調図』に「宮ノウタ」の名がみえる。
(107-1)「吉岡村」:現福島町字吉岡、字館崎、字豊島、字深山。近世は東在の一村で、吉岡川の流域に位置。道南十二館の内、穏内(吉岡の古名)館があった。吉岡澗(湊)は、「東向の湊ニ而、城下澗(松前湊)より風の憂」なく、「50艘程入選することもある」といわれている。『山川取調図』に「吉岡」の名がみえる。
(107-3)「礼髭村(れいひげむら)」:現福島町字吉野、字松浦。「レヒゲ」とも。近世、東在の一村。北方は吉岡村、東は津軽海峡。『山川取調図』に「礼ヒケ」の名がみえる。
(107-6)「大嶋」:松前大島とも呼ばれ、松前町字江良の西方約56キロにある無人の三重式火山の島。松前小島の北西にある。『山川取調図』に「大島 周七里」とある。
(107-6)「小嶋」:松前小島とも呼ばれ、渡島半島から南西へ約24キロ離れた日本海上に浮かぶ孤島。周囲約4キロ、標高約293メートル。『山川取調図』に「小島 周二里余」とある。
(108-1)「行事(いくこと)」:「古」+「又」は、「事」の異体字。
(108-2)「炭焼沢と言村」:「炭焼沢村」。現松前町字白神。近世、東在城下付の一村。渡島半島南西端に位置し、半島の突端は、白神岬。『山川取調図』に「白神」、「スミヤキ」とある。
(108-3)「荒谷村」:現松前町字荒谷。近世、東在城下付の一村。松前湾に注ぐ荒谷川河口域に位置する。『山川取調図』に「アラヤ」の名がみえる。
(108-3)「大澤村」:現松前町字大沢。東在城下付の一村で、大沢川河口域位置する。『山川取調図』に「大サワ」の名がみえる。
(108-4)「根森村」:現松前町字大沢。近世は、東在城下付大沢村の支郷。『山川取調図』に「子(ネ)モリ」の名がみえる。
(108-4)「大泊川」:現松前町字月島、字豊岡、字東山付近を流れる伝治沢川。享保―宝暦期に、「伝治沢川」を「大泊川」と称していたとある。
(108-5)「唐津内」:現松前町唐津内。近世、城下付の一町。城下のほぼ中央に位置し、南は海に臨む。『蝦夷日誌』では、「此町、中買、小宿、請負人にし而伊達、山田、山仙等有て町並美々敷立並たり。南面海ニ面し船懸り澗有、上の方太夫松前内記、蠣崎蔵人邸等有」と記されている。『山川取調図』に「カラツナイ」の名がみえる。
(109-2)「道法は凡五百里余」:巡見に同行した武藤勘蔵の『蝦夷日記』では、「道法往返にて五百五十六里」となっており、本書とは、約五十里程の差がある。
(109-2・3)「可有之なり(これあるべきなり):断定の助動詞「なり」は、体言と副詞、活用語の連帯形に付く。助動詞「ごとし」には「ごとくなり」のように連用形に付く場合もある。連体形に付く例は上代にはなく、中世以後。
(109-4)「未(ひつじ)九月」:寛政11年(1799)己未。蝦夷地巡検の日程は、寛政10年(1798)戊午4月江戸出立、5月16日松前唐津内到着。5月25日松前出立~(巡見)~8月22日松前唐津内到着となっており、筆者が、本書の『蝦夷嶋巡行記』を著したのは、一年後の翌寛政11年9月。
(109-4)「公暇齋蔵」:幕吏か。「公暇」は、「官公吏などに公に与えられた休暇」を意味するから、筆名か。筆者は、寛政10年(1798)、幕府の蝦夷地調査隊の勘定吟味役・三橋藤右衛門一行の西蝦夷地巡検に参加した巡検隊のひとり。
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