「好きなように読んでください」「どちらでもいい」について
私は、例会で、司会として、「好きなように読んでください」「どちらでもいい」という発言をしています。
別に異論は出ていないのですが、この件で書かせてもらいます。
古文書は、その文書に触れる人が、声を出して読むことを前提にして書かれていない場合が多いと思います。
幕府文書などや紀行文がそうだと思います。
一方、歌舞伎や能、狂言は、役者が声を出して演技するわけですから、書かれた文書(台本など)は、かなが振られている場合が多いと思います。
そこで、そういう台本でない文書は、音読みするか、訓読みするか、また、あきらかに筆者の書きくせ、間違いを間違い通りに読むか読まないか、意味が反しない限り、「好きなように読んでください」「どちらでもいい」といっています。
ところで、このやり方が、まちがっていないことを書いた本に出会い、我意を得たりと思いましたので、書きます。
近刊の今野真二著『百年前の日本語』(岩波新書)がそれです。
氏の論の要旨は次の通りです。
<百年前の日本語においては、それらが大きな「揺れ/揺動」の中にあった・・「揺れ」というと、不安定な状態を想像しやすいが、そうではなくて、むしろ「豊富な選択肢があった」と捉えたい>
そして、
<「揺れ」の状態からの変化は・・江戸期から明治初期にかけてではなく、むしろ明治期から現代に至る百年間で進行したとうえよう>
と述べ、さらに、
<その変化は「揺れ/揺動をなくす」、すなわち「選択肢をなくす」という方向へと進むものであった>
と述べ、
<言語は時間の経過とともに、何らかの変化をする・・ところが現代は、使用する文字、漢字の音訓などに関して、できるだけ「揺れ」を排除し、一つの語は一つの書き方に収斂させようとする傾向が強い>
と指摘しています。
国家が、「当用漢字」「常用漢字」を決め、書き方、読み方を指定したことは、一層、その傾向に拍車をかけたといえます。
文字、漢字は、いろいろな書き方、読み方があってもいい。どうしても、一つにしぼる必要はない、というのが、氏の著書を読んだ私の感想です。